時代革命と陰謀論

2019年から香港で始まった大規模な民主化運動を描くドキュメンタリー映画『時代革命』が公開されたので、それに合わせて、19年8月に香港を訪れたときの記事を再公開します。映画では7月の立法会(香港の議会議事堂)占拠事件と、11月の香港中文大学、香港理工大学の籠城が描かれていますが、私が訪れたのはこの2つの大きな出来事の間で、デモ参加者による香港国際空港の占拠で大きな混乱が起きた直後でした(「海外投資の歩き方」のサイトで2019年8月30日公開。一部加筆修正)。

通行止めとなった車道を歩いて駅に向かう8.18デモの参加者 (ⒸAlt Invest Com)

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香港の国際空港が民主化運動のデモ隊に占拠され、空の便が大混乱となった4日後の2019年8月18日から21日まで、3泊4日で香港を訪れた。

私はジャーナリストではないのでデモの渦中に飛び込んで取材するのが目的ではなく、香港の友人と久しぶりに広東料理でも食べながら飲もうと約束して航空券を予約したら、たまたまこの時期になってしまった。前日までは香港便が飛ぶかどうかわからなかったが、空港の混乱が収束したようなので予定通り出かけることにした。

飛行機の座席はそれなりに埋まっていたものの、いつもなら混みあっている入国審査場にいるのはほとんどが帰国する香港市民で、外国人用のカウンターはがらがらだった。

現在は、空港の出発ロビーに入るにはパスポートなどのIDと搭乗証明書類が必要で、デモ隊が占拠することはできなくなった。ただし、市内と空港を結ぶエアポートエクスプレスのホームから出国ロビーへの入口は1カ所しか開いておらず、いまは旅行者が少ないから問題ないものの、大量の出国者をスムーズに処理するのは難しそうだ。そのためか、ホテルでは出発時間の3時間前には空港に着くようにアドバイスされた。

「正常化」した香港国際空港の出発ロビー (ⒸAlt Invest Com)

民主化デモに参加する中学生や高校生

香港に着いた8月18日(日)は大規模な集会が行なわれており、午後6時半頃に香港駅でエアポートエクスプレスを降りると、家路に向かうらしい黒シャツ姿の若者たちとすれちがった。

中環(セントラル)のホテルにチェックインし(フロントのスタッフはいっさいデモについて触れなかった)、午後7時過ぎに金融機関や行政施設が集まる中心部まで様子を見に出かけた。

この日の集会は銅鑼湾(コーズウェイベイ)にあるヴィクトリアパークで行なわれ、その後、警察の許可を受けないまま中環に向けて行進したが、大きな混乱は起きなかった。主催者発表の参加者は170万人で、6月の約200万人に次ぐ大規模なデモとなり、抗議行動が衰えていないことを内外に示した。一方、警察発表は12万人で主催者発表と10倍以上のちがいがあり実数は不明だが、メインストリートを埋め尽くす群衆の映像を見ても100万人以上の市民が参加したことは間違いないだろう。

夕方からはげしい雨になったようで、夜になって小降りになってきたものの、駅に向かう黒シャツ姿の参加者はみな傘をさしていた。若者が圧倒的に多いが、中高年の男女の姿も少なくなく、デモが香港市民の広範な支持を受けていることがわかる。海外の報道関係者に混じって、デモに参加したらしい黒いシャツを着た欧米人の若い男も何人か見かけた。

雨のなか傘をさして帰路につくデモ参加者。若者だけでなく中高年の姿も少なくなかった(ⒸAlt Invest Com)

黒シャツの若者たちは地下鉄駅の構内や歩道橋などに友だち同士で集まって、撮影したデモの写真や動画を見せあっていた。それを編集して、SNSなどにアップするのだろう。そうすると、世界じゅうから応援のメッセージが送られてくる。この達成感が、デモに参加する大きなモチベーションになっているようだ。そのなかには高校生というより中学生にしか見えない女の子のグループもいた。

下の写真は、地下鉄香港駅に隣接する国際金融中心の高級ショッピングモールで見かけた光景。ファストフードのヌードルショップだがけっして安くはなく、1人1000~1500円はするだろう。そんな店で、デモに参加した若者が友人たちと、あるいは恋人同士で食事をしていた。裕福な家庭で育った高校生・大学生たちも積極的にデモに参加しているようだ。

デモのあとグループやカップルで食事をする若者たち(ⒸAlt Invest Com)

この日の大規模デモは平和的に行なわれたが、その後、ふたたび警察と衝突し、放水車や催涙ガスが使われる事態になった。とはいえ地下鉄などの公共交通機関は通常どおり運行しており、デモのない平日の金融街や繁華街は拍子抜けするくらいふつうだった。ホテル代は大幅に値下がりしており、高級ホテルも通常の半額程度で泊まれる。

香港の知人からは、デモの参加者に間違えられやすい黒いシャツや、親中国の武闘派と見なされる白いシャツは避け、デモの標的になりやすい警察署や政府施設には近づかないように強くいわれていた。実際には、平日でも黒や白のTシャツ姿の一般人はたくさんいた。下の写真はデモの翌日の繁華街だが、揃いの黒シャツ姿のグループは民主派への支持を表わしているのだろう。

8.18デモの翌日、繁華街の蘭桂坊(ランカイフォン)を歩く黒シャツ姿のグループ (ⒸAlt Invest Com)

「中国の悪口をいったら、ある日突然拘束され、そのまま本土に連れて行かれるかもしれない」

香港特別行政区政府による逃亡犯条例の改正がデモのきっかけとなったことはすでに多く報じられており、ここで説明を繰り返すことはしないが(Wikipediaの「2019年逃亡犯条例改正案」の項目が詳しい)、ポイントは中国本土にも刑事事件の容疑者を引き渡すことができるようになることと、条約締結国からの要請を受けて香港内の資産凍結や差押えを行なえるようになることだ。

民主派や人権派弁護士などがこれを問題視したのは、2016年に銅鑼湾の書店主など出版関係者が中国国内で半年ちかくも拘束される事件があったからだろう。関係者が沈黙を守っているため真相は明らかではないが、拘束の理由は習近平のスキャンダル本を企画したからで、そのうちの1人は中国当局者によって香港から連れ去られたとされる。逃亡犯条例が改正されれば、こうしたことが秘密裏ではなく堂々と行なえるようになる。「人権派」だけでなくビジネスパーソンや一般市民までが不安に思ったのは当然だ。

知人の一人は、「中国の悪口をいったら、ある日突然拘束され、そのまま本土に連れて行かれるかもしれない」といったが、これは大げさではなく、香港人のリアルな恐怖なのだろう。

民主派・人権派からの批判に対して林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は当初、香港市民への説明を拒否し、改正案成立を数で押し切ろうとした。その結果、それまで散発的に行なわれていたデモの規模が拡大して世界を驚かせた6月9日の「200万人デモ」に発展し、7月には立法会(香港の議会議事堂)が一時的に占拠されるに至った。

今回、金融関係者を中心に何人かの知人・友人の話を聞いた。全員が逃亡犯条例改正には反対だが、デモには参加せず一定の距離を置いており、「心情的には理解できる」から、(行政長官が「逃亡犯条例は事実上の廃案」と言明したことを受けて)「そろそろ終結させるべきだ」とする者まで立場はさまざまだった。

しかしそれでも、「これは個人的な意見なんだけど」とか、「ネットに流れているたんなる噂だけど」などの前置きをつけて、全員が同じような話をした。なんの証拠もないとはいえ、なかには金融機関の役員クラスもいるから、いい加減な与太話というわけでもない。

そんな「噂」のひとつを紹介しよう。それは、「デモ鎮圧の警察官を怪我させれば8000香港ドル(約10万円)、死亡させれば5万香港ドル(約70万円)の懸賞が出ている」というものだ。

にわかには信じられないが、これは私の友人が香港警察の知り合いから聞いた話だ。懸賞の真偽は別として、このような噂が香港の警察官のあいだに流れていることは「事実」のようだ。

これから一般のニュースには流れない「噂」を紹介したいと思うのだが、そこから、香港の警察内部になぜこのような「陰謀論」が生まれるのかもわかるだろう。

民主化デモについて、香港人のあいだで語られている「噂」

今回のデモの大きな特徴は「リーダー不在」だとされる。デモを主催する民主派団体はいくつかあるが、2014年の香港反政府デモ(雨傘運動)のときのようなリーダーがいるわけではなく、交渉相手がいないことが香港政府の対応を難しくしている。これはジレジョーヌ(黄色ベスト)デモに苦慮するフランス政府と同じで、SNSを駆使した新しいタイプの「リーダー不在の抗議行動」といえるかもしれない。

しかし、私が話を聞いた知人たちはいちようにこうした見解を否定した。そして、次のような「噂」を教えてくれた。

「それなりに統制のとれていた雨傘運動のデモだって、1カ月くらいしか続かなかった。ところが今回は、2カ月以上たってもまだ大規模なデモを組織することができる。SNSで烏合の衆があれこれいうだけで、これだけのエネルギーを維持できるだろうか」

「空港を占拠するなんて、これまで誰も思いつかなかった戦術が、なんの指示もなく自然発生的に始まった、なんてことがあるだろうか。建物内には外国人旅行者もたくさんいるから、催涙弾を使ってデモ隊を強制排除することはできない。そのうえ、世界へのアピール効果は抜群だ」

「地下鉄のドアが閉じないようにする戦術を、一般の学生が自主的に一斉に始めるなんてことがあると思うかい? 乗客から罵声を浴びるかもしれないし、トラブルになって逮捕されるかもしれないんだよ」

そして「噂」は、デモの最前列にいる若者たちの「装備」に焦点を移す。映像で見たことがあるかもしれないが、彼らはゴーグルと防毒マスクで催涙ガスを防ぎ、高性能のレーザーポインターで警察官を挑発し、警察署や政府機関を「攻撃」する。参加者へのインタビューでは、こうした装備は「もらった」のだと答えている。

「もらった、ということは、配った人間がいるということだろ」と「噂」はいう。「そのためには装備を調達するだけでなく、それを効率的に配布する多くのスタッフも必要だ。装備一式を500香港ドル(約8000円)としても、1000人分なら50万香港ドル(約800万円)、1万人分なら500万香港ドル(約8000万円)だ。そんなことを2カ月もつづけてるんだから、巨額の資金が投じられていても不思議じゃない」

「デモの参加者の大半がSNSなどで自主的に集まったのは間違いないよ。でも警官隊とぶつかる最前列は危険だから、活動家には1日1000香港ドル(約1万5000円)の日当が払われているという噂がある。あくまでもネット情報だけどね」

私が話を聞いたなかで、デモが「自生的に」行なわれていると考える者は1人もいなかった。大きな資金力をもつきわめて有能な「組織者(オーガナイザー)」がいなければあり得ないほど、今回のデモは高度に戦略的に展開されているのだ。

デモを応援する寄せ書きが貼られた掲示板(ⒸAlt Invest Com)

民主化デモを裏で操っているのは誰?

デモを裏側で操る「組織者」とは誰だろうか? これについては、大きく3つの説に分かれた。

第1は「アメリカ陰謀論」で、中国政府が主張しているものと同じだ。だがこれについては、金融関係者の多くは、「そんなことをしてもアメリカにメリットはない」と懐疑的だった。

CIAが工作しているとすると、それは大統領の承認を受けているはずだ。だがトランプは、香港情勢について習近平と会談し、仲介役になってもいいとTweetしている。そんなときにアメリカが裏で民主活動家を支援していることが暴露されればトランプの面目は丸つぶれで、来年の大統領選挙にもダメージを与えるだろう。だとすれば、そんなリスクの大きな計画を承認するわけはない、というのだ。

もっとも香港の民主派がアメリカの反共保守の政治家とつながっていることは公然の秘密で、そのルートから資金が流れているということはあるかもしれない。

第2は「中国共産党権力闘争説」で、共産党内部で習近平と敵対する勢力が後ろ盾となってデモを行なわせている、というものだ。習近平が強力に推し進める「反腐敗運動」では多くの有力者が失脚し、「敵」をつくったことは間違いない。それを考えればこの説は魅力的ではあるものの、共産党内部はブラックボックスで、いったい誰(どの勢力)がデモを操っているのか具体的に説明できないのが難点だ。

第3が「香港大富豪黒幕説」で、金融関係者にはこれがいちばん支持者が多い。この説は、逃亡犯条例が成立すると香港内の資産凍結や差押えを行なえるようになることに注目する。

香港の大富豪で、中国で大きな商売をしていない人間はいない。中国側には必ず、ビジネスパートナーがいる。その相手が、習近平の政敵として粛清されたとしたらどうだろう。香港の大富豪であっても、共産党は容赦なく中国に連行し、不動産など香港の資産を差し押さえるかもしれない」

「そもそも、こんなに評判の悪い逃亡犯条例を無理矢理成立させようとしたことが怪しいんだ。そこに中国政府の強い意志があるとするなら、「将来のため」というような漠然とした理由ではなく、すでに明確な標的がいるのかもしれない。大富豪がそのことに気づいていれば、どんな手段を使ってでも、どれだけ金をかけても、逃亡犯条例を廃案にしようとするんじゃないのかい」

そのように語るとき、特定の人物が(おそらく)念頭にあるのだろうが、私にはその名前まで教えてはくれなかった。

この変種として、「中国大富豪黒幕説」もある。中国で経済的に成功した者は、香港を通じて資金を海外に逃避させたり、香港の不動産に投資したりしている。逃亡犯条例ができれば、香港で暮らす家族を拘束したり、香港の資産を差し押さえることができるようになるというのだ。

 楽観論と悲観論

もちろんデモを操る「黒幕」などおらず、「陰謀論」は根も葉もないものばかりかもしれないが、それでも活動家には「組織者」から相当な額の資金が渡されていると考えている香港人は多い。だとすれば、香港警察が疑心暗鬼になって、「警察官に懸賞がかけられている」という「噂」を信じるようになっても不思議はないだろう。

当然のことながら、香港の行政当局や中国共産党も、何者かが裏でデモを操っているにちがいないと考えており、それが対処を難しくしている。

だとすれば、これから香港はどうなるのだろうか? これは楽観論と悲観論に分かれた。

楽観論は、「中国は武力で香港を征圧することはしないし、9月になればデモも徐々に収束する」というものだ。

「活動家の狙いは香港を「第二の天安門」にすることで、その瞬間を報道しようと世界じゅうからジャーナリストやカメラマンが集まっている。それがわかっていて、香港に軍や武装警察を送り込むほど共産党はバカじゃないよ」というのが典型的な意見で、ビジネスパーソンのあいだでは主流だ。そこには、香港が大混乱に陥れば自分たちのビジネスも立ち行かなくなるという事情もあるだろうが。

9月収束説は、学校が始まればデモの主体である大学生や高校生がこれまでのように参加できなくなるだろう、というものだ。目下のところ、香港の行政当局の唯一の戦略が「新学期の開始を待つ」ことだという。

だがもし香港の大富豪が黒幕なら、「(逃亡犯条例は)来年7月には自然に廃案になる」という行政当局の説明に納得するはずはない。デモが収束したあとで、いつでも「状況が変わった」として再審理にかけることができるのだから。

そこで悲観論は、10月1日の国慶節をデッドラインとする。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したこの記念日に香港で大規模デモが行なわれることになれば、共産党内での習近平の威信は大きく傷つく。だとすれば、武力を投入してでもそれまでにデモを鎮圧しようとするにちがいない、というのだ。

そのうえで、私が話をした知人たちの誰一人として、「香港独立」はもちろん「民主化(普通選挙)」が実現すると述べる者はいなかった。香港は中国(共産党)の統治下にあり、自分たちではなにひとつ決められないというのだ。

西欧化した価値観のなかで育った香港の若者たちが求めているのは、言論・表現の自由や民主的な選挙など、グローバルスタンダードのリベラリズム(自由主義)だ。そしてこれが、リベラルな社会をあきらめざるをえない中国国内で、香港のデモがなんの共感も呼ばない理由になっている。習近平(共産党)は「独裁」ではなく、14億の人民の「なぜ香港だけを特別扱いするのか」との不満に押され、引くに引けなくなっているのだ。

雨のなか帰路につくデモ参加者は口々に、「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、革命の時代だ)」と叫んでいた。

香港のあちこちで見かけた「光復香港、時代革命」の標語(ⒸAlt Invest Com)

【後記】

その後、9月にキャリー・ラム行政長官が「逃亡犯条例改正案」の撤回を表明したが抗議行動の勢いは収まらず、10月に香港政府によって「覆面禁止令」が施行。11月には名門大学である香港中文大学と香港理工大学で学生たちによる籠城が起きたが、警察によって包囲・制圧された。

2020年に入ると新型コロナの影響で、公共の場に5人以上で集まることが禁止されるなど、抗議行動が不可能になった。5月に中国全人代で「国家安全法」の香港への適用が採択、6月に施行されたことで、「一国二制度」は事実上崩壊した。

ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。第5回は前回につづき、歴史家マルレーヌ・ラリュエルの『ファシズムとロシア』(翻訳:浜 由樹子/東京堂出版)の紹介です。(公開は2022年5月13日。一部改変)

モスクワ、赤の広場(クレムリン) (@Alt Invest Com)

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歴史家マルレーヌ・ラリュエルの『ファシズムとロシア』は、原題の“Is Russia Fascist?(ロシアはファシストか?)”のとおり、現在のロシアを「ファシズム」と定義できるかを論じている。この問題を考える前段として、ソ連崩壊後に、中東欧やバルト三国から提起された「記憶をめぐる戦争」が、西欧とロシアの「歴史戦」になっていることを前回紹介した。

[参考記事]●「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路

ロシアはファシズムなのかを問うには、「ファシズムとは何か」を定義しておかなくてはならない。だがラリュエルが述べるように、これは一筋縄ではいかない。

歴史的に見れば、「ファシズム」はイタリアのベニート・ムッソリーニが1919年に設立した政党「イタリア戦闘ファッシ」から始まる一連のイデオロギーと政治運動、および統治体制をいう。問題は、この「ファシズム」をどこまで拡張できるかで意見の一致が困難なことだ。

現代史家のなかには、イタリアのファシズムとドイツのナチズムのちがいを厳密に論じる者もいる。その一方で、特定の政党・政治家に「ファシズム」や「ファシスト」のレッテルを貼って批判することがしばしば行なわれている(もちろんこれは日本だけのことではない)。「ファシズム」の定義は、まさに論者の数だけあるのだ。

ファシズムは「不可解なイデオロギー」

ファシズムはずっと、社会科学にとって「不可解なイデオロギー」だった。そのため当初の議論では、「イタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムは世界史の中で例外的で、この現象を説明するのに比較研究は役に立たない」とされた。こうしてしまえば、ファシズムを定義すること自体が不要になるので、都合がよかったのだ。

もうひとつの有力な説は、ファシズムに真のイデオロギー的な中身(イズム)があるわけではなく、それは「反共産主義」や「反ユダヤ」のような反動にすぎないというものだった。このような消極的な定義を採用しても、ファシズムを積極的に定義する必要はなくなる。

マルクス主義学派にとって、ファシズムとは「資本主義の矛盾を通じて説明可能な反動的運動」だった。だがこの理論では、ナチズムの人種主義的な側面は切り捨てられることになってしまう。

ファシズムを共産主義への応答と見なし、両者を互いに影響し合う二つの産物として論じる者もいた。この立場では、どちらも近代(進歩主義)の行きついた果てに生まれたイデオロギーになるが、それとは逆に、「進歩、普遍主義、ヒューマニズムを否定した反啓蒙主義イデオロギー」としてファシズムを位置づける者もいた。

ラリュエルによれば、ファシズム研究にはいくつかの流派がある。

「ウェーバー的見地」では、ファシズムを「社会変革があまりに急速で、全員に平等に利益をもたらすわけではない場合に生じる、近代化の犠牲者の反応」として説明する。それが「失われた確かさを取り戻す新しいユートピアを創造し、スケープゴートを見出す」というのだ。

フランスのポスト・モダンの思想家ミシェル・フーコーの「統治性」概念では、ファシズムは「社会における私的・公的生活のあらゆる面を支配する統治性の極端な全体主義的事例」だと見なされた。同じくポスト・モダンの精神分析学者ジャク・ラカンは、「全能の支配的男性とみなされる指導者に容易く操られ、暴力に訴える傾向のある大衆の、本能的なパターン」を分析した。ラカン的にいえば、「ファシズムの歓喜は人民のナルシスティックな自我に侵入し、集団的精神病を促す」のだ。

ユートピアを目指す革命運動

こうした社会科学の議論とは別に、ファシズムを経済学的に定義しようとする試みもあった。それによればファシズム体制は「経済にまで国家の支配を及ぼし、主要産業を国有化し、巨額の国家投資を行い、計画経済や価格コントロールのいくつもの方法を導入した」国家運営ということになる。またカルチュラル・スタディーズは、視覚的プロパガンダ、審美論、劇場型演出の重要性を探求することで、ファシズムを文化(サブカルチャー)としてとらえる方法を開拓した。

これらの議論を踏まえ、1990年代に歴史家のロジャー・グリフィンが、より研究上の合意を得られるファシズムの定義を提出した。それは、「保守主義、無政府主義、リベラリズム、あるいはエコロジー主義同様、ファシズムも、理想の社会についての特定の『前向きな』ユートピア的ヴィジョン――核となる原理の組み合わせを保ってはいるものの、その地域の状況によって決まるいくつもの特徴的形態とみなすことができるヴィジョン――を掲げるイデオロギーとして定義が可能である」というものだった。

急速な文化的衰退は、文化的悲観主義を喚起するのではなく、代わりに「国家・民族の復活についての革命的思考を希求する動き」を促すとグリフィンは考えた。ファシズムは「新生を掲げるウルトラナショナリズム」なのだ。――2012年には、「形成される状況と国家・民族的(ナショナルな)文脈によって独特なイデオロギー的、文化的、政治的、組織的表現を帯びる、ナショナリズムの革命的な形態」というより明快なファシズムの定義を提案している。

ラリュエルはグリフィンのこの定義を踏まえたうえで、「神話の再生」に重きを置く。ファシズムとは、「暴力的手段によって再構成された、古来の価値に基づく新たな世界を創造することで近代を徹底的に破壊することを呼びかける、メタ政治イデオロギー」なのだ。この場合、重要なのはファシズムの「極端な」ナショナリズムではなく、「ファシズムの黙示録的な特質――再建のために破壊する」になる。

この見方では、ファシズムはなによりも「(ユートピアを目指す)革命運動」だ。歴史的にこれに当てはまるのは、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ロシア革命(レーニン主義)とスターリズム、中国の文化大革命、カンボジアのポルポトなどだろう。戦前の日本の国家総動員体制は「全体主義」ではあるものの、そこに「革命」や「ユートピア(八紘一宇)」の要素がどれほどあるかは議論が分かれるのではないだろうか。

プーチン体制は「大統領府」「軍産複合体」「正教会」の3つの生態系

ロシアと旧ソ連地域の研究者であるラリュエルは、プーチン体制(クレムリン)を3つの生態系で説明する。

第一の生態系は「大統領府」で、それは「ハイブリッドで場当たり的な体制」だとされる。大統領府を構成するのはソ連崩壊を体験した優秀な若手で、ウラジスラフ・スルコフがその象徴として挙げられている。

[参考記事]●「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた

彼らはプラグマティックで現実政治的なテクノクラートで、目の前の問題をどうにかして解決することだけに注力する(そしておおむねうまくやってきた)。ただし「愛国主義」は絶対で、現代のロシアでは「誰であれ、その愛国的心情を示すことなく、公的な、政治的正統性を手にすることはできない」。だからこそ経済的自由主義は許されても、政治的自由主義は「非愛国的」として拒絶されるのだ。

第二の生態系は「軍産複合体」で、「劇的に変化することのなかった地政学的、産業的な利益に依存している」とされる。主要人物たちのほとんどは高齢のソ連時代の文官か軍の高官で、彼らにとっての愛国主義はソ連時代をなつかしむノスタルジーでもある。

第三の生態系は「正教会」で、正教こそがロシアの精神的支柱であると主張する。だがたんなる復古主義でなく、1990年代の市場経済に向かう混乱から生まれた新しい世代のなかに、いわゆる「正教ビジネスマン」が台頭しているという。彼らは成功した個人企業家たちで、正教会に傾倒して献金をするが、その目的は政治的目標に近づき、クレムリンに好意的に見てもらうよう仕向けることなのだ。

こうした主要プレイヤーに対して、ファシズム=ナチズムが「絶対悪」とされてきたロシアでは、極右はつねに傍流だった。今日のロシアでファシズムの特徴が見られるのは自警団(民兵)のサブカルチャーくらいで、ロシアのファシズムの象徴とされるアレクサンドル・ドゥギンは、欧米で思われているのとはちがい、プーチンとクレムリンにほとんど影響力をもっていないとされる。

このようにしてラリュエルは、ロシアをファシズム、プーチンをファシストとするティモシー・スナイダーのような歴史家・知識人を批判する。「ロシアをファシストに分類することはしばしば、ロシアを西側にとって他者とし、「我々」にとって望ましくないものすべてを体現させるという単純な役割を果たす」からだ。

ロシア研究は長い間、「民主主義vs権威主義」「西側vs非西側」「ヨーロッパvsアジア」など、時代遅れの二項対立の型にはめられてきた。近年の西欧諸国ではそれが「西側のリベラリズム」対「ロシアのファシズム」となり、ロシアではこの構図が反転して、「ロシアの反ファシズム」対「西側の新たなファシズム」になる。

こうした非難の応酬は、双方の立場がまったく逆なので、合意を得られる着地点はどこにもない。「プーチンはファシストではなく、ファシズムではロシアは理解できず、安易な「ファシズム」のレッテル貼りは状況を理解できなくさせるだけだ」というラリュエルの主張には説得力がある。

とはいえスナイダーは、こうしたことをわかったうえで、アカデミズムの用語としてではなく、プーチンがもっとも嫌がる表現として「ファシズム」という言葉を政治的に使っているようにも思える。だとしたら、両者の主張が交わることはないのではないだろうか。

反リベラリズムは「下級国民の抵抗運動」

マルレーヌ・ラリュエルは、現在のヨーロッパやロシアの状況を表わす用語は「ファシズム」ではなく「反リベラリズム」だという。

リベラリズムへの抗議とは、政治や経済、文化の分野で国家の主権やサイレント・マジョリティの権利を訴える「ポストリベラリズムの政治的パラダイム」だ。具体的には、政治では「超国家的で多元的な機関の拒否、国民国家の再生」、経済では「保護主義」、文化では「多文化主義と少数派の権利の否定、誰がその民族・国家(ネイション)に含まれ、誰が民族・国家の真の文化的特徴であるべきかについての本質主義的定義」になる。この現象は、リベラリズムを経験した国々に限って起こっており、また、生じた時期も限定的だともいう。

ラリュエルの視点では、ヨーロッパの「右傾化」とは新たなファシズムの台頭ではなく、「反リベラル政党」の影響力が強まったことだ。彼らの特徴は、反リベラルであるにもかかわらず、一見するとリベラルな主張をすることで、「アイデンティティにおける『キリスト教主義』、世俗主義的姿勢、ユダヤ人に同情的な立場、ジェンダー平等やゲイの権利、言論の自由等をうわべではリベラルがするように擁護」している。

フランス大統領選で4割を超える票を獲得したマリーヌ・ルペンは、イスラーム原理主義と差別化するもっとも効果的な方法として、キリスト教(カトリック)の価値観を対置するのではなく、表現の自由や性的マイノリティの権利など、市民社会(世俗)の倫理を強調した。現代のポピュリズムは、社会がエリートに支配されているとして、社会経済的な支配層(金持ち、オリガルヒ、ブルジョワジー)と、制度によって「優遇された」者たち(外国人、移民、国内に潜む裏切り者)を非難するのだ。

だが反リベラリズムを「右派のポピュリズム」と定義すると、イタリアの「五つ星運動」やフランスの「不服従のフランス」のような左派ポピュリズムを説明できなくなる。だとしたら、右と左のポピュリズムをまとめて「下級国民の抵抗運動」とした方がすっきりするのではないだろうか。

プーチンは欧米の極右のアイドル

西欧では、モクスワを敵視する極右政党が存在したのは、フィンランド、バルト諸国、ウクライナ、ポーランド、ルーマニアといった、ロシアと国境を接し、その脅威にさらされている国だけだった。それ以外では、すくなくともウクライナに侵攻する前は、ヨーロッパの極右政党はロシアと良好な関係を保っていた。――アメリカの「オルトライト」たちもプーチンの大ファンだった。

アメリカやヨーロッパの右派・保守派にとって、プーチンは「退廃的なアメリカ・リベラリズムと多文化主義を退け、イスラム過激主義と激しく戦い、キリスト教の価値を守り、西側の「政治的正しさ(PC)」を批判し、グローバル・エリートが普通の人々に対する悪事を企んでいるという思想を支持する、白人世界の指針」だとされてきたのだ。

だがこれは、プーチン(クレムリン)が欧米社会に大きな影響力を行使してきたということではない。欧米の右派もロシアも、「政治的には、ヨーロッパ統合よりも国民国家と強い指導者を優先する。地政学的には、大西洋をまたぐ多国間組織に否定的な姿勢を示し、「諸国家のヨーロッパ」を擁護する。経済的には、グローバリゼーションよりも保護主義を好み、文化的には移民を拒み、昔ながらの国民的アイデンティティと、いわゆる伝統的価値の保護を求める」という反リベラリズムを共有しているのだ。

モスクワはずっと、ヨーロッパの極右政党を支援することで、EUを弱体化させようとしてきた。ロシアとヨーロッパの極右は、共通の敵と戦っている。それは「世界のリベラルな秩序、議会制民主主義、超国家的なEU機構、そして、彼らが呼ぶところの文化的マルクス主義――つまり、個人主義と、フェミニズムとマイノリティの権利の保護」だ。

ロシアがヨーロッパの極右を操っているのではなく、両者は「リベラル」という敵をもつことで、共闘しているにすぎない。右傾化は西欧に固有の問題で、ロシアは「反リベラル・ドクトリンの際立った輸出者」でしかないのだ。

こうしてラリュエルは、「ロシアは(西欧の)社会変革者として行動しているのではなく、むしろ、ヨーロッパとアメリカ社会の疑念と変質のエコーチェンバーなのである」と述べる。

破壊されたロシアのアイデンティ

ロシアを「ファシズム」と批判する者は、ロシアを「見知らぬ他者」として、「自由で民主的」な西欧社会と比較する。これは典型的な「俺たち/奴ら」の二分論だが、この構図はリベラルな西欧社会を正当化するのに都合がよかった。逆にいえば、だからこそ「リベラルなエリート主義」を嫌悪する勢力は、「反リベラリズム」としてのロシアに接近したのだ。

だが、西欧とロシアはまったく異なる社会ではなく、むしろ「ロシアは西側の連続体」だとラリュエルはいう。「ソ連ないしポスト・ソヴィエト期のロシアは、様々なかたちで西側の鏡として機能している」のだ。

ロシア革命以降の1世紀、ロシアは「社会主義、全体主義、民主主義、新自由主義、そして現在は反リベラリズム」の実験によって、西側全体の発展、行き過ぎ、過ち、失敗を増幅してきた。ロシアは例外ではなく、今日ロシアで起こっていることは、「異なる規模で西側でも観察されるより広いグローバルな潮流」に深く結び付いている。

国際的な場ではロシアは「地位を追い求める国(status-seeker)」の位置にあり、「アジェンダ立案国(agenda-setter)」であることを希求しているが、よくてもせいぜい「ルールに従う国(rule-taker)」、最悪の場合、ならず者国家か簒奪者として位置付けようとするアメリカやヨーロッパに阻まれている。

19世紀ロシア文学が描いてきたように、ロシアはナポレオン戦争ではじめて西欧近代に触れてから、自虐(自分たちは遅れている)と自尊(だからこそ純粋な精神性=聖なるロシアを保持してきた)とのあいだで大きく揺らいだ。これは西欧の周縁に位置する国の特徴で、もちろん明治維新以降の日本も例外ではない。

ラリュエルは、ロシア=ソ連の歴史は、社会的動員戦略から、社会的競争との混合戦略、さらには社会的創造へと振れてきたという。

「社会的動員戦略」とは、西側諸国のような、より高い地位にあるとみなされる国家に加わることを熱望することだ、「社会的競争との混合戦略」では、ランキングを変え、自身の地位を上げるための新しいツールを獲得しようとする。さらに「社会的創造」では、西側諸国との比較を拒み、西側の上位に位置付けるような別のランキングを提案するようになるという。

プーチンのロシアは2000年代のどこかの時点で、西欧に包摂されることを断念した。ユーラシア主義とは、大西洋から太平洋に至るユーラシアの盟主となることで、ロシアが西欧を包摂するという逆転の発想なのだろう。

「どんな反リベラルあるいはポピュリズム的な指導者に対してであれ、「ファシスト」のレッテルを貼ることは、一種の知的降伏である」とラリュエルはいう。ロシア=ファシズム論は「レッテルと誹謗の氾濫を、たやすく再利用できる時代遅れの教義・概念へと引き戻すような、我々が生きるイデオロギー的流動性と不確かさの時代の結果」なのだ。

どのような国家も、アイデンティティとしての神話を必要としている。ロシアにとっての問題は、自分たちは西欧の一員だと思っているにもかかわらず、そのアイデンティティが(中東欧やバルト三国との「記憶をめぐる戦争」によって)西欧から拒絶されていることにあるのだろう。だとしたらこの問題は、たとえウクライナ問題がなんらかのかたちで決着したとしても、これからもずっと続くことになる。

第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第3回 「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた
第4回 「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路
第6回 30年前に予告されていた戦争

禁・無断掲載

「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。第4回は歴史家マルレーヌ・ラリュエルの『ファシズムとロシア』(翻訳:浜 由樹子/東京堂出版)の紹介です。(公開は2022年5月13日。一部改変)

左がファシズム、右が共産主義支配を表わす。2014年ハンガリー・ブダペスト  (@Alt Invest Com)

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2014年にハンガリーのブダペストを訪れたとき、歴史展が行なわれていたらしく、街じゅうで「Double Occupation(二重占領)」と書かれたポスターを見かけた。最初はなんのことかわからなかったのだが、その後、ハンガリーの現代史を展示する「恐怖の館(House of Terror)」博物館を訪れて、これが20世紀におけるファシズム(ナチスドイツの傀儡政権である矢十字党=国民統一政府)と、その後の共産主義支配(ソ連の衛星国家)という「民族の悲劇」を表わす言葉だと知った。

5月9日の(第二次世界大戦)戦勝記念日の演説で、ロシアのプーチン大統領は、「世界からナチスらの居場所をなくすために戦っている」とウクライナ侵攻を正当化した。ところがそのプーチン政権を、歴史家ティモシー・スナイダーは「ポストモダンのファシズム」だとする。

[参考記事]●ロシアは巨大なカルト国家なのか

だとしたら、いったいどちらが「ファシズム」なのだろうか。マルレーヌ・ラリュエルの『ファシズムとロシア』はまさにこの問題を扱っている。

ラリュエルはフランス出身の歴史学者で、現在はアメリカのジョージ・ワシントン大学ヨーロッパ・ロシア・ユーラシア研究所長。ロシアおよび旧ソ連地域のイデオロギーとナショナリズムが専門だ。

ただし、本書の主題である「ロシアとファシズム」を論じるためには、その前提として、日本ではあまり知られていない、ロシアと中・東欧やバルト諸国の「記憶をめぐる戦争」について、その概略だけでも理解しておく必要がある。なぜなら、ロシアのウクライナ侵攻はそれ以前の「歴史戦」の延長だから。なお、本稿はロシアの侵略行為に何らかの正当性があると主張するものではない。

「記憶をめぐる戦争」の勃発

2020年1月、ウクライナのゼレンスキー大統領は、アウシュヴィッツ強制収容所解放から75周年の記念行事を受けて、「ポーランドとポーランド国民は、全体主義体制の共謀を最初に体感した。これが第二次世界大戦の勃発につながり、ナチが破壊的なホロコーストを実行することを可能にしたのである」と述べた。

「全体主義体制の共謀」という表現で、ナチズムとスターリニズムを同列に扱うこの発言は、「ロシア国民に大変なショックを与えた」。プーチンは、「ロシアとその前身であるソ連邦に(間接的であっても)ホロコーストの責任を帰そうとする試みを、激しく非難した」とラリュエルは書く。

ゴルバチョフ政権下でソ連が解体をはじめると、1988年から90年にかけてエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国とジョージアが次々と独立を宣言し、91年12月には(ソ連から独立したロシア共和国の)ボリス・エリツィン大統領がウクライナとベラルーシの独立を認め、ソ連に代わる独立国家共同体(CIS)を創設した。

ソ連が解体すると同時に、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーなどの中欧諸国が「民主化」を達成してソ連の影響から離脱した。これらの国々は、ウクライナとベラルーシを除いてEUとNATOに加盟し、「ヨーロッパ」の一員になった。

この大きな動乱が一段落した2000年代はじめから、旧ソ連圏の国のあいだで、これまでとは異なる歴史の語り(ナラティブ)が登場した。それに対してロシアは、これを「歴史修正主義」と見なして強く批判するようになる。

EU創設によって、第二次世界大戦に関していえば、西ヨーロッパは共通の歴史観の構築に成功した。戦後の経済復興(アメリカの援助)と冷戦(ソ連の核の恐怖)という現実の下、フランスと(西)ドイツが勢力圏を競ったり、戦勝国と敗戦国が賠償問題で争う余地がなくなったからだ。イギリスを含め、西ヨーロッパのひとたちは、ソ連の脅威に対抗するには団結するほかないことを当然の前提として受け入れた。こうして、ユダヤ人へのホロコーストを除いて、さまざまな歴史的対立は解決済みとされた。――その後、2014年のユーロ危機のときにギリシアがドイツに対して第二次世界大戦の賠償を求めた。

だがこの「平和」は、中・東欧諸国やバルト三国がEUに加入すると揺らぎはじめる。その事情を、ラリュエルはこう述べている(改行を加えた)。

西欧諸国にとって終戦は、平和な戦後の再建設と30年間の実り多い経済成長に道を拓いた。中・東欧諸国にとっては、強制的な社会主義ブロックへの編入の始まりであり、バルト三国にとっては国家の独立を失うことをも意味した。
ヨーロッパの枠組みの「外側」に置かれた40年間を経験したこれらの国々は、1989年のベルリンの壁崩壊と、その後の2000年代のEUとNATOへの加盟をもって初めて「正常」への回帰を体感した。
だから、中・東欧諸国がEUに入ると、その10年間の後半にロシアとの記憶をめぐる戦争がエスカレートしたのは偶然ではない。彼らにとっては、20世紀のナショナル・ヒストリー、特に第二次世界大戦史を書き直すことは、「ヨーロッパの一員としての運命」を再確認し(略)、「ヨーロッパの記憶を助ける地図」に影響を及ぼすことと、密接につながっている。

第二次世界大戦で米英仏の連合軍とソ連が、ドイツとイタリア・日本のファシズムを打ち倒したというのが、戦後の国際社会を支配した「正統な歴史観」だ。(ドイツではなく)ナチズムを「絶対悪」とすることは、西ヨーロッパ諸国にとっては自国内のナチ協力者を不問に付し、ソ連にとってはスターリンが行なった多くの暴虐行為を隠蔽できるため、すべての当事者にとって都合がよかった。

西側とソ連は冷戦下で対立していたが、「ともにファシズムと戦った」という暗黙の前提を共有していた。だがこの「公式」の歴史観は、ソ連によって独立を奪われたり、衛星国として支配されていた国にとって、とうてい受け入れがたいものだった。

ソ連が解体して冷戦が終わり、こうした国々が独立すると、「歴史の修正」を突きつけられたロシアだけでなく、中・東欧へと「ヨーロッパ」の境界を拡張したEUにとっても、新たな加盟国の「異議申し立て」をどのように取り扱うかが重大な問題になった。これが「記憶をめぐる戦争」の基本的な構図だ。

大飢饉はウクライナへのジェノサイド

「記憶をめぐる戦争」で先行したのはバルト三国で、1991年、リトアニア最高会議は「ソヴィエト連邦がリトアニア共和国とその市民たちに負わせた被害に対する補償について」と題した決議を通過させ、翌92年に、ソ連軍だけでもリトアニアの国民、経済、自然、農業に800億ドル以上相当の損害を負わせたという見積もりをモスクワに示した。それより10年以上遅れたが、エストニアおよびラトヴィアも2004年、ソ連による占領下でもたらされた数億ドルにのぼる損害に対する公式要求をモスクワに出した。

一方、歴史展示で先行したのがラトヴィアで、早くも1993年に「ソ連による違法な占領とみなす1940年から1991年を記念するだけでなく、ナチによる占領経験とも比較する」占領博物館を開館させている。私が訪れたブダペストの「恐怖の館」は2002年開館で、03年にエストニア、06年にはジョージアが独自の占領博物館をオープンした。

リトアニアはソ連占領下の損害賠償請求に続いて、2000年、首都ヴィリニュスで「共産主義の犯罪を評価する国際会議」を開催し(ポーランドの元大統領レフ・ワレサが出席)、「共産主義犯罪の評価に関するヴィリニュス国際法廷」を立ち上げている。そこでは「ジェノサイド」を拡大解釈し、「ナチスドイツとソ連によってリトアニアが占領、併合された間に行われたリトアニア住民の殺害、拷問、強制移住」と定義された。

ラトヴィアとエストニア両国はロシア系住民の比率が高い(ラトヴィア人口の40%、エストニア人口の30%)が、独立を達成した際、1940年6月以降に移住してきた者(その多くがロシア系)に国籍を与えなかったため、膨大な数の「無国籍者」を生み出した。国政選挙の選挙権がなく、パスポートも持てない(ロシアとの往来のみ可能)という無国籍者の存在はEUでも問題視されているが、ロシア系住民に一律に国籍を付与することには反発が強く、いまだ解決できていない。

「自国民ファースト」の政策は、当然のことながら、ロシア人マイノリティとのあいだに緊張を生みだしている。2007年、エストニアでは第二次世界大戦の勝利を記念する「兵士の像」の移転にともなってロシア系住民とエストニア警察の間に暴力的衝突が起き、ロシア人側に1名の死者が出た。

こうした歴史の見直しはバルト三国だけでなく、中・東欧諸国も同様だが、2004年のオレンジ革命を経てウクライナがそこに加わった。焦点になったのはスターリン時代の1932年から33年にかけて、およそ700万人から1000万人が犠牲になったとされるホロドモール(大飢饉)だ。

歴史家の多数意見では、この大飢饉はスターリンが行なった無謀な農業集団化の結果で、その影響はウクライナだけでなく、ロシアを含むソ連の主要な農業生産地域の全域に広がったとされている。だがウクライナの歴史観では、飢饉はウクライナ独立運動を根絶やしにするためにクレムリンが計画したもので、それゆえ殺害の意図によって定義されるジェノサイドに分類されるべきであるとされた。

2006年、ウクライナ議会はホロドモールを故意のジェノサイドと認める法を可決し、「スターリニズムの時代に行われた犯罪を記録し、ウクライナ国民と文化に対する暴力を伝えるための「国民の記憶研究所」」が設立された。さらに、ホロドモールとホロコーストを否定する行為を犯罪とする法案が国家に提出され、ホロドモールを記念するいくつもの記念碑がウクライナの国内外に建てられた。2010年には、ロシア寄りのヤヌコヴィッチ政権下にもかかわらず、キーウ(キエフ)控訴審はスターリンとその他のソ連の政治指導者をジェノサイドの罪で有罪とした。

ポーランドでは2018年、ホロコーストに加担したと主張する、あるいはナチの絶滅収容所を「ポーランドのもの」と描写する者には禁錮刑を科すという新しい法律が施行された。こうした傾向は他の国も同じで、ラリュエルは「ナチ体制との協力者の事例に対して、地元当局や住民がホロコーストで果たした役割を減じるというスタンスを生み出している」と指摘している。

西ヨーロッパは、「ロシア国民」と「スターリニズム」を分離して加害責任を追及しようとしている

「歴史戦」に巻き込まれたEU

2006年、バルト諸国の要請により、欧州評議会議員会議(PACE)は決議1481号「全体主義体制による犯罪を国際的に非難する必要性」を採択した。これは共産主義体制によって行なわれた人権侵害を国際的な委員会が調査することを求めるもので、「共産主義の歴史と自国の過去を再評価し、全体主義的共産主義体制が犯した罪から自らを明確に切り離し、それをいかなる曖昧さも持たずに非難する」とした。

2008年、欧州議会は「ヨーロッパがスターリズムとナチズムの犠牲者を追悼する日」を、ポーランドの分割が決められたモロトフ・リッベントロップ協定が調印された日(8月23日)に制定するという、もう一つの決議を採択した。これは「スターリズムとナチズムによる侵略行為は、戦争犯罪と人道に対する罪のカテゴリーに属する」とし、共産主義全体ではなくスターリズムに特化した罪をナチズムのそれと等値するものだった。だがこの決議は、ロシアの強硬な抗議を受けたことで数か月後、「すべての全体主義的、権威主義的体制の犠牲者を追悼する日」へと変更された。

欧州安全保障協力機構(OSCE)は北米、欧州、中央アジアの57か国が加盟する世界最大の地域安全保障機構で、ロシアも加盟している。2009年、OSCE議会は、「20世紀にヨーロッパ諸国は二つの主要な全体主義体制、ナチズムとスターリズムを経験した。それらはジェノサイド、人権と自由の侵害、戦争犯罪、人道に対する犯罪をもたらした」とし、全OSCE加盟国に「いかなるイデオロギー的背景から生じたものであれ、あらゆる全体主義的支配に対抗する統一した立場」を取り、「ナチやスターリズムの過去を賛美するデモを主宰することを含め、全体主義体制を美化する行為」を非難することを促した。この決議はロシアが全力で阻止しようとしたが、20票の賛成、8票の反対、4票の欠席で採択された。

ラリュエルは言及していないものの、こうした決議を見ると、西ヨーロッパは、「ドイツ」と「ナチス」を分離することでやっかいな歴史問題を抑え込んだ自らの成功体験を、ソ連時代の戦争犯罪や人権侵害にも当てはめようとしたのではないだろうか。すなわち、「悪いのはスターリンとスターリニズムで、ロシア国民はその被害者だが、それでも周辺諸国への“加害責任”を取らなくてはならない」のだ。

だがそもそも、敗戦国のドイツと戦勝国のソ連では立場がまったく異なる。独ソ戦はヒトラーが不可侵条約を破って一方的に侵略を開始したもので、この「絶滅戦争」によってソ連は1億9000万の人口のうち戦闘員・民間人含め2700万人が犠牲になったとされる。そして、この「大祖国戦争」を勝利に導いたのはスターリンなのだ。

ソ連崩壊後のロシアではスターリンの評価は大きく分かれているが、だからといって他国(とりわけ西欧)が、ヒトラーとスターリンを同一視するような「歴史の修正」をすることをロシアが受け入れるはずはなかった。バルト三国が第二次世界大戦時の「犯罪」に対して金銭的な補償を求めている以上、ロシアがソ連時代の犯罪を謝罪すれば、それは賠償請求への扉を開くことにもなる。

ロシアとウクライナのミラーゲーム

中東欧・バルト三国から始まった「記憶をめぐる戦争」がEUにも飛び火したことで、ロシア国内ではそれに対抗する動きが活発化した。

2009年には、ロシアの保守派議員のあいだで「国民の記憶保全を監督し、ナチズムを復権させようとする試み、連合軍に対する批判、ニュルンベルク裁判についての虚説を3年から5年の刑期で罰するために、刑法典を修正する民衆法廷の創設を講じる」法案の提出が模索された。

同年、メドヴェージェフ大統領は、「ロシアの国益を害する歴史の歪曲と戦う委員会」を立ち上げた。14年には刑法354・1条「ナチズムの復権について」が採択され、「ヨーロッパの枢軸国の主要な戦争犯罪に判決を下し、罰した、国際軍事裁判が認めた事実を否定すること」を犯罪的攻撃行為と定めた。この規定は、「第二次世界大戦中のソ連の行動についての虚偽の情報の故意の拡散」と、「ロシアの国防に関係する軍事的、記憶・記念の日に関して明らかに社会に対する敬意を欠くような情報を拡散すること、そして、ロシアの軍事的栄光のシンボルを公の場で冒涜すること」を犯罪と定めた。

この法律が守ろうとしているのは、ナチスドイツの犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と、アメリカとソ連の超大国による国際社会の統治を定めたヤルタ会談という「歴史」だった。その枠組みを無視して、ソ連をナチスの戦争犯罪と同列に扱うことは、「犯罪」以外のなにものでもない。とはいえ、国内法でバルト諸国やウクライナの「反動勢力」を処罰することができない以上、こうした法律にほとんど実効性はなかった。

それに対してウクライナは、2015年、70周年の戦勝記念日の直前、「共産主義と国民社会主義(ナチ)の全体主義体制への非難と、そのシンボルのプロパガンダを禁じる」法を採択。ソヴィエト体制全体を正式に犯罪化し、あらゆるソ連時代のシンボルを撤去することを命じ、違反者は10年以下の禁固刑に処せられることになった。「ほとんど気付かないまま、ウクライナは多くの方法で、2か国間のミラー・ゲームのようにロシアが行っているのと同じ検閲ツールを適用している」とラリュエルはいう。

プトラーとラシズム

ロシアの歴史観にとって「喉に刺さった小骨」は、1939年にソ連(スターリン)とドイツ(ヒトラー)がポーランドの分割とソ連によるバルト諸国併合を決めたモロトフ・リッベントロップ協定の存在だった。そのためソ連の公式史観では、第2次世界大戦は1941年のドイツによる侵攻とともに始まったとされた。

だが「記憶をめぐる戦争」では、1939年のこの出来事を無視することはできない。そこでモスクワ(クレムリン)が持ち出したのは、前年(38年)にイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳が集まったミュンヘン会談だ。このとき英仏首脳はヒトラーが求めたチェコスロヴァキアのズデーテン地方の領有権を認め、その代わりにドイツはそれ以上の領土要求を行なわないことで合意した。

新たなロシア(モスクワ)史観では、英仏はこのとき、西側(自分たち)へのドイツの脅威を逸らすため、すべての問題を東側に押しつけた。これによってソ連(スターリン)は、ナチスドイツから国土を守るために、ヒトラーと協定を結ぶことを余儀なくされた。「モスクワの論理では、中・東欧諸国は、西欧にもその悲劇的運命の部分的な責任があると考えるべきであり、ロシアを唯一の罪人として描き出すべきではない」のだ。

この歴史観では、「西側諸国こそが先にヒトラーとの戦闘を避けようと試み、ソ連を置き去りにして単独で東方戦線で戦争に直面させた」ことになる。さらには、バルト諸国はナチの侵略からの自衛のためにソ連に自発的に「加わった」ことになっている。

それに加えてロシアは、ペレストロイカ末期にバルト諸国がソ連を平和裏に離脱することを認めたことや、EUやNATOへの加盟を妨害しなかったことに対して「感謝されることもないという、苦い思いを抱いている」という。

ロシアのナショナリズムにとって、大祖国戦争(ファシズムへの勝利)は国家のアイデンティティそのものだ。それを否定しようとする「ヨーロッパの新しい記憶」は、ロシアから見れば、「ソヴィエト体制に対する一種のニュルンベルク裁判」を行なおうとするもので、「ロシアを歴史的他者に、(略)非ヨーロッパの長年の敵に仕立てている」のだ。

それに対して中・東欧では、自分たちをナチズムとスターリズムの「二重の被害者」だとする新しい国家の物語(ナラティブ)が生まれつつある。EUがこの「歴史の修正」に与することは、ロシアにとっては、「西側がヤルタでこの世界秩序を認めたことを無視し、ヨーロッパの分断に対する唯一の、全責任をロシアに押し付けるもの」でしかない。

ロシアのメディアは、ウクライナの(ゼレンスキーの前の)ポリシェンコ政権を「ファシスト」に、その軍隊を「東部ウクライナの民族的ロシア人へのジェノサイドを執行する死の分遣隊」として描いてきた。「ウクライナ人は何世紀にもわたって大国の傀儡であり続け、自分たちの運命さえ決することができず、「真の」ナショナル・アイデンティティを持っていない」のだという。

それに対してウクライナのメディアは、「プトラー(プーチンとヒトラーを合わせた造語)」というニックネームと、ロシアとファシズムを合わせた「ラシズム」という用語を造り出した。

こうした経緯をまとめたうえで、ラリュエルは「記憶は我々に過去よりも現在のことを教えてくれる」という。そしていまわたしたちが目にしているように、「記憶は「本当の」戦争の道具でもある」のだ。

第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第3回 「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた
第5回 ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」
第6回 30年前に予告されていた戦争

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