【アクセス9位】BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス9位は2020年9月10日 公開の「アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない」です(一部改変)。

なお、この本は原書で読んだので、本文の引用は私訳で翻訳とは異なります。

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アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。

その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。

それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた(その後、『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』〈貴堂嘉之監訳、上田勢子翻訳、明石書店〉として翻訳された)。

著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」かつ「シスジェンダー」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。

アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(CRT:Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。

ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。

なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、意図的にraceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。

この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。

ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」「スペイン出身」をアイデンティティとしているわけではないため、「Latino(ラティーノ:ラテン系男性)」や「Latina(ラティーナ:ラテン系女性)」が好まれるようになった。だがそうなると、今度は総称として(男性形の)「ラティーノ」を使うことが批判され、ジェンダーフリーの「Latinx(ラティンクス:ラテン系)」という新語が登場した。とはいえ、この新奇な用語にはラテン系から反発もあり、定着したとは言い難い。

白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系(アシュケナージ)や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。

だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。

この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。

これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。

ディアンジェロは次のように述べる。

「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」

アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。

「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」

「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。

ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。

従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。

だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。

アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。

日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。

「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。

リベラルの常識を全否定する

この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。

アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。

ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。

生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。

ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。

だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。

「よい白人」と「悪い白人」という虚構

左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。

リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。

ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。

ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。

これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。

ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。

“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。

・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。

ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。

大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。

黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。

これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。

そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。

「レイシズムの原罪」という宗教運動

ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。

それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が「人種差別的」と見なされずに、黒人の部下や同僚とどのように接すればいいかわからなくなっているからだろう。

そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。

私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー(黄色人種)」の一人として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。

それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。

しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。

ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でも、じゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。

ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。

ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。

こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。

もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。

自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。

禁・無断転載

「多数派と少数派の差が大きいほど社会は安定する」という不都合な事実 週刊プレイボーイ連載(544)

アメリカ中間選挙は、バイデン政権の支持率低迷にもかかわらず民主党が善戦し、共和党が下院で過半数を奪還したものの、上院では当初の予想を覆して民主党が多数派を維持し、トランプの影響力に陰りが出たといわれています。とはいえこれからの2年間、政権運営が困難になることは避けられず、24年の大統領選の行方も混沌としています。

アメリカ社会はすっかり、「リベラル(民主党)」と「保守(共和党)」に政治イデオロギーで分断されてしまいましたが、その背景には人口動態の「不都合な真実」があります。それが、「多数派と少数派の差が大きいほど社会は安定する」です。

冷戦の終焉にともなうユーゴスラヴィアの解体で、1992年からボスニア=ヘルツェゴビナでは、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム)の三つ巴の内戦が始まりました。95年7月にはセルビア人の武装勢力が山間の町スレブレニツァを占領し、男だけを連れ出しておよそ7000人を虐殺する事件が起きています。

ところが当時のボスニアの状況を詳細に調べると、奇妙なことがわかってきました。ある村ではセルビア人とクロアチア人が凄惨な殺し合いをする一方で、別の村ではセルビアの民兵とクロアチアの武装勢力がサッカーに興じていたのです。
なぜこんなことになるのか。そのもっとも大きな要因が、多数派と少数派の比率です。

常識とは逆に、多数派が圧倒的な地域では、少数派への民族浄化はほとんど起こりませんでした。多数派は自分たちの地位が侵されないことを知っているので、少数派を弾圧してわざわざ面倒を起こす理由はなかったのです(少数派も反抗はムダだとわかっているので、生命を危険にさらそうとは思いませんでした)。

それに対して両者の比率が拮抗していたり、三者の関係が不安定だったりすると、ひとびとはいつ何時、自分たちが少数派に追いやられるかもしれないと思うようになります。極右勢力はこの不安につけ込み、「家も土地も奪われ、家族もろとも殺される」という宣伝(プロパガンダ)を行なったのです。

アメリカでは白人の人口が減少し、2045年には少数派になると予測されています。ヨーロッパでも、フランスでは移民の割合が10%を超え、親や祖父母が移民だったひとを加えると市民の30~35%(3分の1)が「移民系」だといいます。

欧米では近年、「グレート・リプレイスメント」論が影響力を増しています。ヨーロッパ系白人がつくりあげた文明(市民社会)が、有色人種(ヨーロッパではムスリム、アメリカではヒスパニックなどの移民)によって「リプレイス(置き換え)」され、西欧は没落していくという悲観論で、右派のポピュリストが白人の不安を煽っています。

現代史を見るかぎり、そしておそらくは人類史を振り返っても、もっとも安定するのは多数派が少数派を支配する社会でした。社会を大きく動かすのは、けっきょくは「生存への脅威」なのかもしれません。

誤解のないようにいっておくと、ここで「移民を排斥せよ」といいたいわけではありません。長期で見れば、ひとびとは混ざり合って一体化していくのでしょうが、それまでにはずいぶんと長い時間がかかるという話です。

佐原徹哉『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』有志舎

『週刊プレイボーイ』2022年11月21日発売号 禁・無断転載

【アクセス8位】不平等の原因は「経済格差」ではなく「ネットワーク格差」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス8位は2021年4月8日 公開の「”類は友を呼ぶ”「経済格差」よりやっかいな「ネットワーク格差」」です(一部改変)。

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わたしたちは言葉を介して社会のなかでコミュニケーションする。同様に市場は、貨幣と商品・サービスを交換する複雑系のネットワークだ。このように現在では、世界を単純な数式で記述するのではなく、ネットワークとして把握しようとする試みがあらゆる分野で行なわれている。

「アメリカは人種によって分断されている」といわれるが、それはいったいどういうことなのか。ネットワークの科学はそれを明快に説明できる。

多様な人種の生徒が通うアメリカの高校の友だちネットワークを描くと、白人グループと黒人グループで2つの大きな島ができる。そこから計算すると、人種が同じ生徒同士では、人種がちがう場合よりも15倍以上、友だちができやすい。

友だち関係には濃淡があるだろう。そこで「放課後に街に出かける、週末いっしょに遊ぶ、電話で話す」などの「強い友だち関係」だけを抜き出すと、人種をまたぐ友だち関係はほぼすべて消えてしまう(この学校には255人の生徒がいるが、白人と黒人の「強い友だち」関係は数本しかない)。これが同類性(homophily)、すなわち「類は友を呼ぶ」効果だ。

社会的・経済的なつながりを研究する経済学者マシュー・O・ジャクソン(スタンフォード大学教授)の『ヒューマン・ネットワーク ヒトづきあいの経済学』(依田光江訳、早川書房)は、こうしたネットワークの科学のわかりやすい入門書になっている。

ひとはみな、自分と似たひととつき合いたがる性質をもっている

分断と同類性はコインの裏表の関係にある。ひとはみな、自分と似たひととつき合いたがる性質をもっている。こうして似た者同士が集まると、「自分たちと似ていない」集団とのあいだに分断が起きる。同類性は、ジェンダー(性別)、民族、宗教、年齢、教育レベル(大卒/非大卒)、婚姻関係、職業、現在の雇用状況(働いているか、失業者か)など、社会のあらゆるレベルで現われる。

ドイツの婚活サイトで10万人以上を対象に行なった調査では、女性利用者の初回のコンタクトメッセージは、学歴の似た男性に送る可能性が平均より35%高く、自分より学歴の低い男性に送る可能性は41%低かった。男性は年齢(若さ)など別の要素に注目するため学歴にはさほどこだわらないとされるが、それでもメッセージを送った割合は自分と同程度の学歴の女性が15%多く、自分より低い学歴の女性は6%少なかった。

一方、アメリカではオンラインデートの利用者は100万人にのぼるが、異性愛者でも同性愛者でも人種に強い同類性を示すことがわかっている。学歴など他の要素を補正したあとでもこの傾向は変わらない。

ひとはなぜ同類に惹かれるのだろうか。その理由のひとつは、同じ境遇を経験したひとの方が役に立つからだ。歯が痛いときは、盲腸の手術をした知人よりも、虫歯で歯医者に通っている知り合いにアドバイスを求めた方がいい。同様に(思春期前の)子どもたちは、同年齢で性別が同じ相手と友だちになろうとする。

もうひとつの理由は、同類といっしょの方が安心できるからだ。わたしたちはつねに他者の反応を予測しようとしているが、このとき予想外の反応をされると大きな不安を覚える。「わけのわからないことをする相手」は生存への最大の脅威なのだ。

それに対して同じ環境を共有している相手なら、どのようなふるまいをするか予測しやすい。家族や親せき、中学・高校の同窓生などとのベタな共同体から出たがらないひとがいるのは、見知らぬ他者が不安を与えるからだろう。

同類を好むのは保守的なひとたちだけではない。シリコンバレーのパロアルト(アップルの本社所在地)では住人の13%が博士号をもっており、しかもこの数字は、教授などが多く住むスタンフォード大学周辺は入っていない。

シリコンバレーの同類性はイノベーションの源泉でもある。地元のカフェで最新のテクノロジーについての会話が聞こえてくればつねに刺激を受けるし、会話に入って新しい知り合いができるかもしれない。こうした「知的ネットワーク」があると、伝手をたどって会社から会社へと転職できるから一種の雇用保障にもなる。

シリコンバレーは家賃がとてつもなく高く、公共交通機関も歓楽街もなく、けっして住みやすいとはいえないが、それでも世界じゅうから天才たちを引きつけるのはこのネットワーク効果があるからだ。

同類性の「負の外部性」が社会を分断する

同類性にはポジティブな影響(正の外部効果)があるが、同時にそれが分断をも引き起こす。とはいえ、ヒトはみな「差別主義者」というわけではない。

2005年にゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングは、自分と異なる人種が隣にいることを嫌う「差別」ではなく、たんに自分と同じ人種の世帯が最小限いることを願っているだけで、ホワイトフライト(白人の郊外への転出)のような社会の分断が起きることを証明した。

「近所(隣接する8世帯)のすくなくとも3分の1は自分と同じ人種であってほしい(自分が圧倒的な少数派にならなければいい)」というかなり寛容な基準を用いても、異なる人種が半分になると2つのグループに「分断」されてしまう。現実には、黒人の転入者が5~20%のあいだで白人たちは出ていってしまった。

外部性は「ある人のふるまいが他者の幸福に影響すること」で、ネットワークでは正の方向にも負の方向にも強い外部性が生じる。みんながワクチンを接種するのが「正の外部性」で、基本再生産数が1を下回れば感染は収束する。それに対して「負の外部性」では、もともとは小さな好みの偏りがネットワーク効果によって増幅され、共同体を分断してしまう。

近年では、インターネットやSNSによって負の外部性がさらに強力になっている。研究によれば、インターネットに接続されていないときと、完全に利用可能になったときとを比べると、その地域の政治の二極化が22%拡大した。インターネットアクセスの増加は偏ったニュースの追随者を増やし、社会の分極化につながるのだ。

インターネットの利用が増えるほど投票率が高まり、政党の力関係を変化させるが、ふつうのひとが「極右」や「極左」に変貌するわけではない。SNSは、「すでに強硬な意見をもっている人たちを勢いづける」ようなのだ。どうやら、「ほかの人も自分と同じような考え方をしていると、人は自信を得て、その考えを共有している人がほかにもおおぜいいると過大評価する傾向がある」らしい。

経済格差の根源にあるネットワーク効果

経済格差の拡大(不平等)は、ネットワークの科学では「非移動性」で説明される。これは、「本来なら大きな生産性を発揮できたであろう人が非生産的な役割に閉じ込められ、社会全体の生産性を落としてしまう」ことだ。

非移動性の指標が「世代間所得弾力性」で、親の優位性が世代を超えてどれだけ受け継がれるかを示す。0だと「完全な移動性」で親の所得と子どもの所得になんの関係もなく、1は「完全な非移動性」で親の所得と子どもの所得は同じになる。すべての社会は0から1のあいだのどこかに位置する。

データを見ると、世界でもっとも不平等なのはペルーで、世代間所得弾力性は0.7だ。アメリカの弾力性は0.5を少し下回り、日本はドイツ、ロシアなどと同じ0.3~0.4程度で中の下くらいに収まっている。もっとも弾力性の低い(格差が少ない)のはデンマーク、ノルウェー、フィンランドなど北欧諸国だ。

アメリカンドリームは成功の機会がすべてのひとに開かれていることだが、現実のアメリカ社会は所得、教育、資産のどれをとっても、寿命ですら親子の相関関係が非常に高く、日本よりも努力による成功が難しい国になっている。

経済格差の指標として使われるジニ係数では、0が完全平等(全員の富が同じ)、1が完全不平等(1人がすべての富を独占する)だ。横軸に非移動性(世代間所得弾力性)、縦軸に不平等(ジニ係数)をプロットすると右肩上がりの分布になり、非移動性が高いほど格差が大きいことがわかる。

スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』では、卑しい身分に生まれたものの若くして大きな富を得たギャツビーが、初恋の女性で上流階級出身のデイジーと結ばれようと苦闘する。ここから、社会階層を超えることの難しさを表わすこのグラフは「グレート・ギャツビー曲線」と呼ばれている。

小さくて同質的な国(デンマーク)と大きくて同質的でない国(アメリカ)を比較すると、他のすべての条件が同じであれば、小さくて同質的な国の方がおおむね不平等も非移動性も低い(格差が小さい)。アメリカの経済格差の一部は、人種的な多様性とGDPの大きさから説明できる。これも「不都合な事実」だろうが、「経済が多様化するほど、非移動性と不平等もともに高くなる」のだ。

ゆたかな家に生まれた子どもが社会的・経済的に成功するのは、相続などで富が世代を超えて移転するというよりも、遺伝、教育、友だちネットワークなどの効果の方がはるかに大きい。ジャクソンは、不平等(経済格差)はさまざまな社会問題の原因ではなく結果だという。真の原因は「同類性によってかたちづくられ固定された情報や規範のネットワーク」が機会や行動を制約することであり、「非移動性の背後にある同類性への圧力」こそが根源なのだ。

ジニ係数は非常に平等な社会で0.25、極端に不平等な社会で0.7の範囲に収まるが、狩猟採集社会でもジニ係数は高い。

カナダ、ブリティッシュ・コロンビアのインディアンでは、良質の漁場や狩場を支配する一族は、少し離れた場所に住む一族よりも多種類の食物をふんだんに貯蔵し、寝る場所も広く、料理や暖房に使う炉も大きかった。さまざまな牧畜社会を調査した人類学者によると、土地と家畜の保有から見たジニ係数は平均でも0.4から0.5とある程度高く、全体では0.3から07の範囲に広がっていた。不平等は何千年も前からあったのだ。

人気者がもっているネットワークのパワー

ネットワークの科学が進歩することで、中央集権型や分散型など複雑な人間関係をプロットし「見える化」できるようになった。そこで重要になるのが「次数中心性」「固有ベクトル中心性」「拡散中心性」だ。

次数中心性は「友だちの人数によるパワー」で、たくさんの友だちをもっているほど高くなる。いわば「人気度」で、学校でも会社でも彼ら/彼女たちの次数中心性は高い。

固有ベクトル中心性は「間接的な友だちによるパワー」で、人気のある友だちとつながっているかどうかだ。あなたに次数中心性が極端に高い友だちがいると、それだけで大きな影響力をもてるかもしれない。これは一般に「フィクサー」と呼ばれる。

拡散中心性は「噂を拡散するパワー」で、3次の友だち(友だちの友だちの友だち)の人数で測られる(それ以上遠い友だちは噂に関心をもたなくなる)。拡散中心性が大きいほど、強力な「メディア」として機能する。

「フレンドシップ・パラドクス」とは、どんなコミュニティでも、そのなかで「友だちの人数によるパワー」が強い人気者が突出して大きな(不均衡な)存在感と影響力をもつことだ。

「みんな自分よりたくさん友だちがいる」と思ったことはないだろうか? だがこれは事実ではなく、あなたがたんに(友だちがたくさんいる)人気者とつながっているだけのことだ。友だちが10人いれば、友だち5人より2倍多く友だちとして数えられる。たくさん友だちがいる人気者は、集団の人数に占めるより何倍も多く友だちリストに登場し、強い存在感を放つのだ。

子どもはよく、「学校ではみんなもってるのに……」「友だちはみんな親が認めてくれているのに……」と文句をいう。だがこれも統計的な事実ではなく、一部の人気者を基準にしている可能性が高い。同じ学年でもクラスの雰囲気がまったくちがうのは、生徒たちが周囲の考えや行動に従う傾向をもっているからで、ネットワーク効果によって、多数派の生徒は自分たちの行動を人気者に合わせるようになる。

中学校では、友だち関係が増えるたびに、生徒が喫煙しはじめる可能性が5%増え、自分を友だちだといってくれる生徒が5人増えると飲酒の確率が30%上がる。

わたしたちは無意識のうちに、もっとも社交的な仲間から突出して強い影響力を受けている。典型がSNSのインフルエンサーで、フォロワー数の多い一部のユーザーの嗜好に過度に合わせた意見や考え方が形成される。だが高い人気をもつ彼ら/彼女たちの行動は、一般ユーザーとは大きくちがう可能性がある。

聖書『マタイによる福音書』には「持てる者はますます富み、持たざる者は持っているものまで取り上げられるだろう」とのことばがある。この「マタイ効果」はネットワーク理論では、「優先結合」と呼ばれ、最初に友だちの数が多いと誰よりも早く「友だちの人数によるパワー」を獲得できるし、それによってネットワークの中心を確保すれば、集団のメンバーにとって「もっとも会いやすいひと」となり、新しい友だち関係を築きやすい。

このマタイ効果によって、人気者は「友だちの人数によるパワー」だけでなく、「間接的な友だちによるパワー」「噂を拡散するパワー」さらには「仲介者としてのパワー」まで獲得し、ネットワーク(学校や会社のコミュニティ)を支配することになる。これは乗数効果ともいい、それによって集団のなかの「友だち格差」が急速に拡大していく。

ネットワークのパワーと影響力は、学校の生徒同士のような、同等の仲間という環境でもっとも純粋に発揮される。こうして子どもたちは、学校内での「評判」で序列が決まる理不尽なゲーム(スクールカースト)に放り込まれることになる。

友だちの数が多いのはほとんどの場合よいことだが、ときには裏目に出ることもある。感染症(パンデミック)の研究では、集団のなかでもっとも感染しやすいのは(友だちの多い)人気者であることがわかっている。

不平等を拡大するのは資本格差(ピケティ)ではなく、労働所得の格差

ここまで述べてきたように、人間のネットワークには格差を拡大させ、社会を分断させる傾向が内包されている。これにテクノロジーの進歩やグローバリゼーションなどの要因が重なり、社会活動から脱落してしまうひと(その多くは低学歴の中高年男性)が増えてきたことが世界的に大きな問題になっている。

同じ作業をするのに、現代では1980年代後半のわずか40%の労働しか必要とされない。アメリカの農業従事者は、19世紀初頭の人口の約70%から現在の2%付近にまで減少した。だがこれは、自由貿易(グローバル資本主義)が引き起こしたわけではない。1999年から2011年のあいだにアメリカの製造業で失われた職のうち、中国からの輸入増加によるものは10%から20%にすぎず、大部分はテクノロジーの変化によるものだった。

アメリカでは大卒と非大卒の収入格差は1950年代で50%だが、現在ではおよそ100%(2倍)に広がった。大卒就労者の所得が増加し、高い学歴をもたない就労者の所得が低下したのだ。中間層が担ってきた仕事が失われる一方で、設計やマネジメントなど高レベルのスキルを必要とする業務と、高い教育や経験が備わっていなくても働ける日常業務の両極端で労働需要が伸びている。

トマ・ピケティは『21世紀の資本』( 山形浩生、守岡桜、森本正史訳、みすず書房)で資産効果による不平等を指摘したが、これは多額の株式や不動産を保有するトップ1%の話で、その下の層の「格差」は労働所得のちがいからきている。トップ1%の賃金は1970年代初頭の2.5倍以上に増え、トップ5%は倍増、トップ10%では4.5倍以上に増えた。しかし下位60%では、同じ時期の賃金上昇率は3割程度にとどまっている。不平等の拡大は、人口の大きな部分を占めるグループの相対賃金の変化から説明できるのだ。

20代後半の大学卒業者の割合は、アジア系が72%と驚くほど高く、白人54%、アフリカ系32%、ヒスパニック27%となる。この大きな差を生むメカニズムは複雑で、「家庭の所得、民族、親の学歴、文化、コミュニティの雰囲気」などが互いに関連している。

ここで興味深いのは、「低所得層の子どもは貧しいから大学に行けないわけではない」との指摘だ。アメリカの高等教育のコストがきわめて高いのは間違いないが、これはいわば「店頭表示価格」で、これをそのまま支払っているのはすべての学生の3分の1に過ぎない。さまざまな助成金や研究補助金、奨学金その他の支援制度があるからで、アメリカの4年生私立大学の平均見積もり費用(生活費を含む)は年4万4000ドルだが、実際に支払われた平均額は2万6000ドルだった。

こうした支援制度は、世帯所得が低い学生ほど手厚くなる。4年生公立大学では、所得の高い方から4分の1の層が実際に支払った授業料および諸経費の平均は年6330ドルだが、所得の低い方から4分の1の層では「マイナス」2320ドルだった。この「マイナス」は、低所得層では授業料や諸経費を上回る助成を受けて、年25万円(月額2万円)程度を生活費に回していることを示している。

その結果、所得によって大学の選択が制限されるのはアメリカの家庭の8%以下にすぎない。問題は「経済格差」ではなく、それを生み出すネットワーク効果のちがいなのだ。

ネットワーク環境を変えれば子どもは変わる

「時代遅れになった機械は捨てたりリサイクルしたりできるが、時代遅れになった労働力を社会はどうすればいいのだろう」とジャクソンは問う。元凶がネットワーク効果である以上、富裕税やMMT(現代貨幣理論)などお金の分配方法ばかり議論しても意味がない。重要なのは「非移動性と不平等を拡大再生産しかねない基本的な社会構造」を改善することだ。

そこで最後に、「家庭の幸福が地域にどう影響するか」を調べるために1990年代に行なわれた「機会への移住実験プログラム」を紹介しよう。

実験に参加したのはアメリカ各地(ボルチモア、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨーク)の公共住宅に住む4600家族で、次の3つのグループにランダムに割り振られた。

  1. 家賃補助券を受け取るが、それはより貧困度が小さい(いまよりもゆたかな)地域でしか使えない。このグループは、家賃補助を受けるためにはもうすこし富裕な地区に引っ越さなければならない。
  2. どこでも好きなところで使える家賃補助券を受け取る。同じ地域にとどまることができたので、ほとんどは家賃を節約するだけで引っ越さなかった。
  3. 家賃補助券を受け取れない対照群。

その後、アメリカ国税庁による納税データと合わせて、子どもの育った場所が収入や人生にどう影響するかが追跡調査された。それによると、条件付き家賃補助券をもらって引っ越したグループの(転居時点で13歳以下だった)子どもは、20代半ばに達したときの収入が、補助券をもらえなかった対照群の子どもより約3分の1以上高くなっていた。転居時点で8歳だった子どもが受けた利益は、生涯収入で30万ドルと見積もられている。同様に、大学に進む確率が6分の1高く、通う大学のランクは大幅に上がり、貧しい地域に住んだり、子どもの誕生時にひとり親になる確率は小さかった。

それに対して、どこでも使える(より有利な)家賃補助券を受け取ったグループでは、なにももらえなかった対照群と比べてさほど大きな利益は得られなかった。より正確には、対照群より改善はしたのだが、そのプラス面のほとんどはわざわざ富裕な地域への引っ越しを選択した世帯の子どもたちがもたらしたものだった。子どもの将来に影響を及ぼしたのは経済的支援ではなく、子どものネットワーク環境を変えることだったのだ。

「ネットワーク格差」についての議論は始まってもいない

ひとはみな、住んでいる地域やコミュニティから大きな影響を受けている。どの大学に進んだかを考慮に入れない場合、低所得家庭と高所得家庭の卒業生の所得の中央値には25%の開きがあるが、同じ大学、同じ科目で比較するとこの差は10%に縮まる。

ダートマス大学では、学生の就職は、新入生のときからの寮友の就職率と相関していた。寮友たちが無職から就職済みに変わると、本人の就職率は平均的な学生と比べて24%上がる。寮友たちが1ドル多く稼ぐごとに、本人の収入は26セント増えた。寮友たちの状況が変わると、これに呼応して、就職や給与の約4分の1に変化が見られた。

転職にあたっても、よいネットワークをもっていることはきわめて重要だ。なぜなら雇用者にとって、いまいる従業員の友だちこそが探している種類の人物だから。ジャクソンは、「特定の種類のソフトウェアを設計できるプログラマーを見つけるのに、現在すでに関連ソフトウェアをつくっているプログラマー以上にあなたに役立つアドバイスができる人がいるだろうか」と述べる。

さまざまな社会問題が「ネットワーク格差」から生まれるとしたら、どのような政策が考えられるだろうか。

誰もが思いつくのは「ネットワークの機会を平等にする」だろう。たしかにイスラエルのキブツ(生活共同体)のようなコミューンで子どもを育てれば、強制的に格差は縮小するだろう。だが、マルクス主義的なコミューンの理想がうまくいかないことは歴史によって証明されている。

一部のリベラルに人気のあるベーシックインカム(最低所得保証)も、非移動性の根底にある不公平で非生産的な機会格差には対応できない。理想主義者は同意しないだろうが、「社会を望みどおりの方向へ動かそうとする大規模なソーシャル・エンジニアリングには大失敗の歴史が満ちているし、みなを同じように機会に向かって進ませることはできない」のだ。

こうしてジャクソンは、「人のネットワークを理解してこそ私たちは、接続性の向上を、社会を分断させる災難ではなく、集合知と生産性の向上に役立つ恩恵として活用していけるのだ」というきわめて穏当な提言で本書を締めくくる。「経済格差」については議論百出だが、よりやっかいな「ネットワーク格差」についての議論はまだ始まってもいないのだ。

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