第117回 残業を副業にする魔力(橘玲の世界は損得勘定)

すこし前の話だが、内閣府が職員を対象に「賃上げを広く実施するための政策アイデアコンテスト」を実施した。「残業から副業へ。すべての会社員を個人事業主にする」という提案が優勝アイデアのひとつとして選ばれ、大臣が表彰したところ、「脱法行為を認めるのか」と炎上する事態になった。

提案の詳細は内閣府のホームページから削除されてしまったが、報道などによると、定時以降の残業を個人事業主として受託することにすれば、社会保険料や税金の負担が減って、会社の人件費を増やすことなく“賃上げ”ができる、というアイデアのようだ。

この提案については、労働者かどうかは働き方の実態で判断するべきで、仕事の内容も働き方も同じなのに、時間で区切って個人事業者と見なすのは「偽装請負」と同じで労働法を無視していると批判された。たしかにそのとおりだが、怒りの拳を振り上げる前に、なぜこれで収入が増えるのかを考えてみよう。

まず社会保障費だが、社員は健康保険・厚生年金保険、介護保険などの社会保険に加入している。保険料は賞与や各種手当を含む標準報酬月額で計算され、原則として労使で折半する。

残業代を契約に基づく個人事業主への報酬にすれば、会社は給与の支払いが減り、これによって保険料の算定基準になる標準報酬月額も減るので、その分だけ保険料負担が軽くなる。社員も同じで、収入は同じでも社会保険料の減額分だけ手取りが増える。会社も社員も「ウイン=ウイン」になるのだ。

次に所得税だが、個人事業主の場合、事業に必要な経費を収入から差し引くことができる。一般的には、自宅を仕事場にする場合は家賃や水道光熱費の半額が目安で、スマホなどの通信費や旅費交通費、新聞・雑誌・書籍の購読料なども一定の割合で経費にできるだろう。

パソコンなどは取得価格30万円未満なら経費扱いで処理できるし、車のような固定資産は減価償却費として経費計上が可能だ。サラリーマンの場合、給与所得控除を超える「特定支出」を申請するのは面倒だが、個人事業主ならさまざまな支出を経費にできるのだ(税務署に否認される場合もある)。

それに加えて、青色申告を利用することで65万円の控除が受けられる。これらの経費を足していくと、事業所得(残業代)は赤字になるだろう。事業所得は給与所得と相殺できるので、これで所得税が安くなる。

これらはいずれも合法で、「副業のメリット」としてネットなどで解説されている。だったらなにが問題かというと、同じ職場で定時以降の仕事を「副業」にすることだ。これなら社員はなんのリスクもなく(いつもの残業をするだけで)手取り収入を増やせるし、会社も負担を軽くできるが、この“魔法”は、国が税・社会保険料を取りっぱぐれることで成り立っている。

そう考えれば、この提案は「国家をハックせよ」と勧めるもので、それを経済再生担当大臣が表彰したというのは、じつはなかなかいい話だと思うのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.117『日経ヴェリタス』2024年9月7日号掲載
禁・無断転載

SNSの時代には「非顕示的消費」がトレンドになる? 週刊プレイボーイ連載(616)  

わたしたちはなぜブランドものに夢中になるのか。その理由はいまから100年以上前に、アメリカの経済学者・社会学者のソースティン・ヴェブレンによって解き明かされました。

スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』で描かれたように、当時の富裕層(有閑階級)は働くこともなく、ぜいたくな調度品をそろえたプール付きの豪邸で、派手なパーティに明け暮れていました。この“奇妙な”風習に興味をもったヴェブレンは、それがインディアン(アメリカ原住民)のポトラッチと同じで、盛大な宴会とおしみない贈与によって自らの地位と財力を「顕示」して(見せびらかして)、ステイタスを上げようとしているのだと考えました。

150人程度の小さな共同体で暮らしていた人類の祖先は、誰が信用できて、誰が信用できないかで頭を悩ます必要はありませんでした。すべてのひとが、相手やその家族の評判を知っていたからです。

しかし産業革命以降、都市化が進んで見知らぬ者同士が出会うようになると、人類が旧石器時代以降、ずっと行なってきた(おそらくは遺伝的に脳にプログラムされている)この方法が使えなくなってしまいます。だとしたらどのようにして、信用できるかどうかを見分ければいいのでしょうか。

あなたが本物の金持ちなら、「自分は金持ちだ」とウソをついているわけではないと証明するもっとも効果的な方法は、口先で相手を説得することではなく、高価なモノを見せびらかすことです。この「証拠」によって、相手はあなたのことを信用できる人間だと思ってくれます。

社会がよりゆたかで複雑になると、信用できるかどうかのシグナルはますます重要になってきました。クジャクの羽根と同じで、もっとも派手に散財した者がもっとも大きな信用を得て、高い社会的ステイタスを獲得できるのです。ブランドは、ひとびとが必死になって背伸びすることで巨大なビジネスに成長しました。

しかしこの顕示的消費も、やりすぎると成金趣味に思われて逆効果になってしまいます。最近の若者は、全身をブランドもので固めた若い女性を見ると、「水商売だから近づかないようにしよう」と思うそうです。

こうして、「非顕示的消費」という新しい現象が起きました。ユニクロの2990円のジーンズと一見、区別がつかないものの、限られたひとにはそれが5万円以上する高級なデニムだとわかるような消費の仕方をいうそうです。

顕示的消費では、自分がお金持ちであることを見せびらかして、貧乏人を排除しようとします。しかしSNSの時代にこれをあからさまにやると「ポリコレ」的に反発され、炎上するリスクがあります。そこで、自分が文化的によいセンスをもっていることを微妙なシグナルで伝え、「文化的に貧困な者」を排除するようになったと考えれば、非顕示的消費を説明できるでしょう。

どちらにも共通するのは、社会を「俺たち(お金持ち、あるいはセンスのいい者)」と「奴ら(貧乏人、あるいはダサい者)」に分割し、“劣った”者を差別することです。残念ながら、流行はどれほど変わっても、旧石器時代から続くヒトの脳のプログラムはずっと同じなままのようです。

ベンジャミン・ホー『信頼の経済学 人類の繁栄を支えるメカニズム』庭田よう子訳、慶應義塾大学出版会

『週刊プレイボーイ』2024年9月9日発売号 禁・無断転載

いまこそ「金銭解雇の法制化」の議論を始めよう

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年7月5日公開の「「身分差別」の日本的雇用の破壊後に 「金銭解雇の法制化」は可能か?」です(一部改変)

StreetVJ/Shutterstock

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日本社会ではこれまで、保守もリベラルも含めほとんどのひとが、「年功序列・終身雇用の日本的雇用が日本人を幸福にしてきた」として、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)を「アメリカだけが一方的に得をする制度」「グローバリズムの陰謀」と批判し、「雇用破壊から日本を守れ」と大合唱してきた。

しかしこのところ、このひとたちはすっかりおとなしくなってしまった。

その理由のひとつは、トランプ大統領が、「TPPはアメリカにとってなにひとついいことがない」としてさっさと離脱してしまったことだ。これによって「アメリカ陰謀論者」は梯子をはずされ、なにがなんだかわからなくなって思考停止し、過去の発言をなかったことにしようとしているのだろう。

しかしより重要なのは、安倍首相が「同一労働同一賃金を実現し、非正規という言葉をこの国から一掃する」と施政方針演説で宣言し、先頭に立って日本的雇用を「破壊」しようとしていることだ。これによって「親安倍」の保守派は政権のネオリベ路線を批判できなくなった。

一方、「反安倍」勢力はどうかというと、裁量労働制の拡大や高度プロフェッショナル制度に反対してはいるものの、電通の新人女性社員が過労自殺した事件以降、日本的雇用を表立って擁護できなくなった。それに加えて、「正社員と非正規社員のあいだの合理的な理由のない格差は違法」との判決が相次ぎ、日本的雇用が「身分差別」である実態を否定できなくなった。日本的雇用で犠牲になるのは、非正規社員や子会社の社員、(子育てをしている)女性、外国人など少数者(マイノリティ)なのだ。

こうして紆余曲折がありながらも働き方改革が進められるのだが、この先にはより大きな壁が待ち受けている。それが「金銭解雇の法制化」だ。 続きを読む →