【アクセス3位】わたしたちは文明化によって不幸になったのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス3位は2020年10月16日公開の「「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆された?」です(一部改変)。

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いま古代史が大きく書き換えられつつある。そのきっかけとなったのはトルコ南東部の古代都市ウルファ(現在のシャンルウルファ)近郊で発見された「ギョベクリ・テペ」という巨大な神殿で、1万4000年前から1万2000年前に建造されたと考えられている。

この遺跡が考古学者たちを驚かせたのは、周辺地域で農耕が行なわれていた形跡がまったくないことだ。旧石器時代の末期、メソポタミア北部で狩猟採集生活をする部族社会のひとびとは、高度な文化をもち、交易を行ない、万神殿(パンテオン)にそれぞれの部族の神を祀っていたのだ。

メソポタミア地域では旧石器時代の定住の考古学的証拠が次々と見つかっており、「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆されてしまった。

ジェームズ・C・スコットはイェール大学政治学部・人類学部教授で、東南アジアなどに残る「非国家」をフィールドワークしてきたが、『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房)では、国家というシステムへの批判的な検証の集大成として、「古代史のパラダイム転換」に挑んでいる。原題は“Against The Grain : A Deep History of the Earliest States(反穀物 最初期の国家のディープヒストリー)”。

古代メソポタミアは「狩猟採集民の天国」

まず古代のメソポタミアについてかんたんに説明しておこう。

イラクというと私たちは砂漠を思い浮かべるが、先史時代、この一帯はティグリス川とユーフラテス川がつくりだすデルタで、広大な湿地が広がっていた。海岸線は現在よりずっと川上にあり、紀元前4000年頃にはバスラ(自衛隊がPKOで駐屯した南部の主要都市)は海の底で、バグダッドとの中間まで湾が延びていた。上流から運ばれてくる堆積物が重なる前は、沖積層は現在より10メートルも低かったのだ。バビロンはバグダッドの南にあり、なぜこんな中途半端な場所に都市を築いたのか不思議に思っていたが、古代世界ではここは海と陸とを結ぶ戦略の要衝だった。

メソポタミアの湿地帯は、これまでの常識に反して「狩猟採集民の天国」ともいうべき地域だった。

沼地からわずかに盛り上がった高台に暮らしていたひとびとは、膨大な数の魚類、貝類、甲殻類、軟体動物などの海洋資源だけでなく、海辺や川辺には鳥や水禽類、小型哺乳類やガゼルのような大型哺乳類も集まってきた。ベリーやナッツもかんたに手に入ったし、沼にはイグサ、ガマ、スイレンなどの可食植物が生い茂っていた。

このようなデルタでは、そもそも農耕を始める理由がなかった。灌漑などしなくても、毎年の洪水によって土壌が入れ替わるのだから、放っておいても植物は生えてきた。定住が始まったのは農耕のためではなく、移動しなければならない理由がなかったからだ。

古代メソポタミアの南部では、ほぼ農業なしに定住する人びとがあちこちに見られ、住民数が5000人に達する「町」まであった。その当時から狩猟採集民は、篩(ふるい)、石臼、すり鉢とすりこぎなど、野生の穀物や豆類を加工するためのあらゆる収穫具を作り出していた。――三内丸山遺跡などで縄文人の定住が広く知られている日本では当たり前だと思うかもしれないが、西欧ではこれは「大発見」だった。

従来の古代史は、現在の地形に引きずられ、大規模な定住と農耕は乾燥地帯で始まったとしていた。だが、ちょっと考えればこれはおかしいとわかる。なぜわざわざ条件の悪い場所で暮らさなくてはならないのか。巨大なデルタがゆたかな自然を育んでいたからこそ、ひとびとが集まってきたのだ。

紀元前1万2000年頃には、メソポタミア全域で定住の断片的な証拠が見つかっている。作物化植物と家畜の断片的な証拠が発見されたのは紀元前9000年、コムギなど主要な基礎作物の栽培が確認されるのは紀元前8000年だから、3000~4000年ものあいだ農業を営まずに定住が続いたことになる。

だとしたら問うべきは「なぜ農耕などというものを始めたのか」だ。

「なぜ農耕を始めたのか」という謎

耕作農業の最大の特徴は、同じカロリーを得るために必要な労働量が狩猟採集と比べて格段に多い(「コスパ」が極端に悪い)ことだ。エデンの園のような楽園で暮らしていた狩猟採集民が、自ら望んでそんな苦役を始める理由はどこにもない。

この疑問に対する有力な答えが「寒冷化」説だ。

定住して狩猟採集生活していた古代のひとびとを、紀元前1万800年頃から1000年におよぶ寒冷期(ヤンガードリアス)が襲った。北アメリカのアガシー湖(かつて北米大陸の中央にあった巨大な氷河湖で、その大きさは黒海に匹敵するとされる)の氷床が温暖な気候によって溶け出し、大西洋に流れ込むようになったために起きたとされる(異論もある)。気温が急速に下がったこのきびしい時期に、生き延びるために農耕に依存せざるを得なくなったのではないだろうか。

だが、このかなり説得力のある説には考古学的証拠の裏づけがないとスコットはいう。紀元前9600年頃になって急激な寒冷期が終わると、ふたたび温暖で湿潤な気候がやってきた。10年もしないうちに摂氏にして7度も平均気温が上昇することもあった。樹木も哺乳類や鳥類も生気を取り戻し、自然環境は突如として快適になった。そして、寒冷期ではなく再度の楽園が訪れたこの時期に、通年で占有される遺跡とともに最初期の農耕の形跡が見られるようになるのだ。

紀元前8000~6000年には、穀類(コムギ、オオムギ)や豆類(レンズマメ、エンドウマメ、ヒヨコマメ)、亜麻などの「基礎作物」が、全般に小規模とはいえ栽培されていた。この同じ2000年間には、家畜化されたヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシも登場している。最初の小規模な都市的地域も含めた農業革命は、恵まれた時期に恵まれた地域(狩猟採集民の天国)で始まったのだ。

これについては、人口の増加、乱獲による野生動物の減少、高栄養の植物の採集が難しくなったことなどによって、いわば「背水の陣」として耕作農業に移行したとの説がある。「寒冷化」説の別ヴァージョンで、これもそれなりの説得力があるが、やはり考古学的な証拠と整合しない。この時期はまだメソポタミアのデルタ地帯はゆたかな湿地帯で、狩猟や採集が困難になっていたという確固たる証拠は見つかっていない。農耕が始まったのは、食料が「欠乏」しているのではなく「豊富」な地域なのだ。

スコットはこの謎に「農耕の広がりについて満足のいく代替説明はまだない」としているが、『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(白須英子訳、文藝春秋)でレザー・アスランは、定住民が巨大な神殿をつくるようになり、石工などの専門家集団に安定した食料を提供しなければならかったために農耕と野生動物の飼育が必要になったのではないかと述べている。

それがどのような理由にせよ、いったん農耕が始まると、紀元前6500年頃には小規模な町が生まれ、紀元前5000年までにメソポタミア南部には数百の町があり、完全に作物化した穀物が主食として栽培されていた。紀元前4000年になると敷地を壁で囲った原始的な「都市」が登場し、紀元前3100年頃に「階層化した、税を集める、壁をめぐらせた国家」がはじめて生まれた。作物栽培と定住が始まってから4000年以上もたっていた。

国家による農耕によってひとびとの暮らしは劇的に変わったとして、スコットは新しい環境を「ドムス複合体」と呼ぶ。ドムスはdomestication(家畜化)の略だが、その本来の意味は「住居」だ。ドムスでは穀物と動物を「飼い馴らし」、その世話をするのに大量の人力を必要とした。その結果、「耕地、種子や穀物の蓄え、人、そして家畜動物が前例のないほど密集し、すべてが共進化しながら、誰にも予想しなかったような影響を生み出した」のだ。

「家畜化」が農耕によって加速した

「農耕の開始によって人口は大きく増えた」というのが常識になっているが、これも正確とはいえない。紀元前1万年には地球上のホモ・サピエンスの数は400万と推計されるが、農耕が始まってから1000年以上経った紀元前5000年になってもその数は500万人程度だった。人口が増えるのはそれからで、その後の5000年間で世界人口は1億人超になっている。

スコットは、疫学的に見て、ドムス複合体の初期が人類史上もっとも致死率が高い時期だったとする。紀元前3200年までに、メソポタミアのウルクは2万5000人から5万人の住民を抱える世界最大の都市となった。人間と家畜が狭い空間に集住したことで、コレラ、天然痘、おたふく風邪、麻疹、インフルエンザ、水痘、マラリアなどの疫病が蔓延した。

初期のメソポタミア人は、感染症が伝染する原理を理解していたようだ。病人を分離して接触を避け、それでもうまくいかなければ町を放棄して逃げ出した形跡があちこちに残されている。

狩猟採集民は感染症の危険を十分にわかっていたから、大きな定住地には近寄らなかった。都市文明を拒否したのは「未開」だからではなく、それが伝染病との接触を避ける最良の方法だったからだ。

都市国家を維持するには多数の人口を維持しなくてはならないが、疫病によって住民は死んでいく。だとしたら、国家はなぜ維持できたのだろうか。これには主に2つの理由があった。

ひとつは奴隷で、古代国家は戦争による捕虜と、奴隷貿易による大規模な買い付けで人口を補充していた。もうひとつが「多産」で、ドムスで暮らすようになった女性はより多くの子どもを産むようになった。

狩猟採集民の女性はいちどに2人の子どもを抱えて運べないため、子どもをつくるのはおよそ4年ごとになる(これには離乳を遅らせる、堕胎薬を使う、育児放棄する、あるいは子殺しをするなどの手段がとられた)。また、激しい運動とタンパク質豊富な赤身肉の食餌という組み合わせは思春期の訪れを遅らせ、排卵を不定期にし閉経を早めた。

それに対して定住では初潮が早まるほか、穀物食は軟食をつくりやすいので離乳も早まった。その結果排卵が促進されて毎年子どもを産めるようになり、女性の生殖寿命も伸びたため、「定住農民は前例がないほど繁殖率が高く、死亡率の高さを補って余りある」ほどになったとされる。だがその代償として、定住民は狩猟採集民と比べると平均身長が5センチ以上も低く、たいては骨や歯に栄養不足の痕跡がある。

ここで興味深いのは、野生動物も家畜化されると多産になることだ。生殖年齢に達するのが早くなり、排卵と妊娠の回数が多く、生殖寿命も長くなって、繁殖率が高くなる。それに加えて家畜は野生種より暴力性が低くなり(人間に慣れやすい)、雌雄差(性的二形)が小さくなる。これは「幼形成熟(ネオテニー)」と呼ばれる。

こうして、スコットがなぜ都市国家を「ドムス複合体」と呼ぶのかがわかる。そこでは人間が野生動物を家畜化するだけでなく、人間まで「家畜化」されるのだ。

一般に「自己家畜化」とは、旧石器時代の人類が、小さな共同体で濃密な社会生活を営むなかで徐々に暴力性を低め、向社会的になっていったことをいうが、スコットはその「家畜化」が農耕と国家によって加速したとする。

これはきわめて刺激的な説だが、「ヒトが最初に農業を採用してからまだ240世代しか経過していない。農業が広まってからだと、せいぜい160世代にしかならない」との理由で、遺伝的な変異が起きたかどうかについては留保している。

穀物と徴税

初期の都市国家は疫病が蔓延し、奴隷を駆り集めて人口減を補い、高位のひとびとを除けば住民の大半は過酷な農作業に従事していた。それに対して狩猟採集民は「物質的に安楽で、自由で、健康的」な暮らしをしていた。

だったらなぜ、ひとびとは都市で暮らしたのか? 「それは閉じ込められていたからだ」というのがスコットの答えだ。敷地を囲む壁は、外部の「野蛮人」の侵入を防ぐと同時に、内部の住民を逃亡させないためのものだった。

ベルリンの壁を考えれば、壁にこのような機能があるのはわかるが、「壁=侵入者を防ぐ」という常識にとらわれていると、この単純な事実に気づけない。これはスコットの慧眼で、中国の万里の長城も、その本来の目的(の一部)は、農民が域外に逃れるのを防ぐことだったかもしれない。

さらに国家には、伝染病に匹敵する「疫病」があった。それが「税」だ。

スコットは、国家が税を徴収するには「計算」できなくてはならないとする。そのため、税の対象は計量可能な食物になる。

タピオカの原料となるキャッサバは世界じゅうの熱帯で栽培されるイモ類で、栽培がかんたんで栄養価が高い(ただし食用には毒抜きが必要になる)。それ以外にもヤマノイモやタロイモなど食用に適した作物がたくさんあるが、そのなかでなぜ穀物(コムギ、オオムギ、イネ)が集中的に植えられたのだろうか。穀物からつくられる食べ物(パンや米、麺)が美味しいからではない。「集中的な生産、税額査定、収奪、地籍調査、保存、配給」などの税の条件を満たすからだ。

キャッサバは地中で育ち、ほとんど世話はいらないし、隠すのも容易で1年で成熟する。地中に放っておいても腐らないので、向こう2年は食べられる(収穫時期がない)。それに対して穀物は毎年1回の収穫時期が決まっていて、計量と持ち運びが容易なので、税吏は収穫時期に農地を訪れて課税するだけでいい。穀物のこの利点を「発見」したからこそ、国家が成立したのだ。

スコットは、国家とは「再生と繁殖」を管理するために奴隷、臣民、女性などを文明によって「家畜化」するシステムだとする。国家を否定する「アナキスト」のスコットが「反穀物」な理由がこれでわかるだろう。穀物がなければ国家は存在できなかったのだから、人類が「エデンの園」から追放される悲劇も起きなかったのだ。

初期の国家は脆弱で、戦争や疫病だけでなく、集中的な灌漑農業 森林破壊による洪水、土壌の塩類化などで穀物の収量が低下し、かんたんに崩壊した。そうなると文明のない「暗黒時代」になるが、じつはこの時期にひとびとの福祉が向上していた形跡がある。国家や文明のない方が、ひとびとは幸福だったのだ。

明確な国家覇権の時代の始まりを紀元1600年頃(大航海時代の始まり)とすれば、国家が支配してきたのは人類の歴史のごく一部(「最後の1パーセントのうちの、そのまた最後の10分の2」)にすぎない。世界の大半では、国家はその最盛期ですら季節限定の制度だった。「国家」のなかで生きるのが当たり前になった私たちは、文字や遺跡などの歴史資料によって「国家」をあまりに過大評価し、「非国家」を極端に過少評価しているのだ。

もうひとつ興味深いのは、国家と「野蛮人(国家の周辺で暮らす遊牧民など)」との関係だ。「定住と町と国家からなる文明世界」と「移動性で分散性の狩猟民、採集民、遊牧民からなる原始世界」という二元論は「根本的に間違っている」とスコットはいう。

実際には、数千年にわたって定住と非定住は往来可能で、両者の中間にもさまざまな組み合わせの多くの選択肢があった。国家に隣接する野蛮人の多くは、事実上、「国家作りのプロセスそのものから逃れた難民」だった 命がけで国家に対して反乱を起こすよりも、逃亡した方がずっと危険が少ないのだ。

そのうえ移動性の高い遊牧民の軍の方が、国家の軍隊より優秀だった。そのため国家は、ヤクザにみかじめ料を払うように、遊牧民を金銭で懐柔するほかなかった。中国ではこれが「朝貢」として制度化され、匈奴などに賄賂を支払うことは、野蛮人(外夷)が皇帝の威光に服する行事に“粉飾”された。騎馬民族は「農業余剰物の支配をめぐって国家と競合した最強のライバル」で、文明自体が「野蛮人という自分自身の疫病」をつくりだしたのだ。

現代人は「自分がつくった動物園で暮らす唯一の種」

クリストファー・ライアンはパートナーであるカシルダ・ジェタとの共著『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』(山本規雄訳、作品社)で、「人類はもともと乱婚だった」という刺激的な主張をして注目を集めた。新著『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』(鍛原多惠子訳、河出書房新社)は、そのライアンが(スコットのいう)「エデンの園からの追放」物語をさらに先に進めたものだ。原題が“Civilized to Death The Price of Progress(死へと向かう文明化 進歩の代償)”であるように、この本では現代文明が全否定される。

ライアンにいわせると、現代人は「自分がつくった動物園で暮らす唯一の種」であり、狩猟採集民のほうが、健康、ゆたかさ、幸福度などあらゆる面においてずっと優れている。その事実を隠蔽するのが「不断の進歩の物語(NPP/Narrative to Perpetual Progress)」で、「世界はどんどんよくなっている」という楽観的な進歩主義者がハーメルンの笛吹き男よろしくひとびとを惑わしているのだという。

リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」の教祖となったが、狩猟採集民の特徴は平等主義で、「寛大さと親切心」は人間の本性だ。スティーブン・ピンカーは狩猟採集民の暴力性がきわめて高いというが、これは開拓民よって殺された原住民が含まれるなど、データの扱いに問題がある。マット・リドレーは「(一部の人は)いまだに石器時代の最悪な状態より悲惨で不自由な暮らしに甘んじている」と断言するが、石器時代の狩猟採集民は悲惨でもなければ不自由でもなく、農耕民よりも生活水準はずっと高かった……などなど。

それに対して「楽観的な進歩主義者」がほめそやす現代社会は、「人間によってデザインされ、つくられ、管理され、占有される究極の人間動物園」だ。ライアンは、私たちがどれほど悲惨な人生を送っているか(身体を病み、こころを病み、幸福から見放されている)の事例をこれでもかというくらいに並べ立てる。

「先史時代(狩猟採集民)の再評価」は現代社会批判の新しいトレンドで、なるほどと思う指摘も多いが、「狩猟採集民の世界は素晴らしい」と単純にいうことはできない。

現代社会では、生きづらさを抱える子どもたちが増えている。それに対して狩猟採集民の子どもは、大人たちから大切に育てられ、共同体のなかで居場所を与えられる。これはたしかに素晴らしいが、それには条件がある。ライアンはそのことを率直に書いているので、その部分を引用してみよう。

現代社会では、愛されず望まれない子どもたちも生き延びる。それは一見良いことにも思える。だが(人類学者のサラ・)ハーディーは、テクノロジーの発達によって「子どもは母親や他の養育者との絶え間ない触れ合いから切り離され」、農耕後の社会では祖先の環境では生き延びることができなかった大勢の男女が成人すると論じる。これらの人びとが生き延びるために、世界は「ありとあらゆる虐待」を生き抜いた「哀れな浮浪児の群れ」や「難民キャンプの孤児」にあふれている。

狩猟採集民の子どもが共同体から愛されるのは、愛される子どもだけしか残されないからなのだ。

この本の最後でライアンは、ホモ・サピエンスの未来として、エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』で論じた「悲嘆の五段階説」に依拠して、以下の3つの可能性をあげる。

  1. 「否認」と「怒り」 経済、生態系、政治の崩壊によるハルマゲドン。ただし自然災害(人為的災害も)は、それを生き延びた被害者を抑圧的な日常から解放するかもしれない。災害は「物理的には地獄かもしれないが、一時的とはいえ一種の社会ユートピアを形成する」のだ(災害ユートピア)。あえていえば映画『マッドマックス』のような世界だろうか。
  2. 「取引」と「抑うつ」 テクノロジーによる漸進的な問題の解決。人間は機械(コンピュータ)と融合し、メモリーの中だけの存在になる。これはSFの世界で、レイ・カーツワイルはシンギュラリティによってそれが現実になるとする。
  3. 「受容」 狩猟採集民的な思考を戦略的に現代生活に持ち込む。ここでライアンが取り上げるのが、サイケデリック(幻覚剤)と神秘体験の効用だ。これもまた最近のトレンドになっているようだ。

サイケデリックの復興についてはマイケル・ポーランの『幻覚剤は役に立つのか』 (宮﨑真紀訳、亜紀書房)に詳しいので、合わせて読まれたい。

禁・無断掲載

「バカと無知の壁」を乗り越えて(『バカと無知』あとがき)

新潮新書『バカと無知 人間、この不都合な生きもの』のあとがき「「バカと無知の壁」を乗り越えて」を、出版社の許可を得て掲載します。本日発売です。書店さんで見かけたら手に取ってみてください。

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SNSには陰謀論が渦巻いている。そのなかには、世界は「闇の政府(ディープステイト)」に支配されているとか、新型コロナのワクチンを接種するとマイクロチップを埋め込まれるというような荒唐無稽なものもある。

ひとびとが誤解しているのは、これをなにか異常な事態だと思っていることだ。そうではなくて、ヒトの本性(脳の設計)を考えれば、世界を陰謀論(進化的合理性)で解釈するのが当たり前で、それにもかかわらず理性や科学(論理的合理性)によって社会が運営されている方が驚くべきことなのだ。

なぜ脳が陰謀論的に考えるかというと、現実が陰謀で満ち溢れているからだ。数十万年前に人類の祖先が高い知能をもつようになってから、誰もが濃密な共同体のなかで、他者に対して陰謀を仕掛けると同時に、他者の陰謀に脅かされてきた。人間にとっての最大の脅威は、むかしもいまも、天変地異や捕食動物ではなく、自分と同じように高い知能をもつ生き物に囲まれていることなのだ。

ヒトは徹底的に社会化された動物なので、共同体を離れて一人で生きていくことはできない。このようにして、弱者に共感して支援する、仲間のために自分を犠牲にする、あるいは共同体の誇りをかけて戦うというような向社会性を進化させてきた。

だがその一方で、共同体のたんなる使い捨ての部品では、性愛競争に勝ち残ってパートナーを得、子孫(利己的な遺伝子)を後世に残すことができない。生存のためには他者と協働しなければならないが、生殖のためには他者を押しのけなければならない。これが、数十万年前から人類が直面してきた究極の矛盾(トレードオフ)だ。

その結果わたしたちは、徒党を組んで敵と対抗する一方で、表向きは協力するふりをしながら裏では足を引っ張って、仲間を陥れて自分のステイタスを上げるという複雑な戦略を駆使するようになった。ヒトの脳は哺乳類のなかでも異常に発達しているが、これは相手をだまそうとしつつ、相手にだまされまいとする「進化の軍拡競争」の結果だと考えられている(社会脳仮説)。

誰に陰謀を仕掛けられるかわからない社会では、脳は陰謀に適応するように進化したにちがいない。このようにしてヒトは、あらゆることを陰謀論で解釈するようになった。現代社会が「異常」だとしたら、それはSNSなどのテクノロジーによって、陰謀論が瞬く間に増幅されて世界中に拡散するようになったことだろう。

陰謀論的な世界では、ひとびとはみな陰謀に脅えており、だからこそ陰謀はもっとも不道徳な行為になるはずだ。狩猟採集社会では、他者に陰謀を企んでいることが暴露されると、それは黒魔術と見なされ、ただちに社会的な死(ときには現実の死)を招いた。

だとすれば、陰謀論を唱えるひとは、それが万人のための道徳的に正しい行為であることをなんとしてでも示さなくてはならない。「反ワクチン」派が典型だが、批判されればされるほど〝正義〟を振りかざすようになるのはこれが理由だろう。

進化心理学では、知能の目的は自己正当化だとされる。わたしたちは(無意識のうちに)自分の主張=物語を一貫させようとしている。こうして賢いひとほど陰謀論にはまると取り返しがつかなくなるのだが、これはたんなる知識の欠如ではない。道徳的に誤っていることは、共同体のなかでのステイタスを大きく傷つけ、自分の物語(アイデンティティ)を崩壊させるのだ。

ひとはステイタス=自尊心を守るためなら死に物狂いになるから、いくらでも自分を正当化する理屈を思いつく。これが「見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く」ことで、ジュリアス・シーザーの時代から人間のこうした本性は知られていた。

いったん「世界はこうあるべきだ」という強い信念をもつと、それに合わせて現実が歪曲していく。これは一部の陰謀論者だけでなく、SNSを見ていれば、右や左の〝識者〟にもよくある特徴だとわかるだろう。共通するのは、自分(たち)を善として、なんらかの悪を告発する善悪二元論だ。

自分が「絶対的な善」ならば、自分を批判する者は「絶対的な悪」以外にない。このようにして、SNSで徒党を組み、敵対する集団に罵詈雑言を浴びせる無間地獄に陥っていく。――これは「アイデンティティ政治」と呼ばれる。

当然のことながら、ふつうのひとたちはこんなことにはかかわろうとしない。人生に投入できる資源は有限で、その大半は仕事や家族・恋人との関係に使われるからだ。ネットニュースに頻繁にコメントするのは昼間からワイドショーを見ているひとたちだが、それは平均とはかなり異質な母集団だ。

まともなひとは、なんの「生産性」もないSNSの論争(罵詈雑言の応酬)から真っ先に退場していくだろう。このようにして、まともでないひとたちだけが残っていく。そう考えれば、いま起きていることがうまく説明できるだろう。解決にはならないだろうが。

人間というのはものすごくやっかいな存在だが、それでも希望がないわけではない。一人でも多くのひとが、本書で述べたような「人間の本性=バカと無知の壁」に気づき、自らの言動に多少の注意を払うようになれば、もうすこし生きやすい社会になるのではないだろうか。自戒の念をこめて記しておきたい。

本書は2021年8月から22年6月にかけて『週刊新潮』に連載した「人間、この不都合な生きもの」に若干の加筆・修正のうえ、付論2編を加えた。

2022年9月 橘 玲

孤独な男がジョーカーに変貌するとき(『バカと無知』まえがき)

新潮新書『バカと無知 人間、この不都合な生きもの』のまえがき「孤独な男がジョーカーに変貌するとき」を、出版社の許可を得て掲載します。発売日は明日ですが、大手書店さんなどにはすでに並んでいると思います。見かけたら手に取ってみてください。

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安倍元首相を選挙演説中に銃撃し、死亡させた41歳の男は、母親が統一教会(現、世界平和統一家庭連合)にはまり、多額の献金で家庭が崩壊したことを恨んでいたとされる。教団が主催した集会に元首相が寄せたビデオメッセージを見たことで、「日本で(この宗教を)広めたと思っていた」「絶対に殺さなければいけないと確信した」などと供述しているという。

事件の解明は今後の捜査・裁判を待たなければならないとして、ひとつだけ確実なことがある。それは男に、自分が「被害者/善」であり、統一教会と、それを象徴する(と思っていた)元首相が「加害者/悪」だという絶対的な確信があったことだ。そうでなければ、迷いなく背後から銃弾を浴びせるようなことができるわけがない。

脳のデフォルトモード・ネットワーク(DMN)は、2001年に神経学者マーカス・レイクルによって偶然に発見された。脳の活動を計測するfMRI検査では、装置のなかに横たわった被験者の「安静時」の神経活動を標準データとして記録するが、なにかに注意を向けているわけでもなく、特定の精神的タスクがない、つまり脳の「デフォルトモード」のときに活発化する部位があることにレイクルは気づいた。それは、「ぼーっとしている」ときの脳の活動だ。

デフォルトモード・ネットワークに対応するのが、外界から注意喚起されるたびに活性化するアテンショナル(注意)・ネットワークだ。この2つのネットワークはシーソーのような関係にあり、一方が活性化しているときは他方が沈黙する。

DMNの状態(ぼーっとしている)では、わたしたちはなかば無意識に、「デートに誘ったら応じてもらえるだろうか」「仕事が遅れていることを上司に報告すべきだろうか」などと、さまざまなシミュレーション(もしXならYになる/Yをする)をしている。近年の脳科学は、脳が予測と修正を繰り返す高機能のシミュレーション・マシンであることを明らかにしつつある。

このシミュレーションは、過去や未来へも延長される。「もしあのときあんなことをしなかったら、こんなことにはならなかったのに」という過去のシミュレーションは「後悔」と呼ばれ、それが「反省」や「学習」の土台になる。「もしこんなことが起きたらどうなるだろうか」という未来のシミュレーションは、「希望」あるいは「絶望」だ。

そしてここが重要なのだが、「過去」「現在」「未来」のシミュレーションをばらばらに行なっているだけでは、ほとんど役に立たない。反省や学習のためにも、希望をもつためにも、過去から未来へと一貫する「主体(わたし)」が必要なのだ。このようにして、より効率的なシミュレーションのために「自己=意識」が進化した。

脳は「わたし(過去から未来へと一貫するシミュレーション)」を物語として構成する。これは「自伝的記憶」と呼ばれるが、そこではわたしたちはみな、物語の主人公(ヒーロー/ヒロイン)だ。

誰もが「わたし」という物語を生きている。だがここにはいくつかの制約があり、どんな物語でも好き勝手に創造できるわけではない。

一つは「物理的な制約」で、アニメや映画(あるいはVR)ならともかく、現実世界では空を飛ぶことはできない。

二つめは「資源の制約」で、「お金がなくて欲しいものが買えない」というのがもっともわかりやすいが、近年では「(一日は24時間しかないという)時間の制約」が強く意識されるようになってきた。最近の若者はコスパ(コスト・パフォーマンス)ならぬタイパ(タイム・パフォーマンス)を重視し、映画を2倍速で観るようだが、これは投入できる時間資源に対して処理すべきコンテンツが多すぎるからだろう。

だがもっとも大きな影響力をもつのは「社会的な制約」だ。あなたはつねに自分の人生の主役だが、そこには他の出演者や観客がいる。そしてこのひとたちもまた、自分の人生の物語のなかでは唯一無二の主役なのだ。

ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれているから、わたしたちはこの社会的な制約のなかで、なんとかして「自分らしく」生きられる物語をつくっていくしかない。だがこうした制約がなくなってしまえば、物語は大きく歪んでいくだろう。

元首相への銃撃事件のあと、すべてのメディアが容疑者の過去を追ったが、高校を卒業して自衛隊に入隊した以外のことはほとんどわかっていない。海上自衛隊を退職したあとは、ファイナンシャルプランナーや宅地建物取引士などの資格を取り、複数の会社で派遣社員やアルバイトとして働いていたとされるが、その間のことを証言する友人などがまったくいないのだ。

男が最後に働いていたのは京都府内の倉庫だが、同僚と会話することもなく、昼食は車のなかで一人で弁当を食べていたという。母親が入信した統一教会は、強引な勧誘や霊感商法、多額の献金の強要が1970年代から社会問題になっており、脱会者や信者の家族を支援する団体も複数あるが、そうした活動に参加した形跡もない。男はたった一人で、家賃3万5000円の1Kのアパートで「復讐」のための銃や爆発物をつくっていたのだ。

2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人も孤独な派遣社員だったが、それでも親身に相談に乗ってくれる故郷の友人や年上の女性がいた。元首相を銃撃した男には、いまのところ、誰かとかかわった記録がまったくない。その人生をひと言でいえば、「絶対的な孤独」ではないだろうか。

2019年の映画『ジョーカー』では、「自分はまるで存在していないかのようだ」と繰り返し訴える孤独な青年アーサーが、狂気と妄想にとらわれてジョーカーへと変貌していく様子が描かれる。

男は公開直後にこの映画を観て、〈ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない。〉と自分のツイッターにコメントしている。それ以外の投稿を見ても、自らの境遇をジョーカー(アーサー)と重ね合わせていたことは明らかだ。

この映画についての非公開のユーザーとの会話では、〈ええ、親に騙され、学歴と全財産を失い、恋人に捨てられ、彷徨い続け幾星霜、それでも親を殺せば喜ぶ奴らがいるから殺せない、それがオレですよ。〉と自分のことを語っている。これが男の「真摯な絶望」だという見方は、さほど間違ってはいないだろう。

自衛隊を退職したあと、頑張って資格を取ったにもかかわらず、仕事もうまくいかず、恋人にも捨てられた。40歳を前にして、社会からも性愛からも排除されてしまった。この現実を突きつけられることは、高い知能と能力をもつ男には耐えられない挫折だったのではないか。

〝絶対的な孤独〟のなかで、なぜ「まるで存在しないかのよう」になったのかを考えていくうちに、人生をさかのぼって教団が悪魔化されていった。自分が純粋な被害者(善)だという物語をつくろうとしたとき、教団とかかわりがあった(とされる)この国でもっとも有名な政治家が、絶対的な「悪」として立ち上がってきたのではないだろうか。

そしていったんこの物語に支配されてしまうと、そこから抜け出すことは不可能だったのだろう。なぜなら、その物語こそが彼のすべてだったのだから。

本書は、このような「やっかい」な存在であるわたしたちの話だ。