「あなたを人種や性別ではなく、個人として評価します」はマイクロアグレッションという差別

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年3月10日公開の「レイシズムを理由とした犯罪件数は大きく減少しているが、リベラルな白人による善意の「無意識の差別」が増加している」です(一部改変)。

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「奇妙な果実(Strange Fruit)」は、リンチで殺され、木に吊るされた黒人の死体のことで、1940年代にビリィ・ホリデイが歌ってアメリカ社会に大きな影響を与えた。2022年のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた映画『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』がこの名曲をテーマにしているように、80年以上経った現在でも、人種差別は肌の色のちがいを理由とした暴力的な抑圧だと思われている。

これに対しては、「黒人を殺して木に吊るすような事件は半世紀以上、アメリカでは起きていないではないか」という反論がある。スティーブン・ピンカーなどによる「合理的な楽観主義」によれば、さまざまな問題がありつつも、世界は「リベラル化」の大きな潮流にあり、ひとびとは人種のちがいに徐々に寛容になってきているのだ。

リベラルな白人による善意の「無意識の差別」

大著『暴力の人類史』でピンカーが膨大なデータを渉猟して示したように、アメリカにおいて、レイシズムを理由とした犯罪件数が大きく減少していることは間違いない。問題は、これが人種差別が解消しつつあることを示しているのか、それとも差別の質が変わっているのかで大きく意見が分かれることだ。

後者の立場で強力な主張をするのが、デラルド・ウィン・スーの『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』(マイクロアグレッション研究会訳、明石書店)だ。スーは中国系アメリカ人で、コロンビア大学ティーチャーズカレッジおよびソーシャルワークスクールのカウンセリング/臨床心理学部教授。マイノリティの心理学や多文化心理学の先駆的な研究で知られているという。そのスーは本書で、次のような主張をする。

有色人種にとっての最大の脅威は白人至上主義者たちやクー・クラックス・クランのメンバー、あるいはスキンヘッドではなく、善良で、平等主義の価値観を持ち、自身の道徳性を信じ、公平できちんとした人物であり、けっして意識的に差別など働かないという自己認識を持った人々である。

マイクロアグレッション(microaggression)とは、リベラルな白人による善意の「無意識の差別」であり、それは「奇妙な果実」で歌われたような露骨な人種差別よりもさらに有色人種(あるいは女性、LGBTなどマイノリティ)を傷つけるのだという。

マイクロアグレッションは、「私はもううんざりだ」という詩によく表われている。その冒頭部分で、アフリカ系アメリカ人の詩人はこう訴える。

「私はもううんざりだ」
大したことない白人たちが次々と権威や責任のある地位に昇進していくのを見ることに。
私がエレベーターに乗り込んだ時、白人女性が急いで出て行ったけれど、本当にここで降りるつもりだったのだろうかと、思い巡らせることに。
「黒人っぽくない話し方だね」と言われることに。
白人たちとやりとりする時、「人種など関係ない(don’t see color)と言われることに。
人種についての会話になったときに、水を打ったように静かになることに。
私が「アフリカ系アメリカ人」と呼ばれることを望んでいる理由を説明しなければならないことに。
ものごとはよくなるのだろうかと、思い巡らせることに。(後略)

マイノリティが日常的に感じているささいな「アグレッションaggression(攻撃、侵害、敵意)」は、それが曖昧であるからこそ、受け手の精神的なエネルギーを奪い、自尊心を低め、適応しようと努めることや問題を解決するためのエネルギーを枯渇させ、心理的・身体的なトラウマになるのだという。

3つのマイクロアグレッション

スーは、マイクロアグレッションを「アサルトassault」「インサルトinsult」「インバエリデーションinvalidation」の3つに分けて説明している。まずはそれを簡単に説明しておこう。

●マイクロアサルトmicroassault
「アサルトassault」は法律用語では「暴行」「脅迫」「強姦」などで、身体的・言語的な暴力をいう。「マイクロアサルト」はそれを日常化したもので、「環境に埋め込まれた(意識的かつ意図的な)サインや言語、または行為によって、周縁化された人々に伝えられる人種、ジェンダー、性的指向に対する偏った態度や信念、行為」と定義される。

具体的には、「KKKのずきんやナチのかぎ十字、首吊り縄、南部同盟の旗といったものを飾ったり、十字架を燃やしたりすること、男性の経営者のオフィスにプレイボーイのバニー写真を吊るしたりすること」で、違法とはいえないものの、差別や偏見の意図が誰にでも明示的にわかる言動だ。日本においても、「差別」が問題になる場合、ほとんどはこうしたケースだろう。

だがスーは、マイクロアサルトの「露骨なレイシズム」は「その意図が明確なため、周縁化された人々にとっては曖昧なものよりも対応が容易である」という。なぜなら、それが差別かそうでないのかを判断するための心理的なエネルギーを浪費しなくてもいいから。

●マイクロインサルトmicroinsult
「インサルトinsult」は相手を侮辱するような無礼な言動のことで、「マイクロインサルト」は「ステレオタイプや無礼さ、無神経さを伝えるコミュニケーション」と定義される。かすかな無視のようなもので表現され、加害者の意識的な自覚は伴わないことが一般的で、以下のような例が挙げられている。

・知的能力を出自に帰する
「あなたは、あなたの人種にとっての誇りですね」オバマ元大統領のような秀でた黒人に向けられるこうした賞賛には、「有色人種は一般的に白人ほど知的でない」という侮辱的なメタコミュニケーションが含まれている。

・二級市民
特定のグループは価値が低く、重要でなく、丁重に扱われることに値せず、差別的な扱いを受けても仕方がない存在であるという、無意識のメッセージ。「レストランでは、黒人の常連客が、ウェイターやウェイトレスが絶えず出入りする、厨房のドア近くにある小さいテーブルに座らされる」「女性の内科医が緊急治療室で、男性の患者から看護師と間違われる」など。

・異文化の価値観やコミュニケーションスタイルを病的なものとして扱う
マジョリティの文化に同化や変容を強いる。ラテン系の学生に「君が背負っている文化を教室に持ち込むのをやめなよ」といったり、黒人に向かって「どうして君はそんなに声が大きくて、感情的で、活発なんだい?」と訊くことは、白人の文化に同化することを暗に要求している。

・犯罪者もしくは犯罪者予備軍と決めてかかる
特定の有色人種は危険で犯罪者予備軍で、法を犯しそうで、反社会的であるとの信念。「白人女性がラテン系アメリカ人を見てハンドバッグを持つ力を強める」「白人男性が歩道でアフリカ系アメリカ人の集団とすれ違う時に財布を確認する」「店員が小切手を現金に引き換える時に黒人に対して白人よりも多くの身分証明書を要求する」など。

・性的なモノ扱い
女性が男性にとって性的に思い通りに扱うことができたり役立ったりする「モノ」や所有物に変えられるプロセス。「アジア系女性を性的な対象、家事労働者、そして芸者のようなエキゾチックさの象徴としての役割に従属させる」など。フェミニズムの価値観やフェミニズム運動の反動として、白人男性はしばしば、「アジア系アメリカ人女性は女らしくて従順」という魅力を感じているとされる。

・異常者扱い
個人の人種、ジェンダー、性的指向を異常で、逸脱していて、病的だと認識すること。「ゲイ男性が内科検診に行くと初診の内科医からHIVエイズと疑われる」など、LGBTのグループが頻繁に経験する。

●マイクロインバリデーションmicroinvalidation
「バリデーションvalidation」は「検証・証明・承認・妥当性確認」のことで、「インバリデーションinvalidation」はこれらを否認すること。「有色人種、女性、LGBTといった特定のグループの人々の心の動きや感情、経験的なリアリティなどを無視したり、否定したり、無価値なものと扱ったりするコミュニケーションや環境の中のサイン」と定義され、マイノリティとしてのアイデンティティを否定するような言動をいう。3種類のマイクロアグレッションのなかで、これがもっともダメージが大きくなる可能性があるとスーはいう。

・よそもの扱い
いつまでたってもよそ者と見なされることや、生まれ育った国なのに外国人扱いすること。アジア系アメリカ人が「英語を上手に」話すことを褒められることや、どこで生まれたかしつこく訊ねられるなど。

・人種、ジェンダー、性的指向を見ない
人種やジェンダー、性的指向のちがいについて、認めたり、目を向けたりしたがならいこと。「君を見るときにね、僕は君の人種など見ていないんだよ」「たったひとつの人種だけがある。それは、人類という人種さ」「私たちはみんなアメリカ人だよね」など。こうした態度は「カラーブラインド」といわれる。

・個人がもつレイシムズ/性差別主義/異性愛主義の否認
「同性愛嫌悪ではないよ、ゲイの友達がいるんだもの」「異人種間結婚にはまったく反対しないよ、ただ子どもたちのことが心配なだけだ」「雇用主として、すべての男性と女性を平等に扱います」などの一見リベラルな言葉には、「異性愛主義に毒されるはずがない」「異人種間で関係を結ぶことに躊躇する理由はただ子どもたちの心配をしているだけであり、決して個人的な偏見によるものではない」「女性差別などするわけがない」という隠れたメッセージが埋め込まれている。これらは、相手の人種的偏見などにまつわる個人的経験を否認することになる。

・メリトクラシー信仰
「あらゆる人はこの社会で等しいチャンスを与えられている」「最良のものが頂点に昇る」「充分に一生懸命やれば、誰でも成功できる」などのメリトクラシー(知能と学歴・職歴による専制)は、人種やジェンダー、性的指向は人生の成功になんら影響しないとする。ここから、「アファーマティブアクション(積極的差別是正措置)は逆レイシズムだ」との主張が生まれる。

メリトクラシーによれば、成功は個人的な努力が報われたことの証しであり、当然のことながら成功者に広く支持されている。だがこの論理は、社会的・経済的に脱落してしまったひとに、(充分に努力していない、など)なんらかの欠陥があるという責任を負わせることになる。

「加害者」であることから逃れるリベラルな白人

マイクロアグレッションのこれらの定義は、アメリカ社会で有色人種(アジア系)として暮らすスーの実体験を背景にしており、日本でも国籍や身分、ジェンダーや性的指向を理由に日常的に同様の体験をしているひとはたくさんいるだろう。その意味で強い説得力があるものの、マイノリティの多様性に対して、マジョリティを「白人/男性/異性愛者」とパターン化しているようにも思える。

現実には、マジョリティとされる白人のあいだにも大きな多様性(分断)がある。「ホワイトトラッシュ(白いゴミ)」と蔑まれ、失業によって誇りを失い、アルコール・ドラッグ・自殺で「絶望死」しているホワイト・ワーキングクラスを「アメリカ社会の主流層」とすることには無理がある。あるいは、外見などを理由に性愛から排除されている若い白人男性(インセル/involuntary celibate非自発的禁欲主義者)は「マジョリティ」だろうか。

実際、スーの議論に対して「白人=加害者/有色人種=被害者」という単純な善悪二元だとの批判があり、「(白人/黒人の)どちらの参加者も単なる加害者ではなく……意味深いありようで、どちらも犠牲者だ」とか、「犠牲者の哲学」に代わって、「人間のポジティブな本質、クライエント自身のもつ強み、可能性のある解決策に焦点を当てるべきだ」などと主張する識者もいるようだ。だがスーはこうした批判を詳細に検討することなく、「レイシムズに対する責任を回避し、薄めるものであり、ばかばかしい主張だ」の一行で済ませている。

こうした強硬な態度は、「リベラルな白人は、さまざまな巧妙な方法で自らの加害者性を否定し、加害責任から逃れようとしている」という不信感から生じている。スーによれば、アメリカの人種問題で、白人は4つの「恐怖」を抱え、問題そのものを隠蔽しようとしている。

1)レイシストだと思われることへの恐怖
アメリカ社会においては、ひとびとは無意識のうちに人種でグループ分けしていることがさまざまな研究で明らかになっているが、それにもかかわらず、「人種的差異に気づかない振りをすることによって社会的交流において偏見を持たないと見せようとする」戦略的カラーブライドが広く行なわれている。

アメリカの(リベラルな)白人は、「自分たちの言うこと・することすべてがレイシスト」と思われることを恐れていて、「人種に関わる主題に対する忌避」や「人種的差異に気づかない振り・誤魔化し」によって自分を防衛しようとしている。

2)自身のレイシズムを認めることへの恐怖
リベラルな白人アメリカ人にとって、「自身がレイシストである、あるいは、少なくとも偏見に基づく態度をとっていると認識することは恐ろしいだけでなく、それが人間の良識の核となる部分を撃つため動揺もさせる」。その結果、「潜在的な人種的偏見のわずかなほのめかしに対してすら防衛的かつ怒りを伴う反応を示す」ようになる。

3)白人特権を認めることへの恐怖
リベラルな白人は、有色人種が偏見と差別に苦しみ「不利」を被っていることは認めるかもしれないが、「自分たちが肌の色によって自動的に「利益」を得ている」という可能性=白人特権を受け入れることに抵抗する。ひとつの理由は、「白人特権は白人至上主義の範囲の外部には存在できない」からであり、もうひとつは「人生における成功が自身の努力によるものではなくなってしまう」からだ。――これは「男性特権」「異性愛特権」も同じ。

4)レイシズムを終わらせる個人としての責任を負うことへの恐怖
白人を対象にした研究では、被験者の白人は、レイシズムの出来事に対して(1)人種差別的行動、言葉、および出来事をはっきりと認識し、(2)そのような状況を苦痛に思うことを示し、(3)その人物に対して責任ある行動をとる(レイシストを拒絶する)と述べたが、実際には、事前の予測より苦痛を感じないどころか、なんの行動も起こそうとしなかった。これを受けてスーは、「究極の白人特権は自身の生における特権的な位置を認めつつも、それに対して何もしないでいられることかもしれない」と述べる。

アメリカの大学で人種問題について議論すると、白人の学生は「私を責めないで。私の親は奴隷を所有していなかった」「私を非難しないで。私は、アメリカ先住民から土地を奪っていない」などと白人特権を否定しようとするが、こうした態度が「白人の脆弱性(ホワイト・フラジリティ)」と呼ばれていることはすでに述べた。

[参考記事]
BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

カラーブラインドはマイクロアグレッションそのもの

日本でも、差別を解消する有力な方法として「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」が推奨されているが、スーによれば、カラーブライドは「有色人種の人々に対して最も頻繁に伝えられるマイクロインバリデーションの一つ」で、その目的は、「人種に関する話題を議論や会話に中に持ち込まないよう要求する」ことと、「有色人種は同化したり変容したりすべきであると表明する」ことだ。

人種やジェンダーなどの「ちがい」を意識的に考慮しないようにする「ブラインド」戦略は、人種差別主義者や性差別主義者と見られないための「巧妙な防衛策」であり、人種やジェンダーにまつわるマイノリティの経験を否定している。

リベラルは「ブラインド」戦略を巧妙に駆使することで、自分たちの権力と特権を否認し、個人の利益が特定の特権集団の属することからもたらさる事実を否認し、レイシズムに対する責任を否認し、レイシズムに立ち向かって行動することの必要性を否認しようとしているのだとスーはいう。

アメリカの右派・保守派は、知能やパーソナリティにおいて、人種(ヒト集団)のあいだには遺伝的・生得的なちがいがあるして、「人種問題」はイデオロギー対立ではなく科学的事実の問題だと主張している。

それに対してリベラルは、この「遺伝モデル」がレイシズムそのものだとして、白人と黒人・ヒスパニックのあいだの収入や大学進学率のちがいは「文化」によるものだと反論している。ヒト集団のあいだに遺伝的・生得的なちがいはないものの、一部の有色人種は文化的に剥奪されているため、社会的・経済的に成功できないのだという。

だがスーはこの「文化的剥奪理論」を、「レイシムズや性差別主義の生物学的説明と闘う手段として、善意の白人教師によって提唱されたが、非難の矛先を遺伝学からより受け入れられるもの、つまり文化に移すことによって、われわれの理解を悪化させたにすぎない」と全否定している。

「遺伝的に劣っているのではなく、文化的に劣っているのだ」というリベラルの主張は、「中流階級の価値観からの逸脱とその優越性を示す」隠れたマイクロアグレッションそのものなのだ。

こうしたスーの主張はどれも説得力があると思うが、次のような矛盾が避けられないのではないか。

マイクロインサルトは、「黒人だから」「女だから」など、マイノリティをステレオタイプで見ることだ。それに対してマイクロインバリデーションでは、カラーブラインドやジェンダーブラインドなど、マイノリティの属性を見ない振りをすることの偽善性が批判された。しかしそうなると、「加害者」であるマジョリティはどうすればいいのだろうか。

この疑問についてスーは、邦訳で400ページを超える本のなかで、以下の7つの対処法を箇条書きで挙げているだけだ。

1 人種、文化、民族、ジェンダー、そして性的指向において自身と異なる人々と親密な関係を持つこと
2 競争的ではなく協力的な関係で協働すること
3 個人的な目標ではなく共通の目標(上位の目標)を共有すること
4 ステレオタイプや誤った情報ではなく正確な情報を交換し学ぶこと
5 他の集団と不平等ないし不均衡な地位に基づく関係ではなく平等な地位に基づく関係を共有すること
6 リーダーおよび権限ある人物を集団の調和と福祉に対する協力者として持つこと
7 すべての人類同胞との連帯感や精神的つながりを感じること

しかし、これらが容易にできないからこそ、「善意のリベラル」がマイクロアグレッションを行なうことになるのではないだろうか。もちろんスーは、こうした読者の疑問に気づいていて、「(問題は)いかにしてそれらをこの社会で達成するかにある」と認める。

とはいえ、これについてスーは、アインシュタインの「この世界は生きるのにあまりに危険すぎる。悪いことをする人がいるためではなく、ただ座って傍観する人がいるためだ」という言葉を引用するだけだ。はたしてこの警句で、社会に深く埋め込まれたマイクロアグレッションに対処できるのだろうか。

禁・無断転載

同性婚でなぜ「社会が変わってしまう」のか? 週刊プレイボーイ連載(553)

首相秘書官が記者団に対して、「同性のカップルが隣に住んでいるのはちょっと嫌だ」「同性婚を導入したら国を捨てる人が出てくる」「(他の)秘書官も皆そう思っている」などと発言したと報じられ、更迭されました。この秘書官は首相の演説のスピーチライターを務め、「将来の経産次官候補」ともいわれていたことから、岸田首相は釈明に追われています。

「失言」のきっかけは、首相が国会で、同性婚制度について「社会が変わってしまう課題」と述べて批判されたことでした。秘書官はこの発言を擁護しようとして、「あなたたちだって、本音では嫌だと思ってるんでしょ」と述べたようです。

同性愛者らに対して「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がない」と雑誌に書いた衆議院議員が総務省の政務官に登用されるなど、「自民党の保守派議員は性的マイノリティに差別意識をもっているのではないか」とこれまでも批判されてきました。秘書官の発言はその懸念を裏づけたわけですが、深刻なのは、その後の会見でも本人はなにが問題なのか理解できていないことです(記者に対して「(私は)どっちかと言うと差別のない人間なので」などと繰り返し述べています)。

世界の価値観はますます「リベラル化」しており、欧米を中心に同性婚やパートナーシップの制度が整備されています。日本は5月に広島で行なわれるG7サミットの議長国ですが、このままでは欧州の首脳から人権について批判されかねません。首相は慌ててLGBT法案を議員立法で提出するよう指示しましたが、「怪我の功名」という表現が適切かは別として、この「差別発言」によって逆に差別の解消が進むかもしれません。

ただ、この問題で気になるのは、同性婚でなぜ「社会が変わってしまう」のかをメディアが(たぶん)意図的に触れないことです。

夫婦別姓や共同親権も同じですが、日本の場合、家族制度にかかわる議論にはつねに「戸籍」がからんできます。戸籍というのは、その成り立ちから明らかなように、「天皇の臣民簿」です。日本の右派・保守派は、国民が天皇の臣民として戸籍に登録されることが、日本という国のアイデンティティだと考えています。

ところが、戸籍はイエごとに「氏(うじ)」をもつため、夫婦別姓になっても異なる「氏」をひとつの戸籍に記載できません。子どもは(氏が同じ)親の戸籍に入りますが、離婚して共同親権になると、理屈のうえでは、氏が異なる親の戸籍にも子どもを記載しなければなりません(子どもは同時に2つの戸籍に登録されることになります)。

これらはいずれも、戸籍制度=天皇制の基盤を大きく揺るがせます。同性婚の場合、氏が統一できれば戸籍上は問題なさそうですが、同性がイエを構成することを受け入れられない保守派は多そうです。

このように考えれば、岸田首相の発言はまさにこの問題の本質を突いています。首相秘書官も、「君たちリベラルなメディアも、そろそろ天皇制と戸籍制度について真剣に論じるべきではないのか」とその真意を解説すれば、評価は大きく変わったことでしょう。そうした才覚のある秘書官を選べなかったことが、首相の自業自得ともいえますが。

参考:毎日新聞2月4日「更迭の荒井首相秘書官「同性婚、社会変わる」 発言要旨と詳報」
遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史 民族・血統・日本人』明石書店

『週刊プレイボーイ』2023年2月20日発売号 禁・無断転載

黒人の窮状を伝えた若手社会学者がキャンセルされるまで

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年2月18日公開の”アカデミズムのサラブレッド”で新進気鋭の社会学者だったアリス・ゴッフマンは、なぜ「キャンセル」されたのか?」です(一部改変)。

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エスノグラフィー(参与観察)は文化人類学や社会学で行なわれるフィールドワークの一種で、研究者が調査対象者と行動と共にし、同じ立場でさまざまな経験を記録する手法をいう。以前紹介したボストン大学の社会学者アシュリー・ミアーズは、元モデルという変わった経歴を活かして、ファッションモデルや有名クラブのVIPの世界に潜入してその実態を報告した。

参考:富裕層とファッションモデル ニューヨークの有名クラブの生態学

アリス・ゴッフマンは同じ社会学者で、エスノグラフィーの手法を使い、30代前半できわめて高い評価を受けた著作を発表した。ところがその後、この著作は「炎上」し、彼女は「キャンセル」されてしまう。

キャンセルカルチャーは、PC(政治的正しさ)の基準に反した者を糾弾し、社会的な地位を抹消(キャンセル)する左派(レフト)の運動で、東京オリンピック開会式をめぐる一連の騒動を見ればわかるように、その標的になるのは性差別、いじめ、人種差別などをした(と見なされる)者だ。

ところがこのケースでは、アリス・ゴッフマンはきわめてリベラルな主張をしたにもかかわらず、キャンセルの嵐に見舞われることになった。その著作は2014年の“On the Run: Fugitive Life in an American City(オン・ザ・ラン あるアメリカの都市の逃亡生活)”で、21年に『逃亡者の社会学 アメリカの都市に生きる黒人たち』(亜紀書房)として翻訳された。ちなみに“On the Run”は「逃亡中」の意味だ。

ここでは私にわかる範囲で、いったい何が起きたのかを見てみたい。

アカデミズム界のサラブレッド

その特徴ある姓で気づいたかもしれないが、アリス・ゴッフマンは「20世紀のアメリカでもっとも重要な社会学者の一人」とされるアーヴィング・ゴッフマンの娘だ。

アーヴィングは1922年にカナダで生まれ、30歳で結婚して男の子をもうけたあと、アメリカにわたって社会学者として成功し、第73代のアメリカ社会学会会長に選出された。81年に社会言語学者のジリアン・サンコフと再婚し、翌年、アリスが生まれたが、同じ年に胃がんのため60歳で死去した。

ここからわかるように、アリス・ゴッフマン(アーヴィング・ゴッフマンと区別するために、以下、アリスとする)に父の記憶はまったくない。それにもかかわらず、実父と同じ社会学者を目指したのは興味深いが、ここではフロイト的な解釈は控えておこう。

母のサンコフもアーヴィングとは再婚で、死別のあと、93年(アリスが11歳のとき)に言語学者のウィルアム・ラボフと三度目の結婚をしている。アリスの義父となるラボフも高名な学者で、ペンシルバニア大学の言語学研究所所長を務めていた。

アリスは社会言語学者の両親によって、子どものときにフィラデルフィアのイタリア人家族に預けられ、そこで方言の収集をさせられていたという。その後、彼女は義父が務めるペンシルバニア大学で社会学の博士号を取ることになる。

その家族歴から一目瞭然だが、アリスはアカデミズムの世界のサラブレッドだ。実父は誰もが知っている高名な社会学者で、義父は自分が所属する大学の実力者、母親も学者で、その将来にはわずかの障害物もないはずだった。のちの「炎上」の背景には、このあまりにも恵まれ過ぎた経歴がある。

アリスがエスノグラフィーを手掛けるきっかけはペンシルバニア大学1年生のとき、「直接観察を通じて都市生活を研究する」という課題が学生に課されたことだった。アリスは最初、ダウンタウンにある自主制作映画のレンタル店で働こうとしたが、「映画をよく知らない」という理由で雇ってもらえず、大学内のカフェテリアで働きながら従業員(そのほとんどがフィラデルフィアの貧困地域から通う黒人)を参与観察することにした。

レポートを書き終えたあと、アリスはカフェテリアのアルバイトを辞めたが、翌年の秋、そこを仕切っていた60代の黒人女性に「家庭教師を必要としているひとを知らないか」と問い合わせた。彼女は同居する娘(シングルマザー)の息子で高校1年生のレイと、息子の娘で、数ブロック離れたところでやはりシングルマザーの母親と暮らす高校1年生のアイシャという2人の孫を紹介した。こうしてアリスは、週に2~3回、ダウンタウンにある黒人居住区に家庭教師として通うようになった。

これを機にアリスは、本格的にフィラデルフィアの労働者階級の黒人たちの生活を調査することに決め、黒人地区にアパートを借りて引っ越した(地元の不動産業者は白人には貸してくれなかったため、アイシャの姉が代わりに交渉した)。その後、アイシャの14歳のいとこロニーが少年院から戻ってくると、「6番街」と名づけられた地区のストリートボーイズと知り合うようになる。彼らのリーダー格が22歳のマイクで、映画館でいちどグループデートをしたあと、アリスの面倒を見るようになる。

このときアリスは21歳で、後日、2人の関係が問題になるが、マイクは自分の物語を白人の学者に書いてもらうために、打算と興味、そして友情によってアリスを迎え入れたのだとされている。実際、アリスは身長157センチで、40代を迎えた現在の写真でも少女のように見えるので、女に不自由していなかったマイクにとって性的な対象にはなり得なかったという説明を疑う理由はない。

こうしてアリスは、黒人のストリートボーイズたちと「つるみ」ながら、6年にわたって彼らの生活を膨大なフィールドノートに記録することになる。その作業のなかで彼女が発見したキーワードが「逃亡」だ。

ストリートボーイズの「逃亡」でメディアの寵児(セレブリティ)に

黒人のストリートボーイズが「逃亡」するのは、地元の警察から指名手配されているからだが、重罪を犯して逃げ回っているわけではない。ほとんどの場合、微罪で執行猶予になったものの、裁判所が科した罰金・訴訟費用の滞納か公判期日に出廷しないこと、あるいは保護観察・仮釈放の遵守事項(禁酒や門限)に違反したために逮捕令状を出されていた。

2007年、アリスは「6番街」の18歳から30歳までの男性308人にインタビューしたが、そのうち約半数の144人が令状を出されていると答えた。さらに、146人中139人の女性が、過去3年間にパートナーや隣人、あるいは親しい男性の親族が「警察に指名手配されるか、保護観察または仮釈放中であるか、裁判にかけられているか、更生施設にいるか自宅拘禁の状態にある」と語った。

マイクは22歳から27歳までのあいだに拘置所や刑務所で約3年半を過ごした。投獄されていなかった139週のうち、87週は5つの判決が重なって保護観察か仮釈放の状態だった。35週は合わせて10の逮捕令状が出されており、5年間に少なくとも51回出廷し、そのうち47回はアリスが付き添った。

このようなことになるのは、彼らが複雑な法律問題をクリアする資源(リソース)をもっていないからだ。中流階級の白人家庭なら、子どもが警察の世話になるようなトラブルを起こしても、弁護士をつけ罰金を払って解決できるだろう。だが労働者階級の黒人の場合、小さな法律違反が積み重なって身動きとれなくなってしまうのだ。

ストリートボーイズのあいだでは、「ダーティdirty」か「クリーンclean」かが重要な問題になる。「ダーティ」は令状が出されていて、警察に呼び止められて名前を照会され、所持品検査をされると逮捕される可能性がある者、「クリーン」は警察の職務質問をうまく切り抜けられる者のことだ。

自分が「ダーティ」の場合、状況が「ホットhot」か「クールcool」かが次の問題になる。ホットな状況は、誰かが射殺されるなどの事件が起き、警察が未決令状を出された者を捜索している。そんなときは、状況が「クール」になるまでその地域には立ち入らず、事件に関わる者から距離を取らなければならない。

令状が出ていると、ファストフード店やスーパーマーケットなどで働くこともできない。いつ警官がやってきて逮捕されるかわからないからだ。その結果、ドラッグの売人になって稼ぐしかなくなり、さらに自分の立場を悪くしていく。それはまるで、罠にかかってがんじがらめになっていくようだ。

1970年以降、ひとびとが犯罪に対して「ゼロ・トレランス(容赦なし)」で対処するよう求めたことでアメリカの収監率は上昇し、2000年代までに獄中にいる者が107人に1人と、米国史上、類を見ない割合に達した。「(アメリカでは)220万人が刑務所か拘置所に投獄され、さらに480万人が保護観察か仮釈放の状態にある。近代史において、スターリン政権下のソ連の強制収容所だけが、こうした刑罰上の収監に近い水準にあった」とアリスは書く。

だがアメリカ社会で、この大量投獄が大きな社会問題になっているわけではない。その理由は、囚人の割合が不均衡なまでに黒人に偏っているからで、「高校すら卒業していない(黒人)男性のおよそ60パーセントが、30代半ばまでに刑務所に行くことになる」という異常な事態になっている。

これは保守派から、黒人コミュニティの自己責任(怠惰な文化)だと批判されてきたが、それに対してアリスは、6年間の参与観察によって、それが個人の努力ではどうしようもない社会現象で、黒人の若者は些細なことで「逃亡者」になってしまうと論じた。これが、リベラルを中心に彼女の著作が高く評価された理由だ。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)に対する保守派の論理とは

アリスの研究は2011年のアメリカ社会学会の最優秀博士論文となり、14年にシカゴ大学出版会から単行本として出版。翌15年3月、アリスはTEDに登場し、ストリートの黒人が置かれた理不尽な状況と、司法制度や警察の取り調べを改革する必要を力説した。この講演は大きな注目を集め、再生回数はたちまち100万回を超えた。アリスは一躍、メディアの寵児(セレブリティ)になった。

炎上はどのように始まったか

アリスの参与観察は2007年夏、悲劇によって終わりを告げた。マイクの弟分で、アリスが親しくつき合っていた家族の三人兄弟の長男チャックが、ギャング団同士の抗争で銃撃され、死亡したのだ。

葬儀のあと、マイクはチャックを殺した相手の捜索を開始した。そのうち何回かは、マイクに同乗者がいなかったため、アリスが車の運転を買って出た。

ある晩、マイクは標的の男がテイクアウトの中華料理店に入るのを見たと思った。その場面はこう描写されている。

彼(マイク)は銃をジーンズに押し込み、車から降りて、隣接する路地に身を隠した。マイクが駆け戻って車に乗り込んだらすぐに走り出せるよう、私はエンジンをかけながら車内で待った。だが、その男性が食事を持って出てきたとき、どうやらマイクはこの男のことを考えていた人物ではないと思ったようだ。マイクは車に戻り、私たちは車を発進させた。

アリスはなぜこんな危ない橋を渡ったのか。それは「暴力について直に学びたい、あるいは、自分の誠実さと勇気を証明したいという理由」ではないという。彼女が車を運転したのは、「マイクやレジー(チャックの弟)と同様、チャックを殺した人間に死んでほしかった」からだ。

「おそらく、チャックの死は私のなかのなにかを壊した」とアリスは書く。マイクが銃を持って中華料理店に向かったとき、彼女はその行為を止めようとはしなかった。「ただ単に、彼(加害者)が私たちから奪ったものへの落とし前をつけさせたかった」だけだ。

この体験は、「振り返れば、私は、一人の男に死んで欲しいという感情がどのようなものなのか学べたことを嬉しく思っている」と総括されている。アカデミズムの著作としては異例だが、それだけアリスとインフォーマント(調査対象者)であるストリートボーイズとの友情が深かったのだろう。

ところがこの記述に、法倫理学者から批判が浴びせられる。彼によれば、アリスの行為は殺人という重大犯罪の共謀であり、研究者としての倫理を大幅に踏み外した「重大かつ深刻な非道徳」だというのだ。

この批判は法学的には正しいのかもしれないが、アリスは実際にはどのような違法行為にもかかわっておらず、自分の心情(怒りと悲しみ)を率直に書いただけなのだから、言いがかりのようにも思える。すくなくともこれが、アリスの著作の価値を否定するようなものでないことはまちがいない。

ところが、この批判的な書評が掲載されたのをきっかけに、インターネット上に本書への大量のネガティブ投稿が溢れ、手がつけられない事態になっていく。いわゆる「炎上」だ。

アリスは、アメリカ社会には、中流階級の白人の若者は大学に、貧困地区の黒人の若者は監獄に行くような「分断」があることを告発したのだから、左派から批判される理由はどこにもないように思える。だが実際には、彼女の本が注目され、メディアで大きく取り上げられるようになると同時に、その著作に多くの歪曲や捏造が含まれているのではないかとの疑惑がくすぶりはじめた。

決定的なのは、著作の矛盾点を微に入り細を穿って追及した60ページ、3万語に及ぶ長大な批判文が匿名のアドレスから何百人もの社会学者に送られたことだ。そこには、開かれていないはずの少年審判にアリスが出席しているとか、死んでいるはずの人物が登場している、出席した葬儀の回数が異なっているなどが「捏造」の証拠として挙げられていた。

それに続いて、研究者やジャーナリストからも、「警察が病院で指名手配犯を逮捕している」「テーブルに銃を置いて容疑者を尋問した」などの記述に対して、事実でないか、大幅に誇張しているとの批判が現われた。

アリスはこの告発文に対していったん長文の反論を書いたものの、それを公表しても火に油を注ぐだけだと判断して掲載を取りやめた。さらに、インフォーマントを守るために、6年間書き溜めた膨大なフィールドノートを焼却していたことも明らかになった。その結果、「反論できずに逃げている」「証拠を隠滅した」とのさらに激しいバッシングを受けることになったのだ。――アリスの反論を読んだジャーナリストは「説得力のある説明がなされている」と述べ、フィールドノートの焼却は本の出版と同時に決めていたと説明されたが、なんの役にもたたなかった。

「なにひとつ不自由なく育った白人の若い女が、黒人コミュニティの恥を暴き、セレブになった」

なぜこのような騒ぎになったのか。その経緯について私は何本かの記事を読んだだけだが、問題は、インフォーマントを守るために匿名化の作業を行なったことにあるようだ。調査対象者が指名手配犯である以上、これは当然のことだが、そのため、どれが事実で、どれが匿名化による「創作」なのかわからなくなってしまった。

アリスはチャック、レジー、ティムの3人兄弟と親しくしていたが、彼らが住む家は祖父の所有で、シングルマザーのミス・リンダがまったく掃除をしないため、「小便と嘔吐物、煙草の吸殻の臭いが充満し、ゴキブリが好き勝手に天井や汚い家具をはい回っていた」と描写されている。これはこの黒人家庭の正確な描写なのか、それとも自宅を特定できないようにするための「創作」が入っているのだろうか。もし後者なら、そこには「だらしがない黒人」という偏見が紛れ込んでいる――という話になっていく。

本書に登場する黒人の若者たちは、多かれ少なかれ犯罪に手を染めている(だから指名手配から逃亡することになる)。刑務所にいる夫や恋人に会いに行く女たちも、囚人にこっそりとドラッグを渡して小遣い稼ぎをしている。本書に登場するのはシングルマザーばかりで、夫婦が揃った家庭はひとつも出てこない。こうしたネガティブな部分もためらわずに記述しているのが本書の魅力なのだが、しかしそれは「事実」なのか、それとも「偏見」によって歪められているのか。

こうした批判は一種の「悪魔の証明」で、反論や弁解をすればするほど泥沼にはまっていく。その意味でアリスの対応は仕方のないものだったのだろうが、それは同時に、批判する者たちに好きなようなレッテルを貼られることを意味した。

カリフォルニア大学の社会学者は、アリスの著作を「ジャングルブック」と評した。西洋人がアフリカのジャングルを探検し、もの珍しい動物や、興味深い「原住民」の風俗を面白おかしく描写するのと同じだというのだ。しかし、エスノグラフィーが部外者による観察である以上、すべてが「ジャングルブック」の要素を含んでいる。だとしたらこれは、エスノグラフィーという手法を使う社会学への全面的な否定ではないだろうか。

マイノリティの社会に入り込んで参与観察を行なう社会学者はたくさんいるのに、なぜアリスだけが大々的な「キャンセル」の標的になったのか。そこにはいろいろな要因があるだろうが、もっとも大きいのは、彼女の恵まれた出自や環境のように思われる。

アリスへの異常なまでの反感や憎悪を要約するなら、「なにひとつ不自由なく育った白人(ユダヤ系)の若い女が、黒人コミュニティに土足で上がり込んでその恥を暴き、セレブになった」だろう。そこにミソジニー(女性嫌悪)やアカデミズム内の嫉妬を見いだすこともたやすい。

キャンセルカルチャーは終わらない

アリスは本の印税をインフォーマントの家族と分け合っていて、たびたび「6番街」を訪ねており、本書の登場人物たちに歓迎される場面をジャーナリストが書いている。フィールドノートを燃やしたにもかかわらず「6番街」のインフォーマントたちはたちまち特定され、事実を検証したジャーナリストもいて、「本に書かれた内容はおおむね正しい(匿名化の作業を行なっているため事実と完全に一致することはない)」とされたが、そうした報道も焼け石に水だったようだ。

本の出版当時、アリスはウィスコンシン大学社会学部の助教授だったが、テニュア(終身在職権)を取得できず、2019年にカリフォルニア・クレアモントのポモナ・カレッジの客員助教授に移った。この採用にあたって、128名の署名者(「個人の安全」のために匿名)による抗議文が大学に送られたことが報じられている。

そこには「ゴッフマン氏の学術的な誠実さへの疑わしい評判、黒人男性の過剰な犯罪化、黒人女性の性的側面の過剰な強調をめぐる全国的な論争は、わたしたちが共有するコミュニティの価値と合致していない」「覗き見趣味的で非倫理的な研究を行ない、研究対象のコミュニティにアウトサイダー(部外者)としてかかわることの「位置」に無自覚な白人教員を採用することは、有色人種に対する有害な物語を強化するだけだ」など、典型的な「キャンセルカルチャー」の言葉が並んでいる。

黒人のストリートボーイズと6年にわたって交友し、彼らを「逃亡者」へと追い立てる司法や警察を告発したアリスは、いつしか「人種主義者(レイシスト)」の同類とされていった。アリスはこのカレッジに採用されたものの、やはりテニュアは取得できず、その立場は不安定なままのようだ。

なお、2015年にアリスが行なったTEDトーク「私たちがどのように子供たちを大学―または刑務所に送り込んでいるか」は日本語字幕版がネットに公開されており、それを観ると、なぜ彼女が「キャンセル」の標的にされたのかがなんとなくわかるだろう。

参考記事:Gideon Lewis-Kraus“The Trials of Alice Goffman” The New York Times Magazine(Jan.12,2016)
Colleen Flaherty“Past as Prologue” Inside Higher ED(April 25, 2017)

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