『残酷すぎる人間法則』監訳者序文

3月24日に発売されたエリック・バーカー著『残酷すぎる人間法則 9割まちがえる「対人関係のウソ」を科学する』の監訳者序文を、出版社の許可を得て掲載します。

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「人生においてただ一つ、本当に重要なものは他者との関係だ」

「残酷すぎる人間法則」は、この一行に要約できるだろう。問題は、どうすれば「他者とうまくやっていけるか(Plays Well with Others)」がわからないことだ。―これが本書の原題になる。

人気ブロガーのエリック・バーカーは日本でもベストセラーになった『残酷すぎる成功法則』で、多種多様な成功哲学をエビデンスベースで検証して高い評価を得たが、今回もその手法は変わらない。原書の副題にあるように、「あなたが人間関係について知っていることのすべては(ほとんど)間違っている」という不都合な事実を、「驚くべき科学」によって解き明かしていく。

本書でバーカーが挑む大きな問いは、以下の4つだ。

・人間関係:人は見た目で判断できるのか?
・友情:「まさかのときの友こそ真の友」は本当か?
・愛情:「愛はすべてを克服する」のか?
・孤独:ひとは一人で生きていけるのか?

「傾聴(聞く力)」は長期の関係には役に立たず、犯罪プロファイリングは疑似科学で、「人は見た目が2割」―わたしたちは他者の考えや気持ちを読み取る能力が恐ろしく低いが、人の心を読むのが得意だと思っている―であることが多くの研究で明らかになった。読者は次々と意表をつくデータを突きつけられて、“常識”が崩壊していく快感を味わえるだろう。

前作『残酷すぎる成功法則』でバーカーは、社会的・経済的に成功する方法を検証した。その続編である本書では、どうすれば人間関係(とりわけ友情と愛情)で成功できるかを「科学」的に検証している。

私は、人生の土台を「金融資本」「人的資本」「社会資本」の3つで考えている。このフレームでいうならば、『残酷すぎる成功法則』のテーマは主に人的資本(社会的な成功)で、『残酷すぎる人間法則』はそれを社会資本(人間関係の成功)へと拡張したことになる。

バーカーと私の仕事が重なるのは偶然ではなく、突き詰めていうならば、「幸福」にとってもっとも重要なのは社会資本(他者との関係)で、社会的・経済的成功はそれを実現するための道具(ツール)にすぎない。

お金(金融資本)が増えたり、会社内の地位(人的資本)が上がれば幸福度は高くなるだろう。だがよく考えると、この効果は、お金や地位によって人間関係が改善するからだとわかる。

お金があれば、ブランドものやスーパーカー、豪邸などで「勝ち組」であることを見せびらかせる。これが「顕示的消費」で、生きていくのに必要な額を超えれば、お金の価値は、富を誇示することでステイタス競争で優位に立つことしかない(使わないお金は、銀行のサーバーに格納されたたんなるデータだ)。

お金が幸福感に与える影響は逓減し(徐々に減っていき)、収入では年収800万円(世帯では年収1500万円)、資産では持ち家と金融資産1億円を超えると幸福度は変わらなくなるとされる(逆にいえば、この金額に達するまでは幸福度は大きく上がっていく)。

だとしたら、個人資産20兆円を超えるイーロン・マスクはなんのために必死に働きつづけているのか。生物としての人間が物理的に使える金融資産の上限はとうのむかしに超えているのだから、あとはリゾートでカクテルを飲みながら、悠々自適の暮らしをすればいいではないか。

そんなわけにはいかないことは、近年のTwitterをめぐる買収騒動で明らかだろう。人類史上、もっとも大きな富を獲得した男がこころの底から欲しているものは、酒池肉林の生活ではなく(どんな乱痴気騒ぎもすぐに飽きてしまうだろう)、1億人を超えるフォロワーからのさらなる評判(社会的評価)なのだ。

幸福はなぜ人間関係からしか得られないのか。それは長大な進化の過程のなかで、ヒトが社会に埋め込まれたからだ。

他者を足蹴にして利益を得る完全な利己主義者は、短期的には成功できるかもしれないが、長期的には破滅する。言葉を獲得して以来、ヒトが結託して陰謀をめぐらすようになったからで、どのような権力者も、利益を提供して自分に忠誠を尽くす派閥(人間関係)をつくらなければ、たちまち失脚し(中世以前なら)処刑されてしまっただろう。

旧石器時代の数百万年のあいだ、わたしたちの祖先は150人程度の共同体で暮らしていたと考えられている。濃密な共同体では、高い評判を獲得すれば生存や生殖に有利になり、逆に評判を失うと仲間外れにされるか、最悪の場合、共同体から追放されただろう。当時の過酷な環境では、これはそのまま死につながったはずだ。

このようにしてわたしたちの脳に、他者の評判に敏感に反応する計測器=ソシオメーターが組み込まれた。賞賛や尊敬によってセンサーの値が上昇すると脳の報酬系が刺激されて幸福感に酔いしれ、批判や侮辱で数値が落ち込むと大音量で(「このままでは死んでしまう!」という)警報が鳴る。これが、わたしたちがつねに他者の評価に振り回される理由だ。

進化の過程でヒトの脳は、他者がなにを考えているかを理解するメンタライジング(こころの理論)、相手の気持ちと自分の感情を重ね合わせる共感力、すばやく集団行動をとる同調性、集団と自分を一体化させるアイデンティティ融合など、さまざまな向社会性を発達させてきた。これが生物としてのヒトの基本設計である以上、「幸福」という報酬は、原理的に、大きな社会資本(他者/共同体からの評判)からしか得られない。

だがここでの問題は、相手の歓心を買おうと言いなりになったり、集団のために身を犠牲にしたりするだけでは、「利己的な遺伝子」の複製(より多くの子孫)をつくれないことだ。アッシーくん(ただで使えるタクシー)やメッシーくん(食事のときだけ呼び出される財布代わり)は仲間集団の最底辺で、性愛の相手とは見なされないだろう。「利己的な遺伝子」の優秀な乗り物(ヴィークル)になるためには、共同体のなかでの地位をすこしでも上げなくてはならないのだ。―これは男の場合だが、女も競争のしかたが若干ちがうものの、集団内の地位が生存・生殖や子育ての成功に直結したのは同じだろう。

このようにしてヒトは、仲間に共感し、集団に同調する「利他性」によって共同体のなかでの評判を維持すると同時に、仲間よりも相対的に有利な地位を手に入れようと「利己性」を発揮するという、きわめて複雑なゲームを強いられるようになった。わたしたちはみな、この「無理ゲー」に勝ち残った者の子孫なのだ。

成功を目指すのは、それが幸福への道だと思っているからだろう。だが社会資本(人間関係)のゲームは、金融資本(お金)や人的資本(能力)の獲得よりずっと難しい。あらゆる局面で困難なトレードオフ(結婚すれば子育てが楽になるが、他の異性と性愛関係をもつのが難しくなる、など)を突きつけられるからで、だからこそバーカーは、このテーマで新たに一冊の本を書こうと思ったのだろう。

私は人間関係を、大きく「愛情空間」「友情空間/政治空間」「貨幣空間」に分けている。愛情空間は性愛のパートナーや子どもとの関係、政治空間は学校や会社(あるいはママ友)などの人間関係で、そのなかで自分の味方になってくれるのが友だちだ。この友情空間は、最大5人の「親友」と、最大15人の「イツメン(いつものメンバー)」で構成される。人間関係の核となる5人には性愛のパートナーが、イツメンには親友が含まれるので、愛情空間と友情空間の上限は多くても十数人だ。

わたしたちの心理的な世界は、愛情空間と友情空間を核として、顔と名前が一致する認知の上限である150人程度の政治空間でつくられている。性愛の候補者も、学校や会社のライバルも、みなこのなかに含まれる。その外側には、感情的なつながりはないものの、経済的な取引でネットワークされている茫漠とした貨幣空間が広がっている。

本書でバーカーが扱うのは、主に愛情空間と友情空間だ。それがもっとも幸福に影響を与えるからだが、成功法則と同様に人間法則にも「正解」はない。

誰かと性愛関係になれば、別の誰かと同じことはできない。誰かと遊びに行けば、別の誰かのために時間を割くことはできない。このように、愛情空間や友情空間にはきびしい時間資源の制約がある。最近の言葉でいえば、ベタな人間関係はものすごくタイパが悪いのだ。

それに加えてバーカーは、愛情や友情には「脆弱性」が必要だという。相手に信用してもらい、強い関係を築くには、自分のもっとも弱い部分をさらけ出さなければならない。

しかしこれは、そのままリスクに直結する。信頼していた相手に裏切られると、(とりわけSNS時代には)取り返しのつかないことになりかねないのだ。

じつは私は、近著の『シンプルで合理的な人生設計』(ダイヤモンド社)で、社会資本(人間関係)を資源制約から考察している。その多くは本書と重なるが、重要な部分で異なっていることもある。

バーカーは本書で、孤独がいかに幸福度を下げるかを指摘し(これには膨大なエビデンスがあり議論の余地はない)、共同体に包摂されることが幸福への道だと説く(「人生の意味は帰属することである」)。

だがわたしたちは共同体から追放されたのではなく、自らの意思で「自由」と「自律」を選択し、その結果として、孤独という代償を支払うことになったのではないか。この過程は不可逆なので、今後もわたしたちはますますばらばらになっていき、弱い人間関係のなかから「幸福」を見つけていくしかないと私は考えている。

もちろんこれは、どちらが正しいというわけではない。どのような方法で幸福を追求するかは、読者一人ひとりが、自らの人生として選択すべきものだからだ。

本書には、人間関係を改善する多くのヒントが散りばめられている。「どうすれば大切なひととうまくやっていけるのか」を、魅力的な、そして時に驚くべき例をあげながら、エビデンスをもとに徹底的に考えていくバーカーの世界を、今回も楽しんでほしい。

第108回 役所に居座るお「殿」さま(橘玲の世界は損得勘定)

インボイス制度の導入で「適格請求書発行事業者の登録」を税務署に申請しようと書類をダウンロードしたら、提出先が「〇〇税務署長殿」になっていた。いまどきなぜ、納税者が税務署長を「殿」と呼ばないといけないのか――とSNSでつぶやいたら、ちょっとした議論になった。「殿」は目下の者に使うから問題ない、というのだ。

言語学者は、日本語には強い「敬意逓減の法則」が働いているという。「貴様」がかつては敬称だったように、どんな敬語も、使っているうちにどんどんすり減ってしまうのだ。

「殿」にもこの法則がはたらいて、社内文書に「係長殿」と記載するように、いまでは目下の役職への書面上の敬称として使われている。だとしたら、「目上」の納税者が「目下」の税務署長に送る書類も「殿」でかまわない、という話になる。

だが、この理屈に違和感を覚えるひとも多いだろう。一般的な日本語では、「殿」は格式ばった(時代劇のような)男性への敬称として使われるからだ。

歴史的には、「殿」は明治時代に、役職の上下にかかわらず、官庁内の文書で用いる敬称として定着したようだ。それが広まって、民間業者などから官吏に宛てた文書にも「殿」を使うようになった。

当時の価値観からすれば、「殿」の敬称が官尊民卑、男尊女卑を前提としているのは明らかだ。官吏のなかに女がいないのが当たり前だからこそ、互いに「殿」と呼び合ったのだろう。

GHQ統治下の1952年に、将来的には「殿」を廃し、公用文を「様」で統一するのが望ましいと提言されている。「殿」に差別的な含意があることは、70年も前に意識されていたのだ。

ビジネスマナーでは、「殿」は社内の相手に限定して、個人名ではなく役職にしか使ってはならないとされている。要するに、「内輪」の敬称だ。

いうまでもなく、納税者は税務署の「内輪」ではない。それとも憲法で納税義務が定められている以上、税務当局の支配下にあると思っているのだろうか。

官公庁の感謝状などには、(ビジネスマナーに反して)個人名+殿が使われている。これは官(お上)から民(市民)に下賜される文書で、なおかつ男だけしか相手にしていない時代の名残だろう。

そもそも日本語は、「目上」「目下」が決まらないと、正しい言葉遣いができない特殊な言語だ。SNSには「敬語警察」みたいなひとがたくさんいて、尊敬語や謙譲語の間違いを指摘する。だがこれは、「正しい日本語」を隠れ蓑に、身分制社会を正当化しているのではないのか。

日本語には「様」という、誰にでも使えるジェンダーレスな敬称がある。役職にさらに敬称をつけるのは過剰敬語だ。

民主的な社会では、すべてのひとが平等なのだから、できるだけ「目上」「目下」を意識させないような言葉遣いに代えていくべきだ。一部の自治体では「殿」を使わないようにしたというが、税務署長を「殿」と呼ばせる悪弊もさっさとやめた方がいいだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.108『日経ヴェリタス』2023年3月18日号掲載
禁・無断転載

すべてのひとに役立つ成功法則は「合理性」 週刊プレイボーイ連載(556)

「どうすれば成功できるか?」という問いには、すでに結論が出ています。多くの研究によって、社会的・経済的に成功するのは、男女を問わず、以下のような特性をもっているひとだということがわかっているからです。

高い知能 仕事を正確かつ効率的にこなせる
高い堅実性 約束やスケジュールを守る
高い外向性 ただし、内向的でも経済的には成功できる
高い楽観性 低い神経症傾向
高い共感力 相手の気持ちになれる
高い同調性 みんなとうまくやっていける
高い経験への開放性 新奇なものに関心をもつ
魅力的な外見 男の場合は高身長も

問題は、性格や外見を思いどおりに変えられないことです。政治家や芸能人、ベンチャー起業家の多くが高い外向性をもっているとしても、内向的なパーソナリティのひとに向かって、「もっと積極的な性格になれば成功できる」というアドバイスはなんの役にも立ちません。

行動遺伝学では、性格のおよそ半分は遺伝の影響で、成長につれて遺伝率は高くなり、成人してからは、パーソナリティはほとんど変わらないとされます。これが、世の中には多くの(多すぎる)成功法則があるにもかかわらず、「ぜんぜん役に立たない」という不満の声があふれている理由です。

成功法則には、「向き不向き」があります。成功者の自伝を読んで人生が変わるほどの影響を受けたとしたら、それはパーソナリティが似ているからでしょう。自分とよく似たひとは、同じような状況で同じような問題に直面しやすいのです。

逆に、まったくちがうキャラクターの成功者の話を聞いても、「そういうひともいるのか」と思うだけでしょう。あなたと似ていないひとはたぶん異なる体験をしているし、仕事や恋愛のような共通する関心事でも、あなたにはなんの参考にもならない対処の仕方をしているです。

それでは、すべてのひとにとって役に立つ成功法則は存在しないのでしょうか。じつは、たったひとつだけあります。それが「合理性」です。

わたしたちが生きている(産業革命以降の)知識社会では、「論理的に思考すること」と、「それを言語によって伝えること」に、大きなアドバンテージが与えられています。それはすなわち、合理的に判断し、行動することで大きな優位性が得られるように社会が構成されているということです。

とはいえ、合理的に生きることはさほど難しいわけではなく、(ほとんど)すべてのひとに可能です。なぜなら、これまで多くの賢い先人たちが、合理性について徹底的に考えてきたからです。だとすれば、わたしたちはそうした「巨人」の肩に乗ることで、最短距離で「成功」に到達できるはずです。

そんな話を、新刊『シンプルで合理的な人生設計』(ダイヤモンド社)で書きました。これは汎用性のある成功法則なので、あなたにもきっと役に立つはずです。

『シンプルで合理的な人生設計』

『週刊プレイボーイ』2023年3月20日発売号 禁・無断転載