経済学的に麻薬戦争を解決する方法は麻薬を合法化すること

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年2月23日公開の「メキシコなどの麻薬カルテルを撲滅する 唯一の「経済学的」解決法は、麻薬を合法化すること」です(一部改変)。

下記の記事も合わせてお読みいただければ。

タイの「ソフトドラッグの実質合法化」の現場から考える、世界のドラッグ合法化の流れと日本の現状

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2016年末にアメリカ・テキサス州のエル・パソから国境を越えてメキシコのシウダー・フアレスを訪れた。というよりも、私はただ国境を流れるリオ・グランデの写真を撮りたかっただけで、いやいやメキシコに入国したといったほうがいい。同じ橋を渡って戻ってこられると思ったら、アメリカへの入国は15分ほど歩いた別の橋だったのだ。シウダー・フアレスは、「戦争地帯を除くと世界でもっとも危険な都市」のひとつとされている。

なぜこんなことを思い出したかというと、イギリスのジャーナリスト(『エコノミスト』誌エディター)トム・ウェインライトの『ハッパノミクス 麻薬カルテルの経済学』( 千葉敏生訳、みすず書房)を読んだからだ。ちなみに原題は『NARCONOMICS』で、Narcotic(麻酔薬)を短縮したNarco(ナルコ)はドラッグの俗語だ。「ナルコノミクス」は“ドラッグ経済学”のことだが、これではなんのことかわからないから、「ハッパノミクス」は原タイトルをうまく活かした洒脱な邦題だ。

この本の最初で、ウェインラントは2010年にシウダー・フアレスを訪れたときのことを書いている。メキシコシティから国内便の搭乗前に、彼はセキュリティコンサルタントから追跡用のデバイスを渡される。それを右足の靴下に隠しておけば、たとえなんからの事情でホテルにチェックインできなかったとしても所在を突き止めることができるというのだ。

なぜこんなスパイのようなことをするかというと、シウダー・フアレスは路上殺人、大量虐殺、死体から切り離された生首などで地元マスコミを賑わしていたからだ。ジャーナリストが粘着テープでぐるぐる巻きにされ、車のトランクに押し込められる事件もあとを絶たなかった。――とはいえ、肝心の追跡デバイスは機能しなかったのだが。

ウェインラントを危険な取材に駆り立てたのは、どうしても知りたいことがあったからだ。それは、「アメリカ政府をはじめとして先進諸国が莫大な税金を「麻薬戦争」に注ぎ込みながらも、麻薬カルテルが生き延びたばかりか、ますます隆盛を誇っているように見えるのはなぜか」という疑問だった。「世界の納税者たちは、違法薬物との戦いに年間最大1000億ドルを支払っている。アメリカだけでも、連邦レベルでおよそ200億ドルを拠出しているし、年間170万人が麻薬がらみで逮捕され、25万人が刑務所に収監されている」というのに……。

この謎を解くためのウェインラントの武器は経済学だ。たとえアンダーグラウンドであってもドラッグが巨大ビジネスであることは間違いなく、ギャングたちの行動は経済学のさまざまな理論で解明できるはずなのだ。

暴力と犯罪を経験したことのない子どもを探すのが難しい街

じつはシウダー・フアレスには、日本人ジャーナリストの工藤律子氏がウェインラントと同じ2010年秋に取材に訪れている。『マフィア国家 メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々』(岩波書店)によれば、工藤氏もメキシコの友人たちから「本当に行くの?」「やめておいたほうが、いいと思う」と忠告されている。

現地で活動するNGOに案内を頼んだ工藤氏は、子どもたちから信じがたい話を聞くことになる。NGOが運営するコミュニティセンターで出会ったあどけない少女は、自分の体験をこう説明した。

 兄さんは、そこのコートで友だちと遊んでたんです。私は、コートの横の坂を下りた所にあるお店へ行って、帰る途中でした。コートの前の道に、白い車が2台、停まっているのが見えました。その横を通りすぎてまもなく、車から男たちが飛び出してきて、コートのなかの人に向かって、銃を撃ったんです。兄のとなりに立っていた男の子が殺され、兄の足にも2発、流れ弾が当たりました。今も、兄の足にはその痕が残っています。

淡々と語る少女に工藤氏が「怖くなかった?」と訊くと、「もう慣れたわ」というこたえが返ってきた。

そのほかにも、目の前で親が撃たれ、自分の上に血まみれで倒れこんできた経験をもつ子ども、両親が殺され保育施設に通ってこなくなった双子の姉妹、1歳の頃に父親が撃ち殺され、父の名前を訊かなくなった子どもなど、暴力と犯罪を経験したことのない子どもを探すのが難しいほどだ。

シウダー・フアレスで唯一のカウンセリングを行なっている臨床心理士によると、親を殺された5歳から8歳の子どもたちの絵は、銃や血が多く描かれ、人物の顔にしばしば目や鼻などがない。これは「自分は目撃したくない」と記憶を否定する表われだという。

父親を殺され祖母と共に暮らす10歳の男の子は、「大人になったら、殺し屋を雇って、パパの仇をとるんだ」と語った。こうして暴力の連鎖がつづいていく。なぜこんなことになるのだろうか。

1980年代まで、メキシコは地方ごとにギャング組織はあったものの互いに抗争を繰り広げるようなことはなかった。その後、治安が急速に悪化していくのだが、その理由として、「アメリカの不法移民送還によってカリフォルニアのヒスパニックたちのギャング文化が伝えられた」「カルデロン大統領の強権的な麻薬政策の失敗」「1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)によるグローバリズム」などさまざまな理由が挙げられている。どれも一理あるものの、ウェインライトによれば、シウダー・フアレスの悲劇は単純な経済学の原理で説明できる。それは稀少性だ。

麻薬カルテルの撲滅に全力を挙げると暴力が急増した

パブロ・エスコバルは、1970年代から80年代にかけてメデジン・カルテルの帝王としてコロンビアの麻薬ビジネスに君臨した。1993年にエスコバルが治安部隊に射殺されると、南米からカリブ海を通ってフロリダに至る麻薬密輸ルートは壊滅し、アメリカの「麻薬戦争」の大きな勝利とされた。だがその結果、中米とメキシコを経由して米墨国境を超える陸路の密輸ルートが開拓されていく。こうして麻薬ビジネスの拠点はコロンビアからメキシコに移り、マフィア組織が巨大化していく。

カルテルの活動を封じるため、アメリカとメキシコの当局は国境警備を強化した。とりわけ9.11同時多発テロ以降、アメリカ側の国境は厳戒態勢がとられるようになり、全長3000キロあまりの国境に正式な検問所は47カ所だけになった。そのなかでも、通過する貨物トラック数が多いのは上位数カ所だけだ。

経済学は「稀少なものは価値が高い」と教える。この原理をあてはめると、メキシコのギャング組織にとって検問所を支配できるかどうかが死活問題になった。そして、メキシコ経由でアメリカに輸入されるコカインのおよそ7割はシウダー・フアレスで国境を通過するのだ。

さらに間の悪いことに(あるいはなんらかの陰謀かもしれないが)、それまでシウダー・フアレスの麻薬取引を支配してきた組織のボスが、1997年にメキシコシティで整形手術の最中に死亡した――手術ミスをした3人の医師は数カ月後、250リットルのドラム缶からコンクリート詰め死体となって発見された。これによって組織が衰退し、利権をめぐって地元のフアレス・カルテルと新興のシナロア・カルテルの抗争が始まった。2011年には市の遺体安置所には月間300体のペースで死体が積み上がった。

この時期、メキシコ大統領はフェリペ・カルデロンで、2006年の就任以来、アメリカの捜査当局と協力しながら麻薬カルテルの撲滅に全力を挙げた。警察だけでなく軍隊まで投入し、マフィアと癒着した警察幹部や州知事すら逮捕するという不退転の姿勢で臨み、カルテルの最重要幹部37人のうち25人が逮捕・殺害、およびライバル組織に“処刑”されるという大きな戦果をあげた。

だが奇妙なことに、これによってメキシコの暴力は逆に急増した。カルデロンが大統領に就任したときのメキシコの殺人発生率は10万人あたり10件とラテンアメリカ諸国では安全な部類で、アメリカの一部の州より低かった。それが2012年には2倍になり、カルデロンはメキシコ史上もっとも不人気な大統領として官邸を去ることになる。

なぜ警察同士が殺し合うのか

2000年以降のシウダー・フアレスでは、治安を回復させようとするとますます治安が悪化するという理不尽なことが起きた。その原因は、市警察がフアレス・カルテルと癒着していると考えた大統領側が、州警察や連邦警察を投入したことだ。

ここで疑問が生じるだろう。大量の警官がいれば治安は改善するのではないか。だが問題は、メキシコの警察が何層にも分かれた別組織になっていることだった。

市警察がフアレス・カルテルと手を結んでいる以上、対抗するシナロア・カルテルに勝ち目はないはずだ。いくら武装しているからといって、警察組織と真っ向から衝突すれば叩きつぶされるのは目に見えている。だがあろうことか、シウダー・フアレスでは、シナロア・カルテルが対立する組織と癒着した警察官を次々と“処刑”しはじめたのだ。

なぜこんなことが可能になったのだろうか。それはシナロア・カルテルにも警察の後ろ盾ができたからだ。

メキシコには2000超ある地方自治体それぞれに独自の警察があり、31州すべてに独自の州警察が存在し、さらにその上に連邦警察がある。連邦警察は高度な訓練を受けた重装備のエリート部隊で、市警察とは指揮系統がまったく別だ。シナロア・カルテルはここに目をつけ、連邦警察を買収したのだ。

その結果シウダー・フアレスでは、市警察と連邦警察が互いに相手をマフィアと癒着していると非難しあうばかりか、ときに撃ち合いを繰り広げる異常な事態になった。治安維持のために利害関係の異なる警察組織を大量に投入したことによって、本来なら終わるはずの抗争が激化してしまったのだ。

こんな悲劇を引き起こさないためには、いったいどうすればよかったのだろうか。後知恵ではいろいろ考えられるが、ポイントはシウダー・フアレスの稀少性だとウェインライトはいう。それは麻薬カルテルにとって、どれほどの犠牲を払っても獲得するだけの価値がある“宝石”なのだ。

だとすれば、もっとも効果的なのはシウダー・フアレスの価値を下げることだ。そのためには国境警備を強化するのではなく、国境を開く必要がある。どこからでもアメリカに麻薬を持ち込めるようになれば、ひとつの町の支配権をめぐってマフィア同士と警察同士が殺し合うようなことはなくなるだろう。

マラス(マフィア組織)は刺青によって転職リスクを解決した

2010年代以降、シウダー・フアレスから「世界一危険な都市」の称号を奪ったのがホンジュラスのサン・ペドロ・スーラだ。

ホンジュラスはグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアに囲まれた中米の国で、90年代までは「比較的安全な国」といわれていたが、2009年の軍事クーデター以降、麻薬組織が勢力を伸ばし治安は急速に悪化した。もはや旅行者が近づくようなところではなくなったが、工藤律子氏はホンジュラスのマフィア組織マラスも取材している(『マラス 暴力に支配される少年たち』集英社文庫)。

「マラス(maras)」の語源には諸説あり、エルサルバドルで「騒ぎを起こす連中」を指す「マラ(mara)」、あるいはスペイン語で「群衆・群れ」を意味する「マラブンタ(madabunta)」に由来するという。

「マラス」のイメージは、従来の「ギャング」「マフィア」とは大きく異なる。ネットで「maras」と画像検索すればすぐにわかるが、そこに出てくるのはスキンヘッドで顔や頭部にまで刺青をした若者たちだ。こうしたタトゥー・カルチャーはアメリカのヒップホップが起源だろうが、マラスではそれがアニメやSFのレベルになってしまっているのだ。

マラスの抗争が残虐なのは、異なる組織のメンバーと出会うとたちまち殺し合いが始まるからだ。だが、彼らがこのようなことをする理由はどこにあるのだろう。

ウェインライトはこれを組織論で説明する。会社組織にとって重要なのは社員の採用・定着だが、これはギャングも同じだというのだ。

映画などで描かれた日本の「ヤクザ戦争」も同じだが、抗争を繰り返すギャングにとって重要なのは、ライバルより多くの構成員を確保することだ。組織が若いメンバーに「採用ノルマ」を課した結果、メキシコや中米では貧しい子どもたちが10代前半で半ば強制的にギャングに引きずり込まれることになった。

だがこれだけでは、まだ組織は安定しない。新入社員が3年で辞めるように、せっかく「採用」した新入りギャングも対立組織に移ってしまうかもしれない。しかしマフィアにとってそれ以上に大問題なのは、下部組織がまるごと寝返ることだ。

一般企業の場合、報酬を引き上げることで社員の転職リスクに対処しようとする。こうしたコストを嫌って、イタリアマフィア(コーサ・ノストラ)などは加入にあたって独自の儀式を行ない裏切り者を処刑してきた。これを「秘密結社方式」とすれば、マラスはこの問題にさらに効率的な解決策を見つけた。刺青によってどの組織に属しているかを一目瞭然にしてしまえば、もはや他のグループに移ることはできないのだ。

組織のシンボルを身体に彫り付けることで、マラスの労働市場にはまったく流動性がなくなった。お互いの構成員を引き抜ける可能性はゼロなので、マラスは人材をめぐって争う理由はないし、高い報酬を払う必要もない。

しかしその代償として、若者たちが大量に死ぬことになった。最初にマラスの抗争が勃発したエルサルバドルでは、世界最悪となった2009年の殺人発生率で試算すると、男性は一生のあいだにおよそ10分の1の確率で殺害されることになる。しかもこれは平均値で、貧しい男性やマラスとかかわりをもつ家族で育った男性ではその確率はずっと高くなる。

だが2012年になると、エルサルバドルの殺人発生率はいきなり3分の1に減少し、ブラジル並みに変わった。この“奇跡”を起こしたのは、サルバトルチャとバリオ18という対立する2つのギャングのリーダーが刑務所のなかで手打ちしたことだった。5万人以上の若者が抗争で殺され、刑務所がギャングで溢れるようになってようやく、彼らは競争するより協調する方が利益が大きくなることに気づいたのだ。

ホンジュラスの不幸は、ギャング同士の対立の構図が複雑でエルサルバドルのような手打ちができなかったことだ。こうしてホンジュラス第二の都市サン・ペドロ・スーラがシウダー・フアレスを抜いて「世界一危険な町」に躍り出ることになる。

外資の誘致に成功すると麻薬産業が勃興する

サン・ペドロ・スーラ郊外には、熱帯雨林の生い茂るなかに「マキラ」と呼ばれる保税工場が点在している。マキラは税優遇措置が適用された外資系企業の工場で、原料・部品、機械などを無税で輸入してさまざまなものを生産している。有名なのは下着や靴下など衣料品だが、それ以外にも自動車部品、果物の梱包、コールセンターなどがあり、これによってサン・ペドロ・スーラはホンジュラス一の工業都市になった。

いわゆるオフショアリング(一つの国を拠点としていた営利事業を別の国に移転する経済行為)だが、ここでも疑問が生まれるだろう。なぜ外資の誘致に成功して(相対的に)ゆたかになったのに治安が崩壊してしまうのか。

だがこれも経済学で説明できる。国際的な麻薬カルテルも“ビジネス”としてオフショアリングの機会を探っている。彼らにとってもっとも便利なのは、あらかじめ生産や物流のインフラが整っていて、なおかつ所得が低く警官を買収しやすい場所に進出することなのだ。そして不幸なことに、サン・ペドロ・スーラはこの条件にまさにぴったりだった。

2011年、ホンジュラス警察がはじめて大規模なコカイン処理施設を発見したが、その施設は週400キログラムのコカイン・ペーストを純粋な粉末コカインに変える生産能力をもっていた。こうした大規模な事業が地元警察の協力なしには成り立たつはずはない。

ホンジュラスの警官の月給は300ドルに満たない。これなら麻薬の輸送や殺人を見逃してもらうことはかんたんだし、抵抗する警官や兵士を地元のギャングに始末させるコストも安くすむ。

巨大な「アンダーグラウンド産業」がやってきたことで、その利権をめぐって地元ギャングの抗争が始まった。それに輪をかけて問題をこじらせたのが、麻薬カルテルがコカインで報酬を支払うようになったことだ。

コカインを受け取った地元ギャングは、それを売りさばかなければ現金を手にすることができない。こうして小売市場での縄張りをめぐって暴力が横行するようになり、ストリートギャングの報復殺人で殺人発生率が急増した。2013年にはホンジュラス人のおよそ1000人に1人が殺人で命を落とし、この殺人発生率がずっとつづくとすると、この国の平均的な男性は一生のうちになんと9分の1の確率で殺害されることになるという。

こうした事態はホンジュラスだけでなく、隣国のグアテマラでも同じだ。彼らは長年、麻薬カルテルを撲滅しようと努力してきたが、それは無駄だったばかりか、状況はますます悪化している。いまや国家より国際麻薬カルテルのほうがはるかに巨大なのだ。

犯罪に「鉄拳」で立ち向かうと公約してグアテマラ大統領になったオットー・ペレス・モリーナは、2011年にメキシコで開かれた世界経済フォーラムで聴衆に訴えた。

 20年前、私はグアテマラの軍事情報部長だった。われわれは大きな成果を上げた。大量のコカインを押収し、大麻畑を破壊した。そして多くの麻薬密売組織のボスをつかまえた。それから20年後、私は大統領に就任し、麻薬密売組織がずっと巨大化していることに気がついた。

そしてこのグアテマラ大統領は、「今日の中米では、アメリカの麻薬摂取による死亡者よりもずっと多くの人々が、麻薬の密売やそれにともなう暴力で死んでいる」として、すべての麻薬を合法化することを求めたのだ。

この動きは2015年にペレス・モリーナが汚職の罪で告発され、大統領を辞職したことで停滞したが、コスタリカがマリファナを非犯罪化し、国際社会に薬物対策の見直しを求めたように、コカインやヘロイン、覚せい剤を含むすべての麻薬を合法化・非犯罪化すべきだとの主張は右派・左派を問わず中南米で支持を広げている。

なぜならそれが、「麻薬戦争」を終わらせる唯一の方法だからだ。すくなくとも、麻薬問題を「経済学的に」理解しようと世界じゅうを取材したウェインライトはそう結論している。

禁・無断転載

観光振興はカジノ特区ではなく大麻解禁で 週刊プレイボーイ連載(563)

コロナ後はじめての海外旅行で、香港と東南アジアを回ってきました。タイのバンコクは、悪名高い渋滞は相変わらずですが、高級ホテル、高層オフィスビル、ショッピングモールなどが続々とオープンし、中心部のコンドミニアムの販売価格は1億~5億円といいますから、もはや六本木などと変わらなくなりました。

もうひとつの大きな変化は、2022年6月に大麻が事実上解禁されたことです。法的には医療目的などに限定されているものの、違法薬物リストから除外されたことで、バンコクでは大麻ショップが乱立しました。大麻草を使った料理を出すレストランやカフェもあり、コンビニでは大麻入りのジュースが売られるなど、さながら「マリファナバブル」の様相を呈しています。

薬物使用を重罪として取り締まる「麻薬戦争」が失敗したことで、世界的に大麻の合法化・非犯罪化が進んでいます。先陣を切ったのはオランダでしたが、現在ではヨーロッパはほぼ非犯罪化され、アメリカでもカリフォルニア州など多くの州で合法化されています。

それに対してアジアでは、大麻の所持・使用の最高刑が死刑の国も多く、日本と同じ「ダメ。ゼッタイ」政策を採っています。そのなかでタイが大麻を解禁したインパクトは大きく、「タイ・バーツが高くなったのは大麻が外国人観光客を惹きつけたから」との説が広まるなど、一定の経済効果があったようです。

タイでは酒の販売・提供が午前11時から午後2時と、午後5時から午前0時までしか認められていないほか、選挙の前日と当日、仏教に関連する祝祭日は禁酒日です。アルコールを規制しつつ大麻を解禁するのは矛盾しているように思えますが、その背景には近年のタイ政治の混乱があり、政党同士の合従連衡のはずみで極端な政策が実現しやすくなっているのだと説明されました。

子どもが大麻入りのクッキーを食べて病院に搬送される事例が相次ぐなど、大麻解禁には批判も多いようですが、軍事クーデターで誕生した現政権は人気がなく、勃興しはじめた大麻ビジネスをいまさら全面禁止するのは難しそうです。

そもそも大麻については、依存性や毒性がニコチンやアルコールよりも低く、鎮痛・鎮静・催眠などの医療的効果があることもわかってきて、国家が嗜好品としての使用を禁じる根拠が揺らいでいます。大麻が「ゲートドラッグ」になって違法薬物の乱用が拡まるとの危惧もありますが、実質解禁した欧米諸国でそのような事態が起きているようには見えません。

リベラリズムの基本は、他者の権利を侵害しないかぎり、悪癖を含む自由な選択を個人に保証することです。大麻に他者危害の恐れがないのであれば、「リベラル」を掲げるメディアや識者は率先して解禁の旗を振らなければなりません。

「カジノ特区」には、ギャンブル依存症を理由とした根強い反対があります。だとしたら日本も、依存性の低い大麻によって観光振興を図ったらどうでしょう。これならば、リベラリズムに背を向ける隣国とのちがいを、世界に向けて効果的にアピールすることもできるでしょう。

バンコクのカオサン通りにあるWEED-CITY(葉っぱ村)
大麻が実質解禁されたタイでは、こういうのがふつうに売られている

『週刊プレイボーイ』2023年5月22日発売号 禁・無断転載

テクノロジー悲観論者は世界と未来をどのように見ているのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年1月30日公開の「グローバル化とテクノロジー革命によって国境がなくなり 「上級国民(適正者)」と「下級国民(不適正者)」に二極化していく」です(一部改変)。

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2019年末に話題の翻訳書が相次いで刊行された。前回はスティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』(草思社)を紹介したが、今回は世界的ベストセラー『サピエンス全史』で知られるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』( 柴田裕之訳、河出書房新社)を見てみよう。

この順番にしたのにはじつは理由がある。ピンカーとハラリは、産業革命以降の“テクノロジー爆発”によって世界がどんどんゆたかで平和になっており、ひとびとはより幸福になった(はず)という事実(ファクト)を共有している。だが人類を待ち受ける未来について、ピンカーはとことん楽観的なのに対し、ハラリはかなり悲観的だ。両者を比較することで、私たちがどのような世界を生きているかがわかるだろう。

未来は「エリート層」と「無用者階級」に分断される

ハラリは前作『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』( 柴 裕之訳、河出書房新社)で、「エリート層」と「無用者階級」に分断される未来を描いた。

これは一種のテクノロジー・ハルマゲドン論で、今後、IT(情報テクノロジー)とバイオテクノロジーが指数関数的に高度化していくにつれ、それを自在に利用できる一部のエリート層に権力が集中し、ビッグデータを使ったアルゴリズムによる「デジタル独裁政権」が樹立される。エリートたちはCRISPR-Cas9のような遺伝子編集技術で知能や身体能力を強化したデザイナベイビーをつくり、この「ホモ・デウス(神人)」たちが“デザインされていない(原始時代の痕跡を色濃く残した)一般人類”とは別の社会を形成していくのだという。

その結果取り残された“一般人類”が「無用者Useless People」だが、彼らはエリート層から“搾取”されるわけではない。基本的な労働はAIを搭載したロボットがすべて行なうのだから、もはや支配層には下層階級を搾取する理由はなくなる。こうして捨て置かれた人間たちが「無用者階級」を構成する。

ハラリの未来イメージは、1997年の映画『ガタカ』に近い。遺伝子操作により優れた知能・体力・外見をもった「適正者」と、自然妊娠によって生まれた「不適正者」に分断された近未来が舞台で、不適正者の主人公(イーサン・ホーク)が、子どもの頃からの夢だった宇宙飛行士になるために「適正者」になりすまし。宇宙局「ガタカ」の一員になる。

ハラリは、「グローバル化が進めば国境がなくなり、世界は水平方向には統一されるが、同時に人類が垂直方向に分割される」と述べる。ネットスラングを使うなら、未来は「上級国民(適正者)」と「下級国民(不適正者)」に二極化していくのだ。

ハラリのもうひとつ主張が「自由主義(リベラリズム)の終わり」だ。

第二次世界大戦勃発前の1938年の人類は、「リベラルデモクラシー(自由な民主政)」「ファシズム(全体主義)」「コミュニズム(共産主義)」という三つのグローバルな物語を提示されていた。それが30年後の1968年(冷戦時代)には「リベラルデモクラシー」と「社会主義/共産主義」の二つに減っており、さらに30年経った1998年(冷戦終焉)には一つしか見当たらなくなった。これが「歴史の終わり」で、フランシス・フクヤマは、人類は未来永劫「リベラルデモクラシー」とともに歩んでいくだろうと宣言した。

だがハラリは、そこからさらに30年過ぎた2018年には「選択肢は一つもなくなっていた」と述べる。その理由が「21世紀の大衆迎合主義(ポピュリズム)の反乱」で、ひとびとはもはや自由主義の理想を信じることができなくなったのだ。

ポピュリズムの時代を象徴するのが2016年のトランプ大統領の誕生とイギリスのEU離脱(ブレグジット)で、ひとびとは「自由主義の崩壊」によって残された空白を「過去の局地的な黄金時代にまつわるノスタルジックな夢想」によって埋め合わせている。ドナルド・トランプは「MAGA:Make America Great Again(アメリカをふたたび偉大に)」のスローガンによって、1950年代あるいは80年代の「古き良きアメリカ」を21世紀によみがえらせようとする。イギリスのEU離脱支持者は、ヴィクトリア時代と同じ「栄光ある孤立」によって、イギリスが「独立した大国」となって復活することを夢見ている。

だがこれは、先進国だけの現象ではない。中国は賞味期限の切れたマルクスの思想を捨て去り、2500年前の孔子の思想(儒教)に立ち戻ろうとしているし、ロシアも社会主義時代(ソ連)を全否定し、ナショナリズムと宗教(ロシア正教)によって帝政ロシアの栄光を取り戻そうとしている。

人類は、テクノロジーによる巨大な社会的変動を迎えるまさにそのときに(あるいは社会が大きく変動しているからこそ)、それに対処する政治思想をすべて失ってしまったのだ。ハラリの現状認識をまとめれば、このようなものになるだろう。

AIは人類を絶滅させるか

AI(人工知能)がビッグデータと深層学習で急速に知能を高め、囲碁や将棋のチャンピオンを打ち負かすまでになった。自動運転が実用化されれば交通事故は激減し、タクシー運転手は不要になるだろう。今後、「進化」したテクノロジーが私たちの生活を大きく変えていくことは間違いない。

それがデジタル独裁制へとつながるのは、近年の認知心理学や行動経済学が明らかにしてきたように、ほとんどのひとは合理的な判断ができないからだ。ヒトの脳は進化の産物なので、いまも(基本的には)狩猟・採集の旧石器時代の環境に最適化されている。それがインターネットの時代に適応不全を起こすのはむしろ当然なのだ。

そう考えれば、多くのひとが判断を「合理的なAI」に丸投げしようと考えるのは当然のことだ。そうすれば、「意思決定」などという面倒なことをしなくてもすむ。こうして“AIの独裁”を受け入れるようになる。

ハラリの「デジタル独裁制」のイメージは、「超監視社会」になりつつある中国だろう。独裁的な政府はいずれ全国民のDNAをスキャンし、そのデータを中央当局に集約することで、「医療データが厳密に私有されている社会よりも、遺伝学と医学研究の分野で計り知れないほど優位に立てる」とされる。

来るべきデジタル独裁制は、次のように描かれる。

権力の最上層にはおそらく、名目のみの支配者として人間がとどめられ、アルゴリズムはたんなる顧問にすぎず、最終的な権限は相変わらず人間の掌中にあるという幻想を私たちに抱かせるだろう。私たちは、AIをドイツの首相やグーグルのCEO(最高経営責任者)に任命したりはしない。とはいえ、その首相やCEOが下す決定は、AIによって方向づけられる。首相は依然としていくつか異なる選択肢から選べるものの、その選択肢はすべてビッグデータ分析の結果であり、人間たちの世界観ではなくAIの世界観を反映している。

こうした「デジタル・ディストピア論」に対して、「楽観主義者」のピンカーは、「ロボポカリプス(ロボットが反乱を起こす「ターミネーター」的終末論(ロボット+アポカリプス)」のようなテクノロジーへの不安を、「ジェット機が鷲の飛行速度を超えたから、そのうち空から舞い降りて家畜を襲うのではないかと危惧するようなものだ」と一笑に付す。こうした誤解はすべて、知能とモチベーション、考えと願望、推論と目的、思考と欲求を混同することからもたらされる(このうち前者はロボット=機械でも可能で、後者は人間のみが有する)。

ピンカーはまず、「人間以上の知能をもつロボットを開発したとしても、そのロボットが主人である人間を奴隷にして世界を支配しようと「望む」なんてことがはたして起きるだろうか」と問う。知能とは「ある目的を達成するため、新たな手段を考える能力のこと」だが、目的をもつことは知能とはまったく関係ない。

だがロボカリプス論者は、「知能があれば目的をもつはずだ」と誤解し、次のようなシナリオを考える。

・ダムの水位を保つようにという目標を与えると、人工知能はその達成のために町を水没させるかもしれない。もちろん町の住人が溺れようがどうなろうが、人工知能の知ったことではない。
・「ペーパークリップをつくれ」という目標を与えると、人工知能は入手できるあらゆる材料を集めてクリップをつくろうとするので、人間の所有物や人間の体まで材料にするかもしれない。
・人間の幸福感を最大にせよと命じたら、人工知能はドーパミンを点滴したり、どんなに孤独でも最高に幸せになれるように脳の配線をつなぎなおすかもしれない。

どれもAIの専門家が警告していることだが、こうした主張は次のような矛盾した条件を満たさなければならない。

(1) 人類はすばらしく優秀なので、全知全能の人工知能をつくることができる。しかしすこぶるばかなので、動作テストもしないまま、人工知能に世界の支配権を与えてしまう。
(2) 人工知能はすばらしく優秀なので、ある材料から別の何かをつくる方法や、脳の回線をつなぎなおす方法を見つけだせる。しかしすこぶるばかなので、指示内容を誤解するという初歩的なミスを犯し、大混乱を引き起こす。

そのうえでピンカーは、『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』( 服部桂訳、みすず書房)のケヴィン・ケリー(『Wired』創刊編集長)の言葉を引用する。

1984年に第1回ハッカー会議を開催して以来ずっと、「技術はすぐに人間の能力を超え、人間を支配することになるだろう」という話を繰り返し聞かされてきたとケリーはいう。だがそれから数十年、技術は進化しつづけたが、いまだにそうした現象は見られない。

その理由をケリーは、「技術は強力になればなるほど、社会システムに深く組み込まれていくものだからだ」と説明する。AIのテクノロジーも、強力になればなるほどさまざまな社会ネットワークとつながり、世界をより安全で快適なものへと変えていくのだ。

現時点では、ハラリとピンカーのどちらが正しいのかを私が判断する術はない。だが今後、現実にAIが生活のさまざまなところで使われるようになれば、おおよその方向が見えてくるのではないだろうか。

「合理的な個人」という虚構

スティーヴン・ピンカー(楽観)とユヴァル・ノア・ハラリ(悲観)は、グローバル化についても同じ認識から出発する。ハラリは「文明の衝突」論を退け、私たちはみな「単一の混乱したやかましいグローバル文明」の一員であるという。

興味深いのは、その結果、いまでは世界は「文化差別主義者」で満ちあふれているとの指摘だ。リベラルな社会では「黒人は標準以下の遺伝子を持っているから罪を犯しがちだ」などという主張はとうてい受け入れらない。だが、「黒人は機能不全のサブカルチャーの出身だから罪を犯しがちだ」と述べるのは許されるばかりか、とても流行っているとハラリはいう。

人種差別的な社会では、マイノリティはどれほど努力してもマジョリティになることはできない(肌の色がちがう有色人種が白人になることはできない)。だが文化差別的な社会では、マイノリティはマジョリティの文化に同化することで、マジョリティの一員になることが許される。その意味で、「今日の文化差別主義者は従来の人種差別主義者よりも寛容かもしれない」。

だがヨーロッパの移民問題に見られるように、マイノリティは近代的な市民社会に同化するよう強い圧力をかけられ、(同性愛を罰したり、女の子に教育を受けさせないような)反市民社会的な慣習に固執するときびしい批判を浴びせられる。

私たちが抱える問題は、利害関係が複雑にからまり対立するグローバル文明に、「近代国家」という古い枠組みで対処するしかないことだ。その結果、核戦争や地球温暖化といったグローバルな問題に対して、ナショナリズムや宗教といった「局地的なアイデンティティ」が立ちふさがることになる。

人間の本性として、「当事者全員が同じ国家への忠誠心を共有しているときにだけ、民主的な選挙の結果を進んで受け容れる」ことができる。徹底的に社会的な動物であるヒトは、同じコミュニティに属する者のためには協力を厭わないが、異なるコミュニティに属する者の利害は無視する「部族主義者」として進化した。こうしたコミュニティを最大限に拡張したのが国家だが、そこでも統治の前提は「アメリカ人」「中国人」「日本人」のようなアイデンティティを共有していることだ。人種問題や移民問題を抱えるアメリカやヨーロッパではこのアイデンティティが揺らいでおり、それに不安を感じたひとたちが増えることで「ポピュリスト」や「極右」が台頭する。

ハラリは、「民主主義は有権者がいちばんよく知っているという考え方の上に成り立っており、自由市場資本主義は顧客はつねに正しいと信じており、自由主義の教育は自分で考えるように生徒に教える」が、「合理的な個人というものをそこまで信頼するのは誤りだ」という。

ホモ・サピエンスが「地球の主人」になれたのは、個人の合理性ではなく、「虚構をつくり出し、それを信じる」という類まれな能力によるものだった。これが『サピエンス全史』でのハラリの結論だが、私たちはいま「グローバル文明」という新たな共同体に必要な虚構をつくることができず、茫然と立ちすくんでいる。なぜなら、「さまざまな大陸に住む何億もの人の関係を理解しようとすると、私たちの道徳感覚は圧倒されてしまう」から。進化心理学でよくいわれることだが、「狩猟採集民の脳にとって、世界はあまりに複雑になり過ぎた」のだ。

このような「大規模な道徳のジレンマ」に、私たちはどう対処しているのだろうか。ハラリが挙げるのは次の4つだ。

  1. 問題の規模を縮小すること 「アメリカは善でイランは悪」のような善悪二元論で複雑な問題を単純化する
  2. 胸に迫る人間ドラマに的をしぼること 複雑なシリア難民問題を、「トルコの海岸でうつぶせで横たわる幼い男児」の写真で理解しようとする
  3. 陰謀論をでっち上げること 「格差拡大はウォール街の陰謀だ」のように、複雑な問題の背後にはなにかの陰謀が働いているとの筋書きをつくる
  4. ドグマを一つ生み出し、全知という触れ込みの理論か機関か支配者を信頼し、どこへなりと、導かれるままについていくこと この典型がIS(イスラム国)で、全知全能のアッラーの言葉に従うことで、その結果がどうなろうといっさい無関心でいられる。ハラリのいう「デジタル独裁制(全知全能のAI)」もこの一種になるのだろう。

資本主義の楽園と共産主義の楽園

『21 Lessons』で興味深いのは、「エリート層vs無用者階級」の分断への処方箋について述べているくだりだ。

「無用者(Useless People)」というのはその定義上、人的資本をすべて失ったひとだから、働くことで(人的資本を労働市場に投資して)富を獲得することができない。そのような貧困階級(プレカリアート)が大量に出現する未来を考えれば、「国家が全員にお金を配るしかない」との発想が生まれるのはごく自然なことだ。これがユニバーサル・ベイシックインカム(普遍的所得保障/UBI)で、欧米の「レフト(左翼)」「プログレッシブ(進歩派)」と呼ばれるひとたちのあいだでとても人気がある。

だがハラリは、最低所得を保障する代わりに、「普遍的な最低サービス」を保障する制度も考えられるという。「人々にお金を与え、好きなものを買えるようにする代わりに、無料の教育や医療や交通などを提供」する社会だ。結果的に無用者階級は、働かなくても最低限の生活を送ることができるだろう。

すべてのサービスを無料で享受できるようにするというのは、じつは共産主義の理想だ。そう考えれば、私たちは資本主義の楽園(普遍的最低所得保障)と共産主義の楽園(普遍的最低サービス保障)のユートピアを構想することができる。

だがここには、2つの困難な壁が立ちふさがる。ひとつは「普遍的」の定義で、サービスをどの範囲まで拡張すべきかという問題だ。

UBIを主張するひとたちは、「国家が国民にお金を配る」という「国家主義」を当然の前提としている。だがハラリは、このような偏狭な立場を退ける。「ユニバーサル(普遍)」という以上、その恩恵は最貧困国を含め、世界じゅうのすべてのひとびとに分配されなければならない。だがこのようにいわれて、アメリカやヨーロッパ、日本のようなゆたかな社会のひとたちは、自分たちの富がアフリカの貧しい国のために「普遍的」に使われることを許容するだろうか。

それより困難なのは、「最低」すなわち「基本的な必要」をどのように定義するかだ。

「「人間の基本的な必要」をいったんすべての人に無料で提供すれば、それは与えられるのが当然のものとなり、その後、基本的でない贅沢をめぐって熾烈な社会的競争と政治的闘争が起こるだろう」とハリルはいう。なぜなら、「ホモ・サピエンスは満足するようには断じてできていない」から。

拙著『上級国民/下級国民』(小学館新書)では、このUBIの限界を「性愛格差」で説明した。進化の産物であるヒトは、生存と生殖に最適化されるよう(利己的な遺伝子によって)設計されている。最低所得保障(ないしは最低サービス保障)によって生存の不安がなくなれば、残されたのは生殖=性愛の欲望だけだ。そうなれば、「経済格差」に代わって「性愛格差(モテ/非モテ)」がとめどもなく拡大していくだろう。

UBIを実現するには、「無用者階級」が「最低」の所得やサービスでも満足して生きられるようにするしかない。そのヒントは、じつはイスラエルにあるとハラリはいう。

ユダヤ国家であるイスラエルでは、ユダヤ教超正統派の男性の約半分が、国家からの所得やサービスの給付によって一生働くことなく、聖典を読み宗教的儀式を執り行なうことに人生を捧げる。そしてこの男性たちは、「最低生活」にもかかわらず、「どの調査でもイスラエル社会の他のどんな区分の人よりも高い水準の生活満足度を報告する」という。

その理由はおそらく、生存だけでなく性愛も満たされているからだろう。ユダヤ教超正統派の男性は、同じ超正統派の女性と結婚し、平均して7人の子どもをつくる。彼らのように「普遍的な経済的セーフネットを強力なコミュニティや有意義な営みと首尾良く結びつけられれば、アルゴリズムに仕事を奪われることは、じつは恩恵となるかもしれない」とハラリは述べる。もっとも私は、このような人生にまったく魅力を感じないが。

仏陀の教えでディストピアを乗り越えられるか

ハラリによれば、すべての問題の根源には「アイデンティティ」がある。私たちは、自分が何者であり、どの共同体(コミュニティ)に属しているかというアイデンティティ感覚がないと、不安に押しつぶされてしまう。

個人のアイデンティティは物語の上に築かれており、自分たちが所属する集団の制度や機関も物語の上に築かれている。この物語が聖書やクルアーン、あるいは国家創世の神話になるのだが、それらを「超えた」はずの近代的な市民社会も特有の物語にしばられている。

それが、「人間の感情は謎めいていて深淵な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でもあらゆる人間は等しく自由である」という物語であり、それを前提に民主主義は成り立っている。

だがいまや、来るべきテクノロジー革命が「個人の自由」という考えそのものを切り崩しつつある。その結果、グローバル世界の唯一の物語である自由主義(「創造せよ、自由のために戦え」)ももはや機能しなくなってきている。

物語=アイデンティティを失った人類が、AIによるデジタル独裁制という未来(ディストピア)を避けるにはどうすればいいのか。『21 Lessons』の最後で、唐突にハラリは瞑想(マインドフルネス)を登場させる。

仏陀の教えとは「万物は絶えず変化していくこと、永続する本質を持つものは何一つないこと、完全に満足できるものはないこと」だ。これが、アイデンティティに固執することなく生きていく道を人類に指し示しているのだという。

ここにいたってハラリの主張は、映画『マトリックス』にとてもよく似たものになる。全世界で大ヒットしたこの映画では、キアヌ・リーブス演じる天才ハッカー「ネオ」は、「赤い薬」を飲むことで「覚醒」し、自分たちがコンピュータによってつくられた仮想世界に生きているという「真実」を知る。

『21 Lessons』の最後で、ハラリは次のように書いている。

近い将来、アルゴリズムは人々が自分自身についての現実を観察するのをほぼ不可能にするかもしれない。そのときは、私たちが何者で、自分自身について何を知るべきかは、私たちに変わってアルゴリズムが決めることになるだろう。

あと数年、あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちは自分が本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ。