「人種差別を批判しても人種差別は解決できない」という問題

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年2月24日公開の「想像以上にやっかいな 「黒人に対するネガティブな人種バイアス」の解消」です(一部改変)。

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スタンフォード大学の社会心理学者ジェニファー・エバーハートは、黒人女性である自らの体験をもとに人種にもとづくバイアスを研究し、それを『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』(山岡希美訳、明石書店)にまとめた。原題は“ Biased(偏って)”で、アメリカ社会で、黒人がネガティブなステレオタイプ=人種バイアスの対象になっていることを表わしているのだろう。

とはいえ、エバーハートは人種差別を糾弾するSJW(社会正義の戦士:social justice warrior)ではない。彼女はサンフランシスコの対岸にあるオークランド警察署の啓発活動に協力していて、「警察署員の多くは毎日その正義を、時には大きな犠牲を払って実行していると感じていた」と評価している。それにもかかわらず、警察官は人種差別的な職務質問や身体検査を行なっているとして、「BLM=ブラック・ライブズ・マター(黒人の生命も大切だ)」の運動で「レイシスト(人種主義者)」のレッテルを貼られるている。その理由をエバーハートは、「潜在的なバイアスが人間の意思決定に作用する」からだとするが、本書を読むとこれが想像以上にやっかいな事態だとわかる。

黒人も黒人に人種バイアスをもっている

オークランドはバイデン政権で副大統領になったカマラ・ハリスの出生地で、1960年代以降、犯罪率が上昇し、全米でも屈指の「犯罪都市」という悪名を轟かせた。とりわけ1990年代にはかつてないほど凶悪犯罪が多発し、その多くは麻薬取引に関連していた。

市民からの強い圧力を受けた警察当局は、疑わしい者を片っ端から逮捕し、より多くの容疑者を刑務所に送った警察官には褒賞が与えられた。証言によると、点呼のときに上官は、「容赦なく行け。時にはルールを曲げなければならない」と部下たちを叱咤したという。

その結果、警察官たちは「ライダーズ」と名乗る自警団を組織し、無実の者に薬物を仕掛けたり、暴力を振るって自白させたり、犯罪行為をしたと偽って告発した。この異常な事態が数年続いたあと、2000年に「恐怖の支配に従うことを拒んだ」新米警官によって暴かれ、大きなスキャンダルになった。オークランド警察は、市民の信頼を取り戻すためにエバーハートに助力を求めたのだ。

社会学者のアリス・ゴッフマンは、フィラデルフィアの貧困な黒人集住地区に住み、6年にわたってストリートボーイズたちとつるむことで、アメリカの司法・警察制度の罠に絡めとられ、「(指名手配からの)逃亡者」にされていく彼らの境遇を報告したが、それと同じことがオークランドではもっと大規模に起きていたのだ。

参考:黒人の窮状を伝えた若手社会学者がキャンセルされるまで

この不祥事ののち、多くの警察官と直接、話をする機会をもったエバーハートは、「結局のところ、警察官は命を張っていることに対して評価されていると感じたいのだ。人々に尊敬される職業を選んだのだと実感したいのだ。そして、何より、彼らは自らの安全を確保しておきたいのである」と述べている。

それが「人種問題」へとこじれていくのには、次のようなメカニズムがある。

オークランドの黒人住民のなかで、凶悪犯罪に手を染めているのは3%程度にすぎない。それにもかかわらず、警察官は人種バイアスによって残りの97%も「犯罪者」のカテゴリーに入れてしまうため、住民からの反発が避けられない。その結果、「警察官は、犯罪との闘いに打ちのめされやすい。時間が経つにつれ、まるで自分たちが勝ち目のない戦争の歩兵であるかのように感じるようになる。尊敬も感謝もしてくれない人たちのために自分たちの命を懸けていることに不満を感じるようになる」という負の連鎖に陥っていく。

黒人に対する強い人種バイアスは、白人警察官だけでなく、黒人警察官や一般の黒人にも共有されている。オークランド警察署で行なった講演で、このことをエバーハートは、次のような印象的な逸話で説明している。

エバーハートが、当時、5歳だった息子のエヴェレットと飛行機に乗ったときのことだ。席に着いたエヴェレットは周りを見回したあと、たった一人の黒人男性の乗客を見つけて、「ねえ、あの人パパにそっくりだよ」といった。エバーハートが驚いたのは、その男性が夫にまったく似ていなかったからだ。身長も顔かたちもちがうし、なによりその男性は、長いドレッドヘアを背中まで伸ばしていた。エヴェレットの父親は坊主頭なのだ。

息子の次の言葉は、それよりさらに衝撃的だった。「あの男の人、飛行機を襲わないといいね」といったのだ。

「なんでそんなことを言ったの?」と声を低めて訊ねると、エヴェレットは母親を見上げ、悲しそうに「なんでそんなことを言ったのか分からない。なんでそんなことを考えていたのかも分からない」と答えた。

この講演のあと、一人の黒人警察官がエバーハートに声をかけた。潜入捜査をしていたとき、遠くにあやしい男を見つけたという。

その男は無精ひげを生やし、髪も乱れていて、服も破れていて、よからぬことを企んでいるように見えた。男が近づいてくると、警察官は、銃を所持しているのではないかと考えはじめた。

その男がいたビルに向かうと、一瞬、見失ってしまった。次に男を発見したとき、彼はオフィスビルのなかにいた。ガラス越しに男の姿がはっきり見えた。

警察官は、男と向き合う覚悟を決め、立ち止まってその目を見た。そのときはじめて、彼は自分自身を見つめていることに気づいたというのだ。

市民は警察官よりずっと「人種差別的」な行動をとる

不祥事のあと、捜査や検挙の「適正化」が図られてから10年以上たった2014年でも、オークランドで起きた凶悪犯罪のうち83%は黒人によるものだった。警察官は、自分たちの人種的なバイアスが犯罪統計と一致することで、取り締まりのやり方が正しいと認識してしまう。

これは「ニワトリが先か、タマゴが先か」の議論で、アメリカ社会の人種的な偏見によって黒人が犯罪へと追いやられるのか、それとも黒人の犯罪率が高いことで人種と犯罪が結びつくようになったのか、という話になる。いうまでもなく、前者がリベラル、後者が保守派の立場だ。

どちらが正しいにせよ、否定できないのは、こうした人種バイアスが黒人コミュニティに甚大な被害をもたらしていることだ。「アメリカでは毎年、警察官によって約1000人も(の黒人)が射殺されており、それらの死亡事件の11%は、大音量のマフラーや壊れたテールライトのような無害な交通の取り締まりから始まっていた」とエバーハートはいう。

とはいえ、問題は警察官のバイアスだけではない。オークランドの警察官が行なった約1000件ちかくの交通取り締まりの映像の発言サンプル(414件)を大学生のグループが評価したところ、警察官は全体的にプロフェッショナルな態度をとっていることがわかった。ただし、黒人のドライバーに対して攻撃的・暴力的な対応をするわけではないが、(その警察官が白人か黒人かを問わず)白人のドライバーに職務質問するときに比べて、相手が黒人の場合には敬意を払わない傾向があった(SirやMadamを使わず、ぞんざいな言葉遣いをした)。

それに対して、市民の人種バイアスはどうなのだろうか。

カリフォルニアでは、駐車中の車から1ドル盗むような些細なことでも、3回目であれば「スリーストライク法」の対象となって重罪に処せられる。この規定はあまりにきびしすぎるとずっと批判されてきたが、カリフォルニアの有権者に、受刑者の顔写真を見せて賛否を問うと、黒人受刑者の写真を増やせば増やすほど、有権者たちは法律の緩和を支持しなくなった。

このことがよりはっきりわかるのが、「撃つか撃たないか」実験だ。モニターに銃を持った人物か、同じような格好をしているがコーヒーカップなど無害なものを持った人物が映される。銃を持っている場合は「撃つ」、そうでない場合は「撃たない」ボタンをできるだけ素早く押す。

この実験では、銃を確認して「撃つ」ボタンを押す方が、銃がないことを確認して「撃たない」ボタンを押すより反応が速いことがわかった。ヒトが危険に対して瞬間的に判断するよう進化してきたとすれば、この結果は順当だ。

困惑させられるのは、銃を持った白人に対してよりも、銃を持った黒人に対しての方が「撃つ」と反応するのが速かったことだ。さらに、銃を持っていない黒人に対して、誤って「撃つ」と反応してしまう可能性も高かった。こうした人種バイアスは大学生だけでなく地域住民も同じで、白人と黒人の両方の被験者で確認された。

ここで誰もが、アメリカ社会を揺るがした何件もの警察官による黒人市民の射殺事件を想起するだろう。だがこの実験が示したのは、より複雑な結果だった。

黒人の犯罪率が高い大都市で働く警察官は、反応時間においてもっとも大きな人種バイアスを示す傾向があった(銃を持った黒人に素早く「撃つ」のボタンを押した)。ところが、警察官が銃を持っていない人物を撃つ確率は、相手が黒人でも白人でも同じだったのだ。

犯罪の最前線にいる警察官は、たしかに強い人種バイアスを共有しているが、武力行使訓練を受けていることで、銃があるかどうかを、相手の人種にかかわらず適切に見分けていた。

アメリカの左派(レフト)は、「人種差別的な警察」を市民が代替することを求めているが、治安を守るために市民に銃を持たせれば、黒人コミュニティにさらに多くの悲劇が起きるだろう。実験が示すところによれば、訓練を受けていない市民は、警察官よりずっと「人種差別的」な行動をとる確率が高いのだ。

「罪は黒く、美徳は白い」というバイアス

日本でも「ブラック企業」「ブラックバイト」などの用語が黒人への偏見を助長するのではないかと議論になっているが、「黒という色を素早く、そして容易に不道徳なものと関連づけてしまう」バイアスはどこにでも見られるとエバーハートはいう。

画面に表示された文字のフォントが白か黒かをできるだけ素早く答える実験がある。このとき、不道徳に関連する単語(例えば「下品」など)は白のフォントで表示されたたときよりも、黒のフォントで表示されたときの方が、被験者の反応速度が速かった。その一方で、道徳に関する単語(例えば「高潔」など)は、黒よりも白のフォントで表示されたときに方が、早く言い当てることができた。この実験を行なった研究者は、「罪はただ汚いだけでなく、黒いのである。そして美徳はただ綺麗なだけではなく、白いのである」と述べている。

このような根強い人種バイアス=偏見に対して、社会はどのように対処すればいいのだろうか。リベラルから支持され、広く行なわれているのが「カラーブラインド」だ。肌の色ではなく一人ひとりの個性を評価することで、「肌の色は見ないようにすること。肌の色については考えないようにすること。人種について考えようとしなければ、バイアスにかかることはないであろう」とされる。――日本でも、女性社員などへの差別・偏見に対処する「ジェンダーブラインド」が唱えられるが、これも同じ発想だ。

だがエバーハートは、カラーブラインドは一見、素晴らしい理想のように聞こえるが、「科学的根拠はなく、実際に達成するのは困難である」という。アメリカ社会では、初対面の相手と出会ったときに、性別・年齢に加えて、肌の色でグループ分けが行なわれる。それにもかかわらず、アメリカの学校ではカラーブラインドの教育をしているので、子どもたちでさえも、肌の色に言及することは無礼だと考える。集団のメンバーを説明する課題で、そのなかに黒人が一人だけいるなら、人種を指摘するのは明らかに有用だ。そんな場合でも、子どもたちは10歳になる頃には、人種について話すことを控えるようになってしまうという。

皮肉なのは、こうした「人種教育」が逆効果になっていることだ。実験によると、カラーブラインドの思考態度を教え込まれた子どもは、明らかに黒人という理由でいじめられた事例(他の子どもにわざと転ばされたなど)に対して、それを差別的だと判断する割合が低かった。カラーブラインド群の子どもたちの説明を聞いた教師も、問題行動は軽度であると判断し、標的とされた子どもを保護するために介入する可能性が低かった。

これを受けてエバーハートは、「カラーブラインドは、その意図とは全く正反対のもの、つまりは人種的不平等を促進していた」と結論する。「それは、マイノリティの子どもたちに、彼らが耐え忍ぶ苦痛が気づかれない環境で、一人で闘うことを強いている」のだ。

ダイバーシートレーニングは差別の許可証

アメリカ社会では、白人は「人種主義者」と見なされることを極端に恐れている。見知らぬ黒人と話すとき、白人はストレスで心拍数が上がり、血管が収縮し、脅威に備えているかのように身体が反応する。さらには認知機能までが低下し、単語認識のような単純な課題にも苦労するようになるという。

こうした白人の態度は「ホワイト・フラジリティ(白人の脆弱性)」と呼ばれている。ロビン・ディアンジェロの同名の著書(『ホワイト・フラジリティ』)はアメリカでベストセラーになり、彼女は企業などにダイバーシティ(多様性)トレーニングを提供する活動を行なっている。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

エバーハートは直接、ディアンジェロについて言及しているわけではないが、アメリカ企業が行なっている人種多様性の研修は、「その効果が検証されたことがない」と手厳しい。日本企業でもダイバーシティ研修の導入が進められているので、それについての指摘を引用しておこう。

「バイアス研修は急速に成長している営利事業であり、結果に問題があれば、トレーナーの収益に影響を及ぼす可能性がある。だから、「はい、従業員は研修を終えています」という項目にチェックを入れて、研修は成功したとする方がむしろ楽なのではないだろうか」

「現在、この事業で活躍しているトレーナーの多くは、心の謎を解明しようとしている科学者ではなく、メッセージを伝え、需要の高い商品を売ろうとしている起業家なのである。実際、そのリスクを考えると、研修に効果があるかどうかや、特定の条件において効果が薄れる可能性がある理由について知らない方が得策なのかもしれない」

「同様に、研修を依頼する組織も、その効果を測定するために時間と費用を費やす動機がほとんどないのである。組織にとっての主な動機が、バイアスを抑えるために何かをしていることを出資者や世間に示すことである場合、研修の効果が限定的であるという知見を提示されることは不要なリスクになる」

社会心理学では、「人は、過去の行動に偏見を持たなかったと自任できる時、偏見を持つ可能性のある態度を表明しがちだ」という傾向を「道徳の証明」と呼ぶ。「私には黒人の親友が何人もいる」との表明が一種の許可証となり、自分の平等性・道徳性はすでに十分に証明されたのだから、人種差別的な態度をとる権利があると考えるようになるというのだ。

研究者がフォーチュン500(全米上位500社)の企業を追跡調査したところ、特定の分野で「企業の社会的責任(例えば、安全記録を改善すること)」を謳っている会社は、重要な安全警告を無視して無責任な行動をとる可能性がかなり高いことが判明した。「それはまるで、責任ある行動をとることで、無謀な行動をとる権利が与えられたかのようであった」と研究者は述べている。

同様に、ダイバーシティ研修を積極的に行なっている「リベラル」な会社は、それが「道徳の証明」となって、人種的なバイアスの強い判断をするようになるかもしれない。――真っ先に思い浮かぶのは、人種差別への反対を表明しながら、社員の黒人比率が極端に低いシリコンバレーの企業だろうが、スタンフォード大学で教えるエバーハートはこれについてはなにもいっていない。

他者のバイアスを誰が批判できるのか

「他人種効果」は、「自分と同じ人種の顔を認識するのは得意だが、異なる人種の顔はうまく見分けられない」ことで、日本人は、アジア系と(メディアや映画などで見慣れている)白人の顔は一人ひとり区別できても、黒人は難しいだろう。

赤ん坊は生後3カ月になると、他の人種より、自分と同じ人種の顔に対し強く反応するようになる。進化論的にはこれは当然で、自分の世話をしてくれるのは、自分の身近にいるひとたち(通常は同じ人種)なのだから、認知的な資源に強い制約がある以上、それ以外の顔を記憶しておく理由はない。

2014年、オークランドのチャイナタウンの繁華街で、強盗事件が驚くほど増加した。10代の黒人の少年たちが、中年のアジア系女性のカバンを強奪したのだ。

警察は容疑者を逮捕し、盗品の一部を回収したが、最終的には、どの事件も起訴することができなかった。ひったくり犯の顔を見ていたはずの被害者が、面通しの際に、容疑者のなかから犯人を特定できなかったからだという。

その後、何件かのひったくり事件が解決し、刑務所に送られた強盗犯が自供してはじめて、ようやく事態が明らかになった。「なぜこの女性を狙ったのか」と聞くと、彼らは包み隠す様子もなく、「アジア人は俺らを特定できない。俺たちを見分けることができないのさ」と話した。「それは夢のような話だ。だからやる」というのだ。

黒人女性は、ほんのひと目見ただけでも、黒人の強盗犯をかなり高い確率で特定することができた。「他人種効果」に気づいた黒人のストリートボーイズたちは、チャイナタウンでひったくりをすれば起訴できないことを学んだのだ。アジア系の女性たちに強い不安を与えたこの連続ひったくり事件は、チャイナタウンの通りに監視カメラを設置することでようやく収束に向かった。

本書の最後でエバーハートは、高校生になった息子エヴェレットの体験を紹介する。スタンフォード大学近くの小道を自転車で帰宅する途中、若いアジア系女性がジョギングしながら向こうからやってきた。彼女は顔を上げてエヴェレットを見ると、じゅうぶんに幅の広い小道から逸れていった。

「少しだけ悲しくも感じた」という息子に対し、「(これからエヴェレットは)彼の姿を見ただけで恐怖を感じる人がいることに慣れなければならない」とエバーハートは書く。エヴェレットにとってはもちろん、親としてもつらい体験だろうが、これを「黒人に対するバイアス(偏見)」と説明して済ませてしまっていいのだろうか。

黒人のストリートボーイズからひったくりの標的にされたアジア系女性たちは、自分の娘や近所の若い女性たちに、「黒人の若い男に気をつけなさい」と日頃から注意するようになるだろう。そのように育った女性が、自転車に乗って近づいてくるエヴェレットを見て、接触を避けたのかもしれない。

リベラルな社会では、「バイアス」は無条件に批判の対象となる。ではいったい誰が、このアジア系女性に「あなたのバイアスを正しなさい」といえるだろうか。

参考:「あなたを人種や性別ではなく、個人として評価します」はマイクロアグレッションという差別

禁・無断転載

結婚式はなぜ豪華になるのか? 週刊プレイボーイ連載(555)

「コロナが一段落したら、結婚式が大変なことになってるの知っている?」と知人からいわれました。姪から結婚式のオンライン招待状(動画)が送られてきて、場所が虎ノ門ヒルズになっていたので、「いったいいくらかかるの?」と母親(姉)に訊ねたところ、「700万円くらいみたいよ」といわれたというのです。そこで驚いて知り合いに聞いてまわると、「結婚式がどんどん豪華になっている」とみんな口を揃えたというのです。

近年の社会学では「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」に変わったと論じられます。

近代以前のヨーロッパでは、結婚はイエ同士の関係をつくる政治的な儀式で、恋愛はその外で行なわれていました。それが一夫一妻の近代家族に再編されるなかで、恋愛と結婚・生殖が一体化して、「純愛から結婚へ」という物語が定着します。逆にいえば、不倫のような結婚を前提としない恋愛は“不純”なのです。

日本ではこの「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」は、戦後の高度成長期に定着したとされます。バブル期(1980年代後半から90年代前半)に人気を博したトレンディドラマでは、さまざまな設定の登場人物たちの恋愛模様が描かれ、いろいろ波風はあったものの、最後は主人公同士が結婚して大団円というのが定番でした。

ところがその後、結婚や生殖を前提としない恋愛への許容度が高まっていきます。いまでは子どものいない夫婦は当たり前で、芸能人などを例外とすれば、不倫が冷たい視線を浴びることもなくなりました(逆に、「好きなひとが見つかってよかったね」といわれるかもしれません)。

だとすれば、結婚の価値が低くなっているのでしょうか。じつは、現実にはこれと逆のことが起きているようなのです。それが、「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」です。

純愛(ロマンティック・ラブ)が素朴に信じられていた時代には、結婚はその必然的な帰結なのですから、結婚式を無駄に豪華にする必要はありません。「地味婚」や「ナシ婚」で簡略化したり、近所のレストランを借り切って親しい友人を呼ぶだけのパーティで構わないのです。

ところが恋愛が多様化してくると、いまつき合っている相手との関係が「純愛」なのかどうか確信がもてなくなってしまいます。

婚活サイトによって恋愛の自由市場がつくられると、「もっといい人がいるかもしれないシンドローム」が急速に広まりました。理論的には、より自分に適した性愛の対象が恋愛市場のどこかにいることは間違いないのですから。――男女の性愛の非対称性から、こうした「選り好み」と「先送り」はとりわけ若い女性で顕著に起きるでしょう。

それでも、女性が妊娠・出産できる年齢には生物学的な限界があるので、どこかで結婚に踏み切らなくてはなりません。そんなとき、自分たちの「純愛」が不安定であればあるほど、豪華な結婚式によって、それを正当化したいと思うのではないでしょうか。

このように考えると、婚姻率が低下する一方で、結婚式が豪華になっていく理由がなんとなくわかるのです。

参考:谷本奈穂、渡邉大輔(2016)「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考―恋愛研究の視点から―」『理論と方法』

週刊プレイボーイ』2023年3月6日発売号 禁・無断転載

「インターセクショナリティ(交差性)」はアイデンティティの迷宮

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年3月18日公開の「現代の社会科学で「最重要概念」である「インターセクショナリティ」は、「人種」「階級」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「年齢」などアイデンティティズの”交差点”」です(一部改変)。

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社会がリベラル化するにつれて、ひとびとは差別や偏見にますます敏感になっている。とはいえこれは、わたしたちの社会が奴隷制、身分制、家父長制に戻りつつあるということではない。実際に起きているのは、それとは逆に、こうした「大文字の差別」が是正されてきたことで、これまで問題とされてこなかった「小文字の差別」が可視化されてきたということなのだろう。

もちろん、これが些細な問題だというつもりはない。こうした日常的な「アグレッション(攻撃)」が、あからさまな差別よりも大きなダメージを与える可能性があるとの強力な主張がある。

参考:「あなたを人種や性別ではなく、個人として評価します」はマイクロアグレッションという差別

前回紹介した「マイクロアグレッション」と並んで、現代の社会科学で「最重要概念」とされているのが「インターセクショナリティ」だ。intersectionは「交差点」のことで、そこから派生したintersectionalityには「交差性」という見慣れない訳語が当てられている。

だが用語の新奇さにもかかわらず、インターセクショナリティがなにかはきわめてわかりやすい。だがそのわかりやすさゆえに、ある種の「迷宮」に迷い込んでいくことを、あくまでも私の理解の範囲内でだが、パトリシア・ヒル・コリンズ/スルマ・ビルゲの『インターセクショナリティ』(小原理乃訳、人文書院)から考えてみたい。

著者のコリンズはメリーランド大学カレッジパーク校名誉教授、ビルゲはモントリオール大学教授で、いずれも人種、ジェンダー、階級などの研究で知られている。本書はその2人が、社会科学を学ぶ大学生などに向けて執筆した教科書の第2版で、トランプ政権下の2020年に出版された。

特権的なマイノリティへの異議申し立て

現代社会では、意識しているかどうかにかかわらず、わたしたちは複数のアイデンティティをもっている。(私も含め)この文章を読んでいるひとの多くは、「日系日本人」「異性愛者」「男/女(シスジェンダー)」だろうが、日本社会には「在日韓国・朝鮮人」「同性愛者」「トランスジェンダー」などの異なるアイデンティティをもつマイノリティもいる。

インターセクショナリティ(交差性)とは、こうしたさまざまなアイデンティティズ(identitiesと複数形で表記される)が重ね合う「交差点」だ。

私は「リベラル化」を「自分らしく生きたい」という価値観だと考えている。その必然的な帰結がインターセクショナリティであることを示すために、今から半世紀前にアメリカ西海岸で行なわれたカンビーというイベントに参加したあるブラックレズビアンの回想を引用しよう。

(カンビーでは)本当の自分自身のままでいることができ、その自分の全てが受け入れられたのは、本当に素晴らしいことであった。1970年代初めにおいて、ブラックで、レズビアンで、フェミニストであることは、ものすごく勇気のある人間であることを意味していた。それはほとんど恐怖に近い感覚だった。

1970年代のアメリカでは、「黒人」「レズビアン」「フェミニスト」という複数のマイノリティのアイデンティティを抱えることは、「自分らしさ」を全否定されるような経験だった。だからこそ自分のアイデンティティがすべて認められ、「本当の自分自身のままでいること」ができる「交差点」が求められたのだ。

著者たちによれば、アメリカにおいてインターセクショナリティが意識されたのは1960年代で、当時の社会運動のなかで、「黒人運動における黒人男性」「フェミニズムにおける白人女性」「労働者の権利を提唱する社会主義者」などの特権的なマイノリティへの異議申し立てがなされるようになった。

とりわけ、人種差別闘争で黒人男性の、フェミニズム運動で白人女性の従属物のように扱われた黒人女性が、特定のアイデンティティの優越的な地位に抗議し、1974年に「ブラック・フェミニスト声明(コンバヒー・リバー・コレクティブ声明)」を発表した。

黒人女性の法学者キンバリー・クレンショーは、1989年の論文で、ブラックフェミニズム(Black feminism)の立場から、主流派である白人のフェミニズム(White feminism)を批判し、「インターセクショナリティ」という「造語」をはじめて使った。それが、他のさまざまなアイデンティティに拡張されて現在に至っているとされる。

78億のアイデンティティへ

インターセクショナリティを構成するアイデンティティズとして、著者たちは「人種」「階級」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「ネイション(国籍)」「アビリティ(障害)」「エスニシティ(民族)」「年齢」を挙げているが、それ以外にも「宗教」「身分(カースト)」「血統」などが重要なアイデンティティとなっている社会があるだろう。

アイデンティティのなかには生物学的な基礎があるものもあるが(ジェンダー、セクシュアリティ、異論はあるだろうが人種=ヒト集団も)、そのほとんどは社会的に構築されたものだ。その結果、社会がリベラル化・複雑化するにつれて、アイデンティティの数は際限なく増えていく。そのことがよくわかるのが性的マイノリティの呼称だ。

かつてセクシュアリティは、「異性愛者/(男性)同性愛者」の二分法で語られたが、現在は「LGBT」と表記されるようになった。「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」のことだが、それが本書では「LGBTQIA2+」となっている。新たに加わったのはクィア(規範的な性のあり方から外れている)/クエスチョニング(自身の性自認・性的指向が決まっていない)、インターセックス(身体的性が一般的に定められた男性・女性の中間もしくはどちらとも一致しない)、アセクシュアル(他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かない)、トゥー・スピリット(複数のジェンダーロールを生きるひとびとを指す北米先住民の言葉)で、最後の「+」はそれ以外のさまざまなジェンダー・セクシュアリティだ。

本書では「ピープル・オブ・カラーPeople of Color」という用語が頻出する。日本語では「有色人種」のことだが、インターセクショナリティ(および批判的人種理論Critical Race Theory: CRT)では人種は実体のない社会的構築物だとされており、そのため意図的に「Race」の使用を避けている。そうなると「有色のひとびと」と訳すほかないが、これは日本語として奇異なので、そのままカタカナ表記するようになったのだろう。――「ウィメン・オブ・カラーWomen of Color」も同じで、「有色の女性」の総称だ。

こうした言葉は白人や黒人のWoke(意識高い系)が好んで使うが、多様な人間集団を「色なし(白人)」と「色付き(有色人種)」に二分するのはあまりにも乱暴だ。この世界観では、日本人は「アジア系」で、黒人、ヒスパニック、インディアン(ネイティヴアメリカン)などといっしょくたにされて「ピープル・オブ・カラー(POC)」と呼ばれることになるが、これでは「自分らしさ」が表現できないと感じるひとは当然いるだろう。

日本人とインド人を同じエスニックグループと見なすひとはどちらの側にもいないだろが、アメリカで広く使われている「アジア系」という人種カテゴリーは、東アジア、南アジア、東南アジア、中央アジア、西アジアなどのユーラシアの多様な地域を同じものと扱っているし、そのうえ西アジアや北西アジアは「イスラーム」というくくりと混然一体となっている。「黒人(Black)」ですら、アフリカン・アメリカン(奴隷の子孫)、アフロ・ラテン(中南米からの移民)、アフロ・カリビアン(カリブ諸島からの移民)などへと細分化しはじめている。

「グローバルノース」「グローバルサウス」という用語も頻出するが、ここでは先進国を「ノース」とし、「後進国」「発展途上国」「新興国」などと呼ばれたアフリカ、中近東、南アジア、中南米カリブなどを「サウス」というなんとも大雑把なくくりに放り込んでいる。「アフリカ」というサブカテゴリーにしても、当のアフリカの活動家が、「アフリカには54の国と数えきれないほどの部族、伝統、文化(カルチャー)、そして言語があるが、多くの場合、アフリカは一つのカテゴリーにまとめられ、その多様性が軽視される」と批判している。

このように、インターセクショナリティを徹底すると、一人ひとりが「自分らしさ」を感じられる国家、民族、部族、文化共同体へとアイデンティティは「解体」していくほかはない。本書ではこのことは、「インターセクショナリティの複雑性」と呼ばれている。その必然的な帰結は、誰もが唯一無二の「自分らしさ」を主張できる78億のアイデンティティだろう。

あまりに複雑なものは理解できない

インターセクショナリティは「左派のラディカルな社会闘争の理論」と思われがちだが、本書を読むと、それが社会のリベラル化・複雑化に対応した分析の枠組みであることがわかる。

アメリカのアカデミズムは、政治的な問題を扱う際、「人種」と「ジェンダー」を異なる分野としてきた。その結果、人種とジェンダーが「交差」する場所にいる黒人女性は研究対象から排除されてしまった。

社会運動にしても同じで、シングル・イシュー・ポリティクス(単一の問題のみに着目する政治)では、人種問題では黒人男性が、ジェンダー問題では白人女性が特権的な地位を得る一方で、それ以外のマイノリティの存在は忘れられていく。こうした現実に光を当てたからこそ、インターセクショナリティは研究と実践の双方で大きな影響力をもつようになったのだろう。

著者たちは、女性に対する暴力がなぜ解決できないかについてこう述べている。

女性を一つの均質な集団として捉えたり、男性を加害者として描いたり、暴力の現場としての個人や国家権力にのみ焦点を当てていては、解決策は見つけられない。女性に対する暴力を解決するために、ジェンダー、人種、階級といった単一の視点だけを通していては、対処できることはないだろう。例えば、加害者である男性と被害者である女性というジェンダーに限定された視点や、黒人女性に対するDVよりも黒人男性に対する警察の暴力を優先する人種的に限定された視点は、非・交差的思考の限界を示している。

女性への暴力について、フェミニズムは「トキシック・マスキュリニティ(有毒の男らしさ)」を批判するが、インターセクショナリティの視点に立てばこれだけでは充分ではない。なぜなら、性暴力という権力の発動の背後には、ジェンダーだけでなく、人種や宗教、エスニシティなど、多様なアイデンティティに向けられた複雑な権力システムがあるのだから。

著者たちは、現代社会の主要な権力について「レイシズム」「植民地主義」「異性愛主義的家父長制」「ナショナリズム」「エイブリズム(障害者に対して健常者を正常と見なすこと)」「ネイティヴィズム(移民に対してネイティヴに優越的な地位を与えること)「エイジズム(若者に対して高齢者を劣った者と見なすこと)「種差別主義(生物界においてある種が他の種よりも優れているという考え。スピーシージズム)」を挙げている。インターセクショナリティはいまや、人間を超えて動植物や地球環境にまで拡張しているのだ。

こうした細分化は、これまで無視されてきた社会の周縁にいるマイノリティを研究や実践の場に拾い上げ、代表的なマジョリティ(白人/男性)と代表的なマイノリティ(黒人/女性)の対立という粗雑な分析を、権力システムの複雑性を取り入れたより精緻なものに推し進める原動力になった。

だがすぐにわかるように、インターセクショナリティのこうした長所は、同時にさまざまな問題を引き起こすことになる。なぜなら、あまりにも複雑なものをわたしたちは理解できないから。

このことは、インターセクショナリティを説く著者たちが、それにもかかわらず「ピープル・オブ・カラー」や「グローバルサウス」という個別性を無視した用語を使わざるを得ない矛盾によく表われている。「白人/先進国が社会の仕組みを支配している」と主張するためには、単純な善悪二元論に依拠する以外ないのだ。

こうしてインターセクショナリティは、さまざまな批判にさらされることになる。

アイデンティティ・ポリティクスへの左派からの批判

インターセクショナリティの“出自”がブラックフェミニズムである以上、標的となったホワイト・フェミニズムからの反発は必至だった。著者たちはそれを、「一部の白人のフェミニストたちがインターセクショナリティに対してあらわにしている抵抗、さらに言えば真っ向からの敵意」と述べている。

白人のフェミニストは、インターセクショナリティを「特権のあるウィメン・オブ・カラーのためのツール」だとして、「黒人女性やウィメン・オブ・カラーは、もはや権利を奪われることなく、疎外的な言葉であるインターセクショナリティを介して、教育水準が低い白人女性の抑圧者になったり、インターセクショナリティがフェミニズムを弱体化させる欠陥のあるアイデンティティ・ポリティクスに頼っている」と批判した。

高学歴の白人フェミニストたちは、黒人など人種マイノリティのフェミニストから自分たちの「特権」を批判されたことで、「教育水準が低い白人女性」を持ち出して、ピープル・オブ・カラーの高学歴のフェミニストこそが「特権層」だと反論した。これは控えめにいってもかなり醜悪な主張で、著者たちが「私たち〔白人のフェミニスト〕の用語を用いろ、そうでなければ私たちの問題は最前面かつ中心でなくなるからだ」といっているだけだと一蹴するのも当然だろう。

しかし、「インターセクショナリティがフェミニズムを弱体化させる」との左派からの反論には根拠がある。これまで述べたように、アイデンティティが細分化されれば、それに応じて社会運動も細分化されていくからだ。「すべての女性のためのフェミニズム」が「白人のフェミニズム」と「黒人のフェミニズム」に分裂したように、やがて「ヒスパニックのフェミニズム」「アジア系のフェミニズム」などが「ブラックフェミニズムは自分たちを代表していない」と主張するようになるだろう。

同様に、人種問題におけるピープル・オブ・カラーのアイデンティティも細分化され、それが別のアイデンティティと「交差」することで、一つひとつの運動の規模はきわめて小さなものになっていくだろう。「インターセクショナリティは社会現象や政治的なプロセスを解明するためにアイデンティティに説明力を与えすぎている」「分析カテゴリーとしてパーソナル・アイデンティティが過剰に用いられている」という指摘には説得力がある。

経済格差や社会階級を主要な問題とするマルクス主義者は、「インターセクショナリティは、人々の注意をカルチュラルな問題に向けることで、階級闘争を弱体化させる」と批判する。「アイデンティティ・ポリティクスは、資本主義の下で疎外された個人の姿を再現するため、闘争は、よくても集団間の平等、最悪の場合は個人化された闘争という形態をとる」のだ。

現代社会で「階級」や「人種」「ジェンダー」がどれほどの意味をもっているかについては膨大な論争があり、ここではこのやっかいな領域には立ち入らないが、運動を担う側からすれば、インターセクショナリティを脅威と感じるのは当然だろう。

液状化する社会運動

アイデンティティ・ポリティクスは、個人の多様なアイデンティティに基づいた社会を実現しようとする政治的立場だが、社会がリベラル化・複雑化するにつれてそれは「分離主義的で断片的なもの」になっていくほかはない。グループをこれまで以上にさらに小さなグループに分割してしまう傾向は、「無限の逆行問題」と呼ばれている。

さらに近年、アメリカでは「白人至上主義者」が、「自分たちはアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)という“逆差別”の被害者だ」というアイデンティティ・ポリティクスを展開するようになり、アイデンティティを重視してきた左派のあいだで混乱が広がった。その結果、現在では「黒人」「女性」のようなアイデンティティを絶対化することは「悪しき本質主義」と見なされるようになったという。

これまでアイデンティティ・ポリティクスに抗議(というか罵倒)するのは右派・保守派と相場が決まっていたが、興味深いことに、近年のアメリカでは「ポストモダン左翼」がインターセクショナリティを「被害者性の政治(ポリティクス)を助長する」と批判するようになった。「アイデンティティ・ポリティクスを主張する人々は、基本的に、承認を求めるための分離主義的な主張をベースとし、女性、黒人、あるいは障害者といったある種の「犠牲者」的な立場にしがみついている」とされ、「こうした人々の政治的な主張は、被害者性にのみ基づいており、他に価値のあるものは何もない」のだという。

日本においては、「被害者中心主義」は嫌韓の“ネトウヨ”が好んで使う言葉だが、アメリカでは左翼(レフト)が、マイノリティによるアイデンティティの主張を「傷ついた執着」だとし、「自らの傷を蒸し返し抑圧者を責める」だけだと、“ネトウヨ”とまったく同じ主張をしているのだ。

これに対して著者たちは、「アイデンティティは流動的なものだ」として、次のように反論する。

インターセクショナリティの研究は、アイデンティティの意味を「〔個人/集団が〕持つもの」から「〔個人/集団が〕行うもの」へと変えた。個人のアイデンティティズは、人がある状態から次の状態へと抱えていく固定された本質なのではなく、ある社会的文脈から次の社会的文脈へと異なる形で演じられて(パフォーム)いくものと見なされるようになった。

アイデンティティは常に完成されることのないbocoming(なること)の〈プロセス〉であり、単一で、完全で、完成された状態ではなく、移り変わりゆく〈アイデンティフィケーションズ〉のプロセスなのだ。

アイデンティティとは個人の「本質」ではなく、社会のなかでの「パフォーマンス」だというのは魅力的な視点だと思うが、しかしこれでは、「問題」はさらに悪化するだけではないのか。アイデンティティが「移り変わりゆく」ものなら、「人種」や「ジェンダー」という社会運動の基盤が“液状化”してしまう。そこでは、アイデンティティに基づいたどのような政治(ポリティクス)も正当化できないだろう。

とはいえこれは、インターセクショナリティという新しい社会概念に対するあくまでも私の理解であることを最後にもういちどお断りしておきたい。

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