「解決できる問題」はとうに解決されているという不都合な現実 週刊プレイボーイ連載(547)

今年の事件といえば、世界ではロシアによるウクライナ侵攻、国内では安倍元首相銃撃事件でしょう。両者に共通するのは、その後の展開が紆余曲折を繰り返していることです。

隣国への一方的な侵略が許されないのは当然ですが、核保有国同士の戦争は人類滅亡につながってしまうので、クウェートに侵攻したイラクをアメリカ主導の多国籍軍で懲罰したようなことはロシアにはできなせん。それに代わってきびしい経済制裁を課したわけですが、中国やインドなどは同調せず、先進諸国もエネルギー価格の高騰で国内政治が動揺したため、ロシア産原油の取引を事実上黙認している状態が続いています。

より深刻なのは新興国で、ウクライナとロシア産の穀物輸入が途絶え食料価格が上がったことで、中東やアフリカからヨーロッパにふたたび難民が押し寄せています。物価を下げるにはロシアへの制裁を緩和しなければなりませんが、それはできないので、「世界の人権の守護神」であるEUは、ボートの転覆などで多くの難民が遭難・死亡する現実を放置しています。

安倍首相を銃撃した男が、旧統一教会への多額の献金で家庭が破壊されたのを恨んでいたことがわかって、カルト宗教の被害者の救済が大きな政治問題になりました。とはいえ、自由意志による献金と、強要された献金を区別する基準はなく、国家が宗教活動に安易に介入することもできないので、与野党が合意した被害者救済新法案は「言葉遊び」と批判されています。

より原理的に考えるならば、「解決できる問題」はとうに解決されているはずですから、いま残っている問題は、解決がきわめて困難か、そもそも解決が不可能な問題ばかりのはずです。ところが、利害が複雑にからまる問題は認知的にきわめて不快なので、それぞれの立場で自分が考える「正解」が主張され、双方が対立して世の中がぎすぎすしていきます。

性同一性障害の性別変更の際、生殖機能を失わせる手術を必要とする法律が合憲なのかの争いでは、「適合手術を求めるのは負担が大きすぎる」という意見と、「本人の申告だけで性別を変えていいのか」という意見が対立しています。

厚労省は「生活保護を受けながら大学に進学することは認められない」という60年前のルールを見直さないことに決めましたが、ここでは「心身の病気などで、進学したいが働けない若者もいる」と、「アルバイトしながら大学に通っている学生が生活保護申請したらどうなるのか」が対立しています。

東京高裁は、労災と認定されると保険料が上がるのに、事業主が労災認定の取り消しを求められないのは不適切だと判断しました。「不当な権力行使による損失を回復する方途がないのはおかしい」というのは正論ですが、「労災を取り消されると労働者が保険金の返金を求められる」との反論があり、議論は錯綜しています。

それ以外でも、(ほぼ)すべての「問題」が、こうしたトレードオフ(あちら立てればこちらが立たぬ)を抱えています。唯一たしかなのは、「そんなことは納得できない」というひとたちによって、来年もSNSが狂乱することでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年12月19日発売号 禁・無断転載

こころを自在にコントロールする驚異の脳深部刺激療法

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年12月17日公開の「「脳の特定の箇所に電流を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう」ヒトの脳を直接電極で刺激する「脳深部刺激療法」が、いま「最先端医療」として確立されつつある」です(一部改変)。

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有名なパブロフのイヌの実験では、ベルの音を聴かされてからエサを与えられることを繰り返したイヌは、ベルの音だけで唾液を出すようになった。これが「条件付け」だが、同じことを人間で試した研究者がいる。それも、同性愛者を条件付けして「治療」しようとしたのだ。その精神科医の名はロバート・ガルブレイス・ヒースで、論文は1972年に著名な学会誌に発表された。

ヒースは、自らの性的志向に苦しむ男性(24歳)の脳の快感回路(報酬系)に電極を埋め込み、研究室に2時間分の料金を払った娼婦を呼び(これはルイジアナ州検事総長の許可を得ていた)、男が全裸の娼婦に触れたり、勃起したり、性交したりするたびに快感回路を刺激した。こうして異性愛と快感を条件付ければ、同性愛は「治療」できると考えたのだ。

この実験は「マッドサイエンティストの愚挙」としてしばしば紹介されるし、私もそう思っていた。だがこれは事実の半分でしかないようだ。ヒースが開発した「脳深部刺激療法」はいま、「最先端医療」として復活を遂げているのだ。

デンマークの科学ジャーナリスト、ローン・フランクの『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』( 赤根洋子訳、文藝春秋)は、ヒースの生涯を描くと同時に、脳深部刺激療法の現場を取材したとても興味深いノンフィクションだ。原題は“The Pleasure Shock: The Rise of Deep Brain Stimulation and Its Forgotten Inventor(快感ショック:脳深部刺激療法の興隆とその忘れられたイノベーター)”。

マッドサイエンティストは脳科学を半世紀も先行していた

この本にはふたつの驚きがある。ひとつは、脳深部刺激が現在ではパーキンソン病の治療法として確立された(日本の病院でも行なわれている)ばかりか、うつ病から依存症までさまざまな精神疾患で高い治療効果を示していること。もうひとつは、その悪評にもかかわらず、ヒースがきわめてまっとうな科学者で「ヒューマニスト」だったことだ。

1950年代当時、統合失調症など重篤な精神病への標準的な治療は前頭葉を外科的に切除するロボトミーで、患者たちは「人間倉庫」とでもいうべき劣悪な環境に放置されていた。そんな精神医療の現状に憤激していたヒースは、名門コロンビア大学から三顧の礼でルイジアナのテューレン大学に迎えられ、州の精神医療に大きな権限をもつようになると、積極的な改革に乗り出した。患者たちをベッドにしばりつける「大きな檻」と化していた慈善病院の個室を増やし、患者を拘束から解き放ったのと同時に、ロボトミーに変わる「より人間的な」治療法として脳深部刺激の研究を始めたのだ(抗精神病薬が登場するのはその後だ)。

独創的な実験によって一躍時代の寵児となったヒースだが、時代の変化によって、70年代になると「ナチスの人体実験と同じ」とのはげしい批判を浴びることになる。だが決定的だったのは、「統合失調症の原因はタラクセインという血液中の物質」とする研究が「エセ科学」とされたことで、この失態によって学界から無視され忘れられていく。だがヒースの汚名にまみれた人生を追っていくなかで、フランクは驚くべき事実を次々と発見する。

じつはヒースは、研究人生の最後で「タラクセイン仮説」を自己免疫疾患へと発展させていた。この仮説も当時は一顧だにされず嘲笑の的になったが、近年になって、「慢性的炎症や、ある種のサイトカインの過剰産生や、全般的免疫反応の異常を伴う統合失調症の症例」が次々と報告されるようになった。うつ病や統合失調症と脳の炎症(自己免疫疾患)の関連は、いまや神経科学の最先端の領域になっている。――早くも1967年に、ロバート・ヒースとその共同研究者アイリス・クルップは、統合失調症患者の脳組織から健常者には見られない自己抗体を発見していた。

「マッドサイエンティスト」のレッテルを貼られ、精神医学の歴史のなかで忘却の彼方に追いやられたヒースは、脳深部刺激療法を開発し、精神疾患と自己免疫疾患の関係を提唱したことで、現在の脳科学・神経科学や精神医学に半世紀も先行していたのだ。

フランクが埃の積もった歴史資料からヒースの業績をよみがえらせる過程は、ミステリー小説のような出来事もあり(博士号をもつ生化学者だと思って雇った男がじつはマフィアのメンバーだった)、まさに「事実は小説より奇なり」なのだが、それは本を読んでいただくとして、ここでは「脳深部刺激療法の復活」についてまとめておこう。興味をもつ読者もきっと多いにちがいない。

脳深部刺激療法で世界がカラフルに変わった

脳深部刺激療法は、「パーキンソン病、強迫神経症、トゥレット症候群、うつ病、自閉症、拒食症、ヘロイン中毒、アルコール依存症、過食症」などへの治験で効果をあげており、その市場規模はいまや100億ドルを超えるといわれる。帰還兵の心的外傷後ストレス障害の治療を名目に、DARPA(国防総省高等研究計画局)も研究に出資している。――DARPAはアメリカの軍事研究機関で、インターネットの前身であるARPANETを軍事ネットワークとして開発したことで知られる。

脳深部刺激療法を使ったうつ病や強迫神経症の治療は、2つの異なる理論的仮説で行なわれており、興味深いことに、いずれも高い効果を発揮している。

ひとつはうつ病を「失快感症(アンヘドニア)」とするもので、脳の快感回路(報酬系)を電極で刺激することで症状が寛解するとする。これはまさに、半世紀前にヒースが行なったのとまったく同じ治療法だ。

もうひとつはアメリカの神経科医ヘレン・メイバーグが重篤な慢性的うつ病患者に行なった画期的実験で、2005年に論文が発表されると大きな反響を呼んだ。被験者はどんな治療も効かない(投薬や心理療法はもちろん電気ショックも)うつ病患者だったが、誰もがさじを投げた患者たちの症状が劇的に改善したというのだ 。

従来の脳科学・精神医学では、うつ病は「感情の中枢」である扁桃体が、セロトニンレベルの低下によって過敏になり、不安や恐怖に対して過剰に反応するからだとされていた。だがメイバーグは1990年代に、うつ病が(扁桃体のある)大脳辺縁系だけでなく、進化の新しい部位である前頭前皮質もかかわっているという研究を知り、うつ病の「中枢」は脳内のネットワークの別の場所にあるのではないかと考えるようになった。

MRI検査によってメイバーグが発見したのは、感情の形成や社会的認知に関係する前帯状皮質(ACC)の膝下野(ブロードマン25野)だった。ここは海馬、扁桃体、視床下部などがある大脳辺縁系と、前頭前野や前頭葉など認知・行動のコントロール領域の接点になっている。うつ病患者ではこのブロードマン25野が過活動になっており、治療によって活動が鎮静化することがわかったのだ。――うつ病患者のブロードマン25野は健常者より小さく、そのことによって、刺激に対して活動が亢進するのではないかという。

メイバーグは自らの仮説を検証するために、脳深部刺激でパーキンソン病の治療を行なっていたカナダの神経外科医アンドレス・ロザーノに助力を求め、懐疑的な精神科医を説得して重いうつ病患者を紹介してもらった。第一号の被験者は元看護師の女性で、電極治療になんの期待ももっていなかったが、それまであらゆる治療法を試していたので「やってみてもいい」と応じたのだ。

メイバーグとロザーノは最初、25野の最深部に位置している神経束の接点に9ボルトの電流を流してみた。なんの変化も起こらなかったので電圧を上げてみたが、それでもなにも起きなかった。

そこで0.5ミリ浅い位置にある別の接点に電流を流してみたところ、わずか6ボルトで、「今、なにかしましたか?」と患者が訊ねた。「突然、とても、とても穏やかな感じがしました」

「穏やか」とはどういう意味か訊かれて、彼女は自分の変化をこう語った。

「表現しづらいです。〈微笑む〉と〈笑う〉の違いを表現するような感じです。突然、気分が上向いたような感じがしました。軽くなったような。冬の間ずっと寒い日が続いていて、もう寒いのはたくさんだと思いながら外に出てみたら、新芽が出てきていた。それを見て、ああやっと春が来るんだと感じたときみたいな、そんな感じです」――電流を切られたとたん、春が来た感じは消えてしまった。

その後、脳深部刺激によって他の患者たちも「気分が上向く」のを感じることがわかった。ある患者は「自分のまわりの雲が消えたようだ」といい、別の患者は「周囲が突然カラフルになり明るくなったように感じる」といったが、それは多幸感とは別物だった。いちどこの体験をすると、多くはうつ症状が緩和し、職場復帰できるようになった患者もいた。

メイバーグは、うつ病とは「片足でアクセルを、もう片方の足でブレーキを同時に踏んでいるようなもの」だという。脳深部刺激はブレーキを踏んでいる方の足を離す効果があり、前に進むことができるようになるというのだ。

いま、幻覚剤(LSD)によるうつ病治療が大きな注目を集めているが、興味深いことに、メイバーグの実験は幻覚剤療法と同じ仮説で説明できそうだ。それによれば、脳はシミュレーション・マシンであり、うつ病患者は「自己」によるネガティブなシミュレーションの無限ループに閉じ込められている。幻覚剤には「自己」を後退させる効果があり、それによってシミュレーションを抑制するのだとされるが、脳の「情動系」と「コントロール系」の2つの主要ネットワークの接点である前帯状皮質(ACC)への電極刺激にも同様の効果があるのかもしれない。

参考:LSDでうつ病を治療する「幻覚剤ルネサンス」が始まった

気分を調整し能力を向上させる「サイコ・エレクトロニクス」の時代

「うつ病中枢」は脳のネットワークの接点だとするメイバーグは、うつ病とはポジティブな感情(快感やよろこび)が欠如していることではなく、脳内でネガティブなプロセスが活性化している状態だとする。

それに対してドイツ、ボン大学の精神科医トーマス・シュレプファーは、外科医のフォルカー・ケーネンと組んで患者の報酬系に電気刺激を与え、次々と発表する論文で素晴らしい結果を報告している。

シュレプファーは、アメリカの大学で学んでいたときに教えられた、「うつ病の症状はひとつしかない。それは、快感に関連するものだ」という老教授の言葉をそのまま実践している。うつ病の中心的症状は(快感を得られない)失快感症であり、報酬系を刺激して快感を与えることで治療効果が上がるはずだという。

報酬系を刺激する治療への批判は、多量のドーパミンを分泌させることで患者を躁状態にするというものだが、内側前脳束への刺激を受けた患者が軽躁状態になったケースは一つもないという。だが側坐核など、別の脳領域を刺激した場合には、多幸感やそれに類似する状態が引き起こされることもある。

興味深いのは、シュレプファーの患者ではないものの、やはりドイツの大学で側坐核に電極を埋め込まれた33歳のドイツ人男性のケースだ。重い強迫性障害と全般性不安障害に苦しめられていたが、脳深部刺激療法によって症状はかなりよくなった。

男性は鎖骨の下にジッポーライターほどの刺激装置を埋め込まれており、その電池を交換するために病院を訪れた。電池交換には簡単な外科手術が必要で、それに合わせて刺激装置の設定値を調整することになっていた。

主治医は、男性の感想を聞きながら、1ボルトから5ボルトまで段階的に設定値を上げていった。4ボルトまで上げると幸福度が最大値の「10」に上がり、不安感がまったくなくなり、「ドラッグでハイになっているみたいな感じ」になった。5ボルトにすると、「すばらしい気分だけど、ちょっとやりすぎな感じ」だった。そこで3ボルトにすることで合意したのだが、翌日、退院する段になって、ボルト数をもう少し上げてもらえないかと患者が言い出した。

「今のままでも調子はいいです。でも、もう少し幸福度を上げたい気もするんです」と男性は説明した。主治医は、「高揚したり落ち込んだりといった自然な気分変動のための余地を残しておく必要がある」と説得し、最終的に患者が折れ、定期的に検査を受けることに同意して帰宅した。

この事例は、「幸福度を決めるのは誰なのか」という問題を提起する。説得にもかかわらず、患者がより高い幸福度を求めた場合、それを拒否する権利が医師にあるのだろうか。――その後、男性は定期検査に来なくなったが、電圧のレベルを上げてくれる医師を見つけたのかもしれない。

脳深部刺激療法が普及すれば、美容整形を受けるように、精神状態の改善のために脳に電極を埋め込むひとが出てくることは避けられないだろう。1000万円程度という手術費用も、ひとびとが美容整形にかけている金額を考えれば、それほど法外というわけではない。「マッドサイエンティスト」のロバート・ヒースは、患者自身が自分の環境や好みに合わせて気分を調節する装置を半世紀前にすでに試みていた。

より興味深いのは、報酬系への電極治療を受けたすべての患者に、うつ病が改善したかどうかにかかわらず、認知機能の向上が見られたことだ。それは「言語能力から複雑な問題解決能力に至るまでさまざまな認知領域にわたるもの」だとされる。これはうつ病改善とは無関係な、説明のつかない効果だった。

脳深部刺激による記憶力の向上(とうの昔に忘れていた人生の出来事が、力強い生き生きとした映像になってあふれ出してきた)を指摘する研究者もいる。報酬に関する2つの脳領域(中隔野と中脳被蓋)を刺激しながら、視床につながるボタンをそれと同時に押すと、いらいらを抑えながら蜃気楼のような記憶に意識を集中できるともいう。

このことは、脳を電気的に刺激することによってさまざまな能力を高められる可能性を示している。人体を「バイオ・マシン」として、もって生まれたハードウェアをアップグレードできるかもしれない。「サイコ・エレクトロニクス」の時代の登場である。

一人ひとりの症状に合わせたオーダーメイドの精神医療

マサチューセッツ総合病院の神経外科医エマド・エスカンダルと精神科医ダーリン・ドアティ、アリク・ウィッジは、DARPAの5カ年計画に応募して研究費3000万ドル(約30億円)を獲得した。彼らが開発しようとしているのは、「電子スーパーエゴ」と名づけられたマシンだ。

電子スーパーエゴは、「人間の脳に組み込んで神経組織にダイレクトに接続することによって脳の働きを正常に保つ小さなコンピュータ」だ。「微細な電極によって特定の脳領域の活動を計測し、望ましくない活動が起きそうな兆候(うつ傾向を示す脳活動や、不安神経症や強迫性障害や過度な衝動性につながりそうな脳活動)を検知すると、直ちに電気刺激によってそれを矯正する」のだという。

装置はまだ試作品段階だが、金属製の蜘蛛の本体から5本の腕が伸び、それぞれの腕の先端に非常に細い電極がついている。目的に応じてこれを、患者の脳組織のさまざまな箇所に埋め込むのだ。現段階ではiPhoneよりすこし大きめだが、次の試作品は頭蓋内部に収まるまで小型化される予定だという。

こうした試みの背景には、現在の精神医学の診断のあいまいさがある。ひと口にうつ病といっても、嗜眠傾向のある患者もいれば不眠に悩む患者もいるし、過食で体重が増加する患者もいれば食欲が減退して痩せ細る患者もいる。ストレスホルモンの濃度が上昇する患者も、そうでない患者もいる。精神科医のあいだでは、「うつ病として一括りにされている疾患は、実は、器質的原因も生物学的メカニズムも異なる複数の別々の疾患」ではないかと囁かれている。

その一方で、一人の患者に複数の精神疾患の症状が見られることも多い。強迫性障害とうつ病、人格障害と不安神経症、不安神経症とうつ病などが典型で、これらはじつは同じ原因から生じているのかもしれない。

2008年、アメリカ国立精神衛生研究所は「「観察可能な行動と神経生物学的手段の次元」に基づいて患者の状態を分類するための方法を探るプロジェクト」を起ち上げた。“精神科医のバイブル”とされる「精神疾患診断マニュアル(DSM-5)」は、臨床観察にもとづいて膨大な数にまで病名を増やしつづけているが、それに代わる「研究領域基準(RDoC)」をつくる試みだ。「精神疾患の実態を理解する鍵は、病気の影響を受けている行動領域に目を向けること」であり、「患者の脳内でどんな基本的プロセスが障害を受けているかを分析する必要がある」とされる。

電子スーパーエゴもRDoCに触発されており、「多くの精神疾患によって影響を受ける6つの行動領域」として、報酬動機づけ、感情制御、意志決定・衝動性、認知の柔軟性、恐怖消去、学習・記憶を分析対象にしている。これは一種の「バイオマーカー」で、どんな疾患や状態も、さまざまな行動領域のスコア(平均値からの標準偏差の乖離)の組み合わせによって表わすことができる。脳に埋め込んだ電極の刺激でバイオマーカーを調整することで、一人ひとりの症状に合わせたオーダーメイドの精神医療が受けられるようになるのだ。

DARPAが研究資金を投じたこの野心的な試みはすでにFDA(米食品医薬品局)の認可を受け、臨床試験を準備中だという。

こころを自分でコントロールする「ニューロ・ユートピア」へ

脳(ニューロン)を物理的に刺激することで、精神疾患を治療するだけでなく、行動や性格を変えられることもわかってきた。

2013年に発表されたスタンフォード大学の実験では、もともと性格のちがう2人のてんかん患者の中帯状皮質前方部に電極を埋め込み、微弱な電気刺激を与えたところ、まったく同じ反応が現われた。2人とも、「何かしなければ、何かに取り組まなければ」という強い持続的な意欲を感じたのだ。――これは、具体的な対象がなくても、わずかな電気刺激によって強い意欲を呼び起こすことが可能なことを示している。

同じ2013年、チューリヒ大学の経済学者エルンスト・フェールは、経頭蓋直流電気刺激と呼ばれる脳刺激法で、(脳深部刺激のように頭蓋骨に穴を開けるのではなく)外部から弱い電流を脳に流し、頭蓋骨に接している脳領域の活動に影響を与えられるかどうかを試みた。

実験では、独裁者ゲーム(「独裁者」がお金を一方的に相手に分配する)と最後通牒ゲーム(分配された金額に不満だと拒否できるが、その場合は「独裁者」も自分もなにももらえなくなる)が使われた。フェールによると、「電気刺激によって右外側前頭前皮質の領域を活性化すると、被験者たちが公平規範に従う傾向が高まり、活動が低下すると、利己的に行動する傾向が高まった」という。これは、「ある人の道徳観の設定値を本人に気づかれずに微妙にいじること」が可能であることを示している。

マインドコントロールという言葉は、「誰かが自分のこころを操っている」という含意があるが、脳深部刺激法の登場で「精神という装置を自分でコントロールする」という意味に変わりつつある。

強迫神経症の治療のために脳深部刺激療法を受けた59歳のオランダ人男性は、それまでローリングストーンズのファンだったのが、なぜかアメリカのカントリー・ウエスタン(ジョニー・キャッシュ)が大好きになってしまった。だが刺激装置の電池が切れたり、コードを抜いたりすると、ジョニー・キャッシュへの偏愛はただちに消えた。

このことは、「自分とは何か?」という深淵な問いを提起する。「自己とは、内側にある安定した核だ」と昔から固く信じられてきたが、それは科学的事実からかけ離れた幻想だ。現実は、「自己とは、そのときどきの脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に電流を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう」ようだ。

引退を間近に控えたロバート・ヒースが最後に行なったのは、出生時の酸欠によって激しい暴力衝動を抑えられなくなり、「ルイジアナ州でもっとも危険な精神病患者」と呼ばれた男性の小脳の表面に電極を埋め込み、発作を抑えるという実験だった。この試みも歴史のなかで忘れられていたが、いまでは脳深部刺激療法が攻撃性や「その他の、暴力的性犯罪や小児性愛など病的な反社会的行動」の治療に有効だとの研究が現われている。

恐怖や暴力には扁桃体がかかわっている。腹側正中前頭前皮質を刺激すると、扁桃体の活動を調整・抑制し、暴力的衝動を抑えることができる。イタリアの神経科医イルベルト・プリオリは、「神経学的原因による非道徳的行動の治療法」を開発すべきだと主張している。

ヒースと同時代に脳深部刺激の実験を行なったイェール大学の神経生理学者ホセ・デルガドは、スペイン、コルドバの農場で闘牛と対峙し、頭を下げ突進してくる牡牛を無線送信機で止めるという派手な実演で知られている。牡牛の運動制御にかかわる尾状核に電極を埋め込み、それを無線送信機で活性化させたのだ。

そのデルガドは1970年代初め、脳に埋め込むチップである「スティモシーバー」を発明したが、ヒースと同様に人体実験としてはげしい批判を浴び、故国スペインへの帰国を余儀なくされた。

デルガドは早くも1969年に、『精神の物理的コントロール 精神文明社会に向けて』という著作で、自然のままでは人間は原始的すぎて、自らがつくり上げた現代社会にとても対応できないとして、「人間によって発見された巨大な力を管理するには、知性を自然の支配のためだけでなく人間精神の文明化のために用いることのできる精神的特質の開発が必要である」と論じた。この「ニューロ・ユートピア待望論」がいまや現実になろうとしている。

いずれわたしたちは、「人間の行動は操作されるべきなのか、そうだとすれば誰によって操作されるべきなのか」という重い問いを突きつけられることになるだろう。

ちなみに脳深部刺激治療の手術では、頭の前半部の髪を剃り落とし、顔に局部麻酔をしたうえで、患者は完全な意識を保ったまま、作業用ドリルで頭蓋骨に5セントコインほどの穴を開けられる。そこから、あらかじめCTスキャンで座標を特定していた位置にテスト用電極を送り込み、電気パルスが血圧を上昇させるかどうかで正しい場所に電極がセットされたかどうかを確認する。

脳内の電極は、鎖骨の下に埋め込んだ電池付きの刺激装置で患者自らが操作できる。ドイツの例では、手術代その他の医療費が5万ドル(700万円)から10万ドル(1400万円)、刺激装置の値段が2万ドル(280万円)で、それに加えて3年から5年ごとの刺激装置の電池交換や、定期的調整の費用が必要になるという。

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小学5年生の4人に1人が小学1年レベルの算数が解けない 週刊プレイボーイ連載(546)

「子どもが14人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。」

これは小学1年生の算数の教科書に出てくる問題ですが、広島県の小学生を対象にした調査では、正答率は3年生28.1%、4年生53.4%、5年生72.3%でした。5年生でも、およそ4人に1人が小学1年レベルの問題が解けません。

誤答を見ると、14から7を引いて「7人」とするなど、文中に出てくる数字を適当に演算したり、せっかく図を描いたにもかかわらず、なぜか全部で15人になっているものなどがありました。

「えりさんは、山道を5時間10分歩きました。山をのぼるのに歩いた時間は、2時間50分です。山をくだるのに歩いた時間は、何時間何分ですか。」

これは時間の引き算の問題ですが、正答率は3年生が17.7%、4年生が26.0%、5年生でも53.9%とさらに低くなりました。5時間10分に2時間50分を足して「7時間60分」としたり、510から250を引いて260分とし、これを「2時間60分」に変換したうえで、60分は1時間なので合わせて「3時間」とするなど、そもそも時間の概念がわかっていない誤答が目立ちました。

困惑するのは、学年間の成績のばらつきよりも、学年内のばらつきの方が大きかったことです。「1/2と1/3は、どちらが大きいですか」の質問で、正答率を上位、中位、下位で比較したところ、3年生の上位は34.1%が正しく答えられましたが、5年生の下位は23.6%でした。進度別のクラス編成では、3年生の上位グループと5年生の下位グループを入れ替えたほうがいいことになってしまいます。

この調査でわかったのは、問題文がすこし複雑になったり、抽象度がすこしでも上がると、認知的な処理が追いつかなくなる子どもがかなりの割合でいることでした。小数や分数のような基本的な概念がわからないままだと、その後の授業についていくのは困難で、「やっても無駄」とあきらめる「学習性無力感」の罠に陥ってしまいます。

文科省の調査では、2021年度の不登校の小中学生が24万4940人になり、前年度から24.9%増の過去最多になりました。その理由として、コロナ禍で学校活動が制限されたことなどが挙げられますが、もともと勉強が苦痛だった子どもが登校する意味を見出せなくなったこともありそうです。

しかしこれは、(よく誤解されるように)いまの子どもたちの学力・知能が低下しているということではありません。

近代の教育制度は、軍隊や工場に最適化された人材を要請するために、同じ年齢の子どもたちを1カ所に収容し、同じレベルの教科を学習させてきました。そこで重視されたのは「みんなが同じ体験をする」ことで、学習内容を理解できているかどうかは二の次だったのでしょう。勉強のできる子どもは進学し、そうでない子どもは中学を卒業して働きはじめたのですから、それでよかったのです。

ところが知識社会が高度化すると、小学校から抽象的な思考に適応することを求められるようになりました。しかし人間の脳はそんなふうには進化してはいないので、子どもたちのあいだの認知能力のばらつきが「問題」として浮上してきたのではないでしょうか。

今井むつみ他『算数文章題が解けない子どもたち ことば・思考の力と学力不振』岩波書店

『週刊プレイボーイ』2022年12月12日発売号 禁・無断転載