第107回 第8波の渦「見えない感染者」(橘玲の世界は損得勘定)

昨年末に中国が「ゼロコロナ政策」を転換し、感染が爆発的に広がっている。北京では「感染率は80%を超えた」とする専門家もいるが、中国政府が正確なデータを出さないため、実態は闇の中だと批判されている。

「そんなの、日本だってたいして変わらないよ」と知人が怒っていた。彼は年末にコロナに感染したのだが、登録すらできなったのだという。

ネットで購入していたコロナの抗原検査キットで、発熱後に陽性になった。ところが調べてみると、それは「研究用」のキットで、性能の確認を受けていないため感染の自己判断に使うことは推奨されず、陽性者登録センターに登録することもできなかった。

そこで、薬機法に基づく承認を受けた「医療用」の検査キットを入手しようと、厚労省のサイトに掲載されていた調剤薬局に家人に行ってもらったところ、「いつ入荷するかわからず、入荷してもすぐに売り切れてしまうので、毎日、開店と同時に来てもらうしかない」といわれたという(その後、厚労省が承認した「一般用」の検査キットが「第1類医薬品」としてインターネットで購入できることがわかった)。

仕方がないのでPCR検査を受けようと思ったが、近くの検査センターはすでに閉鎖されていて、電車やバスを使わなければ最寄りの検査場に行けない。それ以前に、発熱などの症状がある場合は無料検査の対象外になっている。

そうなると医療機関の発熱外来を利用するしかないが、かかりつけ医があるわけではなく、初診でも受け付けてくれる病院は数カ所しかない。電話予約が始まる朝9時から話し中で、ずっと電話をかけ続けたが、11時前には「本日の受付は終了しました」というアナウンスが流れた。彼の場合は、発熱といっても38度を超えたわけではないので、登録そのものをあきらめてしまったという。

「もっとねばればよかったのかもしれないけど、療養証明書が必要なわけでもないし、自分のような軽症者が発熱外来を利用すると、症状が重いひとが困るんじゃないかと思って、まあいいか、ってなったんだよね。高齢者とか、持病があるとかでないかぎり、いちいち連絡しなくていいから、自分で判断して療養してください、ということなんだよ」と彼はいった。

コロナ感染の第8波で国内の死者が増えつづけているが、その背後には彼のような未登録の感染者がかなりいるのではないか。それを加えると、日本でもすでにある程度の集団免疫ができているのかもしれない。

街ではいまでもほとんどのひとがマスクをしているが、飲食店では若者たちがノーマスクで賑やかに談笑している。彼ら/彼女たちの多くは、じつはすでに1回はコロナを体験していて、それが大したことなかったので、感染をあまり恐れていないのではないだろうか。

「見えない感染者」が増えていくことで、日本も海外と同じように、じょじょにコロナが日常になっていくのだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.107『日経ヴェリタス』2023年1月21日号掲載
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デフレから脱却して日本社会はますます貧乏になった 週刊プレイボーイ連載(550)

2022年12月の消費者物価上昇率は、生鮮食品を除く総合で前年同月比4.0%と、41年ぶりの高水準になりました。日銀の生活意識調査では、1年後の物価の予想が「9.7%上昇」と過去最高を記録しました。

2000年代に入ってから、リフレ派の経済学者は、「物価が上昇するまで金融緩和を続けると「コミットメント」して、ひとびとの「インフレ期待」を生じさせないかぎりデフレから脱却できない」として、当時の日銀総裁の消極的な金融政策を激しく批判しました。

第二次安倍政権とともに就任したのが黒田東彦総裁で、リフレ派を牽引してきた経済学者を副総裁に迎え、「トリプル2(2年間で物価目標2%を達成するためにマネタリーベースを2倍にする)を宣言しました。ところがその後もデフレ傾向に変化はなく、14年4月の消費税増税のせいだと八つ当たりしましたが、金融政策の目標をマネーの供給から金利に変えた異次元緩和でも物価は微動だにせず、日銀の国債保有額は異常な水準まで積みあがりました。

「コミットメント」とは不退転の決意のことで、約束が実現できなければ責任をとるのは当然です。リフレ派の副総裁は退任しましたが、「2年で2%」をコミットした黒田総裁は、「アベノミクス」の象徴だという理由で、目標未達のまま再任されました。ところが10年におよぶ任期の最終盤になって、コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻という、金融政策とはまったく関係のない理由でとうとう物価が上がりはじめたのです。

リフレ政策の壮大な「経済実験」の結果をまとめれば、日銀がなにをしようとインフレ期待にはなんの影響もなく、資源価格の高騰などで実際に物価が上がりはじめれば、ひとびとはインフレを期待(予想)するようになるという、子どもでもわかる話になりました。

「デフレがすべての元凶」なら、どのような理由であれ、デフレから脱却すれば経済は上向くはずですが、なぜか景気のいい話はまったく聞こえてきません。

まず、物価が4%以上上がっているのに、1人あたりの賃金は0.5%しか上がらず、(物価変動の影響を考慮した)実質賃金は前年同月比3.8%減になりました(22年11月)。内訳を見ると、正社員の賃金は基本給(1.5%増)や残業代(5.2%増)などが上がったものの、ボーナスがマイナス19.2%と大幅に減ったため、全体としてはわずか0.2%増でした。それに対して1人あたり総労働時間はほとんど変わらず(0.2%減)、同じように働いても物価が上がった分だけ貧しくなる状況に陥っています。

日銀の調査では、「(暮らし向きに)ゆとりがなくなってきた」との回答が53.0%と13年ぶりの高さになり、総務省の家計調査(22年11月)では(物価変動の影響を除いた)実質の消費支出が6カ月ぶりに前年同月の水準を下回りました。

これをまとめると、「物価がどんどん上がっているのに収入が増えず、家計が苦しくなって節約するようになり、それによって市場が縮小している」になります。

岸田首相は「物価上昇率を超える賃上げの実現」を経済界に要請しましたが、生活防衛の買い控えで売り上げが減っているのに人件費を増やせば経営が行き詰ってしまいます。この「負のスパイラル」によって、日本社会はデフレ時代より貧乏になっているようです。

『週刊プレイボーイ』2023年1月23日発売号 禁・無断転載

BLM(ブラック・ライヴズ・マター)に対する保守派の論理とは

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年8月21日公開の「日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ」です(一部改変)。Diamond Onlineに寄稿した「“白人は「生まれる前から」レイシスト”。リベラルな白人こそが差別の元凶という過激な主張の真意とは?」と合わせてお読みください。

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警官の過度な制圧によって黒人男性が死亡した事件をきっかけに、アメリカ各地で抗議行動の嵐が吹き荒れた。BLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)運動の背景には、人口比に対してきわめて多くの黒人が逮捕・収監されているアメリカの現実がある。

「アメリカの警察・司法システムは黒人に対する人種的偏見に満ちている」との批判には説得力があるが、その一方で警察を「人種差別の巣窟」と全否定し、地域から警官を排除することを求める左翼(レフト)の主張に違和感をもつひとも多いのではないだろうか。シアトルでは実際に、アートと文化の中心である高級住宅地の警察署を閉鎖させ、市民の自治によって運営するコミューン「キャピトルヒル自治区」が誕生したが、連日のように銃撃による死亡事件が起きたことで、活動家たちはわずか1カ月で撤退を余儀なくされた。

理想主義者によるコミューンの実験に対してシアトル市長は当初、「もしかしたらわたしたちは“愛の夏(サマー・オブ・ラブ)”を過ごせるかも」と好意的だったが、保守派は「警官がいなくなれば犯罪者集団が好き勝手なことをやるだけだ」とはげしく反発した。結果として保守派が正しかったわけで、リベラルなメディアも、キャピトルヒルに続こうとした各地のコミューン運動については腰の引けた報道しかしなくなったようだ。

ところが日本では、こうした保守派の主張はほとんど紹介されることがない。そこで今回は、代表的な保守派知識人の一人で、法律家でもあるヘザー・マクドナルドがファーガソン事件(後述)のあとに出版した“The War on Cops: How the New Attack on Law and Order Makes Everyone Less Safe(警官との戦争:法と秩序への新たな攻撃はいかにすべてのひとびとの安全を低下させるか)”を見てみたい。タイトルは“War on Drugs(麻薬戦争)”のもじりで、過剰な警察への攻撃が善良な市民(とりわけ犯罪多発地域で暮らすマイノリティ)の生命と財産を危険にさらしていると主張し、大きな論争を引き起こした。

「銃をもたない黒人少年を白人警官が射殺した」事件の真相

2014年8月9日、ミズーリ州のセントルイス郊外にあるファーガソンで、18歳の黒人男性が白人警官によって射殺される事件が起きた。11月24日、ミズーリ州の大陪審が警官を不起訴処分にすると、この決定に抗議するデモが全米各地に広がった。この「ファーガソン事件」をきっかけにBLM運動が広く認知されることになった。

日本のメディアではこの事件を「銃をもたない黒人少年を白人警官が射殺した」などと説明している。だがマクドナルドからすると、これは悪質な反警察のプロパガンダだ。なぜならこの事件は警察官の正当防衛であり、射殺は適法な警察権の行使だったからだ。

高校を卒業したばかりの「黒人少年」は身長193センチ、体重132キロで、事件当日の昼、友人と2人でコンビニ店に入り、そこにあった葉巻の箱をつかんで店員を押しのけて店を出ている(この様子はビデオカメラで撮影されており、のちに警察によって公開された)。

その直後、単独でパトカーを運転していた白人警官が車道の真ん中を歩く黒人の若者2人を見つけ、歩道に移動するよう命じた。その後、車内の警官と若者が窓越しにもみあいになり、葉巻の箱をもった男が殴りかかってきた。警官は銃を取り出して地面に伏せるように命令したが、男がその銃をつかんで奪おうとしたため車内から2発射ち、男は右手を負傷した。これは警官の証言だが、事件直後に撮影された警官の右頬に殴られたような跡があり、パトカーの周囲で2個の薬莢が発見され、運転席ちかくに血痕があることから、状況証拠とも整合性がある。

右手を撃たれた男が逃げ出したため、警官はパトカーを出て後を追った(男の友人はパトカーの陰に隠れた)。警官が止まるよう命じると、男はいきなり向き直って、アメリカンフットボールのタックルのように頭を下げた態勢で警官に向かって突進してきた。そこで警官は10発の銃弾で男を射殺した。

これも警官の証言だが、銃撃の状況は詳細に検証されており、男が警官から逃げているのではなく警官に近づいていること(前向きに倒れた死体の後ろに血痕がある)、前傾姿勢で撃たれていること(銃弾が頭部を貫通している)が確認されており、録音されていた銃撃時の音声とも整合的だ。

白昼に起きたこの出来事の目撃者の証言は大きく2種類に分かれる。ひとつは警官の証言を補強するもので、発砲は正当防衛だとした。もうひとつは「警官は背後から銃撃した」「手を挙げて無抵抗の意思表示をしているのに撃った」「地面に伏せているところを射殺した」などの証言で、こちらはメディアで大きく報じられ巷間に流布したが、どれも状況証拠とは大きく異なっており、それを指摘したうえでなおも宣誓証言する意思があるかを確認すると、いずれの証人も証言を撤回した(このため裁判では採用されなかった)。

この事件の記録は公開されており、英語版Wikipediaにも詳細な記述があるが、マクドナルドの主張とほとんど同じだ(同じ記録に基づいているのだから当たり前だが)。以上を考慮すると、陪審員は証拠に照らして警官の拳銃使用を適法と判断し、不起訴処分にしたとするのが妥当だろう。

それにもかかわらずリベラルなメディアは、「大陪審の不起訴決定を不服とするマイノリティの抗議行動によってアメリカ社会が不穏な(unsettle)状況に陥った」のように、射殺に至る事実関係に触れずに都合よく事件を捻じ曲げ、大衆扇動に利用したとマクドナルドは批判する。メディアの記述はたしかに間違ってはいないものの、これでは読者のほとんどは、大陪審の決定が人種的偏見に基づく不当なものだと誤解するだろう。

警察への過度な攻撃は貧困地区の犯罪を増加させる

「ファーガソン効果(Ferguson effect)」はセントルイスの警察署長の造語で、マクドナルドがウォールストリート・ジャーナルで紹介したことで広く知られることになった。警察への過度な攻撃(War on Cops)が警官を委縮させ、とりわけ犯罪発生率の高いマイノリティ居住地域へのパトロールを忌避することになれば、犯罪件数が増え善良な市民の安全が脅かされるとする。これがBLMに対する保守派の批判の定番だが、はたしてファーガソン効果は起きているのだろうか。

“The War on Cops”の初版は2016年で、翌17年にペーパバック版が出ているが、その序文でマクドナルドは以下のような(当時としては)最新のデータを挙げている。

・ファーガソン事件は2014年8月に起きたが、FBIのレポートによれば翌2015年の殺人件数は12%増で、単年では過去半世紀で最大の上昇率となった。
・同じく2015年、全米のすべてのカテゴリーの都市で殺人件数が10%以上増えた(ただし人口1万人以下は7%増)。
・同じく2015年、もっとも黒人が集住する地区の殺人件数はワシントンDCで54%、ミルウォーキーで72%、クリーブランドで90%増えた。
・2014年に比べ15年は、黒人の殺人による被害者が900人増えた。
・2015年の黒人の殺人被害者は7000人を超え、これは白人とヒスパニックの殺人被害者の合計よりも多い。
・2016年の13の大都市の殺人件数は14%増え、全米平均では8%増と予想されている。

マクドナルドはこれを「ファーガソン効果」の確たる証拠だとする。だとすれば、今回のBLM運動で同じことが起きているかが大きな関心の的になるのは当然だ。

保守的な論調のウォールストリート・ジャーナルは、8月2日配信の記事“Homicide Spike Hits Most Large U.S. Cities(多くのアメリカの大都市で殺人が急上昇)”で、50都市のうち36都市で殺人件数が二桁(10%台)の割合で増えたと報じた。その原因としては、新型コロナによるロックダウンや経済不安のほか、「警察への抗議行動による都市コミュニティの不安定化」を挙げている。

中立的なイギリスのフィナンシャルタイムズも、「ニューヨーク市では6月だけで270人が銃で撃たれ、前年同月に比べて約2.5倍の増加になった」と報じた。7月4日の独立記念日のある週末には64人が撃たれたという。

ニューヨークでもBLM運動は盛り上がり、市民団体は警察予算の削減を提案したが、「犯罪が増えるにつれ、選挙区の住民が危険にさらされる市議会の黒人議員らは疑問の声をあげる」と記事はつづく。デブラシオ市長は、警官ではなく、地域住民の手で秩序を回復しようと呼びかけたが、専門家は「暴力の問題に対処できる組織が他にほとんどないことを考えると、警察の再強化を市民が求めることもありうるとみる」(日経新聞8月9日「GLOBAL EYE ニューヨーク、問われる犯罪対応」)。

これはまさにマクドナルドが指摘したとおりの事態だ。もちろん「BLM運動が犯罪増加の元凶だ」と決めつけることはできないものの、保守派の主張が荒唐無稽な暴論ではなく、一定の(あるいはかなりの)説得力をもつことがわかるだろう。

90年代になってアメリカでなぜ犯罪は減ったのか?

いまでは考えられないが、1980年代のニューヨークは治安が悪く、日本の観光ガイドブックには「夜の外出は近距離でも必ずホテルからタクシーに乗ること」「路地に引きずりこまれて身ぐるみはがされることがあるので、昼でも車道に近い側を歩くこと」などの注意事項が書いてあった。

多くの経済事件を手掛け国民的人気を博した検察官ルドルフ・ジュリアーニは、「治安回復」を掲げて1993年にニューヨーク市長に当選すると、汚職警官を告発・追放する警察改革を進めるとともに、軽犯罪もきびしく罰する「割れ窓理論」を採用し、“stop-question-and-frisk(呼び止め、職務質問し、身体検査する)”を徹底させた。それと軌を一にしてニューヨークの犯罪率は大きく下がり、「全米でもっとも安全な都市」に変貌したとして、ジュリアーニは自らの手腕を派手に宣伝した。マクドナルドも、アメリカ社会を蝕んでいた犯罪が減ったのはこうした「強い対応」の結果だとジュリアーニを称賛している。

犯罪学者など専門家のあいだでは、90年代になってアメリカの犯罪件数が減少した理由については喧々囂々の議論があり、いまだ決着はついていない。やっかいなのはこれに政治的なイデオロギー闘争が加わって、マクドナルドのように割れ窓理論や職質の効果を高く評価すると「右派」の、「ジュリアーニはたんに運がよかっただけで、警察改革などしなくても犯罪率は下がっていた」と否定すると「左派」のレッテルを貼られ、いずれにしても罵詈雑言の応酬に巻き込まれることだ。

右派の問題は、警察の強権的な対応と犯罪件数の動向に必ずしも明確な因果関係があるとはいえないことだ。左派の問題は、ジュリアーニの警察改革がなんの影響も与えなかったとしたら、なぜ犯罪が減ったのかを説明しなければならなくなることだ。

よく知られているように、経済学者スティーブン・レヴィットは世界的なベストセラー『ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する』(望月衛 訳、東洋経済新報社)で、「中絶が合法化されたことで、将来、犯罪者になるような子どもが生まれにくくなり、それによって犯罪率が下がった」という(いまならかなり問題になりそうな)説をとなえた。

ところが「統計経済学の天才」のこの主張は、その後、単純な統計的間違いだと批判されることになる。年齢別に殺人発生率の推移を見ると、すべての年齢集団で1990年代はじめにピークを迎えている。ここには中絶を容認する歴史的判決のあとに生まれた(中絶が可能だった)世代だけでなく、その前に生まれた(中絶できなかった)世代も含まれる。当然のことながら、判決以前に生まれた世代の犯罪率が下がったことは中絶とは無関係だ(ゲアリー・スミス『データは騙る 改竄・捏造・不正を見抜く統計学』川添 節子訳、早川書房)。

「環境規制によって胎児の血中の鉛レベルが下がったことで脳の暴力的な傾向が減少した」との説も有力視されたが、これもやはり世代にかかわらず同時期に犯罪率が下がっていることを説明できない。けっきょく、スティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』( 幾島幸子、 塩原通緒訳、青土社)で述べたように、社会の安定やゆたかさ、テクノロジーの進歩、価値観のリベラル化などさまざまな要因の組み合わせなのだろうが、だからといって「警察活動の強化」の影響を否定することはできず、「なぜ犯罪は減ったのか」をめぐっていまだに右派と左派のイデオロギー対立がえんえんと繰り返されている。

黒人が圧倒的に多く職質・逮捕されるのは「黒人の犯罪者が多いから」

「アメリカの犯罪件数が大きく減り、社会がより安全になったのは、警察が犯罪者(およびその予備軍)に対して強く対応するようになったからだ」というのが保守派の立場だが、そうなると、人口比に照らして黒人が圧倒的に多く職質・逮捕されるのはなぜなのか。そのこたえはひとつしかない。「黒人の犯罪者が多いから」だ。

“The War on Cops”でマクドナルドは、この主張を裏づける大量のデータを提示しているが、ここでは黒人圧死事件のあと、今年6月2日にウォールストリート・ジャーナルに寄稿したマクドナルドの記事“The Myth of Systemic Police Racism(「組織的な警察の人種主義」という神話)”から最新のデータを挙げておこう。

マクドナルドは、「銃も携行せず抵抗もしていない容疑者を死に至らしめるような警官の制圧行為はけっして正当化されるものではない」と断ったうえで、アメリカの警察が人種的偏見に支配されているとのリベラルの批判にはなんの根拠もないとして以下の「エビデンス」を提示する。

・2019年に警官が射殺したのは1004人だが、そのほとんどは容疑者が武装しているか、危険なケースだった。そのうち黒人は235人でおよそ4分の1を占めており、この割合は2015年以降変わっていない。
・2018年の最新のデータでは、黒人は人口の13%を占めているが、全米の殺人事件の53%、強盗の約60%にかかわっている。警官に射殺された黒人が全体の4分の1というのは、犯罪率から推計される人数よりもむしろ少ない。
・2019年に警官が銃をもたない黒人容疑者を射殺したのは9件だが、銃をもたない白人容疑者の射殺は19件だった。2018年には7407人の黒人が殺人の犠牲となったが、9件の警官による射殺は0.1%程度の比率しかない。その一方で、警官が黒人に射殺される件数は、銃をもたない黒人が警官に射殺される件数の18.5倍にのぼる。
・2019年に出版されたThe National Academy of Sciencesによる「警察の組織的偏見」についての調査レポートでは、人種グループにかかわらず、警官が暴力的容疑者と遭遇する率が高くなるほど、そのメンバーが警官に射殺される確率が上がることが明らかになった。調査レポートは、「警官による射殺に、黒人に対する明らかな不平等の証拠はなかった」と結論している。
・2015年に司法省がフィラデルフィア警察の記録を分析したところ、白人の警官は、黒人やヒスパニックの警官に比べて、銃をもっていない黒人を射殺する割合が低いことがわかった。

これらをまとめるならば、「犯罪発生率の高い地域をパトロールする警官は犯罪者と遭遇する可能性が高い」というシンプルな理由だけで、人種的偏見を考慮することなしに、人口比に比べて黒人が過度に逮捕あるいは射殺されている(ように見える)事態を説明できる、ということになるだろう。

そのうえでマクドナルドは、警察に敵対的な大衆運動が「法と秩序」への信頼を掘り崩してしまえば、それによって犠牲になるのは犯罪率の高い地域に住む多くの善良な黒人であり、このままではアメリカ社会は混沌に向けて進んでいくほかはないとの警告でこの記事を結んでいる。

なお“The War on Cops”でマクドナルドは、黒人の貧困地域を自ら取材し、「仲間とたむろしてマリファナを吸い、不法行為を繰り返す若者たちをきびしく取り締まってほしい」「警官は自分たちの味方で、地域からいなくなるのは不安だ」などの地元の商店主たちの声を紹介している。こうした実情は、メディアではほとんど報じられることはない。

リベラルもリバタリアンも囚人の早期釈放を主張する

オバマ元大統領は繰り返し、アメリカでは黒人が不当に逮捕・収監されていると述べている。投獄率が変化しないとすると、いずれ黒人男性の3人に1人が刑務所に収監されることになるとの予測もある。こうした現実を保守派はどう考えているのだろうか。

ここまで読んだ方なら、マクドナルドの主張はもうわかるだろう。黒人の大量収監も、もちろん人種差別とはなんの関係もない。「刑務所に黒人が多いのは黒人の犯罪者が多いから」で、そこになんの不正もないのだ。

“The War on Cops”には、黒人の犯罪率がきわだって高いというデータがこれでもかというくらい出てくるが、ここでそれをわざわざ紹介することはしない。ペーパバック版の前書きでマクドナルドは、「この本を出したことで“ファシスト”“白人至上主義者”などと罵倒されたが、本書で述べたファクトへの反論はなかった」と書いているので、これが事実(ファクト)であることは間違いないのだろう。

だがそうなると、当然、「なぜ黒人の犯罪率はこれほど高いのか」が問題になる。マクドナルドは、警察を「レイシスト」と攻撃するリベラルへの批判にはきわめて雄弁だが、黒人が抱える社会問題についてはほとんど語らない。「黒人の子ども(主に男の子)が犯罪に手を染めるようになるのは家庭が崩壊しているからだ」という保守派らしい主張(父親のロールモデルがない)は何度か出てくるものの、「黒人のシングルマザーが多いのは妻子を捨てて家を出ていく父親に問題がある」という「自己責任論」ですませてしまう。

これについてはリベラルの側に、いうべきことはいくらでもあるだろう。黒人の犯罪率が際立って高いのは、奴隷制からつづく明示的あるいは暗黙の人種差別によって満足な職を得る機会がなく、白人居住区のレベルの高い学校から「(事実上の)人種分離」されたことで教育機会を奪われ、貧困のため犯罪以外に生きる術がなくなったのだ……のように。だがマクドナルドは、こうした議論に足を踏み入れるつもりはまったくないようだ。

こうしてみると、マクドナルドの主張は「仕方ない理論」とでもいえるのではないだろうか。「黒人ばかりが警官から職質・逮捕されるのをよしとするわけではないが、黒人の犯罪率が高い以上、それは仕方のないことだ」「黒人ばかりが刑務所に送られることをよしとするわけではないが、黒人の逮捕者が多い以上、それは仕方のないことだ」というわけだ。

こうした保守派知識人の論理は、銃問題についても同じだろう。彼らはもはや、「銃を所持することは憲法で認められた神聖な権利だ」などとは主張せず、欧州やアジアなど銃所持をきびしく制限する社会の方がアメリカよりずっとうまくいっていることを認めるのにやぶさかではない。だがアメリカはすでに国民の多くに銃が行き渡ってしまっているから、銃規制は法を守る善良な市民を危機に陥れるだけだ。無法者はなにがあっても銃を手放そうとせず、銃規制は好き勝手に(撃たれる心配をせずに)強盗できる絶好の機会を犯罪者に与えることになる。すなわち、「銃をもつ権利」を擁護するのは仕方ないのだ。

だがその一方で、黒人の大量収監を批判する左派(リベラル)も大きな困難を抱えている。アメリカの収監率が先進国のなかできわだって高いことや、この状況が「異常」で「容認できない」ことは多くのひとが同意するだろうが、だからといって「囚人を釈放せよ」とはならない。なぜなら誰も、「犯罪者が野放しになる」ことは望まないから。

だったら囚人に社会復帰の教育プログラムをほどこして出所させるのはどうだろうか。じつはこの案は“The War on Cops”でマクドナルドも検討しているが、「囚人への各種プログラムに再犯防止の効果はほとんどない」のが実態だという。--シカゴやデトロトで出所者に政府が仕事を提供するプログラムを実施したところ、2年後の再犯率は55%で、なにもしない対照群の再犯率は52%だった。囚人の刑期を短縮する案もあるが、これは犯罪件数を増やすだけだった。

こうした暗鬱な結論は、犯罪学者の多くが同意しているという。すなわちリベラルは、アメリカ社会の「(見えない)人種差別」を批判するときは雄弁だが、だったらどうすればいいのかという具体的な提言では、いたずらに空理空論を振り回すだけなのだ。

だとしたら、この問題はいったいどうなっていくのだろうか。じつはここにきて、ほとんどの政治的争点でリベラルと対立する(保守派とは意見が一致する)富裕なリバタリアン(自由原理主義者)のなかから、「囚人を釈放すべきだ」と主張する者が出てきた。その理由は、大量収監にあまりに多額の費用がかかるからだ。

リバタリアンは「市場原理主義」的な小さな政府を支持するので、莫大な税を投じて政府が犯罪者を「養う」ようなことは容認できない。リベラル派のいうように囚人を早期に釈放し、刑務所を縮小した方がずっと彼らの理念にかなうのだ。

しかしそうなると、犯罪率が上がってしまうのではないだろうか。そうなるかもしれないが、しかしそれは富裕層にはなんの関係もない。彼らは厳重に警備されたゲーティド・シティや、部外者は立ち入ることのできない高級住宅地で暮らしており、必要とあれば私設の警備員を雇うこともいくらでもできるからだ。

こうした予想を荒唐無稽と思うかもしれないが、南アフリカのヨハネスブルクやケープタウンのような都市は、実際にそのような状況になっている。「人種」をめぐって複雑骨折したような歴史を抱えるアメリカの分断は11月の大統領選でさらに拡大し、社会をさらなる「混沌」へと引きずり込んでいくことになるかもしれない。

*2020年11月の米大統領選はバイデンが勝利し、それを認めないトランプ支持者が翌年1月、連邦議会議事堂を占拠した。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

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