DEI(多様性、公平性、包摂性)を推進すると差別的になる? 週刊プレイボーイ連載(631)

ドナルド・トランプは「アメリカ・ファースト」を掲げ、大統領就任と同時に支持者の前で多くの大統領令に署名しました。そのなかでも大きな歓声が上がったのが「DEI解体」です。

DEIは「Diversity(多様性)Equity(公平性)Inclusion(包摂性)」の略で、人種や性的指向、性自認などの属性を理由に不利な扱いを受けてきたマイノリティに公平な機会を与え、社会や組織に包摂することを求める運動をいいます。もちろんこれは素晴らしいことですが、だとしたらなぜアメリカ社会で強い反発を受けているのでしょうか。

米保守系グループ「米国平等権利同盟」は、マクドナルドが運営するヒスパニック系学生向けの奨学金制度が他の人種の学生への差別にあたるとして、差し止めを求めて提訴しました。この奨学金は「少なくとも片方の親がヒスパニックかラテン系」であることを条件に、大学生に最高10万ドル(約1500万円)を支給していますが、これが経済的に厳しい状況にある他の人種的少数派を排除していると見なされたのです。原告の代表は、「この奨学金プログラムをただちに中止し、人種的な背景に関係なく、経済的に恵まれないすべての高校生に門戸が開かれることを願っている」との声明を出しました。

2023年に米連邦最高裁は、一部の有色人種を大学入試で優遇する措置を違憲と判断しました。この判決を受けて保守派団体が企業を提訴しはじめたことで、マクドナルドやウォルマートなどが次々とDEIから撤退しています。トランプの大統領令はこうした「反DEI」の集大成といえるでしょう。

アメリカのように人種的多様性のある社会でDEIを進めると、大学進学や就職、昇進などで不利な扱いを受ける多数派の白人から「逆差別」との不満が噴出することになります。民主党のリベラルはこれまで、こうした批判に「人種主義(レイシズム)」のレッテルを貼って封殺してきました。

しかし、保守派が求めているのは白人の優越ではなく、「人種の平等」です。ここでは、異なる正義が衝突しているのです。

DEIを導入した企業や組織は、人種や性的少数者の問題を理解し、平等を実現するための研修を行ないます。困惑するのは、一部の社会学者(それも無意識のバイアスを研究する黒人女性の社会学者)から、こうした研修にはなんの効果もないばかりか、かえって差別や偏見を助長すると批判されていることです。

社会学では、「道徳の証明」が得られると、それを免罪符として不道徳なことを行なう効果が知られています。企業がDEIを導入するのは「社会的責任」の証明を得るためですが、皮肉なことに、DEIに熱心な会社ほど社会的に無責任になるかもしれません。

アメリカでは、財務省など政府機関に対する多様性研修で「事実上、すべての白人はレイシズムに加担している」と教えていることや、この研修を行なう会社の代表者が白人であることが報じられ、保守派の憤激を買いました。多様性研修は、いまや巨大ビジネスになっているのです。

すくなくとも、DEIの旗を振っていれば「差別のない社会」が実現できるというわけではないようです。

参考:「米保守団体、マクドナルドを提訴 「ヒスパニック系奨学金、他の学生を排除」朝日新聞2024年1月15日
ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』高史明解説/山岡希美訳/明石書店

『週刊プレイボーイ』2025年2月3日発売号 禁・無断転載

最貧困女子と驚きの風俗事情

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年12月公開の記事です(一部改変)。10年前の記事なので、いまは多少、状況が変わっているかもしれません。

StreetVJ/Shutterstock

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「プア充」の若者たち

「貧困」を私なりに定義すると、次のようになる。

ひとは人的資本、金融資本、社会資本から“富”を得ている。人的資本は働いてお金を稼ぐ能力、金融資本は(不動産を含めた)財産、社会資本は家族や友だちのネットワークだ。この3つの資本の合計が一定値を超えていれば、ひとは自分を「貧困」とは意識しない。

その典型ルポライター鈴木大介氏が『最貧困女子』のなかで「プア充」と紹介する地方の若者たちだ。彼らの年収は100万~150万円で貧困ラインを大きく下回るが、日々の生活は充実しているのだという。

この本に出てくる28歳の女性は、故障寸前の軽自動車でロードサイドの大型店を回り、新品同様の中古ブランド服を買い、モールやホムセン(ホームセンター)のフードコートで友だちとお茶し、100円ショップの惣菜で「ワンコイン(100円)飯」をつくる。肉が食べたくなれば公園でBBQ(バーベキュー)セットを借り、肉屋で働いている高校の友人にカルビ2キロを用意してもらい、イツメン(いつものメンバー)で1人頭1000円のBBQパーティをする。

家賃は月額3万円のワンルーム(トイレはウォシュレットでキッチンはIH)、食費は月1万5000円程度だから、月収10万円程度のアルバイト生活でもなんとか暮らしていける。負担が重いのはガソリン代だが、休みの日はみんなでショッピングモールの駐車場に集まり、1台に乗ってガソリン代割り勘で行きたいところを回る。宮藤官九郎の「木更津キャッツアイ」で描かれた世界そのままで、彼ら彼女たちの生活は友だち同士の支えあいによって成立している。

誰もが同じような経済状況で貧富の格差がほとんどないから、「生活がキツい」と感じることはあっても自分が「貧しい」とは思わない。不幸や貧困は相対的なものなので、客観的な基準ではプアでも主観的には充実しているひとたちがいることは不思議でもなんでもない。

ちなみに彼女たちは将来についても現実的で、「さっさと彼氏と共稼ぎになったほうが生活も人生も充実」するから早婚が当然で、「(この辺では)女は30代になっても賃金上がらないし、むしろ年食うほどマトモな仕事がなくなる」から、金はなくても体力がある20代で第一子を産んで、30歳になるまでには「気合で」子どもを小学校に上げるのだという。

乏しい資本を社会資本(人的ネットワーク)で補うのは、東南アジアなど貧しい国ではごく当たり前のことだ。そこに日本的な特徴があるとすれば、フィリピンなどでは家族のつながり(血縁)が大切にされるのに対し、地方のマイルドヤンキーたちは「友だち」を社会資本にしていることだろう。

日本における「友だち」とは、たまたま同じクラスになったという偶然から生まれる人間関係のことだ。そこには厳密なルールがあり、同じ学校でも学年がちがえば「友だち」にはならないし(先輩、後輩と呼ばれる)、中学の「友だち」と高校の「友だち」は混じりあわない。同級生からなる5~6人の「イツメン」を強固な核とし、同い年の仲間が30人くらいいて、先輩や後輩を合わせれば100人程度の集団を形成するのが地方の若者たちの友だちネットワークだ。

プア充は地元愛にあふれ友だちを大切にするが、彼ら/彼女たちが人的資本や金融資本をほとんど持たず、「資本」が人的ネットワーク(社会資本)に大きく偏っていることを考えればこれは当然のことだ。 続きを読む →

ファクトチェック廃止の目的は「解釈」の多様性 週刊プレイボーイ連載(630)

メディアの役割は、社会にとって重要な事実(ファクト)を報じるとともに、そのニュースをどう解釈すべきかを示すことです。

フェイクニュースは、事実でないことを「真実」にしてしまいます。ジャーナリズムは隠蔽された事実を掘り起こしたり、冤罪のような誤った事実認定を検証することで「真実」を暴き、政府や法制度に対するひとびとの信頼を維持するという大切な仕事をしています。

事実についての争いは、すべてとはいわないものの、証拠(エビデンス)によってなにが正しいかを決められます。しかし解釈は主観的なものなので、「唯一の正しさ」はありません。

SNSのFacebookやInstagramを運営するMetaは、投稿の信頼性を第三者が評価するファクトチェック機能を廃止し、問題のある投稿にユーザーがコメントをつけられる「コミュニティノート」形式に移行すると発表しました。CEOのマーク・ザッカーバーグは、「ファクトチェックは政治的に偏りすぎていた」と説明しています。

この方針転換に対してリベラルなメディアは、「トランプ次期政権にすり寄ろうとしている」「過激な言論や偽・誤情報が野放しになる」と批判しています。この場合は、「ファクトチェックの廃止」は事実(ファクト)ですが、「トランプへのすり寄り」というのは解釈で、それがファクトである証拠は提示されていません。

Metaのファクトチェックを担当していた通信社や専門機関が、「リベラルに甘く、保守派にきびしい」とトランプに近い政治家やインフルエンサーから強く批判されていたのは間違いありません。

しかしだからといって、ザッカーバーグが保守派の脅しに屈したということにはなりません。保守派の主張が正しく、実際にファクトチェックが偏向していたかもしれないからです。ところがこれを報ずるメディアは、個々の投稿削除の是非を検証するのではなく、一方的に自分たちに都合のいい解釈(SNSが社会を右傾化させている)を押しつけているようにも見えます。

定義上、事実そのものが偏向することはありません。それに対して解釈は、主張する者のイデオロギーによってどのようにも変わるでしょう。そう考えると、この問題を「事実と解釈の関係」として整理することができます。

メディアはこれまで、事実と解釈を一体のものとして独占してきました。事実(ウクライナとガザで多くのひとが死んでいる)を報じるだけでなく、それをどのように解釈するか(ロシアのウクライナ侵攻は許されざる蛮行だが、イスラエルのガザへの攻撃は自衛であり、死傷者が出るのはしかたない)も決めていたのです。

それに対してMetaの新しい方針は、「事実の検証は必要だが、事実に対する解釈は多様であるべきだ」ということになるでしょう。これまで一定の基準(ポリコレ)に適合した解釈しか認めなかったことが、「偏向」と見なされたのです。

保守派は人種や性自認の多様性(ダイバーシティ)に反発していますが、じつは「リベラル」に対して解釈の多様性を求めていたのです。

『週刊プレイボーイ』2025年1月27日発売号 禁・無断転載