男と女のちがいは生得的なものか、社会的なものか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年3月12日公開の「「男女差は生得的なものか、社会的ものか?」アメリカで行なわれているリベラルvs保守の政治的争点とは?」です(一部改変)。

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「男と女のちがいは生得的なものか、社会的なものか?」はアメリカでリベラルvs保守の政治的争点になっており、その論争はヨーロッパや日本など先進諸国に影響を及ぼしている。最近、関連する本を何冊か読んだので、備忘録も兼ねて、いったいなにが問題になっているのかをまとめてみたい。

社会構築主義vs本質主義

「男と女はちがう」という主張は、歴史的には「男の方が女よりも優れている」という性差別を含意していた。「女は感情的だ」「女には難しいことはわからない」などがその典型だ。だからこそ初期のフェミニストたちは、このステレオタイプを覆すために、「男と女は(生殖器官を除けば)同じだ」と主張した。

だがその後、この争いはアメリカ社会を二分する政治的対立に変わっていった。その経緯を簡略化するなら、以下のようになるだろう。

(1)生物学者、遺伝学者、脳科学者、動物行動学者らが、昆虫(ショウジョウバエ)や哺乳類(ラット)など、詳細に研究されている実験動物の性差に基づいて、ヒトの男脳と女脳を研究しはじめた。霊長類(アカゲザルなど)においてもオスとメスのホルモンや脳機能のちがいが明らかになっており、それがヒトに拡張されるのは当然だった。

(2)こうした一連の研究から、『男は火星人、女は金星人』『話を聞かない男、地図の読めない女』など、男脳と女脳の性差を強調したベストセラー本が登場した。

(3)すると保守派(彼らの一部は進化論を「聖書の教えに反している」として否定している)が「科学」を根拠に、「男が外で働いて女が家事・育児をするのは自然の摂理だ」「男が機械やIT系の仕事、女が教育や看護の仕事を好むのは性差に基づいた個人の自由な選択だ」などと、性役割分業を正当化するようになった。同様に保守派は、「男と女は脳の仕組みからちがっているのだから、子どもは男らしく/女らしく育てるべきだ」として、ジェンダーフリーを推し進めるリベラルを攻撃した。

(4)この風潮に危機感を抱いたリベラルな科学者が、「男脳/女脳は生物学的な性差を過度に強調している」「ヒトは社会的な動物なのだから、男と女の生物学的なちがいはほとんど意味がない」として、先行する研究を批判するようになった。この立場は「社会構築主義」と呼ばれる。

(5)こうした批判を受けて、脳科学者などがより詳細な男と女の生物学的なちがいを研究するようになった。こちらは性差の「本質主義」だ。

このようにして本質主義と社会構築主義のあいだで「サイエンス・ウォーズ」の様相を呈するようになったのだが、ここで押さえておくべきは、「男脳/女脳」は第一義的には科学者同士の論争だということだ。ただし、科学者が政治的に中立というわけではなく、生物学に基礎を置く「本質主義者」は(本人の政治的立場にかかわらず)保守派に近い主張をし、性を社会的なものと見なす「社会構築主義者」は明らかにリベラルな主張をする。

女同士の対立を男は高みの見物をしている

興味深いのは、この「科学論争」が女性研究者同士で行なわれていることだ。

アメリカの神経精神医学者で「女性の気分とホルモン・クリニック」を創設したローアン・ブリゼンディーンは2006年に“The Female Brain(女脳)”を出版し、100万部を超えるベストセラーになった(世界30カ国以上で翻訳されており、日本では『女性脳の特性と行動 ──深層心理のメカニズム』小泉和子訳、パンローリング)。ブリゼンディーンは2010年に、続編である“The Male Brain: A Breakthrough Understanding of How Men and Boys Think(男脳:男や少年たちがどう考えるかの画期的理解)”を出している。

ブリゼンディーンはこの本で、女性の気分や行動にはエストロゲンなどの女性ホルモンが強く影響しており、子ども時代、思春期、母親になったとき、更年期で脳が異なるはたらきをすると論じている。思春期になって女性のうつ病が増えるのは(それ以前に性差はない)、月経によるホルモンの増減に適応するのが難しいからだともいう。

これに対して同じく女性神経科学者のリーズ・エリオットは2009年の“Pink Brain, Blue Brain: How Small Differences Grow Into Troublesome Gaps — And What We Can Do About It(ピンクの脳 ブルーの脳:わずかなちがいはどのようにしてやっかいなギャップになるのか。そして、それに対して私たちができること)”でブリゼンディーンの「女脳説」を批判した。これも『女の子脳 男の子脳 神経科学から見る子どもの育て方』(竹田円訳、NHK出版)として翻訳されている。

エリオットも脳科学者として、遺伝子やホルモンによって生物学的な性差が生じることは否定しないが、それよりも親の子育てや学校、子ども集団など社会的な影響の方がずっと強いと主張する。

女性研究者が性差をめぐって対立すると、フェミニスト活動家の批判は、当然のことながら保守派に与する(ように見える)女性研究者に向けられた。『科学の女性差別とたたかう: 脳科学から人類の進化史まで』( 東郷えりか訳、作品社)では、イギリスの女性ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーが巷間に流布する性差の研究を再検証しているが、それと同時に、「男と女には生物学的な性差がある」とする女性脳科学者らにインタビューを試みてすべて拒否されている。欧米のフェミニズムを席捲する社会構築主義と、本質主義の科学者との対立がどれほど根深いかがよくわかる。――男の研究者は、自らに火の粉が飛んでこないように、女同士の対立を「高みの見物」しているということもできる。

“性差のサイエンス・ウォーズ”は、保守派が「男と女のちがいは生得的だ」と主張し、リベラルが「性差(ジェンダー)は社会的構築物だ」と反論する構図になっているが、これを混乱させるのが同性愛者の存在だ。奇妙なことに、保守派は同性愛を「本人の選択」と見なし、リベラルは生得的なものだと考えるのだ。

このような逆転現象が起きる理由は、きわめて明快に説明できる。保守派は同性愛を「神の摂理に反している」とするが、同性愛者を批判するためには、それが本人の自由な選択(自己責任)でなくてはらならない。同様にリベラルは、同性愛者を擁護するために、それを生得的なもの(本人の意思ではどうしようもない)として免責する必要がある。

こうして、保守派は「男女のちがいは本質的だが同性愛は社会的構築物だ」、リベラルは「男女のちがいは社会的構築物だが同性愛は本質的だ」と主張することになる。当然のことながらどちらの説も一貫性に欠け、政治イデオロギーによって科学が歪められていることは明らかだ。

「性の基本は女である」

発生学的には、男と女がどのように生まれるかはほぼ解明されている。よく知られているように、ヒトの細胞には22対の互いに同一の染色体と、一対の性染色体がある(合わせて46本の染色体)。受精の際にこの性染色体がXXの組み合わせだと女の子、XYの組み合わせだと男の子が誕生する。

受精卵を男の子にするのは、Y染色体のなかでもSRY遺伝子(Y染色体決定領域遺伝子)という微細なDNAだ。

Y染色体のSRY遺伝子は受胎後5週目ごろから活動をはじめ、性腺を精巣につくり変える。6週目ごろには精巣からテストステロンなどの男性ホルモンが分泌され、(卵管や子宮になる)ミュラー管を退化させると同時に、もう1本の生殖器官であるウォルフ管を発達させ、これが精子や精液などを輸送する管になる。

男児の精巣から分泌されるテストステロンは胎齢14週から16週でピークを迎え、女児のおよそ8倍になる。このテストステロンによって未分化の性器結節からペニスが発達し、尿道ヒダが癒着して陰嚢がつくられる。

こうした発生の仕組みからわかるのは、「性の基本は女である」ということだ。エストロゲンは代表的な女性ホルモンだが、それが胎内で女児の子宮や外性器をつくるわけではない(エストロゲンは誕生まで影響がない)。テストステロンがなければ、自然にウォルフ管が退化しミュラー間が発達して胎児は女性になるのだ。

このことは、AIS(アンドロゲン不応性症候群)という稀な(10万人におよそ3人)症状によって確認できる。AISでは正常なY染色体からテストステロンが分泌されるが、その受容体が欠落しているためXY(男性型)の胎児は女性として成長する。外性器(ヴァギナ)も正常な女性と同じなので本人も親も気づかないが、思春期になっても初潮がないため、調べると子宮も卵巣もないことが判明する。

AISは XYの性染色体をもつが、性自認は例外なく女だ。思春期には乳房がふくらみ、男性に性的魅力を感じ、多くは結婚して養子を迎え母親になる。唯一の特徴は男性並みに背が高いことで、スーパーモデルのなかにはAISを噂される者が何人もいるらしい。

X染色体上のDAX1遺伝子は、2つ(XX)でSRY遺伝子を無効にするが、まれにひとつのX染色体にDAX1遺伝子が重複していることがある。この場合も性染色体は男性だが、卵巣が分化して外見は女性のようになる。それに対して性染色体がXXなのに男性になるまれなケースがあるが、これはSRY遺伝子がX染色体の1本に転座したためだ。

XX(女性型)の男性は外見も行動も普通の男性と同じで、自分を男だと認識している。XY(男性型)の女性は、思春期まではふつうの女性と変わりないが、未熟な卵巣のため初潮が訪れず乳房も発達しない。

男脳/女脳はホルモンが決める

性の基本は女だが、XX(女性型)の性染色体をもっていても男性のように成長することがある。これは女児が胎内でテストステロンにさらされるからだ。

性別の異なる(二卵性)双生児では、女児は男児の精巣から分泌される微量のテストステロンの影響を受けることがあり、性格が男っぽく(ボーイッシュに)なるらしい。

CAH(先天性副腎皮質過形成)と呼ばれるまれな(6000人に1人)遺伝性疾患では、妊娠初期に女児の副腎からテストステロンを含む非常に高レベルの男性ホルモン(アンドロゲン)が分泌される。そのため陰核が肥大して小型のペニスのようになり、陰唇が部分的に癒着して陰嚢のような構造になるが、子宮などの内性器はそれ以前に発達を始めているため、外性器を手術で女性化すれば子どもを産むことができる。

CAHは誕生直後に発見され、それ以降は継続的なホルモン補充療法が行なわれるから、高濃度のテストステロンにさらされたのは胎児期の一部だけだが、それでも(テストステロンの影響を受けていない)実の姉妹に比べて男の子のような行動をとる。――幼児期は人形より組み立て式おもちゃに興味を示し、男の子と取っ組み合いをして遊び、思春期になると車やバスケットボースに惹かれ、エンジニアや飛行機パイロットといった職業に憧れる。

ただしほとんどのCAHでは、行動は男の子でも性自認は女で、成人後に男性に性別移行するケースは少ない。多くが異性愛者として結婚するが、一般の女性よりもレズビアンやバイセクシャルの比率が高く、男性にあまり性的魅力を感じない傾向がある。

胎児期のホルモンの顕著な影響を見れば、男と女の脳のちがいにホルモンが関係しているのではないかと考えるのは当然だ。その筆頭がイギリスの発達心理学者サイモン・バロン=コーエンで、「胎児期に高濃度のテストステロンにさらされることで男児の右脳の言語中枢が破壊され、その代わりに空間認知能力が発達して“男脳”になる」との研究を精力的に発表している(『共感する女脳、システム化する男脳』三宅真砂子訳、NHK出版)。

バロン=コーエンの「テストステロン→男脳」説は、男は左脳に脳卒中を起こすと話せなくなるが、女の言語機能はそれほど低下しないことをうまく説明する。男は言語機能が左脳に特化しているが、女は右脳と左脳の2つの言語機能を駆使しているのだ。――ここから、女の方が右脳と左脳の連結が強い(脳梁が相対的に大きい)ともされる。

バロン=コーエンの「男脳/女脳」説は脳科学者の多くに受け容れられているが、そのことによってリベラル派のはげしい攻撃にさらされている。その科学論争の詳細を説明するのは私の手に余るが、リベラル派が突き当たる壁は自閉症にきわめて明瞭な性差があることだ。

自閉症は80~90%が男児で、バロン=コーエンによれば、この性差はテストステロンが脳の言語中枢を「破壊」することで説明できる。一般に男は女より共感力に乏しく、相手の考えを読むことが苦手だが、自閉症はそれが極端に進んだものなのだ。

ただし自閉症児の多くは、「(相手の考えを読むための)こころの理論」がうまく働かないが共感力はあり、母親が悲しそうな顔をしていると対処しようとする(悲しい理由がわからない)。一方、相手の考えを理解できても共感力が欠落している(悲しい気持ちがわからない)タイプもいて、これが極端になるとサイコパスと呼ばれる。

リベラルの隘路は、「胎児期のテストステロンが男脳をつくる」というバロン=コーエンの説を否定すると、自閉症の原因が子育てになってしまうことだ。その8~9割が男児に発症するということは、親が男児にだけとてつもないストレスを与える子育てをしている(なぜか女児にはしない)ということになるが、これは馬鹿げているだけでなく、自閉症の子どもを抱えて苦労している親をさらに苦しめるだけだ。

この「差別的」な主張を回避しようとすると、「テストステロンによって男脳がつくられるわけではないが、胎児期のなんらかの作用によって生得的に男児に自閉症が偏る」ことになるが、これは科学的にはなんの説明にもなっておらず、バロン=コーエンの説得力のある主張を覆すことはできないだろう。

もうひとつ指摘しておくと、PCではない(政治的に正しくない)研究に対するリベラルの批判は、ときに揚げ足取りのようなものになる。ラットにおいては、人為的に過度のテストステロンにさらすと空間認知能力が上がる(迷路を早く抜けられる)など、ホルモンの性差への影響を示す多くの結果が出ているが、このような研究をいくら積み上げても「ラットとヒトはちがう」と一蹴されてしまう。

当然のことながら、ヒトの子どもに対して遺伝子を操作したり、ホルモンを過剰投与したランダム化比較試験などできないのだから、リベラルはどのような研究に対しても、その結果が気に入らないときに「科学的な厳密性に欠ける」と批判することができるのだ。

性的志向は本質主義で決まるが、男らしさ/女らしさは社会的構築物?

ヒトが両性生殖である以上、「男脳/女脳」のもっとも大きな性差が性的志向であることは間違いない。男脳が女に、女脳が男に性的な魅力を感じなければ子どもが生まれることもなく、人類はとうのむかしに絶滅していたはずだ。どれほど強硬な社会構築主義者でも、性的志向の性差が本質的なものであることを否定することはできないだろう。

しかしそれと同時に、どのような社会にも一定の割合(5%前後)でゲイ、レズビアン、バイセクシャルなど異性愛とは異なる性的志向をもつひとたちがいる。これはヒトのセクシャリティが生物学的に不安定なものであり、そこから性(ジェンダー)の多様性が生まれることを示している。

ジェンダーアイデンティティ(性同一性)障害のメカニズムについてはまだほとんどわかっていないが、性染色体が身体を男/女に発達させたものの、なんらかの理由で脳が逆の性をもつようになったと考えられている。「男の身体と女脳/女の身体と男脳」の組み合わせがトランスジェンダーで、性自認(脳)に合わせて自らの身体をつくり変えようとする(「自分は本来は男/女なのに、女/男の身体に閉じ込められている」と感じている)。

さらに複雑なのは、性自認と性的志向が必ずしも一致しているわけではないことだ。トランスジェンダーの男性が女性に性別移行して男に性的魅力を感じる(異性愛)こともあれば、性愛の対象は女のまま(同性愛)のこともある。それに対してトランスジェンダーの女性が男性に性別移行した場合は、性的志向は女(異性愛)になることがほとんどのようだ。

性的志向がどうであれ、トランスジェンダーは親や社会から、脳(性自認)を身体的な性に合わせるようきわめて強い圧力をかけられており、本人もそのことに苦しんでいるのだから、これが「社会的に構築された」とすることは無理がある。ヒトの性は複雑で「すべてホルモン(遺伝子)が決める」ということはできないが、性意識の基盤に生物学的な要因が強くはたらいていることは明らかなのだ。

そうなるとリベラルは、「性的志向は本質主義で決まるが、それ以外の男らしさ/女らしさは社会的構築物だ」というアクロバティックな主張をせざるを得なくなる。この矛盾を保守派から攻撃されるのだが、それでもここはリベラルにとって譲れない一線だろう。

「毒々しい男らしさ」と「毒々しい女らしさ」

自閉症などと並んで男女で顕著な性差があるのが「攻撃性」だ。世界じゅうどこでも、殺人などの凶悪犯罪は圧倒的に男によるもので、刑務所に入るのも、売春などを除けば男が多い。そしてこの攻撃性が、女性や子どもへの性暴力や虐待の温床になっている。最近ではこれは、「toxic masculinity(毒々しい男らしさ)」と呼ばれている。

性的志向が生得的なものなら、性的マイノリティ(LGBTIQ+)が異性愛者と対等の権利をもつのは当然だ。誰を愛するのか(どのようなジェンダーアイデンティティをもつか)は、自分では選択できないどうしようもないもの=運命なのだ。

ここまではいいとして、男脳/女脳が生得的なものだとすると、同じ理屈で、「男が暴力を振るうのは進化の過程でそのように設計されてきたからで、本人の意思ではどうしよもない」ことにならないだろうか。だが暴力を忌避するリベラルな社会は、この理屈をぜったいに受け容れることができない。科学がどうであれ、性的志向以外の「男らしさ/女らしさ」は社会的に「矯正」できるものでなければならないのだ。

だが、リベラルは「毒々しい男らしさ」を一方的に攻撃しているわけではない。リベラルな脳科学者であり、1人の女の子と2人の男の子の母親でもあるリーズ・エリオットの『女の子脳 男の子脳』を読むと、「toxic femininity(毒々しい女らしさ)」ともいうべき女性性も批判の対象になっていることがわかる。

エリオットはこう書いている。

多くの女性は、学校やスポーツや職場でもあからさまな競争は嫌うが、服やヘアスタイルや特定の男の子の関心を惹くことにかんしてはひどく意地悪にもなれる。こうした分野で人の上に立ちたいという気持ちが女性になければ、ミス・インターナショナルもなくなるだろうし、ファッションや美容外科に多額の費用が投じられることもなくなるだろう。

女性も競争する。ただし、それはほとんどが美と――少なくとも10代以下の女の子の場合は――友情と序列をめぐる競争だ。そして、男性の競争と大きく異なるのが、女性の競争は攻撃性と同じくほとんど表面に出ないことだ。いじめる側は隠れて匿名で中傷する。仲間外れといった作戦をとる。

アメリカをはじめとして欧米先進国では、女子の成績が上がる一方で、男子が学校からドロップアウトすることが大きな問題になっている。だがこれは、男の子が女の子との競争についていけなくなっているわけではないようだ(男の子と女の子は別の社会をつくっている)。男女共学で優秀な女の子が身近にいるほうが、男の子のドロップアウト率が低いというデータもある。

なぜ多くの男の子が競争から脱落してしまうかは諸説あるが、それがいまや大きな社会問題になりつつあることは間違いない。すくなくとも母親にとっては、男の子は「守ってあげなくてはならない」存在なのだ。

参考:先進国で「男子劣化」が起きている理由

それに比べて、言語的知能も共感力も高く、学校の成績もよく、なんでも自分でできるにもかかわらず、おしゃれと恋愛にしか興味がない(ように見える)女の子へのリベラルの視線が、これからはきびしくなっていくのかもしれない。

禁・無断転載

教員のなり手が減っているのに少人数学級が実現できる? 週刊プレイボーイ連載(551)

2021年3月に、公立小学校の1クラスあたりの生徒数を35人以下に引き下げる改正義務教育標準法が成立しました。これによって、22~25年度に教職員定数を毎年3000人超ずつ増やし、計1万3500人程度の増員が予定されています。

少人数学級の方が、先生は一人ひとりの生徒に目が行き届き、学力の向上や、いじめ・不登校の改善が期待できます。よいことばかりに思えますが、じつは大きな問題が隠されています。教員のなり手がどんどん減っているのです。

公立小学校教員の23年度採用試験の受験者は、全国で3万8641人と前年より約2000人も減りました。合格者数が採用見込み数を下回ったのは12の教育委員会で、そのうち大分県では、採用見込み数200人に対して受験者数198人と「定員割れ」を起こしました。教員の質確保のため、159人しか合格させられなかったといいます。

教員の志願者が減れば、当然、採用倍率は下がります。公立小学校の採用倍率は10年前は4.4倍でしたが、いまでは過去最低の2.5倍になっています。35人学級実施のために採用人数が年々増えていけば、いずれ大学で教員免許さえ取得すれば誰でも公立小学校の教師になれる時代がやってきそうです。

公立学校では日常的に教員の欠員が生じていて、山梨市では教委が「病気や出産で休暇に入る教員の代替の確保が非常に厳しい」という内容の文書を小中11校の保護者に配り、教員免許保持者の紹介を頼んで話題になりました。別の地域の校長は、「臨時採用の候補者名簿を見て200人近く電話したが『企業に就職が決まった』などと断られた」と話したそうです。

教委もこの事態に手をこまねいているわけではありません。山梨県では、小学校教員採用試験の受験者のうち20人程度を対象に、日本学生支援機構から借りた奨学金のうち卒業前2年分を上限に返済資金を補助する「肩代わり」を始めました。それ以外でも、「大学訪問を通じて志望者を掘り起こす」(秋田県)「受験年齢制限の撤廃や東京会場での試験の実施」(福島県)「教員の魅力を発信する説明会を高校生も対象に実施」(三重県)など、涙ぐましい努力をしています。

少子高齢化と人口減で日本経済は慢性的な人手不足となり、いまや若者は希少価値で、民間との人材獲得競争はますます厳しくなっています。残業代ゼロで長時間労働し、部活で土日もなく、授業だけでなくモンスターペアレントの対応までしなければならないのでは、どれほど高い志があっても二の足を踏むでしょう。

教員の質が下がると保護者の不満や苦情が増え、学級運営はさらに難しくなります。教員の不祥事が増えると、メディアやSNSではげしくバッシングされます。これでは教員志望者はますます減り、富裕層は子ども私立に入れるので、経済格差は拡大するばかりでしょう。

少人数学級の実現を目指した理想主義の教育関係者は、自分たちの子ども時代と同様に、志の高い若者がいくらでも教師になってくれると思っていたのでしょう。いつものように、「地獄への道は善意によって敷き詰められている」のです。

参考:日本経済新聞2023年1月16日「教育岩盤 迫る学校崩壊 先生の質 保てない」「「授業のプロ」確保へ腐心」
朝日新聞2023年1月20日「教員試験 定員割れも」

『週刊プレイボーイ』2023年1月30日発売号 禁・無断転載

「人種」と「ヒト集団」をめぐるやっかいな問題について

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年7月16日公開の「アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている」です(一部改変)。

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著名な進化心理学者であるスティーブン・ピンカーに対して、アメリカの大学を中心に542人の研究者が、これまでの「人種主義的」発言を理由に、アメリカ言語学会のフェローから除名するよう求める請願書を公開した。それに対して、ノーム・チョムスキー、フランシス・フクヤマ、J・K・ローリング、マルコム・グラッドウェルなどを含む有識者が“A Letter on Justice and Open Debate(正義と開かれた討論についての手紙)”で、過剰なポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が思想信条や表現の自由の脅威になっているとの懸念を示した。

「この息の詰まるような(ポリコレの)空気は、最終的に、私たちの時代の死活的に重要な大義を毀損するにちがいない。(開かれた)討論への制約は、抑圧的な政府によるものであれ、不寛容な社会によるものであれ、ちからのないひとびとを不可避的に傷つけ、民主的な参加への道を閉ざすことになる」との一文が、アメリカのアカデミズムをとりまく状況をよく表わしている。

この象徴的な事件は今後、日本でも多くの識者が論じることになるだろうが、ここではなぜピンカーが「レフト」の標的になるのか、私見を述べてみたい。それは結果的に、「人種主義(Racism)」がアメリカ社会においてどれほどやっかいな問題かを示すことになるだろう。

リベラルの「楽観主義」こそが、レフトにとっては殲滅すべき最悪の敵

アメリカでは、過激な主張をする左派を「レフト」とか「ラディカル・レフト」と呼んで、「リベラル」と区別するようになった。彼らが、民主党の大統領予備選などを通じて、トランプ=共和党の保守派だけでなく、リベラルとされる候補者や知識人をもはげしく攻撃したからだ。ピンカーは「リベラルを騙る人種主義者」の代表として、これまでもずっと標的にされてきた。

2004年に『タイム誌』の「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれたスティーブン・ピンカーは、『暴力の人類史』(青土社)や『21世紀の啓蒙』(草思社)などで、「18世紀の“啓蒙の時代”以降、世界はますますゆたかで平和になり、人類は幸福になった」と繰り返し述べている。

こうした「事実(ファクト)に基づいた楽観主義」は、日本でもベストセラーになったハンス・ロスリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』(日経BP)にも共通しており、いったいどこが「人種差別」なのか戸惑うひとも多いだろう。だがこれは、次のように考えればわかるのではないだろうか。

ピンカーは著書のなかで「世界はますますリベラル化している」として、同性愛者差別、女性への暴力、子どもの虐待・体罰などあらゆる指標において、「今日の保守層の価値観はかつてのリベラルよりずっと“リベラル”になった」と膨大なデータを挙げて示した。問題は、この「リベラル化」に人種差別も加えられていることだ。

人種分離を求めるKKK(クー・クラックス・クラン)の最盛期は1920年代で、第二次世界大戦後に白人の「戦友」と共に戦った黒人帰還兵たちが反人種差別の声を上げると、全米に共感の輪が広がって公民権運動につながった。1964年にミシシッピ州で公民権運動家3人を謀殺した事件でKKKの凋落は決定的になり、現在は「カルト組織」として細々と命脈を保っているだけだ。

処刑した黒人を木に吊るす「奇妙な果実」のようなことはいまでは想像すらできず、ほとんどの白人はマイノリティへの差別を嫌悪している。ピンカーにいわせれば、Black Lives Matter(BLM)の運動もアメリカ社会の「リベラル化」の証拠なのだ。

だとしたら警察による「黒人差別」はどうなのだろうか? これについてピンカーは2015年に、ニューヨークタイズムの記事(Police Killings of Blacks: Here Is What the Data Say By Sendhil Mullainathan /Oct. 16, 2015)を引いて、「データ:警官は黒人を不釣り合いに銃撃してはいない。問題:人種ではなく、あまりにも多くの警官による銃撃」とTweetした。

この記事では、黒人はたしかに警官によって銃撃される割合が高いが、これは人種別の貧困率から説明できるとされている。貧困地区では犯罪が多発し、そこに警察官が出動すれば銃撃事件が起きる可能性も高まる。真の問題は黒人の貧困率が高いことで、それを統制すると「警官が人種的偏見を持っている」とは統計的にいえなくなるという。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)に対する保守派の論理とは

ピンカーがいうように、アメリカ社会が「リベラル化」しており、人種差別や黒人への偏見が(かつてと比べて)解消されつつあるとしよう。しかしそれにもかかわらず、人種別世帯収入の公的調査では黒人の苦境が際立っている。2017年の黒人の世帯収入は4万1361ドル(約440万円)で白人(7万642ドル≒760万円)より4割低く、もっともゆたかなアジア系(8万7194ドル≒930万円)と比べると半分以下で、この経済格差は1960年代と比べて縮小していないばかりか「拡大」しているのだ。

そうなると、「人種差別がなくなったのに、なぜ黒人は貧しいままなのか?」「同じ人種マイノリティでも、アジア系は白人よりゆたかになったのに、なぜ黒人は貧しいままなのか?」との疑問が出てくるのは避けられない。

ここから、「アメリカは人種問題においてもリベラルになっている」との主張をレフトが拒絶する理由がわかるだろう。ピンカーは人種についての言及を慎重に避けているが、「人種差別がなくなれば黒人と白人の経済格差はなくなるはずだ(そうでなければならない)」とのイデオロギーを信奉する者にとっては、経済格差が拡大しているにもかかわらず”リベラル化”を説くピンカーの啓蒙主義は「人種主義(Racism)」以外のなにものでもないのだ。

世界的ベストセラー『サピエンス全史』で知られるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは「リベラルな知識人」の代表とされているが、AI(人工知能)によって人類(サピエンス)は「エリート層」と「無用者階級」に分断されると予言する。これはピンカーの「啓蒙的楽観主義」と比べて、はるかに優生思想に近い。

それでもハラリが批判されないのは、未来をディストピアとして描いているからだろう。レフトにとっては、「現在は過去より悪く、将来はさらに悪くなっていく」のでなくては自分たちの存在意義がない。ピンカーやロスリングのいうように「現在は過去よりよくなっていて、将来はさらによくなる」のなら、必要なのは逐次的な改善の積み重ねで、「体制変革」「革命」「暴動(暴力的抗議行動)」の正当性はなくなってしまう。

レフトにとって殲滅すべき最悪の敵は、トランプの「ファシズム」ではなく、リベラルの「楽観主義」なのだ。

人種現実主義と科学的人種主義

トランプはSNSなどで、抗議デモを隠れ蓑に略奪を繰り返したり、奴隷制の歴史を正当化する(とされる)記念碑や彫像を破壊する過激な一派を「アンチファ(反ファシズム)」「キャンセルカルチャー」と執拗に攻撃している。これによって、表現の自由を守るために過剰な「ポリコレ」を批判するリベラルも、レフトにとっては「トランプ支持者」の同類になってしまった。アメリカの言論状況は複雑骨折のような状況になっているのだ。

そこでここでは、錯綜する議論を整理するために、「人種(Race)」について基本的なことを述べておきたい。近年、アカデミズムの世界で「人種」概念は大きく変容しているからだ。

結論を先にいうと、いまでは遺伝学的な意味での「人種」は否定され、社会学などを除けば学術論文のなかで“Race”や“Ethnicity”が使われることはほぼなくなった。フランスの分子生物学者ベルトラン・ジョルダンの『人種は存在しない 人種問題と遺伝学』(山本敏充、林昌宏訳、中央公論新社)の書名がその変化を表わしている。

人種を「社会的構築物」とする主流派の立場に反対するのが「白人至上主義者」の「人種現実主義(Race realism)」で、そこでは大きく2つのことが主張されている。

ひとつは、人間の本性として、白人は白人同士で、黒人は黒人同士で集住した方が安心できるという「現実」があること。これを「多元主義」の美名の下に国家権力が矯正=強制しようとしてもいたずらに混乱が広がるだけだとする(その意味でこの立場は「黒人を差別しているわけではない」とされる)。

その主導者がジャレド・テイラーで、渡辺靖氏の近著『白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」』(中公新書)に詳しいが、日本で宣教師の両親のあいだに生まれ、16歳まで香川県や兵庫県で過ごしたことで日本語を流暢に話し、イェール大学卒業後にパリ政治学院で修士号を取得した知識人で、日米間の翻訳・通訳業で成功を収めたのちに「人種現実主義者」になったとされる。

もうひとつは、遺伝学的に、人種間には肌の色のような外見のちがいだけでなく、認知的・心理的な側面を含むさまざまな差異があるとする主張で、「科学的人種主義(Scientific racism)」と呼ばれる。こちらはイギリスの科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』( 東郷 えりか 訳、作品社)にアカデミズムの(そして著者自身の)混乱がよく描かれている。

「科学の人種主義」としてサイニーが批判するのが行動遺伝学と遺伝人類学だが、いずれも現在は“Race”を使っていない。だったらどこが「人種主義」かというと、“Population”という新奇な用語が(主に遺伝人類学で)登場したからだ。――これには「人類集団」の訳もあるが、日本の遺伝人類学では「人類(ネアンデルタール人などを含むすべてのホモ属)」と「ヒト(現生人類/ホモ・サピエンス)」を区別しているので「ヒト集団」とする。

ジョルダンは「人種は社会的構築物で科学的には否定された」との立場をとるリベラルだが、その著書『人種は存在しない』の内容は、「人種は存在しないがヒト集団は存在する」と要約できる。なぜなら遺伝人類学そのものが、ヒトを遺伝的にさまざまな「集団」にグループ分けし、その来歴や歴史を探る学問だからだ。

「人種」ではなく遺伝学的な「ヒト集団」でグループ分けができる

遺伝人類学については「古代DNA革命」を牽引するデイヴィッド・ライクの『交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(日向 やよい 訳、NHK出版)を以前紹介した。

参考:遺伝人類学が解き明かす「人類誕生」と「人種」の謎

そこでここではより身近に、太田博樹氏による『遺伝人類学入門』(ちくま新書)から「下戸遺伝子(これは私の命名)」を例にあげよう。

一卵性双生児を除けば、同じDNAをもつひとはこの世にいない。この分子レベルのバリエーションを「遺伝的多型」といい、それを知るのにもっともよく使われるのが一塩基多型(SNPs/スニップス)だ。

日本では、まったくお酒を飲めないひとを「下戸」と呼ぶ。かつては「無理に飲ませればそのうち慣れる」といわれたが、これはきわめて危険な間違いで、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを遺伝的に酢酸に分解できないのが理由だ。酢酸は無害だが、アセトアルデヒドは強い毒性があり、血中に溜まると頭痛が起こり、顔が紅くなり、気分が悪くなる。

アルコールを無害化するには肝臓ではたらくアルコール脱水酵素が必要で、ヒト12番染色体にあるALDH2という遺伝子がコードしている。ALDH2は13個のエキソン(DNAの遺伝子部分)で構成されており、そのうちの12番目の配列は野生型ではGAAとなっているが、このGがAに変わってAAAの変異型になることがある。

「野生型」はかつては「正常型」と呼ばれたが、変異型=異常を連想させるとしてこの名称に変わった。遺伝子頻度の多い方(マジョリティ)が野生型とされるが、進化論的には主に、狩猟採集の旧石器時代に形成されたのが野生型、農耕・牧畜開始以降の環境の変化によって獲得されたのが変異型ということになる。

野生型(GAA)から変異型(AAA)への変化は塩基1つのちがいだが、これによってアミノ酸がグルタミン酸からリシンに変化し、アルコール脱水酵素が機能しなくなる。染色体は2本あるから、GAA+GAA(野生型+野生型)、AAA+AAA(変異型+変異型)、GAA+AAA(野生型+変異型)の3つのパターンが考えられる。――このうち、同じ配列の組み合わせを「ホモ接合」、異なる配列の組み合わせを「ヘテロ接合」という。

SNPsが両方とも変異型のホモ接合(AAA+AAA)だと、アルコール(エタノール)から生じるアセトアルデヒドを酢酸に分解することができずに下戸になる。GAA+AAAのヘテロ接合では脱水酵素がじゅうぶんに機能せずに酒に弱くなる。ちょっと飲むとすぐに顔に出るのはこのタイプだ。

興味深いのは、このSNPsに顕著な地域差があることだ。日本ではGAA+GAA(酒に強い)が55%、GAA+AAA(酒に弱い)が40%、AAA+AAA(下戸)が5%程度だが、じつはAAAの変異は中国南部(長江周辺)を起源として東アジアにしか存在しない。下戸遺伝子のSNPsを調べるだけで大陸のどこの出身かを判断できるのだ。

こうしたわかりやすいSNPsは、ほかにいくつも見つかっている。乳糖不耐症は牛乳などに含まれる乳糖(ラクトース)の消化酵素ラクターゼを分解できないことで、消化不良や下痢などの症状が出る。だが下戸遺伝子とはちがって、病気(乳糖不耐症)の方が野生型で、人類が家畜を飼うようになったことで、その乳を栄養分として摂取できることが生存に有利になり、成長してもラクターゼを分解可能な変異型の遺伝子が広まった。このSNPsで、先祖が牧畜文化で暮らしていたかどうかがわかる(稲作の東アジアには牛乳を飲むとおなかをこわすひとが多い)。

鎌形赤血球症は遺伝性の貧血病で、変異型の遺伝子を2つもっているホモ接合だと重篤な溶血性貧血症状が起き、黄疸、骨壊死、下腿潰瘍などで死に至ることもある。なぜこのような生存に不利な遺伝的変異が存在するのか不明だったが、やがてヘテロ接合(野生型+変異型)の場合、マラリア原虫に抵抗力があることがわかった。幼児期のマラリアはきわめて死亡率が高いが、変異型を1つもっていると生き延びることができる。こうしてアフリカやインドなど、マラリア原虫を媒介するハマダラカの生息する地域でこのSNIPsが広がったのだ。

下戸遺伝子や乳糖不耐症、鎌形赤血球症の遺伝子はどのヒト集団にも存在するが、その分布には明らかな地域差がある。たとえば東アジアでは、下戸遺伝子と乳糖不耐症の割合が高く、鎌形赤血球症の割合は低い。これはヒト集団によって「遺伝子頻度(アレル頻度)」が異なるからで、遺伝子頻度は集団内で特定の遺伝的多型がどの程度見られるかの指標になる。

異なるヒト集団で遺伝子の分布(ハプロタイプ)に差があるのなら、それに基づいてグループ分けができるし、グループ間の距離も計測できる。これが遺伝人類学の基本的な考え方だ。

科学と政治イデオロギーのあいだの埋めがたい溝 

遺伝人類学によれば、「日本人」は遺伝的には、中国人、韓国・朝鮮人、台湾人、モンゴル人、チベット人などとともに「東アジア系」という主要なヒト集団に属している。また「日本」という国は単一民族ではなく、大きくヤマト人、アイヌ人、オキナワ人に分かれる(斎藤成也『核DNA解析でたどる日本人の源流』河出書房新社)。このようにヒトをさまざまなレベルの「遺伝集団」にグループ分けすることは、「日本」や「日本人」というナショナリズムを相対化する有力な方法になる(「日本人の遺伝子」などというものはない)。

だがこれと同じ考え方を、白人/黒人という人種問題に適用したらどうなるだろうか。

アメリカのような多民族社会で、ランダムに選んだひとのDNAを調べると、遺伝子頻度のちがいで5つから6つの大きなグループ分けができる。そしてこの分類は、一般に知られている黒人、白人、アジア系などの「人種」とほぼ一致する。これは祖先がどこで暮らしていたかを示しているので、「大陸系統(Continental Ancestry)」と呼ばれる。

なぜ人種と大陸系統が一致するかというと、ホモ・サピエンスが7万~5万年ほど前にアフリカを出てユーラシア大陸やアメリカ大陸、オセアニアなどに広がってから、それぞれの大陸で(相対的に)独自の進化を遂げてきたからだ。その結果、肌や髪、目の色などの表現型のちがいが現われた。これは遺伝的なものだから、DNAを解析すれば大陸系統によってグループ分けされるのは当然なのだ。

もちろん、ヒトはずっと「大陸」を越えて交わってきた。これは国際結婚のような牧歌的なものだけではなく、人類史の大半を通して、戦争や略奪、奴隷制、性暴力などにともなって大陸系統間の交わりが起こるのが大半だった。

その典型がアフリカ系アメリカ人(アメリカの黒人)で、祖先情報マーカー(SNPsを利用した大陸系統の分類)は西アフリカ系からヨーロッパ系に向けて広く分布している。これは白人と黒人の「混血」が多いからだが、DNA解析ではそれが父系か母系かまで判別できる。父系が白人、母系が黒人であれば、奴隷制時代のプランテーションの主人と奴隷の関係であることを示唆する(ジョルダン『人種は存在しない』)。

このように、科学的に「人種」概念は否定されたものの、遺伝学的な「ヒト集団」の存在が明らかになり、詳細に解明されるようになった。これが「人種問題」に混乱を引き起こしたことはいうまでもないだろう。

サイニーは『科学の人種主義とたたかう』で、リベラルな遺伝人類学者であるデイヴィッド・ライクにインタビューしている。サイニーはライクから「われわれが築く社会的な構造と相関する集団間の系統の違いは実際にあります」と断言され、大きなショックを受ける。

ライクはアメリカの黒人と白人のあいだには、表面上の平均的な違い以上のものがあるかもしれないとほのめかす。それは認知的、心理的な違いにおよぶ可能性すらあり、アメリカにやってくるまで、それぞれの集団グループは7万年にわたって別個にそれぞれ異なる環境に適応してきたためなのだ。これだけの時間の尺度のあいだに、自然選択は双方に異なった形で作用し、一皮むいた以上に深いところの変化を生み出したかもしれないと彼は示唆する。ライクは思慮深く、これらの違いが大きなものだとは自分は考えず、1972年に生物学者のリチャード・ルウォンティンが推定したように、個人間の差異よりもわずかに大きい程度だろうと付け足す。それでも、こうした違いは存在しないとは考えていないのだ。

インタビューのなかでライクは、(ヒト集団のちがいを否定する)サイニーに「まったく悪気のない人びとが科学と矛盾することを言うのは少々辛いものがあります。悪気のない人には正しいことを言ってもらいたいからです」と語る。

この言葉に、科学と政治イデオロギーのあいだの埋めがたい溝が象徴されているのだろう。

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