すべてのひとに役立つ成功法則は「合理性」 週刊プレイボーイ連載(556)

「どうすれば成功できるか?」という問いには、すでに結論が出ています。多くの研究によって、社会的・経済的に成功するのは、男女を問わず、以下のような特性をもっているひとだということがわかっているからです。

高い知能 仕事を正確かつ効率的にこなせる
高い堅実性 約束やスケジュールを守る
高い外向性 ただし、内向的でも経済的には成功できる
高い楽観性 低い神経症傾向
高い共感力 相手の気持ちになれる
高い同調性 みんなとうまくやっていける
高い経験への開放性 新奇なものに関心をもつ
魅力的な外見 男の場合は高身長も

問題は、性格や外見を思いどおりに変えられないことです。政治家や芸能人、ベンチャー起業家の多くが高い外向性をもっているとしても、内向的なパーソナリティのひとに向かって、「もっと積極的な性格になれば成功できる」というアドバイスはなんの役にも立ちません。

行動遺伝学では、性格のおよそ半分は遺伝の影響で、成長につれて遺伝率は高くなり、成人してからは、パーソナリティはほとんど変わらないとされます。これが、世の中には多くの(多すぎる)成功法則があるにもかかわらず、「ぜんぜん役に立たない」という不満の声があふれている理由です。

成功法則には、「向き不向き」があります。成功者の自伝を読んで人生が変わるほどの影響を受けたとしたら、それはパーソナリティが似ているからでしょう。自分とよく似たひとは、同じような状況で同じような問題に直面しやすいのです。

逆に、まったくちがうキャラクターの成功者の話を聞いても、「そういうひともいるのか」と思うだけでしょう。あなたと似ていないひとはたぶん異なる体験をしているし、仕事や恋愛のような共通する関心事でも、あなたにはなんの参考にもならない対処の仕方をしているです。

それでは、すべてのひとにとって役に立つ成功法則は存在しないのでしょうか。じつは、たったひとつだけあります。それが「合理性」です。

わたしたちが生きている(産業革命以降の)知識社会では、「論理的に思考すること」と、「それを言語によって伝えること」に、大きなアドバンテージが与えられています。それはすなわち、合理的に判断し、行動することで大きな優位性が得られるように社会が構成されているということです。

とはいえ、合理的に生きることはさほど難しいわけではなく、(ほとんど)すべてのひとに可能です。なぜなら、これまで多くの賢い先人たちが、合理性について徹底的に考えてきたからです。だとすれば、わたしたちはそうした「巨人」の肩に乗ることで、最短距離で「成功」に到達できるはずです。

そんな話を、新刊『シンプルで合理的な人生設計』(ダイヤモンド社)で書きました。これは汎用性のある成功法則なので、あなたにもきっと役に立つはずです。

『シンプルで合理的な人生設計』

『週刊プレイボーイ』2023年3月20日発売号 禁・無断転載

ステレオタイプ脅威と偏見・差別のやっかいな関係を考えてみる

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年8月27日公開の「「黒人は白人より学力が低い」と意識すると実際に成績が下がる「ステレオタイプ脅威」を解消するには、相手の「ナラティブ(物語)」を変えることが重要」です。本稿は、ステレオタイプ脅威の再現性問題について加筆しました。

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「ステレオタイプ脅威Stereotype threat」は近年の社会科学でもっとも注目されている概念のひとつで、「女は数学が苦手だ」「黒人は白人より学力が低い」などの社会的なステレオタイプ(偏見)を意識させると、それによって実際にテストの点数が下がってしまう現象をいう。

クロード・スティールの『ステレオタイプの科学 「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか』(藤原朝子訳、英治出版)は、ステレオタイプ脅威を発見したアメリカの著名な「黒人」社会心理学者が、これがどのようなことなのかを自ら説明したとても興味深い本だ。

著者のスティールは米国科学アカデミー、米国教育アカデミー、アメリカ哲学協会、アメリカ芸術科学アカデミーの会員で、カリフォルニア大学バークレー校副学長、コロンビア大学副学長などを歴任し、現在はスタンフォード大学心理学教授を務めるアメリカを代表する「黒人」知識人だ。――ここでなぜ人種を強調するかというと、少数派(マイノリティ)であることが本書のテーマだからだ。

原書のタイトルは“Whistling Vivaldi:How Stereotypes Affect Us and What We Can Do(ヴィヴァルディを口笛で吹く:ステレオタイプはわたしたちにどう影響し、わたしたちに何ができるのか)”。クラシックのヴィヴァルディを口笛で吹く意味については最後に述べよう。

ステレオタイプ脅威は再現性に失敗している?

「男子生徒といっしょに女子生徒に数学の試験を受けさせ、『女は男より論理・数学能力が劣る』という論文を読ませるなどしてステレオタイプを意識させると、それだけで点数が大きく下がる。これは、社会的な偏見によって女子生徒が数学の実力を発揮できないことを示している」

これが「ステレオタイプ脅威」だが、この理論が広く受け入れられた背景には、リベラルなイデオロギーときわめて相性がいいことがある。一部の(あるいはものすごくたくさんの)メディアや知識人は、「女は数学が苦手だ」とか「黒人(アフリカ系アメリカ人)は白人より学力が低い」などの偏見はすべてステレオタイプ脅威で説明できる(本来は両者になんのちがいもない)と主張した。

ここであらかじめ述べておかなくてはならないのだが、「ステレオタイプ脅威」は再現性についてはげしい論争の渦中にある。多くの再現実験を集めて検証したメタアナリシスでははっきりとした傾向は確認できておらず(多くの実験は、人種差よりも設定が容易な性差で行なわれた)、2008年から16年にかけて発表された5つの主要なメタアナリシスでは、ステレオタイプ脅威の効果量はごくわずかで、研究者の政治的な立場によって、それを「ステレオタイプ脅威だ」とする者(リベラル)と「出版バイアスだ」とする者(保守)に分かれた。

出版バイアスは「目立つ研究結果は学術誌に掲載されやすい」ことで、「ステレオタイプ脅威がない」という研究よりも「ある」という研究の方が好まれるので査読を通りやすくなる。このバイアスを調整すると、一般に思われているようなステレオタイプによる大きな心理効果は存在しないらしい( Charles Murray (2020) Human Diversity: The Biology of Gender, Race, and Class, Twelve )。

それにもかかわらずなぜここで取り上げるかというと、スティールの本を読むかぎり、「性差や人種差はすべてステレオタイプの影響だ」などということはいっていないからだ。スティールは、「ステレオタイプ脅威とはアイデンティティへの脅威だ」と述べている 。

「同じ能力なのになぜ結果がちがってしまうのか」を説明する理論

男子生徒といっしょに女子生徒に数学の試験を受けさせ、「女が男より論理・数学能力が劣る」という論文を読ませるなどしてステレオタイプを意識させると、それだけで点数が大きく下がる。――これがステレオタイプ脅威だが、(多くのひとが誤解しているように)「男女の数学能力にはなんのちがいもない」ことを証明したわけではない。スティールは、「脅威(ストレス)を加えなければ同じ結果になることがわかっている2つの集団」を比較したときに、ステレオタイプがどのように結果に影響するかを調べたのだ。

このことをよく示しているのが、プリンストン大学の研究者が行なった、白人と黒人の大学生に10ホールのミニチュアゴルフをさせる実験だ。このとき、「運動神経を測定する」といわれた白人学生は、そういわれなかった白人学生よりずっとスコアが悪かった(黒人学生にこの効果はなかった)。ところが、「これはスポーツ・インテリジェンス(運動知能)を測定する実験だ」と告げると、こんどは黒人学生のスコアが悪くなった(白人学生にこの効果はなかった)。黒人学生のスコアは、白人学生よりも平均4打以上多くなったのだ。

なぜこんなことになるかというと、「運動神経を測定する」といわれた白人学生は「白人は黒人と比べて運動神経が鈍い」というステレオタイプ脅威にさらされ、「運動知能を測定する」といわれた黒人学生は、「黒人は白人と比べてインテリジェンス(知能)が劣る」というステレオタイプ脅威にさらされたからだ。

この実験が高い説得力をもつのは、なんの脅威にもさらされていない場合、白人学生と黒人学生のゴルフの成績にちがいがないことをあらかじめ確認しているからだ。つまり、「本来なら同じ結果になることがわかっている2つの集団」に異なるステレオタイプ脅威を与えて比較しているのだ。

同様に、スティールがミシガン大学で女子学生へのステレオタイプ脅威を調べたときは、「数学が得意な男子学生と女子学生」を集めて実験を行なった。スタンフォード大学で黒人学生のステレオタイプ脅威を調べた研究では、入学時のSAT(大学進学適性試験)で得点を標準化している。男性と女性、白人と黒人をランダムサンプリングしたのではなく、ゴルフの実験と同様に、もともと両者の成績が同じになる(と想定される)サンプルで実験を行なったのだ。

当然のことながら、ここから「男と女の数学能力に性差はない」とか、「白人と黒人の学力≒知能にはなんのちがいもない」などの一般則が導けるわけではない。ステレオタイプ脅威で集団間のちがいの一部を説明できるとしても、あくまでも「同じ能力なのになぜ結果がちがってしまうのか」を説明する理論なのだ。

人種が統合された学校は、人種によって分断されている

教育者としてスティールが関心をもったのは、アメリカの大学で黒人学生の成績がなぜかんばしくないのかだった。黒人学生の成績不振は英語から数学、心理学まであらゆる科目に共通して見られ、「大学から医科大学院、法科大学院、経営大学院、さらには、しばしば幼稚園から高校まで、つまり教育システム全体で見られる現象だった」 。

ここで、「アメリカではアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)によってマイノリティの学生が優遇されており、そもそも基礎学力が低い学生が入学しているのではないか」と思うひともいるだろう。これは保守派の主張の定番で、そういうことはあるかもしれないが、スティールが問題にしているのは、SATの点数を人種別にグループ化しても、大学入学後の黒人学生の成績が、同じ点数グループの他の学生の成績を一貫して下回っていることだった。

そこでスティールは、ミシガン大学の黒人学生たちに大学生活について訊いてみた。学生たちは口々に、大学という小さな社会でもマイノリティであると実感していることや、「教員や助手や他の学生、そして教授陣までもが自分のことを「学力が乏しい」と思うのではないか」という不安、教室の外での生活が人種、民族、社会階級によって分断されていることを訴えた。

黒人学生たちは、「(人種)分断を超えた親しい友達はほとんどおらず、黒人のスタイルや好みや関心は、キャンパスで無視されるか、ダサいと思われている気がするといった。黒人などマイノリティの教授陣が少ないことも指摘していた」。黒人学生は、自分が(名門の)ミシガン大学にふさわしくないのではないかと心配していたのだ。

事実、スティールが調べたところ、黒人学生も白人学生も、もっとも親しい友人6人中、異なる人種は平均1人未満だった。黒人学生の場合、6人のうち白人の友人は平均0.6人だった。「人種が統合されている」はずの大学ですら、黒人学生の2人に1人は白人の友だちがいない。

大学と同様に、アメリカの高校も人種によって分断されている。「人種が統合された」高校のカフェテリアでは、白人生徒が黒人生徒と同じテーブルに座ると、「クールになろうと必死すぎ」とか「わざとらしい」「人種に鈍感」などと思われる。黒人生徒が白人生徒と同じテーブルに座れば、他の黒人生徒から裏切り者だとか、白人になりたがっていると見なされる。高校生たちの日常生活にも、アメリカの人種の歴史が投影されているのだ。

だとすればこれは、大学当局にとって深刻な問題になる。たんに「基礎学力の低い生徒は成績が悪い」だけなら「仕方ない」で済ませることができるかもしれないが、「同じ学力であるにもかかわらず、特定の人種グループだけ成績が悪い」ということになれば、なんらかの説明が必要だ。ことのとき真っ先に思い浮かぶのは、大学当局がぜったいに避けなければならないもの、すなわち「組織的な人種差別」だろう。

部屋の隅で炎が上がっている

スティールは、「アメリカ北東部にある、小規模だが名門に数えられるリベラルアーツ大学」に講師として招かれ、黒人学生が抱える問題について教職員と話し合いをしたときの体験を書いている。

「そのミーティング中、わたしはあるものの存在を感じていた。まるで部屋の隅で炎があがっているような感覚だ。それは、人種差別とみなされる対応を取ってしまうのではないか、あるいはそうした行為を大目に見てしまうのではないかという教職員たちの強烈な不安だった。それは彼らが決して近づきたくない、焼け付くような炎だった」

いまのアメリカのアカデミズムでは、「レイシズム(人種主義)」のレッテルを貼られることは死刑宣告されるのと同じだ。だからこそ白人の教員たちは、「黒人」の心理学者であるスティールにどうすればいいのか教えを乞うたのだ。

ステレオタイプ脅威は、この現象をうまく説明できるように見える。アメリカ社会には黒人に対するさまざまなネガティブなステレオタイプがあり、黒人学生はそれと格闘しつつ、いつしか人種的な偏見を内面化してしまう。そうなると、予言が自己実現するように、恐れていた結果を招き寄せてしまうのだ。

この理屈が都合がいいのは、黒人学生の成績が悪いのはアメリカ社会に広範に広がっている「人種主義(黒人への差別・偏見)」のためであり、大学当局が意図的に「人種差別」的な対応をとっているからではない、という免責を与えてくれるからだろう。だがその代償として、アメリカのアカデミズムは社会の先頭に立って「暗黙のレイシズム」と闘わなくてはならなくなった。キャンパスを席捲する「キャンセルカルチャー(レイシズムの疑いのある教員の辞任や“反動的”な知識人の講演中止=キャンセルを求める運動)などはその象徴だろう。

だがスティールは、アメリカ社会には黒人への強い偏見=ステレオタイプがあることを指摘しつつも、だからといってステレオタイプ脅威が人種差別に直結するわけではないという。先ほどのゴルフの実験でもわかるように、白人学生も「白人は運動が苦手だ」というステレオタイプ脅威の影響を受けるからだ。ステレオタイプ脅威は状況依存的で、多数派の集団がつねに「支配階級」、少数派の集団がつねに「犠牲者」になるわけではない。

だとすれば、なにがステレオタイプ脅威を生み出すのか? それは「アイデンティティ」だとスティールはいう。

「ここは場違いで、このままだと殺されてしまう!」

ステレオタイプ脅威の背景には「人種の分断」があるが、スティールはこれは「差別」ではなく「アイデンティティ」の問題だとする。以下はあくまでも私の理解だが、「場違い」をキーワードにこれを説明してみたい。

ヒトは徹底的に社会化された動物で、共同体(コミュニティ)に属していないと生きていくことができない。旧石器時代から何百万年もこのような環境で暮らしていれば、自分が正しい共同体に属しているのか、それとも属していないのかの鋭敏な感覚が脳に組み込まれたことは間違いない。わたしたちは無意識のうちに、つねに自分が「場違い」でないかどうかを検証している。

アイデンティティは「集団への帰属意識」と説明されるが、それは「正しい共同体に所属している(場違いでない)」という感覚(安心感)のことだ。それに対して、自分が正しい共同体に所属していないと、脳=無意識は全力で警報を鳴らす。人類が生きてきた歴史の大半において、場違いな共同体に紛れ込んでしまうことは、トラやライオンのような肉食動物に遭遇するのと同じように、生存への重大な脅威だった。

だが、自分が少数派(マイノリティ)であることがつねに脅威になるわけではない。多数派(マジョリティ)に対して自分に優位性があるのなら、生存への脅威はなくなるはずだ。そのことをよく示すのが、スラム街の子どもを遠く離れた土地に転居させるプログラムに選ばれた、ニューヨークの治安の悪い地区(サウスブロンクス)に住む高校中退の黒人高校生のケースだろう。彼が転校したのは中流階級の白人しかいない西部の高校で、そこでは圧倒的な少数派だったが、2年後にはバスケットボールチームのエースになり、成績もAとBばかりで大学進学を目指していた(ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解 重要なのは親じゃない』石田理恵訳、ハヤカワNF文庫)。こんな”奇跡”が起きたのは、彼がスポーツで「ヒーロー」になれたからだろう。

このように考えると、ステレオタイプ脅威がシンプルに説明できる。はげしく警告のアラームが鳴るのは、自分が少数派で、なおかつ優位性がない(劣っている)と無意識が感じる場合なのだ。

理系の女子学生は大学では少数派で、「女は男より数学の成績が悪い」というステレオタイプの影響を受ける。黒人学生も少数派で、「黒人は白人より知能が低い」というステレオタイプに影響を受けている。それはいわば、「ここは場違いで、このままだと殺されてしまう!」という強烈な不安だ。ステレオタイプ脅威とは「アイデンティティへの脅威」のことで、それは生存の危機に直結するのだ。

このような状況に追い込まれると、脳=無意識は全力で状況に対処しようとする。生き延びるために必死になれば、それによって脳のリソースは大量に消費されてしまうだろう。ステレオタイプ脅威で成績が下がるのは脳のワーキングメモリーの活動が妨げられるためだされるが、テストよりもはるかに重要なこと(生存)が賭けられているのだとすればこれは当然だ。

意志のちからで不安を抑えつけると健康を害する

このやっかいなステレオタイプ脅威に対処するにはどうすればいいのだろうか。最初に思いつくのは「意志のちからで不安を抑えつける」だろうが、これはうまくいかないとスティールはいう。

プリンストン大学医学部の難関科目(有機化学)をクリアするには、科目を履修登録せず一度受講して、二度目に正式な履修手続きをして成績をつけてもらうとか、夏学期にレベルの低い他大学で履修し、その単位をプリンストンに移してもらうなどの裏ワザがある。

白人学生やアジア系学生のほとんどはこのアドバイスに従って合格点をもらうが、黒人学生は拒絶することが多く、医科大学院に進む可能性をみすみす危険にさらしている。この「過剰努力」をスティールは、「ステレオタイプが誤りであることを証明するため、意地になって授業に出席しつづけているかのように見えた」と述べる。

試験中の学生の血圧を測る実験では、「人種的に対等」と告げられたテストでは、黒人学生の血圧は白人学生と同様にテストに集中するとともに下がっていった。だが「知的能力を測定する」と告げられると、白人学生の血圧が同じように下がったのに対して、黒人学生の血圧は劇的に上昇した。

ステレオタイプ脅威に対処することで血圧が上がるなら、それは健康にも影響を与えるかもしれない。アメリカでは黒人の約3分の1(男性34%、女性31%)が高血圧症とされているが(白人は男性25%、女性21%)、「困難な心理社会的ストレス要因に対処するための長期的かつ高度な努力は、(黒人を含む貧困層に高血圧症が多いことの)最も簡潔な説明かもしれない」とスティールはいう。「自分の集団が不利な条件に置かれ、差別され、ネガティブなステレオタイプを抱かれている領域で高い能力を示そうとすると、過酷な代償がもたらされる可能性がある」のだ。――ただしこれについては、奴隷船の劣悪な環境で生き延びるには(生得的に)血中の塩分濃度が高くなければならず、それがアメリカ黒人に高血圧が多い理由だ(アフリカの黒人にはこうした傾向は見られない)という医学的な説明が提示されている。

黒人学生の成績が悪いのは、ネガティブなステレオタイプを内面化したため、モチベーションが下がって自己不信に陥っているからだと説明されることがある。だがスティールは、これも正しくないという。スティグマのプレッシャーは、学力不足の学生よりも、学力の高い学生に大きな影響を与えるのだ。

貧困地区の高校で行なわれた調査で、「学校の成績を気にしている」と答えた黒人の生徒は、ネガティブなステレオタイプ(黒人は学力が低い)の脅威を感じると、学力テストで白人の生徒よりずっと低い点数を取った。ところがこの現象は、成績下位グループの黒人生徒には見られなかった。学校の成績など気にしていない生徒たちは、ステレオタイプ脅威に動揺したりしなかったのだ。

ここからスティールは、ステレオタイプ脅威の影響を受けやすいのは成績上位の黒人生徒たちで、それは自尊心の欠如や自己不信のためではなく、むしろ「自分に対する期待が高いから」だという。

「差別」をはねかえそうと意志力をふりしぼって頑張るマイノリティこそがステレオタイプ脅威から大きな影響を受け、その結果としてじゅうぶんな成果を上げられないばかりか、健康まで害してしまう……。オハイオ州立大学コロンバス校の社会心理学博士課程に入学したとき、スティールは唯一の黒人学生だった。「ステレオタイプ脅威」を意思のちからで乗り越えてきた経験があるからこそ、「努力は寿命を縮める」というスティールの指摘は重い。

ステレオタイプ脅威をなくすには、学校を人種別にすればいい?

ステレオタイプのないところでは、当然のことながらステレオタイプ脅威は起きない。第二次世界大戦後、ヨーロッパではアメリカの黒人は「流行の先端」と見なされ歓迎された。これが、黒人ジャズミュージシャンや黒人作家がヨーロッパで活躍した理由だとスティールはいう。

だが、誰もが「ステレオタイプのない国」に移住できるわけではない。そこで注目されるようになったのが「クリティカルマス」だ。

ステレオタイプ脅威は、自分が少数者(マイノリティ)だという意識から生まれるのだから、自分と同じ属性をもつ仲間が増えれば解消する。たとえばオーケストラでは、女性楽団員の割合が40%に達すると「ステレオタイプ」が消え、男女ともに満足度の高い経験を報告するようになるという。

これがクリティカルマスで、人数がほぼ半々の男女であれば現実的だろうが(文系の大学はすでに女子学生のクリティカルマスを達成し、やがて男子学生がマイノリティになるかもしれない)、アメリカの黒人の人口比は13%程度なのだから、学校や職場の人数比を白人と同じにするのは困難だろう。

そうなると、人為的にクリティカルマスをつくることが考えられる。「女は数学はできない」というステレオタイプ脅威は女子校では生じにくい。ヒラリー・クリントンは女子校・女子大で学んだが、それが「女にリーダーシップは向かない」というステレオタイプ脅威に打ち勝つのに役立ったのかもしれない。スティールがいうように、「アイデンティティ別に分けられた環境では、ステレオタイプ脅威を大きく下げられる」のだ。

だがこの方法を黒人のステレオタイプ脅威に適用しようとすると、「人種別の高校や大学をつくればいい」という話になってしまう。当たり前だが、このような提案が社会に受け入れらとはとうてい思えない。――こうした主張は、アメリカでは「人種現実主義」を自称する白人保守派が唱えている。

クリティカルマスを達成できない組織(共同体)では、マイノリティはつねに「脅威」にさらされている。そんな環境で「カラーブラインドネス(肌の色をいっさい考慮せずに個人の幸福を推進する)」や「ジェンダーブラインドネス(性差を考慮せずに社員を扱う)」をいくら唱えても、かえって逆効果にしかならない。――ジェンダーブラインドネスを掲げていても、男性役員・管理職が圧倒的多数派なら、「女はバカだ」といっているのと同じだ。

このように考えると、ステレオタイプ脅威を解消するには、マイノリティでも安心して学んだり働いたりできる「多様性のある社会」をつくるしかない。こうしたリベラルの主張はしばしが「きれごと」と批判されるが(それには一定の説得力があるとも思うが)、だからといってそれ以外の解を提示できるわけではないのだ。

「ヴィヴァルディを口笛で吹く」理由

ステレオタイプ脅威を減ずるのに有効なもうひとつの方法は、「ナラティブを変える」ことだとスティールはいう。ナラティブ(物語)とは黒人が内面化しているネガティブなステレオタイプ(マインドセット)のことで、これをポジティブなものにする「自己肯定化作業」によってステレオタイプ脅威をなくしていくのだ。そのためには、教育機関には「生徒とのポジティブな関係、子どもを主役にした教え方、画一的な戦略ではなく多様性を活用した指導方法、教員のスキル・温かさ・話しやすさなど」が必要だとされる。

それと同時に、「相手(マジョリティ)のナラティブを変える」という戦略がある。

のちにニューヨーク・タイムズのコラムニストとなったブレント・ステープルズは、黒人学生としてシカゴ大学の大学院で心理学を学んでいたとき、夕方になるとラフな格好でキャンパスに近いシカゴのハイドパーク地区(ミシガン湖に面した高級地区)をぶらついていた。

しかしやがて、ステープルズは自分を見た白人たちが一様に同じ反応をすることに気づいた。「カップルはわたしを見ると、腕を組んだり、手をつないだりした。道路の反対側にわたってしまう人もいた。すれ違う人たちは会話をやめ、前方に視線を集中する。まるでわたしと目が合ったら一巻の終わりだとでも言うように……」。

ステープルズは、「自分のことを死ぬほど怖がっている人たち」に「こんばんは」と微笑みかけてもなんの効果もないことを思い知らされる。それでもなんとか無害な存在だとわかってもらいたかった彼は、緊張を解くために口笛を吹くようになった。

ビートルズの曲やヴィヴァルディの『四季』を口笛で吹くと、それを聞いた白人たちの態度が大きく変わった。そればかりか、「暗闇でわたしとすれ違うとき、ほほ笑む人さえいた」のだ。

これが本書に原題になった「ヴィヴァルディを口笛で吹く」だ。口笛でヴィヴァルディを吹くだけで、「暴力沙汰を起こしがちない黒人の若者」から「教養ある洗練された黒人大学生」へと白人のナラティブを変えることができた。

一見奇妙な本書の原題には、白人の差別意識や偏見をいたずらに批判・糾弾するのではなく、それをかわす方法を学ぶべきだという、「成功した穏健な黒人知識人」であるスティールの願いが込められているのだろう。私には、アメリカ社会でこれがどれほど受け入れられるかはわからないが。

禁・無断転載

「人種差別を批判しても人種差別は解決できない」という問題

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年2月24日公開の「想像以上にやっかいな 「黒人に対するネガティブな人種バイアス」の解消」です(一部改変)。

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スタンフォード大学の社会心理学者ジェニファー・エバーハートは、黒人女性である自らの体験をもとに人種にもとづくバイアスを研究し、それを『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』(山岡希美訳、明石書店)にまとめた。原題は“ Biased(偏って)”で、アメリカ社会で、黒人がネガティブなステレオタイプ=人種バイアスの対象になっていることを表わしているのだろう。

とはいえ、エバーハートは人種差別を糾弾するSJW(社会正義の戦士:social justice warrior)ではない。彼女はサンフランシスコの対岸にあるオークランド警察署の啓発活動に協力していて、「警察署員の多くは毎日その正義を、時には大きな犠牲を払って実行していると感じていた」と評価している。それにもかかわらず、警察官は人種差別的な職務質問や身体検査を行なっているとして、「BLM=ブラック・ライブズ・マター(黒人の生命も大切だ)」の運動で「レイシスト(人種主義者)」のレッテルを貼られるている。その理由をエバーハートは、「潜在的なバイアスが人間の意思決定に作用する」からだとするが、本書を読むとこれが想像以上にやっかいな事態だとわかる。

黒人も黒人に人種バイアスをもっている

オークランドはバイデン政権で副大統領になったカマラ・ハリスの出生地で、1960年代以降、犯罪率が上昇し、全米でも屈指の「犯罪都市」という悪名を轟かせた。とりわけ1990年代にはかつてないほど凶悪犯罪が多発し、その多くは麻薬取引に関連していた。

市民からの強い圧力を受けた警察当局は、疑わしい者を片っ端から逮捕し、より多くの容疑者を刑務所に送った警察官には褒賞が与えられた。証言によると、点呼のときに上官は、「容赦なく行け。時にはルールを曲げなければならない」と部下たちを叱咤したという。

その結果、警察官たちは「ライダーズ」と名乗る自警団を組織し、無実の者に薬物を仕掛けたり、暴力を振るって自白させたり、犯罪行為をしたと偽って告発した。この異常な事態が数年続いたあと、2000年に「恐怖の支配に従うことを拒んだ」新米警官によって暴かれ、大きなスキャンダルになった。オークランド警察は、市民の信頼を取り戻すためにエバーハートに助力を求めたのだ。

社会学者のアリス・ゴッフマンは、フィラデルフィアの貧困な黒人集住地区に住み、6年にわたってストリートボーイズたちとつるむことで、アメリカの司法・警察制度の罠に絡めとられ、「(指名手配からの)逃亡者」にされていく彼らの境遇を報告したが、それと同じことがオークランドではもっと大規模に起きていたのだ。

参考:黒人の窮状を伝えた若手社会学者がキャンセルされるまで

この不祥事ののち、多くの警察官と直接、話をする機会をもったエバーハートは、「結局のところ、警察官は命を張っていることに対して評価されていると感じたいのだ。人々に尊敬される職業を選んだのだと実感したいのだ。そして、何より、彼らは自らの安全を確保しておきたいのである」と述べている。

それが「人種問題」へとこじれていくのには、次のようなメカニズムがある。

オークランドの黒人住民のなかで、凶悪犯罪に手を染めているのは3%程度にすぎない。それにもかかわらず、警察官は人種バイアスによって残りの97%も「犯罪者」のカテゴリーに入れてしまうため、住民からの反発が避けられない。その結果、「警察官は、犯罪との闘いに打ちのめされやすい。時間が経つにつれ、まるで自分たちが勝ち目のない戦争の歩兵であるかのように感じるようになる。尊敬も感謝もしてくれない人たちのために自分たちの命を懸けていることに不満を感じるようになる」という負の連鎖に陥っていく。

黒人に対する強い人種バイアスは、白人警察官だけでなく、黒人警察官や一般の黒人にも共有されている。オークランド警察署で行なった講演で、このことをエバーハートは、次のような印象的な逸話で説明している。

エバーハートが、当時、5歳だった息子のエヴェレットと飛行機に乗ったときのことだ。席に着いたエヴェレットは周りを見回したあと、たった一人の黒人男性の乗客を見つけて、「ねえ、あの人パパにそっくりだよ」といった。エバーハートが驚いたのは、その男性が夫にまったく似ていなかったからだ。身長も顔かたちもちがうし、なによりその男性は、長いドレッドヘアを背中まで伸ばしていた。エヴェレットの父親は坊主頭なのだ。

息子の次の言葉は、それよりさらに衝撃的だった。「あの男の人、飛行機を襲わないといいね」といったのだ。

「なんでそんなことを言ったの?」と声を低めて訊ねると、エヴェレットは母親を見上げ、悲しそうに「なんでそんなことを言ったのか分からない。なんでそんなことを考えていたのかも分からない」と答えた。

この講演のあと、一人の黒人警察官がエバーハートに声をかけた。潜入捜査をしていたとき、遠くにあやしい男を見つけたという。

その男は無精ひげを生やし、髪も乱れていて、服も破れていて、よからぬことを企んでいるように見えた。男が近づいてくると、警察官は、銃を所持しているのではないかと考えはじめた。

その男がいたビルに向かうと、一瞬、見失ってしまった。次に男を発見したとき、彼はオフィスビルのなかにいた。ガラス越しに男の姿がはっきり見えた。

警察官は、男と向き合う覚悟を決め、立ち止まってその目を見た。そのときはじめて、彼は自分自身を見つめていることに気づいたというのだ。

市民は警察官よりずっと「人種差別的」な行動をとる

不祥事のあと、捜査や検挙の「適正化」が図られてから10年以上たった2014年でも、オークランドで起きた凶悪犯罪のうち83%は黒人によるものだった。警察官は、自分たちの人種的なバイアスが犯罪統計と一致することで、取り締まりのやり方が正しいと認識してしまう。

これは「ニワトリが先か、タマゴが先か」の議論で、アメリカ社会の人種的な偏見によって黒人が犯罪へと追いやられるのか、それとも黒人の犯罪率が高いことで人種と犯罪が結びつくようになったのか、という話になる。いうまでもなく、前者がリベラル、後者が保守派の立場だ。

どちらが正しいにせよ、否定できないのは、こうした人種バイアスが黒人コミュニティに甚大な被害をもたらしていることだ。「アメリカでは毎年、警察官によって約1000人も(の黒人)が射殺されており、それらの死亡事件の11%は、大音量のマフラーや壊れたテールライトのような無害な交通の取り締まりから始まっていた」とエバーハートはいう。

とはいえ、問題は警察官のバイアスだけではない。オークランドの警察官が行なった約1000件ちかくの交通取り締まりの映像の発言サンプル(414件)を大学生のグループが評価したところ、警察官は全体的にプロフェッショナルな態度をとっていることがわかった。ただし、黒人のドライバーに対して攻撃的・暴力的な対応をするわけではないが、(その警察官が白人か黒人かを問わず)白人のドライバーに職務質問するときに比べて、相手が黒人の場合には敬意を払わない傾向があった(SirやMadamを使わず、ぞんざいな言葉遣いをした)。

それに対して、市民の人種バイアスはどうなのだろうか。

カリフォルニアでは、駐車中の車から1ドル盗むような些細なことでも、3回目であれば「スリーストライク法」の対象となって重罪に処せられる。この規定はあまりにきびしすぎるとずっと批判されてきたが、カリフォルニアの有権者に、受刑者の顔写真を見せて賛否を問うと、黒人受刑者の写真を増やせば増やすほど、有権者たちは法律の緩和を支持しなくなった。

このことがよりはっきりわかるのが、「撃つか撃たないか」実験だ。モニターに銃を持った人物か、同じような格好をしているがコーヒーカップなど無害なものを持った人物が映される。銃を持っている場合は「撃つ」、そうでない場合は「撃たない」ボタンをできるだけ素早く押す。

この実験では、銃を確認して「撃つ」ボタンを押す方が、銃がないことを確認して「撃たない」ボタンを押すより反応が速いことがわかった。ヒトが危険に対して瞬間的に判断するよう進化してきたとすれば、この結果は順当だ。

困惑させられるのは、銃を持った白人に対してよりも、銃を持った黒人に対しての方が「撃つ」と反応するのが速かったことだ。さらに、銃を持っていない黒人に対して、誤って「撃つ」と反応してしまう可能性も高かった。こうした人種バイアスは大学生だけでなく地域住民も同じで、白人と黒人の両方の被験者で確認された。

ここで誰もが、アメリカ社会を揺るがした何件もの警察官による黒人市民の射殺事件を想起するだろう。だがこの実験が示したのは、より複雑な結果だった。

黒人の犯罪率が高い大都市で働く警察官は、反応時間においてもっとも大きな人種バイアスを示す傾向があった(銃を持った黒人に素早く「撃つ」のボタンを押した)。ところが、警察官が銃を持っていない人物を撃つ確率は、相手が黒人でも白人でも同じだったのだ。

犯罪の最前線にいる警察官は、たしかに強い人種バイアスを共有しているが、武力行使訓練を受けていることで、銃があるかどうかを、相手の人種にかかわらず適切に見分けていた。

アメリカの左派(レフト)は、「人種差別的な警察」を市民が代替することを求めているが、治安を守るために市民に銃を持たせれば、黒人コミュニティにさらに多くの悲劇が起きるだろう。実験が示すところによれば、訓練を受けていない市民は、警察官よりずっと「人種差別的」な行動をとる確率が高いのだ。

「罪は黒く、美徳は白い」というバイアス

日本でも「ブラック企業」「ブラックバイト」などの用語が黒人への偏見を助長するのではないかと議論になっているが、「黒という色を素早く、そして容易に不道徳なものと関連づけてしまう」バイアスはどこにでも見られるとエバーハートはいう。

画面に表示された文字のフォントが白か黒かをできるだけ素早く答える実験がある。このとき、不道徳に関連する単語(例えば「下品」など)は白のフォントで表示されたたときよりも、黒のフォントで表示されたときの方が、被験者の反応速度が速かった。その一方で、道徳に関する単語(例えば「高潔」など)は、黒よりも白のフォントで表示されたときに方が、早く言い当てることができた。この実験を行なった研究者は、「罪はただ汚いだけでなく、黒いのである。そして美徳はただ綺麗なだけではなく、白いのである」と述べている。

このような根強い人種バイアス=偏見に対して、社会はどのように対処すればいいのだろうか。リベラルから支持され、広く行なわれているのが「カラーブラインド」だ。肌の色ではなく一人ひとりの個性を評価することで、「肌の色は見ないようにすること。肌の色については考えないようにすること。人種について考えようとしなければ、バイアスにかかることはないであろう」とされる。――日本でも、女性社員などへの差別・偏見に対処する「ジェンダーブラインド」が唱えられるが、これも同じ発想だ。

だがエバーハートは、カラーブラインドは一見、素晴らしい理想のように聞こえるが、「科学的根拠はなく、実際に達成するのは困難である」という。アメリカ社会では、初対面の相手と出会ったときに、性別・年齢に加えて、肌の色でグループ分けが行なわれる。それにもかかわらず、アメリカの学校ではカラーブラインドの教育をしているので、子どもたちでさえも、肌の色に言及することは無礼だと考える。集団のメンバーを説明する課題で、そのなかに黒人が一人だけいるなら、人種を指摘するのは明らかに有用だ。そんな場合でも、子どもたちは10歳になる頃には、人種について話すことを控えるようになってしまうという。

皮肉なのは、こうした「人種教育」が逆効果になっていることだ。実験によると、カラーブラインドの思考態度を教え込まれた子どもは、明らかに黒人という理由でいじめられた事例(他の子どもにわざと転ばされたなど)に対して、それを差別的だと判断する割合が低かった。カラーブラインド群の子どもたちの説明を聞いた教師も、問題行動は軽度であると判断し、標的とされた子どもを保護するために介入する可能性が低かった。

これを受けてエバーハートは、「カラーブラインドは、その意図とは全く正反対のもの、つまりは人種的不平等を促進していた」と結論する。「それは、マイノリティの子どもたちに、彼らが耐え忍ぶ苦痛が気づかれない環境で、一人で闘うことを強いている」のだ。

ダイバーシートレーニングは差別の許可証

アメリカ社会では、白人は「人種主義者」と見なされることを極端に恐れている。見知らぬ黒人と話すとき、白人はストレスで心拍数が上がり、血管が収縮し、脅威に備えているかのように身体が反応する。さらには認知機能までが低下し、単語認識のような単純な課題にも苦労するようになるという。

こうした白人の態度は「ホワイト・フラジリティ(白人の脆弱性)」と呼ばれている。ロビン・ディアンジェロの同名の著書(『ホワイト・フラジリティ』)はアメリカでベストセラーになり、彼女は企業などにダイバーシティ(多様性)トレーニングを提供する活動を行なっている。

参考:BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

エバーハートは直接、ディアンジェロについて言及しているわけではないが、アメリカ企業が行なっている人種多様性の研修は、「その効果が検証されたことがない」と手厳しい。日本企業でもダイバーシティ研修の導入が進められているので、それについての指摘を引用しておこう。

「バイアス研修は急速に成長している営利事業であり、結果に問題があれば、トレーナーの収益に影響を及ぼす可能性がある。だから、「はい、従業員は研修を終えています」という項目にチェックを入れて、研修は成功したとする方がむしろ楽なのではないだろうか」

「現在、この事業で活躍しているトレーナーの多くは、心の謎を解明しようとしている科学者ではなく、メッセージを伝え、需要の高い商品を売ろうとしている起業家なのである。実際、そのリスクを考えると、研修に効果があるかどうかや、特定の条件において効果が薄れる可能性がある理由について知らない方が得策なのかもしれない」

「同様に、研修を依頼する組織も、その効果を測定するために時間と費用を費やす動機がほとんどないのである。組織にとっての主な動機が、バイアスを抑えるために何かをしていることを出資者や世間に示すことである場合、研修の効果が限定的であるという知見を提示されることは不要なリスクになる」

社会心理学では、「人は、過去の行動に偏見を持たなかったと自任できる時、偏見を持つ可能性のある態度を表明しがちだ」という傾向を「道徳の証明」と呼ぶ。「私には黒人の親友が何人もいる」との表明が一種の許可証となり、自分の平等性・道徳性はすでに十分に証明されたのだから、人種差別的な態度をとる権利があると考えるようになるというのだ。

研究者がフォーチュン500(全米上位500社)の企業を追跡調査したところ、特定の分野で「企業の社会的責任(例えば、安全記録を改善すること)」を謳っている会社は、重要な安全警告を無視して無責任な行動をとる可能性がかなり高いことが判明した。「それはまるで、責任ある行動をとることで、無謀な行動をとる権利が与えられたかのようであった」と研究者は述べている。

同様に、ダイバーシティ研修を積極的に行なっている「リベラル」な会社は、それが「道徳の証明」となって、人種的なバイアスの強い判断をするようになるかもしれない。――真っ先に思い浮かぶのは、人種差別への反対を表明しながら、社員の黒人比率が極端に低いシリコンバレーの企業だろうが、スタンフォード大学で教えるエバーハートはこれについてはなにもいっていない。

他者のバイアスを誰が批判できるのか

「他人種効果」は、「自分と同じ人種の顔を認識するのは得意だが、異なる人種の顔はうまく見分けられない」ことで、日本人は、アジア系と(メディアや映画などで見慣れている)白人の顔は一人ひとり区別できても、黒人は難しいだろう。

赤ん坊は生後3カ月になると、他の人種より、自分と同じ人種の顔に対し強く反応するようになる。進化論的にはこれは当然で、自分の世話をしてくれるのは、自分の身近にいるひとたち(通常は同じ人種)なのだから、認知的な資源に強い制約がある以上、それ以外の顔を記憶しておく理由はない。

2014年、オークランドのチャイナタウンの繁華街で、強盗事件が驚くほど増加した。10代の黒人の少年たちが、中年のアジア系女性のカバンを強奪したのだ。

警察は容疑者を逮捕し、盗品の一部を回収したが、最終的には、どの事件も起訴することができなかった。ひったくり犯の顔を見ていたはずの被害者が、面通しの際に、容疑者のなかから犯人を特定できなかったからだという。

その後、何件かのひったくり事件が解決し、刑務所に送られた強盗犯が自供してはじめて、ようやく事態が明らかになった。「なぜこの女性を狙ったのか」と聞くと、彼らは包み隠す様子もなく、「アジア人は俺らを特定できない。俺たちを見分けることができないのさ」と話した。「それは夢のような話だ。だからやる」というのだ。

黒人女性は、ほんのひと目見ただけでも、黒人の強盗犯をかなり高い確率で特定することができた。「他人種効果」に気づいた黒人のストリートボーイズたちは、チャイナタウンでひったくりをすれば起訴できないことを学んだのだ。アジア系の女性たちに強い不安を与えたこの連続ひったくり事件は、チャイナタウンの通りに監視カメラを設置することでようやく収束に向かった。

本書の最後でエバーハートは、高校生になった息子エヴェレットの体験を紹介する。スタンフォード大学近くの小道を自転車で帰宅する途中、若いアジア系女性がジョギングしながら向こうからやってきた。彼女は顔を上げてエヴェレットを見ると、じゅうぶんに幅の広い小道から逸れていった。

「少しだけ悲しくも感じた」という息子に対し、「(これからエヴェレットは)彼の姿を見ただけで恐怖を感じる人がいることに慣れなければならない」とエバーハートは書く。エヴェレットにとってはもちろん、親としてもつらい体験だろうが、これを「黒人に対するバイアス(偏見)」と説明して済ませてしまっていいのだろうか。

黒人のストリートボーイズからひったくりの標的にされたアジア系女性たちは、自分の娘や近所の若い女性たちに、「黒人の若い男に気をつけなさい」と日頃から注意するようになるだろう。そのように育った女性が、自転車に乗って近づいてくるエヴェレットを見て、接触を避けたのかもしれない。

リベラルな社会では、「バイアス」は無条件に批判の対象となる。ではいったい誰が、このアジア系女性に「あなたのバイアスを正しなさい」といえるだろうか。

参考:「あなたを人種や性別ではなく、個人として評価します」はマイクロアグレッションという差別

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