アメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年8月1日公開の「アメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」 の増加が意味するものとは?」です(一部改変)。この話は『ノマドランド』として映画化され、第93回アカデミー賞作品賞を獲得しました。

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『上級国民/下級国民』(小学館新書)では、欧米先進国を中心に、「白人」や「男性」などこれまで社会の主流派(マジョリティ)とされていた一部が中流階級から脱落し、下層(アンダークラス)に吹きだまっていることを述べた。日本でも欧米から半周遅れで同様の事態が起きており、これを表わすネットスラングが「上級国民/下級国民」だ。

アメリカの白人が「知能」によって新上流階級と新下流階級に分断されていることを指摘したのは政治学者のチャールズ・マレーで、トランプが大統領に選出されて世界を驚かせるより前(2012年)に、『階級「断絶」社会アメリカ 新上流と新下流の出現』(橘明美訳、草思社)で、「知識社会」からドロップアウトし貧困に陥る白人たちの苦境を報告した。

マレーは行動計量学者リチャード・ハーンスタインとの共著“The Bell Curve(ベルカーブ)”で白人と黒人のIQを比較し、悪名を轟かせていたために、「白人の分断」という指摘もリベラル派から無視されていたが、トランプ大統領誕生後、リベラルな研究者やジャーナリストらが精力的に行なったラストベルト(錆びついた地域)の研究は、すべてマレーの後追いでその正しさを追認するものだった。

たとえば、アメリカの政治学者ジャスティン・ゲストの『新たなマイノリティの誕生 声を奪われた白人労働者たち』( 吉田徹他訳、弘文堂)では、「所得や教育にもとづく棲み分けがアメリカ社会において歴史的な前例を見ないまでに加速してきている」としたうえで、それがさらなる社会経済的な固定化につながる理由を、「多様な種類の人々が混ざりあうために社会的上昇の機会が減少するからでもあり、またおそらくは、チャールズ・マレーが論争的に主張するように、社会が知能指数によって分断されているためでもある」とストレートに書いている。

そのアメリカで、いま新しい社会現象が起きている。それが「ワーキャンパーworkamper」で、「work(働く)」と「camper(キャンパー)」の造語だ。その大半は貧しい白人高齢者で、彼ら/彼女たちはキャンピングトレーラーとともにアメリカじゅうをドライブし、キャンプ場で暮らしながら季節労働者として働いている。まさに、「アメリカの知られざる下級国民」だ。

キャンプ場で暮らしながら季節労働者として働く「ワーキャンパー」

ジャーナリストのジェシカ・ブルーダーがワーキャンパーに興味をもったのは、そこに男性だけでなく、高齢の女性もたくさんいることに気づいたからだ。彼女たちは大型RVを運転しながら、たった一人で放浪生活をつづけている。

そんな女性ワーキャンパーを取材したのが『ノマド 漂流する高齢労働者たち』( 鈴木素子訳、春秋社)で、原題は“Nomadland Surviving America in the twenty-First Century(ノマドランドと21世紀のアメリカのサバイバル)”だ。

なぜ、すべてを捨ててノマド(放浪者)になるのだろうか。

大自然に恵まれたアメリカではキャンプがさかんで、ひとたび都市を離れれば大型キャンピングトレーラーを牽引する車をいたるところで見かける。夏はコロラドやワイオミング、冬はフロリダや南カリフォルニアの自然のなかで、ヘンリー・ソローの『森の生活』のような暮らしをするのが退職後の理想とされている。

優雅なキャンパーとワーキャンパーのちがいはどこにあるのか。それは、ワーキャンパーには家がないことだ。彼ら/彼女たちは、家賃や住宅ローンを払わない暮らしを自主的に選択したのだ。

現代の「ワーキャンパー運動」を主導するのは、ボブ・ウェルズというアラスカ出身の元セイフウェイ商品管理係だ。

1995年、ボブは13年間連れ添った妻と離婚し、クレジットカードを限度額まで使い切って3万ドルの負債を背負い込んで自己破産した。離婚後のボブは、2人の息子と暮らす妻に2400ドルの月収の半分を渡していたが、そうなると職場のあるアンカレッジにアパートを借りることができず、家を建てようと何年も前に買っておいた土地から毎日80キロの通勤を余儀なくされることになった。

そこでボブは、古いピックアップトラックにキャンパーシェル(荷台に取り付ける脱着可能な居住部分)を載せて、職場のセイフウェイのすぐそばに車を停め、週末だけ自宅に帰ることにした。すると上司たちは、ボブの奇行を気にしないばかりか、勤務時間になっても姿を見せない者がいると、その分の仕事もボブに回すようになり、思わぬ時間外収入が入ってきた(ボブはいつでもすぐ目の前にいたのだ)。

この経験からボブは、一生このスタイルでやっていけるんじゃないかと思うようになった。そして、中古のシボレーの箱型トラックを500ドルで買い、ボックス部分にベッドを運び込み、居住可能に改装した。ボブは40歳にして、箱型トラックに暮らすようになった。

次いで、合材と木材で二段ベッドを作り、座り心地のいいリクライニングチェアを置き、プラスチック製の棚を壁にネジ止めした。アイスボックスとコールマン製のコンロをキッチン代わりにし、水はコンビニエンスストアのトイレで大きな容器を満杯にした。

壁と屋根に断熱材を入れ、気温がマイナス34度以下に落ち込む冬も暖かく過ごせるように触媒ヒーターと40ガロン入りのプロパンガスのタンクを買った。夏の暑さ対策には、換気扇つきのシーリングファンを取り付けた。発電機と蓄電池、インバーターで照明を確保し、電子レンジとブラウン管テレビも備え付けた。

こうして新しいライフスタイルに満足すると、ボブは2005年に「安上がりRV生活」というウェブサイトを立ち上げ、車上生活の体験とノウハウを提供しはじめた。

2008年の金融危機後、ボブのサイトへのアクセスが爆発的に増えた。「失業した人、貯金をすべて失った人、家の差し押さえが決まった人たちからeメールが毎日のように届いた」とボブは述べている。そんなひとたちを励ましているうちに、ボブは車上生活のエヴァンジェリスト(伝道者)になっていった。

アメリカ人家庭の6世帯に1世帯は収入の半分以上が住居費

『ノマド』の主人公であるリンダ・メイも、ボブの「安上がりRV生活」を見て車上生活を決意した一人だ。

アメリカでは家賃が高騰しており、法定最低賃金で働く正社員の収入でワンベッドルームのアパートの賃料をまかなえる地域は、全米でわずか12の郡と大都市圏が1つだけになった。アパートを適正価格で借り、住居費を収入の30%以下に抑えたければ、少なくとも時給16.35ドル(連邦最低賃金の倍以上)は稼ぐ必要がある。

アメリカ人家庭の6世帯に1世帯は収入の半分以上を住居費に費やしており、家賃を払うと食料品、医薬品、その他生活必需品を買うお金がほとんど、あるいはまったく残らない低収入の家庭も少なくない。

シングルマザーとしてカジノのバーホステスなどの仕事をして娘2人を育て上げたリンダは、62歳で賃料月600ドルのトレーラーハウスに住み、時給10ドル50セントでレジ係をしていた。それまでは長女の一家に身を寄せていたのだが、6人家族に寝室が3つだけの狭いアパートに引っ越すことになったため、一緒に住むのが無理になったのだ。

リンダはあと数年で公的年金を受給できるのだが、はじめて計算書をちゃんと読んでみて驚いた。年金受給額は月500ドルほどで、トレーラーハウスの賃料すら払えないのだ。八方ふさがりで自殺まで考えていたとき、インターネットで「ノマド」というオルタナティブなライフスタイルを知り、家賃を払いつづける代わりに、1994年モデルのキャンピングカー、エルドラドを4000ドルで購入したのだ。

2015年のアメリカの国勢調査によると、一人暮らしの高齢女性は6人に1人以上が貧困ライン以下の生活をしている。公的年金の受給額は女性が男性より月に341ドルも少なく、貧困ラインを割っている高齢者の数は、女性(271万人)と男性(149万人)で倍ちかい開きがある。女性は生涯賃金が男性より少なく、結果として貯蓄額も年金受給額も少なく、平均寿命が男性より5年長いことが貧困化の原因になっているのだ。――日本の女性が置かれた状況はこれと同じか、さらに劣悪だ。

だが「有利」なはずの男性にしても、ブルーワーカーの老後は貧困と隣り合わせだ。

65歳以上のアメリカ人の大半にとって、公的年金は最大にして唯一の収入源になっているが、その額はやっと食いつなげるかどうかというレベルで、中流層の労働者の半数ちかくは、退職後は日にわずか5ドルの食費でやりくりすることになるという。

これが「定年の消滅」で、定年退職者の多くは何らかの労働収入なしには生き延びられなくなった。それなのに高齢者向けの仕事は賃金が下がる一方で、肉体的にもきびしいものになっている。

日本では生活保護への依存がバッシングの対象になっているが、「大きな政府」を嫌い自主自尊をモットーとするアメリカでは、「定年」で公的年金に依存することが批判と侮蔑を浴びている。ワイオミング州出身の元上院議員は、「“強欲老人”は現役世代の血税を飲み干しつつ、ゆたかなレジャーを楽しみながら老後を過ごす、老人病の吸血鬼だ」と公的年金を批判した。

生活保護にも公的年金にも頼れない「誇り高きアメリカ人高齢者」はどのように生きていけばいいのか。

じつは、家賃というくびきから逃れトレーラーハウスで「自由」に暮らすというライフスタイルは、大恐慌後の1930年代にすでに登場していた。それがいま、金融危機後のアメリカで復活し、急速に広まっているのだ。

ワーキャンパーの最大の雇用者は、アマゾン・ドット・コム

ワーキャンパーの仕事はキャンプ場の管理人やビート(サトウダイコン)の収穫のような季節労働だ。雇用主からしたら、数か月の仕事のために労働者の住居を用意するのは無駄なコストだ。ワーキャンパーは「家」といっしょにやってくるので、車を停めるキャンプ地さえあればいい。

アメリカでも高齢者の就職事情はきびしく、リンダの履歴書には建築関連の学位が2つと、ラスベガスのホームデポで施工管理の専門家として時給15ドルで働いた経験もあったのに、60歳を過ぎると学歴や職歴はまったく考慮されず、ようやくありついたレジ係の仕事もいつまで続けられるかわからなかった。

それに対して季節労働の雇用者は、応募してくるのが高齢者であることを前提としているので、最低限の条件を満たせば年齢にかかわらず採用される。こうして、働かなくては暮らしていけない高齢者と、労働者に住居を提供するコストを減らしたい雇用者の利害が一致して、ワーキャンパーのライフスタイルが成立した。

そんなワーキャンパーの最大の雇用者は、アマゾン・ドット・コムだ。

アマゾンはフルフィルメント・センター(FC)と呼ばれる倉庫で大量の派遣社員を採用しているが、配送量が劇的に増える感謝祭(11月の第4木曜日)からクリスマスにかけてはそれだけでは足りなくなり、ノマドによる労働チームを追加投入している。

アマゾンはワーキャンパーたちのために、「キャンパーフォース・プログラム」という独自の制度を導入している。

勤務はシフト制で、最低でも1日10時間は通して働く。その間ずっとコンクリートの堅い床の上を歩きまわり、屈んだりしゃがんだり背伸びしたりしながら、商品のバーコードをスキャンし、商品を仕分けし、箱詰めする。

アマゾンは従業員が常時持ち歩くハンディスキャナーからデータを収集し、分析することで生産性をリアルタイムで監視している。新たな商品をピックアップしてスキャンするたびにスキャナーに次のピックアップまでの持ち時間が表示され、カウントダウンが始まる。うっかり間違った列に行ってしまい、5分以上の遅れが生じると監督が叱責に来る。

時給11ドル25セントで1日16キロから32キロも歩きながら作業すれば、鎮痛剤が手放せなくなる。高齢者には(とりわけ女性には)過酷な仕事だが、2016年には「記録的な数の応募者が集まった」ためにキャンパーフォースの採用を例年より早く打ち切ったという。

アマゾンが若者ではなく高齢のワーキャンパーを雇用するのは「家付き」でやってくるからだけでなく、職業倫理が高く(倉庫では従業員による商品の窃盗が大きな問題になっている)、福利厚生や社会保険をほとんど要求しないからだ。だがじつはもうひとつ理由があって、「追加生活保護の対象となる所得の高齢者」や「フードスタンプの受給者」など「雇用機会上のハンデをもつ」とされるカテゴリーに属する労働者を雇うことで、賃金の25~40%の連邦税控除を受けることができるのだという。

伝統的な中流の生活ができないアメリカ人は数百万人もいる

ワーキャンパーは自分たちを「ホームレス」ではなく「ハウスレス」だという。

元がん患者の通称タイオガ・ジョージは60代半ばで住宅費と食費の両方をまかなうのが難しくなり、大型キャンピングカーに移り住んだ。自身のブログで「歴史上、世界でもっとも偉大な放浪者」を標榜し、「家賃は金輪際払わない!」をモットーに掲げて、開始から10年もたたずして約700万人の訪問者数を記録した。

20代の風俗嬢テラ・バーンズはタイオガ・ジョージのブログに影響を受けて、98年モデルのシボレー・アストロで暮らしながらストリップクラブを渡り歩き、「お金のために脱ぎながら国じゅうを走り回る車上生活」の詳細を報告した。RV生活の家計を公開するなどして、ブログで月に1000ドル以上稼げるようなった60代の女性ワーキャンパーもいる。

ネットで情報交換し助け合ううちに、ノマドのあいだに自然にコミュニティがつくられていった。最大のものはアリゾナ州の砂漠の町クォーツサイトで1月から2月のあいだ(アマゾンの繁忙期が終わった後)に行なわれるイベントで、この時期に周辺の砂漠で暮らす車上生活者は4万人以上と推定されている。

「アメリカ最大の駐車場」「高齢者の春休み」「貧乏人のパームスプリングス」などと呼ばれるクォーツサイトでワーキャンパーのためのイベントを主催するのは「安上がりRV生活」のボブ・ウェルズで、合同食事会や家電ショップの買い物ツアー、射撃講座などさまざまな講習会が用意されている。そのなかでもっとも人気なのは「ステルス・パーキング術」の講習で、「周囲に溶け込んで目立たなくなることで危険を回避する方法」だという。

ノマドの多くは、正規の料金を払って整備されたRVキャンプ場を利用するようなことはせず、ウォルマートなどのショッピングセンターの駐車場や、都会の倉庫街の空き地などに「停泊」する。だがこのやり方は、従業員や周囲の住民から通報され、いつ警察に「ノック」されるかわからない。

じつは、ワーキャンパーはほぼ全員が白人だ。その理由は、(やはり白人である)著者のジェシカ・ブルーダーが述べているように、アメリカ社会で白人が「特権階級」だからだ。

商業施設や公的施設の駐車場など、違法ではないが不適切な場所にキャンピングカーを「停泊」させていても、白人であれば口頭で注意されるだけで済む。だが仮に黒人のワーキャンパーがいたとしたら、そのまま警察署に連行されてきびしい尋問を受けるだろう。「アメリカじゅうを放浪しながら働く」というぜいたくは、白人にのみ許されているのだ。

しかしそれでも、ワーキャンパーの実態が「最貧困すれすれの白人高齢者」であることは間違いない。本人たちもこれを自覚していて、ブログに次のように書き込んだりしている。

――都会で車に住んでいると、人にホームレスと指さされます。
――ホームレスと指さされると、自分がホームレスに思えてきます。
――そこで風景に溶け込んで隠れようとします……何をするにも「普通」に見えるよう、気を使いながら。
――だから、所持品を入れたゴミ袋を毎朝近くの藪に隠しに来る、どう見てもホームレスのおじいさんに、知り合いみたいに微笑みかけられると、(控えめに言っても)平静ではいられません。
――というのも、気づいてしまうから。増え続けている路上生活者の仲間に、自分も加わってしまったことに。そしてホームレスも自分も、たいして違わないことに。

自らもキャンピングカーを購入し、3年間で2万4000キロを旅してワーキャンパーを取材した著者は、「車上生活者は生物学で言う『指標種』のようなものだ」という。指標種は、他の生物より環境の変化に敏感で、生態系全体の大きな変化を他にさきがけて予言する。

いま、伝統的な中流の生活ができずに苦しんでいるアメリカ人の数は数百万人にのぼる。国内のいたるところで、多くの家族が、未払いの請求書が散らばったテーブルの前で途方に暮れている。

食費、医療費、クレジットカードの請求、水道・光熱費、学生ローンや車のローンの分割払い、そしていちばん大きな出費である家賃……。生き延びるためには、このうちどれかを諦めなくてはならない。こうして、家を捨てて荒野へと向かう「指標種」が現われる。

取材を終えて、著者は問う。「人は、そして社会は、いつまでこうした不可能な選択に耐えられるのだろう?」

禁・無断転載

『残酷すぎる人間法則』監訳者序文

3月24日に発売されたエリック・バーカー著『残酷すぎる人間法則 9割まちがえる「対人関係のウソ」を科学する』の監訳者序文を、出版社の許可を得て掲載します。

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「人生においてただ一つ、本当に重要なものは他者との関係だ」

「残酷すぎる人間法則」は、この一行に要約できるだろう。問題は、どうすれば「他者とうまくやっていけるか(Plays Well with Others)」がわからないことだ。―これが本書の原題になる。

人気ブロガーのエリック・バーカーは日本でもベストセラーになった『残酷すぎる成功法則』で、多種多様な成功哲学をエビデンスベースで検証して高い評価を得たが、今回もその手法は変わらない。原書の副題にあるように、「あなたが人間関係について知っていることのすべては(ほとんど)間違っている」という不都合な事実を、「驚くべき科学」によって解き明かしていく。

本書でバーカーが挑む大きな問いは、以下の4つだ。

・人間関係:人は見た目で判断できるのか?
・友情:「まさかのときの友こそ真の友」は本当か?
・愛情:「愛はすべてを克服する」のか?
・孤独:ひとは一人で生きていけるのか?

「傾聴(聞く力)」は長期の関係には役に立たず、犯罪プロファイリングは疑似科学で、「人は見た目が2割」―わたしたちは他者の考えや気持ちを読み取る能力が恐ろしく低いが、人の心を読むのが得意だと思っている―であることが多くの研究で明らかになった。読者は次々と意表をつくデータを突きつけられて、“常識”が崩壊していく快感を味わえるだろう。

前作『残酷すぎる成功法則』でバーカーは、社会的・経済的に成功する方法を検証した。その続編である本書では、どうすれば人間関係(とりわけ友情と愛情)で成功できるかを「科学」的に検証している。

私は、人生の土台を「金融資本」「人的資本」「社会資本」の3つで考えている。このフレームでいうならば、『残酷すぎる成功法則』のテーマは主に人的資本(社会的な成功)で、『残酷すぎる人間法則』はそれを社会資本(人間関係の成功)へと拡張したことになる。

バーカーと私の仕事が重なるのは偶然ではなく、突き詰めていうならば、「幸福」にとってもっとも重要なのは社会資本(他者との関係)で、社会的・経済的成功はそれを実現するための道具(ツール)にすぎない。

お金(金融資本)が増えたり、会社内の地位(人的資本)が上がれば幸福度は高くなるだろう。だがよく考えると、この効果は、お金や地位によって人間関係が改善するからだとわかる。

お金があれば、ブランドものやスーパーカー、豪邸などで「勝ち組」であることを見せびらかせる。これが「顕示的消費」で、生きていくのに必要な額を超えれば、お金の価値は、富を誇示することでステイタス競争で優位に立つことしかない(使わないお金は、銀行のサーバーに格納されたたんなるデータだ)。

お金が幸福感に与える影響は逓減し(徐々に減っていき)、収入では年収800万円(世帯では年収1500万円)、資産では持ち家と金融資産1億円を超えると幸福度は変わらなくなるとされる(逆にいえば、この金額に達するまでは幸福度は大きく上がっていく)。

だとしたら、個人資産20兆円を超えるイーロン・マスクはなんのために必死に働きつづけているのか。生物としての人間が物理的に使える金融資産の上限はとうのむかしに超えているのだから、あとはリゾートでカクテルを飲みながら、悠々自適の暮らしをすればいいではないか。

そんなわけにはいかないことは、近年のTwitterをめぐる買収騒動で明らかだろう。人類史上、もっとも大きな富を獲得した男がこころの底から欲しているものは、酒池肉林の生活ではなく(どんな乱痴気騒ぎもすぐに飽きてしまうだろう)、1億人を超えるフォロワーからのさらなる評判(社会的評価)なのだ。

幸福はなぜ人間関係からしか得られないのか。それは長大な進化の過程のなかで、ヒトが社会に埋め込まれたからだ。

他者を足蹴にして利益を得る完全な利己主義者は、短期的には成功できるかもしれないが、長期的には破滅する。言葉を獲得して以来、ヒトが結託して陰謀をめぐらすようになったからで、どのような権力者も、利益を提供して自分に忠誠を尽くす派閥(人間関係)をつくらなければ、たちまち失脚し(中世以前なら)処刑されてしまっただろう。

旧石器時代の数百万年のあいだ、わたしたちの祖先は150人程度の共同体で暮らしていたと考えられている。濃密な共同体では、高い評判を獲得すれば生存や生殖に有利になり、逆に評判を失うと仲間外れにされるか、最悪の場合、共同体から追放されただろう。当時の過酷な環境では、これはそのまま死につながったはずだ。

このようにしてわたしたちの脳に、他者の評判に敏感に反応する計測器=ソシオメーターが組み込まれた。賞賛や尊敬によってセンサーの値が上昇すると脳の報酬系が刺激されて幸福感に酔いしれ、批判や侮辱で数値が落ち込むと大音量で(「このままでは死んでしまう!」という)警報が鳴る。これが、わたしたちがつねに他者の評価に振り回される理由だ。

進化の過程でヒトの脳は、他者がなにを考えているかを理解するメンタライジング(こころの理論)、相手の気持ちと自分の感情を重ね合わせる共感力、すばやく集団行動をとる同調性、集団と自分を一体化させるアイデンティティ融合など、さまざまな向社会性を発達させてきた。これが生物としてのヒトの基本設計である以上、「幸福」という報酬は、原理的に、大きな社会資本(他者/共同体からの評判)からしか得られない。

だがここでの問題は、相手の歓心を買おうと言いなりになったり、集団のために身を犠牲にしたりするだけでは、「利己的な遺伝子」の複製(より多くの子孫)をつくれないことだ。アッシーくん(ただで使えるタクシー)やメッシーくん(食事のときだけ呼び出される財布代わり)は仲間集団の最底辺で、性愛の相手とは見なされないだろう。「利己的な遺伝子」の優秀な乗り物(ヴィークル)になるためには、共同体のなかでの地位をすこしでも上げなくてはならないのだ。―これは男の場合だが、女も競争のしかたが若干ちがうものの、集団内の地位が生存・生殖や子育ての成功に直結したのは同じだろう。

このようにしてヒトは、仲間に共感し、集団に同調する「利他性」によって共同体のなかでの評判を維持すると同時に、仲間よりも相対的に有利な地位を手に入れようと「利己性」を発揮するという、きわめて複雑なゲームを強いられるようになった。わたしたちはみな、この「無理ゲー」に勝ち残った者の子孫なのだ。

成功を目指すのは、それが幸福への道だと思っているからだろう。だが社会資本(人間関係)のゲームは、金融資本(お金)や人的資本(能力)の獲得よりずっと難しい。あらゆる局面で困難なトレードオフ(結婚すれば子育てが楽になるが、他の異性と性愛関係をもつのが難しくなる、など)を突きつけられるからで、だからこそバーカーは、このテーマで新たに一冊の本を書こうと思ったのだろう。

私は人間関係を、大きく「愛情空間」「友情空間/政治空間」「貨幣空間」に分けている。愛情空間は性愛のパートナーや子どもとの関係、政治空間は学校や会社(あるいはママ友)などの人間関係で、そのなかで自分の味方になってくれるのが友だちだ。この友情空間は、最大5人の「親友」と、最大15人の「イツメン(いつものメンバー)」で構成される。人間関係の核となる5人には性愛のパートナーが、イツメンには親友が含まれるので、愛情空間と友情空間の上限は多くても十数人だ。

わたしたちの心理的な世界は、愛情空間と友情空間を核として、顔と名前が一致する認知の上限である150人程度の政治空間でつくられている。性愛の候補者も、学校や会社のライバルも、みなこのなかに含まれる。その外側には、感情的なつながりはないものの、経済的な取引でネットワークされている茫漠とした貨幣空間が広がっている。

本書でバーカーが扱うのは、主に愛情空間と友情空間だ。それがもっとも幸福に影響を与えるからだが、成功法則と同様に人間法則にも「正解」はない。

誰かと性愛関係になれば、別の誰かと同じことはできない。誰かと遊びに行けば、別の誰かのために時間を割くことはできない。このように、愛情空間や友情空間にはきびしい時間資源の制約がある。最近の言葉でいえば、ベタな人間関係はものすごくタイパが悪いのだ。

それに加えてバーカーは、愛情や友情には「脆弱性」が必要だという。相手に信用してもらい、強い関係を築くには、自分のもっとも弱い部分をさらけ出さなければならない。

しかしこれは、そのままリスクに直結する。信頼していた相手に裏切られると、(とりわけSNS時代には)取り返しのつかないことになりかねないのだ。

じつは私は、近著の『シンプルで合理的な人生設計』(ダイヤモンド社)で、社会資本(人間関係)を資源制約から考察している。その多くは本書と重なるが、重要な部分で異なっていることもある。

バーカーは本書で、孤独がいかに幸福度を下げるかを指摘し(これには膨大なエビデンスがあり議論の余地はない)、共同体に包摂されることが幸福への道だと説く(「人生の意味は帰属することである」)。

だがわたしたちは共同体から追放されたのではなく、自らの意思で「自由」と「自律」を選択し、その結果として、孤独という代償を支払うことになったのではないか。この過程は不可逆なので、今後もわたしたちはますますばらばらになっていき、弱い人間関係のなかから「幸福」を見つけていくしかないと私は考えている。

もちろんこれは、どちらが正しいというわけではない。どのような方法で幸福を追求するかは、読者一人ひとりが、自らの人生として選択すべきものだからだ。

本書には、人間関係を改善する多くのヒントが散りばめられている。「どうすれば大切なひととうまくやっていけるのか」を、魅力的な、そして時に驚くべき例をあげながら、エビデンスをもとに徹底的に考えていくバーカーの世界を、今回も楽しんでほしい。

第108回 役所に居座るお「殿」さま(橘玲の世界は損得勘定)

インボイス制度の導入で「適格請求書発行事業者の登録」を税務署に申請しようと書類をダウンロードしたら、提出先が「〇〇税務署長殿」になっていた。いまどきなぜ、納税者が税務署長を「殿」と呼ばないといけないのか――とSNSでつぶやいたら、ちょっとした議論になった。「殿」は目下の者に使うから問題ない、というのだ。

言語学者は、日本語には強い「敬意逓減の法則」が働いているという。「貴様」がかつては敬称だったように、どんな敬語も、使っているうちにどんどんすり減ってしまうのだ。

「殿」にもこの法則がはたらいて、社内文書に「係長殿」と記載するように、いまでは目下の役職への書面上の敬称として使われている。だとしたら、「目上」の納税者が「目下」の税務署長に送る書類も「殿」でかまわない、という話になる。

だが、この理屈に違和感を覚えるひとも多いだろう。一般的な日本語では、「殿」は格式ばった(時代劇のような)男性への敬称として使われるからだ。

歴史的には、「殿」は明治時代に、役職の上下にかかわらず、官庁内の文書で用いる敬称として定着したようだ。それが広まって、民間業者などから官吏に宛てた文書にも「殿」を使うようになった。

当時の価値観からすれば、「殿」の敬称が官尊民卑、男尊女卑を前提としているのは明らかだ。官吏のなかに女がいないのが当たり前だからこそ、互いに「殿」と呼び合ったのだろう。

GHQ統治下の1952年に、将来的には「殿」を廃し、公用文を「様」で統一するのが望ましいと提言されている。「殿」に差別的な含意があることは、70年も前に意識されていたのだ。

ビジネスマナーでは、「殿」は社内の相手に限定して、個人名ではなく役職にしか使ってはならないとされている。要するに、「内輪」の敬称だ。

いうまでもなく、納税者は税務署の「内輪」ではない。それとも憲法で納税義務が定められている以上、税務当局の支配下にあると思っているのだろうか。

官公庁の感謝状などには、(ビジネスマナーに反して)個人名+殿が使われている。これは官(お上)から民(市民)に下賜される文書で、なおかつ男だけしか相手にしていない時代の名残だろう。

そもそも日本語は、「目上」「目下」が決まらないと、正しい言葉遣いができない特殊な言語だ。SNSには「敬語警察」みたいなひとがたくさんいて、尊敬語や謙譲語の間違いを指摘する。だがこれは、「正しい日本語」を隠れ蓑に、身分制社会を正当化しているのではないのか。

日本語には「様」という、誰にでも使えるジェンダーレスな敬称がある。役職にさらに敬称をつけるのは過剰敬語だ。

民主的な社会では、すべてのひとが平等なのだから、できるだけ「目上」「目下」を意識させないような言葉遣いに代えていくべきだ。一部の自治体では「殿」を使わないようにしたというが、税務署長を「殿」と呼ばせる悪弊もさっさとやめた方がいいだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.108『日経ヴェリタス』2023年3月18日号掲載
禁・無断転載