「市場原理主義を徹底してコミュニズムに至る」ラディカルマーケットの設計

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年5月6日公開の「「市場原理主義を徹底するとコミュニズムに至る」 私有財産に定率の税(富のCOST)を課すと効率的な市場が生まれる」です(一部改変)。

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「市場原理主義を徹底するとコミュニズムに至る」などというと、なにを血迷ったことをと思われるだろうが、エリック・A・ポズナーとE・グレン・ワイルは『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』( 安田洋祐、遠藤真美訳、東洋経済新報社)でそう主張している。それもポズナーは著名な法学者、ワイルは未来を嘱望される経済学者だ。原題は“RADICAL MARKET: Uprooting Capitalism and Democracy for a Just Society(公正な社会のために、資本主義と民主政を根底から覆す)”

この大胆(ラディカル)な理論を紹介する前に、著者たちのバックグラウンドについて触れておこう。

エリック・ポズナーは55歳で、シカゴ大学ロースクールの特別功労教授。法や慣習(社会規範)をゲーム理論を用いて分析する「法と経済学」を専門にしている。名前に見覚えがあると思ったら、保守系リバタリアンの法学者で、共和党を支持しながら、ドラッグ合法化や同性婚、中絶の権利を認めるリチャード・ポズナー(連邦巡回区控訴裁判所判事)の息子だった。

リチャード・ポズナーには、『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』( 鞍谷雅敏、遠藤幸彦訳、東洋経済新報社)など、経済学者ゲイリー・ベッカーとの多数の共著がある(もともとは2人でブログを書いていた)。ノーベル経済学賞を受賞したベッカーは「20世紀後半でもっとも重要な社会科学者」とされ、ミルトン・フリードマンらとともにシカゴ経済学派(新自由主義経済学)を牽引し、レーガン政権の政策に大きな影響を与えた。

もう一人の著者であるグレン・ワイルは1985年生まれの若干36歳で、プリンストン大学で博士号を取得、ハーバード大学、シカゴ大学での教職を経て、現在はマイクロソフト・リサーチ社の首席研究員だ(マイクロソフトCEOのサティア・ナデラが本書の推薦文を書いている)。イェール大学で「デジタルエコノミーをデザインする」というコースを教えてもいる。

Wikipediaのワイルの人物紹介では、「両親は民主党支持のリベラルだったが、アイン・ランドとミルトン・フリードマンの著作に触れてから市場原理主義(free market principles)に傾倒していく」とされている。

本書の謝辞には、「グレン(・ワイル)にとっては、この非常に大胆なアイデアを追求すれば、研究者としてのキャリアを犠牲にするリスクがあり、出版するのも困難だったのだが、そんな状況の中でゲイリー・ベッカー(略)が強く背中を押してくれた」とある。ベッカーは2014年に世を去っているから、シカゴ大学で最晩年のリバタリアン経済学者の知己を得たのだろう。リチャード・ポズナーの息子エリックとも、ベッカーの縁で知り合ったのかもしれない。

このようなことをわざわざ書いたのは、グレン・ワイルが考案した「ラディカル・マーケット」のデザイン(設計)が、一見、リバタリアニズムの対極にあるからだ。なんといっても、ワイルは私有財産を否定しており、それによって「共同体(コミュニティ)」を再生しようとしている。孫のような若者のそんなラディカルなアイデアを、新自由主義経済学の大御所ベッカーが後押ししたというのはなんとも興味深い。

「真の市場ルール」を阻む「私有財産」という障害

ポズナーとワイルは、現代の先進国が抱える問題は「スタグネクオリティ(stagnequality)」だという。スタグネーションstagnationは「景気停滞」のことで、これにインフレ(inflation)を組み合わせると、経済活動の停滞と物価の持続的上昇が併存する「スタグフレーション(stagflation)」になる。

それに対して景気停滞に「不平等inequality」を組み合わせた造語がstagnequalityで、「経済成長の減速と格差の拡大が同時に進行すること」だ。その結果、アメリカではリベラル(民主党支持)と保守(共和党支持)が2つの部族(党派)に分かれ、互いに憎悪をぶつけあっている。

この混乱を目の当たりにして、近年では右も左も「グローバル資本主義」を諸悪の根源として、資本主義以前の人間らしい共同体(コミューン、コモンズ、共通善)をよみがえらせるべく「共同体主義(コミュニタリアニズム)」を唱えている。

だが著者たちは、こうした「道徳と互酬性、個人的評判による統治(モラル・エコノミー)」は、狩猟採集社会や中世の身分制社会ではそれなりに機能したかもしれないが、現代の巨大化・複雑化した資本主義+自由市場経済では役に立たないという。「取引の範囲が広がり、規模が大きくなると、モラル・エコノミーは崩れてしまう」からで、「大規模な経済を組織するアプローチとして、市場経済に対抗する選択肢はない」のだ。

「脱資本主義」の代わりに提案されるのが「メカニカル・デザイン」で、「オークションを生活に取り込む」よう市場を再設計することだ。なぜならオークションこそが、市場を通した資源配分の機能をもっとも効果的にはたらかせる方法だから。これはオークションをデザインした経済学者ウィリアム・ヴィックリーの思想を現代によみがえらせることでもある。

著者たちは、「真に競争的で、開かれた、自由な市場を創造すれば、劇的に格差を減らすことができて、繁栄を高められるし、社会を分断しているイデオロギーと社会の対立も解消できる」として、これを「市場原理主義」ではなく「市場急進主義」と呼ぶ。真の市場ルールは「自由」「競争」「開放性」で、次のように定義される。

・自由:自由市場では、個人がほしいと思う商品があるとき、その商品の売り手が手放す代償として十分な金額を支払う限り、それを購入することができる。また、個人が仕事をしたり、商品を売り出したりするときには、こうしたサービスが他の市民に生み出す価値どおりの対価を受け取らなければいけない。そのような市場では、他者の自由を侵害しない限りにおいて、あらゆる個人に最大限の自由が与えられる。

・競争:競争市場では、個人は自分が支払う価格や受け取る価格を与えられたものとして受け入れなければいけない。経済学者のいう「市場支配力」を行使して価格を操作することはできない。

・開放性:開かれた市場では、すべての人が、国籍、ジェンダー・アイデンティティ、肌の色、信条に関係なく、市場交換のプロセスに加わることができて、お互いが利益を得る機会を最大化できる。

そんなことは当たり前だと思うだろうが、じつは「真の市場ルール」を阻む重大な障害がある。それが「私有財産」だ。

私的所有権こそが自由な市場取引の基礎だとされているが、「再開発や道路の拡張を阻む頑迷な地権者」を考えれば、いちがいにそうともいえないことがわかる。この地権者は、開発業者が「十分な金額」を払うといっても拒否し、「市場支配力」を行使して適正な取引を妨害し、「お互いが利益を得る」機会をつぶしているのだ。

これはけっして奇矯な主張ではなく、アダム・スミスやジェレミー・ベンサム、ジェーミズ・ミルなどは封建領主の特権と慣習が財産の効率的な利用の障害だと考えていた。「限界革命」を主導した「近代経済学の3人の父」のうち、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズは「財産とは、独占の別名にすぎない」と述べ、私有財産制を深く疑っていた。レオン・ワルラスも「土地は個人の所有物であると断じることは、土地が社会にとって最も有益な形で使われなくなり、自由競争の恩恵を受けられなくなることだ」と書いている。

ワルラスは、「土地は国家が所有して、その土地が生み出す超過利潤は「社会的配当」として、直接、あるいは公共財の提供を通じた形のいずれかの方法で公共に還元するべきだ」と述べ、これを「総合的社会主義」と呼んだ。マルキシズムとのちがいは、ワルラスが中央計画を「計画者自身が独占的な封建領主になるおそれがある」として敵視し、「土地は競争を通じて社会が管理するようにし、その土地が生み出す収益は社会が享受したい」と考えていたことだ。

「私有財産否定」はマルクス経済学の専売特許ではなく、近代経済学のなかにもその思想は脈々と流れているのだ。

私有財産に定率の税(富のCOST)を課す「COSTの世界」

19世紀の独学の政治経済学者ヘンリー・ジョージは、土地を共同所有するうえで、国有化より「もっと単純で、もっと容易で、もっと穏やかな方法」として、「公共の用途のために地代を租税として徴収すること」を説いた。その税率は「地代の100%」で、これによって所有者は、「土地の上に建てたものの価値はすべて享受できるが、土地そのものの価値については、その全額を政府に払わなければならなくなり、土地を借りた人とまったく同じことになる」。

著者たちが提唱する「共同自己所有申告税COST/common ownership self-assessed tax」は、ジョージのアイデアをより洗練させたもので、私有財産に定率の税(富のCOST)を課す。その税率は7%とされているので、それをもとに「COSTの世界」を想像してみよう。

現代美術でもっとも人気のあるバンクシーは、商業主義を批判しながら、その作品はとてつもない値段で取引されている(2021年3月にクリスティーズに出品された「Game Changer」の落札額は16億7580万ポンド(約25億円)だった)。これについては、「それだけの価値がある」というひとも、「たんなる偽善者」と見なすひともいるだろう。

だがCOSTでは所有物に7%の税がかかるのだから、この作品を落札した美術収集家は、毎年1億7500万円を国庫に納めなくてはならない。逆にいえば、バンクシーの絵を自宅の居間に飾るのに、これだけのコストを払う価値があると思うひとだけが、この値段で落札するのだ。

こうして、「バンクシーの作品に価値があるのか、ないのか」という論争は意味を失う。毎年2億円ちかくを支払うのなら、それだけの価値があるのは間違いないのだ。

これは、私的に所有されるすべての美術品・工芸品にあてはまる。もちろん、そんなCOSTは払えないという所有者はたくさんいるだろうが、その場合は美術館・博物館に寄贈すればいい。

ボルドーやブルゴーニュのワインには1本数百万円するものもある。だがCOSTの世界では、ワインコレクターはその価値の7%を毎年支払わなければならない。この場合、税を逃れるもっともかんたんな方法は、その年度内に飲んでしまうことだ。

この単純な例からわかるように、私的所有物にCOSTが課されると富の概念が変わり、コレクションは意味を失う。あらゆるモノは「保有する価値」ではなく「使用する価値」だけで判断されることになるのだ。

著者たちの構想では、すべての個人と企業が、所有物を一つずつオンラインアプリの台帳に記載し、それぞれの評価額を自分で決めて入力する。だったら、課税を避けるには低い評価額にすればいいと思うだろうが、この巧妙なメカニカル・デザインでは、評価額は市場に公開されており、それを上回る価格を提示する者がいれば所有権は無条件で売り渡される(拒否権はない)。25億円で落札したバンクシーの絵にCOSTを払うのがバカらしいと思って10万円の評価額を入力すれば、たちまち購入希望が殺到し、そのなかでもっとも高額を呈示した者が手に入れるのだ。

逆に、その絵をぜったいに手放したくないと思えば、購入希望者が応じられないような高額の評価にすればいいが、そうなると多額のCOSTを国に納めなくてはならなくなる。このようにして、すべてのモノは自由で開放的な競争市場が評価する最適価格で取引され、もっとも効率的に活用されることになるのだ。

COSTの世界では、都心の真ん中で空き地を駐車場にしておくようなムダなことはできなくなる。その土地の活用にもっとも高い値段をつけた業者が購入し、一定の規制の下で、COSTを上回る利益が出るように開発することになるだろう。

「富の所有」から「使用価値による賃貸」へ

COSTは私有財産制を否定するわけではないが、富の保有にコストがかかることで、その実態は「所有」から「レンタル」へと変わっていく。不動産取引では、ひとびとは所有権を購入するというよりも、所有によっていくらのCOSTを支払うかを基準にするようになるだろう。

これは自由市場を維持したまま、不動産が国家(共同)所有になって、借主が賃料を支払うのと同じだ。そこではどのようなことが起こるのか、あくまでも私の理解だが、ちょっと想像してみよう。

子どもが私立中学校に受かって、学校の近くに住み替えたいとする。パソコンの画面に希望する地区や賃料、間取りなどの基本情報を入力すると、AIがあなたに合ったマンションや一戸建てのリストを抽出して表示する。そのCOSTが月額5万円だとして、あなたが「OK」のボタンをクリックすると、そこに住んでいたひとは無条件でその家をあなたに売り渡して出て行くことになる(実際には1カ月程度の転居期間が必要だろう)。

こうしてあなたは、希望の物件に引っ越すことができた。ここで当然、次のようは疑問が出るだろう。「引っ越してすぐに、他の希望者から購入申請されたらどうなるのか?」だが、そんなことは起こらない。

新しい住居が気に入って、すぐに転居したくないと思えば、AIでそのためのCOST(家の評価額)を算出してもらえばいい。それが月額5万5000円であれば、そのCOSTを支払っているかぎり、同じ条件の検索結果にあなたの家が表示されることはない。こうして、相場よりすこし割高のCOSTを支払うことで、あなたはずっといまのところに住みつづけることができる。

子どもが中学を卒業し、転居してもかまわなくなれば、AIに最安値のCOSTを算出してもらえばいい。これによってCOSTを(たとえば月額5000円)引き下げることができるが、購入希望者がいれば他の物件に転居しなければならない。

このように考えれば、COSTが不動産市場を劇的に効率化させることがわかるだろう。すべてのひとが、予算に応じて、もっとも便利なところに気軽に住み替えることができるのだ。

「富の所有」から「使用価値による賃貸」に変わると、不動産価格は大幅に下がるはずだ。著者たちの試算では、これによって不動産価格は3分の2から3分の1になるという。現在2000万円台のファミリータイプのマンションは700万円程度になり、COST(月額家賃)は4万円、1億円のマンションも3000万円台まで下がり、月額20万円以下のCOSTで住めるようになる。一部の富裕層が使いもしない不動産を買いあさるのではなく、土地は共有され、必要なひとたちに公正に配分されるのだ。

だがこれは、国家による土地の「中央管理」ではない。それとは逆に、管理はラディカルに分散される。COSTは「社会と保有者で所有権を共有すること」であり、「柔軟性の高い使用市場という新しい種類の市場をつくりだして、恒久的な所有権に基づく古い市場に取って代わるものとなる」のだ。

COSTの特徴は、課税されるのがモノであり、「人と人のつながりには課税されない」ことだ。「モノに過剰な愛着を持つことにペナルティが課されると同時に、モノの価格も下がるので、特に低所得層では、いまよりもずっと多様なものを手に入れられるようになる」。

それに加えて、COSTを全面的に導入すれば、社会の富を毎年何兆ドルも増やすことができる。それを国民に分配すると、UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)に似た制度になる。経済が成長すると、COSTが生み出す歳入が再分配される。他人の繁栄から全員が恩恵を受ける世界では社会的信頼が育まれ、共同体への愛着が生まれ、市民的関与が促されると著者たちはいう。

すなわち、「自由」「競争」「開放性」という市場の機能を徹底することで、新しい「ラディカルなコミュニティ」が誕生するのだ。

「熱心な少数者が無関心な多数者に勝てる」投票方式QV

COSTによる「ラディカル・マーケット」に続く著者たちのアイデアは「ラディカル・デモクラシー」だ。これは「平方根(radical)による投票システム」でもある。

オークションの背後にある思想は、「自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければならない」だ。これを投票にあてはめると、「集合的決定が行われる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければならない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる」とされる。

これを実現する方法がQV(Quadratic Voting)で「二次の投票」のことだ。そのルールは「公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべきだ」で、詳しい説明は本書を読んでもらうとして(それほど難しくはない)、この投票方式は以下の点で1人1票とは異なる。

  1. すべての有権者に一定数のボイスクレジット(投票権)が割り当てられる
  2.  投票する際は、投票数の二乗のボイスクレジットが必要になる
  3. 投票は支持する候補だけでなく、支持しない候補へのマイナス票に使える

あなたが36ボイスクレジットもっているとして、1票=1クレジットなら、36人の候補にプラスあるいはマイナスの投票ができる。これがもっとも投票の「費用対効果(コスパ)」が高い。

だが誰かに(プラスあるいはマイナスの)2票を投じようとすると4クレジット、3票なら9クレジット、6票だと36クレジットが必要になる。特定の候補に6票を投じるときは、36人の候補に1クレジットずつ投票するのに比べて、投票の影響力は6分の1になってしまうのだ。

このQVには、「熱心な少数者が、無関心な多数者に勝てる」という特徴がある。これを夫婦別姓や同性婚で考えてみよう。

世論調査によれば、いずれも国民の大多数が賛成するか、どちらでもいい(あえて反対しない)と思っている。それにもかかわらずなかなか進まないのは、一部の保守政治家が「日本の伝統を破壊するな」と頑強に反対しているからだ。

このとき、夫婦別姓や同性婚を望む「当事者」は少数派(マイノリティ)だが、この政策に大きな利害をもっている。QVであれば、このひとたちは強力なグループを形成して、自分たちの希望を阻む政治家に全員がマイナス6票を投じることができる。

そうなると伝統主義者の保守政治家は、このマイナスを挽回するのに6票を集めなくてはならないが、ほとんどの有権者はこの問題に無関心なので、「イエ制度を守れ」と叫んでも、貴重なボイスクレジットをすべて投じてもらうことは期待できない。マイノリティが「1人=マイナス6票」なのに対し、マジョリティからは「6人×(1人=プラス1票)」を獲得しなければならないのだ。

このようにしてQVは、有権者の「平均的な民意」に反して(特定の団体や主義者のために)極端な主張をする政治家を排除する効果がある。

だがこれは、マイノリティの主張がなんでも通るということではない。

死刑制度については日本でも熱心な廃止運動があるが、国民の多くは死刑存続を求めている。このような場合は、廃止派が存続派の有力政治家に「1人=マイナス6票」を投じても、その政治家は容易に、6人以上の「1人=プラス1票」を集めることができるだろう。

これが「投票数を増やそうとするとコストがかかる」という意味で、マイノリティの極端な主張も抑制され、多数派の有権者の意思に反するような結果にはならない。死刑廃止論者のすべきことは、選挙で気に入らない政治家を落選させることではなく、夫婦別姓や同性婚のように、有権者の大半が「死刑廃止」か「どちらでもいい」と思うように価値観を変えていく努力になるだろう。

著者たちは、2016年の共和党大統領予備選でQVを導入しうたらどうなったかをシミュレーションしている。それによると、極端な政治的見解を排除する効果によって、中道派が大統領選の候補者に選ばれ、トランプは最下位になったはずだという。トランプを拒絶する有権者がマイナス票を集中させる一方で、積極的にトランプを支持する共和党員はそれほど多くなかったからだ。

それにもかかわらず「1人=1票」でトランプが勝ったのは、共和党員の多くが「ヒラリーだけは嫌だ」と思っていたからだ。同様にヒラリー・クリントンは民主党支持者のあいだでも好かれてはいなかったが、「トランプだけは嫌だ」という圧力によって予備選を勝ち上がった。このようにして「嫌われ者同士」で大統領の座を争うことになったのがトランプ大統領誕生につながったのだという。

そのように考えれば、アメリカ社会は党派によって分断されているのではなく(有権者の大半は中道路線を支持している)、極端な候補が勝者になる選挙制度が社会を分断していることになる。

同様に、歴史家は「(1930年代の)ドイツ国民のうち極右を一度でも強く支持した人は10%に過ぎなかった」としている。それにもかかわらずヒトラーが選挙で選ばれたのは、有権者の多くが「共産党だけは嫌だ」と思っていたからだ。ワイマール憲法がQVだったら、ヒトラーが政権を握ることもなく、第二次世界大戦は起きなかったかもしれない。

著者たちは、選挙にQVが導入されると、「地域の共同体で、オンラインのソーシャルネットワークで、国の政府の下で、本当の意味で生活を共有し、協力し合う方向へと進む道が開かれる。豊かな公的生活が形成され、社会的関係が自然に発展していく」と述べる。ここでも、メカニカル・デザインによって「コミュニティ」が生まれるのだ。

ラディカル・マーケットでは資産格差はなくなる

それ以外でも本書では、移民労働力の市場を創造するビザ・オークション(個人間ビザ制度VIP)、機関投資家による支配を解く反トラスト規制、GAFAなどに「労働としてのデータ(個人情報)」の対価を払わせるデジタル労働市場など、さまざまな斬新なアイデアが展開されている。たとえばIT企業がデータの対価をユーザーに支払えば、「4人世帯の所得の中央値は2万ドル(約200万円)以上増える」という。

なかには実際に使われはじめているものもあり、暗号通貨のイーサリアムをベースとした「アカシャ」と呼ばれるSNSが、オンライン上のサービスをQVで評価しているという。ユーザーは自分が保有するボイスクレジットで「二次の投票」をするだけでなく、そのクレジットを使わずに貯めておくこともできる。

著者たちは、将来的には、QVに仮想のクレジットではなく現金を使うことまで構想している。この場合は、(例えば)1票を投じるのは1ドルだが、1000票なら100万ドル(1ドル×1000票×1000)が必要になる。これだと富裕層が政治を支配しそうだが、「公的な問題が私的な問題よりも重要である市民が、ボイスクレジットの限られた予算にしばられることなく、自由に意見を表明できるようになる」のはよいことかもしれない。すくなくとも、コストを支払う気もなく好き勝手なことをいうひとたちは退場していくだろう。

そのうえ投票で支払われたクレジットは、国庫に納められて国民に再分配される。現実の政治では、富裕層は寄付を通じて大きな影響力を行使し、その利益は一部の特権層が独占している。それに比べれば、「豊かな人が貧しい人にお金を払って、政治的な影響力を手に入れる」QVの方がよほど公正かもしれない。

ラディカル・マーケットの下では、すべてのモノが「使用価値」で評価されることになるので、資産による格差はなくなる。それにもかかわらず、わずかなCOSTしか支払えないひとと、多額のCOSTを払って優雅な生活をするひとがいるだろう。なぜなら、個人が生まれもった能力」にはちがいがあるから。COSTが実現する「自由で公正な市場」では、経済格差は「能力格差(メリトクラシー)」のみから生じるのだ。

その格差をなくしたいのなら、「COSTを人的資本に拡張する」ことが考えられるという。だが、大きな才能をもつひとに、才能に応じてCOST(税)を支払わせることができるのか、著者たちも懐疑的なようだ。

メカニカル・デザインでは、「市場は資源を最適に分配する並列処理のコンピュータ」だと考える。あまりにも巨大化・複雑化した現在の市場/社会をモラル(道徳)によって管理することはもはや不可能になっている。だとしたら、「市場というコンピュータ」を最適チューニングして(市場がより多くの富を生み、その富がより公正に分配されるようにして)、最大多数の最大幸福を達成するように「デザイン」するのが唯一の道になる。

著者たちは、「理論上では、市場はシリコンで複製できる」として、本書の最後でAI(アルゴリズム)が人間の欲求を学習する可能性を論じている。そうなれば、社会は「何らかの(ラディカルな)民主的手段や監査可能なアルゴリズム、準分権的な分散コンピューティングに基づいて統治する」未来が到来するかもしれない。これが、メカニカル・デザインによる「自由で公正なユートピア」になるだろう。

禁・無断転載

女優の不倫ばかりがなぜ大きく報じられるのか? 週刊プレイボーイ連載(568)

有名女優と有名シェフのダブル不倫が世間を騒がせています。手書きのラブレターが公開されたり、女優の夫が「謝罪会見」を行なうなどさまざまな話題を提供していますが、こうした報道の洪水に違和感を覚えるひともいるでしょう。

リベラリズムの原則は「他者に危害を加えないかぎり、個人の自由な行動は最大限認められるべきだ」です。不倫は家族に傷を負わせるかもしれませんが、その「危害」が第三者に及ぶわけではありません。誰を好きになるかは私的な問題で、そこで生じた紛争は当事者間で解決すればいい話です。

欧米を中心に同性婚が広まっているのは、誰と誰が結婚しようが第三者に直接の危害が加えられるわけではないからです。そこで保守派は、この原則を拡張して、「日本の社会(国体)が壊されてしまう」という“間接的な危害”を訴えることになります。

だとすれば有名人の不倫も、純潔を否定し社会の風紀を乱すから批判されるのでしょうか。そうともいえないのは、与党の大物政治家の不倫が報じられても、「ああ、またか」という感じで、さしたる話題にもならないからです。ここには、男の不倫は「甲斐性」と見なされても、女の不倫は許されないという顕著な不均衡があります。

芸能人である以上、私的なことを(一定程度)報じられるのは仕方ないでしょうし、広告スポンサーが商品イメージに反する行為をしたタレントとの契約を打ち切るのも当然でしょう。しかしそれでも、私的なことで映画やテレビドラマを上映・放映中止にするのは明らかに行き過ぎです。

ではなぜ、このような「どうでもいいこと」でメディアは大騒ぎするのか。その理由は、ジャニーズ事務所の創設者が多数の少年に性加害を行なっていたという、日本の芸能界を揺るがす事件と比べればわかります。

メディアがジャニーズ関連の報道に及び腰なのは、多くの人気タレントを擁する芸能事務所の「圧力」を恐れているというのもあるでしょうが、これが業界用語でいう「面倒」な案件になっているからです。

報道によれば、性加害の実態解明や被害者支援を求めて署名活動を行なう一部のジャニーズファンに対し、SNSでは、「ファンだとうそをついて、ジャニーズを陥れようとしてる」「二次加害をして被害者を増やそうとしている」などの誹謗中傷が相次いでいるといいます。

ファンかどうかに客観的な基準があるわけではない以上、自分とは主義主張の異なる活動を「ファン」の名の下に行なうことを不快に思うファンもいるでしょう。それに加えて、こうした反発の背後には、「ジャニーズの事件を利用して“社会正義”の活動を行なっているのではないか」という疑心暗鬼もありそうです。

このような複雑なケースでは、メディアはどのような報道をしても、批判や抗議を避けられません。だとしたら、「そんなのはほかに任せておけばいい」というのは合理的な判断です。

それに比べて女優のダブル不倫は、確実に視聴率やアクセス数に貢献し、抗議を受ける心配もありません。何を大きく報道するかは、善悪や正義ではなく、こうした単純な力学によって決まるのでしょう。

参考:「ファンらの署名活動に誹謗中傷 ジャニー氏性加害問題」朝日新聞2023年6月20日

『週刊プレイボーイ』2023年7月3日発売号 禁・無断転載

極右すらリベラル化した社会での「保守派」の役割とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年1月29日公開の「極右もみんなリベラルになった社会で「保守派」の役割を考える」です(一部改変)。

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前回、「世界でいちばん幸福な国」デンマークの“右傾化”について書いた。デンマーク国会で、難民申請者の所持金や財産のうち1万クローネ(約17万円)相当を超える分を政府が押収し、難民保護費に充当するという法案が審議されていて、EUや国連から批判を浴びているという話だが、先日(1月26日)、この法案は出席した議員109人のうち81人が賛成票を投じて可決された。

さらにノルウェーでも、同様の法案が検討されている。こちらは難民申請者が5000ノルウェークローネ(約6万7千円)相当以上の物品(車など)を所持していた場合、没収はしないが、食費などにあてられる補助手当から一部減額する制度だという。

こうした各国政府の“反乱”を受けてEU政府も、旅券なしでの自由な往来を認めるシェンゲン協定の一時停止を検討しはじめた。難民流入を「例外的な状況」として、最長2年間を限度として国境での入国審査の再導入を認めるものだ。

難民問題によって加速されたヨーロッパの「反移民」の潮流は、人種差別や排外主義を容認する危険な時代の到来と一般には受け止められている。だが北欧など「北のヨーロッパ」は、世界でもっともリベラルな福祉社会だ。だとしたら、「リベラル」と「排外主義」という水と油のような関係はどのように両立するのだろうか。

これについて、「ヨーロッパはリベラルなまま“右傾化”している」というのが前回の記事の趣旨だが、このことはマリーヌ・ルペン率いる国民戦線を見るとよくわかる。父ジャン=マリー・ルペンを継いだマリーヌは、妊娠中絶や同性愛を容認し、反ユダヤ主義的発言を理由に父親を除名するなど、大きくリベラルに舵を切った。国民戦線の高い支持率が示すのは、反イスラームとリベラルが両立可能なばかりか、それがヨーロッパ社会で多数派になりつつある現実だ。

だとしたら問うべきは社会の“右傾化”ではなく、「なぜ極右までがリベラルになるのか?」だろう。そのこたえは、「私たちがみんなリベラルになった」からだ。

第二次世界大戦後、とりわけこの20年のあいだに、「あらゆる暴力を忌避する」という巨大な潮流がヨーロッパを席巻し、それが世界へと広がっていった。進化心理学者のスティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』( 幾島幸子、 塩原通緒訳、青土社)で、この世界史的な変化を「権利革命」と名づけた。

これはとても興味深い視点なので、今回はすこし詳しく紹介してみたい。

人種差別もヘイトクライムも減少している

ピンカーは、アメリカにおける権利革命が1960年代の公民権運動に端を発し、それが女性の権利、子どもの権利、同性愛者の権利、動物の権利へと拡大していったと述べる。

歴史をひもとけば、ジェノサイドやテロリズムと並ぶヘイトクライム(憎悪犯罪)は民族暴動のことで、憎悪にとりつかれた暴徒が「敵」の構成員を手当たり次第に殺し、レイプし、拷問し、手足をもぎとる惨劇が世界各地で起こった。ヘイトクライムの特徴は、加害者(若い男たち)が異様な高揚を感じながら残虐行為を行ない、事件のあとでも良心の呵責を覚えないことだ。――それがどんなものか知りたいなら、1965年にインドネシアで起きた「共産党員」に対する大規模な虐殺(100万人以上が殺害されたとされる)の加害者をインタビューした映画『アクト・オブ・キリング』を観てほしい。

もちろんアメリカも例外ではない。17世紀から19世紀にかけて、ピルグリムファーザーズ、ピューリタン、クエーカー教徒、カトリック、モルモン教徒、ユダヤ人など、ほぼすべての宗教グループが殺人的暴動の標的になり、ネイティブアメリカン(インディアン)への暴力はジェノサイドと呼んでいいほど凄惨をきわめた。そのなかでも長期にわたって苦しめられてきたのが黒人(アフリカ系アメリカ人)で、南部では南北戦争後の数年間で何千人もの黒人が殺されている。

だがこうした殺人を含むヘイトクライムは、19世紀なかばのヨーロッパで減少しはじめた。アメリカでも19世紀末に殺人的な暴動が減りはじめ、1920年代には末期的な衰退に入ったと、ピンカーは詳細なデータを示しながら指摘する。ビリー・ホリデイは1940年代の代表曲「奇妙な果実」で、木に吊るされた黒人男性を「南部の木には奇妙な実がなる」と歌ったが、犯罪記録によればその頃には黒人へのリンチはほとんど行なわれなくなっていた。――最後の有名なリンチは1955年に、14歳の黒人少年が白人女性に口笛を吹いたことを理由に拉致され、片目をえぐり出されて殺された事件だ。

「奇妙な果実」がひとびとのこころに響いたのは、リンチが日常的に行なわれていたからではなく、(白人を含む)多くのアメリカ人が黒人へのリンチをおぞましい犯罪だと考えるようになったからだ。この名曲は、アメリカ社会の人種問題に対する価値観の変化を象徴している。

現在では、白人集団が祝祭的な気分のなかで黒人を処刑するKKK(クー・クラックス・クラン)のようなヘイトクライムは考えられないが、それでも黒人などマイノリティに対する迫害はつづいている。たしかに人種差別は深刻な問題だが、その一方で下記のようなデータもある。

FBIの統計によれば、人種を理由に殺害された黒人は1996年に(全米で)5人で、それが2004年には1人になった。年間1万7000件の殺人が起きる国で、憎悪殺人は統計ノイズにまで減少しているのだ。

黒人に対する加重暴行(武器を用いた暴行)、単純暴行、脅迫などは年間数百件(暴行)から1000件(脅迫)程度起きている。けっして少ない数とはいえないが、アメリカでは年間100万件の加重暴行が起きているからその比率は0.5%ほどで、ほとんどの犯罪に人種は関係していない。

こうした傾向は他の民族グループについても同じだ。

9.11同時多発テロでブッシュ政権は“報復”のためにアフガニスタンとイラクに侵攻したが、その一方で、米国内でムスリムに対する暴動が1件も起きていないことにも注目すべきだとピンカーはいう。これはロンドンやマドリードでの爆破事件や、昨年のパリの同時多発テロでも同じで、ムスリムに対する嫌がらせはあっても、憎悪によって生じた殺人は西洋全体で1件も起きていない。テロに対して個人的な暴力で報復することは、先進国ではほぼ放棄されたのだ。

ヘイトクライムの減少と同時に、人種差別的な発言に対する批判もきわめてきびしくなっている。アメリカでは、「レイシスト」のレッテルを貼られた政治家や芸能人、企業経営者などは社会的な地位を失うし、企業はマイノリティを平等に扱っていることをアピールしようと必死になる。ドナルド・トランプですら、移民(非アメリカ人)は「差別」しても、黒人やヒスパニック、ムスリムなどアメリカ人のマイノリティ(有権者)への批判は慎重に避けている。白人の優越が当然のこととされた100年前と比べれば、これはとてつもなく大きな変化だ。

コンピュータゲームではジェノサイドは許されてもレイプはタブー

権利革命の次の舞台は女性に対する暴力、とりわけレイプだ。

モーセの十戒は「汝、姦淫するなかれ」とはいうものの、「汝、強姦するなかれ」とは命じない。ユダヤ古代社会では、女性は夫の所有する財産目録のなかで、家屋の後ろ、奴隷と家畜の前に置かれていた。レイプは女性に対する犯罪ではなく、その女性の父親や夫の財産を奪ったことが罪とされたのだ(娘の処女性を父親から盗んだレイプ犯は、被害女性を自分の妻として買い取ることで罪をあがなうことができた)。こうした女性の扱いはユダヤ社会だけでなく、キリスト教社会やイスラーム、アジアやアフリカなど古今東西どこの文化でもほぼ同じだ。

差別的な女性観は現代までつづいており、女性は「もらわれた」ことを婚約指輪で周囲に知らせ、結婚式では父親から夫に引き渡される。1970年代までは夫婦間のレイプはどの国でも犯罪とはみなされなかったが、これは自分の持ち物をどうしようと本人の自由だからだ。

だが数千年つづいたこの理不尽な文化も、1970年代のフェミニズム第二波によって変わりはじめる。

1971年のスタンリー・キューブリックの映画『時計仕掛けのオレンジ』では、主人公は女性をその夫の前でレイプすることに快感を覚える。この作品について『ニューズウィーク』は、「人間の性格を最も深いレベルで限りなく探求したものであり、真に人間らしいとはどういうことかを表明したものだ」と称賛したが、これは当時としては一般的な映画評だった。だがフェミニストのスーザン・ブラウンミラーは、映画もその映画評も男性の一方的な視点によるもので、「(主人公が自分のこころのなかにある)願望をあらわしてくれているなどと思う女性は一人だっていない」と批判した。

それから40年経って、いまでは大衆文化でレイプが肯定的に描かれることは皆無になった。この変化をもっとも象徴的に表わしているのが、大量殺人からロリコンまで若い男性のありとあらゆる妄想を集めたコンピュータゲームだとピンカーはいう。1980年代以降のゲームの内容を分析すると、そこではひとつの都市をまるごと破壊する“ジェノサイド”は許されても、キャラクターに別のキャラクターをレイプさせるものはひとつもなかったのだ。

アメリカでは1970年代から犯罪全般が減少しているが、そのなかでも過去35年間でレイプ率は80%も減っている。かつてはレイプが真剣に取り扱われなかったり、女性がレイプを訴えるのをためらったことを考えれば、実際の減少率はこれよりさらに大きいだろう。

なぜレイプは急速に減ったのか。これはもちろん、女性に対する暴行を根絶しようとするフェミニスト運動が警察や司法を動かしたからだが、それと同時に、女性の社会進出によって西洋文化がどんどんユニセックス化していることも大きい。1970年から1995年までのアメリカの大学生男女の意識について調べると、「女性は自分の権利を心配するよりも良妻賢母になることを考えるべきだ」などの質問項目に対し、1990年代前半の男性は、1970年代の女性よりも高いフェミニスト意識を持っている。先進国では、いまや誰もがフェミニストなのだ。

この歴史的変化にともなって、妻に対する暴力(ドメスティック・バイオレンス)も急速に減っている。

アメリカでも日本でも、つい最近まで夫が妻を殴ることは犯罪とは見なされなかったし、不倫をした妻を殺すことには情状酌量の余地があると考えられてきた。実際、1987年には「夫が妻をベルトやステッキで殴るのは悪いことだ」と考えているアメリカ人は全体の半分しかいなかったが、それが10年後の97年には86%まで大きく増えた。同様に、いまでは80%以上のアメリカ人がDVを「社会的にも法的にも非常に重要な問題」と考え、99%が「夫が妻を負傷させた場合は法的介入が必要」と回答している。レイプと同様にこの20年間で、女性への暴力に対する社会の価値観は大きく変わったのだ。

女性の権利拡大は、じつは男性にも大きな恩恵を及ぼしている。1976年から2005年までの約30年間で、男性が妻や元妻、ガールフレンドに殺される割合が6分の1に減ったのだ。

なぜフェミニズムが夫殺しを減らすのか。その理由は、DVシェルターなどの法的・行政的保護によって、夫(パートナー)からの暴力や脅迫に耐えかねた女性が殺人以外の逃げ道を見つけることができるようになったからなのだ。

子どもの人権は大きく向上した

人種や性別を理由にした暴力の減少と並んで大きな変化が起きたのは、子どもの権利の拡大だ。

伝統的な狩猟採集社会はもちろん文明社会でも、出産直後の子殺しは当たり前のように行なわれていた。新生児殺しの理由の多くは経済的なもので、避妊や中絶のなかった時代には、家族全員を食べさせていくことができなければ赤ん坊を間引くほかなかった。

ユダヤ教やキリスト教では、生命は神の所有物で、子どもの命は親のものではないという理由から子殺しが禁じられていたが、このタブーは実際に行なわれる大量の子殺しと共存していた。中世史家によれば、裕福な家庭に生まれる子ども数は平均5.1人、中流家庭で2.9人、貧しい家庭で1.8人だったが、これは妊娠数とは関係なかった。1527年にフランスの僧侶は、「便所ではそこに投げ込まれた子どもたちの泣き声が響き渡っていた」と記している。

中世後期から近代前期にかけてようやく子殺しが社会問題になったが、その改善策は未婚の女中の胸を調べて、乳汁が分泌している徴候が見つかれば子殺しの罪を犯したとして死刑にしたり(ほとんどが仕えている家の主人によって妊娠させられていた)、幼少期を生き延びた子どもを救貧院に送ることだった。その救貧院はディケンズが『オリヴァー・ツイスト』で描いたような劣悪な環境で、「哀れな幼児はたいていあの世に召されて、この世で知りもしなかった父祖の墓に葬られる」ことになった。1862年のあるイギリスの検視官は、「警察は死んだ犬や死んだ猫を発見するのとまったく同じような感覚で、死んだ子どもを発見しているように見えた」と書いている。

ところが現在(2007年のアメリカ)、430万の出生数に対して殺された赤ん坊の数は221人で、新生児殺しは過去全体の平均値の2000分の1から3000分の1にまで減少している。これは避妊や中絶という「テクノロジー」が進歩したからであり、子どもに対する価値観が変わったからでもある。

子ども観の変化を象徴するのが、子育てにともなう体罰が「虐待」と見なされるようになったことだ。

中世においては子どもは「小さな悪魔」で、体罰によって「悪魔をそいつから叩き出す」のが当然と考えられていた。この子ども観にパラダイムシフトを起こしたのが啓蒙主義の時代のジョン・ロックの『教育論』(1693年)とルソーの『エミール、または教育について』(1762年)で、子どもは「白い紙(タブラ・ラサ)」のように教育によってどのようにでも成型できるものであり(ロック)、大人は善悪のルールで子どもをしつけるのではなく、自然と交わったり経験から学んだりすることを許すべきだとされた(ルソー)。

だが実際には、イギリスでは1908年まで10代の多くの子どもが放火や押し込みなどの微罪で吊るされつづけ、ドイツの子どもたちは「素直でないと、定期的に、猛烈に熱い鉄のストーブの前に座らされたり、寝台の支柱に何日も縛りつづけられたり、冷たい水や雪のなかに投げ入れられたりして『強化』され」ていた。

だが1946年にベンジャミン・スポックの不朽のベストセラー『スポック博士の育児書』が出たことで、「鞭を惜しめば子どもをだめにする」という考え方は劇的に変わった。変化はまずヨーロッパから始まった。

1950年代のスウェーデンでは親の94%が尻叩きをしていたが、1995年には33%まで3分の1に減っている(毎日尻叩きをする親は33%から4%にさらに大きく減少した)。ドイツでは1992年の時点で81%が子どもを平手打ちし、41%が子どもの尻を棒で叩き、31%が子どもの体にあざができるまで殴っていたが、2002年にはそれぞれ14%、5%、3%まで減少している。アメリカにおいても、2005年時点で(共和党支持の)南部では85%が尻叩きを容認するものの、(民主党支持の)北部では50%ちかくまで減っている。

こうした流れを受けて、1979年にスウェーデンは尻叩きを違法とし、他の北欧諸国もそれに追随し、国連とEUは加盟国すべてに尻叩きを廃絶するよう要請した。

アメリカ人の大多数は現在でも子どもへの体罰を容認しているとしても、殴ったり蹴ったりするような「虐待」とは明確な一線を引いている。1976年に児童虐待を「この国の深刻な問題」と考える者は10%だったが、10年後の1985年には90%にまで上昇した。これが口先だけでないことは、1990年から2007年までのあいだに身体的な児童虐待の割合が半減し、暴行、強盗、レイプなど子どもに対する暴力犯罪の発生率も3分の1から3分の2ほど減っていることで確認できる(家出や妊娠、警察沙汰、自殺の割合も減少した)。

子どもが家庭での暴力から守られるようになったのと並んで、学校でのいじめも根絶の対象とされるようになった。現在では44の州で学校でのいじめを禁じる法律が制定されており、その成果かどうかは別にして、ケンカや校内での恐怖、窃盗や性的暴行といった犯罪の発生率もすべて下降している。「子どもはもう安全だというのは早計だが、かつてよりはるかに生きやすくなっているのは確実」なのだ。

テクノロジーがもたらした「権利革命」

ここでは詳述しないが、西欧社会では人種差別や女性差別、子どもへの虐待と同様に、同性愛者への暴力犯罪や動物の虐待も強く嫌悪されるようになった。

同性愛の道徳性についてはげしい議論が交わされるアメリカですら、国民の大半が「同性愛者にも均等な就職機会をもたせるべき」と考えている。こうした寛容さは若い世代ほど顕著で、10代や20代の若者は相手が同性愛か異性愛かをほとんど気にしなくなっている。

また科学の領域でも、「ヒト以外の動物にはどんな実験をしてもかまわない」という常識が崩れ、ほとんどの科学者が実験動物も痛みを感じると考えるようになった。1970年代から始まった「動物の権利」運動は、狩猟(ハンティング)や捕鯨を文化として容認せず、肉食を忌避するベジタリアンを流行の最先端に押し上げた(ただし肉の誘惑を絶つのは難しく、本物のベジタリアンはアメリカの人口の3%程度しかいない)。

こうした「権利革命」の潮流は、近代の啓蒙主義と、そこから発展した人道主義、自由主義(リベラリズム)を源流とする。とりわけヨーロッパでは、第二次世界大戦のホロコーストの衝撃と、冷戦期に核の恐怖にさらされたことが「人権」を強く意識させ、凄惨なユーゴスラヴィア内戦を目の当たりにしたことで「人権が国家主権を超える」という新しい国際常識が生まれた。

この「拡張された人権概念」は西欧からアメリカのブルーステート(北部)、レッドステート(南部)、カナダやオーストラリアなど英語圏の移民国家(アングロスフィア)を経由して、ラテンアメリカやアジアの民主国家、さらには中国のような権威主義的国家にまで広まり、いまではアフリカやイスラームの大部分へと波及している、というのがピンカーの“歴史観”だ。

専門家を含むほとんどのひとが、ニクソン、レーガン以降の40年間、アメリカはどんどん“右傾化”していると考えているが、人種間結婚や女性の権利獲得、同性愛の許容、子どもへの処罰、動物の扱いなど、権利革命のさまざまな成果を見るかぎり、「今日の保守層はかつてのリベラル層よりずっとリベラルになっている」ことは間違いない。先進国では、いまや誰もがリベラルなのだ。

こうした大変化の原因はさまざま考えられるが、そのなかからもっとも重要なものを挙げろといわれたら、それはテクノロジーだとピンカーはいう。ラジオ、テレビ、映画、電話、インターネット、スマートフォンといった「電子革命」が知識を拡散し、「新しい平和」と「長い平和」をもたらした。情報ネットワークが世界大に張り巡らされた国際社会(コスモポリタン)では、ひとびとは肌の色や国籍、民族、宗教が異なるだけでは、相手を「絶滅すべき敵」と感じることができなくなったのだ。

それでは、この「リベラルな社会」のなかで保守派の役割とはどういうものだろうか。

「あらゆる暴力を根絶する」という世界史的変化=リベラルの大潮流はあちこちで行き過ぎや混乱を引き起こしている。ピンカーはその典型として、「子どもの安全」を挙げている。

40年前、アメリカの子どもの3分の2は徒歩か自転車で通学していたが、いまではそれが10%に減り、子どもは車で送り迎えされ、携帯電話で常に居所を把握され、自由に外遊びすることも許されず、母親の決めた遊びの約束(Play Date)にしたがって友だちに会うようになった。2008年には、9歳の息子に一人でニューヨークの地下鉄に乗って帰宅することを許した女性ジャーナリストが、その体験を新聞コラムに書いたことで「アメリカ最悪の母親」とバッシングされる騒ぎまで起きた。

子どもの安全の絶対化は、どのような事態を招いたのか。ピンカーは次のように書く。

「子どもを学校に送っていく途中の親の車にひかれる子どもの数は、それ以外の交通事故にあう子どもの二倍以上にのぼっている。したがって、子どもを誘拐犯に殺されないようにするために車で学校に送っていく親が多ければ多いほど、多くの子どもが死ぬのである」

ちなみに、子どもが行方不明になった事件のほとんどは家出したティーンエイジャーや、親権の裁定に納得していない離婚した親に連れ去られたケースで、他人による誘拐の年間件数は1990年代の200~300件から今日では100件前後まで減っている。アメリカの児童を5000万人とすると年間殺人率は100万分の1で、そのリスクは溺死の約20分の1、交通事故死の約40分の1だ。

過去2世紀にわたる「権利革命」は、歴史的にみて非常に大きな道徳性の向上を達成した。だがその価値を無限に高めようとする直近20年の運動は、いずれ馬鹿らしさに行き着くしかないようなものだとピンカーはいう。

このことは、EU(ヨーロッパ)の「拡張された人権」にも当てはまる。「(リベラル化した)保守」の役割が、権利革命の暴走を矯正し、正しい道に戻すことにあるのだとすれば、現在、ヨーロッパで起きていることを別の視点で眺めることができるだろう。

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