リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない(『世界はなぜ地獄になるのか』まえがき)

明後日(8月1日)発売の小学館新書『世界はなぜ地獄になるのか』のまえがき「リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない」を出版社の許可を得て掲載します。一部の書店ではすでに店頭に並んでいるようです。見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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時代とともに社会の価値観は変わっていく。だがわたしたちは、それに適応して自分の価値観を自在に変えられるわけではない。

綺羅星のごとく男性アイドルを輩出してきたジャニーズ事務所の創設者、ジャニー喜多川に少年愛の性癖があることは、1960年代から業界関係者のあいだでは公然の秘密で、80年代末には元アイドルの告発本がベストセラーになって広く知られることになった。90年代末には『週刊文春』が連続キャンペーンを行ない、それに対してジャニーズ事務所が提訴、一審では文春側が敗訴したものの、東京高裁は「セクハラに関する記事の重要な部分について真実であることの証明があった」と認定し、2004年に最高裁で判決が確定した。

ところが、日本のほとんどのメディアはこの裁判を報じなかった。ジャニーズ事務所の圧力を恐れたからだとされ、たしかにそうした事情もあるだろうが、その背景には「しょせん芸能人の話」という認識があったはずだ。

事態が動き出したのは23年3月、イギリスのBBCが「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」というドキュメンタリーを放映してからだ。4月には事務所に所属していた元タレントが日本外国特派員協会で記者会見し、2012年からの4年間にジャニー喜多川から15回ほどの性的被害を受けたと証言、この「外圧」で追い込まれたジャニーズ事務所は現社長が動画での謝罪を余儀なくされた。

この一連の経緯は、ハリウッドを揺るがせた「#MeToo」とよく似ている。大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラを女優らが実名で告発、性被害を受けた女性たちがSNSで次々と声を上げる世界的な運動へと発展した。

映画界では、新人女優がプロデューサーなど実力者と性的な関係をもつことはよくある話だとされていた。この慣習が黙認されたのは、ハリウッドが特殊な世界だとされてきたからだろう。自ら望んでそこに足を踏み入れた以上、一般社会の常識を期待することはできず、異世界のルールに従わざるを得ない、というわけだ。

権力とセックスのたんなる交換(いわゆる枕営業)であれば、この理屈も成り立つかもしれない。しかしワインスタインは、配役と引き換えに女優に性交渉を強要するだけでなく、女性スタッフにまで性加害を行なっていたことが暴露され、はげしい批判を浴びて映画人としての社会的存在をキャンセル(抹消)された。──その後、強姦など11件の罪で逮捕・起訴され、禁錮16年の刑を言い渡された。

ジャニー喜多川がある種の天才だったことは間違いないが、困惑するのは、その才能が少年愛から生まれたものらしいことだ。70年代や80年代の出来事であれば「そういう時代だった」で済んだかもしれないが、今回の証言で明らかになったのは、最高裁で判決が確定してからも少年に対する性加害が続いていたことだ。

相手が成人なら合意のうえだと説明できても、未成年の場合はどのような弁明も不可能だ。そして現在では、相手の明確な同意を得ない性行為は許されなくなり、とりわけ拒絶のできない小児や少年・少女への性加害は、道徳的には殺人に匹敵する重罪と見なされる。しかし日本の芸能界で大きな権力を手にした80歳過ぎの老人には、こうした価値観の変化に気づくことは難しかったのだろう。

社会がリベラル化すれば異世界は一般社会に回収され、「あのひとは特別」「あそこはふつうとちがうから」という言い訳は通用しなくなってくる。その意味では、ジャニー喜多川は長く生き過ぎたし、その結果、残された者たちは名声と既得権の呪縛にとらわれて身動きがとれなくなってしまったのだろう。

私は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。そんなのは当たり前だと思うかもしれないが、人類史の大半において「自由に生きる」ことなど想像すらできず、生まれたときに身分や職業、結婚相手までが決まっているのがふつうだった。「自分らしさ」を追求できるようになったのは近代の成立以降、それも第二次世界大戦が終わり、「とてつもなくゆたかで平和な時代」が到来した1960年代末からのことだ。

アメリカ西海岸のヒッピームーブメントとともに登場したこの(人類史的には)奇妙奇天烈な思想は、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」とともにまたたくまに世界中の若者たちを虜(とりこ)にした。その影響は現代まで続いているだけでなく、ますます強まっており、もはや誰も(右翼・保守派ですら)「自分らしく生きる」ことを否定できないだろう。

「自分らしく生きたい」という価値観が社会をリベラル化させる理由は、自由の相互性から説明できる。

わたしが自分らしく生きるのなら、あなたにも同じ権利が保障されなくてはならない。そうでなければ、わたしとあなたは人間として対等でなくなってしまう。それで構わないと主張するのは、奴隷制や身分制を擁護する者だけだろう。

このようにして、人種や民族、性別や性的指向など、本人には選べない「しるし」に基づいて他者(マイノリティ)を差別することはものすごく嫌われるようになった。わたしと同じ自由をあなたがもっていないのなら、あなたにはそれを要求する正当な権利があるし、先行して自由を手にした者(マジョリティ)は、マイノリティが自由を獲得する運動を支援する道徳的な責務を負っている。

「社会正義(ソーシャルジャスティス)」をあえてひと言で表わすなら、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくろう」という運動のことだ。そしてこれは、疑問の余地なくよいことである。誰だって、自分らしく生きることを許されない社会(たとえば北朝鮮)で暮らしたいとは思わないだろう。

ここまではきわめてわかりやすいし、自分を「差別主義者」だと公言するごく少数を除けば、異論はほとんどないはずだ。世界も日本も、このリベラル化の巨大な潮流のなかにある。誰もが「自分らしく生きたい」と願う社会では、「自分らしく生きられない」ひとたちの存在はものすごく居心地が悪いのだ。

光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。社会がますますリベラルになるのはよいことだが、これによってすべての問題が解決するわけではない。差別的な制度を廃止し、人権を保障し、多くの不幸や理不尽な出来事をなくすことができるかもしれないが、それによって新たな問題を生み出してもいる。このことをリベラルを自称する知識人の多くは無視している(あるいはそもそも気づいてすらいない)が、それはおおよそ以下の4つにまとめられるだろう。

(1)リベラル化によって格差が拡大する

行動遺伝学の多くの研究によって、社会がリベラルになるにしたがって遺伝の影響が強まり、男女の性差が大きくなることが一貫して示されている。

これは考えてみれば当たり前で、「自分らしく生きられる」社会では、もって生まれた才能を誰もが開花させられるようになるが、知識社会に適応する能力にはかなりの個人差がある。その結果、社会がゆたかで公平になればなるほど、環境(子育てなど)の影響が減って遺伝による影響が大きくなるのだ。

リベラル化で男女の性差が拡大するのは、男と女で好きなこと・得意なことに生得的なちがいが(一定程度)あるからだ。男女の知能の平均は同じだが、男は論理・数学的知能が高く、女は言語的知能が高い。その結果、経済的に発展した国の方が共通テストの平均点が高くなると同時に、男は数学の成績が、女は国語の成績がよいという傾向が見られ、男女の性差は拡大している。

性差だけでなく個人のレベルでも、知能や性格、才能など、わたしたちはかなりの遺伝的多様性をもって生まれてきて、そのちがいは自由でゆたかな環境によって増幅される。誰もが自分の才能を活かすことができるリベラルな社会でこそ、経済格差は拡大するのだ。逆に、独裁者が国民の職業を決めるような専制国家では、(一部の特権層以外の)経済格差は縮小するだろう。

(2)リベラル化によって社会がより複雑になる

前近代的な社会では、個人はイエやムラ、同業組合などの共同体に所属していたから、社会を統制するには何人かの有力者に話をつければよかった。だが「自分らしく生きられる」社会では、個人はこうした中間共同体のくびきから解放され、一人ひとりが固有の利害をもつようになる。その結果、従来の仕組みで利害調整することが困難になり、政治は機能不全を起こすだろう。

(3)リベラル化によってわたしたちは孤独になる

自由は無条件でよいものではないし、共同体の拘束は無条件に悪ではない。あることを自由意志で選択すれば、当然、その結果に責任を負うことになる。逆にいえば、自分で選択したわけではないことに責任をもつ必要はない。共同体は自己責任の重圧からわたしたちを庇護してくれるが、「自分らしく生きられる」社会では、この「ぬくもり」は失われてしまうだろう。

わたしが自由なら、あなたも同じように自由だ。その結果、ひとびとの出会いは刹那的になって、長期の関係をつくることが難しくなる。このことは、日本だけでなく先進国で婚姻率や出生率が低下していることに現われている。

(4)リベラル化によって、「自分らしさ(アイデンティティ)」が衝突する

「自分らしく生きる」ためには、「自分らしさ」を見つけなくてはならない。これが“アイデンティティ”で、「わたしとは何者か」の定義のことだ。このとき、マジョリティは個人的なこと(仕事や趣味など)を「自分らしさ」にできるが、マイノリティは所属する集団(人種、宗教、性別、性的指向など)をアイデンティティとして強く意識する。

自分たちのアイデンティティを社会に受け入れさせようとする運動が「アイデンティティ政治」だが、これによってマジョリティとマイノリティの間だけでなく、マイノリティ集団同士でも軋轢や衝突が起きる。

リベラルを自称するひとたちは多くの基本的なことを間違えているが、そのなかでももっとも大きな勘ちがいは、「リベラルな政策によって格差や生きづらさを解消できる」だろう。なぜなら、そのリベラル化によって格差が拡大し、社会が複雑化して生きづらくなっているのだから。

リベラル化が格差を拡大しているにもかかわらず、「リベラルな政策で格差を解消できるはずだ」という強固な信念を抱いていると、現実と信念の不一致(認知的不協和)を解消する方法は陰謀論しかなくなる。一部の過激なリベラル(「レフト=左翼」や「プログレッシブ=進歩派」と呼ばれる)の主張が、「世界はディープステイト(闇の政府)によって支配されている」というQアノンの陰謀論と不気味なほど似ているのは、どちらも世界に対する認識が根本的に間違っているからだ。

わたしたちは「知識社会化」「グローバル化」「リベラル化」という人類史的な変化のただなかにいるが、誰もがこの未曾有の事態に適応できるわけではない。その結果、欧米先進諸国を中心にはげしいバックラッシュが起きている。これが「反知性主義」「排外主義」「右傾化」で、一般にポピュリズムと呼ばれるが、これはリベラリズムと敵対しているのではなく、リベラル化の必然的な帰結であり、その一部なのだ。──したがって、リベラルな勢力がポピュリズム(右傾化)といくら戦っても、打ち倒すことはできない。

社会がリベラル化すればするほど、そこからドロップアウトする者が増えていくのは避けられない。その典型的な存在が、恋愛の自由市場から脱落してしまった若い男で、日本では「モテ/非モテ」問題と呼ばれ、英語圏では自虐的に「インセル(不本意な禁欲主義者)」を自称している。そしてその(ごく)一部が社会に強い恨みをもち、無差別殺人のような惨劇(非モテのテロリズム)を起こす。日本でも近年、こうした重大事件が目立つようになったのは、母数である「社会からも性愛からも排除された者」が増えているからだろう。

私はこれらのことを『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』(ともに小学館新書)で述べてきたが、その続編となる本書では、「誰もが自分らしく生きられる社会」を目指す社会正義の運動が、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していく現象を考察している。なぜならこれも、リベラル化の必然的な帰結だからだ。

世界はなぜ地獄になるのか──まずは、日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた象徴的な事例から始めたい。

『世界はなぜ地獄になるのか』発売のお知らせ

小学館新書より『世界はなぜ地獄になるのか』が発売されます。発売日は8月1日ですが、都内の大手書店ではこの週末に並ぶところもあるかもしれません。 Amazonでも予約できます(電子書籍も同日発売です)。

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社会正義はめんどくさい。
キャンセルカルチャーという「大衆の狂気」を生き延びる

誰もが自由に生きられる社会は、
こんなにも不自由だ。

文化全体にしかけられた地雷
社会的存在のキャンセル
「表現の自由」と「抗議する権利」
終わりのない罵詈雑言の応酬
「無意識の差別主義者」のレッテル
マイノリティは常に正しいのか

人種や性別、性的指向などによらず、誰もが「自分らしく」生きられる社会は素晴らしい。
だが、そうした社会の実現を目指す「社会正義(ソーシャルジャスティス)」の運動は、
キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していき、今日もSNSでは罵詈雑言の応酬が続いている。
わたしたちは天国(ユートピア)と地獄(ディストピア)が一体となったこの「ユーディストピア」をどう生き延びればよいのか。

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『世界はなぜ地獄になるのか』目次

はじめに リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない

PART1 小山田圭吾炎上事件
プロモーションのためのインタビュー
いじめはエンタテインメント?
なぜインタビューを受けたのか
教室にロボパーが現われる
意図的に編集された発言
友情ではないが交流はあった
「全裸でグルグル巻にしてウンコ食わせて」
無責任な若者代表/「事実」をめぐる問題
「障害」はなぜ消えたのか
許されない発言
では、どうすればよかったのか

PART2 ポリコレと言葉づかい
「それって侮辱じゃないのかい」事件
ポリコレはグローバル空間のルール
身体的暴力から心理的暴力へ
日本は「さん」づけでアメリカは呼び捨て
敬語を使うと失礼になる場合
外国人の上司や同僚をどう呼ぶのか
日本語は身分制から生まれた
「連絡させていただきます」は誤用
敬意がどんどんすり減っていく
言葉で相手に触れるというタブー
ネットに跋扈する「敬語警察」
ヨーロッパ人の祖先はアーリア?
「white(白人)」はなぜ小文字なのか
黒人やアジア系はPOC
シスジェンダーとトランスジェンダー
性的少数者の呼称が長くなる理由
「障害」は差別用語なのか
言葉の言い換えでは解決しない問題
言葉は権力

PART3 会田誠キャンセル騒動
四肢を切断された全裸の美少女
プラットフォームへの抗議
芸術家はなぜ「芸術」を擁護したのか
「日本画」は日本固有の絵画ではない
「変態」でオリエンタリズムを乗り越える
なぜ少女の四肢を切断したのか
天皇の写真を燃やす表現の自由はあるのか
終わりのない罵詈雑言の応酬

PART4 評判格差社会のステイタスゲーム
健康格差はなぜ生じるのか
ステイタスが低いと死んでしまう
日本では中間管理職の死亡率がもっとも高い
ステイタスを感知する超高精度のソシオメーター
ストレスが脳の自己免疫疾患を引き起こす
権威による支配は嫌われる
「正義というエンタテインメント」を楽しめる美徳ゲーム
推しはアイデンティティ融合
自尊心を守るための陰謀論
「意識高い系(ウォーク)」は不満だらけのエリートなりたがり
死ぬまで続く残酷なゲーム
SNS時代の赤の女王
なぜAV女優になりたがるのか
ステイタスゲームに攻略法はない
社会的地位とアイデンティティのねじれた関係

PART5 社会正義の奇妙な理論
ギャングに売られた北朝鮮の少女
「北朝鮮は本当に狂っていた。でも、このアメリカほどではなかった」
リベラルな知識人はなぜキャンセルされたのか
「傷つけられない権利」は基本的人権
リベラルな大学ほどキャンセルの嵐が吹き荒れる
白人は「生まれる前から」レイシスト?
リベラルな白人による無意識の人種差別
日本人は原理的に「レイシスト」にはならない?
マイクロアグレッション
インターセクショナリティ
学術誌に掲載されたデタラメ論文
《理論》の源流はフーコーとデリダ
ポストモダン思想の二度の転回
肥満は自己責任なのか
マイノリティはつねに正しく、マジョリティはつねに間違っている

PART6 「大衆の狂気」を生き延びる
キャンセルされた、世界でもっとも有名な作家
男と女は連続体
ブルーガールとピンクボーイ
TERF問題の核心
自分に向けた女性への愛
不都合な理論
トランスジェンダーを否定するレズビアンのフェミニスト
トランスジェンダー問題
平等・公平・公正
赤ちゃんの正義感覚
保守もリベラルも社会正義を求めている
「人種や性別で他人を判断してはならない」という差別
あまりにも高いハードル
他者とのコミュニケーションから撤退する
まともなひとは歴史問題で外国人を批判しない
個人は国家の過去の加害行為に責任を負うべきか
国民には、国家の過去を謝罪する権利はない
道徳的個人主義と共同体主義
真理を独占する者たち
頭のなかのおしゃべりがあふれ出す
「極端な人」に絡まれないためには
キャンセルカルチャー産業

あとがき ユーディストピアにようこそ

 

累進課税はなぜ正当化できなくなってきたのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年9月21日公開の「累進課税はなぜ正当化できるのか? 日本で超累進課税が復活する可能性とは?」です(一部改変)。

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国家を運営するためには国民から税を徴収しなければならない。ここまではすべてのひとが合意するだろうが、「どのような税制がもっとも公平なのか」となると、議論百出して罵詈雑言が飛び交うようになる。国民一人ひとり利害が異なるし、主義主張もちがっているのだから、みんなが納得するような税制はものすごく難しいのだ。

日本を含むほとんどの国で、所得税は累進課税になっている。なんとなく当たり前に思っているかもしれないが、なぜ累進課税が正当化できるかは経済学や政治学における大問題だ。

「お金持ちのほうがたくさん払えるから」でもそれって、国民を平等に扱ってないんじゃないの?

「お金持ちは強欲で邪悪だから」勤勉で誠実なお金持ちや、強欲で邪悪な貧乏人はどうなるの?

「お金持ちだけが得するような制度になっているから」だったら税金で罰するより、その制度を変えればいいんじゃないの?

というように、すぐに思いつくような理屈にはただちに強力な反論が戻ってくる。思考実験でいろいろやってみても面白いかもしれないが、みんなが「たしかにそうだ!」とうなずくような理屈があれば「大問題」にはならないのだから、あまり見込みはないだろう。

アメリカの政治学者、ケネス・シーヴとデイヴィッド・スタサヴェージの『金持ち課税 税の公正をめぐる経済史』(立木勝訳、みすず書房) は、先進20カ国の過去200年間の税法を比較することでこの謎に迫った。原題は“Taxing the Rich(金持ちへの課税)”。

著者たちによると、イギリスで1799年に所得税が導入されて以降、アメリカ、フランス、日本などを含め、どの国でもその税率は19世紀を通じて非常に低い率にとどまっていた。ところが20世紀に入った途端、富裕層への課税が強化され、1950年代に累進税率(法定最高限界税率)はもっとも高くなる。だがその後、すべての国で累進税率は急速に下がりはじめ、お金持ちはあまり税金を払わなくなる(相続税率も同様の推移を描いている)。

所得税の累進課税は最初はあまり人気がなくて、その後、広く導入されるようになるものの、近年はまた人気がなくなった。なぜこのようなことが世界じゅう(すくなくとも先進国のあいだ)で起きたのだろうか。そのこたえは思いがけないものだった。

所得や財産への課税は不当とされていた

最初に、かんたんに税の仕組みのまとめておこう。

税には個人所得税のほかに相続税、消費税、法人税などがある。これらはそれぞれ一長一短があり、どれかひとつの方法だけで税金を徴収すると不公平になってしまう。

相続税には、「二重(三重)課税ではないのか」との執拗な批判がある。所得に対して税を支払い、資産運用の利益や消費にも税金を納め、それでも残ったお金に対して課税しているからだ。遺産を全額使いきってしまえば相続税はかからないのだから、「国家が国民に放蕩を勧め、子どもを愛することを罰している」ともいえる。これがアメリカなどの保守派が相続税(遺産税)を嫌う理由で、(理由はさまざままだが)カナダやオーストラリア、ニュージーランド、スウェーデンなど欧米先進国にも相続税を廃止したところがある。

法人税に対しても「二重課税」との批判は根強い。会社法では株式会社の所有者は株主で、会社(法人)の利益はすなわち株主の利益だ。そう考えれば法人段階で課税する理由はなく、株主に利益が分配されたときに、他の個人所得と合算して課税すればいい。「法人が利益をためこむ」と危惧するかもしれないが、だったら利益の内部留保を禁止し、いったん全額を株主に分配したうえで、資金が必要ならその都度、資本市場から調達するようにすればいいだろう。

これは荒唐無稽に思えるかもしれないが、LLC(合同会社)やLLP(有限責任事業組合)などの会社形態で実際に行なわれている(日本ではLLCは法人税課税の対象)。フィンテックによって資本市場が効率化すれば、株式会社も運転資金以外は余剰資金を保有せずに経営するのが当たり前になるかもしれない。日本では大手企業の多額の内部留保が問題になっているが、すべての会社を内部留保ができないパススルー型にして法人税を廃止すれば、効率な経営ができるうえに徴税業務も簡素化されて一石二鳥だろう。

消費税は相続税や法人税に比べて原理的な問題が少なく、なにより国内の消費にもれなく課税できることから、先進国では徐々に徴税の中心になってきた。だがそれでも、所得の低い層ほど実質負担が重くなる逆進性があるし、インボイス制度を導入せずに軽減税率を行なうと申告・徴税の実務が混乱する(日本では2023年10月に開始)。

歴史的には、国家はまず土地などの不動産に税をかけ、重商主義の時代には輸出を増やし輸入を減らすために多額の関税がかけられた。輸入品への関税は消費税と同じで、国内物価を上昇させるから逆進性がある。このことは19世紀には知られていて、富裕層がより多く税を負担する相続税や所得税の根拠とされた。

だが『金持ち課税』の著者たちによれば、それはきわめて微々たるものだった。大論争の末に1909年にイギリスで導入された累進課税「スーパータックス」の最高税率は8.3%だった。アメリカでも20年にわたる論争の末に1913年に累進所得税が導入されたが、その最高税率は7%だった。フランスはさらに極端で、1907年になっても富裕層は約2%の所得税を支払っているだけだった。

こうした事情は相続税もほぼ同じで、その背景にある価値観は明らかだ。政治家は国民の所得や財産に税を課すことをどこか不当なものと考えており、さまざまな事情からそうした課税が余儀ないものとなっても、その税率をできるだけ低くしようとしたのだ。

累進課税は「不公平」と見なされてきた

個人所得税には、大きく3つの分類が考えられる。定額税、定率税、累進課税だ。

定額税は「国民1人あたりいくら」と一律に決める方法で、一般に「人頭税」と呼ばれている。これは貧困層への逆進性がきわめて大きい(富裕層がものすごく優遇される)ので「国家による搾取」として忌み嫌われるが、必ずしも不公平というわけではない。

このことは、『金持ち課税』の冒頭に著者たちが掲げた旧約聖書からの一節でも明らかだ。

「あなたたちの命を償うために主への献納物として支払う銀は半シュケルである。豊かなものがそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる」(出エジプト記30章15節)

古代において「公平」な税(献納)は定額税だけであり、信者の懐具合によって金額を変え「差別」することは神によって禁じられていたのだ。

こうした定額方式は、日本でも町内会費や組合費などで広く使われている。これは「みんな同じ」というのが、直観的な「公平さ」と相性がいいからだろう。――町内会の委員から「あなたは金持ちだから倍払ってください」といわれて納得するひとはいないだろう。

定率税は「収入に対して何パーセント」と一律に決める方法で、「フラットタックス」と呼ばれている。新自由主義の経済学者はこの方式を支持することが多いが、現実に導入している国は(たぶん)ない。

とはいえ定率方式は、実社会ではマンションの管理費などで使われている。占有面積1平米に対する金額を決めておけば、ワンルームの管理費は少なく、5LDKは高くなるが、やはり「公平感覚」は満たされるだろう。

それに対して累進課税は、所得が増えるにしたがって支払額が増えていく方式だが、国家が行なうもの以外には例がない(身のまわりでなにか思いつきますか?)。これは累進課税が一般の「公平感覚」からずれていることを示している。――だからこそ正当化が難しいのだ。

それにもかかわらず、日本では昭和49年(1974年)までは所得税の最高税率75%、住民税と合わせると93%とされていた。だがこれは異常というわけではなく、アメリカでも1952年は最高税率が92%だった。だとすればそこにはなにか、みんなが納得する理由があるはずなのだ。

誤解のないように付記しておくと、最高税率(正確には「法定最高限界税率」)90%というのは、所得全額に対して90%が課税されるということではない。累進課税では所得に応じて段階的に税率が上がっていくので、最高税率は基準以上の所得に対してしか適用されない。現行の日本の所得税区分では最高税率は4000万円超の45%だが、これは所得金額が5000万円の場合、4000万円を超えた1000万円分に対して45%の税が課せられるということだ(それ以下の所得は別の税区分になる)。

最高限界税率以外にも、「実効税率」がよく使われる。これは所得に対して実際に支払った税金の割合のことで、日本の個人所得課税の実効税率は32%だ(2018年)。どの国も実効税率は最高税率より低いが、実効税率を長期にわたって国際比較することは困難なので、著者たちは最高税率の推移で代替している。法律上の最高税率と実効税率はほぼ相関するので、全体の傾向を論ずるのに問題はないとされている。

グローバリズム悪玉論は累進課税の根拠にならない

累進課税導入のもっともわかりやすい説明は、「民主政だから」というものだろう。

富の分布は、どのような社会でも富裕層がごく一部で、中流層や貧困層が圧倒的に多くなる。それに対して民主政は一人一票なのだから、経済学が前提するようにひとびとが合理的なら、有権者は富裕層から「搾取」して自分たちに分配させるような政策を支持するにちがいない。これが累進課税、というわけだ。

しかし、それなりに筋の通ったこの理屈はデータによって支持されない。これが正しいとすれば、すべての成人男性に参政権が認められたり、選挙権が成人女性にまで拡大されると、それにともなって最高税率が上がるはずだが、そんなことにはなっていないばかりか、有権者層が拡大すると最高税率が下がるという逆の現象まで起きているからだ。

そのうえこの理屈では、1970年代以降、最高税率が大きく下がっていることを説明できない。ここでよく出てくるのが「民主主義が劣化した」とか「ごく一部の超富裕層によって民主主義が簒奪された」という批判で、アメリカでは「謎の大富豪」コーク兄弟(オバマ政権に反対して結成されたティーパーティーの黒幕とされる)がその動かぬ証拠として名指しされている。

だがシーヴとスタサヴェージによると、こうした「グローバリズムの悪玉」論では最高税率の推移をうまく説明できない。コーク兄弟のいない、より平等な北欧諸国などでも個人所得税の最高税率は大きく下がっているからだ。

著者たちは、累進課税を正当化するのは損得勘定ではなく「公平感覚」だという。それには「支払い能力論」「平等な扱い論」「補償論」がある。

このうち「支払い能力論」は、「年収1億円の富裕層にとっての1ドルの税は、平均的な給与で暮らしている者より犠牲としては小さい」というもので、定額税(人頭税)を批判する強力な論拠を提供する。だがこれでは、定率税(フラットタックス)を擁護できても累進課税を正当化するには力不足だろう。――税率20%のフラットタックスなら、所得1億円のひとの納税額は2000万円で、所得100万円のひとは20万円なのだから、支払い能力を根拠にするならこれでじゅうぶんではないだろうか。

「平等な扱い論」は、国家は国民すべてを無差別に(全員をまったく同じに)扱うべきだとする。だがこれは、定額税(人頭税)にすればいいということではない。所得や家族構成によって、課税によるコスト(損失)は異なるからだ。だとすれば理想的な税制とは、貧乏人でも大金持ちでも課税によって実質的に同じコストを支払う(効用を失う)ように設計すべきだということになる。

これは理屈としては筋が通っているが、国民一人ひとりの効用をどのように計算するのかというやっかいな問題を引き起こす。ここでも、誰もが素直に納得できるのはフラットタックスまでだろう。

なお厚生経済学では、「社会全体の福祉(効用)が最大化するように税制を設計する」という原則を導入することでこの隘路を回避している。だがこうした経済学的な考え方が、有権者大多数の支持を得て政策を動かしているとはいいがたい。

最後に残された「補償論」は、富裕層は一般国民に対してなんからの「負い目」があり、その補償として高い税金を支払っているとする。しかし、お金持ちにはどんな「負い目」があるのだろうか?

強欲だから? 権力と癒着して甘い汁を吸っているから? 運がいいから?

そう考えるひともいるだろうが、これらはどれも有権者を大きく動かすちからにはならない。補償論で累進課税を正当化するには、誰もが直観的に納得できるようなもっとシンプルで強力な理由が必要なのだ。

先進国では累進課税が支持された理由は?

シーヴとスタサヴェージは過去200年間の先進諸国の所得税の法定最高限界税率の推移を観察し、そこに顕著な傾向があることを発見した。最高税率は最初はとても低く、20世紀に入ってから急に上昇し、1970年代以降になるとこんどは下降しはじめたのだ。

「補償論」が正しいとするならば、1900年頃になんらかの大きな出来事があり、それによって最高税率が上昇したが、20世紀半ばを過ぎると影響力を失って税率も下降したことになる。

税に対するひとびとの価値観を大きく変えた「イベント」とはいったい何か? もうおわかりと思うが、それは世界大戦だ。

第一次世界大戦(1914~1918年)は人類がはじめて体験した総力戦で、若者から壮年まで多くの国民(男性)が徴兵され、戦場で生命を失った。1939年のドイツによるポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦はそれをはるかに上回る総力戦で、ナチスによるユダヤ人のホロコーストや広島・長崎への原爆投下、国境変更にともなう膨大な難民の発生などで、兵士だけでなく数千万人の一般市民が生命を落とした。

ところでこの両大戦で、富裕層は一般国民と同じだけの犠牲を払っただろうか?

ヨーロッパで徴兵制が始まった当時は、お金を払って代理を立てることが認められていた。さすがにこれでは士気が保てないということで禁止されたが、それでも貴族の子弟が歩兵となって最前線で戦うようなことは考えられなかった。

だがそれよりも大きな問題となったのは、戦争特需によって大儲けする商人が出たことだ。ほとんどの国民が飢え苦しみ、死んでいくなかで、こんなことが許されていいのだろうか。

この理屈はとてつもなく強力で、反論を許さないものだった。戦争を続行するには巨額の資金が必要だが、国民を大規模に徴兵している国家は、その資金を富裕層から徴税するほかに選択肢がなかった。こうして世界大戦に参戦した国は、いずれも短期間に累進課税の最高税率をとんでもなく引き上げたのだ。

悲惨な戦争が終わると、「国家の失敗の犠牲者は補償されるべきだ」との左派の主張が、有権者に熱狂的に受け入れられた。

ドイツ降伏から2カ月後に行なわれたイギリスの総選挙で、労働党は「彼ら(戦争を勇敢に戦ったすべての国民)は、先の戦争(第一次大戦)後に多くの者が直面したよりも、ずっと幸福な未来を保証される価値があり、また保証されなければならない」と主張して、戦争の英雄であるチャーチル率いる保守党に大勝利を収めた。これはアメリカやフランスだけでなく、敗戦国のドイツや日本でも同じで、きわめて高い累進課税によって国家が富裕層から税を徴収し、それを国民に「補償(再分配)」するのが当然だとされた。

こうして欧米の先進諸国では、20世紀初頭から1950年代にかけて(日本では1970年代まで)最高税率が大きく上昇した。この現象は「福祉国家化」と呼ばれている。

日本で超累進課税が復活する「イベント」

シーヴとスタサヴェージは、世界大戦によってはじめて高率の累進課税は「公平」になったという。この主張が正しいとすれば、20世紀後半になってすべての先進諸国で最高税率が下がりはじめた理由もわかるだろう。

グローバル化やタックスヘイヴンの影響はもちろんあるし(これは法人税率にとりわけ顕著だ)、アメリカなどでは超富裕層が積極的なロビー活動をしていることも間違いないだろう。だがそれだけでは、有権者の価値観を大きく動かすことはできない。

ひとびとが累進課税を「公平」だと感じなくなったもっとも大きな理由は、「国民を動員する総力戦がなくなった」ことだ。平和な時代には富裕層が一般国民に「補償」する正当な根拠はなくなり、世界大戦以前と同様に、税の公平感覚はフラットタックスに近いものになっていくのだ。

もちろんこれは累進課税についてのひとつの仮説で、正しいかどうかは今後、多くの検証が必要になるだろう。だが「総力戦争による“富の徴兵”のみが、20世紀に入ってからの最高税率の逆U字型の推移をもっともよく説明できる」という『金持ち課税』の著者たちの主張には強い説得力がある。

だとすれば、今後の税制はどのようなものになっていくのだろう?

ふたたび大規模な戦争が始まれば、最高税率は上がるのだろうか。だが著者たちは、その可能性は考えられないという。現代の戦争は局地戦で、かつてのように国民を大規模に徴兵して歩兵にする必要はなく、兵士はドローンとロボットに置き換えられていく。そんな戦争をいくらやったところで、国民は富裕層が道徳的に「補償」すべきだとは思わないだろう。

こうして最高税率が下がれば、富裕層と貧困層との格差はますます開いていく。だが、それを「不正」だと声高に主張するだけでは有権者を動員できない。「なぜ格差は不公平なのか?」と問われて、「格差は不公平だから」というトートロジー(同義反復)でしかこたえられないのだから。

200年間の「金持ち課税」を徹底的に調べた二人は、このようにして、累進課税のフラットタックス化と格差の拡大は今後もつづくと予想する。

だが私は、日本の場合、戦争に匹敵する巨大な「イベント」がもうひとつ想定できると考えている。それは「国家破産」だ。

日本の財政が(もしかして)破綻し、日本円が(もしかして)紙くずになり、年金も社会保障も(もしかして)崩壊したときに、日本株の空売りやFX、あるいは仮想通貨への投資でなどで一部の人間だけが大儲けしたとしたら、ひとびとはそれを「不公平」だと感じないだろうか。そのときにこそ、富裕層に対して「補償」を求める超累進課税が復活するかもしれない。――富裕層が日本国内に残っていれば、の話だが。

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