「移民を二級市民にせよ」というリベラルな経済学者の提案

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年10月20日公開の「欧州の排外主義に対する経済学的な処方箋は 「移民への課税」と「二級市民化」だ」です(一部改変)。

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イギリスのEU離脱、トランプ大統領誕生、ヨーロッパで台頭する極右……などを論ずるときに、その背景にある格差の拡大に注目が集まるようになった。セルビア系アメリカ人の経済学者で、世界銀行の主任エコノミストだったブランコ・ミラノヴィッチ(現在はルクセンブルク所得研究センター上級研究員)はグローバルな格差問題の専門家で、「エレファントカーブ」を提唱したことで知られている。

エレファントカーブとは、所得分布を横軸、国民1人あたりの所得の伸びを縦軸にして、1988~2008年の20年間で実質所得がどれだけ伸びたかを示した図だ。

このグラフでは、アフリカなどもっとも貧しいひとたちの所得はまったく増えておらず、これが象の尻尾にあたる。だがそこから実質所得が急速に伸びはじめ、象の巨大な胴体を形成する。これは中国やインドの最貧困のひとたちがこの20年でぞくぞくと中間層の仲間入りをしたことを示している。

だがグラフはそこからまた急速に下がり、グローバルな所得分布で上位30~20%のひとたちの実質所得がほとんど伸びていないことがわかる。象の頭にあたるこの部分にいるのはゆたかな先進国の中間層だ。そして最後に、上位1%の富裕層の実質所得が大きく伸びて、象が鼻を高くもちあげているように見える。

この印象的なグラフで、冷静終焉以降の急速なグローバリゼーションがどのような効果をもたらしたかが“見える化”された。それは以下の4点にまとめられる。

  1. 世界のもっとも貧しいひとたちは、あいかわらず貧しい。
  2. 新興国(発展途上国)の経済発展によって分厚い中間層が形成された。
  3. その反動で、グローバル化に適応できない先進国の中間層が没落した。
  4. 先進国を中心に(超)富裕層の富が大きく増えた。

ミラノヴィッチは、『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』 (立木勝訳、みすず書房)でグローバルな不平等について論じている。そこからは、移民をめぐる昨今の欧米諸国の混乱を受けてリベラルな知識人(経済学者)の考え方が大きく変わってきていることがうかがえる。興味深い議論なので、備忘録も兼ねて、ミラノヴィッチの主張をまとめておきたい。

「グローバリズムが格差を拡大した」はフェイクニュース

論者によって大きく意見が分かれるグローバリゼーションへの評価だが、ミラノヴィチは、先進国で格差が拡大しているのは事実だとしたうえで、世界人口の大きな部分を占める新興国で広範な経済成長が実現したことで、全体としてはグローバルな不平等の水準が下がっているという。このことはデータでも確かめられていて、グローバルなジニ係数は1988年の72.2から2008年の70.5、さらに2011年には約67まで低下している。その結果、産業革命以降でははじめてグローバルな不平等は拡大を停止した。

「グローバリズムが格差を拡大した」と主張するひとが日本にもたくさんいるが、これはフェイクニュースの類だ。実際には、グローバリズムによって世界の経済格差は縮小し、平均的に見れば、世界のひとびとは1980年代よりもはるかにゆたかで幸福になった。まずはこの単純な事実を押さえておこう。

それにもかかわらず、ゆたかな先進国とそれ以外の国で、いまだに深刻な不平等が存在していることはまちがいない。その原因が「グローバリズム」でないとしたら、格差の元凶はいったいなんだろう。

それを知るために、ミラノヴィチは19世紀に注目する。産業革命という“ビッグバン”によって、この時期からグローバルな格差が拡大を始めたのだ。

1820年にはイギリスの1人あたりGDPは2000ドルだったが、100年後の第一次世界大戦前夜には5000ドルちかくまで増加した。一方、中国の1人あたりGDPは同時期に600ドルから550ドルへと減少している(金額はすべて1990年国際ドル)。こうした傾向はそれ以外でも顕著で、19世紀を通じて西ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアの平均所得が着実に増加したのに対し、インドや中国など欧米以外の地域は停滞ないし没落した。

グローバルな不平等を考えるとき、それが同じ国に暮らす個人間(貧しい者とゆたかな者)の亀裂なのか、別々の国に暮らす個人間の亀裂なのかが重要になる。前者は「階級に基づく不平等」、後者は「場所に基づく不平等」だ。

1820年には、場所の要素はほぼ無視できた。グローバルな不平等のうち、各国間の差によるものは20%にすぎず、大半(80%)は各国内の差から生じていた。ゆたかになるために重要なのは「階級」で、ヨーロッパでもロシア、中国、インドでも貧しい者とゆたかな者がいた。

ところがその後の100年でこの関係は逆転し、第一次大戦前にはグローバルな不平等の80%はどこで生まれたか(移民の場合ならどこで暮らしているか)で決まり、社会階級で決まるのは20%になった。

その理由はヨーロッパによるアフリカ、アジアの植民地化で、少数のヨーロッパ人が現地人の数百倍もの所得を得るようになった。欧米先進国では、労働者でも植民地の人びとの大半より高い生活水準を享受していた。「良家」に生まれること(階級)よりもゆたかな国に生まれること(場所)のほうがずっと重要になったのだ。

各国間の不平等のギャップが最高点に達したのは1970年頃で、1人あたりGDPではアメリカ人は中国人の20倍もゆたかだった。だが2010年にはこの比率は4倍未満に縮まって1870年と同じになっている。

「日本」には低スキルの移民しか集まってこない?

ミラノヴィチは、正しい場所(国)に生まれた者には「市民権プレミアム」が与えられ、悪い場所(国)に生まれた者には「市民権ペナルティ」がつくという。市民権プレミアムの大きさは、世界の最貧国であるコンゴを基準として所得の大きさで計測される。

それによれば、(コンゴに対して)アメリカの平均所得は9200%、スウェーデンは7100%、ブラジルは1300%、イエメンは300%だ(日本の1人あたりGDPはアメリカの約7割なので市民権プレミアムは6400%程度)。

このことは、コンゴではなくたまたまアメリカで生まれたというだけで、その人の所得が90倍以上になることを示している。グローバルな不平等の3分の2は、国というひとつの変数だけで(統計学的には)説明できてしまう。

次にミラノヴィチは、それぞれの国のゆたかな10%と貧しい10%に注目して市民権プレミアムを計測した。

それによると、スウェーデンの下位10%の市民権プレミアムは1万400%(平均は7100%)だがブラジルは900%(平均は1300%)だ。一方、スウェーデンの所得分布の上位10%の市民権プレミアムが(貧困層の1万400%から)4600%に縮小するのに対して、ブラジルでは(900%から)1700%にまで拡大している。

なぜこのようなことになるかというと、それぞれの国で経済格差の実態が異なるからだ。

スウェーデンのような福祉国家は富裕層と貧困層の格差がそれほど大きくないが、コンゴのような最貧国は格差が大きい。その結果、スウェーデンの貧困層はコンゴの貧困層より100倍もゆたかだが、富裕層は47倍しかゆたかではない。一方、中進国で格差の大きいブラジルの富裕層はコンゴの富裕層の18倍もゆたかなのに、貧困層は10倍しかゆたかではない。

グローバルな経済格差の歪みは、平等な福祉国家にとってやっかいな問題を引き起こす。

スウェーデンとアメリカの平均所得が同じだとすれば、(所得分布が相手国の底辺部分に入る)貧しい移民希望者はアメリカよりもスウェーデンを目指すべきだ。なぜならスウェーデンの貧しいひとたちの方が、(平均的には)アメリカの貧困層よりずっと大きな市民権プレミアムをもっているのだから。

しかしこの移民希望者が相手国の所得分布の上位部分に入れる見込みがあるなら、貧富の格差の大きなアメリカを目指すべきだということになる。アメリカの富裕層の市民権プレミアムは、スウェーデンの富裕層よりずっと大きのだから。

国ごとに市民権プレミアムの分布が異なっていると、発達した社会保障制度のある福祉国家は所得分布の底辺部分に入る低スキルの移民を引きつけ、教育程度が高く能力に自信のある移民は格差の大きな国を目指そうとする。

もちろん、移民希望者が移住先を決めるのは経済格差だけではない。ほかの条件が同じなら、不平等でも流動性が高い社会、すなわち最底辺から中流へと階段を上っていきやすい国の方が魅力的あることはまちがいない。

この議論は私たちにとっても示唆的だ。平等性が高く、年金や健康保険などの社会保障制度が整い、社会的流動性が低い国に集まってくるのは低スキルの移民だけだとすると、この条件をもっとも満たす国はいうまでもなく日本だからだ。日本は移民に対して「鎖国」していると批判されるが、高いスキルをもつ優秀な移民に見捨てられている以上、この政策は必然なのかもしれない。

移民を完全に自由化すると世界はアメリカのようになる

グローバルな不平等は是正すべきだと(一般論では)誰もが思うだろう。だがそれはどのようにして実現できるのか。

ひとつは、今後も新興国の経済成長率が先進国を上回ることだ。そうなればいずれは、中国やインドの1人あたりGDPが欧米や日本に並ぶようになるだろう。実際、1970年代まで世界の最貧国だった韓国の1人あたりGDPはいまや日本とほぼ同じになった。

これは平等を求めるひとたちにとってよい知らせだが、すべての国が高い経済成長を実現できるわけではない。だとしたら、アフリカや中東などの「破綻国家」に生まれた貧困層は、どのようにして不平等を克服すればいいのだろうか。

その方法が「移民」しかないことは明らかだ。

現在、世界の移民(現在居住している国で生まれていない者と定義する)の総数は推定約2億3000万人で、世界人口の3%強にあたる。移民の総数は1990年から2000年までは年間平均1.2%の割合で増加し、2000年以降は年間2.2%に加速している(統計があるのは2013年まで)。この2.2%という数字は、世界人口の増加率の約2倍だ。

ギャラップ社が2008年から実施している調査によれば、別の国への移住を望んでいる者が約7億人(世界人口の10%、成人の13%)いるという。実際の移民総数は世界人口の3%だが、潜在的な総数は16%ということになる。

このことをよりわかりやすくイメージしてみよう。

世界人口に占める移民人口の割合は、現時点ではフィンランドとほぼ同じだ。もし潜在移民がすべて移住したら、世界はむしろアメリカと似た状況になる。移民を自由化すれば世界の姿が劇的に変わることがわかるだろう。ほとんどの国は、このような変化に耐えられないにちがいない。

だからといって、たまたま貧しい国に生まれたひとだけが「市民権ペナルティ」を払う現状が正義にもとることも否定できない。これが現代のリベラルな社会が抱えた深刻な「道徳問題」だ。

ミラノヴィチは、移民政策の矛盾として以下の4つを挙げる。

  1.  各国の市民には自国を離れる権利があるのに、ふさわしいと思う場所へ移っていく権利はない。
  2.  グローバル経済では、生産、商品、技術、アイデアといったさまざまな要素の自由な移動が奨励されながら、労働力の移動の権利だけが厳しく制限されている。
  3.  経済学における所得最大化の原理では、各人には自分の労働力と資本をどこで、どのように使うかを自由に決める権利があることが前提となっているのに、その原理は個々の国民国家のみに適用されて、グローバルには適用されていない。
  4.  自国内で人間開発を行なう開発概念は広く認められているのに、居住する国家とは無関係に、個人の立場の向上に力点を置く普遍的な開発概念は認められていない。

ニューヨーカーとアマゾンの部族にあいだには所得や生活水準に巨大なギャップがあるが、両者の生活を比較して「格差」を論じても意味はない。その一方で、同じ文明圏に属し互いに接触のある者どうしに経済格差があれば、たとえそれが「巨大なグローバルギャップ」より小さなものであっても、政治的な緊張関係は悪化する。

グローバル化というのは、身分や国籍、宗教、文化の壁を取り払って世界じゅうのひとびとがより近づくことでもある。これはたしかに素晴らしいことだが、貧困層が(下層)中流層になって格差が縮小すると両者の「接触」が増し、政治的な緊張が逆に高まることになる。これこそが、アメリカの人種問題やヨーロッパの移民問題で起きていることなのだ。

福祉国家には国民の民族的・文化的な均質性が必要

ミラノヴィチは、移民はグローバリゼーションの一部で、人間の移動は、経済学的には商品や技術の移動、あるいは資本の移動と変わらないと述べる。

問題は、ヨーロッパ大陸が長いあいだ移民を送り出す側で、アメリカやカナダ、オーストラリアのように移民の流入に対処した経験がないことだ。そのうえヨーロッパの国民国家は、歴史的に見て民族が均質だった(あるいはフランスやドイツのように、中央政府の政策を通じて均質化された)。

文化的・規範的に均質な社会に宗教や文化、人生観が異なる移民が流入すると、生え抜きの国民と移民とのあいだに交流は生まれず、「民族ゲットー」が形成され、この「隔離」は世代を経ても変わらない。これがヨーロッパを苦しめる問題だが、その構図はアメリカの人種問題とよく似ている。

近年、経済学者のなかに、「福祉国家が成立するには、国民が民族的・文化的に均質だという前提が必要だ」との主張が強まっている。均質性はひとびとのあいだの親近感を増すだけでなく、ひとびとが(自分と同様に)社会規範を遵守していると思わせてくれる。年金を受け取るために年齢をごまかしたり、どこも悪くないのに病気休暇を取ったりする者がいなければ、福祉国家は持続していける。逆に、そういう基準を守らない者がいたら、福祉国家はすこしずつ崩れていく。

アメリカでは奴隷制が社会に深く組み込まれていたため、もともと白人と黒人のあいだに親近感が成立していなかった。これがヨーロッパが福祉社会化し、アメリカがネオリベ的な社会になっていった理由だ。

ところがそのヨーロッパで、移民が社会の大きな割合を占めたことで親近感の喪失が進み、それが福祉社会を動揺させて「極右」による排外主義が台頭している。このやっかいな事態にどう対処すればいいのだろうか。

特効薬はないとしても、経済学的な処方箋を提示することはできるとミラノヴィチはいう。それは、「移民への課税」と「二級市民化」だ。

標準的な経済学では、自由貿易は特定の労働者集団に悪影響があるとしても、ぜんたいとしてはひとびとの厚生(幸福度)を高めるとする。だとすれば貿易を禁止するのではなく、自由貿易を許容したうえで、一部の労働者が被るネガティブな影響を富の移転によって緩和すればいい。

ミラノヴィチは、この枠組みは移民問題でも同じだという。まず移民を認め、そのうえで負の影響(移民の流入で地元労働者の賃金が下がるなど)があったら、それを補償すればいい。その財源は、移民によって利益を得る当事者、すなわち移民自身が支払うことになる。

リベラルな社会では、国籍による差別(移民規制)は許容されるものの、ひとたび移民を受け入れれば(市民権を取得すれば)国民国家内でのあらゆる差別は許されない。だがこの極端な硬直性が、問題の解決を妨げているのではないだろうか。

移民希望者は、たとえ差別的な扱いをされても、母国にいるよりも経済状況が改善すると考えるからこそ移民しようとする。こうした移動によってグローバルな貧困が削減されるのだから、これは世界全体にとってもよいことだ。そう考えれば、移民を促進するために受け入れ国で何段階かの「市民権」を法的に導入し、移民を「合法的に」差別することも認められるのではないか。

具体的には、移民によって送り出し国と受け入れ国の両方で特定階層の所得が下がる可能性があるのだから、移民にそれを補償する税を要求する。あるいは、移民に対して一定の年齢になるまで定期的に、定められた年数を出身国で働くよう義務づけたり、一時雇用に限定して受け入れたりする(これは現実にスイスが実施している)。

こうした限定的な開放政策によって、移民は職場で、また市民権に関して差別に直面するだろうが、それでも彼らにとってはゆたかな国に移民したほうが母国にいるより有利だし、グローバルな格差の解消にとっても有益なのだ。

これは、国家の開放性と市民権のあいだにきびしいトレードオフがあるということでもある。

すべての移民希望者に一般市民と同じ権利を付与しようとすれば、排外主義と「極右」の台頭を招くことになる。開放的な移民政策をとろうとすれば、市民権を一定程度制限するほかはない。

グローバルな不平等が理不尽だと思うなら、移民の市民権を制限するという「より小さな理不尽」を受け入れるべきだ。――これが現代の“リベラル”な経済学者の提言だが、リベラルを自称するひとたちはどう考えるだろうか。

禁・無断転載

ウクライナ紛争をどのように終わらせるのか 週刊プレイボーイ連載(565)

G7広島サミットはウクライナのゼレンスキー大統領が急遽参加し、世界の注目を集めました。その意味では成功といえるでしょうが、ウクライナの置かれた状況を考えれば、ゼレンスキーがたんなる儀礼のために訪日したわけではないとわかります。

ロシアがウクライナに進行してから、すでに1年が過ぎました。当初は1~2週間でキエフが陥落し、ロシアが傀儡政権を立てると予測されていたことを思えば、ウクライナの抵抗には驚嘆すべきものがありますが、それも欧米の支援があってこそです。ただし、この戦争をどのように終わらせるかについては、まったく目途がたっていません。

これまで明らかになったことは、ロシアにはウクライナ全土を占領するほどの軍事力はないものの、欧米による経済制裁の効果は限定的で、戦争の長期化にも耐えられることです。それに対してヨーロッパは、ロシアからの天然ガス供給が滞ったことで光熱費が高騰し、物価高に抗議するデモで政権が動揺しています。中国の景気回復で今年の冬にさらなるエネルギー資源の逼迫が起これば、もともとプーチンに親近感を抱いていた欧州のポピュリストは、ウクライナ支援はもう十分だといいだすかもしれません。

バイデン政権はロシアと中国を“仮想敵”として国内をまとめようとしているため、ウクライナへの武器供与を継続するでしょうが、来年秋の大統領選の結果如何ではそれもどうなるかわかりません。トランプが復活するようなことがあれば、「アメリカファースト」を掲げてウクライナ支援から手を引くかもしれないからです。

さらに、頼みの綱のバイデン政権も、ウクライナがロシア本土を攻撃することはもちろん、クリミアやドンバスを奪還することまで望んでいるとは思えません。ロシアが核兵器を保有しているからで、追い詰められたプーチンが戦術核を使用して形勢を逆転しようと試みれば、なんらかの対処をせざるを得なくなります。とはいえ、ロシアへの軍事的な懲罰は、世界最終戦争(人類の滅亡)の引き金になる可能性があり、選択肢は限られています。

そのように考えれば、現状のまま戦況を膠着状態にして、ロシアの実効支配を事実上容認するかたちで休戦にもちこむしかなさそうです。いわば朝鮮戦争方式で、両国が名目上は戦争を継続したまま、現状を国境として棲み分けるのです。

もちろんこれでは、一方的に侵略されたウクライナは納得できないでしょうが、休戦と同時に欧米が大規模な経済援助を行なうことを約束し、10年後、あるいは20年後には西欧並みのゆたかさが手に入るという希望をひとびとがもてるようにします。これは荒唐無稽な話ではなく、いまだに世界の最貧国に沈んだままの北朝鮮に対して、韓国の生活水準は先進国に並びました。ウクライナがゆたかになればなるほど、ロシアに実効支配された地域の住民たちは、ウクライナへの併合を求めるようになるでしょう。

これがもっとも現実的なプランに思えますが、それを実現するためにも、ウクライナはあと数年は欧米の軍事支援をつなぎとめる必要があります。ゼレンスキーはこれからも、世界を駆け巡ってウクライナの苦境をアピールし続けなくてはならないでしょう。

『週刊プレイボーイ』2023年6月5日発売号 禁・無断転載

コロンビア大学黒人名物教授はなぜ「ドラッグ合法化」を主張するのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年3月30日公開の「コロンビア大学黒人名物教授が提言する ”「ドラッグの非犯罪化」による黒人の救済”」です(一部改変)。

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今回は名門コロンビア大学の名物教授カール・ハートの『ドラッグと分断社会アメリカ』(寺町朋子訳、早川書房)を紹介したい。

ハートがなぜ「名物」なのかというと、本人も認めるように、彼がアメリカの黒人のなかではきわめて数少ない心理学教授だからだ(同様に経済学の教授も少なく、数学や物理学などではもっと少ない)。

そのうえハートはレゲエミュージシャン、ボブ・マーリーのような奇抜なドレッドヘアでテレビなどにも積極的に登場し、きわめて過激な主張をしている。それは「マリファナなどソフトドラッグだけでなく、コカインのようなハードドラッグも非犯罪化・合法化すべきだ」というものだ。

『ドラッグと分断社会アメリカ』はふたつのパートから構成されている。ひとつはフロリダの典型的な黒人居住区に育ち、バスケットボールとラップに夢中の10代を過ごしたハートが、友人たちが次々とギャングスターになっていくなかで、いかにしてアカデミズムで成功したかを回顧した半生記、もうひとつはハートの専門である神経精神薬理学の知見から「根拠に基づいた」薬物政策への提言だ。

アメリカにおいては、子ども時代にどんなに賢くても黒人が社会的に成功することは容易ではない。そんななかでハートは、高校卒業後、軍隊に志願したことで大学入学資格を得、数々の差別に耐えて学問の世界に踏みとどまった。その体験は興味深いが、それは本をお読みいただくとして、ここではドラッグに対するハートの主張に焦点を当ててみたい。

クラック・コカインという「悪魔」

ハートが本書で取り上げるドラッグは、日本ではあまり馴染みのない「クラック・コカイン」だ。これは化学的には「粉末コカイン(コカイン塩酸塩)から塩酸を除去したコカイン塩基だけの化合物」と説明される。

粉末コカインとクラック・コカインは化学構造がほぼ同じで人体に対する効果も変わらないが、使用方法が大きく異なる。

神経精神薬(ドラッグ)が効果を及ぼすためには、血管に注入された化学物質が脳に到達する必要がある。このとき、薬物が早く脳に到達するほど強い薬理作用が現われる。

南米にはコカの葉を噛む風習があるが、こうして摂取された少量のコカインは小腸の壁を通って血流に入る(アルコールと同じく、満腹では薬物の吸収が遅れるので薬理作用が現われるのも遅くなる)。小腸から吸収されたコカインはその後、肝臓を通過することになるが、肝臓は口から入った毒物を解毒し脳を保護するための酵素を生産している。その効果でコカインが分解され薬理作用が大幅に弱められるのが「初回通過代謝」で、ドラッグユーザーはこの効果を知っていて薬物を錠剤やカプセルとして経口摂取することを好まない。

一方、鼻から吸引されたコカインの粉末は肝臓を迂回することができる。アメリカ映画では粉末コカインを細かく砕いて鏡などの上に線(ライン)を引き、ストローなどで吸引する場面がよく出てくるが、これだと薬理作用を感じるまでに5分くらいしかかからない(口から摂取すると30分ほどかかる)。

鼻からの吸引よりももっと効果が高いのは静脈注射で、血液中に注入されたコカインは心臓を通過してすぐさま脳に運ばれるためほぼ即座に精神高揚作用が現われる。だが静脈注射は心理的にハードルが高いし、汚染した注射器や減菌していない器具の使いまわしによってエイズなどに感染する恐れもある。

それに対してコカインを喫煙できれば、血管を介して病気に感染する危険を避けつつ、静脈注射と同じくらい早く薬物を脳に到達させることができる。肺は表面積が大きいので、喫煙するとたくさんの血管によって薬物が血中からすばやく脳に運ばれるのだ。

粉末コカインを喫煙できるまで過熱すると、分解して効果がなくなってしまう。だが塩酸を除去したクラック・コカインは気化する温度でも安定しており、喫煙によっても粉末コカインを注射したときと同じくらい効果的な作用が得られる。

それまで粉末コカインは、ウォール街などの金持ちの白人(ヤッピー)の嗜好品とされ、黒人はほとんど手を出さなかった。だがマリファナと同じように喫煙できて効果の高いクラック・コカインは、ラップやヒップホップを通じて黒人の若者たちのあいだに急速に広まっていく。

クラック・コカインが登場するのは1980年代はじめだが、当時は科学者もその薬理作用を正確に理解しておらず、新奇な薬物の蔓延を目の当たりにしてアメリカ社会はパニックに陥った。こうして「クラック・コカインの悪魔視」が始まったのだとハートはいう。

黒人の大量投獄は黒人政治家が主導した

1914年の『ニューヨーク・タイムズ』には、「コカイン『中毒』の黒人は南部の新たな脅威」と題された、医師が執筆した次のような記事が掲載されている。

黒人のほとんどは貧しく、読み書きができず、怠惰である……いったん薬物の常用癖ができてしまったら、更生の見込みはない。黒人を薬物に近づけない唯一の方法は収監である。ただし、これは一時しのぎの策にすぎない。なぜなら、釈放された黒人は、かならずまた常用するからだ。

[コカイン]はほかにも、「中毒者」をとくに危険な犯罪者に変えるいくつかの病的状態を生じる。このような病的状態のひとつが、ショックに対する一時的な免疫である。「強烈な一撃」、つまり致命傷に対する耐性ができるのだ。正気の人間は、弾丸が急所に当たったらその場で倒れるのに、「中毒者」は弾丸でも阻止できない。

コカインは黒人を凶悪な「ゾンビ」に変えるのだから、中毒者を射殺するには威力のある弾丸が必要だと保安官たちは断言した。専門家たちは議会で「南部の白人女性に対する攻撃のほとんどは、コカインの乱用で異常な精神状態をきたした黒人による直接的な結果だ」と証言した。その結果1914年に、実質的に薬物を禁止する「ハリソン麻薬税法」が成立する。

これと同じことが70年後に、今度はクラック・コカインで起こったとハートはいう。だがそこには、ひとつ大きなちがいがあった。1910年代は白人がコカインを使う黒人を悪魔視したが、1980年代は白人と黒人がともに、クラック・コカインを悪魔視したのだ。

1986年6月、大学バスケットボールのスター選手レン・バイアスがクラック・コカインの喫煙によって死亡したと報じられると、集団ヒステリーはさらに激しくなった。だがこの22歳の選手は、じつが粉末コカインを使っていたことがわかった。

同じ月に全米プロフットボールリーグ(NFL)クリーヴランド・ブラウンズのディフェンシブバックで23歳のドン・ロジャーズが死亡し、やはりコカインが原因とされた。2人の若いスポーツ選手が絶頂期にあいついで亡くなったことで、一般市民はコカインの影響は恐ろしいほど予測がつかないと思い込むようになった。

黒人の公民権活動家ジェシー・ジャクソンは、バイアスの追悼演説で「われわれの文化は、娯楽や気晴らし、逃避のかたちとしての薬物を拒絶しなくてはなりません……クー・クラックス・クランのリンチよりも薬物のせいで多くの命が失われているのです」と語った。

こうして黒人自身が、より多くの警官やより長期間の刑罰を求めはじめ、クラック・コカインを、わが子を手の施しようのない怪物に変貌させる元凶とみなすようになった。これが、クラック・コカインに対する厳罰化の始まりだ。

1986年に制定された反薬物乱用法は、ニューヨーク選出の下院議員(ハーレム出身の黒人)の旗振りで成立したが、5グラムのクラック・コカインを密売したとして有罪判決を受けた者は最低でも5年間服役しなくてはならない。粉末コカインの売買では同等の期間の刑が申し渡されるのは500グラムで、量刑に100倍もの格差がある。

この反薬物乱用法のもとで投獄されたのは、黒人が圧倒的に多かった。たとえば1992年にはその割合は91%、2006年には82%を占めている。

クラック・コカインの影響が過大に報じられたことで黒人社会に恐怖が植えつけられ、黒人政治家の主導で厳罰化が進められた結果、多くの若い黒人が刑務所に送られることになった。皮肉なことに、黒人の若者を犯罪から守ろうとして、黒人コミュニティは崩壊の危機に瀕してしまったのだ。そしてこれは、本来であれば不要なことだったとハートはいう。なぜなら粉末コカインとクラック・コカインは、薬理学的な効果としてはまったく同じものなのだから。

薬物依存は犯罪を増やさない

ドラッグ依存症者(ジャンキー)で私たちが真っ先に思い浮かべるのは、脳の快楽中枢に電極を埋め込まれ、ドーパミンの放出を求めて食事もせずにひたすらレバーを押しつづけるラットだろう。だがこのあまりに有名な「快楽=ドーパミン仮説」は、科学的には正確とはいえないとハートはいう。

まず、ドーパミンは心地よい状況でのみ放出されるのではなく、ストレスのたまる経験や、嫌な経験をしているときにも放出されることがわかった(電気ショックや、痛みや嫌な体験の前兆となる合図で動物にストレスを与えると、ドーパミンの濃度が上がる)。

さらに、ドーパミンを遮断すると、動物はコカインなどの薬物の自己投与をやめるが、ヘロインの場合はこうした効果は見られない。もしドーパミンが脳における唯一の快楽の源なら、快楽を産むどんな薬物の自己投与もやむはずだ。

アンフェタミン(覚醒剤)の化学式をすこし変えるとメタンフェタミンになり、ドーパミンの放出を増やし活力を増進して注意力や集中力を高める効果があるが、この薬理作用はADHD(注意欠陥多動性障害)やナルコレプシーの治療薬として広く使われている。そして患者の大多数は、依存症にならない。

もしドーパミンの濃度上昇をともなう快感のみが依存症を引き起こすならば、「リタリン」などの商品名で処方されるメタンフェタミンを服用した患者がなぜ依存症にならないかを説明できない。脳の活動はきわめて複雑で、まだわかっていないことのほうが多いにもかかわらず、それを過度に単純化することで非科学的な誤解が広まるのだ。

さらに、「薬物依存は犯罪を増やす」という定説も疑わしい。たしかに薬物依存と犯罪には関係があり、住居侵入や窃盗、強盗といった犯罪にかかわる者は、そのような罪を犯さない者より薬物依存症である可能性が高い。しかし薬物依存者の半数はフルタイムで雇われており、多くの者が薬物に関連する罪をいちども犯さないことも統計的に確かめられている。

アメリカ司法省司法統計局が受刑者における薬物と犯罪のつながりを1997年から2004年までのデータで分析したところ、薬物の影響下で罪を犯した者は3分の1にすぎず、薬物依存者もやはり3分の1程度だった(大半の受刑者は、罪を犯したときは素面だった)。薬物を買う金ほしさに犯行に及んだ者は受刑者のうち17%で、投獄される前の1カ月間に薬物を使った者は少なかった。

またニューヨーク市で1988年に起きた2000件ちかいすべての殺人事件を調査したところ、逮捕者の76%でコカインの陽性反応が出たものの、殺人事件の約半数は薬物とまったく関連がないことが判明した。依存者がクラック・コカインを買おうとして殺人を犯したのはわずか2%で、犯行前に薬物を使った者が殺人を犯したのは1%にすぎなかった。

これらのデータからハートは、薬物と暴力犯罪のほんとうのつながりは薬物取引で生み出される利益にあると考えた。1988年にニューヨーク市で起きた殺人の39%はたしかに薬物取引と関連があったが、ほとんどは薬物販売の縄張り争いや売人間の強盗によるものだった。クラック・コカインが「非暴力的だった人間を凶暴な殺人者に変貌させる」という巷間に流布したイメージは、過剰な報道による恐怖が生み出した幻想なのだ。

ドラッグを使用してもほとんどのひとは依存症にならない

ここからハートは、さらに過激な方向へと議論を進める。「多くのひとは、コカインなどのハードドラッグを使用しても依存症になることはない」と主張するのだ。しかし、ドーパミンの快楽を得るために狂ったようにレバーを押しつづけるラットはどうなるのだろうか。

「それは、ラットをケージのなかの特殊な環境に置いているからだ」とハートはいう。人間に似てラットはきわめて社会的な動物なので、独りぼっちにされると強いストレスを受ける。こうした孤独な状態が、薬物研究で用いられるラットの「通常」の条件なのだ。

では、ふつうに生活するラットは薬物に対してどのような反応を示すのだろうか。カナダの心理学者ブルース・アレクサンダーはこの疑問にこたえるために、ラットパークをつくってみた。そこには社会的接触や交尾の相手となるラットがたくさんおり、探索しがいのある場所や運動玩具、落ち着ける暗い場があり、モルヒネ入りの甘い水も置かれている。

ラットパークのラットと通常の孤立したケージのラットを比較すると、孤立したラットはすぐにモルヒネ水を飲むことに没頭したが、ラットパークのラットははるかに少ない量しか飲まなかった。――条件によっては、孤立したラットは社会生活を送るラットの20倍もモルヒネ水を飲んだ。

コカインやアンフェタミンについても同じような結果が出ているとしたうえでハートは、「社会的な接触や性的接触、快適な生活環境といった自然な報酬――「代替の強化刺激」――が手に入るばあい、健康な動物はたいてい代替の強化刺激を好む」という。動物でも人間でも、薬物ではない代替の強化刺激に手が届けば薬物使用が減る証拠がいまでは数多く得られているのだ(94%のラットが、コカインの静脈注射よりサッカリンで味をつけた甘い水を好んだ。アカゲザルを用いた実験では、コカインの代替報酬として提供される食べ物の量に応じてコカインを摂取する選択回数が減った)。

しかし動物実験をどれほど繰り返しても、「ドラッグに手を出したひとの多くは依存症にはらない」という仮説を証明することはできない。そこでハートは、人間にドラッグを投与して、環境と依存症の関係を調べることを思いつく。しかし、こんな人体実験が許されるのだろうか。

ハートはまず、ニューヨークの情報週刊紙『ヴィレッジ・ヴォイス』に広告を出してクラック・コカイン常習者を募集した。そのうえで彼らが、コカインと他の報酬(5ドルの現金引換券か商品引換券)を比較して、どのような条件でコカインを選択するかを調べた。

参加者がコカインか引換券をもらうためには、パソコンのキーボードのスペースキーを200回押す必要があった。だがこのとき「ジャンキー」と呼ばれる彼らは、脳の「快楽中枢」に電極を埋め込まれたラットのように、コカインの誘惑のために狂ったようにスペースキーを叩きつづけるようなことはしなかった。

ハートはこの実験結果を、おおよそ次のようにまとめている。

  1. 報酬としてのコカインの量が多いときは、薬物常用者はほとんどの場合、引換券よりもコカインを選択した。
  2. 報酬のコカインの量が少ないときは、薬物常用者はしばしば引換券を選択した。
  3. 引換券が商品ではなく現金の場合、コカインを選択した回数が平均で2回少なかった。

この結果からハートは、人間の行動はおおかた、自分の環境のなかでどんな報酬を得るかによって決まり、薬物常用者も一般人と同様に、ごくふつうの生活環境ではドラッグとそれ以外のインセンティブを比較し合理的に選択していることを発見した。

当然のことながら、この主張はアメリカで大きな論争を引き起こした。ドラッグの害は一般に思われているよりも軽微で、多くのひと(約9割)はドラッグを使っても依存症にならず、依存症になったとしても、他の強化刺激を与えるなどの心理療法によって治療可能だというのだから(実験では、適切な介入を受けた被験者の68%が8週間にわたって薬物に手を出さなかった)。

ドラッグの合法化で黒人の若者が救われる

ハートによれば、薬物依存のリスクがもっとも高い集団であるティーンエイジャーでも、クラック・コカインの使用者はこれまで5%以下にとどまっている(薬物を入手できる環境でも、95%の若者は手を出さない)。依存症になるリスクは、大人になってから薬物を使い出した場合よりも、青年期初期に使い出した場合の方がはるかに高いが、高校最上級生でもコカインを日常的に使う割合が0.2%を超えたことはない(ドラッグを経験した若者のうち、常用者になるのはわずかしかいない)。

それにもかかわらず、「科学的には間違った前提にもとづいて」クラック・コカインに過剰な刑罰を課したために、ドラッグの密売を手がける黒人の若者が壊滅的な被害を被っている。

アメリカのある大規模な研究では、1990年から2005年までにはじめて少年司法制度にかかわった10万人ちかいティーンエイジャーのうち、57%が黒人だった。男性が圧倒的に多く、平均年齢は15歳で、ほとんどは薬物がらみの犯罪か暴行の容疑で逮捕されていた。

この研究によれば、初犯内容の凶悪さに関係なく、投獄されたティーンエイジャーのほうが、同種の犯罪をおかしても投獄されなかったティーンエイジャーよりも、大人になってからふたたび投獄される可能性が3倍あった。カナダの同様な大規模研究では、ティーンエイジャーのときに実刑判決を受けた者は、似たような罪を犯しても投獄されなかった者に比べて、大人になってから逮捕される可能性が37倍もあった。

こうしてハートは、「問題を抱えたティーンエイジャーたちをまとめて、両親もそばにおらず、スポーツ界や学術界で成功することをめざす同世代の仲間もほとんどいない環境に隔離することは、彼らをさらに悪い犯罪行為に走らせる傾向がある」との結論に達した。「不良」の烙印を押されたうえ、犯罪行為にかかわることでしか男らしさやアイデンティティを確認できないと感じる仲間とつき合うことで、将来に犯罪を引き起こす危険性は大幅に増すのだ。

こうした理不尽な事態に対して、冒頭に述べたように、ハートは「ドラッグの非犯罪化(合法化)」を提言する。ドラッグの売買を罪に問うことがなくなれば、黒人の若者の多くが収監を免れ、人生を棒にふらなくてもよくなるし、社会にとっても将来の犯罪者が大幅に減るという利益を享受できるのだ。

ハートの提言に納得できるかどうかは別にして、これがドラッグに対する旧来の常識を覆す興味深い指摘であることは間違いないだろう。もっとも、ドラッグ=悪という常識が固定化した社会でドラッグの合法化を唱えれば、強い批判を浴びることも間違いない。

だったらなぜハートは、有名大学の教授職にありながら、このような茨の道を歩むのだろうか。

じつはハートは、15歳のときに16歳のガールフレンドを妊娠させている。ハートはそのことをまったく忘れていた(あるいは気づいていなかった)が、ハートが有名人になったことを知って、そのガールフレンドが父親の責任を問う訴訟を起こした。

こうしてハートは、21歳になる「見知らぬ息子」と対面することになる。ぎこちない対面のあと、ハートは息子に「それで、なんの仕事をしてる?」と尋ねた。

「笑わせんなよ。知ってんだろ」と息子はいった。「薬を売ってんのさ」

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