ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2017年10月20日公開の「欧州の排外主義に対する経済学的な処方箋は 「移民への課税」と「二級市民化」だ」です(一部改変)。
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イギリスのEU離脱、トランプ大統領誕生、ヨーロッパで台頭する極右……などを論ずるときに、その背景にある格差の拡大に注目が集まるようになった。セルビア系アメリカ人の経済学者で、世界銀行の主任エコノミストだったブランコ・ミラノヴィッチ(現在はルクセンブルク所得研究センター上級研究員)はグローバルな格差問題の専門家で、「エレファントカーブ」を提唱したことで知られている。
エレファントカーブとは、所得分布を横軸、国民1人あたりの所得の伸びを縦軸にして、1988~2008年の20年間で実質所得がどれだけ伸びたかを示した図だ。
このグラフでは、アフリカなどもっとも貧しいひとたちの所得はまったく増えておらず、これが象の尻尾にあたる。だがそこから実質所得が急速に伸びはじめ、象の巨大な胴体を形成する。これは中国やインドの最貧困のひとたちがこの20年でぞくぞくと中間層の仲間入りをしたことを示している。
だがグラフはそこからまた急速に下がり、グローバルな所得分布で上位30~20%のひとたちの実質所得がほとんど伸びていないことがわかる。象の頭にあたるこの部分にいるのはゆたかな先進国の中間層だ。そして最後に、上位1%の富裕層の実質所得が大きく伸びて、象が鼻を高くもちあげているように見える。
この印象的なグラフで、冷静終焉以降の急速なグローバリゼーションがどのような効果をもたらしたかが“見える化”された。それは以下の4点にまとめられる。
- 世界のもっとも貧しいひとたちは、あいかわらず貧しい。
- 新興国(発展途上国)の経済発展によって分厚い中間層が形成された。
- その反動で、グローバル化に適応できない先進国の中間層が没落した。
- 先進国を中心に(超)富裕層の富が大きく増えた。
ミラノヴィッチは、『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』 (立木勝訳、みすず書房)でグローバルな不平等について論じている。そこからは、移民をめぐる昨今の欧米諸国の混乱を受けてリベラルな知識人(経済学者)の考え方が大きく変わってきていることがうかがえる。興味深い議論なので、備忘録も兼ねて、ミラノヴィッチの主張をまとめておきたい。
「グローバリズムが格差を拡大した」はフェイクニュース
論者によって大きく意見が分かれるグローバリゼーションへの評価だが、ミラノヴィチは、先進国で格差が拡大しているのは事実だとしたうえで、世界人口の大きな部分を占める新興国で広範な経済成長が実現したことで、全体としてはグローバルな不平等の水準が下がっているという。このことはデータでも確かめられていて、グローバルなジニ係数は1988年の72.2から2008年の70.5、さらに2011年には約67まで低下している。その結果、産業革命以降でははじめてグローバルな不平等は拡大を停止した。
「グローバリズムが格差を拡大した」と主張するひとが日本にもたくさんいるが、これはフェイクニュースの類だ。実際には、グローバリズムによって世界の経済格差は縮小し、平均的に見れば、世界のひとびとは1980年代よりもはるかにゆたかで幸福になった。まずはこの単純な事実を押さえておこう。
それにもかかわらず、ゆたかな先進国とそれ以外の国で、いまだに深刻な不平等が存在していることはまちがいない。その原因が「グローバリズム」でないとしたら、格差の元凶はいったいなんだろう。
それを知るために、ミラノヴィチは19世紀に注目する。産業革命という“ビッグバン”によって、この時期からグローバルな格差が拡大を始めたのだ。
1820年にはイギリスの1人あたりGDPは2000ドルだったが、100年後の第一次世界大戦前夜には5000ドルちかくまで増加した。一方、中国の1人あたりGDPは同時期に600ドルから550ドルへと減少している(金額はすべて1990年国際ドル)。こうした傾向はそれ以外でも顕著で、19世紀を通じて西ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアの平均所得が着実に増加したのに対し、インドや中国など欧米以外の地域は停滞ないし没落した。
グローバルな不平等を考えるとき、それが同じ国に暮らす個人間(貧しい者とゆたかな者)の亀裂なのか、別々の国に暮らす個人間の亀裂なのかが重要になる。前者は「階級に基づく不平等」、後者は「場所に基づく不平等」だ。
1820年には、場所の要素はほぼ無視できた。グローバルな不平等のうち、各国間の差によるものは20%にすぎず、大半(80%)は各国内の差から生じていた。ゆたかになるために重要なのは「階級」で、ヨーロッパでもロシア、中国、インドでも貧しい者とゆたかな者がいた。
ところがその後の100年でこの関係は逆転し、第一次大戦前にはグローバルな不平等の80%はどこで生まれたか(移民の場合ならどこで暮らしているか)で決まり、社会階級で決まるのは20%になった。
その理由はヨーロッパによるアフリカ、アジアの植民地化で、少数のヨーロッパ人が現地人の数百倍もの所得を得るようになった。欧米先進国では、労働者でも植民地の人びとの大半より高い生活水準を享受していた。「良家」に生まれること(階級)よりもゆたかな国に生まれること(場所)のほうがずっと重要になったのだ。
各国間の不平等のギャップが最高点に達したのは1970年頃で、1人あたりGDPではアメリカ人は中国人の20倍もゆたかだった。だが2010年にはこの比率は4倍未満に縮まって1870年と同じになっている。
「日本」には低スキルの移民しか集まってこない?
ミラノヴィチは、正しい場所(国)に生まれた者には「市民権プレミアム」が与えられ、悪い場所(国)に生まれた者には「市民権ペナルティ」がつくという。市民権プレミアムの大きさは、世界の最貧国であるコンゴを基準として所得の大きさで計測される。
それによれば、(コンゴに対して)アメリカの平均所得は9200%、スウェーデンは7100%、ブラジルは1300%、イエメンは300%だ(日本の1人あたりGDPはアメリカの約7割なので市民権プレミアムは6400%程度)。
このことは、コンゴではなくたまたまアメリカで生まれたというだけで、その人の所得が90倍以上になることを示している。グローバルな不平等の3分の2は、国というひとつの変数だけで(統計学的には)説明できてしまう。
次にミラノヴィチは、それぞれの国のゆたかな10%と貧しい10%に注目して市民権プレミアムを計測した。
それによると、スウェーデンの下位10%の市民権プレミアムは1万400%(平均は7100%)だがブラジルは900%(平均は1300%)だ。一方、スウェーデンの所得分布の上位10%の市民権プレミアムが(貧困層の1万400%から)4600%に縮小するのに対して、ブラジルでは(900%から)1700%にまで拡大している。
なぜこのようなことになるかというと、それぞれの国で経済格差の実態が異なるからだ。
スウェーデンのような福祉国家は富裕層と貧困層の格差がそれほど大きくないが、コンゴのような最貧国は格差が大きい。その結果、スウェーデンの貧困層はコンゴの貧困層より100倍もゆたかだが、富裕層は47倍しかゆたかではない。一方、中進国で格差の大きいブラジルの富裕層はコンゴの富裕層の18倍もゆたかなのに、貧困層は10倍しかゆたかではない。
グローバルな経済格差の歪みは、平等な福祉国家にとってやっかいな問題を引き起こす。
スウェーデンとアメリカの平均所得が同じだとすれば、(所得分布が相手国の底辺部分に入る)貧しい移民希望者はアメリカよりもスウェーデンを目指すべきだ。なぜならスウェーデンの貧しいひとたちの方が、(平均的には)アメリカの貧困層よりずっと大きな市民権プレミアムをもっているのだから。
しかしこの移民希望者が相手国の所得分布の上位部分に入れる見込みがあるなら、貧富の格差の大きなアメリカを目指すべきだということになる。アメリカの富裕層の市民権プレミアムは、スウェーデンの富裕層よりずっと大きのだから。
国ごとに市民権プレミアムの分布が異なっていると、発達した社会保障制度のある福祉国家は所得分布の底辺部分に入る低スキルの移民を引きつけ、教育程度が高く能力に自信のある移民は格差の大きな国を目指そうとする。
もちろん、移民希望者が移住先を決めるのは経済格差だけではない。ほかの条件が同じなら、不平等でも流動性が高い社会、すなわち最底辺から中流へと階段を上っていきやすい国の方が魅力的あることはまちがいない。
この議論は私たちにとっても示唆的だ。平等性が高く、年金や健康保険などの社会保障制度が整い、社会的流動性が低い国に集まってくるのは低スキルの移民だけだとすると、この条件をもっとも満たす国はいうまでもなく日本だからだ。日本は移民に対して「鎖国」していると批判されるが、高いスキルをもつ優秀な移民に見捨てられている以上、この政策は必然なのかもしれない。
移民を完全に自由化すると世界はアメリカのようになる
グローバルな不平等は是正すべきだと(一般論では)誰もが思うだろう。だがそれはどのようにして実現できるのか。
ひとつは、今後も新興国の経済成長率が先進国を上回ることだ。そうなればいずれは、中国やインドの1人あたりGDPが欧米や日本に並ぶようになるだろう。実際、1970年代まで世界の最貧国だった韓国の1人あたりGDPはいまや日本とほぼ同じになった。
これは平等を求めるひとたちにとってよい知らせだが、すべての国が高い経済成長を実現できるわけではない。だとしたら、アフリカや中東などの「破綻国家」に生まれた貧困層は、どのようにして不平等を克服すればいいのだろうか。
その方法が「移民」しかないことは明らかだ。
現在、世界の移民(現在居住している国で生まれていない者と定義する)の総数は推定約2億3000万人で、世界人口の3%強にあたる。移民の総数は1990年から2000年までは年間平均1.2%の割合で増加し、2000年以降は年間2.2%に加速している(統計があるのは2013年まで)。この2.2%という数字は、世界人口の増加率の約2倍だ。
ギャラップ社が2008年から実施している調査によれば、別の国への移住を望んでいる者が約7億人(世界人口の10%、成人の13%)いるという。実際の移民総数は世界人口の3%だが、潜在的な総数は16%ということになる。
このことをよりわかりやすくイメージしてみよう。
世界人口に占める移民人口の割合は、現時点ではフィンランドとほぼ同じだ。もし潜在移民がすべて移住したら、世界はむしろアメリカと似た状況になる。移民を自由化すれば世界の姿が劇的に変わることがわかるだろう。ほとんどの国は、このような変化に耐えられないにちがいない。
だからといって、たまたま貧しい国に生まれたひとだけが「市民権ペナルティ」を払う現状が正義にもとることも否定できない。これが現代のリベラルな社会が抱えた深刻な「道徳問題」だ。
ミラノヴィチは、移民政策の矛盾として以下の4つを挙げる。
- 各国の市民には自国を離れる権利があるのに、ふさわしいと思う場所へ移っていく権利はない。
- グローバル経済では、生産、商品、技術、アイデアといったさまざまな要素の自由な移動が奨励されながら、労働力の移動の権利だけが厳しく制限されている。
- 経済学における所得最大化の原理では、各人には自分の労働力と資本をどこで、どのように使うかを自由に決める権利があることが前提となっているのに、その原理は個々の国民国家のみに適用されて、グローバルには適用されていない。
- 自国内で人間開発を行なう開発概念は広く認められているのに、居住する国家とは無関係に、個人の立場の向上に力点を置く普遍的な開発概念は認められていない。
ニューヨーカーとアマゾンの部族にあいだには所得や生活水準に巨大なギャップがあるが、両者の生活を比較して「格差」を論じても意味はない。その一方で、同じ文明圏に属し互いに接触のある者どうしに経済格差があれば、たとえそれが「巨大なグローバルギャップ」より小さなものであっても、政治的な緊張関係は悪化する。
グローバル化というのは、身分や国籍、宗教、文化の壁を取り払って世界じゅうのひとびとがより近づくことでもある。これはたしかに素晴らしいことだが、貧困層が(下層)中流層になって格差が縮小すると両者の「接触」が増し、政治的な緊張が逆に高まることになる。これこそが、アメリカの人種問題やヨーロッパの移民問題で起きていることなのだ。
福祉国家には国民の民族的・文化的な均質性が必要
ミラノヴィチは、移民はグローバリゼーションの一部で、人間の移動は、経済学的には商品や技術の移動、あるいは資本の移動と変わらないと述べる。
問題は、ヨーロッパ大陸が長いあいだ移民を送り出す側で、アメリカやカナダ、オーストラリアのように移民の流入に対処した経験がないことだ。そのうえヨーロッパの国民国家は、歴史的に見て民族が均質だった(あるいはフランスやドイツのように、中央政府の政策を通じて均質化された)。
文化的・規範的に均質な社会に宗教や文化、人生観が異なる移民が流入すると、生え抜きの国民と移民とのあいだに交流は生まれず、「民族ゲットー」が形成され、この「隔離」は世代を経ても変わらない。これがヨーロッパを苦しめる問題だが、その構図はアメリカの人種問題とよく似ている。
近年、経済学者のなかに、「福祉国家が成立するには、国民が民族的・文化的に均質だという前提が必要だ」との主張が強まっている。均質性はひとびとのあいだの親近感を増すだけでなく、ひとびとが(自分と同様に)社会規範を遵守していると思わせてくれる。年金を受け取るために年齢をごまかしたり、どこも悪くないのに病気休暇を取ったりする者がいなければ、福祉国家は持続していける。逆に、そういう基準を守らない者がいたら、福祉国家はすこしずつ崩れていく。
アメリカでは奴隷制が社会に深く組み込まれていたため、もともと白人と黒人のあいだに親近感が成立していなかった。これがヨーロッパが福祉社会化し、アメリカがネオリベ的な社会になっていった理由だ。
ところがそのヨーロッパで、移民が社会の大きな割合を占めたことで親近感の喪失が進み、それが福祉社会を動揺させて「極右」による排外主義が台頭している。このやっかいな事態にどう対処すればいいのだろうか。
特効薬はないとしても、経済学的な処方箋を提示することはできるとミラノヴィチはいう。それは、「移民への課税」と「二級市民化」だ。
標準的な経済学では、自由貿易は特定の労働者集団に悪影響があるとしても、ぜんたいとしてはひとびとの厚生(幸福度)を高めるとする。だとすれば貿易を禁止するのではなく、自由貿易を許容したうえで、一部の労働者が被るネガティブな影響を富の移転によって緩和すればいい。
ミラノヴィチは、この枠組みは移民問題でも同じだという。まず移民を認め、そのうえで負の影響(移民の流入で地元労働者の賃金が下がるなど)があったら、それを補償すればいい。その財源は、移民によって利益を得る当事者、すなわち移民自身が支払うことになる。
リベラルな社会では、国籍による差別(移民規制)は許容されるものの、ひとたび移民を受け入れれば(市民権を取得すれば)国民国家内でのあらゆる差別は許されない。だがこの極端な硬直性が、問題の解決を妨げているのではないだろうか。
移民希望者は、たとえ差別的な扱いをされても、母国にいるよりも経済状況が改善すると考えるからこそ移民しようとする。こうした移動によってグローバルな貧困が削減されるのだから、これは世界全体にとってもよいことだ。そう考えれば、移民を促進するために受け入れ国で何段階かの「市民権」を法的に導入し、移民を「合法的に」差別することも認められるのではないか。
具体的には、移民によって送り出し国と受け入れ国の両方で特定階層の所得が下がる可能性があるのだから、移民にそれを補償する税を要求する。あるいは、移民に対して一定の年齢になるまで定期的に、定められた年数を出身国で働くよう義務づけたり、一時雇用に限定して受け入れたりする(これは現実にスイスが実施している)。
こうした限定的な開放政策によって、移民は職場で、また市民権に関して差別に直面するだろうが、それでも彼らにとってはゆたかな国に移民したほうが母国にいるより有利だし、グローバルな格差の解消にとっても有益なのだ。
これは、国家の開放性と市民権のあいだにきびしいトレードオフがあるということでもある。
すべての移民希望者に一般市民と同じ権利を付与しようとすれば、排外主義と「極右」の台頭を招くことになる。開放的な移民政策をとろうとすれば、市民権を一定程度制限するほかはない。
グローバルな不平等が理不尽だと思うなら、移民の市民権を制限するという「より小さな理不尽」を受け入れるべきだ。――これが現代の“リベラル”な経済学者の提言だが、リベラルを自称するひとたちはどう考えるだろうか。
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