イスラーム原理主義のテロの論理とは

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2015年12月3日公開の「ISが「神の名の下に無辜の市民を殺す」論理を
イスラームは、完全否定できるのか?」です(一部改変)。15年11月13日に起きたパリ同時多発テロを受けた書いたものです。

ハマス創設者の長男として生まれ、のちにイスラエルの諜報機関にスパイになった若者の証言を紹介した「イスラエルへのテロを主導する、ハマスとはどのような組織なのか?」も合わせてお読みください。

レピュブリック広場に捧げられたテロ犠牲者への花束(2016年)

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パリ市内でIS(イスラム国)による大規模なテロが起きたことから、イスラームに対する関心がふたたび高まっている。もっともこれはムスリムにとって歓迎すべきことではなく、(私を含む)一般人の関心は「なぜ神の名の下に無辜の市民を殺すのか」に尽きるだろう。

この問いに対して“正統派”のムスリムは、「テロはイスラームの教義ではなく、彼らはムスリムの名をかたっているだけだ」と批判してきた。大多数のムスリムが暴力を否定し、異なる宗教や主義主張の相手とも話し合いで妥協点を見つけようとする合理的(理性的)な平和主義者であることは間違いない。しかし残念なことに、凄惨なテロが「イスラーム」の名で繰り返されると、「無関係」というだけでは説得力を保てなくなる。

ISは“正統派”に対して「自分たちこそが真のイスラームだ」と主張しており、その教義に共鳴してヨーロッパからイラクやシリアに向かう多くの若いムスリムたちがいる。ISの教義がデタラメなら、なぜ“正統派”のウラマー(イスラーム法学者)はそれを論破できないのか。

こうした疑問に答えられる知識人は、日本にはおそらく一人しかない。それがイスラーム法学の権威でムスリムでもある中田考氏だ。

同時多発テロに先立つ2015年1月のシャルリーエブド事件を受けて、中田氏はイスラームについての入門書を何冊か出版している。ここではそれを参考に、テロとジハードについて考えてみたい。

イスラームとヒューマニズムは両立できない

『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)などで中田氏は、「イスラームはムスリムにならなければわからない」と強調している。アッラー(唯一神)への信仰こそがイスラームの根幹で、それを共有せずにクルアーンの字句をいくら解釈しても本質がわかるはずはない。――このような理由から中田氏は、日本の「イスラーム研究者」を(ほぼ)全否定する。なぜなら、ムスリムのイスラーム法学者はいまのところ日本に中田氏しかいないのだから。このように中田氏は、自分が“オンリーワン”であることを巧みに活用している(もちろんそれが悪いわけではない)。

イスラームとはなにか? 中田氏はそれを「神への服従」だという(イスラームの原義は「服従」)。イスラームへの入信の際、「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の2つの章句を唱えるのだが、この章句をこころの底から信じたときに価値観の全面的な転換が起こる。この宗教体験がなければイスラームを語る資格はないし、説明されても正しく理解することはできない、というのが中田氏の立場だ(当然、私にもイスラームを語る資格はない)。

こうした厳しい留保をつけたうえで中田氏は、「神への絶対的な服従」とは、アッラー以外のいかなる権威も認めないことだと述べる。従うべきは神だけなのだから、世俗の権力者はもちろん、カトリックにおける教会のような宗教的な権威もイスラームには存在しない。神の下にひとは平等であり、「いかなる人間の組織にも他者を従属させる権利はない」という“神中心主義”がイスラームの根本原理なのだ。

このことから、イスラームとヒューマニズムが両立できないことがわかる。ヒューマニズムは神の場所に人間を置く「人間中心主義」で、アッラーに対する冒涜以外のなにものでもない。この論理では、当然、「人権」の居場所もないだろう。

またイスラームでは、法人を認めない。法人とは特定の人間集団を「法的なひと」と見なすことだが、イスラーム法では、来世で懲罰を受けることがない「ひと」が存在する余地はない。そうなると「真のイスラーム社会」では会社は法人格を剥奪され、株式市場も廃止され、資本主義は廃棄されるだろう。そのあとにどのような経済が残るかは判然としないが、「権威によってひとを従わせてはならない」のなら、自営業と家族経営の小企業しか存続を許されないのではないだろうか。

さらには、原理主義的なイスラームは近代国家の存在を認めない。国民国家は「国民(民族)が自らの国家を持つ」仕組みだが、部族(民族)主義こそがムハンマドがクルアーンで口をきわめて批判し、打倒しようとしている当のものだ。イスラームは民族を超えた宗教共同体(ダール・アル=イスラーム〈イスラームの家〉)で、国民国家の体裁をとった現在のイスラム諸国は(イランやサウジアラビアを含め)すべてニセモノなのだ。

王権神授説から生まれた主権概念では国家は“神に相当する至高の権利”を持つが、これは唯一神の権威を否定する偶像崇拝以外のなにものでもない。また民主政(デモクラシー)も、“民主的”とされる手続きで選ばれた為政者の決定に国民を服従させる制度だからイスラームとは相容れない。唯一の正しい統治はシャリーア(イスラーム法)によるもので、民主政という「制限選挙寡頭制」の実態は独裁政治と変わらないのだ。

このように原理主義的な立場からは、イスラームは反ヒューマニズム、反人権、反資本主義、反国家、反デモクラシー、反近代ということになる。

イスラームにはテロを批判する論理がない

中田氏は、ヒューマニズムは「人間中心主義」だから反イスラームだという。だとしたら、ヒューマニズムの名のもとにテロを批判してもなんの意味もない。

もちろんイスラームでも殺人は禁じられている。だがこれはすべてのひとに平等に人権が与えられているからではなく、クルアーンに(モーゼの律法にも)「殺すなかれ」と書いてあるからだ。

テロが無差別殺人であれば、それが神の法に反することはいうまでもない。だがISはこれをジハード(聖戦)だと主張していて、クルアーンではジハードは「義務」であると同時に「天国への最短ルート」だから、賞賛されるべきことになる(ジハードで死んだ者は最後の審判を待たずに天国に直行できる)。

卑劣なテロがジハードであるはずはない、と誰もが思うだろう。だが中田氏の論理では、これもまた信仰もたない者の誤解だ。世俗の宗教的権威を否定しているイスラームでは、ジハードかどうか決める者はいないのだ。

むろん多くのウラマーがテロを批判するファトワー(勧告)を出している。しかしISに近いウラマーは、「フランスは空爆によってイスラーム国の一般市民を殺害しており、報復としてフランス市民を殺すのはジハードだ」と主張するだろう。

カトリック教会のような宗教的権威を持たないイスラームでは、ウラマーが異なる見解を述べた場合、いずれの主張が正しいかを客観的に知る方法がない。そうなると、個々のムスリムは誰の見解を「真のイスラーム」と見なすかを自由に決めていい(というか、それ以外にやりようがない)ことになる。このことを中田氏は、「イスラームは人の内心(プライバシー)に干渉しない」と述べる。内心を知るのは神だけで、ムスリム(を名乗る者)の行為をテロだとかジハードだとか、第三者が決めつけることは許されないのだ。

こうして(中田氏のいう)イスラームでは、イデオロギー教育はすべて否定される。シャリーア(イスラーム法)をそのまま実行すると、一人ひとりのムスリムにそれぞれ「正しいイスラーム」があるというアナーキズムになるほかないのだ。――これは、イスラームに複数の教義がある、という相対主義ではない。教えはひとつしかないが、どれが正しいかは神しか知らない(人間には神の真意を知る術はない)のだ。

だがそうなると、イスラームにはテロを批判する論理がなくなってしまう。ISのファトワーを信じてテロ(ジハード)を行なったのはその信徒の「内心の自由」で、神がそれをジハードと認めれば死者は天国に直行し、殺人と見なせば地獄の業火に焼かれる、というだけのことだ。

そのうえ中田氏によれば、イスラームでは無知は罪にならない。偽のファトワーを信じたことが無知によるものであれば、テロの実行犯はアッラーの寛大さによって地獄行きを免れるかもしれない。すべては神の御心次第(インシャラー)なのだ。

イスラームはテロの犠牲者を追悼しない

ムスリムの法学者として中田氏が何冊もの入門書を出したのは、日本にイスラームを布教する、ないしはイスラームに対する正確な知識を伝えるためだろうから、無用な誤解を招く話題を避けるのは当然のことだ。そのため、シャルリーエブド襲撃事件についても、日本人の誘拐・斬首についても直接の言及はほとんどない。

だがテロについての中田氏の立場は、2001年の同時多発テロへの次の一文によく現われている(『イスラーム 生と死の聖戦』集英社文庫)。

ジハード=テロというイメージが広がったのは、いわゆる9.11事件からでしょう。ハイジャックしたジェット旅客機で体当たりして、ニューヨークの世界貿易センタービルを全壊、米国防総省ビルを半壊させた事件は世界中に衝撃を与えました。

もちろん中田氏はテロを肯定しているわけではない。「実行者はムスリムであったかもしれないけれども、そして彼らの主観としてはジハードをしているつもりであったかもしれないけれども、あれはあくまでも世界各地で起きている反米闘争のひとつであって、ジハードとは言いがたいものなのです」「イスラーム学者としては『自爆テロはいけません』と言うほかありません。そもそもイスラームでは自殺は禁止されているのです」と述べているのだから。

だがここで誰もが奇異に感じるのは、“事件”についての描写だろう。中田氏は「建物」の破壊について書いているものの、ハイジャックされた旅客機の乗客や、世界貿易センタービルで働いていたひとびとの死についてはいっさい言及していないのだ。

私の理解によれば、これは中田氏がテロの犠牲者を軽んじているからではなく、近代的な市民社会とは死生観が根本的に異なるからだ。

イスラームにかぎらず、ユダヤ教やキリスト教でも同じだが、この世界は無から神が創造し、神は過去から未来永劫に至るまで宇宙で起きるすべての出来事を知っていると考える。そうであれば、生も死も、それがいかなるものであれ神の計画ということになる。このような立場からは、死や不幸を「理不尽だ」とか「こんなことがあっていいはずはない」と考えることは間違いだ。それは神の意思を否定することになるのだから。

ハイジャックされた旅客機に乗っていた乗客たちが感じた恐怖や、世界貿易センタービルで炎に包まれたひとびとの絶望を神への疑念に結びつけてはならない。遺族が悲しむのは当然だろうが、すべての出来事を神の御心として受け入れるのが正しい信仰なのだ。

パリの同時テロに関する報道に比べ、それ以前のレバノンやイスタンブールのテロがほとんど報じられず、シリアやイラクではさらに多くのひとたちが殺されている、との批判がある。だが原理主義的なイスラーム(サラフィー主義)では、こうした議論も死を否定的にとらえているという意味で、神を疑念にさらしていることになるだろう。

この世界に起きたことで「間違っている」ものはなにひとつなく、自分の夫や妻、父母や子どもがなぜ犠牲になったのかは人知を超えている。善悪を評価できるのも神だけなのだから、9.11は「飛行機が建物を壊した事件」と説明するほかない(パリの同時テロは「サッカースタジアの近くで爆発があり、劇場とレストランが破壊された事件」になるだろう)。

中田氏がハイジャック犯の死について述べているのは、犠牲者よりも(ムスリムを名乗る)犯人を重んじているからではなく、その死がジハードであるか否かがイスラーム法において問題になるからだ。それ以外の死者は「神の御心によって召された」だけで、イスラーム法では議論の対象にならないのだから、わざわざ取り上げる価値はないのだ。

もちろんこうした説明をほとんどのひとは受け入れないだろうが、それはしかたのないことだ。(私を含む)大半の日本人は、アッラーへの帰依による価値観の全面的な転換を経験していないのだから――ということになるのだろう。

イスラームは市民社会と共存できない

神についてのこうした極端な(原理主義的な)見解は、自由意志についての深刻な問いを引き起こす。すべてを神が決めているのなら、どれほど理不尽な出来事も運命として受け入れるほかない。欧米の植民地主義も、イスラエルの建国も、ムスリムに対する差別や偏見もすべて「神の意思」であるとするならば、ジハードする必要もなくなってしまう。

しかしその一方で、クルアーンは侵略者へのジハードを義務とする。ムスリムは自由意志によって、「聖戦」に参加しなければならないのだ。

そうすると神は、ジハードの機会を与えることで最後の審判の材料を集めているのだろうか。しかし神の全能性によれば、誰がジハードを選び、誰が尻込みするのかもすべて知っているはずだから、けっきょく「起きたことはすべて正しい」という話に逆戻りしてしまう。

この難問に対して中田氏は、この世界は過去から未来へと連続するものではなく、神が一瞬ごとに創造しているのだという。私たちはすべて、「過去」の記憶を持たされてこの瞬間に生まれ、そして消えていくのだ。

だがリセットされて消滅する前に、私たちは「自由意志」によってなにかを選択することができる。この選択によって世界は分岐し、「創造→選択→消滅→創造→」の繰り返しによって無数の「現在」が生まれる。中田氏の世界観は、量子力学における多重宇宙論(あるいは、この世界は何者かがつくったシミュレーションで、わたしたちは”シム人間”だというシミュレーション仮説)のようなものなのだ。

これについて、中田氏は次のように書く。

私が寝ている世界、そもそも、私がいない世界とか、まさに世界が始まってから終わりまでの無数の世界がすべてアッラーの知識の中にあるわけです。その中に、子どものころからのいろいろな無数の私がいるわけです。もう死んでしまっている私もいるかもしれません。さまざまな私が無数にあって、その中にいまの私もいるわけです。すべてが実は同格に存在している。けれども、この、いま私たちが生きているこの世界、選択肢だけが、私一人だけでなく世界中の人にとって、唯一そこで人間が意識を持っている世界である(『イスラーム 生と死と聖戦』)。

正直なところ、中田氏の「思想」をどのように理解すればいいのか私には判然としない(理解する必要があるのかどうかもわからない)。ただしこの解釈では、9.11やパリ同時テロの犠牲者は無数の世界のひとつでたまたま死んだだけで、それ以外の世界では生きているのだから、「現在」という仮象の出来事を嘆く必要はない、ということになるのだろう。――この説明で遺族がどれほど慰められるかは知らないが。

私のような凡百の徒には、このような複雑怪奇な立論が必要になるのは、「神による世界の創造」を前提としているからだと思える。この前提を外してしまえば、無数の宇宙で無数の「わたし」が生きているという荒唐無稽な(「宗教的な」ともいえる)お話をする必要もなくなるはずだ。

ムハンマドは6世紀後半から7世紀前半のひとで、進化論や分子遺伝学、相対性理論や量子力学はもちろん万有引力の法則すら知らなかった。いくら宗教的天才とはいえ、むかしのひとが考えたこと(それも、戦いのなかで味方を叱咤激励するためのとっさの言葉)を現代社会に通用するように“論理的に”語ろうとすれば、このような思考の迷宮にはまりこむのは当然に思えるが、これもまた信仰を知らないものの戯言だろう。

現代イスラームのなかで、ムハンマドの時代を重視するスンナ派の宗派をサラフィー主義という。これは初期イスラーム(サラフ)の時代に復古すべきだという「原理主義」で、中田氏は自ら認めるようにサラフィー主義者だ。

サラフィー主義的な立場からは、イスラームは自由や平等、人権、デモクラシーなどの近代的な価値を認めない。これはまさにISが自らの統治下で行なっていることだが、それはIS(およびカリフを名乗るアブー・バクル・バグダーディー)がサラフィー主義の分派(もしくはカルト)だからだ。

『イスラーム 生と死と聖戦』のなかで、中田氏はわずかではあるがISに触れている。それによると中田氏はISに否定的だが、その理由はIS(バグダーティー)がイスラーム法の解釈を狭くとっているからだ。不寛容なシャリーア解釈はイスラームに対する敵愾心を煽り、中田氏が目指すカリフ制再興の障害になる。すなわち、ISの主張はイスラームとして間違っているわけではないが(というよりも、サラフィー主義的には正しいが)、宗教的理想を実現するための戦略が稚拙なのだ。――これはオウム真理教事件のときに、一部の宗教学者が「テロはよくないが、既成仏教に対する麻原の批判は正しい」と述べたこととよく似ている。

中田氏はきわめて論理的にイスラームを語るが、このような宗教=政治思想が市民社会と共存できるのか、疑問に感じるのは私だけではないだろう。――そして中田氏は、当然のことながら、イスラームと近代的な市民社会は共存できないとこたえるにちがいない。

だとすれば、世俗的なムスリムや正統派のウラマーがなすべきことは、「テロとイスラームは無関係」と繰り返すことではないだろう。市民社会の疑念を晴らすために必要なのは、中田氏のようなサラフィー主義者の論理を否定する説得力のある反論であるように私には思える。

追記:道徳は神でしか説明できないのか

「なぜイスラーム教徒になったのか」との問いに対して、中田氏は、神以外に善悪の基準を決められるものはなく、すべての判断を神(とイスラーム法)にゆだねてしまえば生きるのが楽だからだ、とこたえている。

近代的な理性では「殺すな」という道徳を説明できない。なぜなら「自由な個人」には、法を犯してひとを殺す「自由」も与えられているのだから(法は事後的に犯罪を処罰することしかできない)。

しかし私の考えでは、道徳は神なしでも根拠づけることができる。それは単細胞生物からヒトへと至る長い進化の過程のなかで、仲間を殺すこと(無意味な殺人)への嫌悪や禁忌が脳にプログラミングされたからだ。これが「自然法」で、一神教でも多神教でもあらゆる人間集団に「殺すな」という掟があるのは、それがヒトの普遍性(ヒューマンユニヴァーサルズ)だからだ。

さらにいえば、チンパンジーのような霊長類や、あるいはアリやハチのような社会性昆虫にも、それが進化適応的であるかぎり、「モーゼの律法」がプレインストールされている。なんらかのバグで自然法=道徳に従わない個体が現われても、彼らは子孫を残すことができず遺伝子が死に絶えてしまうのだから。

近年の進化心理学や脳科学は、「ヒトはなぜ神を信じるのか」も自然科学のフレームで解明しつつある。スピリチュアルセンス(超自然的な因果関係)を感じると、脳は無意識のうちにその感覚を合理化(正当化)しようとする。その結果、無から神という説明原理を「創造」するのだ。――こうした議論に興味のある方は、『「読まなくてもいい本」の読書案内』『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』を手にとってみてください。

禁・無断掲載

「運が遺伝する」のはなぜなのか? 週刊プレイボーイ連載(583)

流行語となった「親ガチャ」は、どんな家庭に生まれたかで人生が大きく変わることをいいます。しかしわたしたちは、親から家庭環境だけでなく、遺伝子も受け継いでいます。受精のときに性染色体はランダムに組み合わされますから、これは「遺伝ガチャ」です。

ヒトが遺伝と環境の相互作用の産物だというのは、いまでは広く受け入れられるようになりました。しかし、「環境も遺伝する」といわれると、「なにをバカなことを」と思うでしょう。しかしこれは、近年の遺伝学では主流の考え方になっています。

『同じ遺伝子の3人の他人』というドキュメンタリー映画では、研究目的で、一卵性の三つ子が生後6カ月で異なる経済環境の里親に送られますが、実験を行なっていた研究者が死んでしまったため、3人はお互いのことをまったく知らずに育ちます。

ところがそのうちの1人が大学に進学すると、誰ひとり知り合いがいないのに、みんなが自分に話しかけてくる。三つ子のもう1人が、先にその大学に入っていたのです。そうこうするうちに残りの1人とも出会って、3人でレストランを経営して成功するものの……という話でした。

稀有な例に思えますが、別々に暮らしていても、同じ地域に住んでいた一卵性双生児が、同じ学校で出会うというのは、べつに不思議ではないといいます。遺伝と環境は異なる要因ではなく、遺伝的な特性によって、無意識のうちに、自分に合った環境を構築するのです。当然、遺伝的に同一なら、同じような環境を選択するでしょう。

これが「環境は遺伝する」という意味ですが、そこからさらに、「運は遺伝する」という驚くべき話になります。

行動遺伝学では、近しいひとが亡くなったり、強盗に遭うなど、一般的には「運が悪かった」とされる偶然の出来事と、離婚や解雇、お金の問題など、本人にも責任があると見なされる出来事を比較しています。その結果、偶然の出来事の26%が遺伝で説明でき、本人に依存する出来事の遺伝率は30%で、統計的に有意な差がないことがわかりました。

これも奇異に思えますが、近しいひとが親族で、自分も病弱なら、遺伝がかかわっている可能性があるし、強盗に遭うのはたしかに運が悪かったのでしょうが、危険な場所にいたり、目立つ行動をとっていたとすれば、そこにも遺伝の要素があります。

知人が交通事故に遭ったら、「運が悪かったね」と同情するでしょう。しかしそれが、信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたり、無理な追い越しをしようとして起きたのなら、本人に責任がないとはいえません。運の良し悪しはたしかに偶然ですが、そのような出来事が起きる場所に身を置いたことには遺伝の影響があるのです。

遺伝と環境は絡み合っていて、遺伝ですべてが決まるわけではないものの、遺伝の影響を環境によって変えるのは簡単ではありません。これが、子どもが親の思いどおりに育たない理由でしょう。

そう考えれば、私たちの人生のすべてを遺伝の長い影が覆っていて、そこから逃れることはできません。そんな話を、日本における行動遺伝学の第一人者、安藤寿康さんとの対談『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』でしています。興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

『週刊プレイボーイ』2023年11月20発売号 禁・無断転載

女の子同士のいじめはどういうルールで行なわれているのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年3月26日公開の「「間接的攻撃」を多用する裏攻撃による「女の子のいじめ」の研究」です(一部改変)。

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#MeToo運動で頻繁に登場したのが、“toxic masculinity”という言葉だ。これは日本語で、「毒々しい男らしさ」と訳されている。「男はマッチョであるべき」というマチズモのことだが、そこにtoxic(毒性の)というネガティブな形容詞をつけたことで、「セクハラやドメスティックス・バイオレンス、レイプなどの性犯罪の背景にあるのは過剰な男らしさだ」とのメッセージが込められている。

こうしたフェミニズムの主張に対しては、当然のことながら男の側から反論があって、それが(例によって)アメリカ社会を二分しているのだが、興味深いのは男の側にも「男批判」に与する者がいることだ。

一般に「リベラル」に分類される彼らは、「女は男より共感力に優れている」として、「女は善で(自分たち以外の)男は悪」と主張をしている(ように見える)。その多くは白人で、「黒人などのマイノリティは犠牲者で(自分たち以外の)白人は人種差別主義者(レイシスト)」という立場をとる(ように見える)。

これがアメリカ社会で「保守vsリベラル」の憎悪を煽り立てる理由のひとつになっているのだが、このやっかいな話はちょっと脇に置いておいて、ここで紹介したいのは、当の女性のなかから、「共感力にあふれた女は素晴らしい」との賛辞に対して、「そんなわけないでしょ」との反論が現われたことだ。

そのきっかけになったのが2002年に全米ベストセラーとなったレイチェル・シモンズの“Odd Girl Out : The Hidden Culture of Aggression in Girls”で、日本では『女の子どうしって、ややこしい!』( 鈴木淑美訳、草思社)として翻訳されている。原題は「ヘンな子をハブる 女の子の攻撃性の隠された文化」という感じだろうか。2005年にはテレビドラマ化もされたようだ。

女に子どうしのいじめは、日本では少女マンガやライトノベルなどのサブカルチャーが繰り返し描いてきた。アメリカも(たぶん)同じだろうが、シモンズの本が大きな反響を呼んだのはそれを社会問題として真正面から取り上げたからだ。それはいわば、“toxic femininity(毒々しい女らしさ)”の女性の側からの告発だった。

女の子のいじめは「裏攻撃」

シモンズがこのテーマに関心をもったのは、自身の「いじめ体験」からだった。8歳のとき、同じ小学校にアビーという人気のある女の子がいた。アビーとはとくに親しいわけではなかったが、あるとき理由もわからず、シモンズの親友に彼女のことを中傷した。すると親友は、「ほかの女の子たちと遊ぶのが楽しい」とシモンズから離れていった。

シモンズがいまでも強烈に覚えているのは、次のような体験だ。

ある日の放課後、地元のコミュニティセンターで開かれるダンス教室に行ったときには、アビーが私の友だちを集めて、私から逃げるようにといいふくめた。私は必死で彼女たちの後を追い、息を切らしながらコミュニティセンターの劇場に入っていった。突然の暗闇に目をこらす。客席や舞台で、ぱたぱたという足音が聞こえ、追いかけていくと、笑い声がどよめいた。

その日から、シモンズは女の子全員から「ハブられた」。「誰もいない薄暗い廊下、階段の吹き抜け、駐車場、どこにいてもひとりぼっちだった。悲しみに押しつぶされそうになりながら、こんな思いをしているのは自分だけだと思っていた」という。

大学生になったシモンズは、たまたま6人の女友だちと夜食をつまみながら話をしていたとき、全員が同じようにいじめられた経験があることを知った。それが「女の攻撃性」を研究しようと思い立ったきっかけとなった。

シモンズはまず、アメリカの知り合い全員にEメールで「ほかの女の子にいじめられたことがありますか? どんなふうだったか、説明してください。いじめの経験によって、どんな影響を受けましたか?」との質問を送り、「できるだけ多くの女性に転送してください」と頼んだ。

24時間以内に、シモンズの受信トレイは全国からの返信でいっぱいになった。「みな何かに突き動かされたように、自分の体験談を語り、見ず知らずの女性たちが、この話をするのはあなたが初めてです、と書いていた」。

次にシモンズは、「女の子のいじめ」がピークに達する10歳から14歳までにインタビューすることにした。対象となったのはアメリカの3つの地域(大西洋中部、北東部、ミシシッピー)の10校で、私立女子高、中流階級のユダヤ人学校、黒人とプエルトリコ、ドミニカ出身者が大半の学校など校風はさまざまだが、女の子たちの体験はとてもよく似ていた。

このインタビューから、シモンズは女の子たちのあいだで“alternative aggression”が広く行なわれていることを発見した。男の子たちは殴り合いなど「直接的攻撃direct aggression」をするが、女の子はその代わりに別の(alternative)攻撃手法を使っているというのだ。これは日本語版では「裏攻撃」と訳されている。

じつはノルウェーの社会心理学者カイ・ビョークヴィストが、1990年代に「女の子の攻撃性」を精力的に調べ、男の子の「直接的攻撃」に対して女の子は「間接的攻撃」を多用すると論じている。その後、ミネソタ大学のグループがこれを「人間関係を用いた攻撃」「間接的攻撃」「社会的攻撃」に分類し、以下のように定義した。

  • 人間関係を用いた攻撃:「人間関係、つまり、他人に受け入れられているという感覚、友情、グループの一員であるという意識にダメージを与える行為によって、他人を傷つけること」。無視する、仲間外れにする、嫌悪を示すしぐさや表情を見せる、相手とほかのひととの関係をこわす、自分の要求に応えないならつきあいをやめると脅すなど
  • 間接的攻撃:こっそりふるまい、相手を傷つける意図などまったくないかのように見せる。噂を流すなどして、他人を使う
  • 社会的攻撃:自尊心やグループ内の社会的ステイタスを傷つける。噂を流したり、社会的に排除したりする

シモンズはこれらを「裏攻撃alternative aggression」としてまとめたうえで、「女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっているとは外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる」とする。

9年生(中学3年生)の8つのグループに「男子と女子では、意地悪の仕方にどんなちがいがあると思う?」と訊いたときに、女子生徒たちから次のように言葉が次々と出てきた。

女子は誠実でなく、信用できず、陰険だ。他人を操り、友だちを利用して人を攻撃する。たがいを踏み台にする。容赦なくて悪賢い。何かされたら、じっと復讐の時を待ち、相手が油断しているすきをけっして見逃さない。目には目を、とでもいうような残酷さで、「自分と同じ思いをさせてやる」のだ、と。

もちろんこれは、“toxic femininity”を一方的に批判し断罪するものではない。シモンズの意図は、女の子たちがいじめに立ち向かい、よりよい人間関係をつくっていくためには、自らの内にある「攻撃性」から目を背けてはならないということだ。

もっとも恐れるのは「一人でいるのを見られること」

「女の子のいじめ」はアメリカでも深刻になっているにもかかわらず、つい最近まで、なぜ「社会問題」として取り上げられなかったのか。それには3つの理由があるとシモンズはいう(これは日本にも共通するだろう)。

【いじめは通過儀礼】
アメリカの多くの母親は、自らの体験から、いじめは女に子にとって通過儀礼であり、それを防ぐために親(大人)にできることは何もないと考えている。「女の子がいじめ、いじめられつつ、つきあい方を学ぶのは必要なことであり、積極的な意味がある」「(いじめは)女の子がのちに大人になったときに自分を待ちうけるものを知るためにある」との主張も根強い。「女の子のいじめは普遍的に存在し、役に立つのだから、社会構造の一部として容認すべきだ」というのだ。

【いじめられる側にも問題がある】
日本と同様に、「いじめの被害者には社会的な技術が欠けている」とされる。「いじめられた子は強くなり、学習して、うまく社会にとけこむすべを身につけなければならない」と考える大人も多い。

【女の子のいじめは指導が困難】
教師の立場からすると、男の子同士のケンカは対処しやすいが、女の子のいじめは扱いにくい。ある教師は、「もし男子がペンで机をトントン叩いていれば、やめなさい、といいます。しかし女の子が別の子に意地悪そうな目つきをしていても、『こちらを見なさい』というくらいしかできないんじゃないでしょうか。男子の悪さは一見してわかりますが、女の子が何をしているか、確かなことはわかりませんから」と述べた。女の子同士のいじめは見て見ぬふりをされるのだ。

そんなアメリカの学校で女の子たちは、“開放的で自由な青春”というイメージとはずいぶんちがって、日本の女子中学生・高校生と同じような悩みを抱えている。男の子の攻撃性と比べて長いあいだ軽視されてきた「女の子の攻撃性」だが、シモンズはそれが、(「環境を支配するため手段」としての男の攻撃性に対して)人間関係と愛情を確認するため、すわなち「共感力」から生じるのだとする。

アメリカの10代の女の子たちがもっとも恐れるのは「ひとりでいるところを見られる」ことだ。ある女の子はシモンズにこういった。

廊下をひとりで歩いていて、みんなに見られている感じがするのは最悪です。ひとりでいると憐れまれるけど、誰も人から憐れまれたくないでしょう。それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです。

シモンズが出会った女の子たちは、「ひとりのけものにされる不安にかりたてられ、学校という荒れた海に漂う救命ボートであるかのように、友人にしがみつく」。その結果、「毎日のささいな摩擦すら、大切な人たちを失うことにつながるかもしれないと恐れ、どんなレベルでも人と対立しようとしない」のだ。

次のような発言は、何も知らなければ、日本のごくふつうの女の子のものだと思うだろう。

私たちは、いつもおたがいに『怒ってない?』と訊きあって、訊かれるとすぐ『ううん』と答えるんです。『怒ってる』なんていいたくないでしょう。

本当のことをいったら傷つけてしまう。だから私は嘘をつくんです。

相手が次になんというかわからないから。友情がだめになってしまうかもしれないし、もしうまくいかなかったら、相手の子はほかの子まで巻きこむかもしれない。だから、直接話はしないんです。

「どれほど不愉快でも相手の気持ちは傷つけたくない」「自分の感情を二の次にしてまず他人の気持ちを考えなければならない」というのは、地域や学校文化、あるいは人種を問わず、アメリカの女の子たちとのインタビューで首尾一貫して現われるテーマだった。その結果、女の子社会では「解決されない摩擦が空気中にガスのようにたれこめている」。

アメリカ人は非を認めないといわれるが、女の子同士で“Sorry”は頻繁に使われる。しかしそれは衝突の原因を解決するものではなく、人間関係を保つための形式的な謝罪なので、本質的なところではなにも変わらない。これは「魔神をびんにとじこめたようなもので、魔神はなかで次のきっかけをじっと待っている」し、「怒りとつらさを抱え込むのは、部屋のなかでゾウを飼うようなもの」なのだ。

シモンズは、「あまりにも多くの女の子が、日常的な衝突を処理する能力に欠けているため、怒りの言葉を聞かされると驚き、身構えてしまう」という。「孤立するかもしれないという不安からパニックに陥り、自分に向けられたスポットライトをほかに向けるためならなんでも利用し、自分の味方をしてくれる友人と同盟関係をつくる」というのだが、ここから日本の女の子とのちがいを見つけるのは難しいだろう。

アメリカの10代の女の子の理想は“アンチ・フェミニズム”

日本でもアメリカでも、女の子たちには理想像、すなわち「なりたい自分」がある。それと同時に、「あんなふうにはなりたくない」という女の子像もあるだろう。シモンズはそれを、10代へのインタビューをもとに“IDEAL GIRL(理想の女の子)”と“ANTI-GIRL(なりたくない女の子)”に整理している。興味深いリストなので紹介しておこう。

●理想の女の子             ●なりたくない女の子
とてもやせている             意地悪
かわいい                 醜い
ブロンド                 陽気すぎ
嘘っぽい                 運動が得意
頭が悪い                 頭がいい
背が高い                 頑固
青い目                  強情
胸が大きい                肌が浅黒い
健康                   やせていない
高価な服                 誰とでもつきあう
アンバランス               独断的
飾らない                 不安定
流行に敏感                やぼったい
人気がある                不幸そう、憂うつ
ボーイフレンドがいる           男性的
にこにこしている             まじめ
幸せそう                 強い
頼りない                 自立している
電話でよく話す(友だちが多い)      レズビアン
表面的ないさかい(すぐ解決)       芸術家気どり
大人びてみえる              いらいらして人に当たる
女の子っぽい               抑制されてない
人に頼る                 自己中心的
実用的でない服              社交性がない
人を操る                 つきあいづらい
セックス=パワー             本好き
金持ち
歯がきれい、肌がきれい
りこう
恋人はステイタスがある人

この調査が行なわれたのは1990年代後半から2000年代はじめだが、驚いたことに、アメリカの10代の女の子の理想はバービー人形(ブロンドで青い目、背が高く痩せていて胸が大きい)であり、キューティブロンド(かわいげのある、頭が悪くて頼りなさそうな金髪娘)なのだ。

それの一方で「なりたくない女の子(ANTI-GIRL)のなかには、「頭がいい」「強い」「自立している」などが入っている。フェミニストが理想とする女性像は、10代の女の子たちにとって「いけてない女」の典型とされているのだ。

シモンズが注目するのは、「理想の女の子」に要件に「嘘っぽい」「人を操る」があり、「なりたくない女の子」に「強情」「独断的」「まじめ」が挙げられていることだ。これは、「裏攻撃」が得意だと女の子集団のなかで高く評価され、不得手な女の子は避けられるということだろう。10代の女の子たちにとっての理想は、「自分の感情を抑え、他人を操作することで自己表現できる子」なのだ。

シモンズはそれを、「頭が悪く、それでいて人を操れる。人に依存して頼りないが、セックスと恋愛を利用して力を得る。人気があるが、踏みこまない。健康的だが、運動はしないし頑丈でもない。幸せだが、陽気すぎない。真実味が薄い。自動警報装置がないぎりぎりのラインで爪先立ちして歩いている」ようなタイプだという。これが「リベラル」な女性たちが“toxic femininity”と見なすものだろう。

リアルな人間関係がうまくいかないなら、ネットでそれを解決できるはずはない

シモンズが“Odd Girls Out”を出版したのは2002年で、その後、“いじわるな女の子たち”はMean Girlsと呼ばれるようになる。これは同じ2002年に発売されたロザリンド・ワイズマンの“Queen Bees and Wannabes(女王バチとなりたがり)”を原作に、2004年にリンジー・ローハン主演で公開された映画のタイトルからとられたらしい(翻訳は『女の子って、どうして傷つけあうの? 娘を守るために親ができること』 小林紀子、難波 美帆訳、日本評論社)。

シモンズが全米を講演すると、“ミーンガール”にいじめられていると訴える女の子とその母親だけでなく、男の子の姿も目立つようになってきた。その理由は、ミーンガールのいじめの対象にされる男子生徒が増えてきたことと、男の子集団のなかでも、従来の直接的攻撃(殴り合い)から女の子のような「裏攻撃」へといじめが変化してきたことにあるという。リベラルな社会は暴力を極端に嫌うが、そうなると男の子集団の人間関係も暴力を排除した(女の子的な)ものに変わっていくのかもしれない。

あまりの反響の大きさにシモンズは2011年に本書の改訂版を出したが、複数の10代の自殺がネットいじめに関係しているのではないかと社会問題化したことを受けて、新たにFacebookなどSNSでのCyberbullying(ネットいじめ)の章を追加している。日本の10代はFacebookではなくLINEを使っているから事情は若干ちがうだろうが、興味深い指摘をいくつか紹介しておこう。

研究者によると、2010年時点で、アメリカの平均的な女の子は1日50以上のテキストを送受信し、14歳から17歳はもっともアクティブで1日平均100回に達するという。友だちからのメッセージにすぐに返信しないのはrude(無作法)だとされるため、スマホを枕の下や胸の上に置いて寝る子もいる。8歳から18歳までの若者は1日平均8時間(!)をスマホやパソコンに使っているとの調査結果もある。

11歳から18歳の若者のうち、5分の1から3分の1がCyberbullyingのターゲットにされた経験がある。ネットいじめの84%は友だち、元の友だち、別れたパートナー、クラスメートなどの「知り合い」からのもので、見知らぬ相手からのネットいじめは7%以下だった。

ネットいじめにはかなりの男女差があり、26%の女の子がターゲットにされたが、男の子は16%だった。また22%の女の子がネットいじめをしたことがあったが、男の子は18%だった。女の子は男の子の2倍、噂話をオンラインで流してもいた。ネットいじめをする側もされる側も自己肯定感(self-esteem)が低く、いじめ被害にあう生徒は、不安、うつ、校内暴力、学業上のトラブル、自殺願望、自殺未遂の経験が多いとの研究もある。

ものごころついたときにすでにネット環境に囲まれていた世代が「デジタル・ネイティブ」だが、シモンズは彼らを、「スマホを使いこなすことはできても、SNS上の人間関係を適切に管理するスキルをもっていない」という。SNSは女の子集団のルールをそのままネットに移植したもので、リアルの人間関係がうまくいかないのならネットでそれを解決できるわけはなく、問題をさらに増幅させるだけなのだ。

女の子がほんとうに知りたいのは、友だち集団のなかでの自分の評価(「ほかの子はわたしのことをどう思ってるの? みんなわたしのことを好き? わたしはふつう? わたしは人気者? わたしはクール?」)だ。彼女たちの行動原理は、「友だち(部族)」という「なにか重要な集団に属している」というアイデンティティを得ることであり、そのためにソーシャルメディアでの「ドラマづくり」が重要になる。女の子集団にとって「情報こそが権力」なのだ。

アメリカにも「学校裏掲示板」のようなサイトがあり、匿名のクラスメートの評判がわかる。その後、Facebookに同様の機能のアプリが登場し、多くの女の子たちが自分の評判を知るために登録したようだが、それは自尊心を高めるのではなく、逆に「ネットの残酷さ(cyvercruelty)」を証明することにしかならなかった。ほとんどの女の子が、悪意のある噂やネガティブな評価に愕然とすることになったのだ。

アメリカでも、性的な画像をネットで交換するセクスティング(sexting)が大きな問題になっている(19%の10代が性的画像やテキストを送ったことがあり、31%が受け取ったことがある)。それが性的ハラスメントの温床になっていることは間違いないものの、シモンズは、それと同時に女に子が「パワー」を得る道具として使っていると指摘する。

思春期の女の子は、男の子に対してだけでなく、友だちグループにも自分の性的魅力を証明しなければならない。地位の高い男の子からの注目は女の子集団での地位を上げる(男の子の集団のリーダーとつき合うのが女の子集団のトップ)。そのためにsextingを意図的に利用しているというのだ。

シモンズが強調するのは、10代の女の子は複雑な人間関係のゲームをしつつも、「友情という檻」に閉じ込められているということだ。だからこそ、その絆を失いかけた女の子は友情のかけらにしがみつく。人気グループの女の子はそれを知っているので、気まぐれに友情のかけらを与えて彼女を操作しようとする。

「相手を全能視して、自らを相手にゆだねるような友情関係は、暴力をふるう相手から離れられない男女関係に、恐ろしいほど似ている」とシモンズはいう。これは、ドメスティックバイレンスの背景を考えるうえで重要な指摘だろう。

最後に「女の子の攻撃性」について、印象に残った言葉をひとつ挙げておこう。

あるべき姿に確信をもてない女の子たちは、その不安をたがいに表わしあい、必要以上に自己管理し、答えを求めて罰し、いじめ、闘いつづけるだろう。

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