命の〈価格〉をどのように決めるべきか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年7月15日公開の「命の〈価格〉はどのように決められるのか? 日常的につけられている人命の値札と公平性」です(一部改変)。

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新型コロナのような感染症が蔓延して患者が病院に押し寄せると、すべてのひとを治療できず、誰を優先し誰を後回しにするかのルールを決めなくてはならなくなる。日本ではこのトリアージを正面から議論することを嫌い、病院の恣意的な判断を行政やメディアが黙認する不健全な状態が続いているが、日本よりはるかにリベラルな北欧やオランダなど北のヨーロッパでは高齢者に対し、「コロナに感染してもあなたは入院治療を受けることはできない」と通告している。

アルツハイマー型認知症の新薬がアメリカで条件付き承認されたことが大きなニュースになったが、治療費用は年間600万円かかるという。超高齢社会に突入した日本では、今後、認知症患者は確実に増えていくが、この新薬を保険適用して、巨額の財政支出で(あるいは増税して)治療費用を国が負担すべきなのだろうか。

このように、資源の制約があるなかで生命や健康の議論は金銭問題に直結する。トリアージとは、費用対効果の高い患者(若者)への治療を優先し、費用対効果の低い患者(高齢者)を後回しにすることだ。医療のコストとリターンを考えればこれは理にかなっているが、受け入れるのに躊躇するひともいるだろう。

誰もが目をそらしているこの問題に正面から向き合ったのが、ハワード・スティーヴン・フリードマンの『命に〈価格〉はつけられるのか』(南沢篤花訳、慶応義塾出版会)だ。著者のフリードマンはコロンビア大学准教授で、応用物理学の学士号、統計学の修士号、生体医工学の博士号をもつデータサイエンティストで医療経済学者でもある。原題は“Ultimate Price; The Value We Place on Life(究極の価格 わたしたちが人生につける価値)。

「9.11同時多発テロ」犠牲者の値段

フリードマンは最初に、この本のテーマとして4つの重要なことを挙げている。

  1. 人命には日常的に値札がつけられていること
  2. こうした値札が私たちの命に予期せぬ重大な結果をもたらすこと
  3. こうした値札の多くは透明でも公平でもないこと
  4. 過小評価された命は保護されないまま、高く評価された命よりリスクに晒されやすくなるため、この公平性の欠如が問題であること

このことがよくわかるのが、2001年の9.11同時多発テロ後にアメリカではげしい議論となった補償問題だ。

テロ後、米議会は収入の落ち込む航空業界の支援に数十億ドルを支出すると同時に、テロの負傷者や犠牲者の遺族への補償を決議した。これは航空会社や空港、セキュリティ会社、あるいは世界貿易センターなど、訴訟の対象となりそうな組織への提訴の権利を放棄させるためだった(それ以前のテロでは、政府による犠牲者への補償は行なわれていない)。

この困難な仕事を任されたのが元連邦検事のケネス・ファインバーグで、「9.11テロ犠牲者補償基金」の特別管理者に任命され、「非経済的価値と依存度、経済的価値を組み合わせた公式」を考案した(ファインバーグの物語は マイケル・キートン主演『ワース 命の値段』として2020年に映画化された)。――以下の記述はわかりやすくするために、1ドル=100円で換算する。

犠牲者への支払い額は、「経済的価値」と「非経済的価値」の合計とされた。このうち「非経済的価値」は一律2500万円で、妻や子どもなど扶養家族がいる場合は、「依存度」として一律1人1000万円が上乗せされた。

大きな問題になったのは犠牲者の「経済的価値」で、予想生涯収入から税金などを差し引いた金額が基準とされた。犠牲者の年齢や引退までの予想勤務年数、それまでに予想される収入増の情報も考慮された。ただし、犠牲者には金融機関に勤務する者も多く、非常に高額な年収の犠牲者家族への莫大な支払いを避けるため、予想年収は2310万円が上限とされた。

このプロセスが完了する2004年6月までに97%の家族が総額7000億円の受け取りに同意し、平均で死者1人につき2億円となった。ただし、補償額の最低が2500万円だったのに対し、最高は7億円を超えており、「ある人の命は、別のある人の30倍近い価値が認められた」。

議論になったのは、女性犠牲者への支払いが平均で男性犠牲者への支払い額の63%にしかならなかったことだ。家庭で子どもの世話をしていたり、高齢者の介護をしていたりした女性は、働いていない分補償額が少なくなった。

また、高卒で比較するにせよ、大卒あるいは修士課程修了で比較するにせよ、黒人は白人より賃金が25~30%少ない。女性は男性より賃金が低く、これは経験年数、教育レベル、年間の勤務時間数、業界、職種、人種、未婚か既婚かを問わず変わらない。こうした人種差やジェンダーギャップが、そのまま補償額に反映された。年齢の影響も顕著で、60歳を超えた犠牲者の補償金は、60歳以下の犠牲者の半分にも満たなかった。

これらはどれも不公正と見なされ、基金には抗議が殺到した。2004年にはファインバーグ自身が、「もしまた同じようなことが起こったら、もしまたテロの犠牲者への補償金が米議会で検討されるようなことがあったら、対象となる受給者はすべて、どのような呼び方をされるにせよ、同額の給付金が非課税で支給されるべきだ、という強い主張が可能である。このような一律支給のアプローチのほうが、管理側にとっても容易なばかりでなく、支給対象者間の格差も最小限に抑えられ、消防士などの救助者の命の犠牲が、株のブローカーや銀行家の犠牲者の命の犠牲より軽く見積もられた、との抗議ができなくなるだろう」と書いた。

もっとも、実際にこのようにしたら、逆の抗議が殺到して収拾がつかなくなったかもしれないが。

「統計的生命価値」を算出する3つの方法

9.11同時多発テロの補償に使われた「命の〈価格〉」の計算方法は「統計的生命価値(VSL:Value of Statistical Life)」と呼ばれる。これには大きく「仮想評価法」「賃金ベース」「顕示選好法」がある。

「仮想評価法(選好意識調査)」は、「何かに対して金銭を支払う意思、あるいは何かと引き換えに金銭を受け取る意思の度合い」を基準にする手法で、具体的には、「1万人に1人が死ぬ事例Xを避けるために、あなたはいくらなら払う意思がありますか?」などと質問する。その回答が9万円だったとすると、1万人がその金額を払った場合、1人の命を救うための値段は9億円になる。

この手法の問題として、調査回答者が全人口を代表しているわけではなく、抽象的な質問は根拠のない憶測や希望的観測(思いつきのいい加減な回答)を生むことが多いとか、不都合なデータポイント(極端な外れ値)を切り捨てているなどがあるが、もっとも深刻なのは「支払うことと支払われることはまったくちがう」だろう。「1000万円もらえるなら一定のレベルのリスクを負ってもいい」ことは、「そのリスクを減らすために1000万円支払ってもいい」ことと同じではない。

2つ目の「賃金によるVSL決定法」では、よりリスクの高い職業に就いた場合、いくら余計に支払われるかを見る。この超過収入が、ひとびとがリスクを受け入れてもいいと考える「価格」だ。

だがこの手法は、どの仕事を引き受けるかに関して求職者に選択肢があることが前提になっている。「求職者は、どの仕事にどれだけ死の危険があるかを知っていて、各仕事によるリスクの増減を理解した上で、よりリスクの高い仕事にはより高額の賃金を要求できなければならない」のだが、現実にはこの条件が満たされることはまれだろう。

さらに問題なのは、個人によってリスク許容度がちがうことで、まったく同じ死亡率の職業でも、上位5%の35億7000万円から下位5%の1億8000万円まで命の〈価格〉に34億円ちかい開きが生じた。

3つ目の「顕示選好法」では、何人の人がリスクを減らすために支払う意思があるか(支払意思額)を基準にする。自転車のヘルメットを例にとると、防護効果の低い安価なヘルメットではなく、高くても防護効果の高いヘルメットを購入するひとがどれくらい増えているかを調べ、「リスク軽減率の増加に対する、より高価なヘルメットに対して支払われる金額の増分の比」が命の〈価格〉になる。

この手法の問題は、購入者ごとに可処分所得の額が異なることを考慮していないことだ。その結果、リスクを減らすための支払い意思を調べたはずが、富裕層は命の〈価格〉が高く、貧困層は安いことを示しただけになってしまった。

1995年、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)で、この「統計的生命価値(VSL)」を使って低所得国、中所得国、高所得国の命の〈価格〉を計算したところ、高所得国の国民には貧困国の国民の15倍もの値段がつけられた。これがはげしい非難を浴びたために、2001年には国際的に「1人あたり1億円」を命の価値として用いるようになった。

だがこれは、ゆたかな国の実態とかけ離れている。同じVSLを使った評価では、米環境保護庁(EPA)は70歳以下に3億7000万円、71歳以上に2億3000万円の〈価格〉をつけた。ところがこれも「高齢死亡割引」だと批判されたため、2010年は(年齢にかかわらず)1人当たり9億1000万円、2011年には8億3000万円と評価が変わった。命の〈価格〉はきわめて政治的に決められるのだ。

「今日死ぬ命」と「10年後に死ぬ命」に差をつけられるか

フリードマンは、命の〈価格〉としてもっとも広く使われている統計的生命価値(VSL)は、「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト(ゴミを入れたら、ゴミが出力される)」だという。だとしたら、もっとよい算出方法はないのだろうか。

「費用便益分析(cost-benefit analysis)」は、行政や企業など費用(コスト)を支払う側から見た命の〈価格〉だ。

一般的な費用便益分析では、費用(工場の増設)とそれが生み出す利益(増産・増益)を比較し、失敗のリスクを勘案したうえで、コストを投じる経済合理性があるかを判断する。行政の場合は、ある規制(排煙や水質汚染対策)を実施する社会的な費用と、そこから得られる利益(住民の健康や死亡率の低下)を比較する。

「住民が健康になるなら規制はきびしい方がいい」と思うかもしれないが、過剰規制によって工場が操業できなくなれば雇用が失われ地域経済が崩壊してしまうだろう。行政は命の〈価格〉を計算しつつ、どこまで規制するかを判断しなくてはならないのだ。

公害や温室効果ガスのような環境問題で費用便益分析を使うときに難しいのは、現在のコストと将来の利益(それによって救われる命)の比較方法だ。経済学では通常、こうした場合は一定の割引率で将来の利益を現在価値に換算する。

だがそうなると、規制を回避したい側は、利益が生じるのを遠い将来にしたり、割引率を高くすることで、将来価値(規制の必要性)を低く見積もることができる。この計算は事業の費用便益の比較には向いているかもしれないが、対象が「命」だときわめて不都合なことになる。

割引率を3%とすると、今日の約5000人の死は1世紀後の10万人の死と等価になる。今日の人の命は100年後の人の命よりおよそ20倍の価値があるのだ。地球温暖化問題が典型だが、災害が起こるのが十分に遠い未来だと、現在価値はゼロに近づき、悲劇を避けるために支払うコストもゼロになってしまう。こうして、短期で利益の出る規制は支持されやすく、遠い将来にしか利益の見込めない規制は支持されにくくなる。

「今日の1000ドルが10年後の1000ドルより価値があるのは明らかだが、今日の1000人の命は10年後の1000人の命より価値があるのだろうか?」とフリードマンは問う。そして、「すべての命を等価に扱うためには、命が今年救われるか、来年救われるか、あるいは10年後に救われるかに関係なく、割引率は0%を採用するのが妥当である」とする。

企業が安全対策などで費用便益分析を行なうこともある。これも抵抗があるかもしれないが、メーカーは生命を守るために際限なくコストをかけるわけにはいかない。

1960年代末、フォードはサブコンパクトカーのピントに安全上の問題が見つかったとき、悪名高い費用便益分析を行なった。「改良にかかる費用、発売遅れによる売上への影響、事故、負傷、死亡リスクの増大」などを見積もり、模擬裁判まで行なった結果、「避けられる死」の価格を1人20万ドルとし、欠陥があるまま販売することを選択したのだ。これはのちに大きな社会問題になり、最終的に、死亡者1人あたり「250万ドルの填補的損害賠償と350万ドルの懲罰的損害賠償」という莫大なコストを支払うことになった。

公的保険が適用される治療を選別する

超高齢社会で今後、高齢者の医療費の急激な負担増が不可避の日本では、どこまでを公的保険でカバーするかが議論の焦点になってくるだろう。このようなとき、欧米で使われているのが「質調整生存年数(QALY)」と「費用対障害調整生存年数(DALY)」で、いずれも健康の〈価格〉をつける方法だ。

ここではイギリスの公的保険制度(NHS)ですでに使われているQALYを見てみよう。

1QALYは完全に健康な状態で1年暮らすことで、死者は0QALYだ。死(0)と完全な健康(1)のあいだに、脚を骨折したり、呼吸器疾患やAIDSだったり、その他の健康面で大きな問題を抱えているひとたちがいる。

QALYは5つの効用尺度(EQ-5D)で評価される。「移動の程度」「痛み/不快感」「身の回りの管理(自分で洗面や着替えができること)」「不安/ふさぎ込み」「仕事や勉強、家事、余暇の活動など普段の活動ができる能力」だ。

どのように計算されるか、治療の比較例を見てみよう。

ある病気に対し、治療Aと治療Bの2つの選択肢がある。治療Aは年間治療費が100万円で、5年間の延命が期待できるから、「予想される追加費用総額」は500万円だ。それに対して治療Bは年間治療費が150万円、10年の延命が期待でき、「追加費用総額」は1500万円になる。

治療によってたんに延命できるだけでなく、生活の改善も期待できる。この改善度合いが「生存時間中の年間平均QALY増分」で、治療Aでは0.5QALY、治療Bでは0.3QALYだ。それが治療Aでは5年、治療Bでは10年継続するのだから、「期待されるQALY合計増分」は2.5QALY(0.5×5年)と3QALY(0.3×10年)になる。

ここから1QALYあたりの治療費用が計算できる。

治療Aでは2.5QALYの増加のために計500万円を支出するから、1QALY=200万円(500万円÷2.5)だ。それに対して治療Bでは、3QALYの増加のために計1500万円を支出するから、1QAYL=500万円(1500万円÷3)になる。

患者の生活の質を1QALY増やすためのコストは、治療Aが200万円、治療Bが500万円なのだから、治療Aの方が費用対効果が高い。そこで公的保険では治療Aのみを認め、治療Bは自費負担となるだろう。治療Bでは治療Aより5年延命できるが、そのためには患者は、差額の1000万円を支払わなければならないのだ。

このようにQALYを使うと、「増分費用対効果比(ICER)」によって、保険適用かそうでないかの判断ができる。イギリスではブレア政権のときに「国立医療技術評価機構(National Institute for Health and Care Excellence :NICE)が設立され、もっともQALYの高い治療を行なうためのガイドラインを提供している。

公的な医療資源に制約がある以上、いずれ日本でも同じような計算が必要になるだろう。抵抗は大きそうだが。

それ以外でもフリードマンは、刑事司法、生命保険、出産、男女産み分け、中絶、子育てなどさまざまな場面での命の〈価格〉を論じている。これらはいずれも社会にとって不可欠な計算だが、完ぺきとはほど遠い。

わたしたちは、「命はすべて尊い、だが価格がつけられないわけではない。命には常に価格がつけられている。多くの場合、価格は不公平である」という現実をまずは受け入れる必要がある。そのうえで、「人の命に価格がつけられるときは、公平につけられ、必ず人権と人命が守られるようにしなければならない」のだ。

禁・無断転載

「加速主義」対「破滅主義」で人類の未来はどうなる? 週刊プレイボーイ連載(584)

まるで人間のように質問に答える生成AI「チャットGPT」の公開から1年を前にして、開発企業オープンAIのCEOであるサム・アルトマンが電撃的に解任され、5日後に復帰するという事件が起きました。

オープンAIは2015年に、アルトマンがイーロン・マスクらとともに、人類のためになるAIを実現するという高い理想を掲げて設立した非営利の研究機関でした。ところが実際に開発を始めると、多額の資金と膨大なコンピューティング能力が必要なことがわかり、19年にアルトマンは、営利法人を設立してマイクロソフトから出資を受けることを決めます(これを機にマスクとは決裂しました)。

この決断によってAI開発は急速に進み、「チャットGPT」公開で世界的なAIブームを巻き起こすと、同社の企業価値は800億ドルにのぼると試算されました。総額100億ドルの出資を決めて株式の49%(独占禁止法に抵触しない上限)を所有するマイクロソフトは、ブラウザに生成AIを搭載することでグーグルやアマゾン、メタなどのライバルをリードし、株価も最高値を更新しました。

順風満帆に見えますが、じつは営利企業としてのオープンAIは株主によって統治されているのではなく、非営利組織の理事会が支配していました。この理事会は6人で構成されており、そのなかには、このままAIの能力が高度化しつづけると、いずれ人類の存続にとって脅威になると考えるメンバーが含まれていました。

報道によると、今回の解任劇の前に、社外取締役の一人が、巨大プラットフォーマーと組んでAI開発に前のめりになるアルトマンを批判していました。これに、コンピュータの能力が人間を上回るシンギュラリティ(技術的特異点)が災厄を引き起こすと懸念する創業メンバーが同調して、「クーデター」が起きたとされます。

*その後、今回の解任劇の前に、オープンAIの研究者の数人が、人類を脅かす可能性がある強力なAIの発見について警告する書簡を理事会に送っていたと報じられた。このAIは「Q*(キュースター)」と呼ばれるプロジェクトで、これまでは困難とされいた論理的思考ができるようになったとされる 。

ただし、いくら「人類のため」といっても、最大の出資者であるマイクロソフトを蚊帳の外に置いたばかりか、従業員とも相談せずに決めた“暴挙”は強い反発を引き起こしました。社員たちは持ち株会社を通じてオープンAIの株式を保有しており、混乱のなかで会社が破綻・消滅するようなことになれば多額の資産を失ってしまうのです。

こうして770人の社員のうち730人が理事会に対して、総退陣とアルトマンの復帰を求める文書を提出します。社外取締役たちに抗う術はなく、CEO復帰と理事会の刷新を受け入れるほかなかったのです。

これでオープンAIの混乱は収束しましたが、この椿事は、AIを開発する「とてつもなく賢いひとたち」が二派に分断されていることを白日の下にさらしました。

ひとつは、巨大プラットフォーマーや金融市場から巨額の資金を調達して技術開発を進め、世界を変えていこうとするグループで、これは「加速主義(accelerationism)」と呼ばれます。もう一派は、加速した技術が人間の管理能力を超えることを警告するグループで、(揶揄を込めて)「破滅主義(collapsitarianism)」と呼ばれています。

両者はこれからもさまざまなところでぶつかるでしょうが、今回の解任劇によって、最終的に、どちらが主導権を握るかが明らかになったのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2023年12月4日発売号 禁・無断転載

オープンAI騒動で話題の〈効果的な利他主義〉とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年2月14 日公開の「自販機で小銭を集める老女に1万円を渡すことは効果的な慈善と言えるのか?」です(一部改変)。

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生成AI「チャットGPT」を開発したオープンAIのCEOサム・アルトマンが突然解任され、5日後に復帰するという椿事が起きた。その背景には、テクノロジーの進歩を「加速」させ、社会を変えていこうとする「効果的加速主義(e/acc:Effective Accelerationism」と、功利的な手法で貧困問題などを解決しようとする「効果的利他主義(EA:Effective Altruism)」の対立があるとも報じられた。アルトマンを解任した理事会メンバーに「効果的利他主義」の団体にかかわる者が複数いたことが根拠とされるが、そもそも「効果的利他主義」とはいったい何なのか?

そんな疑問をもつひとのために、以下、2019年に書いた記事を再掲する。

昨年の暮れ、いろいろ用事が立て込んで深夜3時過ぎに仕事場を出て、徒歩で15分ほどの自宅に向かって歩いているときのことだ。私の前を、分厚いオーバーの下に重ね着した小柄な老女がビニールバッグを抱えて歩いていた。自販機があるたびに立ち止まり、釣銭の返却口を一つひとつ調べている。

昼間だと人目が気になるから、誰もいないこの時間を選んで、わずかな小銭を手に入れようとしているのだろう。そう思って、見てはならないものと遭遇したときにように目を伏せて老女を追い越したあと、ふと考えた。財布から1万円札を取り出し、いまから引き返してあの老女に渡すべきではないだろうか。

こうした行動は、経済学的にはじゅうぶん正当化できるように思える。老女が朝までかけて近隣の自販機をすべて回ったとしても、手に入るのはせいぜい100円か200円だろう。それに対して、財布から1万円札が1枚減ったとしても、私がそれを気にする理由はほとんどない。

お金の効用を考えれば、1万円は老女にとってものすごく大きく、私にとってはそうでもない。だとすれば、お金の価値が小さな側から大きな側に移転することで全体の効用は大きくなるだろう。

誤解のないようにいっておくと、これは政府による所得の再分配について述べているのではない。私のお金をどのように使おうと私の自由なのだから、1万円札を財布に入れたまま何カ月も持ち歩くより(キャッシュレス化が進んだ東京では現金を使うことはほとんどなくなった)、ずっと有効に活用する機会が目の前にあるのなら、経済合理的な個人はそちらを選択すべきではないのか、という話だ。

もちろん、老女に現金を渡さなくてもいい理由はいくらでもあるだろう。

困っているひとは世の中にたくさんいるのだから、誰にお金を渡して誰に渡さないかの基準をどうやって決めるのか。その老女が見知らぬ人間から(それも午前3時に)いきなり1万円札を渡されて、喜ぶかどうかなどわからない。そもそも、そんなことで人助けができると思うことが傲慢で、たんなる自己満足だ……。

私もこうした理屈をあれこれ思いつき、「まあいいか」と思って家に向かった。

こんなささいな出来事を思い出したのは、ウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』(千葉敏生訳、みすず書房)を読んだからだ。原題は“Doing Good Better(よりよく「よいこと」をする)”で、功利主義の立場から、まさにここで述べた問いに答えようとしている。――マッカスキルはオックスフォード大学准教授で、NPO団体のGiving What We Canや80000hoursを運営している。

*2022年11月に暗号通貨の取引所FTXが破綻し、創業者のサム・バンクマン=フリードが金融詐欺で逮捕されたが、個人資産100億ドル(約1兆5000億円)とされたフリードは〈効果的利他主義〉者として知られ、マッカスキルのNPOにも寄付していた。

ミレニアム・ヴィレッジもマイクロコレジットも失敗だった

慈善(フィランソロピー)をどう考えるかは、現代の倫理学にとってきわめて重要な課題だ。すこしでも現実を理解している者にとって、「かわいそうなひとがいるから寄付すべきだ」という安易な感情論が成立しないことは当然の前提になっている。

経済学者ジェフリー・サックスは「2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させる」という野心的な目標を掲げ、ロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーを巻き込んで、東アフリカで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」を鳴り物入りで始めたが、それはいまや“貧困ポルノ(poverty porn)”と総括されている。

ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?

バングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスは、マイクロクレジット(グラミン銀行)によって途上国の貧困を大きく改善したとしてノーベル平和賞を受賞した。私も、マイクロクレジットにはさまざまな批判はあるものの、一定の成果を出していると考えていた。

だがマッカスキルはこれを、「証拠の信憑性が低いもっとも痛烈な例のひとつ」だという。「質の高い調査を行なうと、マイクロクレジット・プログラムは所得、消費、健康、教育にほとんど(またはまったく)効果を及ぼしていないことが証明された」のだ。

マイクロローンは起業ではなく食品や医療といった追加の消費活動にあてられることが多く、ローンの利息は非常に高いのがふつうだ。さらには、長期的な財務の安定を犠牲にして短期的な増収をはかろうという誘惑を生み出し、返済不能な債務に陥ってしまう場合があるのだ。最新の調査によると、マイクロクレジットは平均的には人々の生活をやや向上させるようだが、決してさまざまな成功談が描いているような万能薬とはいえない。

「きれいごと」のこうした実情を知れば知るほど、「寄付なんてしたってしょうがない」と考えるのも理解できる。――じつは私もそう思っていた。

それに対してマッカスキルは、こうした批判を受け入れたうえで、それでも慈善は正当化できるという。なぜなら慈善には、ときにものすごい「大当たり」があるから。

もっとも効果のある慈善プログラムは「腸内寄生虫の駆除」

マイケル・クレマーとレイチェル・グレナスターはともに20代の一時期をケニアで過ごし、アフリカの貧困を改善するのになにができるかを考えてきた。だがハーバード大学やオックスフォード大学で経済学を学んだ2人には、国連のミレニアム・プロジェクトのような「きれいごと」の羅列になんの効果もないことがわかっていた。

そこで、アフリカの子どもたちを支援するのにどのようなやり方がもっとも効果的なのかを科学的な方法(ランダム化比較試験)で確かめてみることにした。

クレマーとグレナスターはまず、学校に教科書を配布するプログラムの効果を調べてみた。教科書が充実すれば学習効果が高まると誰もが思うだろうが、実際には成績上位の生徒以外にはなんの効果も及ぼさないことがわかった(配布される教科書は、現地の子どもたちにとってあまりにもレベルが高すぎた)。

教材を増やしてもダメなら、教員を増やしてはどうだろうか。大半の学校には教師が1人しかおらず、大人数のクラスを受け持っているのだから。だが、1クラスあたりの生徒人数を減らしても目に見える改善はなかった。

それ以外の「一見よさそう」なアイデアも、ランダム化比較試験では(そのプログラムを実施しない)比較対照群とのあいだに有意なちがいを見出すことはできなかった。

2人が最後にたどり着いたのは、教育支援とはなんの関係もなさそうなアイデアだった。それは、「腸内寄生虫の駆除」だ。

このプログラムの特徴は、ものすごく安上がりなことだ。1950年代に開発され、すでに特許切れとなった薬を学校を通じて子どもたちに配布したり、教師が薬を投与したりするだけなのだから。

もうひとつの特徴は、それにもかかわらず目覚ましい効果があることだ。

長期欠席はケニアの学校を悩ます慢性的な問題のひとつだが、駆虫によってそれが25%も減少した。治療した子ども1人当たりで出席日数が2週間増え、駆虫プログラムに100ドル費やすたびに全生徒の合計で10年間分に相当する出席日数が増えた。これは、1人の子どもを1日よぶんに学校に行かせるのにたった5セントのコストしかかからないということだ。

駆虫のメリットは教育だけではなく、子どもたちの健康や経済状態も改善させた。クレマーの同僚たちが10年後の子どもたちの追跡調査を行なったところ、駆虫を受けた子どもたちはそうでない子どもたちに比べて、週の労働時間が3.4時間、収入は2割も多かった。そればかりか、駆虫プログラムはあまりにも効果抜群なので、増加した税収によってコストをまかなうことができた。この慈善活動は、寄付すればするほど「儲かる」のだ。

ここから、マッカスキルのいう「効果的な利他主義」の意味がわかるだろう。

慈善プログラムは玉石混交で、なかには寄付なんかしないほうがいいようなヒドいものある。しかしその一方で、寄生虫の駆除のように、ふつうは思いつかないが、「科学的」に検証してみるととんでもなく有効な手法(大当たり)もあるのだ。

だとしたら「効果的な利他主義者=経済合理的な個人」は、慈善を正しく評価し、自分のお金をもっとも有効に活用できるプログラムに寄付すればいいのだ。

「誰を救って、誰を救わないか」を数学で決める

資源が無限にあるのなら、慈善について悩む必要はない。困っているひとすべてに必要な分だけ、お金や食料、薬などを分け与えればいいのだから。

このように考えると、慈善とは「限られた資源をどのように最適配分すべきか」という経済学的な問題であることがわかる。それはすなわち、「誰を救って、誰を救わないか」という重い問いに答えることでもある。

医療資源が限られていて、5歳の命と20歳の命のどちらか一方だけしか救えないとしたら、どちらを選ぶべきか? 10人をAIDSから救うのと100人を重い関節炎から救うのでは? 1人の女性をDVから救うのと、1人の子どもを学校に行かせるのではどちらを優先するのか?

こうした問いにこたえるために、経済学では「質調整生存年(QALY / Quality-adjusted Life Year)が使われる。これは“命を救う(生存させる)”ことと“生活の質(QOL / Quality of Life)のふたつをまとめた指標だ。

QOL(生活の質)を考慮する必要があるのは、ひとはただ生きながらえていれば、それだけで幸福なわけではないからだ。最期まで家族や友人たちと元気に楽しく過ごせるのなら、多少寿命が短くなってもかまわないと考えるひとはたくさんいるだろう。

これを簡略化すると、次のようになる。

あるひとがなんらかの健康上の理由で60歳で死亡するとして、医療技術の進歩で2つの選択肢が与えられた。ひとつは60歳までのQOLを20%向上させ、もうひとつの選択肢は寿命を10年延ばすがQOLは70%に下がる。このどちらが優れているだろうか?

この問いには、QALYを計算することで回答できる。

60年間にわたって20%QOLを向上させるのは12QALYだ(60年×20%=12QALY)。それに対して、QOLを70%にして寿命を10年延ばすのは7QALYになる(10年×70%=7QALY)。この両者を比較すれば、寿命を延ばす医療支援よりもQOLを高めることを考えた方がいい。すなわち、財源が限られている場合、ほかの条件がすべて等しいと仮定するなら、QALYが最大になるプログラムに予算を投じるべきなのだ。

同様に、失業や離婚によって幸福度がどのように変化するかのデータが手に入れば、「幸福調整生存年(WALY / Well-being-adjusted Life Year)を計算できるだろう。慈善の目的は、限られた資源を使ってひとびとを「総体として」より幸福にすることだ。さまざまな慈善プログラムのWALYを比較すれば、費用対効果のもっとも高いプログラムを効率的に発見できるだろう(それと同時に、一見よそうさだけれど現実には災厄しかもたらさないプログラムを排除することができる)。

この考え方は、個人としての生き方にも応用できる。

あなたは、欧米や日本のような先進国に「偶然」生まれた幸運を活かして、困難な人生を余儀なくされているひとたちのためになんらかの貢献をしたいと考えている。このとき3つの選択肢があるとしよう。

(1) WALYの高いNPOのスタッフとなって慈善活動に従事する
(2) 高給の仕事についてWALYの高いプログラムに寄付する
(3) 政治家になってWALYに基づいた政策を実現する

もちろん人生はものすごく複雑だから、どれが正しくてどれがまちがっていると決めることはできない。それでもマッカスキルは、このような「合理的」な思考によって、金融業界に職を得て給与の10%を寄付しようと決めた若者(ローリスク・ローリターン戦略)や、政治家を目指そうとする若者(ハイリスク・ハイリターン戦略)を〈功利的利他主義〉の例として紹介している。

高い効果のあるプログラムへの寄付は、確実に「よいこと」につながる。その一方で、政治家として大成できる確率はきわめて低いけれど、もし夢がかなったとしたら、その貢献はとてつもなく大きなものになるだろう。研究者になって「人類を救う」発明をしたり、ベンチャー起業家として「世界を変える」ことを目指すのも同じだ。

費用対効果が高い慈善団体はどこ?

アフリカの貧困、気候変動、動物の権利擁護、アメリカの司法制度改革など、解決しなければならない問題はたくさんある。『〈効果的な利他主義〉宣言!』ではWALYの観点で、どの分野のどの団体が優れているかを評価している。マカッスキルが専門とする貧困問題で効果的な活動をしている団体は以下の5つだ。

  1. ギブダイレクトリー(GiveDirectly) ケニアとウガンダの貧困世帯に条件なしで直接送金を行なっている。
  2. ディベロップメント・メディア・インターナショナル(Development Media International) ブルキナファソの住民に基本的な衛生問題について啓蒙するラジオ番組の制作と運営を行なっている。
  3. 住血吸虫症対策イニシアティブ(SCI / Schistosomiasis Control Initiative) サハラ以南のアフリカ諸国の政府に、学校や自治体を拠点とする駆虫プログラムを実施するための資金を提供。
  4. アゲインスト・マラリア基金(Against Malaria Foundation) サハラ以南のアフリカの貧困世帯に持続性の高い殺虫剤入りの蚊帳を購入し、配布するための資金を提供。
  5. リビング・グッズ(Living Goods) ウガンダで家々を回り、マラリア、下痢、肺炎の治療薬、石鹸、生理用ナプキン、避妊具、ソーラー・ランタン、高効率コンロなどの衛生関連商品を安価で販売したり、健康管理に関するアドバイスを提供したりする地域の衛生推進者たちのネットワークを運営している。

ここで注意しなければならないのは、マッカスキルが「最高の慈善団体」を挙げていることで、地域は限定されていない。それがサブサハラのアフリカばかりなのは、世界の貧困が特定の地域に集中しているからだ。中国やインド、欧米や日本にも「貧困問題」はもちろんあるだろうが、その解決に1万円寄付するよりも、同じ金額をアフリカの貧困のために寄付した方がはるかに「費用対効果」が高いのだ。

〈効果的な利他主義〉への疑問

こうした考え方そのものを拒絶するひともいるだろうが、これを受け入れたとして、冒頭の私の疑問に戻ってみよう。

「効果的な利他主義者」としては、自販機で小銭を集める老女に1万円を渡す理由はない。彼女は「ゆたかな日本」に生きており、年金や生活保護を受給している可能性が高く、困窮しているとはいえ死に瀕しているわけではない。それに比べてアフリカには、1日100円や200円で暮らさざるを得ず、子どもたちが次々と感染症で死んでいく国がたくさんあるのだ。

マッカスキルの「効果的な利他主義」への私の疑問は、このように、目の前の不幸に見て見ないふりをする便利な言い訳になるのではないか、というものだ。実際マッカスキルは、(東日本大震災のような)大災害の被災者のために募金することは費用対効果の面で正当化できないと述べている。日本の経済格差も、震災や豪雨や原発災害も、「アフリカに比べればずっとマシ」のひと言でやりすごすことができる。

もうひとつの疑問は、(これは多くのひとが感じるだろうが)この徹底した功利主義(合理主義)に従うひとがいったいどれほどいるのか、というものだ。

手に汗して稼いだお金を使う目的は、なんらかの満足感を得るためだ。それが慈善(いいこと)であるひともいるだろうが、その場合でも、自分にとってもっとも満足感の高い使い方をするはずだし、そうする権利がある。

「あしながおじさん(おばさん)」になって、貧しい(とはいえアフリカに比べればずっと恵まれている)子どもの教育費用を援助する慈善活動を考えてみよう。このプログラムに寄付すると、子どもから直筆の礼状や写真が送られてきて、将来は援助した子どもを訪ねたり、結婚して子どもができたら訪ねてきてくれるかもしれない(すくなくともそういう場面を想像することはできる)。

それに対して「最高の慈善団体」に寄付すると、団体からの礼状と追加の寄付を求めるメールが送られてくるだけだ。大半のひとがどちらを選ぶかは考えるまでもないだろう。

素晴らしい効果が「科学的」に証明されているプロジェクトがあるのなら、ODAなどの資金を使って税金で「寄付」すればいいだけだ。ODAの無駄遣いは強く批判されており、費用対効果をエビデンスベースドで説明できれば有権者も納得するだろう。

それでも、あなたが数少ない「効果的な利他主義者」だとしよう。しかしその場合でも、いますぐ寄付しない経済合理的な理由がある。

あなたが30歳で、一生懸命貯めた貯金が100万円あるとしよう。このお金を「最高の慈善団体」に寄付することもできるが、あなたにはもうひとつ選択肢がある。

100万円を年利5%で運用すると、10年で163万円、20年で265万円、80歳で死ぬまで50年間運用すれば1147万円だ。

功利主義的に考えれば、いままさに死のうとしている子どものWALYと、50年後に死の危機にある子どものWALYは等価だ。そう考えれば、あなたはいますぐ寄付するのではなく、そのお金を運用することでWALYを10倍以上にすることができる。

それにこの戦略には、もうひとつ大きな魅力がある。

いま100万円寄付してしまえば、あとから後悔してもそのお金は戻ってこない。それに対して死亡時まで寄付を引き延ばせば、その間に思想信条が変わったり、あなた自身が経済的な苦境に陥った場合でも、寄付を取りやめることができる。このように考えれば、功利主義者ほど(いますぐ)寄付しなくなるのではないだろうか。

とはいえ、これはたんに私がひねくれているだけかもしれない。きわめて刺激的な考え方であることはまちがいないので、あなたがどのように感じるかを知るうえでもぜひ一読を勧めたい。

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