ユーディストピアにようこそ(『世界はなぜ地獄になるのか』あとがき)

本日発売の小学館新書『世界はなぜ地獄になるのか』のあとがき「ユーディストピアにようこそ」を出版社の許可を得て掲載します。書店さんで見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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社会がよりゆたかで、より平和で、よりリベラルになれば、わたしたちの生活レベルは全体として向上するが、それがさまざまなやっかいな問題を引き起こすことは、もちろん多くの知識人が気づいている。問題は、「だったらどうすればいいのか」の解がないことだ。

「歴史の終わり」で知られるアメリカの哲学者フランシス・フクヤマは近著『リベラリズムへの不満』で、戦後社会の繁栄を支えてきたリベラルデモクラシーが危機に陥っている現状を論じている。リベラリズムは主に3つの政治勢力から、リベラル化が不徹底だとして、あるいは行き過ぎだとして批判・攻撃されている(1)。

(1)リバタリアン(libertarian)

自由を至上のものとするリバタリアンは、国家の統治や規制を最小化し(あるいは解体し)、個人の自由を極限まで拡大することを求めている。この立場は一般に、経済活動の規制撤廃を求める「新自由主義(ネオリベ)」「グローバル資本主義」と呼ばれるが、そのもっとも先鋭的な政治勢力は、暗号技術(クリプト)とブロックチェーンによって、国家や法が恣意的に介入できない自由な世界を創造しようとする「クリプトアナキズム(暗号無政府主義)」だ(「サイファーパンク」ともいう)。

より穏健なサイファーパンクの立場としては、イーサリアム(ブロックチェーンによる社会・経済プラットフォーム)のプロジェクトを主導する起業家・プログラマーのヴィタリック・ブテリンによる非中央集権化・分散化の社会構想がある(2)。人間の社会的な営みの多くをアルゴリズム(分散型アプリケーションとスマートコントラクト)に置き換えていこうとするこの試みはきわめて興味深いが、残念ながらフクヤマは論じていない。

(2)コミュニタリアン(communitarian)

「共同体主義(コミュニタリアニズム)」は、人間は社会的な生き物であり、共同体から切り離されて生きていくことはできないと主張する。穏健でリベラルなコミュニタリアンの代表的な論者はマイケル・サンデルで、フクヤマもここに含まれるだろう。

リベラリズムと敵対するのはより保守的な共同体主義者で、かつてひとびとを包摂していた(とされる)イエや教会、ムラ、あるいは会社のような共同体をリベラル(およびネオリベ)が破壊したとして、「古きよき時代を取り戻せ」と叫んでいる。この懐古的理想主義は「レトロトピア(レトロなユートピア)」と呼ばれ、アメリカのトランプ支持者、イギリスのEU離脱派から日本の右翼・保守派まで、世界中で拡大している(3)。

(3)エガリタリアン(egalitarian)

社会的・政治的平等を意味する「エガリティ(egality)」を重視し、マジョリティとマイノリティのあいだにある構造的差別の解消を求める「左派(レフト)」「進歩派(プログレッシブ)」は、一人ひとりのアイデンティティを重視し、マイクロアグレッションのような小さな差別でも(あるいは小さな差別だからこそ)許されないとする。

「(社会問題に)意識高い系=ウォーク」であるエガリタリアンは、日本ではリベラルと混同されるが、差別に対するリベラルの不徹底を批判・攻撃するキャンセルカルチャーの主体だ。これがリベラリズムの脅威になるのは、言論・表現の自由よりも「社会正義」を優先し、「言論の自由は絶対的な権利ではなく、現状を擁護する抑圧的な勢力によって行使される誤った種類の言論は許容されるべきではない」(ドイツ出身の哲学者で批判理論の先駆者のひとりヘルベルト・マルクーゼ)と主張するからだ。

自由を制限・否定するこうした立場は、自由を至上のものとするリバタリアンだけでなく、科学的方法(仮説・実験・検証)による真実の探求=自由科学を重視する穏当なリベラルも受け入れることはできないだろう(4)。

右派コミュニタリアン(ポピュリスト)の権威主義がこれまでさんざん研究されてきたのに対し、エガリタリアンによるキャンセルカルチャーが近年、注目されているのは、それが新しい現象だからだ。日本での用語の混乱からもわかるように、これはもともとリベラルの運動だったが、悪性の細胞のように、いつの間にか異形のものと化してリベラリズムを侵食・攻撃しはじめた。

フクヤマは、リバタリアンが掲げる「自由」にも、コミュニタリアンが求める「共同体」にも、エガリタリアンの「社会正義」にも、それぞれじゅうぶんな大義があるとする。だがますます複雑化する社会で、すべての理想を叶える魔法のような政治制度は存在しない。だからこそ、誰もが不満を抱えつつも、ほどほどのところで妥協するしかない。これが「寛容」と「中庸」だ。

これは要するに、「あなたが生きているリベラルな社会は、人類史的には(とりわけあなたが先進国に生まれたのなら)とてつもなく恵まれているのだから、実現不可能な理想を振りかざしていたずらに社会を混乱させるのではなく、いまの自分に満足し、小さな改善を積み重ねていきなさい」という提言だ。

ここで、「そんな説教臭い話を聞きたいわけじゃない」と思ったかもしれない。だが、フクヤマがあえて寛容などという当たり前の(凡庸な)ことを主張したのは、すくなくとも現時点では、これ以外の解が存在しないからだ。──ただし、「不寛容な者に対しても寛容になれるのか」という重要な問いに対してはフクヤマは答えていない。

あなたは社会になんらかの不満を抱き、その問題を解決するための正義を必要としているかもしれないが、それは別の誰かの正義とは異なるだけでなく、しばしば真っ向から衝突する。そしてリベラルな社会では、異なる正義に優劣をつけることは原理的にできない。

アメリカ最高裁は2023年6月、ハーバード大などが人種を考慮した入学選考をすることを違憲と判断した。裁判で開示された資料では、アジア系の学生がハーバードに入学するためには、2400点満点のSAT(大学入学のための標準テスト)で白人より140点、ヒスパニックより270点、黒人より450点高い点数を取る必要がある。最高裁はこれを、近代社会の原則である市民の平等に反すると結論した。つづいて同様の理由で、大卒者のみに学生ローンの多額の返済免除を行なうバイデン政権の看板政策を違法とした。いまや保守派が、「リベラリズム」の論理で左派(レフト)に対抗しているのだ。

ここで、「世界がなぜ地獄になるのかはわかった。だったら、どうやってその地獄から抜け出すのか」という問いに答えておくべきだろう。これは、「どうすれば地獄から天国に行けるのか」という宗教的な問いにもなる。

これに対する私の答えは、「天国はすでにここにある」になる。

近代の成立とともに、自然を操作するテクノロジー(科学技術)を手にしたわたしたちは、人類史的には想像を絶するほどのゆたかさと快適さを実現した。しかしそのユートピア(自分らしく生きられるリベラルな社会)から、キャンセルカルチャーのディストピアが生まれた。

天国(ユートピア)と地獄(ディストピア)が一体のものであるのなら、この「ユーディストピア」から抜け出す方途があるはずがない。できるのはただ、この世界の仕組みを正しく理解し、うまく適応することだけだろう。

AIをはじめとする指数関数的なテクノロジーの発展によって、近い将来、なんらかのイノベーションが起きてブレークスルー(脱出口)が見つかるかもしれない(それはおそらくサイファーパンクから生まれるだろう)が、それまではこれが本書の暫定的な結論になる。

地雷を踏むことなく、平穏な人生を歩む一助として役立ててほしい。

2023年7月 橘 玲

(1)フランシス・フクヤマ『リベラリズムへの不満』会田弘継訳、新潮社
(2)ヴィタリック・ブテリン、ネイサン・シュナイダー『イーサリアム 若き天才が示す暗号資産の真実と未来』高橋聡訳、日経BP
(3)ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社
(4)ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅すもの』飯坂良明訳、角川選書

米名門大学の入学選考をめぐるやっかいな問題 週刊プレイボーイ連載(570)

誰もが公正(フェア)な世の中を実現したいと思っているにちがいありません。問題は、一人ひとり「フェア」の基準が異なることです。

アメリカでは、「奴隷制の負の遺産」によって黒人は劣悪な環境に置かれ、じゅうぶんな教育機会を得られなかったとして、それを補うために「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」が導入されました。この政策はその後、「アメリカ社会には暗黙の“白人支配”があり、それを打破するために人種多様性を重視しなければならない」と正当化されることになります。

差別によって苦しんでいるマイノリティに一定の優遇策を講じるのはよいことに思えますが、この制度に対しては、当の黒人からも強い反対がありました。その理由は、近所に白人の医師と黒人の医師がいたとして、自分の子どもが急病になったときにどちらの病院に行くかを考えればわかるでしょう。

白人の医師は優遇措置がないので、医学部の入学試験でも、医師国家試験でも、プロフェッショナルとして要求される水準を満たしていることは明らかです。黒人の医師も同様に優秀かもしれませんが、もしかしたら人種を理由に優遇を受け、本来であれば医師になれない成績でも合格したのかもしれません。

このようにしてアメリカでは、黒人でも黒人の医師を避けて白人の医師にかかるようになりました。子どもの生命がかかっているときに、「人種の平等」などといっている余裕はないのです。一部の黒人知識人は、弁護士や会計士などでも同様の事態が起きているとして、アファーマティブ・アクションは黒人の専門職の信用を崩壊させると危惧したのです。

しかしこうした主張は、「黒人保守派」「右翼」あるいは「アンクル・トム(白人に媚を売る黒人)」などといわれ、はげしい批判を浴びてきました。その後、名門大学を中心に「マイノリティ枠」が既得権になると、もはやこの優遇策に疑問を呈することすらタブーになりました。

ところがその後、アジア系の学生やその親が「アファーマティブ・アクションは不当だ」と訴訟を起こします。裁判に提出された資料では、アジア系の受験者がハーバード大学に合格するためには、2400点満点のSAT(大学進学適性試験)で白人より140点、ヒスパニックより270点、黒人より450点高い点数を取る必要があることが明らかになりました。これは、「人種多様性」の名を借りたアジア系への差別だというのです。

今年6月、米最高裁は人種を考慮した入学選考を違憲とする「歴史的判断」を下しました。この判決は「保守派」判事によるもので、民主党は強く反発していますが、だからといって「選考にあたって人種を考慮するな」という主張を「人種差別」とするのは困難です。

この混乱の背景には、白人によって「抑圧」されているはずの人種マイノリティのなかで、アジア系の学力だけが群を抜いて高いことがあります。しかしこの「事実(ファクト)」を追求するとものすごくやっかいなことになるので、大騒ぎしながらも、無意味な空理空論ばかりが飛び交うことになるのです。

参考:Thomas Sowell (2013)Intellectuals and Race, Basic Books

『週刊プレイボーイ』2023年7月24日発売号 禁・無断転載

リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない(『世界はなぜ地獄になるのか』まえがき)

明後日(8月1日)発売の小学館新書『世界はなぜ地獄になるのか』のまえがき「リベラル化が生み出した問題を、リベラルが解決することはできない」を出版社の許可を得て掲載します。一部の書店ではすでに店頭に並んでいるようです。見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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時代とともに社会の価値観は変わっていく。だがわたしたちは、それに適応して自分の価値観を自在に変えられるわけではない。

綺羅星のごとく男性アイドルを輩出してきたジャニーズ事務所の創設者、ジャニー喜多川に少年愛の性癖があることは、1960年代から業界関係者のあいだでは公然の秘密で、80年代末には元アイドルの告発本がベストセラーになって広く知られることになった。90年代末には『週刊文春』が連続キャンペーンを行ない、それに対してジャニーズ事務所が提訴、一審では文春側が敗訴したものの、東京高裁は「セクハラに関する記事の重要な部分について真実であることの証明があった」と認定し、2004年に最高裁で判決が確定した。

ところが、日本のほとんどのメディアはこの裁判を報じなかった。ジャニーズ事務所の圧力を恐れたからだとされ、たしかにそうした事情もあるだろうが、その背景には「しょせん芸能人の話」という認識があったはずだ。

事態が動き出したのは23年3月、イギリスのBBCが「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」というドキュメンタリーを放映してからだ。4月には事務所に所属していた元タレントが日本外国特派員協会で記者会見し、2012年からの4年間にジャニー喜多川から15回ほどの性的被害を受けたと証言、この「外圧」で追い込まれたジャニーズ事務所は現社長が動画での謝罪を余儀なくされた。

この一連の経緯は、ハリウッドを揺るがせた「#MeToo」とよく似ている。大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラを女優らが実名で告発、性被害を受けた女性たちがSNSで次々と声を上げる世界的な運動へと発展した。

映画界では、新人女優がプロデューサーなど実力者と性的な関係をもつことはよくある話だとされていた。この慣習が黙認されたのは、ハリウッドが特殊な世界だとされてきたからだろう。自ら望んでそこに足を踏み入れた以上、一般社会の常識を期待することはできず、異世界のルールに従わざるを得ない、というわけだ。

権力とセックスのたんなる交換(いわゆる枕営業)であれば、この理屈も成り立つかもしれない。しかしワインスタインは、配役と引き換えに女優に性交渉を強要するだけでなく、女性スタッフにまで性加害を行なっていたことが暴露され、はげしい批判を浴びて映画人としての社会的存在をキャンセル(抹消)された。──その後、強姦など11件の罪で逮捕・起訴され、禁錮16年の刑を言い渡された。

ジャニー喜多川がある種の天才だったことは間違いないが、困惑するのは、その才能が少年愛から生まれたものらしいことだ。70年代や80年代の出来事であれば「そういう時代だった」で済んだかもしれないが、今回の証言で明らかになったのは、最高裁で判決が確定してからも少年に対する性加害が続いていたことだ。

相手が成人なら合意のうえだと説明できても、未成年の場合はどのような弁明も不可能だ。そして現在では、相手の明確な同意を得ない性行為は許されなくなり、とりわけ拒絶のできない小児や少年・少女への性加害は、道徳的には殺人に匹敵する重罪と見なされる。しかし日本の芸能界で大きな権力を手にした80歳過ぎの老人には、こうした価値観の変化に気づくことは難しかったのだろう。

社会がリベラル化すれば異世界は一般社会に回収され、「あのひとは特別」「あそこはふつうとちがうから」という言い訳は通用しなくなってくる。その意味では、ジャニー喜多川は長く生き過ぎたし、その結果、残された者たちは名声と既得権の呪縛にとらわれて身動きがとれなくなってしまったのだろう。

私は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。そんなのは当たり前だと思うかもしれないが、人類史の大半において「自由に生きる」ことなど想像すらできず、生まれたときに身分や職業、結婚相手までが決まっているのがふつうだった。「自分らしさ」を追求できるようになったのは近代の成立以降、それも第二次世界大戦が終わり、「とてつもなくゆたかで平和な時代」が到来した1960年代末からのことだ。

アメリカ西海岸のヒッピームーブメントとともに登場したこの(人類史的には)奇妙奇天烈な思想は、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」とともにまたたくまに世界中の若者たちを虜(とりこ)にした。その影響は現代まで続いているだけでなく、ますます強まっており、もはや誰も(右翼・保守派ですら)「自分らしく生きる」ことを否定できないだろう。

「自分らしく生きたい」という価値観が社会をリベラル化させる理由は、自由の相互性から説明できる。

わたしが自分らしく生きるのなら、あなたにも同じ権利が保障されなくてはならない。そうでなければ、わたしとあなたは人間として対等でなくなってしまう。それで構わないと主張するのは、奴隷制や身分制を擁護する者だけだろう。

このようにして、人種や民族、性別や性的指向など、本人には選べない「しるし」に基づいて他者(マイノリティ)を差別することはものすごく嫌われるようになった。わたしと同じ自由をあなたがもっていないのなら、あなたにはそれを要求する正当な権利があるし、先行して自由を手にした者(マジョリティ)は、マイノリティが自由を獲得する運動を支援する道徳的な責務を負っている。

「社会正義(ソーシャルジャスティス)」をあえてひと言で表わすなら、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくろう」という運動のことだ。そしてこれは、疑問の余地なくよいことである。誰だって、自分らしく生きることを許されない社会(たとえば北朝鮮)で暮らしたいとは思わないだろう。

ここまではきわめてわかりやすいし、自分を「差別主義者」だと公言するごく少数を除けば、異論はほとんどないはずだ。世界も日本も、このリベラル化の巨大な潮流のなかにある。誰もが「自分らしく生きたい」と願う社会では、「自分らしく生きられない」ひとたちの存在はものすごく居心地が悪いのだ。

光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。社会がますますリベラルになるのはよいことだが、これによってすべての問題が解決するわけではない。差別的な制度を廃止し、人権を保障し、多くの不幸や理不尽な出来事をなくすことができるかもしれないが、それによって新たな問題を生み出してもいる。このことをリベラルを自称する知識人の多くは無視している(あるいはそもそも気づいてすらいない)が、それはおおよそ以下の4つにまとめられるだろう。

(1)リベラル化によって格差が拡大する

行動遺伝学の多くの研究によって、社会がリベラルになるにしたがって遺伝の影響が強まり、男女の性差が大きくなることが一貫して示されている。

これは考えてみれば当たり前で、「自分らしく生きられる」社会では、もって生まれた才能を誰もが開花させられるようになるが、知識社会に適応する能力にはかなりの個人差がある。その結果、社会がゆたかで公平になればなるほど、環境(子育てなど)の影響が減って遺伝による影響が大きくなるのだ。

リベラル化で男女の性差が拡大するのは、男と女で好きなこと・得意なことに生得的なちがいが(一定程度)あるからだ。男女の知能の平均は同じだが、男は論理・数学的知能が高く、女は言語的知能が高い。その結果、経済的に発展した国の方が共通テストの平均点が高くなると同時に、男は数学の成績が、女は国語の成績がよいという傾向が見られ、男女の性差は拡大している。

性差だけでなく個人のレベルでも、知能や性格、才能など、わたしたちはかなりの遺伝的多様性をもって生まれてきて、そのちがいは自由でゆたかな環境によって増幅される。誰もが自分の才能を活かすことができるリベラルな社会でこそ、経済格差は拡大するのだ。逆に、独裁者が国民の職業を決めるような専制国家では、(一部の特権層以外の)経済格差は縮小するだろう。

(2)リベラル化によって社会がより複雑になる

前近代的な社会では、個人はイエやムラ、同業組合などの共同体に所属していたから、社会を統制するには何人かの有力者に話をつければよかった。だが「自分らしく生きられる」社会では、個人はこうした中間共同体のくびきから解放され、一人ひとりが固有の利害をもつようになる。その結果、従来の仕組みで利害調整することが困難になり、政治は機能不全を起こすだろう。

(3)リベラル化によってわたしたちは孤独になる

自由は無条件でよいものではないし、共同体の拘束は無条件に悪ではない。あることを自由意志で選択すれば、当然、その結果に責任を負うことになる。逆にいえば、自分で選択したわけではないことに責任をもつ必要はない。共同体は自己責任の重圧からわたしたちを庇護してくれるが、「自分らしく生きられる」社会では、この「ぬくもり」は失われてしまうだろう。

わたしが自由なら、あなたも同じように自由だ。その結果、ひとびとの出会いは刹那的になって、長期の関係をつくることが難しくなる。このことは、日本だけでなく先進国で婚姻率や出生率が低下していることに現われている。

(4)リベラル化によって、「自分らしさ(アイデンティティ)」が衝突する

「自分らしく生きる」ためには、「自分らしさ」を見つけなくてはならない。これが“アイデンティティ”で、「わたしとは何者か」の定義のことだ。このとき、マジョリティは個人的なこと(仕事や趣味など)を「自分らしさ」にできるが、マイノリティは所属する集団(人種、宗教、性別、性的指向など)をアイデンティティとして強く意識する。

自分たちのアイデンティティを社会に受け入れさせようとする運動が「アイデンティティ政治」だが、これによってマジョリティとマイノリティの間だけでなく、マイノリティ集団同士でも軋轢や衝突が起きる。

リベラルを自称するひとたちは多くの基本的なことを間違えているが、そのなかでももっとも大きな勘ちがいは、「リベラルな政策によって格差や生きづらさを解消できる」だろう。なぜなら、そのリベラル化によって格差が拡大し、社会が複雑化して生きづらくなっているのだから。

リベラル化が格差を拡大しているにもかかわらず、「リベラルな政策で格差を解消できるはずだ」という強固な信念を抱いていると、現実と信念の不一致(認知的不協和)を解消する方法は陰謀論しかなくなる。一部の過激なリベラル(「レフト=左翼」や「プログレッシブ=進歩派」と呼ばれる)の主張が、「世界はディープステイト(闇の政府)によって支配されている」というQアノンの陰謀論と不気味なほど似ているのは、どちらも世界に対する認識が根本的に間違っているからだ。

わたしたちは「知識社会化」「グローバル化」「リベラル化」という人類史的な変化のただなかにいるが、誰もがこの未曾有の事態に適応できるわけではない。その結果、欧米先進諸国を中心にはげしいバックラッシュが起きている。これが「反知性主義」「排外主義」「右傾化」で、一般にポピュリズムと呼ばれるが、これはリベラリズムと敵対しているのではなく、リベラル化の必然的な帰結であり、その一部なのだ。──したがって、リベラルな勢力がポピュリズム(右傾化)といくら戦っても、打ち倒すことはできない。

社会がリベラル化すればするほど、そこからドロップアウトする者が増えていくのは避けられない。その典型的な存在が、恋愛の自由市場から脱落してしまった若い男で、日本では「モテ/非モテ」問題と呼ばれ、英語圏では自虐的に「インセル(不本意な禁欲主義者)」を自称している。そしてその(ごく)一部が社会に強い恨みをもち、無差別殺人のような惨劇(非モテのテロリズム)を起こす。日本でも近年、こうした重大事件が目立つようになったのは、母数である「社会からも性愛からも排除された者」が増えているからだろう。

私はこれらのことを『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』(ともに小学館新書)で述べてきたが、その続編となる本書では、「誰もが自分らしく生きられる社会」を目指す社会正義の運動が、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していく現象を考察している。なぜならこれも、リベラル化の必然的な帰結だからだ。

世界はなぜ地獄になるのか──まずは、日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた象徴的な事例から始めたい。