第111回 デジタル化阻むメディアの罪(橘玲の世界は損得勘定)

来年秋に紙の保険証を廃止してマイナ保険証に一本化するという方針をめぐって混乱が続いているが、これはメディアの偏向した報道にも原因がある。

たとえばある全国紙は、政府が「マイナの利点」としているものは紙の保険証でも対応可能だとして、「誤解を与えかねない」と批判した。

記事によると、マイナ保険証を使えば、高額療養費の限度額を超える支払いが確実に免除されるが、「オンライン資格確認システム」を導入済みの医療機関なら、患者が口頭で申し出れば同じことができるという。

紙の保険証では、転職直後に古い保険証を使い、診療報酬請求が差し戻される問題があった。マイナ保険証ではこうした事態を防ぐことができるが、これもオンライン資格確認システムを導入していれば、紙の保険証で対応できると厚労省は回答した。

ここから記事は、マイナ保険証と紙の保険証が同じであるかのように書くが、これはとんでもなく馬鹿げている。厚労省の担当者は、アナログであれデジタルであれ、データベースにアクセスできれば同じ行政サービスが提供できると述べただけだ。

このことは、通帳とキャッシュカードで考えるとわかりやすい。通帳を窓口にもっていっても、ATMマシンを利用しても、銀行のデータベースにアクセスして口座からお金を引き出すことができる。だがこれによって、「紙の通帳はキャッシュカードと同じだ」とか、「通帳の方が安心だからAMTを廃止しろ」などと主張する者はいないだろう。

アナログな通帳や保険証をデジタルのデータベースにつなぐためには、必ず手作業が必要になり、そこでコストが発生する。逆にいえば、コストを度外視すれば、デジタルと同じことをアナログで実現することは理屈の上では可能だ。

ATMを廃止しても、全国のコンビニに銀行窓口を設置すれば、いまと同じ利便性を維持することはできるだろう。だがそのためには、天文学的なコストが必要になる。「マイナ保険証と紙の保険証は同じ」という主張は、デジタル化が遅れることで生じるコストを誰が負担するのかの視点が完全に抜けている。

とはいえ、ICチップとパスワードで本人認証するマイナカードの方式は、現在では一時代前のものになってきている。原理的に考えるなら、これは「アナログな身体とデジタルのデータベースをどう紐づけるか」の問題だから、もっとも確実なのは生体認証だ。

生成型AI「ChatGPT」を開発したオープンAIのサム・アルトマンが、ボット対策としてユーザーの虹彩をスキャンするプロジェクトを始めたように、将来は生体情報で本人認証するのが当たり前になるだろう。だとしたら、デジタル保険証にも虹彩認証を導入すればいい。これなら、高齢者施設が保険証を管理する問題もなくなる。

それにもかかわらず、「進歩派」を自認するメディアは「紙とFAXの時代に戻せ」と率先してラッダイト運動をしている。この国のデジタル化の未来には絶望しかない。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.111『日経ヴェリタス』2023年9月2日号掲載
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ライドシェア導入を目指すのは保守政党という日本の絶望 週刊プレイボーイ連載(575)

今年5月にシンガポール、カンボジア、タイ、8月にフィリピンとインドネシアを訪れました。これらの国に共通するのは、どこもライドシェア・サービスが利用できることです。(シンガポールに本社を置くGrabが普及していますが、インドネシアではGojekと市場を二分しています)。海外SIMを入れたスマホに配車アプリをインストールするだけで、いつでも車を呼ぶことができ、ものすごく便利です。

観光客がライドシェアを好むのは、これまでぼったくりタクシーで何度も嫌な思いをしてきたからです。配車アプリなら目的地までの金額が最初に提示され、到着時にドライバーにその金額を支払えばいいだけの明朗会計です。ドライバーは顧客から低い評価をされると次からマッチングできなくなるので、きれいな車で快適なサービスを提供しようと努力しています(新興国では廃車寸前のタクシーが走っていますが、ライドシェアに登録する車にはきびしい条件があります)。

それに対して日本のタクシーはメーター制で、海外のようなトラブルは起きないとして、業界はライドシェアの導入に頑強に反対してきました。その結果、UberもGrabも日本ではタクシーを呼ぶためのツールでしかありません。

観光振興に「配車実験」を試みた自治体はありましたが、国が中止を指導したり、業界が議員に働きかけて撤回させるなど、どこも本格導入できていません。自家用車を利用して有償の運送業務を行なうことは、「白タク」として違法とされているからです。

ライドシェア不要論の背景には、駅前のタクシー乗り場に客待ちの車の長い列ができていたように、タクシーの供給過剰がありました。ところが運転手の高齢化とコロナ禍で廃業が相次いだ結果、状況は劇的に変わり、いまや地方の空港や大都市の主要駅では、タクシーを待つ客の長い行列ができています。

マイナ保険証への強い反発に見られるように、高齢化した日本では、新しいことへのチャレンジが徹底して嫌われるようになりました。“進歩派(リベラル)”を自認する政党やメディアが、「使い慣れた紙の保険証のほうが安心」と高齢者の不安を煽り、現代のラッダイト運動を主導しているのはその典型です。

しかし現実には、訪日観光客が大きなスーツケースを引きずって右往左往するだけでなく、地方ではタクシーがほとんどなくなり、高齢者が自分で車を運転しなければ買い物にも行けなくなりました。こういう地域でこそ、ライドシェアは必要とされるでしょう。

本来のリベラルは、「よりよい社会」を目指すために、テクノロジーを積極的に活用しようとするはずです。ところが日本では、ライドシェアの導入に意欲を見せているのは菅義偉前首相で、「自分の言ったことなので、(ライドシェアを)必ず実現させる」と語る一方、野党はこの問題にはまったく無関心です。

マイナ問題にしても、ライドシェアにしても、保守派がデジタル化やイノベーションを推進し、(自称)リベラルが「弱者」を盾にそれを阻もうとする奇妙な構図に、現在の日本社会の閉塞感が象徴されているのでしょう。

「「ライドシェア」菅氏が導入に意欲」朝日新聞8月24日

『週刊プレイボーイ』2023年9月4日発売号 禁・無断転載

社会学者がウェルス・マネージャーになったら

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年6月7日公開の「社会学の手法で解明した 超富裕層向けビジネスの内側」です(一部改変)。

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今回は、ブルック・ハリントン『ウェルス・マネージャー 富裕層の金庫番 世界トップ1%の資産防衛』(庭田よう子訳、みすず書房)を紹介したい。原題は“Capital without Borders(国境なき資本)”で、よくある「お金持ち本」の類ではなく、著者はコペンハーゲン・ビジネス・スクール社会学准教授だ。タックスヘイヴン(オフショア金融センター)がわたしたちの生活にどのような(悪)影響を与えているかを大所高所から論じるのではなく、富裕層にさまざまな財産管理のサービスを提供するウェルス・マネージャーの視点から分析を試みようと考えたのだという。

ハリントンが採用した研究手法はエスノグラフィー(参与観察/行動観察調査)で、文化人類学者が伝統的社会に長期間住み込んで文化や風習、ひとびとの生活を内側から観察することから始まったが、近年は現代社会のさまざまなマイノリティ集団(スラムやギャング、移民や性的少数者)へとその対象が拡大されている。

秘密のベールに覆われた超富裕層の世界も格好の参与観察の対象で、そこに気づいたのはハリントンの慧眼だが、いったいどうやって社会学者が富裕層サービスの「内側」に入り込むことができたのだろうか。

プライベートバンクを名乗れるのは協会に加盟している金融機関のみ

2007年11月、ハリントンは2年間のウェルス・マネジメント研修プログラムに参加した。このプログラムを修了するとTEPの資格証明書を得られ、専門家集団の仲間入りができる。

STEPは1991年、ロンドンで設立された。Society of Trust and Estates Practitionersの略で、直訳すれば「“信託と財産(管理)の実務家”団体」ということになる。TEP(Trust and Estates Practitioners)は、このSTEPが認証する資格だ。

STEPがどのように誕生したかを知るには、富裕層サービスの歴史をかんたんに振り返っておく必要がある。

TEP以前、富裕層に財産管理サービスを提供する専門職は「プライベートバンカー」「ウェルス・マネージャー」などと呼ばれていた。

「プライベートバンカー」はもっともよく知れられているが、本来、Private Bankを名乗れるのは「スイス・プライベートバンカー協会」に加盟する無限責任の金融機関だけだ。パートナーが無限責任を負うPrivate Bankでは、株式会社のような有限責任とは異なり、会社の負債を個人資産で弁済しなくてはならない。顧客の資産に対してリスクを共有していることが、顧客(超富裕層)とパートナー(プライバートバンカー)の信頼関係を生み出すのだとされてきた。

ところがその後、グローバルバンクなどが富裕層をターゲットとする「プライベートバンキング業務」を始めたため、Private Bankのインフレが起こった。それがスイスの金融業界などから批判されたため、徐々に「ウェルス・マネジメント」「ウェルス・マネージャー」の呼称が使われるようになった。――日本では銀行や証券会社の富裕層担当のことだ。

UBS、クレディ・スイスはスイスを代表するプライベートバンクだが、株式会社化にともなってスイス・プライベートバンカー協会を脱会しているから、本来ならPrivate Bankを名乗ることはできない。だが歴史的な経緯もあって、どちらも富裕層担当者は「プライベートバンカー」と呼ばれている。かつてPrivate Bankだった金融機関は「特例」扱いされているようだ。

グローバル化にともなって、中国やインドなどの新興国にも続々と億万長者が誕生すると、富裕層向けサービスの需要が大きく膨らんだ。その一方で、急速なIT化(フィンテック化)にともなって、一般顧客向けのリテール業務から利益を得ることがますます難しくなっている。こうして多くの金融機関がウェルス・マネジメントで鎬を削ることになった。

その後、グローバル金融機関のウェルス・マネージャーが富裕層の顧客を担当し、スイスなど歴史のある銀行のプライベートバンカーが超富裕層を囲い込むという(なんとなくの)棲み分けができた。しかし、プライベートバンカー以外にも富裕層にさまざまな財務サービスを提供するひとたちがいる。彼らの多くは弁護士や会計士などの専門職で、フリーランス(個人営業)のこともあれば、資産管理会社に所属していることもある。

彼らは自分たちをウェルス・マネージャー(という銀行員)といっしょにされたくないと思っているが、だからといって「プライベートバンカー」を名乗ることもできない。こうしてTEP(信託と財産の実務家)という新しい職業名が必要になったのだ。

この経緯からわかるように、STEPは秘密結社でもなんでもなく、研修プログラムを受ける時間とお金さえあれば誰でもTEPになれる(もちろん試験に受かれば)。これまで「悪の巣窟」のように扱われてきた仕事を専門職として公認させたいと考えたひとたちが、ノウハウの標準化と資格化を始めたのだ。

顧客はミリオネア(資産1億円)ではなくビリオネア(資産1000億円)

ハリントンが行なったウェルス・マネージャーへの参与観察には、もちろん限界もある。TEPの資格は取得したものの、富裕層相手の実務を行なったわけではないからだ。

とはいえウェルス・マネージャーは通常、ジャーナリストはもちろん学者のインタビューにも応じないし、業界団体は通りいっぺんの回答しかしない。TEPをもっているということは、そんな彼らの本音を引き出すうえで大きなちからになったという。

詳しくは本書を読んでいただくとして、興味深い部分をいくつか紹介しよう。

TEPの顧客はミリオネアではなくビリオネアだ。彼らのビジネスの収益は、顧客の資産規模によって決まる。

顧客が資産100万ドル(約1億円)のミリオネアなら、それを管理することで年1%の手数料を取ったとしても1万ドル(約100万円)にしかならない。そんな顧客が10人いてようやく10万ドル(約1000万円)で、これではウォール街の新入社員の年俸にも満たない。

一方、資産10億ドル(約1000億円)のビリオネアなら、同じ1%の手数料でも年10億円だ。1人のビリオネアはミリオネア1000人に匹敵するが、だからといって資産管理に1000倍手間ひまがかかわるわけではない。この単純な算数から、富裕層サービスの競争はごく一部の(といっても年々増えている)超富裕層に集中し、有象無象のミリオネアは無視されるか、収奪の対象にしかならないことがわかる。――1億円の資産から10%の手数料をぼったくることができれば、カモを10人集めることで年俸1億円を達成できる。

ハリントンがインタビューしたウェルス・マネージャーたちはこんなセコい商売はしないから、彼らが担当するのは超富裕層ばかりだ。

サウジアラビアで働くフランス人のリュックは20~30人の顧客を担当し、それぞれの顧客の資産運用残高は3000万ドル(約30億円)から3億ドル(約300億円)だ。イギリス人のサイモンはシンガポールを拠点とするが、顧客は投資可能な資産を彼のところに「最低でも」5000万ドル(約50億円)は持ち込む。「資産構造を整えるための報酬」はほぼ丸2カ月仕事をして7万5000ドル(約750万円)で、法律の専門家からアドバイスを受ける際は別途10万ドル(約1000万円)を請求するから、「そうでなければ、わたしの料金は彼らにとって割に合わないでしょう」とサイモンはいう。

近年の超富裕層の急増とあいまって、複数のウェルス・マネージャーが一つの家族、または数世帯の家族集団に常勤で雇用される「ファミリー・オフィス」の形態も増えてきた。ファミリー・オフィスの料金体系は運用資産残高に対して0.25~1%で、投資可能な資産が1億ドル(100億円)かそれ以上の者しか相手にされない。

厳密な定義ではないものの、金融業界では、投資可能な資産10万ドル以上でaffluent(裕福)、100万ドル以上がHigh-net-worth individual(HNWI/富裕層)、1000万ドル以上がUltra High-net-worth individual(UHNWI/超富裕層)、1億ドル以上でUltra Ultra High-net-worth individual(UUHNWI/超超富裕層)と呼ばれる。UUHNWIを大きく上回る資産を保有するごく一部の顧客はプライベートバンクの隠語でWhale(クジラ)と呼ばれ、そこから得る手数料で金融機関の収益が決まるため、Whaleを担当する数人のプライベートバンカーが実質的に経営を支配している。

天文学的な数字が並ぶが、じつはウェルス・マネージャーの仕事はグローバルな金融業界では高給のうちに入らない。UUHNWIの担当者で年俸25万ドル(約2500万円)から35万ドル(約3500万円)というから、世間一般の基準ではじゅうぶんに高給取りだが、投資銀行では100万ドル(1億円)単位のボーナスが当たり前だ。そのためウェルス・マネージャーは「女性向け」の仕事と見なされるようになり、TEPの研修でも女性受講者の姿が目立ったという。

ウェルス・マネージャーのいちばんの魅力は、投資銀行などと比べて労働時間が短いことだ。かつてケイマンで先物取引の仕事をしていた女性は、ヨーロッパの顧客に合わせて午前2時に起きて職場に通ったが、ウェルス・マネージャーなら平均的な労働時間は週40時間程度だという。

それにもうひとつ、彼らには特典がある。給与をオフショアで受け取るのだ。それが合法か非合法(脱税)かは国によって異なるだろうが、グロスの給与が減っても実際に使える(ネットの)収入は変わらないことも多いのだそうだ。

金持ちはとても孤独

TEP(ウェルスマネージャー)は超(超)富裕層の莫大な資産を管理するのだから、両者のあいだには特別な信頼関係が必要になる。ロンドンを拠点とするジェームズは、顧客との親密さをこう説明した。

「TEP資格者を選ぶとき、顧客はまずその能力に応じて応募者を仕訳します。顧客は次に、自分について隅から隅まで知ってもらってもいいと思う人を選ばなくてはなりません――母親のレズビアン関係から、兄弟のドラッグ依存症、部屋に乱入する分かれた恋人に至るまで」

だが顧客との信頼関係は容易には生まれない。超富裕層には共通するひとつの特徴がある。ガーンジー島で働くロバートはいう。

「わたしたちから見ると、富についての大きなマイナス点は……金持ちはとても疑り深く、孤独になりがちだということです。会う人はみな自分を利用しようとしていると信じ込んでいるからです」

多くの場合、この猜疑心は被害妄想ではない。超富裕層はたんに詐欺の標的になるだけではなく、相続争いがこじれるとときに犯罪を引き起こす。新興国では家族が誘拐されて多額の身代金を要求されたり、国家権力によって逮捕・拘束され全財産を没収されることすら起こりうる。

だとしたら、どうやって彼らの信頼を獲得するのか。そこにはもちろん教科書的な説明(中世の騎士道から生まれたスチュワードシップ)があるものの、もっとも広く見られるのは「ひとは自分に似たひとを信用する」心理だという。クイーンズイングリッシュを話すパブリックスクール出身者や、(没落した)元貴族階級のウェルス・マネージャーはそれだけで多くのUUHNWIを獲得できるが、ハリントンがインタビューしたなかには、貧しい労働者階級に生まれ船大工をしていたイギリス人、ニックもいた。

ニックはなぜウェルス・マネージャーとして成功できたのか。それは、アメリカズカップのヨットレースの乗組員だったからだ。ヨットは富裕層に人気の趣味で、「自分と同じ大金持ちとつき合ってきた」という経験が信頼関係をつくるのに大いに役立ったのだという。

超富裕層を担当する多くのウェルス・マネージャーが口にするのは、彼らの顧客に「本質的な同一性」があることだ。

ケイマン諸島で仕事をするイギリス出身のニールは、「富裕層の人々は、とてもよく似ています――みんなとてもグローバルで、母国の人間よりも富裕層同士のほうが多くの共通点があります」という。これをハリントンは、「独特のライフスタイルと関心で結ばれた、政治的、社会的に均質な自律的集団」と定義する。

もうひとつの顕著な特徴は、当たり前の話だが、彼らが富を獲得する方法を知っていることだ。ジュネーブを拠点とするブラジル出身のラファエルは、ハリントンにこう語った。

「ビジネスや金を稼ぐ方法について、わたしは顧客から多くを学んでいます。顧客には本当に賢い人がいるのです。彼らが何かに投資したら、わたしもそれを買います」

超富裕層はその莫大な資産をさらに増やすことをウェルス・マネージャーに期待しているわけではない。彼らが手数料を払うのは、資産を保全し、税金を払わずにそれを子どもたちに引き渡すためなのだ。

信託(トラスト)、財団、オフショア法人

ハリントンの『ウェルス・マネージャー』でもっとも興味深いのは、「ウェルス・マネジメントの戦術と技術」と題された章だろう。ここではTEPがタックスヘイヴン(オフショア)を活用しながらどのように顧客の要望にこたえるかが書かれている。

詳しくは本を読んでほしいのだが、(マネーロンダリングなどで)こっそり持ち出した資産を無税で運用する、などという旧態依然とした手法はもはや使われない。キーワードは信託(トラスト)、財団、オフショア法人で、有能なTEPはこれらを組み合わせて合法的に無税で(あるいは最小の税金で)資産を次世代に継承できるスキームをつくる。

日本人にわかりにくいのはヨーロッパにおける信託の考え方で、十字軍の時代にさかのぼるこの仕組みは、「委託者」「受託者」「受益者」によって構成される。

聖地奪還に向かう騎士が、自分が死んでも残された家族が安心して暮らせるようにしたいと考え、土地などの財産を信頼できる人間(騎士や聖職者)に預ける。これが信託の基本で、この場合は、十字軍遠征に参加する騎士が「委託者」、財産を預かる人間が「受託者」、その財産から収入を得る遺族が「受益者」になる。

ここでのポイントは、受益者は財産の所有権を持たないということだ。中世には女性の財産権が認められなかったため、夫が死んで正当な(男性の)継嗣がいなければ、財産は没収されることになっていた。だが信託によってその所有権を受託者に移してしまえば、もはや財産を所有していないのだから、信託財産から利益を得ても権力(王)は手出しできない。

しかしすぐにわかるように、財産の所有権は受託者がもっているのだから、いつでも裏切って自分のものにすることができる。この仕組みが成り立つためには「信義」がどうしても必要で、それが「スチュワードワードシップ」だ。中世においてこの信義を支えたのが「評判」で、受託者が委託者や受益者を裏切ることはもっとも卑劣な(神に唾する)道義的罪悪とされ、上流社会から排斥され余生は汚名にまみれることになった。

欧米においてはこの信託の考え方が現代まで維持されており、財産を信託すると受益者は所有権を喪失したと見なされ、贈与税や相続税の対象から外れる。これを利用した単純なスキームでは、信託に課税されないオフショアの受託者に財産を預けることで、合法的に全財産が非課税になる。

「専門的な破壊」によって国家の富が侵食されていく

アメリカにおいて超富裕層の相続対策に使われる「財団」は信託によく似た仕組みで、財産の一部を社会福祉など慈善事業に拠出することを条件に、財団に寄贈した財産は贈与税・相続税の対象にならない。この場合、財団の理事会が受託者になる。

信託や財団は富裕層の相続財産への課税を免除することで欧米の「身分社会」を実質的に支えているが、そこには障害もある。信託が非課税になる条件は所有権を受託者に譲渡することなので、受益者はもちろん委託者(超富裕層)自身も自分の財産にアクセスできなくなってしまうのだ。――相続税対策としてアメリカで財団が好まれるのは、理事の選定などを通して委託者が資産管理に影響力を行使できるからだ。

それに対してオフショア法人は、株式を保有することで会社=資産をかんぜんにコントロールできる。だがほとんどの国で、オフショアに所有する会社はタックスヘイヴン対策税制の対象となり、利益に対して課税されてしまう。そこでさまざまな地域にオフショア法人と信託(あるいは財団)を設立し、それを組み合わせることで、富裕層が財産への所有権を(かんぜんに)手放すことなく、合法的に税を回避するスキームをつくることがTEPの腕の見せどころになる。

こうした租税回避は、現在はオフショアとの共同作業になっている。先進諸国からきびしい批判を浴びるようになったとはいえ、タックスヘイヴンは「主権国家」なので、超富裕層に都合のいい法律をつくることができる。とはいえ、こうした高度な法律の作成は自力ではできないので、ウォール街や(ロンドンの)シティの法律事務所などがドラフトをつくり、それを「民主的な」選挙で選ばれた国会を通じて制定する。

その象徴が、2003年に法制化されたブリティッシュ・ヴァージン諸島のVISTA(Virgin Islands Special Trusts Actヴァージン諸島特別信託法)で、基本となる事業の経営管理のコントロールを失わずに、ファミリー・ビジネス創業者が自分の会社を信託に預けることが認められた。

同様に、1997年にケイマン諸島でつくられたSTAR(Special Trusts Alternative Regime特別信託代替レジーム)は「目的信託」で、人(自然人、法人)の利益となることが法律で定められている従来の信託とは異なり、特定の目的のためだけに設立することができる。慈善目的以外でも、商業や政治目的にも適用できるため、委託者は自分の意向のままに財産を永続的に世襲させられるようになった。

こうした数々の“イノベーション”は「専門的な破壊」と呼ばれる。これによって国家の影響力は侵食され、超富裕層にますます富が集中して「格差」が拡大していく。

では、どうすればいいのだろうか。

ハリントンは、問題の所在は「富とその所有者の移動能力が、ウェルス・マネージャーの法律と金融のスキルと結びついて、形式上は法の精神を守りながら、実質的にそれをやすやすと反故にできるようになっている」ことにあるという。だとすれば国家(政策立案者)は、こうした抜け道をふさぐことで、「家族紛争の調停や国際企業の複雑な給与スキームの設計のほうが、税法などの「創造的コンプライアンス」よりも、魅力的なビジネスソースになるようにする」ことができるはずだ。

そうなれば、ウェルス・マネージャーは顧客にも国家(ふつうのひとたち)にも有用な存在となり、専門職として社会のなかに確固とした場所を得ることができるというのだが、はたしてどうだろうか。

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