進化心理学の適応至上主義に挑む「美の進化」仮説とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年6月26日公開の「「男女の性戦略の有力な理論「進化心理学」に挑む「審美主義」。生き物の美しさは、性淘汰による「美の進化」の賜物なのか?」です(一部改変)。

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ヒトは進化の過程で直立歩行し、大きな脳をもつようになり、言葉や道具を獲得したが、同様に怒りや悲しみ、よろこびなどの感情(こころ)も進化によってつくられてきた。このように考えるのが進化心理学で、男女の性差は、より多くの子孫を残すため(「利己的な遺伝子」がより効率的に自らの複製を広めるため)の性戦略のちがいから説明される。

男が精子をつくるコストはきわめて低いから、なんの制約もなければ、一生のあいだに何百人、何千人(あるいはもっと)の女と性交し、子どもをもうけることができる。遺伝人類学は、チンギス・ハンのものと思われる遺伝子(Y染色体)をもつ男性が全世界の人口(男)の0.5%(約6000万人)おり、モンゴル人民共和国と中華人民共和国の内モンゴルでは、このY染色体が25%(男の4人に1人)もの高い頻度で見つかったことを報告している(太田博樹『遺伝人類学入門 チンギス・ハンのDNAは何を語るか』ちくま新書)。

それに対して女は妊娠から出産まで9カ月もかかり、子どもが生まれてからも数年の授乳期間が必要になるため、生涯に産める子どもの数には強い制約がある。つまり、卵子のコストはきわめて高い。

男(精子)と女(卵子)の生物学的な極端な非対称性から、それぞれの利益を最大化するよう、異なる性戦略が発達した。男の最適戦略はできるだけ多くの女と性交することで、これは「乱交」だ。一方、女の最適戦略はできるだけ多くの資源を男から獲得し、自分と子どもの安全を保障することで、こちらは「純愛」となる。この性愛戦略の対立が、女と男が「わかりあえない」理由だ――という話は拙著『女と男 女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)をお読みいただきたい。

進化心理学はきわめて高い説得力をもち、脳科学や分子遺伝学の最新の知見によっても補強されている。これを超える理論はもう出てこないと思っていたのだが、鳥類学者のリチャード・O・プラムは『美の進化 性選択は人間と動物をどう変えたか』(黒沢令子訳、白揚社)でその教義に挑戦している。

これはきわめて刺激的な議論なので、今回は拙著と重なる部分を中心に、プラムの唱える「審美主義」を紹介してみたい。 続きを読む →

マルチステージのリカレント教育という幻想

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年1月13日公開の「「人生100年時代」という人類史上未曾有の「超長寿社会」に どう備えるべきか?」です(一部改変)。

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アンドリュー・スコット、リンダ・グラットンの『LIFE SHIFT2(ライフシフト2) 100年時代の行動戦略』( 池村千秋訳、東洋経済新報社)は「人生100年時代」が現実のものになることを説いて日本でもベストセラーになった『LIFE SHIFT(ライフシフト)』の続編で、著者の一人グラットンは安倍元首相から「人生100年時代構想会議」のメンバーに任命された。

著者たちの主張は前作から一貫しており、それをひと言でまとめるなら、「人類史上未曾有の「超長寿社会」とテクノロジーの指数関数的進歩がもたらす激変に備えなければならない」になるだろう。

本作では、「技術的発明」は新たな可能性を生み出すが、それがひとびとに恩恵をもたらすには「社会的発明」が必要になることが論じられる。それにもかかわらず、いまは「技術的発明」だけが先行し、「社会的発明」が大きく出遅れていると著者たちは危惧している。

とはいえ私は、本書の提案に完全に納得しているわけではない。そのことも含めて感想を書いておきたい。 続きを読む →

京アニ事件でこそ死刑廃止を議論すべき理由 週刊プレイボーイ連載(592)

36人が死亡した京都アニメーション放火事件の被告に地裁で死刑判決が下されました(その後、被告側が控訴)。裁判では被告が孤立していく過程が明らかになり、「誰もが自己実現を目指さなければならない」というリベラル化する社会の矛盾が浮き彫りにされましたが、この問題についてはすでに別のところ(『無理ゲー社会』)で書いたので、今回は死刑制度について考えてみたいと思います。

広く知られているように世界の大半は死刑を廃止し、OECD38カ国のなかで死刑制度存置国はアメリカ、日本、韓国のみとなりました。死刑執行が圧倒的に多いのは中国、イラン、サウジアラビアの3カ国で、それ以外の国は徐々に執行数が減っており、この流れは今後も変わらないでしょう。

日本で死刑制度の議論がこじれるのは、リベラルが「いのちは大切だ」と唱えて廃止運動を行なってきたからです。そうなると当然、「理不尽にいのちを奪われた被害者はどうなるのか」という話になり、収拾がつかなくなってしまいます。

ここで指摘したいのは、死刑廃止を推進するのはアムネスティのような人権団体だとしても、死刑を廃止した国がみな「リベラル」というわけではないことです。移民問題で混迷する欧州では近年、排外主義の右翼政党が勢力を伸ばしていますが、だからといって「死刑制度を復活させろ」とは誰も主張しません。

ここからわかるのは、制度の廃止までははげしい対立があったとしても、いったん廃止すると、保守派も含めて誰も元に戻そうとは思わないことです。檻に閉じ込められた動物は、じゅうぶんな食事を与えられていても弱って死んでしまいます。だとしたら、死刑よりも生涯にわたって収監するほうが重い罰かもしれません。

日本では死刑が「極刑」とされているため、死刑に反対すると「加害者を許すのか」と反発されます。ところが2008年、仮釈放のない終身刑を導入するとともに、死刑の執行を一定期間停止するという議論を超党派の国会議員が始めたとき、死刑存置派の元法務大臣は「人を一生牢獄につなぐ刑は最も残酷ではないか」として反対しました。ここでは、死は苦しみから逃れるための「恩寵」とされています。

死刑が犯罪の抑止になるという主張は、死刑廃止国で殺人などの重罪が増えていないことから、いまでは否定されています。そればかりか日本では、「自殺する勇気がない」という理由で死刑を目的とする凶行が相次いでます。被害者の処罰感情が理由にあげられますが、死刑に処してしまえば「なぜあんなことをしたのか」と問うこともできません。

平成から令和の変わり目でオウム真理教事件の死刑囚7名の刑が執行されたように、日本では死刑は「けじめ」であり、被害者遺族に対して「加害者は死んだんだから、不愉快なことをこれ以上蒸し返すな」という社会的圧力に利用されています。

京アニ事件の被告は、裁判での供述をみるかぎり、自分がなにをしたか理解できているようです。だとしたら死刑によって罪から「解放」するのではなく、生涯にわたって自らの罪と向き合わせるという“懲罰”もあり得るでしょう。

これまでの死刑廃止運動は、冤罪事件や、そうでなければ死刑囚が自らの過去を悔い、文学作品を発表するような特殊な例を好んで取り上げていました。しかしこれでは、死刑に対する社会の価値観を変えることはできないでしょう。

京アニ事件のような「誰一人擁護できない犯罪」でこそ、死刑について真剣に議論すべきなのです。

参考:「「終身刑」の創設」加速」朝日新聞2008年6月5日

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