アメリカの「影の大統領」と呼ばれたピーター・ティールとは何者か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年5月24日公開の「アメリカの「影の大統領」、ピーター・ティールの思想とは?」です(一部改変)。

ピーター・ティール

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 ピーター・ティールはいまやシリコンバレーだけでなく、アメリカでもっとも注目される「思想的リーダー」の一人だ。ドイツ人ジャーナリスト、トーマス・ラッポルトによる『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』(赤坂桃子訳、飛鳥新社) が注目されるのも、この特異な人物をはじめて正面から取り上げたからだろう。

著者のラッポルト自身も複数のインターネット企業を創業し、シリコンバレーでもさまざまなスタートアップに投資しているという。しかしなによりも、この本を書いたいちばんの動機はティールが自分と同じドイツ人だからだろう(ドイツの出版社からドイツ語で刊行されたのも同じ理由だ)。

ティールはフランクフルトで生まれ、1歳のときに家族とともにアメリカ、クリーヴランドに移住したが、鉱山会社で働く化学エンジニアの父の転勤で幼い頃は南アフリカや南西アフリカ(現ナミビア)で過ごした。それ以降はアメリカで教育を受けたが、いまでもドイツ語で会話ができるようだ。

本書はラッポルトがさまざまな資料からピーター・ティールの経営戦略や投資術、政治思想を分析したもので、ティール自身にインタビューしているわけではない。ティールはあまりメディアに登場せず、現在のところ、ジャーナリストからまとまった取材を受けたのは『ニューヨーク・タイムズ』などに寄稿するジョージ・パッカーの『綻びゆくアメリカ 歴史の転換点に生きる人々の物語』( 須川綾子訳、NHK出版)に収録されたものだけだろう。

パッカーは全米図書賞(ノンフィクション部門)を受賞したこの本で、オプラ・ウィンフリー(テレビ司会者)、サム・ウォルトン(ウォルマート創業者)、コリン・パウエル(元国務長官)などの大物からサブプライム危機によって深刻な影響を被ったフロリダ州タンパの無名のひとたちまで、さまざまな人物の物語によって1978年から2012年までのアメリカの変遷を浮き彫りにしようとしている。ティールはその主要登場人物の一人で、ここでの記述がその後、ティールの半生を語るときに頻繁に引用されることになった。

なお、ティールの“著書”としては、スタンフォード大学で行なった起業についての講義を聴講生がまとめた『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』( 関美和訳、NHK出版)があり、世界的なベストセラーになった。

「ペイパル・マフィア」の首領(ドン)

ラッポルトは本書の冒頭、「今日のビジネス界でピーター・ティールの名を聴いたことがないという人間がいたら、そいつはまちがいなく三流だ」と宣言する。

ティールは、世界最大のオンライン決済サービス、ペイパルの共同創業者であり、フェイスブック創業期にその可能性に気づいた初の外部投資家であり、CIAやFBIを顧客にもつビッグデータ解析企業パランティアの共同創業者でもある。――パランティアは日本では馴染みがないが、その企業価値は2兆円を超えるといわれている。

雨後の筍のようにスタートアップが出てくるシリコンバレーでも、評価額が10億ドルを超える企業は「ユニコーン」と呼ばれる。ユニコーンは額に一本の角をもつ伝説の一角獣で、「誰も見たことがない」という意味で使われる。ところがティールは、ユニコーン企業をはるかに上回る100億ドル、あるいは1000億ドル級のスタートアップに3つもかかわっているのだ。

ペイパルからは、イーロン・マスク(テスラ・モーターズ/スペースX)、リード・ホフマン(リンクトイン)、ジェレミー・ストッペルマン(イェルプ)をはじめ、シリコンバレーを代表する起業家が次々と生まれている。固い絆で結ばれた彼らは「ペイパル・マフィア」と呼ばれ、ティールがその首領(ドン)だ。

ティールが話題になるのは、ベンチャー起業家やエンジェル投資家としてだけではない。

ティールはスタンフォード大学で哲学を学び、卒業後は法律家を目指したものの挫折し、ニューヨークの虚飾に見切りをつけてベンチャーの道を選んだという、シリコンバレーでは変わった経歴の持ち主だ。大学時代は保守派の活動家として知られ、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を掲げる左派と対立した。

こうした背景から、近年のティールは政治的・思想的な発言でも注目を集めるようになった。とりわけその名を(あるいは悪名を)轟かせたのは、2016年の大統領選でトランプに献金したばかりか共和党の全国大会で応援演説までしたことと、この“逆張りのギャンブル”に勝ってトランプの有力な顧問の一人になり、ティム・クック(アップルCEO)、ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)、ラリー・ペイジ(アルファベットCEO)、シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO)、サティア・ナデラ(マイクロソフトCEO)、イーロン・マスクなどシリコンバレーの大物たちを一堂に集め、新大統領を囲む会合を取り仕切ったことだろう。そのインパクトは絶大で、オンライン政治メディアのポリティコはティールを「影の大統領」と名づけた。

大学では文系に進んだものの、子ども時代のティールはアシモフ、ハインライン、アーサー・C・クラークなどのSFに夢中になり、トールキンの『指輪物語』を少なくとも10回は読んだSFマニアで、13歳以下のチェス選手権では全米7位にランキングされ、数学とコンピュータの天才として知られていた。

保守的な政治志向は当時からのもので、8年生(中学3年生)の社会の授業でレーガンを支持し、保守派の論客の新聞記事を集め、抽象的論理を信奉し、個人の自由を至高のものとするリバタリアンになったという。

起業でもっとも大事なのは「友情」

ウォール街と同じく、シリコンバレーも一攫千金を目指す者たちが鎬を削る弱肉強食の世界だと思われている。そんななかでティールは、起業でもっとも大事なのは「友情」だとしてこう述べている。

「ペイパルの友人たちは特別な絆があります。あれは実に濃い経験でしたよ。当時の濃い経験があるからこそ、僕らはいまでも固い絆で結ばれているんです」

ただしここでいう「固い絆」は、たまたま気の合った相手と仲良くなる、という意味での友情とはちがう。

ニューヨークからシリコンバレーに戻ったティールは、スタンフォード大学の客員講師をしていたときに、6名ほどの聴講生の1人でウクライナ生まれのプログラマー、マックス・レヴチンと出会う、ティールはこの若者とペイパルを共同創業することになるのだが、二人の「絆」がつくられる様子はとても興味深い。こちらはパッカーの本から引用しよう。

それから彼ら(ティールとレヴチン)は頻繁に会うようになり、難問を出し合いながら互いへの理解を深めていった。ほとんどが数学の問題だった。125の100乗は何桁か(210桁)。ティールが出した難問には、まるいテーブルを想定したこんな問題もあった。ふたりのプレーヤーがテーブルの好きな場所に1セント硬貨を重ならないように交互に置き、テーブルからはみ出さずに最後の1枚を置いたプレーヤーが勝者となる。このゲームにおけるもっとも望ましい戦略はどのようなものか。また、先攻と後攻のどちらを選ぶべきか。レヴチンは15分かけて答えを導いた――決め手となるのは、相手の戦略を覆す戦略だ(「覆す」という言葉はティールが好きな表現だ)。

ふたりは難問を出し合うことで、相手がパートナーにふさわしい頭脳の持ち主かどうか互いに品定めしていた。ある晩、パロアルトのカリフォリニア・アヴェニューのプリンターズ・インク・カフェで繰り広げられた勝負は4、5時間にもおよび、最終的にレヴチンでもほんの一部しか解けないような難問をティールが出した。こうして長時間にわたる勝負の夕べはお開きとなり、ふたりは友情と絆を深めたのだった(後略)。

ティールの有名な言葉に「競争する負け犬になるな」がある。ティールによれば、競争は利益を減らす敗者の戦略以外のなにものでもない。もっとも大きな利益をもたらすのは独占であり、そのためには協力こそが最適戦略になる。

ペイパルを創業したティールは、ライバルが追随してくる前にユーザー数で圧倒してデファクト・スタンダードを握ることが成功のカギだとわかっていた。そのためクレジットカードを登録した新規ユーザーに一律10ドルをキャッシュバックするばかりか、既存ユーザーが「お友だち紹介」するとさらに10ドルをプレゼントする大型キャンペーンを始めたのだが、それでも振り落とせないライバルがいた。イーロン・マスクという南アフリカ出身の若者が創業したXドットコムがペイパルにきわめてよく似た送金サービスを開発し、倍の20ドルのボーナスを払ってユーザーを急増させていたのだ。

ここでのティールの決断は、いまやシリコンバレーの伝説となっている。彼は互いに消耗するだけの競争を続けるのではなく、マスクと手を結びWIN-WINの関係になることを選んだのだ。そのためにはCEOを外部から招聘し、マスクに新会社の会長の座を明け渡すこともいとわなかった。

その後、新会社の経営が混乱したことでマスクはCEOの座を解任され、後任にティールが就くことになるが、それでも2人の「友情」は壊れなかった(ティールはマスクのスペースXの有力投資家の一人だ)。しかしこれは、彼らのあいだの特異な“絆”を考えれば、不思議なことではない。

マスクの経歴は、一卵性双生児と見紛うほどにティールとよく似ている。2人とも早熟の天才(ギフテッド)で、コンピュータ・ゲームとSFに夢中になり、野心にあふれ、学校ではいじめられていた。そんな2人がお互いに同類だと認め合ったからこそ、「協力」というきわめて困難な、しかしもっとも合理的な解に瞬時に合意できたのだろう。

しばしば常識の範疇を超える言動

ティールの「友情」の定義が一般とは異なるように、その言動にはときに常識の範疇を超えるものがある。論理数学的知能が極端に高いとしばしば言語的能力が阻害されるが、そうした欠落によるものなのか、あるいは凡人には理解できない計算に基づくものなのかはわからないが、そこに一貫した(わかりやすい)ロジックを見つけることが難しいのだ。

ティールのわかりにくさを象徴するのが、2016年7月、トランプが大統領候補に指名された共和党全国大会での演説だ。白人保守派の熱狂的な支持者を前にして、ティールはこう述べた。

「私はゲイであることを誇りに思います。私は共和党員であることを誇りに思います。でもいちばん誇りに思うのは、自分がアメリカ人であることです」

はたしてティールは、自分がゲイだとカミングアウトすることが、トランプがヒラリー・クリントンを打ち破るのに役に立つと考えたのだろうか。それとも、同性愛者に対して差別的な共和党に対して、大統領候補指名という一大イベントを利用して一矢報いようとの計算ずくの発言だろうか。あるいはそれ以外の(自分のPRや今後の政治活動への布石などの)目的があるのかもしれない。

ティールが創業したパランティアはビッグデータを使ってセキュリティ管理を提供するベンチャーで、最大の顧客はCIAとFBIだ。9.11同時多発テロに衝撃を受けたティールは、「アメリカの自由と安全」を守るためにテクノロジーを活用し、ビッグデータからテロリスト予備軍を抽出し犯罪を未然に防ごうと考えた。

これだけならオーウェルが『1984』で描いたビッグブラザー(超監視社会)そのものだが、ティールはパランティアを「プライバシーと治安のゼロサム・ゲーム」を書き換える企業と定義し、「私たちは政府の干渉から守られ、しかも私たち全員が、一人ひとりちがう存在でいられる場所を確保しなければなりません」と説明している。

ティールによれば、私たちは自由に生きるためにこそ効率的に監視されなければならないのだ。――もちろんこれも、どこまでが本心なのかはわからない。

不死のテクノロジーとリバタリアニズム

2009年4月、ティールは保守派のシンクタンク、ケイトー研究所の論壇フォーラムCATO UNBOUNDに「リバタリアンの教育“The Education of a Libertarian”」という短いエッセイを寄稿した。ラッポルトはこの文章をティールが自らの政治思想を語ったマニフェストと位置づけられているが、やはり読み手を混乱させる。

ティールは冒頭、次のように書く。

「私は、10代の頃に抱いた信念―至高の善の前提となる真の人間的自由(human freedom)-にいまだにコミットしつづけている。私は、搾取的な税制、全体主義的な集産制、死を不可避なものとするイデオロギーに立ち向かっている。これらすべての理由から、私は自分自身を“リバタリアン”と呼んでいる」

リバタリアニズムは自由を至高のものとし、国家(権力)こそが個人の自由を抑圧する元凶だと考える。そのため、国家の暴力行使である徴税に反対し、国家権力のもっともグロテスクな姿である社会主義・共産主義などの「全体主義的な集産制」と敵対するのだが、不死のテクノロジーをリバタリアニズムと結びつけるのはティールの独創だ。

ティールの不死へのオブセッションは、パッカーが(インタビューに基づいて)次のように描写している。これも興味深い記述なので引用しよう。

 ピーター・ティールが死について知ったのは3歳のときだった。1971年、クリーヴランドのアパートで家族と暮らしていた彼は、自分の座っている敷物に目をとめた。ピーターは父親に訊ねた。「これは、どこからきたの」
「牛だよ」。父は言った。(中略)
「牛はどうなったの」
「死んだんだよ」
「どういうこと?」
「つまり、牛はもう生きていないんだ。すべての生き物は死ぬ。すべての人間もね。いつか私も死ぬ。いつかお前も」
この話をしているとき、父は悲しそうに見えた。ピーターも悲しくなった。この日はひどく不安な一日となり、ピーターは二度とその不安を遠ざけることができなくなった。シリコンバレーの億万長者となってからも、死について思うとどうにも心がかき乱された。40年のときを経た現在も、最初に味わった衝撃がはっきりと胸に刻まれている。ほとんどの人々は死を無視することで死と和解する術を身につけるが、ピーターにはどうしてもそれができなかった。和解とは群衆が何も考えずに運命を受け入れる黙従にすぎない。牛革の敷物に座った少年は成長し、死の必然性をすでに1000億の命を奪った事実としてではなく、イデオロギーとして認識するようになった。

いうまでもなくこれは、シンギュラリティ(技術的特異点)によって人工知能が人間の知性を超え、老化や死を克服する“ポストヒューマン”が誕生するという未来学者レイ・カーツワイルの主張と通底している。

海上自由国家から政治の世界へ

ティールの「リバタリアンの教育」は、晦渋な用語こそないものの、その真意を測りかねる文章があちこちにある。たとえば「1920年代以降、生活保護受給者の急増と女性の選挙権の拡大―リバタリアンにとって悪名高いほど手ごわい2種類の有権者―によって、“資本家のデモクラシー(capitalist democracy)”の思想は矛盾語法(oxymoron)になってしまった」という記述。

これをふつうに読めば、「資本家」と「デモクラシー」は本来は調和しているものだが、生活保護受給者と女性に選挙権を与えたことでそれが引き裂かれてしまった、という意味になる。(当然のことながら)女性の参政権を否定しているのかとの批判を受け、編集部が本人に確認したところ、ティールは「しばしばジェンダーギャップと呼ばれる投票パターンについてのありふれた統計的観察」を述べただけで、「どのようなひとも選挙権を取り上げられるべきではないものの、投票がものごとをよくするというほんのわずかな希望も抱いていない」とさらに困惑させる“説明”をしている。

こうした難所を無視してざっくりいうならば、ティールはこの論文で政治(Politics)に対する絶望を告白している。それはリーマンショック後に、野放図な金融機関を国家が莫大な公金を投じて救済したことで権力がますます肥大化することが確実になったからで、こうした「政治」から逃れるためにリバタリアンは、テクノロジーによる新たな自由の領域を開拓しなければならないと説く。

ここでティールは、(1)サイバースペース、(2)アウタースペース(宇宙)、(3)シーステディング(海上自治都市)の3つの可能性を挙げているが、サイバースペース(インターネット)は個人の自由の領域を拡張したものの、それはしょせんヴァーチャルなものでしかなく、アウタースペースのフロンティア(イーロン・マスクが目指す火星への移住)はリアルな自由を実現できるかもしれないが、それにはまだ時間がかかる。そう考えれば、パトリ・フリードマン(経済学者ミルトン・フリードマンの孫)が手掛けるシースティング・プロジェクト(どこの国にも属さない公海上に人口の島をつくり「独立自由国家」を樹立する)こそがもっとも現実的なリバタリアンの目標となる、と主張している。

ただし論文から何年たっても「リバタリアンのための海上自由国家」は建設の兆しすらなく、ティールは2014年時点で、これ(シーステディング)は「ごくささやかなプロジェクト」であり、実現は「はるか遠い将来になるでしょう」と述べている。

ラッポルトは、このことがティールをトランプ支持に向かわせたのだと考えている。「政治」から逃れる術がないのであれば、自ら「政治」に介入するほかはない。その目的は、テクノロジーによって自由な空間をつくるプロジェクトを国家権力に邪魔させないことだ。

この意味では、「大きな福祉国家」を目指すヒラリーよりも、規制のことなどなにも考えていない(自分のことにしか興味のない)トランプの方が、ティールにとってずっと好ましいのだ。

ティールとトランプファミリーとの関係

長くなってしまったが、最後にティールとトランプファミリーの関係について、ラッポルトが興味深い事実を明かしているのでそれを書いておこう。

トランプの娘イバンカとその夫のジャレッド・クシュナーはもともとティールをよく知っていた。それはジャレッドの弟ジョシュアがシリコンバレーのスタートアップ、オスカー・ヘルスの創業者だからで、「非効率な米国のヘルスケアをスリムでユーザーフレンドリーなものにする」ことを目指すこのベンチャーにティールはかなりの額を投資している。

トランプの「デジタル選挙」を仕切ったのがクシュナーで、そのバイブルはティールの『ゼロ・トゥ・ワン』だった。「何かあるとシリコンバレーの友人に電話で相談し、適当な会社を紹介してもらいました」と雑誌『フォーブス』の取材にこたえている。

クシュナーはシリコンバレーのスタートアップのやり方で、100人のスタッフを擁するデジタル選挙事務所を3週間でサンアントニオの郊外に開設し、グーグルマップを使って選挙戦に役立つあらゆるデータを収集した。寄付金を集めるために、これまで行なったキャンペーンの有効性を、AIによる機械(深層)学習を使ってデジタルマーケティング会社に分析させ、4カ月で2億5000万ドル以上を集めた。

とりわけ興味深いのは、以下の記述だろう。

選挙分析の中心となったのはケンブリッジ・アナリティカ社だ。ブレグジットの際に勝者側が雇ったことで名をはせた選挙コンサルティング会社である。同社の背後には、ヘッジファンド億万長者のロバート・マーサーがいる。彼は、トランプ政権の元上級顧問スティーブ・バノンが率いる右派のオンライン・ニュースサイト、ブライトバートを支援している人物だ。

ケンブリッジ・アナリティカは、ファイスブックから膨大な個人データを不正に取得し、それをトランプの選挙活動に利用していたとして廃業を余儀なくされた。この疑惑でマーク・ザッカーバーグは米議会での謝罪に追い込まれ、フェイスブックの株価も急落した。だがこの問題はこれで終わるのではなく、シリコンバレーの大物たちを巻き込んでまだまだ尾を引きそうだ。

*ケンブリッジ・アナリティカについては以下の記事を参照されたい。

トランプ大統領を生んだ「ケンブリッジ・アナリティカ事件」とはなにか?

トランプ陣営が大統領選で有権者の心をハッキングした手法

禁・無断転載

「人類史上最もやっかいな問題」はどうなるのか? 週刊プレイボーイ連載(580)

イスラームの武装組織ハマスが10月7日、パレスチナ人自治区ガザからイスラエルに大規模な襲撃を行ないました。大量のロケット弾を発射するだけでなく、ブルドーザーでフェンス24か所を破壊して侵入した2000人あまりの戦闘員がイスラエルの軍事施設、パーティ会場やキブツ(農業共同体)などを襲い、子どもを含む1400人以上の民間人らを殺戮、イスラエル市民や外国人観光客など200~250人の人質をガザに連れ去りました。

これに対してイスラエルはガザ地区の電気・食料・燃料の補給経路を断つ「完全封鎖」を行ない、高層住宅、中心部の大学、モスクなど「ハマスの拠点」と見なした建物にはげしい空爆を実施。こちらの犠牲者は7000人を超えたとされます。

イスラエルとパレスチナの対立は「人類史上最もやっかいな問題」ともいわれ、今回の事態に至った原因を追究しようとすれば、それぞれの立場によってまったく異なる主張になるでしょうが、それでも国際社会は以下の4点でおおむね合意しています。

① 民間人を標的としたハマスの襲撃はテロであり、とうてい容認できない。
② イスラエルには自国の市民を守る権利と義務がある。
③ イスラエルがテロ組織であるハマスの殲滅を目指すのは当然である。
④ ただし、ガザ市民の犠牲は最少限にしなければならない。

「天井のない監獄」と呼ばれるガザは、福岡市ほどの面積に220万人が暮らしています。ガザ地区に潜むテロリストを掃討するために地上部隊を投入すれば、一般市民に深刻な被害が出ることは避けられません。それでも、人質をとられたままなにもしないというわけにはいかず、侵攻以外の選択肢はないでしょうが、これはイスラエル軍を市内におびき寄せるための、当初からのハマスの計画かもしれません。

イスラエルの軍事行動でガザの女性や子どもが犠牲になるようなことがあれば、それが動画で撮影されてSNSにアップされ、20億人を超える世界のムスリムはもちろん、欧米のリベラルからも強い非難を浴びることは間違いありません。「人道的」であることが絶対条件になっている現代社会において、市民のいかなる犠牲にも無関心なテロリストを相手にできることはかぎられているのです。

ガザ地区はイスラエルが占領していましたが、2005年に“極右”のアリエル・シャロン首相が入植者と国防軍を一方的に退去させる決断をしました。200万人を超える住民から憎まれながら、占領統治を続けるのは不可能だと判断したのです。

いまのネタニヤフ政権は「イスラエル建国史上最右翼」とされますが、膨大な犠牲を払ってまでガザ地区を再占領する判断は難しいでしょう。とはいえ、どこまで「報復」し、どうやって終わらせるかの目途はまったくたっておらず、このままでは泥沼に引きずりこまれてしまいます。

占領地や植民地で支配・被支配の関係をつくれば、かならず憎悪の連鎖が始まります。イスラエルはホロコーストを体験した者たちが、差別のない(ユダヤ人も含め誰も差別されない)社会をつくるという高い理想を掲げて建国しましたが、同じ罠に落ちたようです。

参考:ダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』鬼澤忍訳、NHK出版

『週刊プレイボーイ』2023年10月23日発売号 禁・無断転載

トランプ大統領の「側近」となった陰謀家スティーブ・バノンのオカルティズム

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年7月2日公開の「トランプ大統領誕生に寄与し、ホワイトハウスに
「ケイオス・マジック」を持ち込んだスティーブ・バノンという不気味な存在」です(一部改変)。

ブロンディのゲイリー・ヴァレンタイン(ラックマン)とデボラ・ハリー

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今回はゲイリー・ラックマン『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』( 安田隆、小澤祥子訳。ヒカルランド)を紹介したい。原題は“Dark Star Rising: Magick and Power in the Age of Trump” (ダークスター興隆 トランプ時代の魔術とパワー)。

トランプの大統領選出に介入したとされるイギリスの選挙コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカの内部告発者、クリストファー・ライリーは、“Mindf*ck”(マインドファック)で、スティーブ・バノンというきわめて興味深い人物について述べている。バノンはトランプの選挙対策本部を仕切り、政権発足後は首席戦略官としてイスラーム圏からの入国制限令やパリ協定からの離脱、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)脱退を主導した。

バノンの不気味な存在感はトランプ政権のなかでも際立っており、大きな注目を集めたものの、「バノンとは何者か」をメディアはまったく説明できなかった。それに対してラックマンは、トランプとバノンを生み出した背景には「自己啓発」と「魔術」があるというきわめて刺激的な主張をしている。

ゲイリー・ラックマンは1970年代後半に大ヒットを連発したアメリカのロックバンド「ブロンディ」の創設メンバーで、ベーシストだった(当時はゲイリー・ヴァレンタインと名乗っていた)。なぜ人気バンドのミュージシャンがオカルト研究家になるのか? それを知りたいと思ったのもこの本を手に取った理由だ。

トランプの人生の師ノーマン・V・ピールの「成功哲学」

ドナルド・トランプは父親のフレッドに連れられて、幼少期からニューヨーク5番街のマーブル協同教会の礼拝に出席していた。説教壇に立っていたのはノーマン・V・ピールという牧師で、1952年に出版したベストセラー本で知られていた。書名は“The Power of Positive Thinking(ポジティブ・シンキングのパワー)”で、日本では『積極的考え方の力 成功と幸福を手にする17の原則』(月沢李歌子訳、ダイヤモンド社)として新訳が出ている。ピールは「ポジティブ・シンキング」という言葉を世界じゅうに広めた自己啓発界の大物だった。

トランプは、人生で2人の師がいたことを認めている。ひとりは父親、もうひとりはピールだ。トランプはピールを「偉大な教師であり、偉大な演説者」と呼び、「心はあらゆる障害を克服できる。わたしはネガティブなことは考えない」と述べている。トランプの成功哲学は、ピールから直々に伝えられたものだ。

『積極的考え方の力』は、「自分自身を信じよう。自分の能力を信頼しよう」という言葉から始まる。なぜなら、「自分に対する自信は、自己実現と成功につながる」から。そのためには、つねに“成功”を思い描き、肯定的なことを口にし、神から力(パワー)を受け取っていると信じることが重要だ。これだけならきわめて真っ当な人生訓に思える。

だがラックマンは、ピールの「ポジティブ・シンキング」はニューソート(New Thought/新思考)の系譜につらなるものだという。ニューソートは19世紀アメリカに興ったキリスト教の新潮流だが、その源流は古代ギリシアやインド(ヒンドゥー)にまでさかのぼる。その本質をひとことでいうなら、「思考は現実化する」だ。

ノーマン・ピールは、ジョセフ・マーフィー(『眠りながら巨富を得る』)、デール・カーネギー(『人を動かす』)、ナポレオン・ヒル(『思考は現実化する』)など初期のニューソート作家たちの本を読んで、「思考はものごとの原因になる」と理解した。その思想は、「祈り化(Prayerize)」「映像化(picturize)」「現実化(actualize)」の3ステップにまとめられる。

「心は現実に対して直接的に影響を与えることができ、精神的努力のみで「ものごとを実現する」ことができる」というのがニューソートの思想で、それはアメリカにおいて、「霊的成功(信仰)」と「現世的成功(経済的繁栄)」を両立できるという現代的なキリスト教思想を形成した。聖書は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と説くが、ニューソートは「清貧」を否定し、カエサルのものも神のものも両方手に入れることができると説いたのだ。

ピールの説教は、当時から「異端」として批判されていた。祈りによって思考が現実化し、成功を手にできるとしたら、神はたんなるキャリアアドバイザーに成り下がってしまう。ピールは自己や成功を神の上に置き、よい人生を手に入れるためにキリストを利用しているというのだ。

だが空前の繁栄を謳歌したアメリカでは、ピールの説教は熱烈に受け入れられた。経済的成功は神の恩寵の証明であり、強く祈れば夢は実現するというのは、成功を目指すひとびとがまさに聞きたいと思っていた言葉だったのだ。

こうした「成功哲学」は、アメリカ社会のすべてにわたって組み込まれている。It CAN be done(やればできる)、Just DO It(とにかくやるんだ)、Be All You Can Be(最大限の自分になれ)などのよく知られた言葉は、すべてニューソートの思想から生まれたという。

幼少時からピールの説教を聞いて成長したトランプは、アメリカ流の成功哲学の申し子だ。だがポジティブ・シンキングは、ときに「ライトマン(Right Man)」を生み出すとラックマンは警告する。これは「いかなる状況においても誤りを認めず、自分の道を貫くためなら何事も厭わない人間」のことで、つねに自分は正しく(right)相手は間違っている(wrong)と考える。ライトマンにとっては勝利がすべてであり、成功がすべてに勝る。

トランプは、あらゆるものごとを善悪二元論で解釈し、けっして誤りを認めず、取引はゼロサムゲームだとして勝利のみを追い求める。こうした発言・行動は奇矯なものに思えるが、それがアメリカ社会で(それなりに)受け入れられているのには理由があるのだ。

ピールは、「自分が肯定し、可視化したことは真実であるという仮定のもとで行動せよ。肯定し、可視化し、信じるのだ。そうすればおのずと現実化するだろう」と説いた。だが、どのような夢でも祈りによって実現できるとしたわけではない。ポジティブ・シンキングが有効なのは「達成可能な現実」だけで、「明らかに不可能なことや、起こる可能性が無いこと」を映像化しても効果がないという。

だがこれでは、「成功哲学はつねに正しい」ことになってしまう。強く祈っても夢が実現しないとすれば、それはもともと「達成不可能な現実」だったのだから。

スティーブ・バノンの挫折ととてつもない成功

トランプが「成功哲学」の申し子だとすると、スティーブ・バノンはニューソートの魔術的側面を代表しているとラックマンはいう。思考が現実化するとしたら、それは経済的な成功をもたらすだけでなく、自分が思うとおりに社会を変革することもできるはずだからだ。こうしてニューソートとパワー(権力)が結びつく。

バノンは1953年、アイルランド系カトリック教徒の労働者階級の家に生まれ、ヴァージニア州リッチモンドの私立カトリック系高校を卒業後、ヴァージニア大学工科大学で学生自治会長を務めた。大学卒業後は7年間、太平洋艦隊第7艦隊の海軍大尉として艦上勤務につき、ジョージタウン大学外交大学院で安全保障の修士を取得して海軍を退役。ハーバードビジネススクールでMBA(経営学修士)を優等で取得したあと、ゴールドマンサックスで4年間、投資銀行業務に従事した。最後の2年間はロサンゼルスのメディア産業を担当したが、中間管理職以上には出世しなかったという。

1990年、37歳のときにエンタテインメント産業を専門とする投資コンサルティング会社「バノン社」を設立して独立、成功を収めたとされるが、バノンへの取材にもとづいてトランプ政権の内幕を描いたジャーナリスト、マイケル・ウォルフは、『炎と怒り トランプ政権の内幕』( 関根光宏、藤田美菜子訳、早川書房)で、「少額の資金をインディペンデント映画に投資したがヒット作はなかった」と否定的に書いている。メガヒットドラマ『となりのサインフェルド』の権利の一部を取得したともされるが、「主演者たちも制作陣もプロデューサーもそれまでバノンのことなど聞いたこともないようだった」。

1990年代半ばには、アリゾナの砂漠につくったガラス張りの巨大な閉鎖空間にさまざまな動植物を持ち込み、科学者がそこで生活する「バイオスフィア2(第二の生物圏)」プロジェクトにかかわったが、これはタイム誌の“20世紀でもっとも愚かな計画100”に選ばれ、150億円の巨費が投じられたもののわずか2年間で実験は放棄された。バノンは「プロジェクトの崩壊を早め、パワハラと破壊行為で訴えられただけだった」とされる。

2005年にはインターネット・ゲーミング・エンタテインメント(IGE)という、オンラインゲーム内の仮想通貨を取引する会社の資金集めに参加し、創業者が未成年者への性的虐待で訴えられて会社を追われたため、CEOとして08年まで香港と上海に滞在した。

バノンは自らの天命を強く意識していたものの、「ありあまる富が成功の尺度とされる世界で金欠に喘いでいた。始終何かを企んでいては、始終挫折していた」とウォルフは書く。性格も競争的で攻撃的な「タイプA」で、酒でつまずき、3度の不幸な結婚と泥沼の離婚訴訟に苦しめられていた。

バノンの転機は、保守系オンライン・ニュースサイト、ブライバート・ニュースの創業者、アンドリュー・ブライバートと知り合い、大富豪のロバート・マーサーを紹介されたことだった。マーサーはヘッジファンド、ルネッサンス・テクノロジーズのCEOとして巨万の富を築き、その資金を保守系の政治運動に提供していた。ブライバート・ニュースもロバートとレベッカのマーサー父娘が事実上所有しており、2012年にブライバートが死ぬと、バノンがマーサー家の代理人としてビジネスを引き継ぐことになる。

バノンはゲーム業界における女性差別を議論する「ゲーマーゲート事件」に積極的にかかわり、「炎上商法」でアクセスを稼ぐとともに、のちに「オルタナ右翼」と呼ばれるようになる運動のプラットフォームを提供した。オルタナ右翼は日本の「ネトウヨ」に近いが、アメリカでは高学歴の白人至上主義者リチャード・スペンサー(ヴァージニア大学で芸術学を学び、シカゴ大学修士、デューク大学博士)がウェブサイトAlternativeRight.comを起ち上げ、組織化している。

マーサー父娘は当初、テキサス州上院議員のテッド・クルーズを共和党の大統領候補として支援していたが、クルーズが撤退するとトランプに乗り換え、2016年8月にバノンを選挙対策本部に送り込んだ。

トランプ政権には、ジェームズ・マティス、ジョン・ケリー(ともに元海兵隊大将)、H.R.マクマスター(元陸軍中将)、ゲイリー・コーン(元ゴールドマンサックスCEO)などの大物が参加した。海軍を大尉で退役し、ゴールドマンサックスでは中間管理職にしかなれなかったバノンは、トランプの側近として政権内で彼らより大きな影響力をもつことになった。

バノンが「成功哲学」を信じていたかどうかはわからないが、「ネトウヨサイト」のたんなる管理人だったことを考えれば、それは掛け値なしにとてつもない「成功」だった。

バノンの黙示録的神秘主義

ゲイリー・ラックマンは、魔術(オカルト)の新しい潮流を「ケイオス・マジック(chaos magic)」と呼ぶ。この「混沌魔術」は、1976年にセックス・ピストルズが「アナーキー・イン・ザ・UK」をリリースしたときに始まったという。ラックマンによれば、セックス・ピストルズは「パンク魔術師」で、この系譜にはウイリアム・ギブソンのSF小説『ニューロマンサー』(1984年)などのサイバーカルチャーも含まれる。ブロンディのベーシストだったラックマンは、70年代から80年代に興った文化運動を「ポストモダンの魔術」ととらえていたのだ。

「ケイオス・マジック」はカオス理論(複雑系)からとった名称だ。バタフライ効果は、ブラジルで一匹の蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起きるとする。この初期値鋭敏性をケイオス・マジシャンたちは、「正しい時、正しい場所で正しくタップすれば、状況は望む方向に動かせる」と解釈した。ネット文化(サブカルチャー)から登場し、アメリカ大統領を動かすパワーを手にしたバノンは、ラックマンにとって「カオスの魔術師」そのものに映ったのだ。

これをラックマンの妄想と一笑にふすことはできない。たとえばクリストファー・ライリーは、“Mindf*ck”(マインドファック)でバノンについてこう書いている。

「バノンは「大きな政府」と「巨大資本主義」を、人間の経験にとって必須の偶然性(randomness)を抑圧する失敗とみなした。彼はひとびとを、彼らに代わって選択し、彼らの人生から目的を取り去る管理統制国家から解放しようとしていた。彼は確実性(certainty)の専制に終止符を打つため、混乱(chaos)を引き起こそうとしていた。スティーブ・バノンは国家にアメリカ人の運命を指図させるつもりもなければ、そのことに耐える気もなかった」

マイケル・ウォルフは『炎と怒り』で、ケイティ・ウォルシュ(大統領次席補佐官)の「混沌(カオス)こそがバノンの戦略」という言葉を紹介している。現代政治は政敵やそのキャリアを叩きつぶすための、血で血を洗う陰謀論の応酬であり、バノンはさまざまな陰謀論を巧みに操る術を知っていた。ケイオス・マジックが「混乱を引き起こす」ことだとすれば、バノンはそれをホワイトハウスに持ち込んだのだ。

バノンの愛読書はアメリカの歴史家ウィリアム・ストラウスとニール・ハウの『フォース・ターニング 第四の節目』( 奥山真司監訳、森孝夫訳、ビジネス社)で、アメリカは40年ごとに世代的危機を迎え、その「転換期」がいままさに訪れたのだと信じていた。もう一冊の座右の書がフランスの作家ジャン・ラスパイユが1973年に発表した“Camp of the Saints(聖人たちのキャンプ)”で、イスラームではなくインドからの「移民艦隊」の来襲によってヨーロッパ文明が崩壊する。「破壊的な地球規模の衝突が近づいている」とバノンはメディアに語った。

バノンの世界観では、アメリカは敵対する二つのグループに分かれており、「必ずどちらかが勝ち、もう一方が負ける。どちらかが支配し、もう一方は隅に追いやられる」。その黙示録的な神秘主義がトランプの「成功哲学」と不気味に共振し、現代の内戦である「文化戦争」が勃発したのだ。

オルタナ右翼の「意志の勝利」

「オルタナ右翼」という言葉をつくったリチャード・スペンサーは、ドナルド・トランプの当選が決まると、集会で「ハイルトランプ、ハイル人民、ハイル勝利!(Hail Trump, hail our people, hail victory!)」と叫び、参加者はナチス式敬礼で応えた(スペンサーはのちに、これはナチスの「ハイル」ではなくローマ式の「ヘイル」だと弁明した)。そのスペンサーは、「われわれはドナルド・トランプが政権の座につくことを望み、その夢を実現したのだ」と宣言した。

ラックマンはこれを、ケイオス・マジックの典型だとする。オルタナ右翼たちの「意志」の力によって現実が変容し、トランプ大統領という「勝利」に結びついたのだ。

これこそまさに「意志の勝利」だが、ラックマンは、これはニーチェ哲学の誤解だと述べる。『アンチ・クリスト(反キリスト者)』のなかでニーチェは、パワー(力)についてこう書いている。

善とはなにか?――パワーの感覚を高めるすべてのものである。パワーへの意志、人におけるパワーそのものである。
悪とは何か?――弱さから生じるすべてのものである。
幸福とは何か?――パワーが増大する――抵抗が克服される――という感覚である。

ここでのパワーは日本語では「権力」と訳され、ニーチェが理想とした「パワーをもつ者」は「超人(英訳でもsuperman)」だが、これはいずれも誤訳だとラックマンはいう。ニーチェは他者に対して権力をふるうのではなく、自分自身を「克服」(overcome)することを説いたのだから、目指すべきはSuperman(超人)ではなくOverman(超克する人)なのだ。

「(ニーチェにとって)最も偉大なパワーの感覚は、自分自身の弱さと能力を超克し、自己を超えて成長することから生まれる」とラックマンはいう。ここで思い出すのは白鳥春彦のベストセラー『超訳ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)で、「ニーチェを自己啓発本にした」とずいぶん批判されたが、じつはこちらの解釈の方が正しいのかもしれない。

スティーブ・バノンがリチャード・スペンサーのように、トランプ当選を「人民の意志の勝利」と見なしていたかどうかはわからない。しかしこれがアメリカの大きな「転換期」であり、その混乱を極限まで推し進めるべきだと考えていたことは間違いない。ウォルフはホワイトハウス内の雰囲気を、「バノンは孤立主義的な世界観だけでなく、黙示録さながらの世界観まで持っていた。世界が焦土と化しても、それに対してできることは何もないというわけだ」と書いている。

バノンは、20世紀イタリアのオカルティストであり、秘教哲学者でもあったユリウス・エヴォラの信奉者だとされている。エヴォラは「近代性は人間性の将来的な崩壊の原因」とするトラディショナリズムを唱えた。

秘教哲学におけるトラディショナリズムはたんなる伝統主義ではなく、「古に現実世界の真理を示す原初の啓示が人類にもたらされ、そこからすべての主要な宗教が興った」と考える。人類史のはじめに「原初の啓示が下された黄金期」があり、人類はそこから退廃の道へと堕ちていったのだ。銀の時代、銅の時代、鉄の時代を経て、近代世界は「その失墜の過程のなかでも最も暗く、最もどん底のステージ」とされた。

この没落を反転させ、ふたたび黄金期を取り戻すためにエヴォラたちオカルティストが期待したのがムッソリーニやヒトラーなどの「ファシズム」だ。そこで唱えられたのがシナルキー(synarchy)で、これはアナーキー(anarchy/無政府)の対義語だという。シナルキーは「全体主義的なカースト制でつながる有機的社会秩序」で、国家を生命体のようにとらえるのが特徴だ。

ここでオカルト(魔術)とファシズムがつながるのだが、すくなくともバノンはファシズムを目指しているわけではなかった。彼もまた社会を「伝統(トラディション)」へと回帰させようとしたが、それはアメリカがもっともゆたかで輝いていた時代で、ひとびとは政府(体制)に拘束されることなく、自助自立によって「自己実現」していた(はずだ)とされた。

ウォルフは、「アメリカ人労働者の美徳と気質と力によって築かれた1955年から65年ごろのわが国こそが、バノンが守ろうとしている理想であり、復興させようとしている国の姿だった」と書く。メキシコとの国境に壁をつくるのは労働者(アメリカ文化、アメリカのアイデンティティ)を守るためであり、国際的孤立は労働者階級の兵士たちが戦場で犠牲になるのを拒否することだった。

「革命家」たるバノンは、挫折し鬱屈した白人労働者たちに社会は変革できるという「夢」を与えた。だがそれはファシズムではなく、懐古的なコミュニタリアニズム(共同体主義)であり、「三丁目の夕日」の思想というべきだろう。

では、トランプの「魔術」とはなんだったのか? これについては、ウォルフの『炎と怒り』から印象的なエピソードを挙げておこう。

かつて、億万長者の友人とその連れの外国人モデルとともに自家用飛行機で出先から戻る途中、トランプは友人のデートに水を差そうと、アトランティックシティに立ち寄りたいと言い出した。自分が経営するカジノに案内しようというのだ。友人はアトランティックシティに見るべきものなどないと言った。いるのは白人のくず(ホワイト・トラッシュ)ばかりだ、と。
「“ホワイト・トラッシュ”って何?」とモデルが尋ねた。
「私みたいな連中のことだよ」とトランプが答える。「ただし、私と違って貧乏だがね」

これが、「岩盤支持層」といわれる白人労働者を惹きつけるトランプの「ケイオス・マジック」なのだろう。

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