サンデル教授は「先祖の罪を償うべきか」という道徳的な問いを立てたが、国家を法人と考えるならば、「償う」べき主体は国民一人ひとり(個人)ではなく、法人の代表権者(日本では内閣総理大臣)となるだろう。
では次に、「誰に対して償うべきか」という問題を考えみよう。ここでも同様に、謝罪の対象は個人と法人の二つのケースが考えられる。 続きを読む →
サンデル教授は「先祖の罪を償うべきか」という道徳的な問いを立てたが、国家を法人と考えるならば、「償う」べき主体は国民一人ひとり(個人)ではなく、法人の代表権者(日本では内閣総理大臣)となるだろう。
では次に、「誰に対して償うべきか」という問題を考えみよう。ここでも同様に、謝罪の対象は個人と法人の二つのケースが考えられる。 続きを読む →
ヒトは社会的な動物なので、私たちは生得的に、ひとの集団を「ひと」と見なすようにプログラムされて生まれてくる。
近代的な市民社会は自由と自己責任を原則とする市民(個人)によって構成されるが、実態としては、さまざまなひとの集団が協調したり対立したりして社会を動かしている。ひとの集団をいっさい認めず、すべてを個人に還元してしまうと、社会を適切に管理・運営できなくなるのだ。
こうした矛盾を回避するための方策として考え出された便利なアイデアが、ひとの集団にも法的な人格を認める「法人」だ。私たちの社会でもっとも馴染みのある法人は会社で、その権利や義務は会社法で規定されている。 続きを読む →
「リバタリアニズムとコミュニタリアニズム」というエントリを書いた時に、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(これは素晴らしい本だ)を読んでいて、もうちょっとちがう議論ができるんじゃないかと感じたことを思い出した。このままだとすぐに忘れてしまうので、ちょうどいい機会だからアップしておきたい(長文なので3回に分けます)。 続きを読む →