私たちが請求されるデモクラシーのコスト 週刊プレイボーイ連載(6)

菅首相が将来の退陣を約束したものの、日本の政治はますます混迷の度合いを深めています。この原稿を書いているのは内閣不信任案が否決された翌日ですが、1週間後になにが起きているかはだれにも予想できません。

なぜこんなことになってしまうのでしょう。この謎は、理屈としては説明可能です。

アメリカの市井の思想家ジェイン・ジェイコブズは、人間社会には「市場の倫理」と「統治の倫理」という相異なる正義の原理があると述べました。

市場の倫理というのは「商人道」のことで、勤勉や倹約を尊びますが、もっとも重要な掟は「契約を遵守すること」です。顧客との約束を守らず、不良品を売りつけたり、請求額を水増しするようではだれも信用してくれませんから、市場から退出するほかありません。

その一方で、真面目に商売をしていればその評判はやがて広まって、遠方からも客がやってくるようになるでしょう。商人道においては、正直者は報われるのです。

統治の倫理は「武士道」のことで、権力闘争における正義の掟です。

戦国時代劇でおなじみのように、権力闘争の目的は、集団のなかで一番になること(国盗り)と、異なる集団のなかで自分の集団を一番にすること(天下平定)です。もちろん全員が勝者になれるわけはないので、集団のなかでどのように振舞うかも大事です。

権力闘争では、リーダーは仲間を集め、徒党を組んで頂点を目指します。そこでは嫉妬や憎悪、裏切りや復讐など、むき出しの欲望がぶつかり合いますが、それと同時に、リーダーは一族郎党を死地へと向かわせるのですから、名誉を重んじ、友の死に涙し、運命に向かって勇敢に立ち向かう人間的な魅力も不可欠です。

政治というのは、権力闘争の世界です。どれほど立派な理屈を唱えても、権力を握らなければオウムや九官鳥と変わりません。この冷酷な掟が、あらゆる権謀術数を正当化するのです。

金銭スキャンダルで閑職に追いやられた有力政治家がいて、そこに天変地異による大災害が起きたとします。彼がひとびとのために尽くしたいと思えば、なにをおいても権力を奪い返さなければなりません。

もう一人の政治家は権力の座にあるものの、その座から引きずり下ろされようとしています。しかし権力を失ってしまえばもはやブリキの人形と同じですから、どのような手段を使ってでもいまの地位を守ろうとあがき、それが無理ならすこしでも自身の権力を温存しようと画策します。

この状況は、主観的にはそれぞれが「絶対の正義」を体現していますから、外部からの調停や理性による解決は不可能です。鳩山前首相は、菅首相を「ペテン師」と非難しました。しかし統治の倫理では、仲間を欺いてでも目的を遂げることがすべてです。戦国武将なら、相手の首をとらなかった愚かさを笑うでしょう。武士道では、正直者は馬鹿を見るのです。

日本の政治で起きているのは、正しい意味での権力闘争です。政治学はこれを、「デモクラシーのコスト」と呼びます。

民主政が独裁制よりすぐれているのは確かです。しかし困ったことに、私たちがどれだけのコストを支払えばいいのかは見当もつきません

『週刊プレイボーイ』2011年6月20日発売号
禁・無断転載

主婦の年金問題と正義の幼稚さについて

主婦年金の救済問題について、忘れないうちに書いておきたい。

現在の年金制度では、サラリーマン家庭の主婦は第3号被保険者として、保険料を負担することなく老齢年金を受給できる。夫が自営業になった場合はこの制度は適用されないから、第1号被保険者として、夫も妻も国民年金保険料を納めなくてはならない。これが問題の前提だ。

年金の3号制度では、同じ専業主婦でも夫がサラリーマンの場合と自営業者では扱いが違う。結婚しても共稼ぎなら夫婦とも保険料を払わなければならないし、生涯独身のひとも多い。フルタイムで働くよりも主婦として年金保険料を免除された方が得だとして、女性の社会進出を阻むという批判は、女性の人権を擁護するフェミニズム系の団体からもあがっている。「弱者」である主婦を救済するためとはいえ、これが明らかに不公平な制度であることは間違いない。

混乱の発端は、長妻前厚労大臣の時代に、夫の転職にあたって第3号被保険者から第1号被保険者への切り替えを忘れて、無年金や低年金になる主婦が最大100万人いることがわかったことだ。そこで長妻前大臣は、2年分の保険料を追加で納付すれば減額せずに年金を支払うという「運用3号」によって、届出漏れの主婦をほぼ無条件で救済することにした。この大盤振る舞いの根拠は、旧社会保険庁が年金の切り替えを周知徹底していなかったからだという。

だが今年の1月に厚労省が課長通達によって運用3号を実施しようとしたところ、現場の年金事務所が自主的に処理を一時停止するという前代未聞の事態が起きた。

会社を退職した夫が国民年金の加入手続きに来ると、市町村の窓口では専業主婦の妻にも国民年金に入るよう勧める。ところが「運用3号」では、役場の勧奨を無視して届出をしなかった主婦が、真面目に保険料を納めていたひとよりも得をすることになる。問合せを受けたときに、こんな不公平な制度が説明できるわけがない、というのがその理由だ。

「年金のプロ」を自負する前厚労大臣は、この件に関して、「年金記録回復委員会で方向性が決定し、私なりに判断した」と述べている。ほとんどの委員は沈黙を守っているが、2011年5月27日付の朝日新聞で、委員の一人である斉藤聖美氏(ジェイ・ボンド東短証券社長)がインタビューに応じている。

斉藤氏は、「運用3号」が不公平であることは認識していたが、年金記録問題と同様に、「多少の不公平が生じても、できるだけ本人の利益を優先して救済する」という原則を適用したと説明し、問題の根底には旧社会保険庁の怠慢と年金制度自体の矛盾があるとして、次のように述べている。

年金は複雑かつ長期にわたる仕組みで、国民全員に厳密に制度を適用するのは難しい。「いまの仕組みを続ける限り、少々の不公平は仕方がない」という割り切りも必要ではないでしょうか。

同じく年金記録回復委員でありジャーナリストの岩瀬達哉氏も、ラジオのインタビューにこたえて、「批判覚悟でかなり英断でやった」と説明している。

彼らの主張は、「3号制度」がそもそも不公平なのだから、「運用3号」の不公平性だけとことさらに批判しても問題はなにも解決しない、というものだ。だったら多少の不公平には目をつぶっても、社会全体の効用を最大化すべく功利主義的な立場で「弱者」を救済すべきだ、ということなのだろう。

私は届出をしなかったひとが「社会的弱者」だとも、運用3号問題が社会が許容できる「多少の不公平」だとも思わないが、こうした主張が「正義」に対する一貫した立場であることは理解できる。問題なのは、後任の細川厚労大臣が野党からの批判を受けて、全面的に非を認め謝罪してしまったことだ。

長妻前厚労大臣は、運用3号が不公平として批判を浴びることを覚悟したうえで、より大きな「正義」だと考えて政治的な決断をした(そうですよね)。それを後任の大臣が、「いや、あれはちょっとした間違いでした。ぜんぶなかったことにしますから許してください」と頭を下げるのでは、最初に掲げた「正義」は紙っぺらよりも薄いものになってしまう。

政権与党の大臣が正規の委員会に諮ったうえで政治的決断を下した以上、後任の大臣は、その「正義」を堂々と国会で説明すべきだった。そうすれば、「運用3号」で正直者がバカを見るのと同じように(あるいはそれ以上に)、「3号制度」で正直者がバカを見ているという現実が明らかになり、より公正で簡素な年金制度につくり変えるための一歩になったかもしれない。

けっきょく、民主党政権は「運用3号」を撤回し、届出漏れ期間は年金額に反映させず、最長10年の保険料追納を認める新たな救済策をまとめた。私はこの措置が現実的なものだと考えるが、その結果「正義」はますます軽くなり、この国の政治家の「決断」はどうでもいいものになってしまった。

正義を扱うこうした幼稚さが、国民の政治に対する絶望を深めていく。どこかでこの悪循環を止めないと、いずれ社会の基盤がメルトダウンを起こしてしまう--そんな危惧を抱くのはおそらく私だけではないだろう。

関連エントリー:「大きな正義の話を聞かせてくれ」

「48」というマジックナンバー 週刊プレイボーイ連載(5)

AKB48総選挙は今年もたいへんな盛り上がりを見せました。なぜ、どこにでもいそうなふつうの女の子たちがこんなにも注目を集めるのか? それにはさまざまなヒミツがあるでしょうが、ここではAKBではなく「48」という数について考えてみます。

AKB48が、アニメやゲーム、ライトノベルなどの舞台となる理想の女子高を現実化しているというのはしばしば指摘されることです。これは男子の妄想というだけでなく、熱狂的な女の子のファンが多いことからもわかるように、「わたしもあんなクラスのひとりになりたい」という夢を現実化したからでもあります。だとすればコアメンバーの「48」は、ひとクラスの人数の上限ということになります。

AKB48には、メンバー同士を組み合わせた、5~10人程度で構成されるさまざまな派生ユニットがあります。「48」がクラスだとすると、こちらは班に相当するでしょう。SMAPに象徴されるように、「5」という数はアイドルグループの基本形ですから、AKBは班単位だったアイドルをクラスの規模にまで拡大したのです。

ところでなぜ、ひとクラスは50人が上限で、ひとつの班は5人が基本になるのでしょうか。これはいい加減に決めたのではなく、そこには人類史的な必然があります。

アイドルグループの基本形が「5」なのは、それが兄弟・姉妹を連想させる上限だからです。世の中には10人兄弟や20人兄弟もいるでしょうが、私たちはそれをうまく家族と認識することができません。人間同士のつながりでもっとも強いのが血縁で、アイドルグループは擬似家族となることでひとびとに強く訴えかけるちからを持ちます。班が5人を基本にするのも、それがお互いにもっとも協力しやすい人数だからです。

それに対して「50」というのは親族などをふくむ大家族の人数で、狩猟採集時代のヒトの群れの上限に相当します。人類の歴史の98パーセントを占める旧石器時代には、ヒトは30~50人の群れをつくって、果物を採集したり小動物を狩ったりしながら移動生活をつづけていました。私たちの脳はこの時代に合わせて遺伝的に最適化されており、「50」というのは、集団のなかの一人ひとりを個人として認識できる限界なのです。

集団の人数が80人や100人になると、私たちはもはや一人ひとりの個性を見分けることができなくなります。それでも150人くらいまではなんとか顔と名前を一致させることが可能ですが、200人を超えると集団としての一体感は急速に失われていきます(会社でも、社員数が200人を超えると事業部制の導入が検討されます)。

「150」というのは、農耕社会におけるひとつの村の人口の上限です。近代社会が成立するまでは、100~150人で構成されるムラ社会がひとびとの生活のすべてでした。この「150」は、かつては年賀状などで時候の挨拶をする知り合いの数であり、いまは携帯に登録する友だちの数でもあります。こうした知り合いで構成される直接的な人間関係が「世間」で、私たちはその外側にいるひとたちをヴァーチャルな記号の集積としてしか感じられません。

「5」「50」「150」というマジックナンバーは、それぞれ家族、親族、ムラという、生き延びるのに死活的に重要な人間集団に対応しています。AKBは「58」や「68」であってはならず、「48」には進化論的な理由があったのです。

『週刊プレイボーイ』2011年6月20日発売号
禁・無断転載