旧姓の通称使用が移す「ご都合主義」(日経ヴェリタス連載125回)

いまや「結婚後に夫婦のいずれかの氏を選択しなければならないとする制度を採用している国は、日本だけ」(法務省)になったが、高市政権は「イエには氏はひとつ」という戸籍制度にこだわり、「旧姓の通称使用の法制化」を推進している。世論調査でも、「通称で不便がなくなるのなら、それでいいではないか」との回答が一定数ある。だが、旧姓を通称として使えるようにすれば、すべての問題が解決するのだろうか。

国連の女性差別撤廃委員会から、選択的夫婦別姓制度の導入を4回も勧告されたことで、政府は国家資格などを結婚後も旧姓のまま維持できるよう、法制度の整備に必死になっている。これによってたしかに便利にはなっただろうが、それでも2021年に男女共同参画局が行なったアンケートでは、旧姓で仕事をしている女性研究者などから多くの不満が寄せられている。

たとえば、所得税などの税の納付は、国税通則法によって戸籍上のものを記載するよう規定されており、今後も改正される予定はない。免許証やマイナンバーカードに旧姓併記されると、「既婚者」というプライバシーが第三者に知られるという問題もある。結婚しても姓が変わらない(主に)男性にはこういう問題は起きないのだから、これに違和感をもつ女性がいるのは理解できる。

より深刻なのは、銀行など金融機関の対応だ。旧姓でも(婚姻後の)現姓と同じことが支障なくできるのなら、2つの姓で銀行口座や証券口座を開設し、使い分けることが可能になる。金融機関によっては、現姓と旧姓を紐づけるシステムをつくっているところもあるようだが、異なる銀行や証券会社では役に立たない。そのため、マネーロンダリングなどの犯罪に悪用されるのを恐れて、旧姓での口座開設を認めていない金融機関も多い。

クレジットカードも同じで、未払いなどで利用を止められても、もう一つの姓でカードをつくることができてしまう。こうしたトラブルを避けるには、すべての金融取引を、口座名義ではなくマイナンバーで行なうようにしなければならないが、そんなことが可能だろうか。

「旧姓併記」という制度は日本にしかないので、海外で働いたり、出張などで利用しようとすると、さらなる困難に遭遇する。外務省は、パスポートの旧姓併記については英文の説明書を配布しており、出入国でのトラブルは報告されていないとしている。

だがインターネットには、旧姓併記によるビザの取得が困難で、航空券やホテル予約にいちいち説明が必要になるなどの体験談が多く寄せられている。

海外の金融機関に口座を保有している場合は、口座名義は身分証明書(パスポート)と同一であることが条件なので、旧姓のままでは口座を維持できず、「HANAKO YAMADA(SATO)」のようになる。金融機関のステイトメントは住所確認などに広く使われているので、現姓、旧姓、旧姓併記が混乱してトラブルになることもあるだろう。それでも「通称使用」が大きな問題にならないのは、国民の大半が、海外でこのような体験をすることがないからだ。

保守派は過去に在日韓国・朝鮮人の通名使用を「在日特権」などとさんざん批判しておきながら、同様の問題を引き起こす通称使用を熱心に支持している。「ご都合主義」というのは、こういう態度を指すのだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.125『日経ヴェリタス』2025年12月27日号掲載
禁・無断転載

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

今年がみなさまにとってよい1年でありますように。

昨年は無事、小説『HACK』を刊行することができてほっとしています。年末年始のお休みで多くの方に読んでもらえるとうれしいです。

PHOTOツアーで『HACK』の舞台を体験することもできます。

2026年元旦 橘 玲

Six Senses Krabey Island, Sihanoukville, Cambodia

今年は案外よい年だった?(週刊プレイボーイ連載667)

2025年のもっとも大きな出来事は、日本ではじめての女性首相が誕生したことでしょう。台湾有事をめぐる高市早苗首相の国会答弁に中国が強く反発し、常識では理解できないような対応(というか、いやがらせ)を行なったこともあって、高い支持率を維持しています。

日本経済はデフレから「脱却」したあと、物価の上昇に賃上げが追いつかず、実質賃金が長期にわたって下がりつづけています。とりわけ米の価格が急騰したことで家計が苦しくなり、それが衆院選での国民民主党と参政党の躍進につながりました。高市政権は「責任ある積極財政」を掲げてインフレ対策にちからを入れていますが、その結果、円安がさらに進んで輸入物価が上昇し、長期金利が上昇しています。

とはいえ、「トランプ関税」や米中対立で世界経済が破綻するようなことは起きず、逆にAI(人工知能)への期待(あるいはバブル)によって株価が上昇し、日本の株式市場は1990年代のバブル崩壊後の長い「冬の時代」からようやく抜け出しました。

北海道や東日本の各地で市街地にまで熊が出没して不安が広がる一方で、関西万博は(予想外の)成功をおさめ、大谷翔平らが所属するドジャースがワールドシリーズを連覇して日本中が歓喜に湧きました。そうやって振り返ると、いろいろ騒がれているわりには、今年は案外よい年だったのではないでしょうか。

人類は長い歴史のなかで、よいことよりも悪いことに注目するという心理的傾向を進化させてきました。SNSのアテンション・エコノミーでは、脳のこの“バグ”を利用してひとびとの不安を煽り、アクセスを集めようとします。それが社会を分断させているのは間違いありませんが、SNSやAIが生活をゆたかにするということもあるでしょうから、否定ばかりしていてもしかたありません。「技術」なのか「魔術」なのかわからなくなったテクノロジーと、なんとかうまくやっていく方法を見つけるしかないでしょう。

超高齢社会の日本では、現役世代の負担で高齢者の社会保障を支えるしかなく、世代間対立が顕在化してきました。ところが内閣府が2022年に行なった「こども・若者の意識と生活に関する調査」では、10歳~14歳で「今、自分が幸せだと思う」が62.8%、「どちらかといえば、そう思う」が31.4%で、合わせて9割を超えています。15歳~39歳でも8割以上が肯定的な回答をしており、「未来に希望がなく、社会に絶望している」という通念とは異なって、日本の若者の幸福度はきわめて高いようです。

これは「たくさんあるものは価値が低く、少ししかないものは価値が高い」という需要と供給の法則によって、少子化で子どもや若者の社会的な価値が上がっているからでしょう。世界では若者の失業が問題になっていますが、空前の人手不足の日本では、大学を出れば(最近は高卒でも)ほぼ全員が就職でき、30代前半までなら転職も簡単です。

そう考えれば、治安がよくて若者が幸せに暮らしている日本は、人類史上もっとも成功した社会のひとつかもしれません。とはいえ社会調査では、男女ともに年をとるにしたがって幸福度は下がっていくようですが。

【追記】今年最後の記事になります。みなさま、よいお年をお迎えください。

『週刊プレイボーイ』2025年12月22日発売号 禁・無断転載