『新・貧乏はお金持ち』新版あとがき

昨日発売された新刊『新・貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』(プレジデント社)の「新版あとがき」です。

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せっかくの機会なので、本書の成り立ちを述べておきたい。

2008年の世界金融危機の余波を受け、日比谷公園の年越し派遣村など、非正規雇用の若者たちに注目が集まった。マスコミや識者の論調は、この深刻な経済格差を解消するには、企業に命じて非正規の労働者を強制的に正社員にするほかはない、というものだった。私はこの議論に強い違和感があって、非正規の若者がサラリーマンを目指さずに経済的に成功できる実践的な方法がないかを考えてみた。

そこで思いついたのが、フリーターの若者(インターネットカフェ社長)がマイクロ法人をつくり、会計技術を駆使して成り上がっていく「ファイナンス小説」だ。しかしいざやってみると、会計や税務、資金調達の説明が煩瑣になりすぎて、物語の体をなさないことを思い知らされた。そこで解説の部分だけを抜き出して、初心者向けのマイクロ法人の入門書にしてみたのが本書だ。

本書を機に「マイクロ法人」という造語は広く使われるようになったが、そのための有効なマニュアルはまだ少ない。自らの経験に基づいたさまざまな情報が交換されることで、一人でも多くのひとがこの「自由に生きるための道具」を使いこなせるようになれば素晴らしいと思う。

2025年2月 橘 玲

 

「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【後編】

昨日発売された新刊『新・貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』(プレジデント社)のあとがき「「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【後編】」を出版社の許可を得て掲載します(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。

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リアルでなければ夢は実現できない

トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はすべて互いに似通っているが、不幸な家庭はどこもその趣が異なっている」と書いた。だがビジネスにおいては、この箴言はあてはまらない。成功までの道程は成功者の数だけあるものの、会社が破綻する原因は、経営陣の内紛、組織の硬直、資金繰りの失敗など、片手で数えるほどしかない。

世界金融危機に端を発した景気後退によって倒産や自己破産が急増した。政府や金融庁は貸し渋り・貸し剝がし対策に躍起になったが、ほとんど効果はなかった。それも当然で、金融機関が融資を断るのは貸したら返ってこないと知っていたからだ。

近所に若い夫婦がはじめた趣味のいい和食の店があってときどき利用していたのだが、ある日店の前を通りかかるとベンツのバンが停まっていて、黒服の男たちが店内に屯していた。その翌日、シャッターの下りた玄関にワープロで打たれた素っ気ない閉店の案内が貼られ、店内の什器はすべて持ち去られていた。

最近では古いビルやマンションの一角を改装し、レストランや雑貨店をはじめる若者たちが増えている。私の住んでいる街にもそんな店がたくさんできたが、多くが数年で力尽きて閉店していった。彼らにアドバイスする立場にはないのだが、いつも残念に思うのは、がんばるだけでは問題は解決しないということだ。

彼らにもし、会計や税務・ファイナンスの基礎的な知識(フィナンシャルリテラシー)があれば、無駄な出費や高利の借入でせっかくの挑戦をだいなしにしてしまうこともなかったかもしれない。

本書で紹介したのはごく基本的なことで、専門家はもちろんビジネスの現場にいるひとも「こんなの常識だ」と思うかもしれないが、その一方で、なにも知らずに夢だけを抱いて商売をはじめるひとがあとを絶たないのも事実だ。

テレビや新聞は「グローバル資本主義」を高みから批判するひとたちで溢れている。清貧やスローライフをしたり顔で説く識者もいる。だが彼らは、いちばん大切なことを教えてはくれない。リスクを取る以上、徹底してリアルでなければ夢を実現することなどできはしないのだ。

高度経済成長の時代は、会社と国家に依存しながら、世の中のリアルを知らずに暮らしていくことができた。そんな牧歌的な時代が終わってしまったいま、誰もが資本主義や市場経済と共存する方法を見つけなくてはならない。

この本を書きはじめたときは、事業承継やM&A、海外法人を設立して人格を「多国籍」化する方法まで、さまざまな法人の使い方を紹介するつもりだったのだが、こうしたノウハウは特殊なケースでしか使えないことも多く、説明も煩瑣になるので、誰にでも役立つ基礎的なものだけに限定することにした。私は会計や税務の専門家ではなく、ただ「マイクロ法人」という新しいコンセプトを紹介したいと考えただけだ。それぞれの分野にはすでに優れた入門書・解説書があるのだから、それらを参考に各自が試行錯誤でカスタマイズしていってほしい。

会計や税務の知識があれば、法人と個人の複数の人格を使い分けることでさまざまなことが可能になる。だがひとつだけ、この方法では意のままにならないことがある。それは、「お金を稼ぐこと」だ。

当たり前の話だが、人格を分割しただけでは収入は増えない。法人化は、収入からより多くの利益を取り出すための技術であり、収入自体はあくまでも自らの知恵と労働で市マーケット場から獲得してこなければならないのだ。

楽園を捨て、異世界を目指せ

政治哲学者のアイザイア・バーリンは自由の概念を「消極的 ネガティブ」と「積極的 ポジティブ」に分け、経済学者のフリードリッヒ・ハイエクはそれを受けて消極的自由を擁護した。

消極的自由(Liberty from)は国家や組織など他者による強制からの自由で、そうした制約のない環境でなにをするかは各自に任されている。それに対して積極的自由(Liberty to)は理性に基づく理想状態(差別のない自由な社会)を設定し、ひとびとをそこに導くことを目指す。だが〝収容所列島〞と化した旧ソビエト連邦を見てもわかるように、こうした理想主義(設計主義)は一歩間違えれば大規模な人権侵害と自由の抑圧を引き起こす。だからこそハイエクは、積極的に自由を語るひとたちを“自由の敵”として攻撃したのだ。

そのひそみに倣(なら)うならば、本書では一貫して人生を消極的にしか語っていない。書店には「人生で成功する方法」を教えてくれるたくさんの本が並んでいるが、それらは抑圧的とはいえないまでも、少々おせっかいだ。どのように生きるかは他人から指図されることではなく、それぞれが自らの責任で決めればいいことだ。同様に、ここで紹介した制度的な土インフラ台のうえでどのような経済活動を行なうかはあなた次第だ。

私の他の著作と同様に、本書でも社会の仕組みを説明するにあたって道徳的な判断は留保している。読者の中には国家を道具として利用することを不謹慎と感じるひともいるだろうが、そうした「正義」が既得権を守り、不平等を固定化するということは指摘しておきたい。

日本の社会制度は、自営業者や農業従事者、中小企業経営者などの「弱者」に有利なようにつくられている。彼ら「社会的弱者」たちは、制度がもたらす恩恵をずっと享受してきた。本書の提案はそれをサラリーマンにも開放しようということなのだが、それを「不道徳」として抑圧してしまえば、既得権はずっと温存されることになるだけだ。

特定のひとにだけ分配された利権は政治的に強く守られているため、容易なことではなくならない。こうした不平等を是正するもっとも効果的な方法は、政治や社会を声高に非難することではなく、より多くのひとが利権にアクセスできるようにすることだ。そうなれば制度そのものが維持できなくなるから、否応なく社会は変わらざるをえない。この国を覆う閉塞状況を変えるものがあるとすれば、それは理想主義者の空虚な掛け声ではなく、少しでも得をしたいというふつうのひとびとの欲望だろう。

ひとびとはいま、自由な人生に背を向け、安心を求め、会社に束縛されることを願っている。自由の価値がこれほどまでに貶められた時代はない。

だがその一方で、会社はもはや社員の生活を保障することができなくなっている。“サラリーマン”は絶滅しつつある生き方であり、彼らの楽園は、いずれこの世から消えていくことになるだろう。

私はずっと、自由とは自らの手でつかみとるものだと考えていた。だがようやく、それが間違っていたことに気がついた。自由は、望んでもいないあなたのところに扉を押し破って強引にやってきて、外の世界へと連れ去るのだ。

「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【前編】

「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【前編】

今日発売の新刊『新・貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』(プレジデント社)のあとがき「「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【前編】」を出版社の許可を得て掲載します(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。

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というわけで、この本で書いたことはとても単純だ。

国家に依存するな。国家を道具として使え。

近代というのは、世界地図に国境という線を引き、その線の中のことはそれぞれの国家に任せるという約束事で成り立っている。これが主権国家で、なにものも侵すことのできない神に等しい権力を有しているとされている。

この権力はとても強大で、わたしたち一人ひとりの人生に大きな影響を与える。わたしたちはグローバルな資本主義と市場経済の中で生きていかざるをえないが、それと同時に、ローカルな国家から独立した生活を送ることもできない。

民主政国家の目的は、建て前上、主権者である国民の幸福を最大化することだ。そのため不幸なひとたち(幸福が最大化されていないひとたち)は、国家に対して援助を求める権利があると考えられている。

ここまでは誰も異存はないだろうが、すぐにやっかいな問題があることに気づくだろう。「不幸なひと」っていったい誰だ?

いうまでもないことだが、人生のすべてに満足しているひとはほとんどいないだろう。幸福や不幸は他人との比較から生まれてくる感情だから、社会的には成功者と見なされていても、本人は屈辱と嫉妬の泥沼をのたうち回っているかもしれない。だがこうした不幸をすべて国家が救済するわけにはいかないので、どの国も一定の外形的な基準を設け、それを満たさないひとを「社会的弱者」として援助の対象としている。

ところで日本の官僚機構は、サービスの提供にあたって申請主義を原則としている。派遣切りにあって寮を追い出され、貯金もなく野宿を余儀なくされるのは明らかに不幸な状況だろうが、それだけでは行政は援助の手を差しのべてくれない。利用者は自治体の窓口に自ら足を運び、必要な書類を整えたうえで失業保険や生活保護を申請しなければならないのだ。国家の援助を受けられるのは、自分自身で「社会的弱者」であると証明したひとだけなのだ。

都心の公園にはホームレスたちのテントがずらりと並んでいる。その生活環境は憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」からほど遠いが、生活保護どころか健康保険すらないままに放置されている。なぜなら彼らは住所がないので、行政上の「弱者」になることができないのだ。

行政の杓子定規な対応は理不尽ではあるが、もっともな理由もある。財源に限りがある以上、サンタクロースのようにお金を配くばって歩くわけにはいかない。行政サービスは、ルールに則った適正な手続きで執行されなくてはならないのだ。

官僚制の本質は非人間性にある。これは言い換えれば、国家は国民を無差別に扱わなくてはならないということだ。生活保護の申請を受け付ける際に、自治体職員が一人ひとりの「人間性」を判断していたら現場は大混乱に陥るだろう。職員の善意や悪意とは無関係に、提出された書類に基づいて機械的に処理するのが正しい行政のあり方なのだ。

国家は、母親のような愛情を持って国民の世話をするわけではない。だからといって特定の目的(たとえば戦争)のために国民を監視し、洗脳し、訓育しているわけでもないだろう。官僚機構に目的があるとすれば、組織として存続し、自己増殖しつづけることだ。

国家もまた、法人の一種だ。ひとであってひとでないものに過度な愛情や幻想を抱いても、それに応える人間的な感情など持ち合わせていないのだから、いずれは裏切られて落胆するだけだ。

わたしたちは、国家のない世界を生きることはできない。国家を否定し、革命を目指すのは自由だが、大多数のひとは無政府主義の理想を目指そうとは思わないだろう。生き延びるためになすべきなのは、国家に依存するのでも権力を拒絶するのでもなく、国家の仕組みを観察し、理解し、道具として利用することだ。

自由と自己責任

近代は、自由を至上の価値とする社会だ。わたしたちは誰の強制も受けず、自分の人生を自分で選択することができる。これがわたしたちの生きている世界の根源的なルールで、何人たりともそれを否定することは許されていない(他者を奴隷化する者は社会から排斥される)。

ところで、自由はなにをしてもいいということではなく、ひとはみな選択の結果に対して責任を負わなくてはならない。自由と責任は一対の概念だから、原理的に、責任のないところに自由はない。

派遣や非正規雇用の問題を語る際に、彼らの自己責任を問うことを許さないひとたちがいる。私はずっと、この議論に強い違和感があった。相手を責任の主体として認めないということは、奴隷か禁治産者として扱うことだ。ひとが尊厳を持って生きるためには、自分の行為に責任を持たなくてはならない。

自己責任を否定するひとたちは、決まって国家や会社やグローバル資本主義を非難する。だが、理不尽な現実をすべて国家の責任にしてその解決を求めるのはきわめて危険な考え方だ。

国家とは、無際限に自己増殖するシステムだ。マスメディアが〝危機〞を煽れば、国家はそれを格好の口実にさらに肥大化しようとするだろう。国家が巨大化すれば、その分だけわたしたちの自由は奪われていく。

わたしたちは自由でいるために、自分の行動に責任を持たなくてはならない。自己責任は、自由の原理だ。それを否定するならば、残るのは無責任か連帯責任しかない。

もちろん、だからといって職を失った若者たちにすべての責任を引き受けさせるのが酷なことは間違いない。かつて〝ロスジェネ〞世代を生み出したのは、年功序列と終身雇用に固執するこの国の差別的な雇用制度だ。同じ職種には同じ賃金を支払う「同一労働同一賃金」は、アメリカはもとよりEU諸国でも当然とされているが、日本ではいまだに勤続年数によって労働条件が決まる。こうして給与の高い中高年層が企業に滞留していくが、厳しい解雇規制によって経営が破綻するまで彼らを若い労働力と交換することは許されない。

若者たちの自己責任を問うのであれば、解雇を自由にして、誰もが対等な条件で労働市場で競争できるようにするべきだ。だが既得権を握って離さないひとたちは、自分たちに不利な〝公正な社会〞の実現を嫌って、国家に責任を転嫁し、三十代の若者に生活保護を受給させて差別を温存しようとする。こうして彼らの人生を腐らせていくのだから、これは偽善というよりも犯罪だろう。

高齢化社会では既得権を持つひとたちの絶対数が増えていくのだから、この差別構造は容易なことでは変わらない。だったら「正社員」という見果てぬ夢を追うよりも、別の道を進んだほうがずっとマシだ。

マイクロ法人は、国家を道具として使うための有効な方法だ。若者たちは、これまでずっと不公正な労働市場で搾取されつづけてきた。彼らには、国家を搾取する十分な権利がある。もちろん若者たちだけではなく、すべてのひとに国家という道具は開かれている。

「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【後編】