ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2015年9月公開の記事です。(一部改変)

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1990年代に旧ユーゴスラビアで起きた凄惨な民族浄化の背景には、半世紀前のナチス占領下での「歴史の記憶」があった。ナチスの傀儡国家「クロアチア独立国」の極右民族主義団体ウスタシャの「民族浄化」の標的とされたのは、ユダヤ人、ロマ、そしてセルビア人だった。
参考:旧ユーゴスラビアの民族紛争はいかにして始まったか(前編)
第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは対独パルチザン(人民解放軍)を率いたチトー(ヨシップ・ブロズ・チトー)によって再統一され、スターリンのソ連と距離を置いた独自の社会主義(自主管理社会主義)によって1970年代には東欧諸国随一の繁栄を謳歌した。だが1980年5月にチトーが死ぬと、民族主義の台頭によってユーゴ社会はふたたび動揺しはじめる。
今回も東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(ちくま学芸文庫)に依拠しながら、この時期、「歴史の記憶」がセルビアとクロアチアでどのように“修正”されていったのかを見ていこう。
肛門にビール瓶が突き刺さった農夫
1985年5月1日、コソボに住むセルビア人農夫ジョルジェ・マルティノヴィチが肛門にビール瓶が突き刺さるという尋常ならざる状態で病院に担ぎ込まれた。
コソボはセルビア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロに囲まれたバルカン半島の内陸部にあり、歴史的にはセルビア王国発祥の地とされているが、1981年の人口調査では域内のアルバニア人の人口が77%(122万6736人)に達し、13%(20万9498人)のセルビア人は圧倒的な少数派になっていた。
こうした人口構成の変化は、アルバニア人の出生率がセルビア人よりも高かったことと、貧しいコソボから人口流出が進んだためだった。コソボのセルビア人はセルビア共和国本土に比較的容易に移住できたが、アルバニア人はどこにも行き場がなかったのだ。
多数派となったコソボのアルバニア人は、補助金の増額や自治州の地位向上を要求してたびたび暴動を起こし、そのたびに自治州の権限が拡大されてきた。だが1981年の暴動では、自治州から共和国への“独立”を要求したことで逆にユーゴ中央政府から激しい弾圧を招くことになった。
その後、コソボのセルビア人が、独立を企むアルバニア人から迫害を受けているとの報道がセルビア本土のメディアで流されるようになり、両者の緊張は高まっていた。まさにそのときに、セルビア人の農夫が異常な状況で病院に運ばれてきたのだ。
当初、マルティノヴィチはアルバニア人2人に襲撃されたと証言したため、これにメディアが飛びついて大騒ぎになった。だが彼の証言は二転三転し、襲ったというアルバニア人も特定されなかったことから、コソボ自治州政府の捜査官は特殊な性癖による自傷事故で、アルバニア人犯人説はそれを隠すための狂言だと判断した。
ふだんならたんなる笑い話としてすぐに忘れ去られるはずのこの出来事は、しかし、思いもよらない展開を見せる。 続きを読む →
