イギリスの排外主義者は、リベラルな社会が生み出した新たな「マイノリティ」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年10月公開の記事です。(一部改変)

Clive Chilvers/Shutterstock

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世界金融危機の直後に刊行した『チャヴ 弱者を敵視する社会』(依田卓巳訳/海と月社)で、オックスフォード大学卒の20代のライター、オーウェン・ジョーンズは「21世紀の左翼の騎手」として世界的に有名になった。チャヴ(Chavs)とは、知識社会=グローバル世界から脱落した貧しい白人労働者への蔑称で、イギリスではミドルクラス(エリート階級)とワーキングクラス(チャヴ)の分断が進んでいる。

参考:チャヴはイギリス白人の最底辺で「下級国民」

『チャヴ』のなかでジョーンズは、2010年の総選挙で左派議員のために戸別訪問したときの体験を書いている。

(数カ月ぶりによく晴れた日曜日で、ほとんどの家は外出していたため)数軒訪問して空振りしたあと、エプロンをつけた中年女性がついに出てきた。彼女は明らかに、気持ちを打ち明けたがっていた。「うちの息子は、仕事を見つけられないの」と彼女は怒った。「でも、移民はこんなにたくさん入ってきて、みんな就職している。移民が多すぎるのよ!」

こうしてジョーンズは、貧困や格差、差別とたたかう左翼運動の中心となるべき貧困層が“排外主義者”になっているという不都合な事実に向き合わざるを得なくなった。それは、移民排斥を掲げるイギリス国民党(BNP/British National Party)の躍進に象徴されていた。

「排外主義者」は強いベンガル語訛りの女性

BNPは1882年に創設された白人至上主義の極右政党で、2010年当時はニック・グリフィンをリーダーに、イギリスで5番目に大きな政党になっていた。――その後、EUからの離脱を掲げるイギリス独立党(UKIP/UK Independence Party)に押されて党勢は凋落する。

ジョーンズは、BNPの台頭はイギリス社会が人種差別的になったことの表われではないとして、「イギリスは欧州でもっとも異人種間の婚姻率が高く、みずから「強い人種差別的偏見を持っている」と認める人はたったの3パーセントで、5人中4人はまったく偏見を持っていないと主張する」とのデータを紹介している。問題は、「イギリスが人種差別的でなくなっているのと同時に、史上もっとも人種差別的な政党が選挙で成功している」ことなのだ。

投票所の出口調査ではBNPへの投票者の多くが労働者階級で、世論調査ではBNP支持者の61%が社会階級の下から3つの階級に属していた。かつては労働党を支持した「リベラル」な白人労働者階級が、大挙して人種差別主義者に変貌してしまったかのようだ。

BNPの躍進の理由を、政治家やジャーナリストは「白人労働者階級が白人以外の人々の侵略からアイデンティを守ろうとしたことが原因だ」と分析した。労働党のある議員は、「BNPは、なんの断りもないまま自分たちの国が失われていく、という国民の感情に訴えている」と語った。

だがジョーンズは、BNPの台頭を許したのは人種差別というより、労働者階級を軽視した既成政治への反発だと述べる。じつは冒頭のエピソードにはつづきがあって、ジョーンズ向かって「移民排斥」を求めたのは、強いベンガル語訛りの女性だった。インド出身の彼女は、インドから来た移民女性が、息子のような「イギリス人労働者」から仕事を奪うと訴えた。移民に対する反感は、人種への偏見ではなく、経済的な不安(移民に仕事を奪われる)から生まれてくるのだ。

マルクス主義が一定の権威をもっていた時代には、資本主義の不公平なシステムが貧困のような社会問題の元凶だとされた。冷戦の終焉でマルクス主義が退潮すると、右派がその空隙を、「すべての社会問題はよそ者、すなわち「移民」によって引き起こされている」というわかりやすいイデオロギーで埋めたのだ。 続きを読む →

ベトナムで証券口座を解約したみた 出るのは難しいアリ地獄(日経ヴェリタス連載124回)

ベトナムのホーチミンにある証券会社に興味本位で口座をつくってみたのは2007年で、当時は日本人の顧客はほとんどおらず、若い女性の担当者と英語でやりとりした。

いまでも覚えているのは、手続きが終わったあとに彼女から、「日本の女性は30代になるまで出産しないというのは本当か?」と真顔で聞かれたことだ。ベトナムでも高学歴の女性のあいだで、キャリアと子育てのトレードオフが意識されるようになったのだ。

それからずいぶんたって、海外に行く機会も減ったので、口座を閉じることにした。以下はその顛末だ。

最初のトラブルは、口座開設時のパスポートの有効期限が切れていることだった。メールで担当者に問い合わせると、そのためにはパスポートの認証書類が2部必要で、代々木のベトナム大使館で認証手続きをする必要があるという。それならホーチミンを訪れたときにやればいいと思って、人民委員会に新しいパスポートと顔写真の入っているページのコピーをもっていった。

その役所はパスポート以外にもさまざまな行政書類の認証をしているようで、私以外はほとんどが地元のひとたちだった。ようやく順番が回ってきたと思ったら、顔写真のあるページだけでなく、白紙の部分も含め全ページのコピーが必要だという。

建物の中の売店にコピー機があるというので、そこに行くと、 コピーの出来上がりを待っていた女性が英語で親切にやり方を教えてくれた。日本円で350円ほど払ってパスポートの全ページを2部コピーし、もういちど戻って認証手続きをしてもらった。

担当者はパスポートと顔写真のページのコピーを確認してサインしただけで、そのあとは腱鞘炎なのか、手首にサポーターをした女性がすべてのページにスタンプを押した。ベトナムの行政システムは、いまもフランス統治時代の習慣を引き継いでいるかのようだ(所要時間は1時間半、認証手数料は約2300円)。

パスポートと認証されたコピーの束をもって証券会社に行き、上手な日本語を話す女性の担当者に、保有株を成り行きで売却して口座を解約し、資金を日本に送ってもらうよう依頼した。さまざまな書類にサインして、これですべて終わったはずだった。

ところが、それから1カ月してもなんの音沙汰もない。不思議に思ってメールしてみると、別の担当者が現われて、口座にある株式を売却するには、オンライン取引の口座を開設して、顧客が自分で取引しなければならないという。

そんな話は聞いてないと文句をいおうと思ったが、明らかに翻訳ソフトの文面で「わたしたちはなにもできない」と書いてあるので、時間の無駄だと思ってオンライン口座開設の必要書類とパスポートのコピー(今回は顔写真のページのみ)をEMS(国際スピード郵便)で郵送した。

オンライン口座はすぐにでき、単位株と端株はなんとか売却できたが、「一時的に取引が中止されている株」と売買が成立しない「取引待ち株」が残った。これを売却するには、オンライン画面を毎日チェックして、取引できるタイミングを待つしかないという。

とてもそんなことはやっていられないので、いまある資金だけでも日本に送金することにした。証券会社の預け金はいったん提携するベトナムの銀行に送られ、そこから海外送金されるのだという。

指示どおりに送金指示書や外貨売買取引確認書、パスポートのコピー(これで3回目の提出)をEMSで郵送したが、書類を受け取ったというメールのあと1カ月たってもなんの連絡もない。そこでまたメールしてみると、ちょうど銀行の手続きが完了したという。その翌週、日本の銀行から入金の案内があった(ここでもマネーロンダリング対策で資金の源泉を確認するため、ベトナムの証券会社の取引明細と源泉徴収票の提出を求められた)。

けっきょく、ホーチミンの証券会社を訪れて口座解約を依頼してから、資金が戻るまで4カ月かかった。入るときは簡単でも出るときは難しい蟻地獄みたいだと思ったものの、それでも口座のお金は無事に回収でき、それなりに興味深い経験になった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.124『日経ヴェリタス』2025年11月4日号掲載
禁・無断転載

ルワンダのジェノサイドのあと、加害者と被害者は「和解」についてどう語ったのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年5月にルワンダを旅したときの記事です。(一部改変)

Kigali Genocide Memorial(Alt-Invest.com)

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1994年4月、人口730万の東アフリカの小国ルワンダで、わずか100日のあいだに100万人以上が虐殺されるという大規模なジェノサイドが起きた。犠牲になったのは少数派(人口の15%)のツチ族で、加害者は多数派(同85%)のフツ族だ。

その3カ月後、隣国ウガンダから進軍したルワンダ愛国戦線(RPF/Rwandan Patriotic Front)が権力を掌握すると、報復を恐れたフツ族は西に向かって逃亡し、コンゴ民主共和国との国境にあるキブ湖北岸のゴマに巨大な難民キャンプをつくった。

欧米のメディアが、ジェノサイドの加害者である難民たちを犠牲者であるかのように報じ、それを利用して欧米の人道団体が、寄付集めのために「虐殺者」を積極的に支援した経緯については前回述べた。

参考:ルワンダのジェノサイドはどのようにして起きたのか?

新生ルワンダにとって、国境の向こうにある難民キャンプは重大な脅威だった。キャンプを支配していたのはフツの過激派で、難民たちにツチへの憎悪を植えつけると同時に、人道団体からの支援金を詐取するなどして武器を購入し、ルワンダ国内に侵入しては殺人・強奪を繰り返していたからだ。

1995年末時点で、ゴマにある4つの主要難民キャンプにはバー2324軒、レストラン450軒、ショップ590軒、美容室60軒、薬局50店舗、仕立屋30軒、肉屋25軒、鍛冶屋5軒、写真スタジオ4軒、映画館3軒、2軒のホテルと食肉解体場が1カ所あった。これらはすべて、人道団体の援助でつくられたものだ。働かずに安楽に暮らせるのなら難民たちはキャンプに定住し、半永久的にルワンダ国内へのテロが続くことになる。

そのためルワンダ軍はキャンプの撤収を指示し、15万人におよぶ難民を国内に移送させた。その背景には、ジェノサイドによる人口の激減で、荒れ果てた農地を耕す労働力が必要だったという事情もあるようだ。

こうして、多くの「虐殺者」がルワンダに帰還した。だがそこには、ジェノサイドを生き延びたサバイバー(生存者)が暮らしていた。 続きを読む →