「教育」はほんとうに効果があるのか?

「教育格差」を憂えるひとたちの奇妙な論理にたくさんのコメントをいただいた。

誤解のないように述べておくと、私は「教育」を否定しているわけでもないし、公教育への税の投入を1銭たりとも認めない、という極論を主張しているのでもない。ただ受益者自らが制度の維持や変更を要求する場合、より厳密な説明責任が要求されるという当たり前のことを述べているだけだ。

たとえば農水省や農協などは食糧自給率を理由に農業保護政策を正当化しているが、これについては「カロリーベースで食糧自給率を計算しているのは日本だけだ」とか、「エネルギー自給率が4%しかない国ではそもそも食糧自給率になんの意味もない(原油の輸入が止まってしまえばいずれにせよ農業は壊滅する)」、という有力な反論がある(「食料自給率の問題点」)。

こうした場合、農業保護政策の受益者であるひとたちは、不都合な批判を無視するのではなく、事実とデータに基づいて、議論可能なかたちで反論する義務を負っている。国家は国民を無差別に扱うべきであり、特定の産業のみをことさらに保護してはならないのだから、税を投入するのなら誰もが納得する正当な理由が必要だ。

教育関係者が、教育への財政支援を正当化したり、さらなる税の投入を要求する場合も、自らが受益者となる構図は農協と同じだ。

経済学においては、高卒と大卒の生涯賃金の差で教育の費用対効果が計測されるのがふつうで、大学教育の収益率は年率6~9%とされている。これは現在の超低金利の時代にはきわめて有利な投資なので、「お受験」ばかりでなく、教育への税の投入も“有利な投資”ということになる。

だがこうした研究はすべて、人間がブランク・スレート(空白の石版)として生まれてくることを前提としている。知能に遺伝的な影響があるのなら、言語的知能や論理数学的知能に生得的に秀でた子どもがよい学校に進学し、同時に経済的にも成功する、と考えることも可能だ。そしてもしこちらの仮説を採用するのなら、教育の“投資効果”は大幅に見直さなくてはならなくなるだろう(教育が一部のひとにしか効果がないのなら、国家が介入する正当な理由はなくなる)。

国は失業者の職業訓練を支援するために、緊急人材育成・就職支援基金事業でパソコンや簿記の訓練に補助金を支給している。ところが朝日新聞(2011年2月21日)によると、失業者に職業訓練を行なう栃木県内の社団法人が、事業費の水増し請求で290万円を不正受給し、それを受講者と山分けしていたことが明らかになった。

国の職業訓練支援制度では、訓練生が月に1日以上、授業に出席すると、1人あたり月に6~10万円が運営者に支払われる。それに加え、8割以上出席すれば、生活費として訓練生本人に10~12万円が支給されるという。栃木県の社団法人はこの制度を悪用し、出席数を水増しすることで、まったく授業に出てこない「訓練生」の訓練費と生活費を国に請求していたのだ。「職業訓練業界で不正請求が常態化している」との疑惑はかねてより指摘されていたが、今回のスキャンダルによってその一端が明らかになった。

もちろんこれは、制度の不備によるものだ。現在は職業紹介を国(ハローワーク)が事実上独占しているが、職業訓練校に就職斡旋を認め、その実績によって補助金を配分すれば、いまよりはずっとマシになるだろう。だがここには、より深刻な問題が隠されている。

そもそも教室側が不正請求を思いついたのは、簿記やパソコンの「教育」をしても就職活動になんの効果もないと考えていたからだろう(職業訓練校のなかには、「あいさつの仕方」を教えているところもあるという)。訓練生が授業に出ずにバイトに励むのも、そんな「教育」は時間の無駄だと思っているからだ。こうして両者の利害が一致して、不正請求が蔓延することになる。

「教育」が素晴らしい効果をあげ、卒業生たちが次々と望んだ職を得ているのなら、教室側は不正請求などに手を染めず、実績をもとに生徒たちに授業への出席を説いただろう。失業中の生徒たちも、バイトなどせずに熱心に授業に参加したにちがいない。だが現実には、「教育」などなんの役にも立たないことを当事者たちはみんな知っていたのだ。

生活保護では失業者を貧困の罠から救済することはできず、「教育」によって社会復帰を促すべきだというのは先進国に共通の政策で、イギリスではブレア政権のときに「教育、教育、教育」と叫ばれた。ところがいつまでたっても効果は表われず、あいかわらず若年層の失業率は高いままで、昨今では「職業訓練はやっても無駄」といわれるようになった。

もちろんこれには、「教育の仕方が悪い」とか、「教育期間が短すぎる」とか、さまざまな反論が可能だろう。だがこうした議論を受益者自身が行なうのであれば、食糧自給率論争の轍を踏まないよう注意が必要だ。机上の空論(教育は素晴らしい)を積み上げるのではなく、不都合な事実から目をそむけることなく、自らの実践においてその正しさを証明してみせたなら、納税者はきっと納得するだろう。

ポール・クルーグマンを日銀総裁に

最初に断わっておくけれど、私は、マクロ経済学の議論は自分の領域ではないと考えている。これまで何度か書いてきたように、「誰も未来を知ることはできない」ということを前提に、外的環境の変化に合わせて人生設計を最適化する、というのが私の一貫した立場だ。

リフレ政策についても同様で、私の立場としては、「マクロ経済学的な議論としては成立するとしても、それが実際に期待された効果を生むかどうかはやってみなければわからない」という不可知論となる。それ以前に、経済学者のあいだですら評価が二分する経済政策について、(私のような)専門外の生活者に真偽の判断ができるわけもない。

その意味で、リフレ政策を選挙の争点にして有権者の判断を仰ぐ、というのは意味がないだろう。これはあくまでも、国民の負託を受けた政治家が自らの意思で判断すべき事柄だ。

このような前提のうえで、不可知論の立場からリフレ政策を支持できるかどうか、ここでは考えてみたい。

日銀がリフレ(インフレターゲット)政策を採用した場合、それによって実現するシナリオとしては、以下の3つが考えられる。

  1. リフレ批判者の指摘するとおり、デフレ下では金融政策は効果がないのだから、なにも変わらない。
  2. リフレ支持者のいうとおり、マイルドなインフレが実現して景気が上向き、需給ギャップが解消して、経済成長率が4~5%にまで回復する。
  3. リフレ否定論者の予言のとおり、円の信用が崩壊しハイパーインフレが起こる。

この場合、シナリオ(1)は日銀の当座預金が増えるだけで、それ以外はいまと同じだ。シナリオ(2)ならみんなが幸福になるのだから、誰も文句はないだろう。そう考えれば、リフレ政策を採用すべきかどうかは、シナリオ(3)が起きる確率をどのように評価するかで決まる。だが不可知論の立場からは、(未来は誰にもわからないのだから)シナリオ(3)のリスクは評価不能だ。

ところで、リフレ政策が引き起こすかもしれない通貨の信用崩壊とは、要は日本国の財政破綻と同じだ。ということは、「国家破産」と同様に、その経済的な損失をあらかじめヘッジすることができる(財政破綻に備える「3つのリスク回避術」)。そうであれば、「国家破産」に備えて十分なヘッジをした合理的な個人は、シナリオ(3)のリスクよりもシナリオ(2)のリターンを選好して、不可知論のままリフレ政策を支持するのではないだろうか。

*もちろん、ヘッジをしていない個人は円の信用崩壊でヒドい目にあうのだから、この選択が道徳的に正しいとはいいきれないのだが……。

ところがここに、ひとつ重大な問題がある。

仮に日銀法が改正され、リフレ政策が採用されたとしても、日銀がそれを正しく行なうかどうかはわからない。というよりも、インフレターゲットを宣言してもデフレが続くようなら「やり方がなまぬるい」と批判され、ハイパーインフレが起これば(やり方を間違えた)「戦犯」として断罪されることになるのだから、これではあまりにも損な役回りだ。こんなに条件が悪ければ、誰だってマトモに仕事なんかしないだろう。

この難題をクリアする方法はひとつしかない。

リフレ政策が正しく行なわれるためには、結果がどうであれリフレ支持派が納得する人物が日銀総裁になる以外にない。だったらその適役は、創始者であるポール・クルーグマンをおいてほかにはいないだろう。クルーグマンだって、自らの経済理論の正しさを天下に示す千載一遇の機会なのだから、喜んで引き受けてくれるにちがいない。

はたしてこの方法はうまくいくのだろうか?

私が思うに、もしクルーグマンが日銀総裁になれば、それだけで(なにもしなくても)インフレ期待が起き、株価が上昇し、景気が上向く可能性がある(それもきわめて高い確率で)。これなら国債を増発して紙幣をばら撒く必要もないのだから、リフレ否定論者だって文句はないだろう。

支持率の低迷に喘ぎ、国民から見捨てられつつある民主党政権は、いますぐプリンストンに行って三顧の礼をつくしたらどうだろう。