円高と株安についての個人的感想

円高と株安についていくつかご質問をいただいたいので、個人的な感想を書きます。

まず円高ですが、デフレと低金利の経済では通貨は高くなるのが当然です。私は繰り返し「円安は超常現象」と書いてきましたが、これまでほとんど相手にされませんでした。世界金融危機をきっかけに、市場は(そこそこ)効率的で、この世に錬金術が存在しないことがようやく証明されたのです。

よく誤解されますが、円高だから海外投資は損をする(円安なら得をする)、というわけではありません。金利平衡説では、国債のような無リスク商品に投資する場合、国内と国外で損も得もなくなるはずです。

このことを直感的に理解するには、グローバルソブリンを例にとるとわかりやすいでしょう。

毎月分配型の草分けとして大人気を博したこのファンドは、当初(97年12月)1万円で設定された基準価額が、7月末には5090円まで下落してしまいました。これだけ見れば円高で大損しているようですが、その一方で、設定来の分配金の総額は6941円になります。これを加えると最初の1万円は14年間で1万2031円になったわけで、投資利回りは年率1.33%になります。

このように、日本国債を買っても、グローバルソブリン(海外の高格付けの国債)に投資しても、リスクが同じならリターンも同じになったわけで、「効率的市場仮説」の見事な証明となっています。

為替における金利平衡説と購買力平価の詳しい説明は、「大震災の後で人生について語るということ」の「番外編 なぜふつうのおばさんが億万長者になるのか?」をご覧ください。

あわせて、日銀のデータから作成した名目実効為替レートと実質実効為替レートのグラフを掲載しておきます(2005年を100として指数化)。

実効為替レート
日本銀行「主要時系列統計データ表(月次)」より作成

これを見ればわかるように、名目レート(青線)では円はたしかに戦後最高値になっていますが、インフレ率を勘案した実質レート(赤線)では7月末で101.46でしかありません。これは、「超円高」と騒がれた95年4月(実質レート151.11/1ドル=83.77円)はもちろん、99年末(実質レート131.37/1ドル=102.08円)や88年11月(実質レート124.17/1ドル=121.85円)よりもはるかに“円安”であることがわかります。

インフレ率(物価のちがい)を勘案した実質レートでは、現在は円高でもなんでもなく、今後、さらに20~30%円高になってもなんの不思議もありません。

このように、デフレと低金利がつづくかぎり、名目為替レートが円高になるのは避けられません。日本はG7などで「異常な円高」の協調介入を求めていますが、各国はもちろん、実質為替レートで見れば円高など存在しないことを知っているので、相手にされないのも当たり前です。名目為替レートを円安にするには、金利を上げるか、インフレにするかしかないのです(日銀がいくら市場介入してもなんの効果もありませんI)。

こうした「デフレ・低金利・円高」経済では、地価や株価も上がりませんから、資産は円の現金で持っているのが最高の「資産運用」です。しかし実際には、銀行の普通預金や定期預金に預けられたお金は日本国債の購入に充てられますから、これは日本国の信用リスクをとっているのと同じことです。

標準的なリスク分散理論では、ひとつのリスクに全資産を賭けるのは最悪の選択です。ほとんどの日本人は、日本という国に暮らすことで、人的資本を日本円にしばりつけられています。そのため、人的資本で円を獲得し、金融資本でリスクヘッジをするというのが、人生設計の最適ポートフォリオをつくるうえでの基本戦略になります。

これもほとんど指摘されないことですが、円高によって、ドル換算した私たちの人的資本は膨張していきます。

たとえばサラリーマンの生涯年収を3億円とすると、就職時の人的資本は約1億3500万円になります。この人的資本は、1ドル=120円なら112万5000ドルですが、1ドル=76円なら177万6000ドル、1ドル=67.5円になればダブルミリオン(200万ドル)です。こうした円高メリットは輸入品の価格下落などによって私たちの生活に反映されますが、海外旅行などでその恩恵を直接受けることも可能です。

大半のひとは金融資本よりも人的資本の方がはるかに大きいので、程度の差はあれ、日本人は円高によって豊かになっていくはずです。

それなのに豊かさが実感できないのは、「デフレ=円高経済」における円資産の膨張は、収入の減少によってバランスすることになるからです。「企業が円高で悲鳴を上げている」というのは、実は、「デフレに合わせて給与を引き下げられない」ということです。

これは逆に、個人にとっては、「いかにして人的資本の価値を守るか」が、デフレ経済における最重要戦略になるということです。

次に株安ですが、「この世界が複雑系のスモールワールドなら誰も未来を知ることはできない」というのが私の立場です。ユーロの混迷は昨年のギリシア危機から予想されていましたが、米国債が格下げになったのは誰にとっても想定外でしょう。ここ数日、株価は乱高下をつづけていますが、このまま本格的な調整局面に入るかどうかも私にはわかりません。

しかし、世界金融危機のときのような株価の下落がこれから始まるのなら、それは世界株投資家にとって、絶好の投資機会の到来となります。資本主義が自己増殖するシステムで、(波風はあっても)グローバル市場はいずれは拡大すると考えるなら、株価が下落すれば下落するほど、ドルコスト平均法による投資利回りは高くなるからです(このあたりのことも『大震災の後で~』に書いてあります)。

なお、これを「個人的な感想」としたのは、私にとっては10~15年後(2020~2025年)の人生設計のポートフォリオが最大の関心事だからです。

ひとによって投資のゴールは異なりますし、置かれた環境もちがうでしょうから、これよりも優れた「人生設計戦略」があったとしても当然のことです。だからこれは、「絶対の法則」などではありません。

なにかの参考になれば幸いです。

東京電力は本来の場所へ帰っていくだろう

原子力損害賠償支援機構法が国会で成立した。

この法案では、新たに設立される「機構」は東京電力に対し無制限に資金提供できるのだから、東京電力が債務超過に陥ることはなく、電力債や融資などの債権は100%保護されることになる。修正された法案では、「株主その他の利害関係者に対し、必要な協力を求める」ことになっているが、仮に金融機関が利子の減免などに応じたとしてももかたちだけのものだろう。

すでになんどか述べたが、会社法では、株主と債権者の責任を明確に定めている。未曾有の災害を引き起こしたにもかかわらず債権者が免責されることは私にはとうてい納得できないが、法案が成立した以上、新機構のもとで被災者に一刻も早く適切な賠償が行なわれることを望みたい。

そのうえで、今回の法案で東京電力が今後、どうなるかを考えてみたい(以下は、あくまでも私見である)。

このスキームでは、原発事故の賠償が国民負担とならないよう、原子力事業者(原発を保有する電力会社等)が支払う「一般負担金」と、東京電力が支払う「特別負担金」によって、最終的には、機構から提供された資金は全額返済されることになっている。

東京電力が株主への配当を再開するためには、機構からの「借金」の完済が条件になる。それまでは東京電力の経営は機構に管理されるのだから、これは実質国有化だ。

いうまでもなく、(機構の支援がなければ)実質債務超過の会社の、配当のない株式はただの紙切れだ。それにもかかわらず、東京電力の株価は7月下旬には600円超まで高騰し、現在も400円前後で取引されている。ということは、株主は東京電力が早期に配当を復活できると考えているわけだ。

いったい、このようなことがあり得るのだろうか?

「東電株復活」のシナリオは、おおよそ以下のようなものである(もちろんこれ以外にも諸説ある)。

  1. 原発事故の賠償総額を4兆円と試算する。
  2. 「一般負担金」は原発1基あたり300~500億円で、54基の原発でおよそ2兆円を調達する(電力会社は1基あたり年間30~50億円を10年程度にわたって拠出する)。
  3. 残る賠償額2兆円のうち1兆円は、東京電力の資産売却やリストラで捻出する。
  4. 最後に残った1兆円は、東京電力の経常利益から返済する。

平成22年度の東京電力の経常利益は約3000億円で、これがそのまま返済原資になれば3年で機構からの借入を完済できる計算になる。ある程度の余裕を見ても7~8年、最悪でも10年以内には配当を再開できる、というのが「東電株復活」のシナリオだ。

話を簡単にするために、一般負担金の2兆円と、東電が資産売却とリストラで捻出する予定の1兆円を所与としよう。そうすると、このシナリオが実現するかどうかは、原発事故の賠償総額と、機構への返済原資となる東京電力の経常利益にかかっている。

原発事故の賠償は、原子力損害賠償紛争審査会の指針に基づいて、今後、本格的な請求が始まる。その総額が巷間いわれているような10兆円規模になれば、このスキームでは、東京電力は数十年たっても配当を再開できないのだから、株券はただちに無価値になるだろう。

もちろん、工程表どおりに事故が早期に収束し、賠償総額が4~5兆円の範囲に収まる可能性もある。そこで、この楽観的な想定で、東京電力がどうなるかを考えてみよう。

電気事業法は、総括原価方式によって、コストに報酬率を上乗せして料金を決めることを認めている。これを字義どおりに解釈すれば、東京電力は「特別負担金」以外のすべてのコストを電力料金に転嫁できるのだから、2000億円程度の経常利益を今後も安定して確保できることになる(一般負担金は、電力料金への転嫁が認められている)。

東京電力は、原発がすべて停止すれば火力発電の燃料費増が年間1兆円になると試算している。これに福島原発の安定化・廃炉費用1.5兆円と、原発17基を保有する東京電力の一般負担金5000~8000億円が加わる(これらは10年程度で償却することになるだろう)。そうすると、現在、かろうじて稼動している柏崎刈羽の3基まで停止すれば、年間のコスト増は最大で1兆2000億円というとてつもない額になる。

これに対して東京電力の売上は5兆円で、1%の電力料金引上げで500億円の利益が生じるとすると、1兆円超のコスト増を賄うためには20%以上の大幅な電力料金引上げが不可避となる。もちろん、節電によって必要な燃料費は減るだろうが、その分、売上も下がるので、結果に大きな違いはないはずだ。

このことからわかるように、電力料金が据え置かれている現在は嵐の前の静けさで、早晩、その引上げが大きな政治的混乱を招くことは避けられない。もし現実に電力料金が20%上がれば、日本の製造業は壊滅するだろう。そうでなくても、引き上げ幅が10%を大きく超えるようなことになれば、政権はたちまち危機に陥ることになる。

東京電力は今後、機構の管理下に入るのだから、電力料金の引上げ幅は政府・経産省と機構が決めることになる(東京電力にはなんの権限もない)。

このような前提を置けば、電力料金を大幅に引き上げて、東京電力が経常利益を確保できるようにする、などという選択肢はあり得ない、と私は思う。

そればかりか、電力料金の引上げを小幅にとどめるために、機構からの資金提供を増やす(東電の負担を大きくする)政治判断のほうがまだありそうだ(この場合、費用を負担するのは電力利用者から国民に変わることになる)。

もちろんこれはきわめて重大な政治問題なので、今後もさまざまな思惑が交錯するだろう。だが、ひとつだけ確かなことがある。

電力料金を引き上げれば、国民の不満や強い批判は避けられない。それがわかっていながら、東京電力の決算を大幅な経常黒字にするなどということが政治的にできるはずはない。

経常黒字がなければ、東京電力は特別負担金を支払うことができない。特別負担金を払えなければ、未来永劫、配当は再開できない。

この単純な理由から、東京電力の株価は、本来の価値であるゼロに向かって収斂していくことになるだろう。

原子力損害賠償支援機構法は東京電力を救済するものではなく、「ゾンビ化」させるだけだ。株主に配当できず、リストラと資産売却を「事業目的」とし、新規の投資すら許されない会社が株式を上場しているのは、株式市場に対する冒涜以外のなにものでもない。

原発事故の賠償に一定の目処がついたら、東京電力は法的に整理して、新しい枠組でやり直すべきだ。それに合わせて発送電を分離し、電力会社の地域独占を廃止し、電力を自由化すれば、すくなくともいまよりすこしはマシな世の中になるだろう。

追記

昨日(9日)発表された第一四半期(2011年4~6月)決算では、東電の経常利益は、人件費を155億円リストラしてもなお630億円の赤字だった。これを前年並みの500億円の経常黒字にするには1000億円以上の利益の上積みがなければならない。第一四半期の電気事業営業収益は1兆円だから、この時点ですでに、10%の電力料金引上げがないと特別負担金の原資を確保できない計算になる。

「みんなの選択」が合理的だと社会は崩壊する? 週刊プレイボーイ連載(13)

わたしたちは日々、無数の「選択」をしています。

インターネットで音楽をダウンロードするときも、近所のコンビニで夕食のおかずを買うときも、たくさんの選択肢のなかから安くて楽しいもの(おいしいもの)を選ぼうと頭を悩ませます。その一方で売り手の側は、自分の商品をすこしでも高く、たくさんのひとに買ってもらおうと努力しています。

市場におけるこうした「わたしの選択(プライベートチョイス)」では、ひとびとは自分がもっとも得をするよう(おおむね)合理的に行動しています。このことに気づいたことで、経済学は市場をモデル化する「科学」になりました。

ところでわたしたちの生活は、私的な選択の積み重ねだけでできているわけではありません。人間は社会的な動物ですから、「みんな」で決めなくてはならないことがたくさんあります。この「みんなの選択(パブリックチョイス)」が、すなわち「政治」です。

「わたしの選択」が損得(経済合理性)で決まるとして、「みんなの選択」はなにを基準に行なわれるのでしょうか。もちろん、ひとびとが利他的ならば、「みんな」にとっていちばんいい選択が行なわれるにちがいありません。

でも世の中にはひねくれ者の経済学者がいて、これはちょっとおかしいんじゃないか、といいだしました。「わたしの選択」のときは利己的で、「みんなの選択」では利他的に行動するのでは、話がうますぎるからです。

そこで彼らは、「みんなの選択」でも、ひとびとは利己的に行動するはずだと考えました。政治の世界には政治家、官僚(役人)、有権者という異なる立場の参加者がいて、それぞれが、自分がもっとも得をする選択をしているのです。

政治家は、落選してしまえば「ただのひと以下」ですから選挙に勝つことが最大の目的で、そのためにより大きな地位と権力を手に入れようとします。

役人は国や市民のために仕事をしていますが、自分や家族の生活まで犠牲しようとは思わないでしょう。彼らが最優先するのはできるだけ多くの予算を獲得し、それが無理なら自分たちの権益を死守し、定年まで安定した生活を送ることです。

国政選挙のような大人数の投票において1票はほとんど価値がありませんから、一般の有権者にとってもっとも合理的な行動は選挙になど行かず、その時間をもっと有効に使うことです。それでもわざわざ投票するのは、公共事業の受注や参入規制の維持など、特定の利害関係があるからにちがいありません。

このようにして、すべての参加者が自分にとって「合理的」な選択をすることで、政治家は有権者にお金をばらまき、官僚機構は肥大化し、あらゆる改革は骨抜きにされて、財政はとめどもなく悪化していくことになります。

当然のことながら、こうしたシニカルな見方は、デモクラシーの理想を踏みにじるものとして強い反発や批判を浴びてきました。有権者や官僚のなかにも、あるいは政治家のなかにだって、個人の利害を捨てて公共の利益に奉仕するひとがいるにちがいないからです。

政治の世界が、すべて「陰謀」よって動いているわけではありません。しかしこの話のもっともおそろしいところは、一人ひとりが善意のひとであったとしても、無意識の「合理的選択」によって、社会全体が崩壊に向かって突き進んでいくところにあるのです。

『週刊プレイボーイ』2011年8月1日発売号
禁・無断転載