大震災と宗教の沈黙 週刊プレイボーイ連載(3)

ローマ法王ベネディクト16世は、日本に住む7歳の少女から、「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」と訊かれて、「私も自問しており、答えはないかもしれない」と返答しました。このやりとりは日本でも報じられ、多くの日本人は、「大震災の悲劇はローマ法王の信仰ですら揺るがした」と理解しました。

しかし、これは正しくありません。

稀代の碩学である故・小室直樹博士は、「キリスト教の本質は予定説である」と述べました。予定説というのは、この世界で起きる出来事はすべて神によって「予定」されており、個人の信仰や努力にかかわらず、誰が救われて誰が救済されないかはあらかじめ神によって決められている、という論理です。

この予定説を否定してしまってはキリスト教徒ではなくなってしまいますから、当然、ローマ法王は大震災も原発事故も神の「予定」であると確信しています。しかしなぜ神がこのような災害を起こしたのかは、最後の預言者であると同時に神でもあるイエス・キリスト以外に知ることはできません。

有名なノアの方舟では、ひとびとの悪行に怒った神は、ノアとその家族を除いたすべての人類を洪水によって滅ぼしてしまいます。このように旧約聖書をひもとけば、天変地異はすべて神の怒りの現れです。

しかしたとえそうだとしても、今回の天災が神なき日本人への怒りなのか、原子力をもてあそぶ人類への警告なのか、あるいはその真意がまったく別のところにあるのかは、ローマ法王ですら自問するしかないのです(聖書原理主義者であれば、神の意思を推し量ること自体が冒瀆だというでしょう)。

ところでこの大災害を、仏教はどのように説明するのでしょうか。

小室博士は、「仏教の本質は因果律である」と説きます。因果律では、この世界で起こるすべての出来事には原因があり、仏教はそこに一切の例外を認めません。しかし世の中は、悪人が栄えたり善人が不幸に落ちたり、理不尽なことばかりです。

この難問を、仏教はバラモン教の輪廻を借用して解決しました。前世、現世、来世とどこまでも転生していくのなら、現世の報いは来世で受けることになり、現世の不幸は来世で埋め合わされて、因果律の帳尻が合うのです。

しかしこの論理は、「なぜ自分が生き残って家族が死んだのか」という切実な問いに答えることができません。前世の因縁や来世の幸福を説いたところで、なんの救いにもならないからです。

ところで、「救い」とはなんでしょうか。

ブッダの教えとは、煩悩捨てて涅槃へと至ることだと小室博士はいいます。煩悩とは「罪」であり、罪あるかぎりひとは永遠に転生を繰り返します。悟りをひらけば輪廻から抜け出せますが、そこにはもはや生はないのですから、涅槃とは「永遠の死」のことです。

このようにして、大震災を前にして宗教は沈黙してしまうのです。

『週刊プレイボーイ』2011年6月6日発売号
禁・無断転載

大きな「正義」の話を聞かせてくれ

東京電力の損害賠償問題が混迷の度合いを増している。これは当たり前で、そもそも政府の支援スキームが電力料金の値上げを前提としているにもかかわらず、安易な料金引き上げを政治的に不可能にしてしまったからだ。

こうした混乱を招いたのは、これが損得の話ではなく正義の問題だということを政府が正しく認識していないからだ。

話の前提として、以下の3点はほとんどの国民が合意するだろう。

  1. 福島第一原発事故を1日も早く収束させること。
  2. 原発事故の被害者・被災者にできるだけ早く適切な賠償を支払うこと。
  3. 電力の安定供給を維持し、電力不足を早急に解決すること。

原発事故の責任問題というのは、これら喫緊の課題を所与として、そのうえでどのような解決策がもっともすぐれているかを考えることだ。

このとき、政府案以外に上記の3つの条件を満たす方法がないとすれば話は簡単だ。政府はそのことを、具体的な数字や根拠をあげて国民に説明すればいい。

ところが現在に至るまで、政府は支援スキームについての明快な説明ができていないばかりか、その任にあるはずの官房長官が、金融機関への債権放棄を求めるなど政府案を批判する急先鋒になっている。これが、混乱の原因だ。

政府案が唯一無二の解決策でないならば、それ以外の代案も検討しなくてはならない。前提条件を満たす複数の解がある場合、その優劣はどのように決めればいいのだろうか。

これには大きく、ふたつの考え方がある。ひとつは「原理主義」で、紛争はあらかじめ決められた正義の「原理」にのっとって処理されるべきだと主張する。もうひとつは「功利主義」で、社会全体の厚生を最大化することを目指す。原理主義と功利主義は正義に対する異なる視点に立っていて、どちらが正しくてどちらが間違っているということではない。

原発事故問題に対する原理主義の主張は、原子力損害賠償法(原賠法)3条にのっとって東京電力の無過失無限責任(厳格責任)を問い、すみやかに破綻処理した後に、政府が賠償責任を引き継ぐべき、というものだ。

ところでここでの原理主義は、原発事故に対する東京電力への報復的な正義の実現を求めるものではない。原賠法3条では、「異常に巨大な天災地変または社会的動乱によって生じたものであるときは」原子力事業者(東電)は免責されることになっている。司法判断によって東京電力の免責が認められたなら、原理主義は法治の原則に従いその決定を受け入れたうえで、妥当な解決策を提案することになるだろう。

法律の専門家のなかには、「異常で巨大な天災」が主因なら免責と考えるべき、との主張もある。野村修也中央大学教授は、「賠償枠組み、整合性に疑問」(日本経済新聞2011年5月25日「経済教室」)で、東京電力を免責したうえで、原賠法17条に基づき国が被害者救済に責任を持つべきだと述べる。この場合は東電の債務超過は回避され、株主責任も貸し手責任も問われないが、東電の人為的なミスがあったことも否定できないので、「(東電には)一般の不法行為(過失)責任に基づき相当程度の基金への拠出を求めるのが合理的」とされている。

一方、功利主義は、既存のルールにとらわれず、社会の安全や秩序、国民の富や生活を守ることを優先すべきだと考える。

すでにさまざまなところで指摘されているが、政府案は大きな矛盾を抱えている。

政府は、東京電力の免責を明確に否定し賠償額に上限を設けないとするが、株主や債権者の責任は問わない。あるいは、(沖縄電力を除く)原子力施設を保有するすべての電力会社は、(将来の)原発事故への保険的意味合いで負担金を支払うが、この資金は(すでに起きている)福島原発事故の賠償資金として使われる。このような奇妙なことは法や市場のルールではとうてい説明できないから、これは「政治功利主義」的な解決策ということになるだろう。

政治功利主義の利点は、東京電力を守ることで、地域独占を前提とする既存の電力供給体制を維持できることだ。そのためこの案が、東京電力の株主や債権者、労働組合(電力総連)はもちろん、電力の地域独占から既得権を得ているひとたちの効用を最大化することは間違いない。ただし、これが「社会全体の厚生」を最大化するかどうかは定かではない。

原理主義と功利主義が対立したときには、どちらの主張を採るかの明快なルールがある。

  1. 原理主義的な解決策と、功利主義的な解決策の効用がほぼ同等な場合は、原理主義を採用する。
  2. 功利主義的な解決策のもたらす社会的厚生が、原理主義的な解決策に比べて圧倒的に大きいときは、功利主義を採用する。

原理主義は、シンプルな正義に拠って立つ。社会のメンバーであれば、だれもが同じように法に従うべきだ。金融市場では、株主の数が多いとか、借金の額が大きいというような事情で特別扱いしてはならない--こうした主張がひとびとの支持を集めるのは、だれもが合意する「正義の原理」に基づいているからだ。

原理主義的な正義を安易に否定すると、ひとびとは社会正義に対する信頼を失ってしまう。国民が「国家の正義」への信頼を失うのは社会の厚生を大きく毀損するから、政府は常に原理主義的な解決策を優先しなくてはならない。

ただし状況によっては、功利主義が「より大きな正義」になる場合もあり得る。

典型的なのは2008年9月のリーマンショックで、このとき米国政府は、大手保険会社AIGを救済しなければメリルリンチ、モルガンスタンレー、ゴールドマンサックなどすべての投資銀行と、世界最大の金融グループであるシティバンクが連鎖破綻するという極限状況に追い込まれた(その後になにが起きるかは神のみぞ知る、だ)。もちろん歴史をやり直すことはできないから、そのときの判断が正しかったどうかはだれにもわからない。だが当時財務長官だったヘンリー・ポールソンの回顧録を読めば、彼らがAIG救済を「より大きな正義」だと確信していたことは間違いない。

AIGはサブプライムローンのリスクを引き受けることで莫大な利益を享受してきたのだから、これを救済することが原理主義的な正義に反することは明らかだ。アメリカ政府はそのことをよくわかっていたが、それにもかかわらず、議会と国民に対し一歩も引かずに「より大きな正義」を語った。

ひるがえって日本の政治家に欠けているのは、この「正義」への確信だ。

原理主義と功利主義はつねに対立するわけではない。原理主義的な社会正義を担保しつつ、功利主義的に社会の効用を最大化できる案があれば、そのほうがいいのはいうまでもない。事実、電力の地域独占を撤廃し、発送電を分離したうえで、スマートグリッドなどの新技術を導入することでより効率的な電力需給が実現できるという代案が、経済学者ばかりか当の経済官僚からも提起されている(たとえば経済産業省大臣官房付・古賀茂明『日本中枢の崩壊』所収の「東京電力の処理策」を参照)。

政府は、原発事故被害対応チームの「関係閣僚会合」で支援スキームを決めたのだから、現行案がもっとも正義にかなうと判断したのは間違いない。当然のことながら、地域独占の廃止や発送電分離などの代案も慎重に検討したうえで、それらは社会の厚生を毀損するとの結論に達したのだろう。だったらその協議の過程を、具体的な数値や根拠とともに、ありのまま国民に公開すればいい。

政府に「正義」への確信があるのなら、自分たちの案が批判されると慌てて、「金融機関は債権を放棄すべきだ」とか(株主責任を問わずになぜ債権者だけが責任を問われるのか)、「発送電分離を検討する」とか(だったら東電の上場を維持する必要はないだろう)、「東電にもっとリストラしろと口をすっぱくしていっている」とか(経産大臣がいかに権威がないか天下に公表するようなものだ)、その場の思いつきのような言い訳をするべきではない。これでは、「なんだか知らないけどみんな怒っているからとりあえず謝っておこう」というのと同じだ。

こういう態度を見せられるたびに国民が絶望していくことが、このひとたちにはわからないのだろうか。

電力料金を値上げできなければ政府の支援スキームは確実に破綻するのだから、言い逃れで時間を稼いでいては事態は悪化するばかりだ。進むか、撤退するか、道はふたつしかない。

東電救済が功利主義的に正しいと確信しているのなら、やるべきことはひとつだ。

ステージにはスポットライトが当てられ、観客も集まっている。だが演壇の前は、いつまでたってもがらんとしたままだ。

さあ、舞台に上がれよ。

そして原理主義的な正義を叩きつぶすような、大きな「正義」の話を聞かせてくれ。

追記1

説明責任を負うのは政府や民主党だけではない。これまで原発政策を積極的に推進してきた自民党も、相手の言葉尻をとらえて足を引っ張るような姑息なことはやめて、原発事故の賠償責任はどうあるべきか、党としての対案を国会でぶつけるべきだ。

追記2

5月20日付の日本経済新聞が、「薄氷の東電公的管理」として、政府の支援スキームが決まるまでの過程を検証している。

福島第一原発事故の直後に東電は市場からの資金調達の道を絶たれ、経営破綻の危機に陥った。そこで金融庁は、大手金融機関に融資の実行が可能かどうかを問合せ、さらに経済産業省の松永和夫次官が、全国銀行協会の会長で東電のメーンバンクでもある三井住友銀行の奥正之頭取(当時)に、「我々も責任をしっかり負う。金融機関も支えてほしい」と支援を依頼した。金融機関はこれを、政府からの事実上の要請ととらえ、総額2兆円の融資を行なうことになる。

ところがその後、政府内で東電の国有化案が浮上したとの報道があったことから、金融業界は「政府は約束を反故にするのか」と激しく動揺した。株主も債権者も責任を問われない現行の支援スキームは、この2兆円の融資をどのように保護するのか、というところからスタートした。

金融機関からの融資がなければ、原発事故の直後に東電は経営破綻し、金融市場が大混乱に陥るばかりか、電力の安定供給すらも危ぶまれただろうから、「事故後の緊急融資は全額保護されるべきだ」との金融機関の主張には理がある。だったら経産省次官の口約束ではなく、政府が明示的に国家保証をつければよかった。これなら、その後の支援スキームの決定にあたって、政府はフリーハンドを確保することができただろう。

ところで、「東京電力が消滅すれば賠償主体がなくなり被災者が不利益を被る」との主張があるようだが、政府の適切な立法措置でこの問題は解決できるのだから、法律上の瑣末な議論にすぎない(これに関しては玉木雄一郎「「プレパッケージ型」法的整理で東電の再生を図れ。」を参照)。

政府や経産省は、世論を意図的に誘導するような「恫喝」をやめて、正々堂々と自らの主張を述べるべきだ。

関連エントリー:

東京電力は日本政府を訴えるべき

いずれ君たちは思い知るだろう

私たちは「猿の惑星」に住んでいる 週刊プレイボーイ連載(2)

日本の政治に、みんなが怒っています。怒りを通り越して、絶望しているひとも少なくありません。

大震災と原発事故という未曾有の国難にあって、いまこそ国がひとつにまとまらなければならないのに、政治家は足の引っ張り合いばかりしている――こうした批判はもっともですが、しかし、政治の本質が権力闘争であるという基本的なことを見落としています。

権力闘争とはいったいなんでしょう。

オランダの動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールは、動物園で暮らすチンパンジーたちの「政治」を研究して世界じゅうを驚かせました。ベストセラーとなった『政治をするサル』では、老いたボスザルが人望(サル望?)の厚いライバルの台頭を押さえ込むために、乱暴者の若いサルと同盟を結んで共同統治を画策する様が活き活きと描かれています。

友情と裏切り、権謀術数と復讐が織り成す残酷で魅力的なチンパンジーたちの政治ドラマは、戦国絵巻や三国志、シェークスピアの史劇そのままです。

彼らを支配する掟は、たったひとつしかありません。

「権力を奪取せよ。そして子孫を残せ」

チンパンジーやアカゲザル、ニホンザルなど社会的な動物たちは、きびしい階級社会に生きています。オスは、階級を上がることによって多くのメスと交尾し、子孫を残すことができます。だからこそ彼らは、権力闘争に勝ち残ることに必死になるのです。

チンパンジーと99%の遺伝子を共有しているヒトも、当然のことながら、権力を目指す本能を埋め込まれています。ヒトでもチンパンジーでも、権力の頂点に立てるのは一人(一匹)ですから、ライバルが権力を握るのを手助けするのは自殺行為にほかなりません。政治家の「本性」は相手の成功に嫉妬し、どのような卑劣な手段を使ってでも足を引っ張ろうとすることなのです。

だからといって、ここで政治家個人を批判しているのではありません。日本の政治家のなかにも優れたひとは多く、「この国を変えなくてはならない」との高い志にウソはないでしょう。しかし政治の世界の掟は「支配と服従」ですから、理想を実現するにはまず権力を奪取しなければなりません。そして激烈な権力闘争のなかで、理想はつねに妥協の前に敗れていくのです。

多くのひとは、日本の政治がダメなのは政治家がだらしないからだと考えています。しかしこの問題は、ずっとやっかいです。私たちはみんな、権力への欲望を脳にプレインストールされて生まれてきます。外部から隔離された政治空間ではその本能が理性を失わせ、“サル性”が前面に出てしまうのです。

アメリカ映画『猿の惑星』では、地球に帰還中の宇宙飛行士が、ヒトがサルによって支配される惑星に不時着します。この寓話がよくできているのは、人間社会がいまも「内なるサル」によって支配されているからです。

私たちが「猿の惑星」に住んでいると思えば、日本の政治でなにが起きているのかをすっきりと理解できるようになります――なんの慰めにもならないでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2011年5月30日発売号
禁・無断転載