ポール・クルーグマンを日銀総裁に

最初に断わっておくけれど、私は、マクロ経済学の議論は自分の領域ではないと考えている。これまで何度か書いてきたように、「誰も未来を知ることはできない」ということを前提に、外的環境の変化に合わせて人生設計を最適化する、というのが私の一貫した立場だ。

リフレ政策についても同様で、私の立場としては、「マクロ経済学的な議論としては成立するとしても、それが実際に期待された効果を生むかどうかはやってみなければわからない」という不可知論となる。それ以前に、経済学者のあいだですら評価が二分する経済政策について、(私のような)専門外の生活者に真偽の判断ができるわけもない。

その意味で、リフレ政策を選挙の争点にして有権者の判断を仰ぐ、というのは意味がないだろう。これはあくまでも、国民の負託を受けた政治家が自らの意思で判断すべき事柄だ。

このような前提のうえで、不可知論の立場からリフレ政策を支持できるかどうか、ここでは考えてみたい。

日銀がリフレ(インフレターゲット)政策を採用した場合、それによって実現するシナリオとしては、以下の3つが考えられる。

  1. リフレ批判者の指摘するとおり、デフレ下では金融政策は効果がないのだから、なにも変わらない。
  2. リフレ支持者のいうとおり、マイルドなインフレが実現して景気が上向き、需給ギャップが解消して、経済成長率が4~5%にまで回復する。
  3. リフレ否定論者の予言のとおり、円の信用が崩壊しハイパーインフレが起こる。

この場合、シナリオ(1)は日銀の当座預金が増えるだけで、それ以外はいまと同じだ。シナリオ(2)ならみんなが幸福になるのだから、誰も文句はないだろう。そう考えれば、リフレ政策を採用すべきかどうかは、シナリオ(3)が起きる確率をどのように評価するかで決まる。だが不可知論の立場からは、(未来は誰にもわからないのだから)シナリオ(3)のリスクは評価不能だ。

ところで、リフレ政策が引き起こすかもしれない通貨の信用崩壊とは、要は日本国の財政破綻と同じだ。ということは、「国家破産」と同様に、その経済的な損失をあらかじめヘッジすることができる(財政破綻に備える「3つのリスク回避術」)。そうであれば、「国家破産」に備えて十分なヘッジをした合理的な個人は、シナリオ(3)のリスクよりもシナリオ(2)のリターンを選好して、不可知論のままリフレ政策を支持するのではないだろうか。

*もちろん、ヘッジをしていない個人は円の信用崩壊でヒドい目にあうのだから、この選択が道徳的に正しいとはいいきれないのだが……。

ところがここに、ひとつ重大な問題がある。

仮に日銀法が改正され、リフレ政策が採用されたとしても、日銀がそれを正しく行なうかどうかはわからない。というよりも、インフレターゲットを宣言してもデフレが続くようなら「やり方がなまぬるい」と批判され、ハイパーインフレが起これば(やり方を間違えた)「戦犯」として断罪されることになるのだから、これではあまりにも損な役回りだ。こんなに条件が悪ければ、誰だってマトモに仕事なんかしないだろう。

この難題をクリアする方法はひとつしかない。

リフレ政策が正しく行なわれるためには、結果がどうであれリフレ支持派が納得する人物が日銀総裁になる以外にない。だったらその適役は、創始者であるポール・クルーグマンをおいてほかにはいないだろう。クルーグマンだって、自らの経済理論の正しさを天下に示す千載一遇の機会なのだから、喜んで引き受けてくれるにちがいない。

はたしてこの方法はうまくいくのだろうか?

私が思うに、もしクルーグマンが日銀総裁になれば、それだけで(なにもしなくても)インフレ期待が起き、株価が上昇し、景気が上向く可能性がある(それもきわめて高い確率で)。これなら国債を増発して紙幣をばら撒く必要もないのだから、リフレ否定論者だって文句はないだろう。

支持率の低迷に喘ぎ、国民から見捨てられつつある民主党政権は、いますぐプリンストンに行って三顧の礼をつくしたらどうだろう。

マネーゲームと評判ゲーム

「相続税は道徳的に正当化できるか?」にさまざまなコメントをいただいた。「正義」についてはいろいろな意見があるだろうが、ここではまたすこし違う視点からこの問題を考えてみたい。

武富士元会長の長男は、父親から武富士株1600億円相当を贈与され、それに対して約1300億円の追徴課税を受け、その取消しを求めて裁判に訴えた。今回の最高裁判決で、裁判中の利子分を含め約2000億円が返還されることになる。

ところで、もし今回の裁判で負けていても、長男の手元には(武富士株をどのように処分したかにもよるだろうが)300億円が残っている計算になる。それが逆転勝訴によって2300億円になった。だがこの金額は、有限にしか生きられない人間にとってどれほどの違いをもたらすのだろうか?

お金は、増えれば増えるほどその魅力が減っていく(限界効用が逓減する)という特徴を持っている。サラリーマンが生涯に獲得する収入は約3億円といわれているが、その何十倍や何百倍の資産を持っていても、一夫一婦制などさまざまな社会的制約があるなかで個人にできる放蕩や散財には自ずと限界があるだろう。

毎月かつかつの暮らしをしていてる若者が、ボーナスが10万円増えたとしたら、彼女(彼氏)と旅行に行けてものすごくうれしいだろう。1600億円の資産が300億円に減り、それが長い裁判の果てに2300億円に増えたら、それと同じくらいうれしいだろうか(私には経験がないのでわからないけれど)。

誤解のないようにいっておくが、これは「貧乏ほど幸福で金持ちは不幸だ」ということではない。お金の主観的な価値は、貧しいほど大きく、豊かになるにつれて小さくなっていく、というだけのことだ。

それに対して評判は、限界効用が逓増する。いったんよい評判を獲得すると、もっとよい評判が欲しくなる(それと同時に、評判を失うことを恐れるようになる)。これがなぜかというのは難しいのだけれど、社会的な動物としての人間はそのようにプログラムされて生まれてきた、としかいいようがない。同じ社会的な動物であるチンパンジーやボノボもそうだろうけれど、評判を気にしない個体は子孫を残せずに淘汰されてしまったのだ(もちろんこうした傾向が文化的に強化されたというのもある――名誉を失うくらなら死を選べ、というように)。

そう考えれば、一定以上の(使い切れない)資産を獲得した合理的な個人は、それを「評判」に置き換えようとするだろう。

世界一の資産家となったビル・ゲイツは、子ども(一男二女)が生まれたばかりの頃から、「財産はすべて社会に還元し、子どもには必要最低限しか残さない」と公言していた。妻と共同で創設したビル&メリンダ・ゲイツ財団は、いまや世界最大の慈善基金団体だ。

億万長者の投資家であるウォーレン・バフェットは贅沢を毛嫌いし、生まれ故郷のオマハに20代のときに購入した家に住み、チェリーコークと大衆食堂のハンバーガーをこよなく愛している。バフェットは資産の7割にあたる310億ドルを、ゲイツ財団に寄付することを明らかにしている(それ以外の財産も死後はバフェット財団などに寄贈するという)。

もちろん彼らは、1セントの税金も払わずに自らの資産を子どもたちに残すこともできる。アメリカは世界でもっとも過酷な税制を持つ国として知られるが、それでも米国外に居住地を移し、アメリカ国籍を離脱し、一定期間を経過すれば納税義務は消滅する。ではなぜ、彼らはそうしようとしないのだろう。

その理由はもちろん、これまで築いた評判を守るためだ。国を捨てたカネの亡者のことなど、誰も尊敬してくれない。そんなことになれば、誹謗と中傷にまみれ失意と絶望のうちに余生を過ごさなくてはならない。彼らが賢ければ(もちろん十分以上に賢いだろう)、こんな不利な取引をするはずはない。

ところで、彼らが富を社会に還元するのは、社会がそのような行為を高く評価するからだ。慈善家がまったく尊敬されなかったり、寄付が控除されず税金だけが高くなるような社会では、こんなバカバカしいことは誰もしようとは思わないだろう。

だとすれば、資産家が富と評判を交換しようとする(慈善に強いインセンティブのある)社会では、そもそも相続税は不要ということになる。アメリカで相続税(遺産税)の廃止が議論されるのも、こうした背景があるからだろう。

それに対して、日本社会はどうだろうか?

この国には、ゲイツやバフェットのような慈善家はいない。そのかわり、匿名のたくさんのタイガーマスクがいる。