『貧乏はお金持ち』が文庫化されました

ブログ休止中につきご連絡が遅れましたが、『貧乏はお金持ち』が文庫化されましたので、お知らせいたします。

本書では、“マイクロ法人”という新しいビジネスの可能性が提案されています。独立・開業やフリーエージェントを目指すひとだけでなく、会計、税務、資金調達など人生のファイナンスを会社に丸投げしてしまっているサライーマンの方にも、ぜひ手に取っていただければと思います。

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(1)

今回の大震災については近いうちに本のかたちで自分の考えをまとめてみたいと思っていますが、それまでブログを休止するのもさびしいので、何回かに分けて昔の思い出を掲載します。

これはもともと、“過去の体験から人生設計を語る”という企画の残骸で、最初の部分だけ書いて、うまくいかないので放棄したものです。

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大学を卒業した翌年、その頃つき合っていた女の子の友だちが短大を出て上京してきた。なにがきっかけか覚えていないけれど、2人で彼女のアパートに遊びにいくことになった。調布基地と多磨霊園に挟まれたあたりに進駐軍のゴルフ場を転用した公園があって、彼女はその近くで年上の男性と暮らしていた。

彼はミュージシャンで、70年代半ばに大ヒット曲を出したフォークグループの元ギタリストだった。学生運動の季節が終わったあとの喪失感をアメリカ映画のタイトルに託した歌といえば、同世代のひとにはすぐにわかるだろう。そのときはずっと年長に感じられたけど、いま思えば30代前半で、5年ほど前にグループが解散したあとはバックミュージシャンとして活動していた。

そこは木造の古いアパートで、畳敷きの2間に台所と風呂・トイレが付いていた。すりガラスの窓にカーテンはなく、夜は雨戸を閉めていた。殺風景な部屋には、旧式のステレオセットとギターケースが置かれているだけだった。

デザインの勉強をするために東京に出てきた彼女は21歳で、希望に溢れていて、とても魅力的だった。旅先のロンドンで知り合った彼のことをこころから尊敬していて、ライブの予定やレコーディングの計画をうれしそうに話してくれた。そんなとき、彼女の目は満天の星のようにきらきらと輝いていた(そのときぼくは、これがたんなる比喩じゃないことをはじめて知った)。

なぜこんなむかしのことを覚えているかというと、彼女の話を聞きながら彼が浮かべた表情がずっと記憶の隅に残っていたからだ。おとなしいひとだったから、照れてるんだろうと思った。その意味がわかったのは、ずっとたってからのことだ。

その当時、ぼくたちはまだ若くて、目の前には無限の可能性が開かれていると信じていた。だけど彼は30歳をすぎて、音楽業界のなかでの自分の立場がわかっていたのだろう。そのときは気づかなかったけれど、彼の境遇はかつての成功とはずいぶんと大きな隔たりがあった。

素敵な恋人ができて、その子が自分のことを信頼していて、未来にものすごく大きな夢を抱いていて、そして自分がその夢をかなえることができないと知っていたとしたら、どんな気持ちがするだろう。

ひとは、唇をほんのすこし歪めるだけで、こころが砕け散るような絶望を表わすことができるのだ。

大震災のあとに、人生について語るということ

東日本大震災から3週間が過ぎ、福島第1原発事故は予断を許さない状況ながら、街はすこしずつ平静を取り戻してきたように思えます。その一方で、いまだ多くの被災者の方が避難場所で不自由な生活を強いられており、その方々が1日も早く平穏な日常を取り戻せるよう祈るばかりです。

今回の震災とそれにつづく原発事故は、私にとっても衝撃的な出来事でした。

私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。

私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状とともに、現実の出来事として、目の前に立ち現われるなどとは考えたこともありませんでした。

津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。

被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。

被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなお互いに助けあい、はげましあっていたのです。

私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事でしかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。

大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断わり、連載も延期して、そのことだけを考えてきました。いまだこたえは得られませんが、ブログを再開したのは、それでもまだ自分には伝えたいことがあると気づいたからです。

これからメディアでも、ネット上でも、復興支援のあり方や原発事故の責任問題、日本経済の先行きや財政問題などをめぐってさまざまな議論がたたかさわれることになると思います。もちろんそれは大切なことでしょうが、そうした賑やかな論争からはすこし距離を置いて、この大災害が私たち一人ひとりの人生に与える意味について考えてみたいと思っています。

ブログ休止中も、たくさんのコメントをお寄せいただき、ありがとうございました。これからも、忌憚のないご意見をお聞かせください。

橘 玲