「運が遺伝する」のはなぜなのか? 週刊プレイボーイ連載(583)

流行語となった「親ガチャ」は、どんな家庭に生まれたかで人生が大きく変わることをいいます。しかしわたしたちは、親から家庭環境だけでなく、遺伝子も受け継いでいます。受精のときに性染色体はランダムに組み合わされますから、これは「遺伝ガチャ」です。

ヒトが遺伝と環境の相互作用の産物だというのは、いまでは広く受け入れられるようになりました。しかし、「環境も遺伝する」といわれると、「なにをバカなことを」と思うでしょう。しかしこれは、近年の遺伝学では主流の考え方になっています。

『同じ遺伝子の3人の他人』というドキュメンタリー映画では、研究目的で、一卵性の三つ子が生後6カ月で異なる経済環境の里親に送られますが、実験を行なっていた研究者が死んでしまったため、3人はお互いのことをまったく知らずに育ちます。

ところがそのうちの1人が大学に進学すると、誰ひとり知り合いがいないのに、みんなが自分に話しかけてくる。三つ子のもう1人が、先にその大学に入っていたのです。そうこうするうちに残りの1人とも出会って、3人でレストランを経営して成功するものの……という話でした。

稀有な例に思えますが、別々に暮らしていても、同じ地域に住んでいた一卵性双生児が、同じ学校で出会うというのは、べつに不思議ではないといいます。遺伝と環境は異なる要因ではなく、遺伝的な特性によって、無意識のうちに、自分に合った環境を構築するのです。当然、遺伝的に同一なら、同じような環境を選択するでしょう。

これが「環境は遺伝する」という意味ですが、そこからさらに、「運は遺伝する」という驚くべき話になります。

行動遺伝学では、近しいひとが亡くなったり、強盗に遭うなど、一般的には「運が悪かった」とされる偶然の出来事と、離婚や解雇、お金の問題など、本人にも責任があると見なされる出来事を比較しています。その結果、偶然の出来事の26%が遺伝で説明でき、本人に依存する出来事の遺伝率は30%で、統計的に有意な差がないことがわかりました。

これも奇異に思えますが、近しいひとが親族で、自分も病弱なら、遺伝がかかわっている可能性があるし、強盗に遭うのはたしかに運が悪かったのでしょうが、危険な場所にいたり、目立つ行動をとっていたとすれば、そこにも遺伝の要素があります。

知人が交通事故に遭ったら、「運が悪かったね」と同情するでしょう。しかしそれが、信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたり、無理な追い越しをしようとして起きたのなら、本人に責任がないとはいえません。運の良し悪しはたしかに偶然ですが、そのような出来事が起きる場所に身を置いたことには遺伝の影響があるのです。

遺伝と環境は絡み合っていて、遺伝ですべてが決まるわけではないものの、遺伝の影響を環境によって変えるのは簡単ではありません。これが、子どもが親の思いどおりに育たない理由でしょう。

そう考えれば、私たちの人生のすべてを遺伝の長い影が覆っていて、そこから逃れることはできません。そんな話を、日本における行動遺伝学の第一人者、安藤寿康さんとの対談『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』でしています。興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

『週刊プレイボーイ』2023年11月20発売号 禁・無断転載

女の子同士のいじめはどういうルールで行なわれているのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年3月26日公開の「「間接的攻撃」を多用する裏攻撃による「女の子のいじめ」の研究」です(一部改変)。

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#MeToo運動で頻繁に登場したのが、“toxic masculinity”という言葉だ。これは日本語で、「毒々しい男らしさ」と訳されている。「男はマッチョであるべき」というマチズモのことだが、そこにtoxic(毒性の)というネガティブな形容詞をつけたことで、「セクハラやドメスティックス・バイオレンス、レイプなどの性犯罪の背景にあるのは過剰な男らしさだ」とのメッセージが込められている。

こうしたフェミニズムの主張に対しては、当然のことながら男の側から反論があって、それが(例によって)アメリカ社会を二分しているのだが、興味深いのは男の側にも「男批判」に与する者がいることだ。

一般に「リベラル」に分類される彼らは、「女は男より共感力に優れている」として、「女は善で(自分たち以外の)男は悪」と主張をしている(ように見える)。その多くは白人で、「黒人などのマイノリティは犠牲者で(自分たち以外の)白人は人種差別主義者(レイシスト)」という立場をとる(ように見える)。

これがアメリカ社会で「保守vsリベラル」の憎悪を煽り立てる理由のひとつになっているのだが、このやっかいな話はちょっと脇に置いておいて、ここで紹介したいのは、当の女性のなかから、「共感力にあふれた女は素晴らしい」との賛辞に対して、「そんなわけないでしょ」との反論が現われたことだ。

そのきっかけになったのが2002年に全米ベストセラーとなったレイチェル・シモンズの“Odd Girl Out : The Hidden Culture of Aggression in Girls”で、日本では『女の子どうしって、ややこしい!』( 鈴木淑美訳、草思社)として翻訳されている。原題は「ヘンな子をハブる 女の子の攻撃性の隠された文化」という感じだろうか。2005年にはテレビドラマ化もされたようだ。

女に子どうしのいじめは、日本では少女マンガやライトノベルなどのサブカルチャーが繰り返し描いてきた。アメリカも(たぶん)同じだろうが、シモンズの本が大きな反響を呼んだのはそれを社会問題として真正面から取り上げたからだ。それはいわば、“toxic femininity(毒々しい女らしさ)”の女性の側からの告発だった。

女の子のいじめは「裏攻撃」

シモンズがこのテーマに関心をもったのは、自身の「いじめ体験」からだった。8歳のとき、同じ小学校にアビーという人気のある女の子がいた。アビーとはとくに親しいわけではなかったが、あるとき理由もわからず、シモンズの親友に彼女のことを中傷した。すると親友は、「ほかの女の子たちと遊ぶのが楽しい」とシモンズから離れていった。

シモンズがいまでも強烈に覚えているのは、次のような体験だ。

ある日の放課後、地元のコミュニティセンターで開かれるダンス教室に行ったときには、アビーが私の友だちを集めて、私から逃げるようにといいふくめた。私は必死で彼女たちの後を追い、息を切らしながらコミュニティセンターの劇場に入っていった。突然の暗闇に目をこらす。客席や舞台で、ぱたぱたという足音が聞こえ、追いかけていくと、笑い声がどよめいた。

その日から、シモンズは女の子全員から「ハブられた」。「誰もいない薄暗い廊下、階段の吹き抜け、駐車場、どこにいてもひとりぼっちだった。悲しみに押しつぶされそうになりながら、こんな思いをしているのは自分だけだと思っていた」という。

大学生になったシモンズは、たまたま6人の女友だちと夜食をつまみながら話をしていたとき、全員が同じようにいじめられた経験があることを知った。それが「女の攻撃性」を研究しようと思い立ったきっかけとなった。

シモンズはまず、アメリカの知り合い全員にEメールで「ほかの女の子にいじめられたことがありますか? どんなふうだったか、説明してください。いじめの経験によって、どんな影響を受けましたか?」との質問を送り、「できるだけ多くの女性に転送してください」と頼んだ。

24時間以内に、シモンズの受信トレイは全国からの返信でいっぱいになった。「みな何かに突き動かされたように、自分の体験談を語り、見ず知らずの女性たちが、この話をするのはあなたが初めてです、と書いていた」。

次にシモンズは、「女の子のいじめ」がピークに達する10歳から14歳までにインタビューすることにした。対象となったのはアメリカの3つの地域(大西洋中部、北東部、ミシシッピー)の10校で、私立女子高、中流階級のユダヤ人学校、黒人とプエルトリコ、ドミニカ出身者が大半の学校など校風はさまざまだが、女の子たちの体験はとてもよく似ていた。

このインタビューから、シモンズは女の子たちのあいだで“alternative aggression”が広く行なわれていることを発見した。男の子たちは殴り合いなど「直接的攻撃direct aggression」をするが、女の子はその代わりに別の(alternative)攻撃手法を使っているというのだ。これは日本語版では「裏攻撃」と訳されている。

じつはノルウェーの社会心理学者カイ・ビョークヴィストが、1990年代に「女の子の攻撃性」を精力的に調べ、男の子の「直接的攻撃」に対して女の子は「間接的攻撃」を多用すると論じている。その後、ミネソタ大学のグループがこれを「人間関係を用いた攻撃」「間接的攻撃」「社会的攻撃」に分類し、以下のように定義した。

  • 人間関係を用いた攻撃:「人間関係、つまり、他人に受け入れられているという感覚、友情、グループの一員であるという意識にダメージを与える行為によって、他人を傷つけること」。無視する、仲間外れにする、嫌悪を示すしぐさや表情を見せる、相手とほかのひととの関係をこわす、自分の要求に応えないならつきあいをやめると脅すなど
  • 間接的攻撃:こっそりふるまい、相手を傷つける意図などまったくないかのように見せる。噂を流すなどして、他人を使う
  • 社会的攻撃:自尊心やグループ内の社会的ステイタスを傷つける。噂を流したり、社会的に排除したりする

シモンズはこれらを「裏攻撃alternative aggression」としてまとめたうえで、「女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっているとは外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる」とする。

9年生(中学3年生)の8つのグループに「男子と女子では、意地悪の仕方にどんなちがいがあると思う?」と訊いたときに、女子生徒たちから次のように言葉が次々と出てきた。

女子は誠実でなく、信用できず、陰険だ。他人を操り、友だちを利用して人を攻撃する。たがいを踏み台にする。容赦なくて悪賢い。何かされたら、じっと復讐の時を待ち、相手が油断しているすきをけっして見逃さない。目には目を、とでもいうような残酷さで、「自分と同じ思いをさせてやる」のだ、と。

もちろんこれは、“toxic femininity”を一方的に批判し断罪するものではない。シモンズの意図は、女の子たちがいじめに立ち向かい、よりよい人間関係をつくっていくためには、自らの内にある「攻撃性」から目を背けてはならないということだ。

もっとも恐れるのは「一人でいるのを見られること」

「女の子のいじめ」はアメリカでも深刻になっているにもかかわらず、つい最近まで、なぜ「社会問題」として取り上げられなかったのか。それには3つの理由があるとシモンズはいう(これは日本にも共通するだろう)。

【いじめは通過儀礼】
アメリカの多くの母親は、自らの体験から、いじめは女に子にとって通過儀礼であり、それを防ぐために親(大人)にできることは何もないと考えている。「女の子がいじめ、いじめられつつ、つきあい方を学ぶのは必要なことであり、積極的な意味がある」「(いじめは)女の子がのちに大人になったときに自分を待ちうけるものを知るためにある」との主張も根強い。「女の子のいじめは普遍的に存在し、役に立つのだから、社会構造の一部として容認すべきだ」というのだ。

【いじめられる側にも問題がある】
日本と同様に、「いじめの被害者には社会的な技術が欠けている」とされる。「いじめられた子は強くなり、学習して、うまく社会にとけこむすべを身につけなければならない」と考える大人も多い。

【女の子のいじめは指導が困難】
教師の立場からすると、男の子同士のケンカは対処しやすいが、女の子のいじめは扱いにくい。ある教師は、「もし男子がペンで机をトントン叩いていれば、やめなさい、といいます。しかし女の子が別の子に意地悪そうな目つきをしていても、『こちらを見なさい』というくらいしかできないんじゃないでしょうか。男子の悪さは一見してわかりますが、女の子が何をしているか、確かなことはわかりませんから」と述べた。女の子同士のいじめは見て見ぬふりをされるのだ。

そんなアメリカの学校で女の子たちは、“開放的で自由な青春”というイメージとはずいぶんちがって、日本の女子中学生・高校生と同じような悩みを抱えている。男の子の攻撃性と比べて長いあいだ軽視されてきた「女の子の攻撃性」だが、シモンズはそれが、(「環境を支配するため手段」としての男の攻撃性に対して)人間関係と愛情を確認するため、すわなち「共感力」から生じるのだとする。

アメリカの10代の女の子たちがもっとも恐れるのは「ひとりでいるところを見られる」ことだ。ある女の子はシモンズにこういった。

廊下をひとりで歩いていて、みんなに見られている感じがするのは最悪です。ひとりでいると憐れまれるけど、誰も人から憐れまれたくないでしょう。それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです。

シモンズが出会った女の子たちは、「ひとりのけものにされる不安にかりたてられ、学校という荒れた海に漂う救命ボートであるかのように、友人にしがみつく」。その結果、「毎日のささいな摩擦すら、大切な人たちを失うことにつながるかもしれないと恐れ、どんなレベルでも人と対立しようとしない」のだ。

次のような発言は、何も知らなければ、日本のごくふつうの女の子のものだと思うだろう。

私たちは、いつもおたがいに『怒ってない?』と訊きあって、訊かれるとすぐ『ううん』と答えるんです。『怒ってる』なんていいたくないでしょう。

本当のことをいったら傷つけてしまう。だから私は嘘をつくんです。

相手が次になんというかわからないから。友情がだめになってしまうかもしれないし、もしうまくいかなかったら、相手の子はほかの子まで巻きこむかもしれない。だから、直接話はしないんです。

「どれほど不愉快でも相手の気持ちは傷つけたくない」「自分の感情を二の次にしてまず他人の気持ちを考えなければならない」というのは、地域や学校文化、あるいは人種を問わず、アメリカの女の子たちとのインタビューで首尾一貫して現われるテーマだった。その結果、女の子社会では「解決されない摩擦が空気中にガスのようにたれこめている」。

アメリカ人は非を認めないといわれるが、女の子同士で“Sorry”は頻繁に使われる。しかしそれは衝突の原因を解決するものではなく、人間関係を保つための形式的な謝罪なので、本質的なところではなにも変わらない。これは「魔神をびんにとじこめたようなもので、魔神はなかで次のきっかけをじっと待っている」し、「怒りとつらさを抱え込むのは、部屋のなかでゾウを飼うようなもの」なのだ。

シモンズは、「あまりにも多くの女の子が、日常的な衝突を処理する能力に欠けているため、怒りの言葉を聞かされると驚き、身構えてしまう」という。「孤立するかもしれないという不安からパニックに陥り、自分に向けられたスポットライトをほかに向けるためならなんでも利用し、自分の味方をしてくれる友人と同盟関係をつくる」というのだが、ここから日本の女の子とのちがいを見つけるのは難しいだろう。

アメリカの10代の女の子の理想は“アンチ・フェミニズム”

日本でもアメリカでも、女の子たちには理想像、すなわち「なりたい自分」がある。それと同時に、「あんなふうにはなりたくない」という女の子像もあるだろう。シモンズはそれを、10代へのインタビューをもとに“IDEAL GIRL(理想の女の子)”と“ANTI-GIRL(なりたくない女の子)”に整理している。興味深いリストなので紹介しておこう。

●理想の女の子             ●なりたくない女の子
とてもやせている             意地悪
かわいい                 醜い
ブロンド                 陽気すぎ
嘘っぽい                 運動が得意
頭が悪い                 頭がいい
背が高い                 頑固
青い目                  強情
胸が大きい                肌が浅黒い
健康                   やせていない
高価な服                 誰とでもつきあう
アンバランス               独断的
飾らない                 不安定
流行に敏感                やぼったい
人気がある                不幸そう、憂うつ
ボーイフレンドがいる           男性的
にこにこしている             まじめ
幸せそう                 強い
頼りない                 自立している
電話でよく話す(友だちが多い)      レズビアン
表面的ないさかい(すぐ解決)       芸術家気どり
大人びてみえる              いらいらして人に当たる
女の子っぽい               抑制されてない
人に頼る                 自己中心的
実用的でない服              社交性がない
人を操る                 つきあいづらい
セックス=パワー             本好き
金持ち
歯がきれい、肌がきれい
りこう
恋人はステイタスがある人

この調査が行なわれたのは1990年代後半から2000年代はじめだが、驚いたことに、アメリカの10代の女の子の理想はバービー人形(ブロンドで青い目、背が高く痩せていて胸が大きい)であり、キューティブロンド(かわいげのある、頭が悪くて頼りなさそうな金髪娘)なのだ。

それの一方で「なりたくない女の子(ANTI-GIRL)のなかには、「頭がいい」「強い」「自立している」などが入っている。フェミニストが理想とする女性像は、10代の女の子たちにとって「いけてない女」の典型とされているのだ。

シモンズが注目するのは、「理想の女の子」に要件に「嘘っぽい」「人を操る」があり、「なりたくない女の子」に「強情」「独断的」「まじめ」が挙げられていることだ。これは、「裏攻撃」が得意だと女の子集団のなかで高く評価され、不得手な女の子は避けられるということだろう。10代の女の子たちにとっての理想は、「自分の感情を抑え、他人を操作することで自己表現できる子」なのだ。

シモンズはそれを、「頭が悪く、それでいて人を操れる。人に依存して頼りないが、セックスと恋愛を利用して力を得る。人気があるが、踏みこまない。健康的だが、運動はしないし頑丈でもない。幸せだが、陽気すぎない。真実味が薄い。自動警報装置がないぎりぎりのラインで爪先立ちして歩いている」ようなタイプだという。これが「リベラル」な女性たちが“toxic femininity”と見なすものだろう。

リアルな人間関係がうまくいかないなら、ネットでそれを解決できるはずはない

シモンズが“Odd Girls Out”を出版したのは2002年で、その後、“いじわるな女の子たち”はMean Girlsと呼ばれるようになる。これは同じ2002年に発売されたロザリンド・ワイズマンの“Queen Bees and Wannabes(女王バチとなりたがり)”を原作に、2004年にリンジー・ローハン主演で公開された映画のタイトルからとられたらしい(翻訳は『女の子って、どうして傷つけあうの? 娘を守るために親ができること』 小林紀子、難波 美帆訳、日本評論社)。

シモンズが全米を講演すると、“ミーンガール”にいじめられていると訴える女の子とその母親だけでなく、男の子の姿も目立つようになってきた。その理由は、ミーンガールのいじめの対象にされる男子生徒が増えてきたことと、男の子集団のなかでも、従来の直接的攻撃(殴り合い)から女の子のような「裏攻撃」へといじめが変化してきたことにあるという。リベラルな社会は暴力を極端に嫌うが、そうなると男の子集団の人間関係も暴力を排除した(女の子的な)ものに変わっていくのかもしれない。

あまりの反響の大きさにシモンズは2011年に本書の改訂版を出したが、複数の10代の自殺がネットいじめに関係しているのではないかと社会問題化したことを受けて、新たにFacebookなどSNSでのCyberbullying(ネットいじめ)の章を追加している。日本の10代はFacebookではなくLINEを使っているから事情は若干ちがうだろうが、興味深い指摘をいくつか紹介しておこう。

研究者によると、2010年時点で、アメリカの平均的な女の子は1日50以上のテキストを送受信し、14歳から17歳はもっともアクティブで1日平均100回に達するという。友だちからのメッセージにすぐに返信しないのはrude(無作法)だとされるため、スマホを枕の下や胸の上に置いて寝る子もいる。8歳から18歳までの若者は1日平均8時間(!)をスマホやパソコンに使っているとの調査結果もある。

11歳から18歳の若者のうち、5分の1から3分の1がCyberbullyingのターゲットにされた経験がある。ネットいじめの84%は友だち、元の友だち、別れたパートナー、クラスメートなどの「知り合い」からのもので、見知らぬ相手からのネットいじめは7%以下だった。

ネットいじめにはかなりの男女差があり、26%の女の子がターゲットにされたが、男の子は16%だった。また22%の女の子がネットいじめをしたことがあったが、男の子は18%だった。女の子は男の子の2倍、噂話をオンラインで流してもいた。ネットいじめをする側もされる側も自己肯定感(self-esteem)が低く、いじめ被害にあう生徒は、不安、うつ、校内暴力、学業上のトラブル、自殺願望、自殺未遂の経験が多いとの研究もある。

ものごころついたときにすでにネット環境に囲まれていた世代が「デジタル・ネイティブ」だが、シモンズは彼らを、「スマホを使いこなすことはできても、SNS上の人間関係を適切に管理するスキルをもっていない」という。SNSは女の子集団のルールをそのままネットに移植したもので、リアルの人間関係がうまくいかないのならネットでそれを解決できるわけはなく、問題をさらに増幅させるだけなのだ。

女の子がほんとうに知りたいのは、友だち集団のなかでの自分の評価(「ほかの子はわたしのことをどう思ってるの? みんなわたしのことを好き? わたしはふつう? わたしは人気者? わたしはクール?」)だ。彼女たちの行動原理は、「友だち(部族)」という「なにか重要な集団に属している」というアイデンティティを得ることであり、そのためにソーシャルメディアでの「ドラマづくり」が重要になる。女の子集団にとって「情報こそが権力」なのだ。

アメリカにも「学校裏掲示板」のようなサイトがあり、匿名のクラスメートの評判がわかる。その後、Facebookに同様の機能のアプリが登場し、多くの女の子たちが自分の評判を知るために登録したようだが、それは自尊心を高めるのではなく、逆に「ネットの残酷さ(cyvercruelty)」を証明することにしかならなかった。ほとんどの女の子が、悪意のある噂やネガティブな評価に愕然とすることになったのだ。

アメリカでも、性的な画像をネットで交換するセクスティング(sexting)が大きな問題になっている(19%の10代が性的画像やテキストを送ったことがあり、31%が受け取ったことがある)。それが性的ハラスメントの温床になっていることは間違いないものの、シモンズは、それと同時に女に子が「パワー」を得る道具として使っていると指摘する。

思春期の女の子は、男の子に対してだけでなく、友だちグループにも自分の性的魅力を証明しなければならない。地位の高い男の子からの注目は女の子集団での地位を上げる(男の子の集団のリーダーとつき合うのが女の子集団のトップ)。そのためにsextingを意図的に利用しているというのだ。

シモンズが強調するのは、10代の女の子は複雑な人間関係のゲームをしつつも、「友情という檻」に閉じ込められているということだ。だからこそ、その絆を失いかけた女の子は友情のかけらにしがみつく。人気グループの女の子はそれを知っているので、気まぐれに友情のかけらを与えて彼女を操作しようとする。

「相手を全能視して、自らを相手にゆだねるような友情関係は、暴力をふるう相手から離れられない男女関係に、恐ろしいほど似ている」とシモンズはいう。これは、ドメスティックバイレンスの背景を考えるうえで重要な指摘だろう。

最後に「女の子の攻撃性」について、印象に残った言葉をひとつ挙げておこう。

あるべき姿に確信をもてない女の子たちは、その不安をたがいに表わしあい、必要以上に自己管理し、答えを求めて罰し、いじめ、闘いつづけるだろう。

禁・無断転載

 

「加速するテクノロジーの融合」がすべての社会問題を解決する? 「合理的な楽観主義者」の論理

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年1月14日公開の「「加速するテクノロジーの融合」によって あらゆる格差はなくなり、すべての社会問題は解決できるのか?」です(一部改変)。

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「世界はどんどんよくなっているのか、それとも、どんどん悪くなっているのか?」この問いがいま、深刻な思想的対立を引き起こしている。世界がどんどんよくなっているのなら、その流れを加速させればいい。どんどん悪くなっているのなら、体制(システム)を根本的につくり変える必要がある。どちらを信じるかによって政治的立場が正反対になるのだ。

アンドリュー・マカフィーはマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン大学院首席リサーチ・サイエンティストで、同僚のエリク・ブリニョルフソンとの共著『機械との競争』( 村井章子訳、日経BP)で、「人間はコンピュータとの競争に負けはじめている」と述べて大きな衝撃を与えた。ところがそのマカフィーは、新著の『MORE from LESS(モア・フロム・レス) 資本主義は脱物質化する』( 小川敏子訳、日本経済新聞出版)では、悲観から楽観へと大きく展望が変わったようだ。その理由は、より少量の資源(LESS)から、より多くのもの(MORE)を得られるようになったからだ。

経済成長すると資源消費量が減る

30年前(1991年)の家電量販店ラジオシャックの広告には15種類の携帯端末型の電子機器が並んでいた。ところがいまや、計算機、ビデオカメラ、クロックラジオ、携帯電話、テープレコーダーなど13種類がポケットサイズの1台のスマホに収まっている。そればかりか、コンパス、カメラ、気圧計、高度計、加速度計、GPS機能、あるいは大量の地図帳やCDまで、広告に出ていなかった多くのものが加わっている。

産業革命から1970年代まで、工業化にともなって、エネルギーや資源(鉄、アルミニウム、肥料など)の消費量は一貫して経済成長のペースを上回っていた。ひとびとがよりゆたかになろうとすれば、より多くの資源を消費することになるのだから、いずれは地球の有限の資源を使い尽くしてしまうだろう。こうして1970年に第1回アースデイが開かれ、72年にローマクラブが「人間は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」として「成長の限界」を警告し、リサイクルや環境保護運動(「大地に帰れ」)がブームになった。

ところが奇妙なことに、1970年頃を境にして、アメリカでは経済成長は続いているのに資源の消費量が減りはじめた。のちに他の先進国や、中国のような新興国でも同じことが起きていることがわかった。

最初にこのことに気づいたのは経済学者のジュリアン・サイモンで、1981年の著書で「私たちは『窮乏時代に突入』したのだろうか? 水晶玉の占いなら、なんとでも言えるだろう。だが最高水準のデータは、ほぼ例外なく……その正反対を示している」として、稀少であればあるほど価格が上がるという経済の基本的な事実を指摘した。

価格の急騰は創意工夫をかきたて、より多くの資源を探すか、代替できる新たな資源を見つけようとするだろう。利潤を最大化しようとするこうした努力によって、稀少性が緩和されて価格が下がる。資源価格は上昇と下落を繰り返すだけで、枯渇するようなことにはならないのだ。

次いで環境科学の専門家ジェシー・オースベルが、資源の「価格」ではなく「量」に注目した。1987年のある晩、仕事仲間の物理学者から「建物は軽くなっているだろうか?」と尋ねられたことをきっかけ調査を始めたオースベルは、建物の重量だけでなく多くのものの「物質集約度」が高まっていることを発見し、これを「脱物質化(dematerialization)」と呼んだ。

建築家で発明家のバックミンスター・フラーは1968年の著書で、「多くの計算を重ねた末に、私は確信を抱くようになった。ごくごく少量で非常に多くの目的を果たせるようになり、すべての人のニーズを満たせる可能性がある。1921年、私はこれを『エフェメラリゼーション』と名づけた」と記している。これは「より少ない物的資源を――より少ない分子を――取り出して、人類の欲求を満たせる」ことで、「脱物質化」の発見とされる。

オースベルはその後も調査を重ね、2015年の論文「自然の復活――テクノロジーはいかに環境を解放するか」で、アメリカ人がより少ない資源を消費するようになったことと、スチール、アルミニウム、銅、肥料、スズ、紙などの消費量が減少していることを、じゅうぶんな証拠をあげて明らかにした。「それ以外のすべてをひっくるめたアメリカの年間総消費量は、1970年の第1回アースデイ以前は年々急増していたが、それ以降はいったんピークに達し、それから減少に転じていた」というのだ。

その後、イギリスの研究者が同様の傾向を確認し、「経済活動で使われるものの重量と最終的に廃棄される重量はどちらも、2001年から2003年にかけて、どこかの時点で減少に転じた」と指摘した。

オースベルの論文を読んだとき、マカフィーは「まさか、これが正しいはずがない」と思った。経済が成長すれば資源消費量が増えるに決まっているからだ。だがこれをきっかけに自分の思い込みに疑問を抱くようになり、「結局きっぱりと考えを改めた」のだという。

環境保護運動は環境を悪化させる

本書にはMORE from LESSの実例がたくさん出てくる。たとえば、1982年にはアメリカの農地の合計は約3億8000万エーカーに達したものの、その後の10年で農地は減少の一途を辿っている。1982年から2015年までに自然に戻った農地は4500万エーカーで、ワシントン州に匹敵する広さになるが、それにもかかわらず作物の総重量は35%あまり増えた。より多くの肥料を投入したからだと思うかもしれないが、同じ時期、三大肥料のカリウム、リン酸、窒素はいずれも絶対的な使用量が減少している。

同じ広さの土地、同じ量の肥料と殺虫剤、同じ量の水からより多くの作物が得られるという“奇跡”をもたらしたのは、遺伝子組み換え作物の普及だ。マカフィーは、環境保護派の主張(思い込み)に反して、遺伝子組み換えのテクノロジーは地球環境の保全に大きな貢献をしていると述べる。

その一方で、環境保護活動家やネイチャリスト(自然主義者)に評判のいい「大地に帰れ」運動は、実際には環境にやさしくない。小規模農業は産業化・機械化した大規模農業に比べ資源を効率的に使えないし、田舎に移り住んで昔ながらの方法で石炭や薪を家の暖房や炊事に使えば、さらに環境に害を及ぼすことになる。田舎暮らしよりも都市や都市近郊での暮らしのほうが、環境に与える負荷はずっと少ないのだ。

遺伝子組み換え作物の安全性については、強力な科学的コンセンサスがある。2016年、米国科学アカデミー委員会は、およそ1000の研究を精査したうえで、「こうした(遺伝子組み換え)作物は、従来作物と比べて健康被害のリスクが高いとは認められない」と結論づけた。イギリス王立協会、フランスやドイツの科学アカデミーなどの組織も同様の調査を行ない、いずれも同じ結論に達している。

「遺伝子組み換え作物はウイルスや害虫への耐性が高く、日照りと暑さに耐え、肥料は少量ですむなど、さまざまな特徴がそなわるように開発されてきた。緑の革命を継続するために大いに役立ち、近年の農業の脱物質化――より少ない土地、水、肥料、除草剤からより多くの収穫を得る――を進めるためにも力を発揮する」

それにもかかわらず、EU加盟国を筆頭に38カ国もが、農家が遺伝子組み換え作物を栽培することを許可していない。ゴールデンライス(ビタミンA前駆体のβ-カロテンをつくるよう遺伝子操作されたコメ)は新興国で普及せず、毎年約50万人の子どもがビタミンA不足から失明し、失明によって1年以内に半数が亡くなっているという。

地球温暖化対策にも同じような矛盾がある。ドイツは国をあげて「エナギーヴェンデ(エネルギー転換)」に取り組み、日本が目指す理想とされるが、「2000年以降、消費者に請求される電気代は倍増し、二酸化炭素排出量は横ばい、むしろ近年は増えている」という。高額な費用を必要とする風力発電と太陽光発電に多大な投資をする一方、原子力発電を着実に減らしてきているためで、風力や太陽光による発電量が足りない分を石炭発電所に頼らざるを得なくなり、その結果、電気代が上がって二酸化炭素排出量が増えるという悪循環に陥っているのだ。

こうした事情は日本も同じで、風力発電は北ヨーロッパの北海沿岸部など強い偏西風が吹くところでないと安定した発電はできないが、この条件に該当するのは北海道最北部だけだ。太陽光発電は日照時間が長いスペインなど地中海沿岸に適しているが、それより北に位置するドイツでは費用対効果が落ちる。日本は緯度は同じだがモンスーン気候のため曇天や雨天が多く日照率は低い。代替エネルギーのなかで日本にもっとも豊富にあるのは地熱だが、これは温泉観光地と利害が対立するため開発が困難になっている。政策的に風力や太陽光にシフトさせようとすれば、ドイツと同様に、電気料金が上がるだけになりそうだ。

だったらどうすればいいのか。ここでもマカフィーの答えはテクノロジーで、二酸化炭素を減らす最良の政策は「核エネルギーの活用・促進」だという。これは奇矯な意見というわけではなく、最近では熱心な環境活動家のなかからも、「風力や太陽光では温暖化問題は解決できないのだから原子力発電にシフトすべきだ」との主張が出てくるようになった。

「平等だが不公平」か「公平だが不平等」か

資本主義と産業革命によって工業化時代に資源消費量が大幅に増えたが、いまやそれと同じもの(資本主義とテクノロジーの進歩)が脱物質化を引き起こし、「セカンド・エンライトメント(第二啓蒙時代)」とも呼ぶべき希望に満ちた世界が到来した。「テクノロジーの進歩と資本主義はたがいを強化し、経済規模はさらに拡大してひとびとはゆたかになっているが、その一方で天然資源の消費量には歯止めがかかり、脱物質化というまったく新しい現象が起きた」とマカフィーはいう。わたしたちは「地球に負荷をかけずにゆたかになれる」のだ。

とはいえ、なにもかもうまくいっているわけではない。なかでも悩ましいのは、一部の(あるいはかなり多くの)ひとたちが、「資本主義とテクノロジーの好循環」から脱落しつつあることだ。これが中間層の崩壊であり、経済格差の拡大だ。マカフィーは、次のような“MORE from LESSの未来”を描いている。

 経済成長は堅調で包括的制度を維持する。テクノロジーの進歩は目覚ましく、その破壊的な威力で既存の業界をひとつまたひとつと崩壊させる。さまざまな形で集中が進み、より少ない土地からより多くの作物の収穫を、より少ない天然資源でより多くの消費を、より少ない工場でより高い生産性を、より少ない企業で売上と利益のアップを実現する。スーパースター企業の経営陣は莫大な富と収入を得る。中流層の収入はかなり減る。そして一部の労働者は困難に直面する。働いていた工場と農場が閉鎖され、新しい工場も農場もオープンしない。働き口は都市とサービス業に集中する。富と収入の不平等は大きくなる。

じつはこのシナリオでは、不当なことはなにも起きていない。一部の(リベラルな)エリートが結託して制度やシステムを好き放題にしているわけではないし、グローバル資本主義(あるいはフリーメーソンやディープステート)の「陰謀」が世界を支配しているわけでもない。

しかしその一方で、多くのひとの仕事がなくなり、コミュニティが衰退し、これまでの生き方を維持できなくなる現実がある。彼らの「こんなはずではなかったと」いう思いは、スマホの性能がいくらよくなっても埋め合わせられないだろう。

これについてマカフィーは、「公平」と「平等」は異なるという。これを50メートル競走で説明してみよう。

  1. 公平:全員が同じスタートラインに立ち、一斉に走り出すが、足の速い子から遅い子まで、結果は平等にはならない。
  2. 平等:足の遅い子は前から、速い子は後ろからスタートし、全員が同時にゴールするが、競争の条件は平等ではない。

子どもたちの足の速さ(身体能力)に生得的なちがいがあるならば、公平と平等を両立させることはできない。公平にしようとすると不平等になり、平等にしようとすると不公平になるのだ。

近年の経済学や心理学は、「問題は不平等が大きくなることではなく、不公平のほうだ」とする。心理学者たちは、「経済的な不平等が人を苦しめることを示す根拠はない……人間は生まれながらに、平等ではなく公平な配分を好む。平等か公平かのどちらかを選ぶとしたら、平等だが不公平な状態よりも、不平等だが公平な状態を選ぶ。これは臨床研究、異文化研究、乳幼児の実験結果で明らかだ」と述べている。問題なのは経済格差の拡大ではなく、多くの人が「自分は公平な扱いを受けていない」と感じていることなのだ。

それに加えて、移民の増加、ジェンダーの平等、同性婚合法化など、社会の多様化が進んでいることがさらなる混乱を招いている。「最近の一連の研究で、調査対象とした国すべてでこうした多様性の増加にどうしても耐えられない人々がかなりの割合で存在することがあきらかになった」からだ。このひとたちは、「すべての場所で何もかもが同じでなければ気がすまない。信条、価値観、習慣などが揃っていることを重視する。中央が強い権限を持ち、それに皆が従順にしたがうことを支持する傾向が強い」とされ、「権威主義的人格」と呼ばれる。アメリカ社会を見ればわかるように、分断は「多元主義(リベラル)」と「権威主義(保守)」の対立から生じるのだ。

このやっかいな問題についてマカフィーは、「この流れを変える方法は、まだ見つかっていない」とするだけで、態度を保留している。「工場が閉鎖され農場が休閑地になったコミュニティに、よい仕事と社会関係資本をどうしたら取り戻せるのか。はっきりとした答えはない」というのだ。

これから100年で2万年分の技術変化を経験する

ピーター・ディアマンディスはシンギュラリティ大学創立者で、最先端のテクノロジーを使ったさまざまなコンテストを行なうXプライズ財団CEOでもあり、「アメリカを代表するビジョナリーの1人」とされる。そのディアマンディスとジャーナリストのスティーブン・コトラーの共著が『2030年 すべてが「加速」する世界に備えよ』( 山本康正、土方 奈美訳、NewsPicksパブリッシング)で、原題は“The Future Is Faster Than You Think: How Converging Technologies Are Transforming Business, Industries, and Our Lives(未来はあなたが思っているよりも速い テクノロジーの融合はどのようにビジネス、産業、そしてわれわれの人生を変えるのか)”。

この本のキーワードは「エクスポネンシャル(指数関数的)」と「コンバージェンス(融合)」だ。これによって、10年後にはサイエンス・フィクションが「サイエンス・ファクト」になるという。

量子コンピュータ、人工知能(AI)、ロボティクス、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、材料科学、ネットワーク、センサー、3Dプリンティング、拡張現実(AI)、仮想現実(VR)、ブロックチェーンなど、テクノロジーのさまざまな領域で指数関数的な進歩が続いている。だがそれだけではなく、こうしたテクノロジーが融合することで、驚くような変化が引き起こされる。

「空飛ぶ車」がこれまで実現できなかったのは、ヘリコプターのような単一の巨大なローター(回転翼)では騒音がひどく安全性にも問題があるからだった。しかしいまでは、機械学習の進歩、材料科学のブレークスルー、3Dプリンティングなどテクノロジーのコンバージェンスによって、複数の小さなローターを組み合わせる「分散型電気推進力(DEP)」が可能になった。機能性の面では、ガソリンエンジンの熱効率が28%なのに対して、この電気エンジンは95%だ。

超高精度のセンサーでギガビット単位のデータを取り込み、AI革命によってその膨大なデータをマイクロ秒単位で処理し、機体を安全に制御する。新世代のリチウムイオン電池は大きな出力と長い持続時間を可能にし、3Dプリンターによる大量生産は価格を大幅に引き下げるだろう。映画『ブレードランナー』のような世界が目の前にあるのだ。

「エクスポネンシャル+コンバージェンス」は仮想現実、拡張現実、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー(CRISPR-Cas9)などの分野で加速を「加速」させており、やがて「すべてが生まれ変わる」世界がやってくる。小売業、広告、エンターテインメント、教育、医療、金融、農業(食料)まで、わたしたちの生活を取り巻くすべてにとてつもない大変化の波が押し寄せてくるのだ。

人間の脳はローカル(地域的)でリニアな環境で進化してきたが、「われわれが生きている世界はグローバルでエクスポネンシャルだ」だとディアマンディスはいう。シンギュラリティ(技術的特異点)を唱える未来学者レイ・カーツワイルは、「われわれはこれから100年で、2万年分の技術変化を経験することになる」と述べる。「これから1世紀で、農業の誕生からインターネットの誕生までを2度繰り返すくらいの変化が起こる」のだ。

さらにディアマンディスは、これから「5つの大移動」が始まるという。気候変動による7億人の移住、都市への大規模な移住、バーチャル世界(仮想現実、拡張現実)への移住、宇宙への移住、「個人の意識」のクラウドへの移行だ。

こうしたとてつもない変化に適応するのは、誰にとっても容易なことではない。だからこそ、「荒っぽいドライブ」で振り落とされないようにシートベルトをしっかり締めて、未来世界に備えなければならないのだ。

全人類が一つになって思考する「メタ知能」の誕生

「加速するテクノロジーの融合」によってこれからいったいなにが起きるのかは本書を読んでいただくとして、ここで気になるのはやはりその「負の側面」だ。

これに対してディアマンディスは、テクノロジーの影響で雇用が消滅したとしても、それを上回る新たな雇用が創出されるとして、「これからの10年で、これまでの1世紀を上回る富が創造される」と楽観的な予想を述べる。

チェスのチャンピオンはもはやAIにかなわないが、人間のチェスプレイヤーとAIのチームは、AI単体を打ち破ることができる。AIによって人間の仕事が置き換えられるのではなく、もっとも生産性が高まるのは、人間が機械の性能を引き出したときなのだ。だからこそ労働者を迅速に再教育し、高度な知能を持つ機械を使いこなすことのできる人材を養成しなければならない――とされる。

だがこの話はすでに30年ちかくいわれ続けており、アメリカの社会状況を見てもわかるように、教育はさしたる成果をあげていない。仕事を失ったトランプ支持の白人労働者をいくら「再教育」しても、シリコンバレーで働けるようにはならない。

そこでディアマンディスは、脳に直接働きかけることで知能を強化するテクノロジーに期待をかける。たとえば、経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)でフロー状態の変化を人工的に生み出すと、通常であれば正答率は5%に満たないテストで被験者の40%が問題を解くことに成功した。脳刺激療法で学習や記憶保持にかかわる神経回路を刺激することで、記憶能力を30%増強できるとの研究もある。

だが現在行なわれている脳深部刺激法は、「小型トラックぐらいの大きさの指で、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を弾こうとするようなもの」だという。電極を外科手術で埋め込むと、脳がそれを異物と認識するため、相当な薬物投与が必要になるという問題もある。

チャールズ・リーバーは、エレクトロニクス材料を使ってナノスケールのメタルメッシュ(金網)をつくった。このメッシュを丸めてシリンダーの中に詰め、それを注射器に吸い込んでマウスの海馬に注射したところ、1時間も経たずにメッシュは元の形に広がり、周辺組織へのダメージはいっさいなく、マウスの脳の状態が手に取るようにわかるようになった。マウスの免疫系はメッシュを異物として攻撃するのではなく、ニューロンがそこに取りついて増殖しはじめたのだ。

これがブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)で、「バイオテクノロジー、ナノテクノロジー、材料科学などほぼすべてのテクノロジーの交差点」とされる。BCIによって脳とインターネットを接続できるようにすると、思考がそのまま相手につながるテレパシーが可能になる。

これは夢物語ではなく、EEG(脳波図)をベースとした旧式のBCIでも、フランスとインドにいる被験者はメッセージに相当する光の点滅を正確に読み取ることができた。これは2014年の実験だが、2016年にはEEGヘッドセットを使ってテレパシーでビデオゲームをプレーし、2018年には頭で考えるだけでドローンを操縦できるようになった。

次のステップは、人間の脳をクラウド経由でシームレスにインターネットにつなぐことだ。これによって、「クラウドベースの集合意識への移行」が可能になる。「真の冒険とは宇宙に出ていくことではなく、自らの心に分け入ること」だとディアマンディスはいう。

「自分の脳をクラウドに接続すれば、私たちの処理能力と記憶能力は大幅に高まる。そして少なくとも、理論的には、インターネット上で地球上のあらゆる頭脳にアクセスできることになる」。このようにして、全人類が一つになって思考する「メタ知能」が誕生するのだ。

このようなSF的未来が実現すれば、もはや一人ひとりの生得的な知能の差はなんの意味もなくなり、あらゆる格差は消滅するだろう。あと10年でどこまで進むのかはわからないが、テクノロジーの加速をさらに「加速」させ、「融合」させていくことですべての社会問題は(いずれ)解決できるというのが、「合理的な楽観主義者」の未来予測になるようだ。

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