国家が破綻しても既得権を手放さない進化論的理由 週刊プレイボーイ連載(11)

ガテン系のバイトで日当1万円もらって、思ったより儲かったと喜んでいたら、翌日、「計算間違えたから2000円返して」といわれた。こんなとき、素直に財布を出すよりも、怒り出すひとのほうが多いんじゃないでしょうか。

もちろん会社もこのことは承知しているので、きっと次のようにいうでしょう。

「払いすぎた分は、今日のバイト代から差し引いておくから」

これなら、ほとんどのひとがしぶしぶ納得するでしょう。

しかしよく考えてみると、これはずいぶんおかしな話です。バイト代から2000円引かれても、先に2000円を返して満額を受け取っても、損も得もありません。経済合理的な人間ならば、怒るか納得するか、態度を一貫させるはずなのです。

これと同じ現象は、税金の徴収でも観察できます。

サラリーマンは給料から税金を天引き(源泉徴収)されても、面と向かって文句はいいません。それに対して自営業者は、いったん手にした収入から税金を納めますが、脱税が毎日のように報じられていることからして、真面目に申告納税するひとはあまり多くないようです。でもこれは、税金を先に払うか、後から払うかのちがいですから、ひとびとが経済合理的であるならば、納税方法によって態度が変わるのはやっぱり変です。

この謎を解くには、人類の祖先がまだサルと未分化だった頃までさかのぼらなければなりんません。

下っ端のサルがようやくのことで果実を見つけて、そこにボス猿(アルファオス)が通りかかったとします。このとき、素直に果実を差し出したのでは、たちまち餓死してしまいます。こういうひと(?)のいいサルは生き残って子孫を残せないので、進化の過程で、「いったん手にしたものはぜったいに手放さない」という掟が埋め込まれました。これが、「私的所有権」の原型です。

その一方で、あとすこしのところで獲物が穴に逃げ込んでしまうこともあるでしょう。こんなとき、いつまでも穴の前でぐずぐずと思い悩んでいてはやはり餓死してしまいます。生き延びるためには、逃した獲物はさっさとあきらめて、狩りをつづけなければならないのです。

このような「進化論的合理性」によって、いったん手にしたものから支払うことと、最初から天引きされることのあいだには、心理的にきわめて大きなちがいが生まれました。もちろんこのことは為政者もちゃんとわかっていて、どの国も税金はできるだけ源泉徴収して、確定申告のときに払いすぎた分を取り戻すようにしているのです(商品代金といっしょに徴収する消費税も、心理的抵抗のすくない効率的な徴税手段です)。

脱税がこの世からなくならないのは、その行為が「法律には違反するものの、進化論的には正しい」からです。この無意識の感情はきわめて強力で、法や道徳で矯正することはできません。

この問題は、税金にとどまりません。社会保障でも公共事業でも各種補助金でも、いったん手にしてしまえば、私たちはそれを既得権と考えます。こうして財政は肥大化しますが、それが当初の役割を終えても「改革」はめったに成功しません。

「進化論的正義」は、国が破綻しようとも、その既得権を手放さないよう命じるのです。

『週刊プレイボーイ』2011年7月15日発売号
禁・無断転載

自分勝手な日本人と協調的なアメリカ人

「日本の親はなぜ子どもに甘いのか?」で、日本人とアメリカ人の「確信度」の違いについての研究を紹介しましたが、近年の社会学や経済学では、国民性や文化によるエートス(行動や考え方)の差をアンケート調査や実験によって明らかにする試みが盛んに行なわれています。

こうした研究と、従来の日本人論に見られる「個人的な体験からの感想」のいちばんの違いは、科学的な反証可能性が保証されていることです。たとえばある実験によって国民性についての仮説が提示されたとしても、別の実験によって第三者がその仮説を反証することができるのです。

こうした研究は、往々にして私たちの直感や常識と異なる結論を導くことがあります。その格好の例として、『残酷な世界~』から、日本人とアメリカ人の協調性についての実験を紹介した部分を転載します。

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社会心理学者の山岸俊男は、『信頼の構造』など一連の著作で、「安心社会」と「信頼社会」という興味深い議論を展開している。

ほとんどのひとが、日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義だと考えている。だが山岸は、さまざまな実証研究によってこの常識に異を唱える。

広く流布した「常識」を確かめるために、山岸は日本とアメリカの大学生に囚人のジレンマを試した。

実験の参加者は4人で、互いに面識はなく顔を合わせることもない(自分が一方的に裏切っても、相手にそのことを知られる恐れはない)。参加者にはそれぞれ100円が与えられ、それを次のようなルールで増やすことができる。

  1. 元手の100円のうち、好きなだけ寄付していい。寄付されたお金は2倍に増額され、ほかの3人の参加者に平等に分配される(自分には戻ってこない)。
  2. 元手を寄付しなければ、そのまま100円を受け取ることができる。

この場合、4人全員が協力を選んで100円を寄付すれば、それぞれが元手の倍の200円を受け取ることができる。だがもっとウマい話があって、元手の100円をそのままにしておいて、残りの3人が100円を寄付してくれれば300円が手に入る。一方、自分だけ100円を寄付しても残りの3人が協力してくれなければ、お金をすべて失ってしまう。

このような複雑な囚人のゲームでは、100円全額を寄付するひと(博愛主義者)や1円も寄付しないひと(吝嗇家)は少数で、ほとんどの参加者はどの程度協力するのがもっとも有利か(裏切られたときの損害が少ないか)頭を悩ませることになる。

山岸の実験では、この社会的ジレンマに直面した日本の学生は平均して44円を、アメリカの学生は56円を寄付した。アメリカ人の寄付率は、日本人よりも3割も高かったのだ。それ以外の実験でも同様の結果が出ていて、そこには明らかに統計的に有意な差があると山岸はいう。

日本人はアメリカ人よりも個人主義者だ。

山岸はこの“非常識な”結論を補足するために、次のような実験を行なった。

今回は、日本人とアメリカ人の学生がそれぞれ3人1組で参加する。彼らは無意味な単純作業(コンピュータ画面に表示された文字の組み合わせから特定のものを選ぶ)を行ない、チームの3人の合計得点に応じて報酬が平等に分けられる。作業は隔離された小部屋で行なわれ、他のチームのメンバーからは、自分が真面目にやっているかさぼっているかを知られることはない。

こうした条件でもっとも合理的な行動は、自分だけがさぼって残りの2人に働いてもらうことだ。その一方で、真面目にやってもその努力は他の2人にも分配されてしまうから、「正直者がバカを見る」ことになる。

そこで実験では、グループから離れ、1人で作業できる選択肢が与えられた。その場合、次のふたつの条件が設定された。

  1. 低コスト条件:参加者は、いかなるペナルティもなくチームから離れることが許された。
  2. 高コスト条件:チームから離れる場合は、受け取る報酬が半額に減らされた。

低コスト条件では、自分が「バカを見ている」とわかれば、アメリカ人も日本人もさっさとチームから離れていく(20回の作業のうち、平均8回で離脱する)。考えるまでもなく、これは当たり前だ。

一方高コスト条件では、「バカを見ている」とわかっても、チームを離脱すればいまよりも少ない報酬しか受け取れない。癪に障るが、そのまま搾取される方が合理的な選択なのだ。

このジレンマに直面して、アメリカ人の学生は20回の作業のうち平均1回しか離脱しなかった(ほとんどは合理的に行動した)。それに対して日本人の学生は、損をするとわかっているにもかかわらず、ほぼ8回の作業でチームを離れた。

この実験も、日本人とアメリカ人の次のような顕著な違いを明らかにしている。

日本人はアメリカ人よりも一匹狼的な行動をとる。

山岸の行なった社会的ジレンマの実験は、日本人はアメリカ人よりもずっと個人主義的で一匹狼的だ、という驚くべき結論を導いた(他の研究者による実験でもこの結果は支持されている)。日本人が「集団主義」だという、あの誰もが知っている常識はどうなってしまったのだろう。

これについて山岸は、「集団主義は文化の問題ではなく、日本とアメリカの社会の仕組みが違うからだ」とこたえる。

日本の社会は(というか、世界のほとんどの社会がそうだが)、お互いがお互いを監視し、規制する濃密な人間関係が基本だ。こうしたムラ社会では、集団の意思に反する行動には厳しい制裁が待っているから、集団主義的な態度をとらざるを得なくなる。

ところが山岸の実験では、集団の利益に反して裏切りを選択しても、なんの不利益もないように仕組まれている。こうした条件の下では、日本人は集団に協力しようとは思わない(「旅の恥はかきすて」の状況だ)。これを山岸は「安心社会」と呼ぶ。

それに対してアメリカ社会では、異なる人種的・文化的背景を持つひとたちが共生している。こちらの社会ではムラ社会的な集団主義は機能せず、つきあい方の別の戦略が必要になる。

山岸はこれを「信頼社会」と名づけたが、そこで効果を発揮するのはしっぺ返し戦略だ。

*「しっぺ返し戦略」では、最初に相手を信頼し、裏切られたら裏切り返し、相手が約束を守ればすぐに許す。

安心社会で暮らす日本人は、仲間内では集団の規律に従うが、相互監視・相互規制のくびきから離れれば個人主義的(というか自分勝手)に行動する。それに対してしっぺ返し戦略を基本とする社会で育ったアメリカ人は、仲間であるかどうかとは無関係に、人間関係をとりあえずは信頼(協力)からスタートさせる。

この違いが、社会的ジレンマに直面したときに、協力か裏切りかの選択の差となって現われるのだ。

有権者がバカでもデモクラシーは成立するか? 週刊プレイボーイ連載(10)

その奇妙な現象は、ヴィクトリア時代のイギリスの片田舎で開催された「雄牛の重量当てコンテスト」で見つかりました。発見者は、ダーウィンの従弟で、優生学の創始者としても知られる統計学者フランシス・ゴールトンです。

コンテストは、6ペンスを払って雄牛の体重を予想し、もっとも正解に近い参加者が景品をもらえるというものでした。約800人の参加者のなかには食肉関係者や牧場関係者もいましたが、ほとんどは興味本位の素人で、彼らは当てずっぽうでいい加減な数字を書き込んで投票していました。

このコンテストに興味を持ったゴールトンは、主催者から参加チケットを譲り受け、統計的に調べてみました。ゴールトンは最初、参加者のほとんどは「愚か者」で、正解を知っている「専門家」はほんの少ししかいないのだから、参加者全員の平均値はまったくの的外れになるはずだと考えました。

ところが驚いたことに、参加者の予想の平均は1197ポンド(542.95キロ)で、雄牛の体重は1198ポンド(543.4キロ)だったのです。

「みんなの意見は案外正しい」というこの不思議な出来事は、容器に入っているジェリービーンズの数を当てる実験や、複雑な迷路を集団で解く実験などさまざまな事例で確認されています。素人が集まれば、一人の専門家よりずっと正しい答が導き出せるのです。

ゴールトンは、この現象を次のように考えました。

素人はそもそも雄牛の体重のことなどなにも知らないのだから、その予想はとてつもなく軽かったり(100キロ)、とんでもなく重かったり(1トン)する。しかし、こうした愚かな予想は互いに相殺し合うから、最終的にはゼロになって結果にはなんの影響も及ぼさない。そうなれば、予想の平均は「専門家」の正解に自然と近づいていくはずだ……。「みんなの意見」は、たくさんのなかから真の専門家を見つけ出す効率的な方法なのです。

この「統計の奇跡」から、有権者の民度にかかわらずデモクラシーは機能するという希望が見えてきます。大衆は政治や経済の専門的な知識など持たず、一時の感情に流されて投票しますが、こうした愚かな判断は相殺されて、最終的にはもっとも正しい政策が選ばれる、というわけです。

この理屈は数学的には正しいのですが、それが成立するにはひとつ条件があります。統計の奇跡が起こるためには、「バカ」が正規分布していなければならないのです。もうすこし穏当な表現を使えば、右から左まで多様な意見を持つひとたちがいて、極端な主張や間違った判断がちゃんと相殺されなければなりません。民主的な憲法の下でドイツ国民がヒトラーを選んだように、有権者の選択に強いバイアスがかかっていると、みんなの意見は大きく間違ってしまうのです。

この議論の評判が悪いのは、有権者が「バカ」であることを前提にしているからです。問題なのは有権者の民度が低いことではなく、「バカ」の分布が偏っていることなのです。

今回もなんだか救いのない話になりましたが、日本の政治に「奇跡」が起きるのなら、どれほどバカと呼ばれてもかまわないと思うのは私だけでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2011年7月11日発売号
禁・無断転載