「みんなの選択」が合理的だと社会は崩壊する? 週刊プレイボーイ連載(13)

わたしたちは日々、無数の「選択」をしています。

インターネットで音楽をダウンロードするときも、近所のコンビニで夕食のおかずを買うときも、たくさんの選択肢のなかから安くて楽しいもの(おいしいもの)を選ぼうと頭を悩ませます。その一方で売り手の側は、自分の商品をすこしでも高く、たくさんのひとに買ってもらおうと努力しています。

市場におけるこうした「わたしの選択(プライベートチョイス)」では、ひとびとは自分がもっとも得をするよう(おおむね)合理的に行動しています。このことに気づいたことで、経済学は市場をモデル化する「科学」になりました。

ところでわたしたちの生活は、私的な選択の積み重ねだけでできているわけではありません。人間は社会的な動物ですから、「みんな」で決めなくてはならないことがたくさんあります。この「みんなの選択(パブリックチョイス)」が、すなわち「政治」です。

「わたしの選択」が損得(経済合理性)で決まるとして、「みんなの選択」はなにを基準に行なわれるのでしょうか。もちろん、ひとびとが利他的ならば、「みんな」にとっていちばんいい選択が行なわれるにちがいありません。

でも世の中にはひねくれ者の経済学者がいて、これはちょっとおかしいんじゃないか、といいだしました。「わたしの選択」のときは利己的で、「みんなの選択」では利他的に行動するのでは、話がうますぎるからです。

そこで彼らは、「みんなの選択」でも、ひとびとは利己的に行動するはずだと考えました。政治の世界には政治家、官僚(役人)、有権者という異なる立場の参加者がいて、それぞれが、自分がもっとも得をする選択をしているのです。

政治家は、落選してしまえば「ただのひと以下」ですから選挙に勝つことが最大の目的で、そのためにより大きな地位と権力を手に入れようとします。

役人は国や市民のために仕事をしていますが、自分や家族の生活まで犠牲しようとは思わないでしょう。彼らが最優先するのはできるだけ多くの予算を獲得し、それが無理なら自分たちの権益を死守し、定年まで安定した生活を送ることです。

国政選挙のような大人数の投票において1票はほとんど価値がありませんから、一般の有権者にとってもっとも合理的な行動は選挙になど行かず、その時間をもっと有効に使うことです。それでもわざわざ投票するのは、公共事業の受注や参入規制の維持など、特定の利害関係があるからにちがいありません。

このようにして、すべての参加者が自分にとって「合理的」な選択をすることで、政治家は有権者にお金をばらまき、官僚機構は肥大化し、あらゆる改革は骨抜きにされて、財政はとめどもなく悪化していくことになります。

当然のことながら、こうしたシニカルな見方は、デモクラシーの理想を踏みにじるものとして強い反発や批判を浴びてきました。有権者や官僚のなかにも、あるいは政治家のなかにだって、個人の利害を捨てて公共の利益に奉仕するひとがいるにちがいないからです。

政治の世界が、すべて「陰謀」よって動いているわけではありません。しかしこの話のもっともおそろしいところは、一人ひとりが善意のひとであったとしても、無意識の「合理的選択」によって、社会全体が崩壊に向かって突き進んでいくところにあるのです。

『週刊プレイボーイ』2011年8月1日発売号
禁・無断転載

大震災の夜

『大震災の後で人生について語るということ』を執筆するきっかけとなった大震災の夜のことを、過去のエントリーと一部重複しますが、掲載します。

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ジグムント・フロイトに学んだウィーンの高名な精神医学者ヴィクトール・エミール・フランクル博士は、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、ユダヤ系の出自を理由に家族とともにアウシュヴィッツに送られ、両親と妻、2人の子どもをガス室で失いました。強制収容所から奇跡的に生還した後、フランクル博士は、極限状況のなかで生き延びるために苦闘するひとたちの心理を冷静に分析した『夜と霧』を発表します。

世界的なベストセラーとなったこの本の冒頭で、博士はカポーと呼ばれる囚人たちについて書いています。カポーは囚人のなかから選抜された看視役で、ナチス親衛隊員や看視兵の忠実な部下として、飢餓と病に苦しむ囚人たちをときにはげしく殴打しました。収容所は弱肉強食の道義なき世界で、自分と家族を守るために、暴力や窃盗はもちろんのこと、友人を売ることさえひるまなかったひとたちがいたといいます。

こうした事実をたんたんと記したのち、フランクル博士は次のように述べます。

すなわち、もっともよきひとびとは帰ってこなかった。

2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が東日本を襲い、宮城・岩手・福島など太平洋沿岸の広範な地域に甚大な被害をもたらしました。福島第1原子力発電所では、定期点検中の3機を含む6機の原子力発電施設が津波のためすべての非常用電源を喪失しました。

その日の夜、私はあてもなく街をさまよっていました。ネオンの消えた繁華街はひとの姿もまばらで、ときおりすれちがう通行人は、だれもがコートの襟を立て、こわばった表情で家路を急いでいました。

シャッターを下ろした商店街を通り過ぎると、濃紺の深い闇のなかに丈の高い樹々が浮かんでいました。ふだんは恋人たちでにぎわう公園の池の畔にはだれもおらず、高架の先の鉄道駅は照明を落とし、青白い半月に照らされて廃墟のようです。見慣れた世界は突如その様相を一変させ、街は不吉な黒い鳥の影に覆われてしまったかのようでした。

恐怖と得体の知れない高揚がないまぜになったあのときの奇妙な感覚は、いまでもはっきり覚えています。フランクル博士の言葉が、呪文のように、意識の底から何度も繰り返し聞こえていました。

もっともよきひとびとは帰ってこなかった――。

カポーとは、暖房の効いた部屋で、津波に押し流される家や、破壊され焼き尽くされる街をただ眺めていた私のことだったのです。

私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。

私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状とともに、現実の出来事として、目の前に立ち現われるなどとは考えたこともありませんでした。

津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。

被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。

被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなお互いに助けあい、はげましあっていたのです。

私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事でしかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。

大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断わり、連載も延期して、ただ呆然と過ごしていました。そしてあるとき、まるで天啓のように、それはやってきたのです。

私がこれまで語ってきたことが絵空事であるのなら、その絵空事を徹底して突き詰めることでしか、その先に進むことはできないのではないか――。

理屈でもなく、直感ともいえませんが、この想念は稲妻のように私を襲い、魂を奪い去ってしまったのです。

それから2週間で、この本を書きました。

『大震災の後で人生について語るということ』P204~208

PS 本書は5月の連休明けには脱稿していましたが、本になるまでにすこし時間がかかりました。

有権者が合理的でも、選挙結果はなぜか不合理 週刊プレイボーイ連載(12)

7月はじめの休日に、街で奇妙なデモ隊と遭遇しました。手づくりのプラカードを掲げた若者たちが、サウンドマシンを積み込んだ軽トラックを先頭に、ラップに合わせて「原発いらない」「子どもを守れ」と歌い踊っています。アニメ風のコスプレ姿もあれば、裸に放射能標識を描いた男性もいます。

物珍しさでしばらく眺めていると、そこに学生服姿の高校生が通りかかりました。

「きれいごとばっか叫んでるんじゃねえよ」

高校生のひとりが、デモ隊を見て顔をしかめます。

「原発があったから、これまで気楽に暮らしてこれたんだろ」

このように、エネルギー政策をめぐって、国民の間には多様な意見があります。それを、多数決のデモクラシーによってひとつにまとめていくことができるのでしょうか。

ここで、「投票のパラドックス」を説明したいと思います。といっても、これはぜんぜん難しい話ではありません。

ジャンケンでは、グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝ちます。このような三すくみ状況では、どれがもっとも強いかを決めることができません。

ここに、発電について異なる意見を持つ3人の有権者がいます。1人は「安全重視」派で、できるだけ安全な発電方法を採用すべきだと考えます。もう1人は「コスト重視」派で、電力がなければ日本の産業は成り立たないのだから、発電コストは安い方がいいと主張します。最後の1人は「環境重視」派で、地球の未来を考えれば二酸化炭素の排出量を減らすのが人類の責務だと力説します。

そこで、発電方法として火力発電、原子力発電、太陽光発電(再生可能エネルギー)の3つがあるとしましょう。

「安全重視」派は、危険な原子力よりも安全な火力発電を迷わず選択します。太陽光と火力なら、安全性は同程度ですから、温暖化ガスを排出しない太陽光を好むでしょう。

「コスト重視」派は、太陽光は発電コストが高すぎて非現実的だから、当面は原発を稼動させるしかないと考えます。しかしその原発も、廃炉費用を含めた総コストは火力と変わりませんから、より安全な火力を選択します。

「環境重視」派は、大量の温暖化ガスを排出する火力はできるだけ減らすべきだとして、太陽光を支持します。しかし、それだけで必要な電力を賄えないのは明らかですから、二酸化炭素を出さない原子力で地球温暖化を防ぐほかないと思っています。

この3つの立場は、正しいか正しくないかは別として、首尾一貫しています。ところがこの論理的な3人が多数決で決着をつけようとすると、下図のような奇妙なことになってしまいます。

「選挙」の結果は、火力よりも太陽光を好むひとが2人、原子力よりも火力を好むひとが2人ですから、理屈のうえでは、太陽光は原子力よりも好まれなければなりません。しかし実際には、太陽光より原子力を支持するひとが2人いることになってしまうのです。

以前の回で、参加者が無知でも投票の結果が合理的になる不思議な仕組みについて書きました。しかしここでは、すべての有権者が合理的であっても、選挙結果はなぜか不合理になってしまうのです。

『週刊プレイボーイ』2011年7月25日発売号
禁・無断転載