「48」というマジックナンバー 週刊プレイボーイ連載(5)

AKB48総選挙は今年もたいへんな盛り上がりを見せました。なぜ、どこにでもいそうなふつうの女の子たちがこんなにも注目を集めるのか? それにはさまざまなヒミツがあるでしょうが、ここではAKBではなく「48」という数について考えてみます。

AKB48が、アニメやゲーム、ライトノベルなどの舞台となる理想の女子高を現実化しているというのはしばしば指摘されることです。これは男子の妄想というだけでなく、熱狂的な女の子のファンが多いことからもわかるように、「わたしもあんなクラスのひとりになりたい」という夢を現実化したからでもあります。だとすればコアメンバーの「48」は、ひとクラスの人数の上限ということになります。

AKB48には、メンバー同士を組み合わせた、5~10人程度で構成されるさまざまな派生ユニットがあります。「48」がクラスだとすると、こちらは班に相当するでしょう。SMAPに象徴されるように、「5」という数はアイドルグループの基本形ですから、AKBは班単位だったアイドルをクラスの規模にまで拡大したのです。

ところでなぜ、ひとクラスは50人が上限で、ひとつの班は5人が基本になるのでしょうか。これはいい加減に決めたのではなく、そこには人類史的な必然があります。

アイドルグループの基本形が「5」なのは、それが兄弟・姉妹を連想させる上限だからです。世の中には10人兄弟や20人兄弟もいるでしょうが、私たちはそれをうまく家族と認識することができません。人間同士のつながりでもっとも強いのが血縁で、アイドルグループは擬似家族となることでひとびとに強く訴えかけるちからを持ちます。班が5人を基本にするのも、それがお互いにもっとも協力しやすい人数だからです。

それに対して「50」というのは親族などをふくむ大家族の人数で、狩猟採集時代のヒトの群れの上限に相当します。人類の歴史の98パーセントを占める旧石器時代には、ヒトは30~50人の群れをつくって、果物を採集したり小動物を狩ったりしながら移動生活をつづけていました。私たちの脳はこの時代に合わせて遺伝的に最適化されており、「50」というのは、集団のなかの一人ひとりを個人として認識できる限界なのです。

集団の人数が80人や100人になると、私たちはもはや一人ひとりの個性を見分けることができなくなります。それでも150人くらいまではなんとか顔と名前を一致させることが可能ですが、200人を超えると集団としての一体感は急速に失われていきます(会社でも、社員数が200人を超えると事業部制の導入が検討されます)。

「150」というのは、農耕社会におけるひとつの村の人口の上限です。近代社会が成立するまでは、100~150人で構成されるムラ社会がひとびとの生活のすべてでした。この「150」は、かつては年賀状などで時候の挨拶をする知り合いの数であり、いまは携帯に登録する友だちの数でもあります。こうした知り合いで構成される直接的な人間関係が「世間」で、私たちはその外側にいるひとたちをヴァーチャルな記号の集積としてしか感じられません。

「5」「50」「150」というマジックナンバーは、それぞれ家族、親族、ムラという、生き延びるのに死活的に重要な人間集団に対応しています。AKBは「58」や「68」であってはならず、「48」には進化論的な理由があったのです。

『週刊プレイボーイ』2011年6月20日発売号
禁・無断転載

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(7)

その年は神戸で大きな地震があって、その2ヶ月後に地下鉄で毒ガスが撒かれた。テレビや新聞は宗教団体が毒ガス製造にかかわっているとして、連日洪水のような報道をつづけていた。カルト教団の信者たちは洗脳されていて、教祖の命令に従ってロボットのようにひとを殺すのだと信じられていた。

その頃ぼくは雑誌の仕事をしていて、とても単純な疑問をもった。事件についての膨大な情報にもかかわらず、当の信者がどのようなひとたちなのか誰も知らないのだ――テレビに頻繁に登場していた1人を除いては。

当時教団は、富士山の麓にサティアンと呼ばれる巨大な宗教施設を保有していた。そこでぼくは、教団の広報を通じてその施設を見学させてもらうことにした。警視庁による大規模な強制捜査が行なわれるすこし前のことだ。

教団の広報担当者のYさんと、ライター、編集担当者、ぼくの4人で、東京から車で河口湖畔に向かった。

Yさんはジーンズにジャンパーというラフな格好で、銀縁の眼鏡をかけ痩せて神経質な感じはするが、真面目なごくふつうの若者に見えた。カーラジオからはずっと事件関係のニュースが流れていたけれど、Yさんはほとんど関心がないようで、ぼくたちの質問にこたえて、教団の機構や修業の内容をこと細かに教えてくれた。彼は関西の大学を卒業して大手企業に就職したが、超越的なものへの憧れを断ち切ることができず、すべてを捨てて出家の道を選んだのだといった。

中央道を富士吉田インターで降り、一時間ほどのところに案内された教団施設はあった。

そこは道場として使われていて、広い畳敷きの大広間は体液と排泄物が染みついたような、鼻をつく独特の臭いがした。信者たちは白の作務衣を着て、思い思いの場所で座禅を組み、頭にヘッドギアと呼ばれるヘルメットのようなものをかぶって一心にマントラを唱えていた。

台所にはゴキブリが這いまわり、ネズミのかじった跡があちこちにあった。不殺生の戒律を守るために、生き物は殺せないのだと説明された。プラスチックの小さな皿に、イースト菌を使わずにつくったパンと、根菜類の煮物が載っていた。信者はその皿を受け取ると、手づかみでたいらげ、修業へと戻っていった。

入口に下駄箱があり、そこに子どもの靴が乱雑に積み上げられていた。この施設で子どもたちも暮らしているが、安全のため、外部とは隔離しているのだという。信者はみな白のズックかサンダルだったが、子ども用はミッキーや白雪姫のイラストが入ったかわいらしい靴が目についた。

3ヶ所ほどサティアンを見学して、どこでもユダヤの陰謀について長い話を聞かされた。そんなときもYさんは会話に加わらず、黙ってやりとりを見ていた。

東京に戻る途中のサービスエリアで夕食にした。Yさんは慎重に具材を吟味すると、刻みねぎが載った素うどんを注文した。食堂のテレビが、新たな教団関係者の逮捕を報じていた。それを見てYさんは、「またですか」と呆れたような声をあげた。

青山にあった教団の東京本部にYさんを送り届けたときは、すっかり夜になっていた。教団幹部が刺殺された直後で、本部は警官隊によって厳重に取り囲まれていた。地下の教団事務所の奥に紫色のソファが置かれた部屋があり、そこに教団幹部が集まっていた。Yさんは階級が低いらしく、その部屋に入ることは許されていないようだった。

Yさんと別れると、ぼくたちは六本木交差点のアマンドでコーヒーを飲んだ。深夜0時を過ぎて、開いている喫茶店がほかに思いつかなかったからだ。

奇妙な一日が終わって、みんな神経が高ぶっていた。新宿駅で新たなテロが計画されている、という噂が流れていた(後に、地下トイレに青酸ガスの発生装置が取り付けられていたことが発覚した)。

教祖は、世紀末のハルマゲドンを予言していた。不気味な出来事がつづいて、明日なにが起こるのか誰にもわからなかった。

ぼくたちのテーブルの隣に、ブランドもので身を固めたモデル風の若い女の子がいた。店内に客はまばらで、彼女たちの会話は否応なく聞こえてきた。二人は先ほどからずっと、真剣そのものの表情で、観月ありさが整形しているかどうかについてしゃべりつづけていた。

ぼくはそのときなぜか、高速道路のサービスエリアで、テレビを見ながら声をあげたYさんのことを思った。彼の属する教団は、世界を霊的に救済し、ひとびとをより高いステージに導くことを目指していた。

それから2週間ほどして、Yさんは教団から姿を消した。

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これは90年代の出来事で、番外編です。「若いときの思い出から人生設計を語る」という企画は、ここまで書いて行き詰まり、投げ出してしまいました(だからこれが、とりあえずの最終回です)。

こんな個人的な話に興味を持つひとがいるのだろうかと疑問でしたが、思いがけずたくさんの方に読んでいただけたので、機会があればつづきを書いてみたいと思います。

AKB48総選挙で「政治」を考える 週刊プレイボーイ 連載(4)

AKB48総選挙が佳境を迎えています。今回はこの“国民的イベント”を例にあげて、政治とはなにかを考えてみましょう。

原発を存続させるかどうかとか、誰が新曲のセンターポジションで歌うべきかとか、私たちの社会には決めなくてはならないたくさんの問題があふれています。争いが生じるのはひとびとが異なる利害を持っているからで、それを上手に調整しないと社会は混乱してしまいます。そうならないように、みんなが納得するようにものごとを決める仕組みが「政治」です。

独裁制では、1人の独裁者(王様)が絶対的な権力を持ちます。貴族制では選ばれた一部のひとたちが、神権制では神の意思を伝える(とされる)神官がすべてを決めます。それに対して民主制(デモクラシー)では、異なる意見を持つひとたちが討論をして、参加者全員が賛否を投じ、多数決でものごとが決まります。

ところで同じ民主制でも、国(自治体)と株式会社では決め方のルールが大きく異なります。国の選挙は1人1票が原則で、株式会社の株主総会は1株1票です。国民の選挙権はお金持ちも貧乏人も平等ですが、株主総会ではたくさんの株を持っているひとに大きな発言力があります。AKB48の総選挙は、1ファン1票ではなく、シングルCDに付いている投票権があれば1人で何票も投票できるのですから、これは株式会社型の民主制ということになります。

国政型と株式会社型は、どちらが正しいというわけではありません。

国の政治が1人1票なのは、どのような国をつくるかというひとびとの理想が異なっているからです。あるひとは経済的にゆたかな国がいいと考え、別のひとはたとえ貧しくても家族や地域の絆がある国に暮らしたいと考えています。若者が努力して報われる社会にすべきだというひともいれば、高齢者が安心して暮らせる社会を理想とするひともいるでしょう。

しかし残念なことに、国の予算には制約があり、すべての理想を同時に実現することはできません。そんななかである特定のひとたち(お金持ち)に優先的に決める権利を与えると、それ以外のひとたちを納得させることができなくなってしまいます。

それに対して株式会社というのは、株主から資金を集め、事業を行なって利益を上げるための仕組みで、株主の目的は利益の分配を受けることです。公正な分配のルールさえ決まっていれば、そこには価値観の本質的な対立はなく、たくさんの株券を持つ株主がどうすれば自分の利益が最大になるかを決めたとしても、少数派の株主の権利を侵害することは(ふつうは)ありません。逆に1株主1票では、資金を投じるひとはいなくなってしまうでしょう。

AKB48のファンのあいだでも、だれを応援するかで意見の対立はあるものの、日本一(世界一)のアイドルグループに育てたいという理想は共有されているはずです。そうであれば、1人1票よりも1株1票の仕組みのほうがずっと優れています。

日本では、永田町ではなく秋葉原で、競争原理に基づく正しい「民主政治」が行なわれているのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2011年6月13日発売号
禁・無断転載