オープンAI騒動で話題の〈効果的な利他主義〉とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年2月14 日公開の「自販機で小銭を集める老女に1万円を渡すことは効果的な慈善と言えるのか?」です(一部改変)。

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生成AI「チャットGPT」を開発したオープンAIのCEOサム・アルトマンが突然解任され、5日後に復帰するという椿事が起きた。その背景には、テクノロジーの進歩を「加速」させ、社会を変えていこうとする「効果的加速主義(e/acc:Effective Accelerationism」と、功利的な手法で貧困問題などを解決しようとする「効果的利他主義(EA:Effective Altruism)」の対立があるとも報じられた。アルトマンを解任した理事会メンバーに「効果的利他主義」の団体にかかわる者が複数いたことが根拠とされるが、そもそも「効果的利他主義」とはいったい何なのか?

そんな疑問をもつひとのために、以下、2019年に書いた記事を再掲する。

昨年の暮れ、いろいろ用事が立て込んで深夜3時過ぎに仕事場を出て、徒歩で15分ほどの自宅に向かって歩いているときのことだ。私の前を、分厚いオーバーの下に重ね着した小柄な老女がビニールバッグを抱えて歩いていた。自販機があるたびに立ち止まり、釣銭の返却口を一つひとつ調べている。

昼間だと人目が気になるから、誰もいないこの時間を選んで、わずかな小銭を手に入れようとしているのだろう。そう思って、見てはならないものと遭遇したときにように目を伏せて老女を追い越したあと、ふと考えた。財布から1万円札を取り出し、いまから引き返してあの老女に渡すべきではないだろうか。

こうした行動は、経済学的にはじゅうぶん正当化できるように思える。老女が朝までかけて近隣の自販機をすべて回ったとしても、手に入るのはせいぜい100円か200円だろう。それに対して、財布から1万円札が1枚減ったとしても、私がそれを気にする理由はほとんどない。

お金の効用を考えれば、1万円は老女にとってものすごく大きく、私にとってはそうでもない。だとすれば、お金の価値が小さな側から大きな側に移転することで全体の効用は大きくなるだろう。

誤解のないようにいっておくと、これは政府による所得の再分配について述べているのではない。私のお金をどのように使おうと私の自由なのだから、1万円札を財布に入れたまま何カ月も持ち歩くより(キャッシュレス化が進んだ東京では現金を使うことはほとんどなくなった)、ずっと有効に活用する機会が目の前にあるのなら、経済合理的な個人はそちらを選択すべきではないのか、という話だ。

もちろん、老女に現金を渡さなくてもいい理由はいくらでもあるだろう。

困っているひとは世の中にたくさんいるのだから、誰にお金を渡して誰に渡さないかの基準をどうやって決めるのか。その老女が見知らぬ人間から(それも午前3時に)いきなり1万円札を渡されて、喜ぶかどうかなどわからない。そもそも、そんなことで人助けができると思うことが傲慢で、たんなる自己満足だ……。

私もこうした理屈をあれこれ思いつき、「まあいいか」と思って家に向かった。

こんなささいな出来事を思い出したのは、ウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』(千葉敏生訳、みすず書房)を読んだからだ。原題は“Doing Good Better(よりよく「よいこと」をする)”で、功利主義の立場から、まさにここで述べた問いに答えようとしている。――マッカスキルはオックスフォード大学准教授で、NPO団体のGiving What We Canや80000hoursを運営している。

*2022年11月に暗号通貨の取引所FTXが破綻し、創業者のサム・バンクマン=フリードが金融詐欺で逮捕されたが、個人資産100億ドル(約1兆5000億円)とされたフリードは〈効果的利他主義〉者として知られ、マッカスキルのNPOにも寄付していた。

ミレニアム・ヴィレッジもマイクロコレジットも失敗だった

慈善(フィランソロピー)をどう考えるかは、現代の倫理学にとってきわめて重要な課題だ。すこしでも現実を理解している者にとって、「かわいそうなひとがいるから寄付すべきだ」という安易な感情論が成立しないことは当然の前提になっている。

経済学者ジェフリー・サックスは「2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させる」という野心的な目標を掲げ、ロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーを巻き込んで、東アフリカで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」を鳴り物入りで始めたが、それはいまや“貧困ポルノ(poverty porn)”と総括されている。

ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?

バングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスは、マイクロクレジット(グラミン銀行)によって途上国の貧困を大きく改善したとしてノーベル平和賞を受賞した。私も、マイクロクレジットにはさまざまな批判はあるものの、一定の成果を出していると考えていた。

だがマッカスキルはこれを、「証拠の信憑性が低いもっとも痛烈な例のひとつ」だという。「質の高い調査を行なうと、マイクロクレジット・プログラムは所得、消費、健康、教育にほとんど(またはまったく)効果を及ぼしていないことが証明された」のだ。

マイクロローンは起業ではなく食品や医療といった追加の消費活動にあてられることが多く、ローンの利息は非常に高いのがふつうだ。さらには、長期的な財務の安定を犠牲にして短期的な増収をはかろうという誘惑を生み出し、返済不能な債務に陥ってしまう場合があるのだ。最新の調査によると、マイクロクレジットは平均的には人々の生活をやや向上させるようだが、決してさまざまな成功談が描いているような万能薬とはいえない。

「きれいごと」のこうした実情を知れば知るほど、「寄付なんてしたってしょうがない」と考えるのも理解できる。――じつは私もそう思っていた。

それに対してマッカスキルは、こうした批判を受け入れたうえで、それでも慈善は正当化できるという。なぜなら慈善には、ときにものすごい「大当たり」があるから。

もっとも効果のある慈善プログラムは「腸内寄生虫の駆除」

マイケル・クレマーとレイチェル・グレナスターはともに20代の一時期をケニアで過ごし、アフリカの貧困を改善するのになにができるかを考えてきた。だがハーバード大学やオックスフォード大学で経済学を学んだ2人には、国連のミレニアム・プロジェクトのような「きれいごと」の羅列になんの効果もないことがわかっていた。

そこで、アフリカの子どもたちを支援するのにどのようなやり方がもっとも効果的なのかを科学的な方法(ランダム化比較試験)で確かめてみることにした。

クレマーとグレナスターはまず、学校に教科書を配布するプログラムの効果を調べてみた。教科書が充実すれば学習効果が高まると誰もが思うだろうが、実際には成績上位の生徒以外にはなんの効果も及ぼさないことがわかった(配布される教科書は、現地の子どもたちにとってあまりにもレベルが高すぎた)。

教材を増やしてもダメなら、教員を増やしてはどうだろうか。大半の学校には教師が1人しかおらず、大人数のクラスを受け持っているのだから。だが、1クラスあたりの生徒人数を減らしても目に見える改善はなかった。

それ以外の「一見よさそう」なアイデアも、ランダム化比較試験では(そのプログラムを実施しない)比較対照群とのあいだに有意なちがいを見出すことはできなかった。

2人が最後にたどり着いたのは、教育支援とはなんの関係もなさそうなアイデアだった。それは、「腸内寄生虫の駆除」だ。

このプログラムの特徴は、ものすごく安上がりなことだ。1950年代に開発され、すでに特許切れとなった薬を学校を通じて子どもたちに配布したり、教師が薬を投与したりするだけなのだから。

もうひとつの特徴は、それにもかかわらず目覚ましい効果があることだ。

長期欠席はケニアの学校を悩ます慢性的な問題のひとつだが、駆虫によってそれが25%も減少した。治療した子ども1人当たりで出席日数が2週間増え、駆虫プログラムに100ドル費やすたびに全生徒の合計で10年間分に相当する出席日数が増えた。これは、1人の子どもを1日よぶんに学校に行かせるのにたった5セントのコストしかかからないということだ。

駆虫のメリットは教育だけではなく、子どもたちの健康や経済状態も改善させた。クレマーの同僚たちが10年後の子どもたちの追跡調査を行なったところ、駆虫を受けた子どもたちはそうでない子どもたちに比べて、週の労働時間が3.4時間、収入は2割も多かった。そればかりか、駆虫プログラムはあまりにも効果抜群なので、増加した税収によってコストをまかなうことができた。この慈善活動は、寄付すればするほど「儲かる」のだ。

ここから、マッカスキルのいう「効果的な利他主義」の意味がわかるだろう。

慈善プログラムは玉石混交で、なかには寄付なんかしないほうがいいようなヒドいものある。しかしその一方で、寄生虫の駆除のように、ふつうは思いつかないが、「科学的」に検証してみるととんでもなく有効な手法(大当たり)もあるのだ。

だとしたら「効果的な利他主義者=経済合理的な個人」は、慈善を正しく評価し、自分のお金をもっとも有効に活用できるプログラムに寄付すればいいのだ。

「誰を救って、誰を救わないか」を数学で決める

資源が無限にあるのなら、慈善について悩む必要はない。困っているひとすべてに必要な分だけ、お金や食料、薬などを分け与えればいいのだから。

このように考えると、慈善とは「限られた資源をどのように最適配分すべきか」という経済学的な問題であることがわかる。それはすなわち、「誰を救って、誰を救わないか」という重い問いに答えることでもある。

医療資源が限られていて、5歳の命と20歳の命のどちらか一方だけしか救えないとしたら、どちらを選ぶべきか? 10人をAIDSから救うのと100人を重い関節炎から救うのでは? 1人の女性をDVから救うのと、1人の子どもを学校に行かせるのではどちらを優先するのか?

こうした問いにこたえるために、経済学では「質調整生存年(QALY / Quality-adjusted Life Year)が使われる。これは“命を救う(生存させる)”ことと“生活の質(QOL / Quality of Life)のふたつをまとめた指標だ。

QOL(生活の質)を考慮する必要があるのは、ひとはただ生きながらえていれば、それだけで幸福なわけではないからだ。最期まで家族や友人たちと元気に楽しく過ごせるのなら、多少寿命が短くなってもかまわないと考えるひとはたくさんいるだろう。

これを簡略化すると、次のようになる。

あるひとがなんらかの健康上の理由で60歳で死亡するとして、医療技術の進歩で2つの選択肢が与えられた。ひとつは60歳までのQOLを20%向上させ、もうひとつの選択肢は寿命を10年延ばすがQOLは70%に下がる。このどちらが優れているだろうか?

この問いには、QALYを計算することで回答できる。

60年間にわたって20%QOLを向上させるのは12QALYだ(60年×20%=12QALY)。それに対して、QOLを70%にして寿命を10年延ばすのは7QALYになる(10年×70%=7QALY)。この両者を比較すれば、寿命を延ばす医療支援よりもQOLを高めることを考えた方がいい。すなわち、財源が限られている場合、ほかの条件がすべて等しいと仮定するなら、QALYが最大になるプログラムに予算を投じるべきなのだ。

同様に、失業や離婚によって幸福度がどのように変化するかのデータが手に入れば、「幸福調整生存年(WALY / Well-being-adjusted Life Year)を計算できるだろう。慈善の目的は、限られた資源を使ってひとびとを「総体として」より幸福にすることだ。さまざまな慈善プログラムのWALYを比較すれば、費用対効果のもっとも高いプログラムを効率的に発見できるだろう(それと同時に、一見よそうさだけれど現実には災厄しかもたらさないプログラムを排除することができる)。

この考え方は、個人としての生き方にも応用できる。

あなたは、欧米や日本のような先進国に「偶然」生まれた幸運を活かして、困難な人生を余儀なくされているひとたちのためになんらかの貢献をしたいと考えている。このとき3つの選択肢があるとしよう。

(1) WALYの高いNPOのスタッフとなって慈善活動に従事する
(2) 高給の仕事についてWALYの高いプログラムに寄付する
(3) 政治家になってWALYに基づいた政策を実現する

もちろん人生はものすごく複雑だから、どれが正しくてどれがまちがっていると決めることはできない。それでもマッカスキルは、このような「合理的」な思考によって、金融業界に職を得て給与の10%を寄付しようと決めた若者(ローリスク・ローリターン戦略)や、政治家を目指そうとする若者(ハイリスク・ハイリターン戦略)を〈功利的利他主義〉の例として紹介している。

高い効果のあるプログラムへの寄付は、確実に「よいこと」につながる。その一方で、政治家として大成できる確率はきわめて低いけれど、もし夢がかなったとしたら、その貢献はとてつもなく大きなものになるだろう。研究者になって「人類を救う」発明をしたり、ベンチャー起業家として「世界を変える」ことを目指すのも同じだ。

費用対効果が高い慈善団体はどこ?

アフリカの貧困、気候変動、動物の権利擁護、アメリカの司法制度改革など、解決しなければならない問題はたくさんある。『〈効果的な利他主義〉宣言!』ではWALYの観点で、どの分野のどの団体が優れているかを評価している。マカッスキルが専門とする貧困問題で効果的な活動をしている団体は以下の5つだ。

  1. ギブダイレクトリー(GiveDirectly) ケニアとウガンダの貧困世帯に条件なしで直接送金を行なっている。
  2. ディベロップメント・メディア・インターナショナル(Development Media International) ブルキナファソの住民に基本的な衛生問題について啓蒙するラジオ番組の制作と運営を行なっている。
  3. 住血吸虫症対策イニシアティブ(SCI / Schistosomiasis Control Initiative) サハラ以南のアフリカ諸国の政府に、学校や自治体を拠点とする駆虫プログラムを実施するための資金を提供。
  4. アゲインスト・マラリア基金(Against Malaria Foundation) サハラ以南のアフリカの貧困世帯に持続性の高い殺虫剤入りの蚊帳を購入し、配布するための資金を提供。
  5. リビング・グッズ(Living Goods) ウガンダで家々を回り、マラリア、下痢、肺炎の治療薬、石鹸、生理用ナプキン、避妊具、ソーラー・ランタン、高効率コンロなどの衛生関連商品を安価で販売したり、健康管理に関するアドバイスを提供したりする地域の衛生推進者たちのネットワークを運営している。

ここで注意しなければならないのは、マッカスキルが「最高の慈善団体」を挙げていることで、地域は限定されていない。それがサブサハラのアフリカばかりなのは、世界の貧困が特定の地域に集中しているからだ。中国やインド、欧米や日本にも「貧困問題」はもちろんあるだろうが、その解決に1万円寄付するよりも、同じ金額をアフリカの貧困のために寄付した方がはるかに「費用対効果」が高いのだ。

〈効果的な利他主義〉への疑問

こうした考え方そのものを拒絶するひともいるだろうが、これを受け入れたとして、冒頭の私の疑問に戻ってみよう。

「効果的な利他主義者」としては、自販機で小銭を集める老女に1万円を渡す理由はない。彼女は「ゆたかな日本」に生きており、年金や生活保護を受給している可能性が高く、困窮しているとはいえ死に瀕しているわけではない。それに比べてアフリカには、1日100円や200円で暮らさざるを得ず、子どもたちが次々と感染症で死んでいく国がたくさんあるのだ。

マッカスキルの「効果的な利他主義」への私の疑問は、このように、目の前の不幸に見て見ないふりをする便利な言い訳になるのではないか、というものだ。実際マッカスキルは、(東日本大震災のような)大災害の被災者のために募金することは費用対効果の面で正当化できないと述べている。日本の経済格差も、震災や豪雨や原発災害も、「アフリカに比べればずっとマシ」のひと言でやりすごすことができる。

もうひとつの疑問は、(これは多くのひとが感じるだろうが)この徹底した功利主義(合理主義)に従うひとがいったいどれほどいるのか、というものだ。

手に汗して稼いだお金を使う目的は、なんらかの満足感を得るためだ。それが慈善(いいこと)であるひともいるだろうが、その場合でも、自分にとってもっとも満足感の高い使い方をするはずだし、そうする権利がある。

「あしながおじさん(おばさん)」になって、貧しい(とはいえアフリカに比べればずっと恵まれている)子どもの教育費用を援助する慈善活動を考えてみよう。このプログラムに寄付すると、子どもから直筆の礼状や写真が送られてきて、将来は援助した子どもを訪ねたり、結婚して子どもができたら訪ねてきてくれるかもしれない(すくなくともそういう場面を想像することはできる)。

それに対して「最高の慈善団体」に寄付すると、団体からの礼状と追加の寄付を求めるメールが送られてくるだけだ。大半のひとがどちらを選ぶかは考えるまでもないだろう。

素晴らしい効果が「科学的」に証明されているプロジェクトがあるのなら、ODAなどの資金を使って税金で「寄付」すればいいだけだ。ODAの無駄遣いは強く批判されており、費用対効果をエビデンスベースドで説明できれば有権者も納得するだろう。

それでも、あなたが数少ない「効果的な利他主義者」だとしよう。しかしその場合でも、いますぐ寄付しない経済合理的な理由がある。

あなたが30歳で、一生懸命貯めた貯金が100万円あるとしよう。このお金を「最高の慈善団体」に寄付することもできるが、あなたにはもうひとつ選択肢がある。

100万円を年利5%で運用すると、10年で163万円、20年で265万円、80歳で死ぬまで50年間運用すれば1147万円だ。

功利主義的に考えれば、いままさに死のうとしている子どものWALYと、50年後に死の危機にある子どものWALYは等価だ。そう考えれば、あなたはいますぐ寄付するのではなく、そのお金を運用することでWALYを10倍以上にすることができる。

それにこの戦略には、もうひとつ大きな魅力がある。

いま100万円寄付してしまえば、あとから後悔してもそのお金は戻ってこない。それに対して死亡時まで寄付を引き延ばせば、その間に思想信条が変わったり、あなた自身が経済的な苦境に陥った場合でも、寄付を取りやめることができる。このように考えれば、功利主義者ほど(いますぐ)寄付しなくなるのではないだろうか。

とはいえ、これはたんに私がひねくれているだけかもしれない。きわめて刺激的な考え方であることはまちがいないので、あなたがどのように感じるかを知るうえでもぜひ一読を勧めたい。

禁・無断転載

 

DD(どっちもどっち)派には理由がある 週刊プレイボーイ連載(583)

ささいな日常の諍(いさか)いから国家間の戦争まで、なんらかのトラブルが起きると、わたしたちは無意識のうちに善と悪を決めようとします。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だということから説明できるでしょう。人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代には、食料はきわめて貴重だったので、脳はできるだけ資源を節約するように進化したはずです。

脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかりますが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済みます。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直観的な思考に「快感」を覚えるようになりました。

人間関係の対立は、わたしたちが生きていくうえで、生存や生殖に直結するもっとも重要な出来事です。双方の言い分を聞き、何日もかけて話し合うのではなく、その場で対処しなければならないことも多かったでしょう。このようにして、あらゆる対立を善悪二元論に還元することが“デフォルト”になったのです。

2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、それ以前の「歴史問題」があったにせよ、侵略したロシアが「悪(加害者)」で、ウクライナが「善(犠牲者)」であることは明白でした。欧米をはじめとする国際社会が即座にウクライナへの支援を決めたのは、善悪の構図がわかりやすく、国民を説得するのが容易だったらでしょう。

ところがイスラエルとハマスの紛争では、一方の「悪」を批判すると、他方の「悪」を擁護することになってしまいます。

すべての国家には、市民の安全を守る義務と権利があります。ハマスのテロによって約1400人が殺され、240人ちかくが拉致された以上、イスラエルがハマスを掃討して人質を奪還しようとするのは当然です。かといって、「テロとの戦い」を強調すると、ガザ市民の犠牲を無視するイスラエルのプロパガンダと同じになってしまいます。

一方、人質をガザに連れ去った時点で、その後のイスラエルの報復攻撃もハマスの計画の一部だったことは明らかです。イスラエルの“残虐さ”を世界に配信するのが目的なら、病院を武装拠点にして、より多くの市民の犠牲を「演出」しようとしても不思議ではありません。

このようにして「善」と「悪」を単純に決められなくなり、状況は「DD(どっちもどっち)」的になっていきます。これはきわめて大きな認知的負荷がかかり、生理的に不快です。

DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットではつねに「旗幟を鮮明にしろ」と批判されますが、日々報じられるガザの悲惨の現実は、世界が単純な善悪二元論でできているわけではないことを教えてくれます。対立する当事者はいずれも、自分が「善」だと主張するのですから、第三者に善悪を簡単に判断できるようなことが例外なのです。

これを逆にいうと、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられないひとが(思ったよりも)たくさんいて、それが日本や世界のさまざまなところで起きているやっかいな対立・抗争の背景にあるのでしょう。もちろんこんなことはみんな知っていて、大きな声ではいわないだけかもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2023年11月27日発売号 禁・無断転載

イスラーム原理主義のテロの論理とは

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2015年12月3日公開の「ISが「神の名の下に無辜の市民を殺す」論理を
イスラームは、完全否定できるのか?」です(一部改変)。15年11月13日に起きたパリ同時多発テロを受けた書いたものです。

ハマス創設者の長男として生まれ、のちにイスラエルの諜報機関にスパイになった若者の証言を紹介した「イスラエルへのテロを主導する、ハマスとはどのような組織なのか?」も合わせてお読みください。

レピュブリック広場に捧げられたテロ犠牲者への花束(2016年)

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パリ市内でIS(イスラム国)による大規模なテロが起きたことから、イスラームに対する関心がふたたび高まっている。もっともこれはムスリムにとって歓迎すべきことではなく、(私を含む)一般人の関心は「なぜ神の名の下に無辜の市民を殺すのか」に尽きるだろう。

この問いに対して“正統派”のムスリムは、「テロはイスラームの教義ではなく、彼らはムスリムの名をかたっているだけだ」と批判してきた。大多数のムスリムが暴力を否定し、異なる宗教や主義主張の相手とも話し合いで妥協点を見つけようとする合理的(理性的)な平和主義者であることは間違いない。しかし残念なことに、凄惨なテロが「イスラーム」の名で繰り返されると、「無関係」というだけでは説得力を保てなくなる。

ISは“正統派”に対して「自分たちこそが真のイスラームだ」と主張しており、その教義に共鳴してヨーロッパからイラクやシリアに向かう多くの若いムスリムたちがいる。ISの教義がデタラメなら、なぜ“正統派”のウラマー(イスラーム法学者)はそれを論破できないのか。

こうした疑問に答えられる知識人は、日本にはおそらく一人しかない。それがイスラーム法学の権威でムスリムでもある中田考氏だ。

同時多発テロに先立つ2015年1月のシャルリーエブド事件を受けて、中田氏はイスラームについての入門書を何冊か出版している。ここではそれを参考に、テロとジハードについて考えてみたい。

イスラームとヒューマニズムは両立できない

『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)などで中田氏は、「イスラームはムスリムにならなければわからない」と強調している。アッラー(唯一神)への信仰こそがイスラームの根幹で、それを共有せずにクルアーンの字句をいくら解釈しても本質がわかるはずはない。――このような理由から中田氏は、日本の「イスラーム研究者」を(ほぼ)全否定する。なぜなら、ムスリムのイスラーム法学者はいまのところ日本に中田氏しかいないのだから。このように中田氏は、自分が“オンリーワン”であることを巧みに活用している(もちろんそれが悪いわけではない)。

イスラームとはなにか? 中田氏はそれを「神への服従」だという(イスラームの原義は「服従」)。イスラームへの入信の際、「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の2つの章句を唱えるのだが、この章句をこころの底から信じたときに価値観の全面的な転換が起こる。この宗教体験がなければイスラームを語る資格はないし、説明されても正しく理解することはできない、というのが中田氏の立場だ(当然、私にもイスラームを語る資格はない)。

こうした厳しい留保をつけたうえで中田氏は、「神への絶対的な服従」とは、アッラー以外のいかなる権威も認めないことだと述べる。従うべきは神だけなのだから、世俗の権力者はもちろん、カトリックにおける教会のような宗教的な権威もイスラームには存在しない。神の下にひとは平等であり、「いかなる人間の組織にも他者を従属させる権利はない」という“神中心主義”がイスラームの根本原理なのだ。

このことから、イスラームとヒューマニズムが両立できないことがわかる。ヒューマニズムは神の場所に人間を置く「人間中心主義」で、アッラーに対する冒涜以外のなにものでもない。この論理では、当然、「人権」の居場所もないだろう。

またイスラームでは、法人を認めない。法人とは特定の人間集団を「法的なひと」と見なすことだが、イスラーム法では、来世で懲罰を受けることがない「ひと」が存在する余地はない。そうなると「真のイスラーム社会」では会社は法人格を剥奪され、株式市場も廃止され、資本主義は廃棄されるだろう。そのあとにどのような経済が残るかは判然としないが、「権威によってひとを従わせてはならない」のなら、自営業と家族経営の小企業しか存続を許されないのではないだろうか。

さらには、原理主義的なイスラームは近代国家の存在を認めない。国民国家は「国民(民族)が自らの国家を持つ」仕組みだが、部族(民族)主義こそがムハンマドがクルアーンで口をきわめて批判し、打倒しようとしている当のものだ。イスラームは民族を超えた宗教共同体(ダール・アル=イスラーム〈イスラームの家〉)で、国民国家の体裁をとった現在のイスラム諸国は(イランやサウジアラビアを含め)すべてニセモノなのだ。

王権神授説から生まれた主権概念では国家は“神に相当する至高の権利”を持つが、これは唯一神の権威を否定する偶像崇拝以外のなにものでもない。また民主政(デモクラシー)も、“民主的”とされる手続きで選ばれた為政者の決定に国民を服従させる制度だからイスラームとは相容れない。唯一の正しい統治はシャリーア(イスラーム法)によるもので、民主政という「制限選挙寡頭制」の実態は独裁政治と変わらないのだ。

このように原理主義的な立場からは、イスラームは反ヒューマニズム、反人権、反資本主義、反国家、反デモクラシー、反近代ということになる。

イスラームにはテロを批判する論理がない

中田氏は、ヒューマニズムは「人間中心主義」だから反イスラームだという。だとしたら、ヒューマニズムの名のもとにテロを批判してもなんの意味もない。

もちろんイスラームでも殺人は禁じられている。だがこれはすべてのひとに平等に人権が与えられているからではなく、クルアーンに(モーゼの律法にも)「殺すなかれ」と書いてあるからだ。

テロが無差別殺人であれば、それが神の法に反することはいうまでもない。だがISはこれをジハード(聖戦)だと主張していて、クルアーンではジハードは「義務」であると同時に「天国への最短ルート」だから、賞賛されるべきことになる(ジハードで死んだ者は最後の審判を待たずに天国に直行できる)。

卑劣なテロがジハードであるはずはない、と誰もが思うだろう。だが中田氏の論理では、これもまた信仰もたない者の誤解だ。世俗の宗教的権威を否定しているイスラームでは、ジハードかどうか決める者はいないのだ。

むろん多くのウラマーがテロを批判するファトワー(勧告)を出している。しかしISに近いウラマーは、「フランスは空爆によってイスラーム国の一般市民を殺害しており、報復としてフランス市民を殺すのはジハードだ」と主張するだろう。

カトリック教会のような宗教的権威を持たないイスラームでは、ウラマーが異なる見解を述べた場合、いずれの主張が正しいかを客観的に知る方法がない。そうなると、個々のムスリムは誰の見解を「真のイスラーム」と見なすかを自由に決めていい(というか、それ以外にやりようがない)ことになる。このことを中田氏は、「イスラームは人の内心(プライバシー)に干渉しない」と述べる。内心を知るのは神だけで、ムスリム(を名乗る者)の行為をテロだとかジハードだとか、第三者が決めつけることは許されないのだ。

こうして(中田氏のいう)イスラームでは、イデオロギー教育はすべて否定される。シャリーア(イスラーム法)をそのまま実行すると、一人ひとりのムスリムにそれぞれ「正しいイスラーム」があるというアナーキズムになるほかないのだ。――これは、イスラームに複数の教義がある、という相対主義ではない。教えはひとつしかないが、どれが正しいかは神しか知らない(人間には神の真意を知る術はない)のだ。

だがそうなると、イスラームにはテロを批判する論理がなくなってしまう。ISのファトワーを信じてテロ(ジハード)を行なったのはその信徒の「内心の自由」で、神がそれをジハードと認めれば死者は天国に直行し、殺人と見なせば地獄の業火に焼かれる、というだけのことだ。

そのうえ中田氏によれば、イスラームでは無知は罪にならない。偽のファトワーを信じたことが無知によるものであれば、テロの実行犯はアッラーの寛大さによって地獄行きを免れるかもしれない。すべては神の御心次第(インシャラー)なのだ。

イスラームはテロの犠牲者を追悼しない

ムスリムの法学者として中田氏が何冊もの入門書を出したのは、日本にイスラームを布教する、ないしはイスラームに対する正確な知識を伝えるためだろうから、無用な誤解を招く話題を避けるのは当然のことだ。そのため、シャルリーエブド襲撃事件についても、日本人の誘拐・斬首についても直接の言及はほとんどない。

だがテロについての中田氏の立場は、2001年の同時多発テロへの次の一文によく現われている(『イスラーム 生と死の聖戦』集英社文庫)。

ジハード=テロというイメージが広がったのは、いわゆる9.11事件からでしょう。ハイジャックしたジェット旅客機で体当たりして、ニューヨークの世界貿易センタービルを全壊、米国防総省ビルを半壊させた事件は世界中に衝撃を与えました。

もちろん中田氏はテロを肯定しているわけではない。「実行者はムスリムであったかもしれないけれども、そして彼らの主観としてはジハードをしているつもりであったかもしれないけれども、あれはあくまでも世界各地で起きている反米闘争のひとつであって、ジハードとは言いがたいものなのです」「イスラーム学者としては『自爆テロはいけません』と言うほかありません。そもそもイスラームでは自殺は禁止されているのです」と述べているのだから。

だがここで誰もが奇異に感じるのは、“事件”についての描写だろう。中田氏は「建物」の破壊について書いているものの、ハイジャックされた旅客機の乗客や、世界貿易センタービルで働いていたひとびとの死についてはいっさい言及していないのだ。

私の理解によれば、これは中田氏がテロの犠牲者を軽んじているからではなく、近代的な市民社会とは死生観が根本的に異なるからだ。

イスラームにかぎらず、ユダヤ教やキリスト教でも同じだが、この世界は無から神が創造し、神は過去から未来永劫に至るまで宇宙で起きるすべての出来事を知っていると考える。そうであれば、生も死も、それがいかなるものであれ神の計画ということになる。このような立場からは、死や不幸を「理不尽だ」とか「こんなことがあっていいはずはない」と考えることは間違いだ。それは神の意思を否定することになるのだから。

ハイジャックされた旅客機に乗っていた乗客たちが感じた恐怖や、世界貿易センタービルで炎に包まれたひとびとの絶望を神への疑念に結びつけてはならない。遺族が悲しむのは当然だろうが、すべての出来事を神の御心として受け入れるのが正しい信仰なのだ。

パリの同時テロに関する報道に比べ、それ以前のレバノンやイスタンブールのテロがほとんど報じられず、シリアやイラクではさらに多くのひとたちが殺されている、との批判がある。だが原理主義的なイスラーム(サラフィー主義)では、こうした議論も死を否定的にとらえているという意味で、神を疑念にさらしていることになるだろう。

この世界に起きたことで「間違っている」ものはなにひとつなく、自分の夫や妻、父母や子どもがなぜ犠牲になったのかは人知を超えている。善悪を評価できるのも神だけなのだから、9.11は「飛行機が建物を壊した事件」と説明するほかない(パリの同時テロは「サッカースタジアの近くで爆発があり、劇場とレストランが破壊された事件」になるだろう)。

中田氏がハイジャック犯の死について述べているのは、犠牲者よりも(ムスリムを名乗る)犯人を重んじているからではなく、その死がジハードであるか否かがイスラーム法において問題になるからだ。それ以外の死者は「神の御心によって召された」だけで、イスラーム法では議論の対象にならないのだから、わざわざ取り上げる価値はないのだ。

もちろんこうした説明をほとんどのひとは受け入れないだろうが、それはしかたのないことだ。(私を含む)大半の日本人は、アッラーへの帰依による価値観の全面的な転換を経験していないのだから――ということになるのだろう。

イスラームは市民社会と共存できない

神についてのこうした極端な(原理主義的な)見解は、自由意志についての深刻な問いを引き起こす。すべてを神が決めているのなら、どれほど理不尽な出来事も運命として受け入れるほかない。欧米の植民地主義も、イスラエルの建国も、ムスリムに対する差別や偏見もすべて「神の意思」であるとするならば、ジハードする必要もなくなってしまう。

しかしその一方で、クルアーンは侵略者へのジハードを義務とする。ムスリムは自由意志によって、「聖戦」に参加しなければならないのだ。

そうすると神は、ジハードの機会を与えることで最後の審判の材料を集めているのだろうか。しかし神の全能性によれば、誰がジハードを選び、誰が尻込みするのかもすべて知っているはずだから、けっきょく「起きたことはすべて正しい」という話に逆戻りしてしまう。

この難問に対して中田氏は、この世界は過去から未来へと連続するものではなく、神が一瞬ごとに創造しているのだという。私たちはすべて、「過去」の記憶を持たされてこの瞬間に生まれ、そして消えていくのだ。

だがリセットされて消滅する前に、私たちは「自由意志」によってなにかを選択することができる。この選択によって世界は分岐し、「創造→選択→消滅→創造→」の繰り返しによって無数の「現在」が生まれる。中田氏の世界観は、量子力学における多重宇宙論(あるいは、この世界は何者かがつくったシミュレーションで、わたしたちは”シム人間”だというシミュレーション仮説)のようなものなのだ。

これについて、中田氏は次のように書く。

私が寝ている世界、そもそも、私がいない世界とか、まさに世界が始まってから終わりまでの無数の世界がすべてアッラーの知識の中にあるわけです。その中に、子どものころからのいろいろな無数の私がいるわけです。もう死んでしまっている私もいるかもしれません。さまざまな私が無数にあって、その中にいまの私もいるわけです。すべてが実は同格に存在している。けれども、この、いま私たちが生きているこの世界、選択肢だけが、私一人だけでなく世界中の人にとって、唯一そこで人間が意識を持っている世界である(『イスラーム 生と死と聖戦』)。

正直なところ、中田氏の「思想」をどのように理解すればいいのか私には判然としない(理解する必要があるのかどうかもわからない)。ただしこの解釈では、9.11やパリ同時テロの犠牲者は無数の世界のひとつでたまたま死んだだけで、それ以外の世界では生きているのだから、「現在」という仮象の出来事を嘆く必要はない、ということになるのだろう。――この説明で遺族がどれほど慰められるかは知らないが。

私のような凡百の徒には、このような複雑怪奇な立論が必要になるのは、「神による世界の創造」を前提としているからだと思える。この前提を外してしまえば、無数の宇宙で無数の「わたし」が生きているという荒唐無稽な(「宗教的な」ともいえる)お話をする必要もなくなるはずだ。

ムハンマドは6世紀後半から7世紀前半のひとで、進化論や分子遺伝学、相対性理論や量子力学はもちろん万有引力の法則すら知らなかった。いくら宗教的天才とはいえ、むかしのひとが考えたこと(それも、戦いのなかで味方を叱咤激励するためのとっさの言葉)を現代社会に通用するように“論理的に”語ろうとすれば、このような思考の迷宮にはまりこむのは当然に思えるが、これもまた信仰を知らないものの戯言だろう。

現代イスラームのなかで、ムハンマドの時代を重視するスンナ派の宗派をサラフィー主義という。これは初期イスラーム(サラフ)の時代に復古すべきだという「原理主義」で、中田氏は自ら認めるようにサラフィー主義者だ。

サラフィー主義的な立場からは、イスラームは自由や平等、人権、デモクラシーなどの近代的な価値を認めない。これはまさにISが自らの統治下で行なっていることだが、それはIS(およびカリフを名乗るアブー・バクル・バグダーディー)がサラフィー主義の分派(もしくはカルト)だからだ。

『イスラーム 生と死と聖戦』のなかで、中田氏はわずかではあるがISに触れている。それによると中田氏はISに否定的だが、その理由はIS(バグダーティー)がイスラーム法の解釈を狭くとっているからだ。不寛容なシャリーア解釈はイスラームに対する敵愾心を煽り、中田氏が目指すカリフ制再興の障害になる。すなわち、ISの主張はイスラームとして間違っているわけではないが(というよりも、サラフィー主義的には正しいが)、宗教的理想を実現するための戦略が稚拙なのだ。――これはオウム真理教事件のときに、一部の宗教学者が「テロはよくないが、既成仏教に対する麻原の批判は正しい」と述べたこととよく似ている。

中田氏はきわめて論理的にイスラームを語るが、このような宗教=政治思想が市民社会と共存できるのか、疑問に感じるのは私だけではないだろう。――そして中田氏は、当然のことながら、イスラームと近代的な市民社会は共存できないとこたえるにちがいない。

だとすれば、世俗的なムスリムや正統派のウラマーがなすべきことは、「テロとイスラームは無関係」と繰り返すことではないだろう。市民社会の疑念を晴らすために必要なのは、中田氏のようなサラフィー主義者の論理を否定する説得力のある反論であるように私には思える。

追記:道徳は神でしか説明できないのか

「なぜイスラーム教徒になったのか」との問いに対して、中田氏は、神以外に善悪の基準を決められるものはなく、すべての判断を神(とイスラーム法)にゆだねてしまえば生きるのが楽だからだ、とこたえている。

近代的な理性では「殺すな」という道徳を説明できない。なぜなら「自由な個人」には、法を犯してひとを殺す「自由」も与えられているのだから(法は事後的に犯罪を処罰することしかできない)。

しかし私の考えでは、道徳は神なしでも根拠づけることができる。それは単細胞生物からヒトへと至る長い進化の過程のなかで、仲間を殺すこと(無意味な殺人)への嫌悪や禁忌が脳にプログラミングされたからだ。これが「自然法」で、一神教でも多神教でもあらゆる人間集団に「殺すな」という掟があるのは、それがヒトの普遍性(ヒューマンユニヴァーサルズ)だからだ。

さらにいえば、チンパンジーのような霊長類や、あるいはアリやハチのような社会性昆虫にも、それが進化適応的であるかぎり、「モーゼの律法」がプレインストールされている。なんらかのバグで自然法=道徳に従わない個体が現われても、彼らは子孫を残すことができず遺伝子が死に絶えてしまうのだから。

近年の進化心理学や脳科学は、「ヒトはなぜ神を信じるのか」も自然科学のフレームで解明しつつある。スピリチュアルセンス(超自然的な因果関係)を感じると、脳は無意識のうちにその感覚を合理化(正当化)しようとする。その結果、無から神という説明原理を「創造」するのだ。――こうした議論に興味のある方は、『「読まなくてもいい本」の読書案内』『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』を手にとってみてください。

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