レストランとPECTOPAH

ロシアから帰ってきました。旅の印象はあらためて書くとして、とりあえずちょっとしたTipsを。

ロシア旅行でいちばん戸惑うのはキリル文字(ロシア文字)です。ギリシア文字をもとに考案されたアルファベットですが、英語と同じ文字を使いながらまったく異なる発音のものがいくつもあって、それが混乱のもとになります。

たとえば、ロシア語の「H」はN、「P」はR、「C」はS、「y」がUといった感じです。そのため、「ロシアに文字が伝わるときに文法書を載せた船が難破し、記憶だけでアルファベットをつくったからだ」といわれたりしました。

旅行者がどれほど困惑するかの格好の例が、街中のあちこちで見かける「PECTOPAH」の看板です。英語と同じ文字が使われていますがこれはロシア語で、上記の規則を適用すると、「RESTORAN」であることがわかります。これは、レストランの看板なのです。

ロシア語は、英語やフランス語とはちがって、文字通りに発音すればいいだけです(ローマ字表記みたいなものです)。だからいったん馴れてしまうと、「ボルシチ」「ストロガノフ」「カフェ」などのメニューや、人名や駅名も簡単に読めるようになります。

基本的な母音と子音さえ覚えておけば、モスクワやサンクトペテルブルグの地下鉄も自由に乗りこなせます。なお、地下鉄には自動販売機がなく、窓口に並んで回数券(回数分の料金がチャージされたICカード)を購入することになります。英語はほとんど通用しませんが、必要な回数を紙に書いて見せれば大丈夫です。

テロ対策で、地下鉄のエレベーターはすべてモニターで監視されています。モスクワの地下鉄は核戦争時にシェルターに転用できる大深度ですが、記念に写真を撮ったりすると警察官に尋問されるので、エレベータではおとなしくしていたほうがいいようです(パスポートを見せたうえで、撮影した写真をすべてチェックされました)。

あと、モスクワもサンクトペテルブルグも天気が変わりやすいので、傘をつねに持ち歩くことをお勧めします。

これはビストロBistro
カフェハウスCafe House いたるところにあるチェーン店
Subwayはサブベイ
ご存知マクドナルド

日本の若者はほんとうにリスクをとらないのか? 週刊プレイボーイ連載(18)

日本人はリスクをとらない、といわれます。最近の若者は海外に出ようとせず、アメリカの一流大学では、留学生のほとんどは中国か韓国の学生になってしまった、との嘆きもよく聞かれます。

これが、日本の将来に対する重要な警告であることは間違いありません。しかし保守的で臆病で日本を離れたがらない若者というのは、日本人の「国民性」なのでしょうか。

ひとはどんなときでも、自分の利益を最大化すべく合理的な選択をする、と考えてみましょう。すると、ちがった風景が見えてきます。

プロサッカーの世界では、たくさんの若者たちがヨーロッパに渡っています。長谷部や本田、長友、香川といったJリーグで活躍した選手だけでなく、アーセナルの宮市亮のように高校を卒業してすぐにヨーロッパリーグで活躍する選手も登場しました。

なぜサッカー選手たちは、大きなリスクをとって海を渡るのか? 彼らは、特別な日本人なのでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。しかし、ごくふつうの日本人とプロサッカー選手ではひとつ決定的なちがいがあります。中田英寿が示したように、世界最高峰のヨーロッパリーグで成功することの利益―これは金銭だけでなく名声(評判)も含まれます―はとてつもなく大きいのです。

合理的な個人は、つねにリスクとリターンを秤にかけて最適な行動をとろうとします。じゅうぶんなリターンがなければ現状を維持し、リスクに対して期待リターンがはるかに大きいと思えばチャレンジするというのは、ごく当たり前の選択です。この原理は日本人であろうが外国人であろうが同じで、だとすると、日本人が保守的な理由は国内にとどまることのリターンが大きいからにちがいありません。

韓国の音楽マーケットの規模は日本の20分の1以下だといいます。これが、Kポップのアイドルたちが続々と日本にやってくる理由です。サッカーも同じで、Kリーグでは成功しても収入に限界があるので、選手たちはJリーグやヨーロッパリーグを目指します。韓国人がアグレッシヴなのは、彼らの能力に国内市場の規模が見合わないからです。

それに対して日本は、長い不況に苦しんでいるとはいえ、いまだにGDPで世界3位の経済大国です。ほとんどの日本人は、海外に出て大きなリスクをとるよりも、国内でそこそこの成功を目指した方がリスクに対するリターンが大きいと考えていて、合理的に行動しているだけなのです。

明治・大正や昭和初期には、多くの日本人が決死の覚悟でアメリカやブラジルに渡りました。これは日本が貧しく、農家の次男や三男は生きていく術がなかったからです。終戦後にアメリカの大学に留学する日本人が増えたのは、欧米と日本の差がまだ大きく、海外の知識を日本に持ち込むだけで大きな利益(や名声)を手にすることができたからにちがいありません。

このことからわかるように、外的な環境が変われば日本人はふたたびリスクをとるようになるでしょう。もっともそのときは、日本国内では生きていくことができないような、そんな世界になっているかもしれませんが。

 『週刊プレイボーイ』2011年9月12日発売号
禁・無断転載

ひとはどこまで愚かで残酷になれるのか? ポルポト残照(2)

ドイツ系ユダヤ人の政治思想家ハンナ・アーレントは、ナチス親衛隊幹部で、強制収容所による「ユダヤ人問題の最終解決」を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」という有名な言葉を残した。だが同じような陳腐さは世界のどこにでも―たとえばカンボジアにも―あった。

トゥール・スレン収容所は、ドゥイチ(本名カン・ケク・イウ)と呼ばれる若い所長によって管理・運営されていた。ドゥイチはポル・ポトら最高幹部から直接、指示を受ける立場におり、絶対的な権威として収容所に君臨し、3年4カ月の間に1万4000人の容疑者を取り調べ、そのほぼ全員を粛清したとされる。それと同時にドゥイチは、きわめて几帳面に、容疑者の自白調書を記録に残した。ベトナム軍によるプノンペン陥落の際もこれらの膨大な文書は破棄されることなく、それによって後世の研究者たちは収容所の全貌に迫ることができたのだ。

ドゥイチはカンボジアの最高学府リセ・シソワットをきわめて優秀な成績で卒業し、高校の数学教師を経て革命運動に身を投じた。「死の監獄」の収容所長に就任したのは、32歳のときだ。

ドゥイチの消息はプノンペン陥落から途絶えていたが、20年後の99年1月、アメリカ人ジャーナリストによって所在を突き止められた。このスクープに世界が驚いたのは、悪魔の化身のように恐れられていたドゥイチが96年に洗礼を受けて敬虔なクリスチャンになっており、タイ国境のキャンプで国連や米国の民間救援組織とともに難民救済活動に献身していたことだった。

フランスの民俗学者フランソワ・ビゾは1965年からシェムリアップでアンコール遺跡の調査を行なっていたが、71年にクメール・ルージュに拘束された。そのときビゾを取り調べたのが、若き日のドゥイチ(当時28歳)だった。ビゾはこの体験を誰にも語らなかったが、ドゥイチ拘束の報を受けて30年の沈黙を破り、処刑の恐怖に怯えた虜囚の日々をはじめて公にした(『カンボジア運命の門』)。

ビゾの願いは、等身大のドゥイチを知ってもらうことだった。彼はドゥイチの公明正大な報告と尽力により、奇跡的に死刑を免れ、生還することができたのだ(同時期にクメール・ルージュに捕えられた外国人は、全員がスパイとして処刑された)。

ドゥイチは、ビゾと2人のカンボジア人の助手を別々に訊問し、その証言を厳密に付き合わせた結果、どこにも矛盾点がないという理由でビゾの釈放を上層部に求めた。だがクメール・ルージュのナンバー2だったヌオン・チュア(後の人民最高会議議長)が強硬に死刑を主張したため、ドゥイチは身の危険をも顧みず、ポル・ポトに直接かけあって釈放の指示を取りつけた。こうして革命の純粋さを信じる若者と、フランス人民俗学者のあいだに奇妙な友情が芽生えていく。

トゥール・スレンの所長に就任してからも、ドゥイチは可能な限り公正さを保とうと努力した。彼は、スパイであると自白しない者を処刑することができなかった。そして自らの正しさを証明するために、膨大な供述調書を残したのだ。

そうした調書のひとつには、元電気工の次のような「自白」が記されている。

私はCIAのメンバーではありません。罪状を突きつけられて、CIAだと言ったのです。でも、私は革命に従わなかったのだから、殺してくださるよう〈組織〉にお願いします。〈組織〉がかつて私を信じて下さっていたのだから、私は死に値します。(中略)自分が有罪であることは、はっきり認めます……もうすぐ死ぬのだから。輝ける革命万歳! 革命組織万歳!(デーヴィッド・チャンドラー『ポル・ポト 死の監獄S21』

自ら「殺してくださるよう」お願いし、自分は殺されるから有罪だと「自白」するのがカフカ的不条理とするならば、アメリカ人ジャーナリストのインタビューに答えたドゥイチの次の言葉はさらに重い。

私の罪は、あのころ神ではなく共産主義に仕えたことだった。殺戮の過去を大変後悔している。裁判で死刑にされてもかまわない。私の魂はイエスのものだから。(山田寛『ポル・ポト「革命」史』

ドゥイチは人道に対する罪と戦争犯罪でカンボジア特別法廷に告発され、2010年7月、禁固35年の刑が言い渡された(「違法拘束」期間を差し引いた刑期は19年とされた)。

killing field
囚人たちは畦道に並べられ、後頭部を打ち砕かれて穴に落とされた