北朝鮮は日本から生まれた? 週刊プレイボーイ連載(58)

北朝鮮のミサイル発射実験は失敗に終わりましたが、国際社会の圧力にもかかわらず、核実験やミサイル開発を断念する気配はありません。北朝鮮はなぜ、このような不可解な国になってしまったのでしょう。

もちろん世界には、独裁国家や宗教国家がいくつもあります。とはいえ、革命以来ずっと一党独裁の社会主義体制がつづいているキューバは、いまでは欧米に人気の観光地で国民もずっと開放的です。イスラム教による“神政”が行なわれているイランでも、若者たちはロックバンドを結成し、自由への思いを音楽に託します。北朝鮮は、これら“問題国家”と比べてもあまりにも極端なのです。

朝鮮問題の研究者は、冷戦時代の北朝鮮はそれほど変わった国ではなかったと指摘します。権力者(金日成)の個人崇拝による独裁というのは、中国やソ連をはじめとして、第三世界ではありふれた政治体制だったからです。

北朝鮮が変質しはじめたのは社会主義諸国の停滞が誰の目にも明らかとなった80年代からで、冷戦終焉の激動のなかで、国家の“創業者”である金日成から息子の金正日への権力の世襲(94年)が行なわれました。このとき二代目の権力者は、自らの正統性と無謬性をなんらかの方途で証明しなくてはならなかったのです。

こうして生み出されたのが、首領様(金父子)を脳髄、政府を中枢神経、国民を手足と見なす国家有機体説で、金日成は“神”となり、息子の金正日が教祖として父を祀ることで、国家はひとつの宗教教団のようになっていきました。

国家有機体説は、もともとは19世紀ドイツで唱えられた国家観で、これが伊藤博文などによって明治維新の日本に伝えられました。80年代に北朝鮮の国家体制をつくったのは戦前の日本に留学経験のある政治指導者たちで、彼らは日本の大学で学んだ国家有機体説を翻案して、金王朝の支配を正当化したのです。

戦前の日本では、国体とは現人神である天皇を頂点とする有機体(イエ)のことだとする皇国思想が唱えられました。しかしそれでも明治維新から半世紀の近代化の歴史があり、国民の多くは大正デモクラシーの自由な雰囲気を知っていました。ところが北朝鮮は儒教社会からいきなり日本の植民地となり、それが社会主義独裁体制に引き継がれたことで、より純化した皇国思想ができあがってしまったのです(金正恩への世襲は“万世一系”のグロテスクなパロディです)。

北朝鮮のひとびとは、国家は「社会政治的生命体」で、人民は国家に献身することで神となった金日成から永遠の生命を与えられると“洗脳”されています。これでは国家というよりも、カルト宗教そのものです。

オウム真理教の幹部たちは、教団がフリーメーソンやCIAから迫害を受けており、真理を守るには武装化しかないと信じていました。北朝鮮もまた、飢餓や貧困の原因はアメリカをはじめとする国際社会の陰謀で、核開発はそれに対抗する正当な権利だと国民に説明しています。

北朝鮮が国家ではなくカルトならば、その奇妙な行動も、その結末も、私たちはすでによく知っています。

参考文献:古田博司東アジア・イデオロギーを超えて』

 『週刊プレイボーイ』2012年7月9日発売号
禁・無断転載

Yahoo!ニュースBUSINESSに配信することになりました

昨日(7月12日)より、Yahoo!の新しいコンテンツとして、Yahoo!ニュースBUSINESSが始まりました(プレスリリースはこちら)。いちばんの特徴は、ニュース配信を大手メディアだけでなく個人にも開放したことです。

Yahoo!から専用IDをもらえば、記事入稿ツールを使って、いつでも好きなときに自由にニュースを配信できます。それがロイターや時事通信、ダイヤモンド・オンラインや東洋経済オンライン、Financial TimesやThe Economistと並んでYahoo!ニュースにアップされるのですから、考えてみればスゴいことです。大新聞の「安物の正義」に憤った山本夏彦翁は、自ら「豆朝日新聞」をつくって駅頭で配りましたが、それと同じことがクリックひとつでできてしまうのです。

とはいえ、Yahoo!にニュース配信することは、新聞や通信社と同じ責任を負うということでもあります。Yahoo!は自らをたんなる導管と規定しているので、個人が配信した記事も、いっさいのチェックなしに即座にサイトにアップされます。

新聞社や出版社は原稿の掲載にあたって書き直しを求めたり、あるいは掲載そのものを拒否する権利を保持しており、それが同時に、記事から生じたトラブルに執筆者と共同で責任を取る根拠にもなっています。Yahoo!はこうした権利を保有していないので、法律上の責任がどのように判断されるかはいまだ未知数です(新聞社から配信を受けた写真を理由に賠償を命じられたこの裁判があるだけです)。

このような理由から、当面は集英社から許諾を得た『週刊プレイボーイ』の連載を中心に、単行本の一部抜粋や、過去のエントリーのなからアクセスの多かったものなどを適宜配信していこうと思います。

ニュース配信する個人はこれからどんどん増えていくそうなので、いずれこの新しいツールを活かす思いもよらないイノベーションが生まれてくるかもしれません。「個人のメディア化」の究極の姿ともいえる興味深い試みなので、将来的にはいろいろなことを試してみたいと思います。

私の配信記事一覧はこちらにまとめられています。Facebookからコメントすることや、TwitterをRTすることもできます。みなさんもいろいろ使ってみてください。

書評:ソーシャルファイナンス革命

生きる技術!叢書の安藤さんから、慎泰俊『ソーシャルファイナンス革命』を献本してもらった。とても刺激的な本だったので、ここで紹介したい。

著者の慎泰俊は「しん・てじゅん」と読んで、1981年東京生まれ。朝鮮大学校を卒業後、早稲田大学大学院でファイナンスを学び、モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在は投資ファンドの仕事をしている。同時に、カンボジアやベトナムの貧困層のために「マイクロファイナンスファンド」を企画するNPOを運営してもいるという。

著者自らが書いているように、在日朝鮮人の社会で育つことは、ふつうの日本人とはちょっとちがった体験だ。慎氏が外資系金融機関に勤めるようになると、友人や知人が次々と無心にやってくるようになった。事業を始めるとか、転職や結婚で金がいるとか、実家が急な事情で困っているとか、学校を卒業するために援助してくれとか、理由はさまざまだが、貸したお金はほとんど返ってこず、お金と同時に友情や人間関係まで失うことになったという。それが、慎氏が個人間の少額のお金の貸し借りに関心を持った理由だ。

慎氏はまだ30代はじめだが、私の世代でも、個人間で金銭の貸し借りすることはほとんどない(その数少ない経験でエッセイを1本書いたほどだ)。消費者金融は自分とは無関係の「負け組」が使う高利貸しで、上限金利がどうなろうが、過払い金請求で業者が倒産しようが、誰もなんの関心もない。マイクロファイナンス(少額融資)について真剣に考えるのは、慎氏のように、お金を貸すことの“痛み”を知っているひとだけなのだろう。

この本で慎氏は、ファイナンスの基礎を明快に説明したあと、ソーシャルファイナンス(ひととひととのつながりを利用したお金の貸し借り)はふたつに分けれらると述べる。ひとつが、モハメド・ユヌスがグラミン銀行で行なったマイクロファイナンス。もうひとつが、著者が「P2Pファイナンス」や「クラウドファンディング」と呼ぶ“ファイナンス革命”だ。

本書ではマイクロファイナンスの仕組みや現状、課題などが簡潔に説明されていて、それがコミュニティ(前近代的な共同体)のベタな人間関係を基礎とした“連帯責任”のファイナンスだということがよくわかる。この仕組みはインドやバングラデシュ、メキシコ、ベトナムやカンボジアなどでは大きな成果を挙げ、成功しすぎたために一部では逆に社会問題化している(マイクロファイナンス金融機関が収益を優先して高金利を課したり、強硬な取立てで自殺者が出たりしている)。それに対してアメリカやヨーロッパなどの先進諸国では、さまざまな試みはあってもほとんど機能していない。

ユヌスは、先進国であってもマイクロファイナンスはうまくいくはずで、それを阻んでいるのは生活保護などの過剰な福祉だと批判する。そうした側面もあるかもしれないが、慎氏は、ここにはもっと本質的な問題があるという。インドやバングラデシュとアメリカやヨーロッパ、日本では、社会のかたち(ひととひととのつながり方)がちがうのだ。

マイクロファイナンスは貧困層への無担保融資だが、その返済率がきわめて高いのは、「連帯責任」によって共同体が支援と圧力を加えるからだ。だが私たちが生きているのは後期近代の「自己責任」の社会で、そこではすべてのひとは「自己実現」を目指すべきだとされていて、共同体のための人生にはなんの価値も与えられない。

前近代の共同体が、少人数が深くつながるベタな人間関係だとすれば、後期近代は砂粒のようにばらばらなひとたちが浅くつながる世界だ。だから後期近代のファイナンスは、(前近代の)マイクロファイナンスとはちがうものでなければならないと慎氏はいう。

クラウドファンディングは、インターネットを利用して世界中のたくさんのひとたち(クラウド)から少額のお金を集める仕組みだ。P2P(person-to-person)ファイナンスは、SNS(ソーシャルネットワーク)のプラットフォーム上で、旧来の金融機関を介在させることなく、見知らぬ個人と個人が直接つながるファイナンスのことだ。慎氏は、ICT(情報通信技術)の発達とSNSによって、これまでとはまったく異なるファイナンスの地平を展望する。これはとても魅力的な「革命」のビジョンだ。

ちなみに私は、個人投資家が機関投資家と対等のプレイヤーになる「金融3.0」について書いたことがある(『賢者の投資術』)。ソーシャルファイナンス革命は、「金融3.0」を別の側面から描いたものともいえる。

また『(日本人)』の「UTOPIA」の章で、もし私たちに「夢」があるとするならば、それはICTとSNSが生み出す(かもしれない)新しい価値観(評判社会)しかない、と述べた。共同体のしばりを欠いたソーシャルファイナンスにおいて、返済の担保となるのはSNSの「評判」だ。

もちろん私は、このことで自分の先見の明を誇るつもりはない。私たちは「夢」を奪われた時代を生きていて、おそらくは、誰が考えても同じような場所に行き着くほかないところまで道は狭まっているのだ。

本書のいちばんの魅力は、金融の仕組みについてのクリアな解説でも、未来のファイナンスの予言でもなく、これが「未完」だということだ。まだ30代の著者は、これから自らの実践によって、本書の「続編」を書いていくことになる。それが“世界を変える”innovationになることを期待したい。

PS:とはいえ私は、この「革命」がたんなる幻かもしれないと疑ってもいる。それについては機会をあらためて書いてみたい。