年金の支給開始が70歳になったら、「金融商品」としての損得はどうなるのだろうか?

公的年金の支給開始年齢を70歳に引き上げるという案が話題になった。あまりの反発に民主党は即座に撤回したが、年金財政の悪化を考えれば、早晩復活することは間違いないだろう。

ところで年金の支給が70歳開始になったら、積み立てた保険料と、生涯にわたって受け取ることになる保険金の関係はどうなるのだろうか?

厚生年金や共済年金は所得によって保険料や支給額が変わるので、仕組みの単純な国民年金で計算してみよう。

国民年金は20歳から40年間、保険料を積み立てて、65歳から毎月払い戻しを受ける積み立て型の終身年金だ。保険料は2017年に月額1万6900円まで引き上げられ、それ以後は変わらないことになっているので、毎年の支払額は20万2800円、40年間の総支払額は811万2000円になる。

それに対して受給額(保険金)は月額6万5741円(年78万8892円)で、これが生涯にわたって支払われる。

年金に加入する20歳の若者の平均余命は、男性で59.66年、女性で66.39年だ。年金は65歳から支給されるから、国民年金に加入したばかりの彼らは、平均すれば一生のうちに、男性で14年8ヶ月分、女性で21年5ヶ月分の年金を受け取ることになる。

これはつまり、平均的に生きた場合、男性で約1157万円、女性で約1690万円が国民年金の総受給額になるということだ。 保険料や保険金はインフレ率によって調整されることになっているが、実質利回りは同じになるはずなので、試算としてはこの数字で十分だろう。

40年かけて811万円を積み立て、総額1235万円(男性の場合)を受け取るのは、はたして得なのか、損なのか?

積み立てたお金が1.5倍に増えるのだから得なようにも思えるが、その一方で、40年も保険金を払いつづけ、65歳まで待ったのに、たった1.5倍にしか増えていないともいえそうだ。

そこでEXCELのIRR関数で内部収益率を計算してみると、20歳の若者にとっての国民年金の投資利回りは、男性で年率1.48%、女性で年率2.44%になった(女性の方が利回りが高いのは長生きだからだ)。

国民年金と直接比較可能な金融商品はないが、期間20年の国債の利回りが1.75%なので、これがいちおうの目安になるだろう。

そうすると、20歳の女性(利回り2.44%)が国民年金に加入するのは得だといえそうだが、男性(利回り1.48%)はどうなのだろうか。

これはなかなか難しい問題だけれど、年金は長期の積立型の金融商品で、支給額はインフレ率によって増減する(物価が上がると年金も増える)。そのうえ国民年金の保険料は所得から控除でき、年金を受け取るときにも各種の控除がある。こうしたさまざまなメリットを考慮すると、20歳の男性にも、「国民年金に入った方がいいよ」と勧められるのではないだろうか。

ただし年金の支給年齢が70歳に引き上げられてしまうと、この試算では、20歳の男性の総受給額は839万円で、投資利回りは0.13%まで下がってしまう。これでは保険料を貯金箱に入れて、70歳になったら引き出すのとほとんど同じだ。

将来の若者がじゅうぶんに合理的なら、811万円を40年間で積み立てて70歳から839万円を分割で受け取るような割の悪い投資商品は相手にしないにちがいない。

これは年金が賦課方式で、積立貯蓄ではないことからくる構造的な問題だ。国民年金は個人加入の明朗会計なので、損得が誰にでもすぐにわかってしまう。年金を金融商品と考えるなら、いまの商品設計が許容できるぎりぎりの線だろう。

年金の支給開始を70歳に引き上げたとき、「それだと加入すれば損することになる」といわれたら、厚生労働省はどうこたえるのだろうか。「年金は助け合いだから、損得なんて口にするのも汚らわしい」とか……。

たぶん、そんなことなにも考えてないんだろうな。

上を見れば限りはあるけれど、下を見れば切りがない 週刊プレイボーイ連載(35)

カリブ海の島ジャマイカの首都キングストンにあるトレンチタウンは、ボブ・マーリーの歌によって世界でもっとも有名なスラム街のひとつになりました。“トレンチ”は溝のことで、ダウンタウン周辺のどぶ川が流れる一帯に貧しいひとたちが廃材とトタンで家を建てたのがはじまりです。イギリス人の父と黒人の母親との間に生まれたボブ・マーリーは、父の死で10歳のときにトレンチタウンに移り住み、その体験をもとに“トレンチタウンロック”や“ノー・ウーマン・ノー・クライ”など数々の名曲が生まれました。

昨年末にキングストンを訪れたとき、トレンチタウンの近くを通りかかると、どの路地にも緑色かオレンジ色の小さな旗が掲げられていることに気がつきました。タクシーの運転手に訊くと、これはその地区がどの政党を支持しているのかを表わしているのだといいます。

ジャマイカは人民国民党(PNP)とジャマイカ労働党(JLP)の二大政党制で、オレンジはPNPの、緑はJLPのシンボルカラーです。このふたつの政党は1960年代から交互にジャマイカの政治を担ってきたのですが、両者の政治対立はときにヤクザの抗争のような暴力的なものになりました。

よく知られているのは1976年のボブ・マーリー狙撃事件で、これは与党だったPNP主催の音楽イベント“スマイル・ジャマイカ”に国民的大スターが参加するのを阻止するために、対立組織がキングストンにあるボブの自宅を襲わせたとされています(銃撃により負傷したボブは2日後の音楽祭に参加し、国民の和解を訴えました)。

なぜここまで政治抗争が深刻になるかというと、スラム街を支配するギャングのボスが特定の政党と結託して利権を確保しているからです。どちらの政党が政権の座につくかは彼らにとっては死活問題で、選挙のたびに対立する地区の住人の投票を妨害しようとして乱闘が起きます。ギャングの利権はコカインやマリファナなどの麻薬産業で、キングストンの港が軍の厳重な警戒下にあるのは、80年代に南米の麻薬カルテルがジャマイカをアメリカ市場への積出港に使うようになったからだといいます。

そんな説明をひとしきりした後で、「ところで日本の政治はどうなんだい?」とタクシー運転手から訊かれました。「戦後はずっと同じ政党が政権を持っていたんだけど、つい最近二大政党制になったんだよ」と答えると、彼は不思議そうな顔をします。

「それで、なんで日本人は殺し合わないんだい?」

私たちはずっと、「日本の政治はサイテーだ」という“自虐史観”に悩んできました。しかし戦後の日本人が理想としてきたアメリカでは「ティーパーティー」や「オキュパイ」などの抗議行動が噴出し、ヨーロッパは共通通貨ユーロが崩壊寸前で、移民排斥とEU脱退を掲げる極右政党が支持を伸ばしています。それに対して日本では大規模なデモや社会的混乱もなく、世界の大半の国と比べれば汚職や収賄もきわめてまれです(膨大な財政赤字を抱え込んだため、政党はもはや利権を分配することができなくなってしまいました)。

上を見れば限りはあるけれど、下を見れば切りがない――私たちは、そんな苦いリアリズムの時代を生きているのかもしれません。

 『週刊プレイボーイ』2012年1月23日発売号
禁・無断転載

ボブ・マーリー・ミュージアム。キングストンの数少ない観光スポットのひとつ

第11回 素晴らしきかな、ローン人生(橘玲の世界は損得勘定)

海外のホテルでアメリカのケーブルテレビを観ていたら、「50%more cash(50%もっと現金を)」というCMが耳にこびりついて離れなくなった。ビジネススーツ姿の男性が、「50%キャッシュが増えたら君もうれしいだろ」とネコに語りかけるのだが、それをえんえんと繰り返されると「いったいなんのことだろう」と気になってくる。

そこで調べてみると、これは大手銀行が発行するクレジットカードの宣伝で、買い物するたびに1%のキャッシュバックがあり、さらに1年後には昨年度のキャッシュバックに対して50%の「ボーナス」がつくのだという。

100ドルの買い物で1ドルが口座に加えられ、さらに1年後に50セントのボーナスが加算される。ということは、要するに還元率1.5%のクレジットカードのことだ。

だったらなぜ最初から「1.5%還元」にしないのかというと、「50%more cash」のほうがずっとインパクトがあるからだろう。こうした心理テクニックはいまではものすごく発達していて油断も隙もない。

とはいえここで述べたいのは、クレジットカードの宣伝戦略ではなく、アメリカ人の借金観のことだ。

ずいぶん前の話だけれど、ハワイの公営ゴルフコースでウィスコンシンからやってきた年配の男性といっしょになった。サブプライムローンの全盛期で、テレビをつけるたびに、「低利でローンを借り替えてゆたかになろう」というCMが流れていた。

当時は、初対面の挨拶で、天気の代わりに不動産の話をする時代だった。長年やってきた食料品店を閉じて悠々自適の引退生活を送っているという男性は、私が賃貸暮らしだと知ると、マイホームがいかに有利かをひたすら話しつづけた。

彼によると、最高の人生とはできるだけ大きな借金をして死ぬことだという。

「かんたんな話だよ」と彼はいった。「借金っていうのは、要するに、働かずに大金を手にできる魔法のことなんだ。死ねばどうせすべてチャラになるんだから、銀行をだましてできるだけたくさん金を借りた奴の勝ちなのさ」

そんな彼もすでに2件の家を持ち、今回はハワイの物件を見に来たのだという。

それから2007年にかけて地価はほぼ倍になったから、彼の投資はきっと大成功しただろう。その後の2年間で不動産価格が半分に暴落してどうなったかは知らないが……。

彼が私に教えてくれたのは、田舎町に住む平凡なアメリカ人ですら、「借金は素晴らしい」と信じて疑わないという驚くべき事実だった。この超楽観的人生観こそが、アメリカの消費社会を支える原動力なのだ。

世界金融危機を経て、アメリカではさまざまな社会問題が噴出している。でも「50% more cash」と連呼するCMを見ると、「このひとたちは変わらないなあ」とつくづく思うのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.11:『日経ヴェリタス』2012年1月16日号掲載
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