東京電力には値上げの「権利」がある 週刊プレイボーイ連載(39)

東京電力の値上げ問題で、「料金の申請というのは、われわれ事業者としての義務というか、権利です」という社長の発言が強い批判を浴びています。原発事故で赤字になったのが値上げの理由ですから、利用者が怒るのも当然です。

しかしここでいちど冷静になって、値上げ申請が「義務」や「権利」になるのはなぜかを考えてみましょう。

株式会社は株主を「主権者」とする法人で、日本の会社法においても株主が株式会社の所有者であることは明確です。

株主は、株主総会で自らの利害を代弁する取締役を選任し、取締役は議長(代表)を中心に取締役会を開催して、会社の経営を任せる責任者を決めます。取締役会の代表が「代表取締役」で、取締役会によって任命された経営者が「CEO(最高経営責任者)」です。

この仕組みを国家にたとえるなら、株主は主権者である国民、取締役は選挙で選ばれた国会議員、代表取締役が首相で、官庁という会社を経営する責任者が大臣ということになります。

日本の会社はほとんどの場合、取締役会の議長がCEOを兼ねて「代表取締役社長」になります。もちろんこの一人二役でも、社長が株主に責任を負う仕組みは変わりません。

国家と会社には、ひとつ大きなちがいがあります。国民はさまざまな理由で政治家に投票しますが、投資家が株式を買う理由はたったひとつしかありません。それは、「儲ける」ことです。

東京電力の株主は、電力の安定供給や原発事故の復旧、被災者への補償のために株式を保有しているわけではありません。彼らの要求は、東京電力が1日も早く利益を出して、株主に配当することです。

最高経営責任者の使命は株主利益の最大化ですから、みすみす損をするようなことが許されるはずもなく、値上げ申請は「義務」です。代表取締役は株主の代表者ですから、電気料金を値上げして利益を確保するのは「権利」です。「値上げ申請は義務であり権利」という発言は、社会常識から見ていかに奇妙でも、株式会社の原則に照らせば完全に正しいのです。

ただし東京電力には、原発事故の損害賠償で実質的には巨額の債務超過になっている、という特別な事情があります。政府の資金支援でかろうじて生きながらえているのですから、株主が所有しているのは利益を生まないゾンビ企業です。

だとすれば、この問題の解決はとても簡単です。東京電力を破綻させて国有化してしまえば株主の権利は消滅し、被災者への賠償や利用者負担の軽減を第一に考えることができるようになるでしょう。それが実現しないのは、原発事故の賠償責任を負いたくない政府が民間企業としての東京電力を必要としているからです。

民間企業なら、株式会社のルールに則って、黒字になるまで電力料金を引き上げようとするのは当然です。政府が保有する株式の比率については調整が難航しているようですが、中途半端な”半国有化”では他の株主と利害が対立して混乱するだけです。「権利」や「義務」が間違っていると本気で思うのなら、無駄な生命維持装置を外して、東京電力を本来いるべき場所に還せばいいのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年2月20日発売号
禁・無断転載

純粋な「掛け捨て年金」はどうだろうか?

橋下徹大阪市長が「維新版・船中八策」のなかで、年金の積み立て方式への移行と「掛け捨て年金」を組み合わせる新しい年金制度を主張している。具体的な内容は詳らかになっていないが、年金はじゅうぶんな老後資金がないときのための保険であり、資産家や高所得者には支給しないということらしい。

「船中八策」には首相公選制や参院の廃止など大胆な項目が並んでいて、新自由主義/市場活用型の改革モデルになっている。政党としてはもちろんすべての項目で実現を目指しているのだろうが、議論をすること自体にも意味があると思うので、この耳慣れない年金制度について私見を述べてみたい。

まず原理的にいって、すべての保険は「掛け捨て」だ。もっと簡単にいうと、保険の仕組みは宝くじと同じで、賭けに外れたひとから当せんしたひとに富が移転する。当然、外れを引けば宝くじの購入代金は“賭け捨て”になる。

生命保険というのは「不幸の宝くじ」で、たとえば20年という保険期間を無事に過ごした幸運なひとが「外れ」を引き、事故や病気で死亡したら「当たり」だ。保険料は掛け捨てになるが、誰もが「当せんしないこと」を願っているわけだから、「外れることに意味がある宝くじ」といってもいい。

それに対して積み立て型の年金というのは貯蓄/投資商品の一種で、掛け捨ての保険とは仕組みがちがう。民間保険会社の個人年金は、毎月一定額を積み立てて、規定の年齢(60歳とか)になったらそれを定額で引き出していく。終身年金では途中で死亡しても保険料は掛け捨てにはならず、払った分くらいは戻ってくるのがふつうだ(保険の設計でいろいろな種類がある)。

掛け捨ての年金と積み立て型の年金というのは商品設計が根本的にちがうので、分けて考えたほうがいいだろう。

よく知られているように現行の年金制度は賦課方式で、現役世代が退職世代の年金を支払うかたちになっている。最近は「ねんきん定期便」にこれまで納付した保険料の総額が記載されているが、これは個人財産ではなく、将来の世代が払ってくれるはずの年金のヴァーチャルな原資にすぎない。

少子高齢化がこのまま進めば年金制度は破綻して、このヴァーチャルな原資が消えてしまうのではないかと、多くのひとが心配している。年金制度に対するこの不安が、日本の閉塞感の大きな原因のひとつだ(生活防衛を優先して預貯金を増やそうとするから消費市場も萎縮する)。

年金を積み立て型に変えるのは年金不安への抜本的な解決策で、ヴァーチャルな原資がリアルな資産(法によって所有権の確定した資産)になれば、80歳になってから、「お金がないので年金は払えません。あとは自分で生きていってください」といわれることはなくなる。

だが積み立て型への移行にはひとつ大きな問題があって、現役世代の保険料を個人資産にするには、退職世代が受け取る分の年金(彼らが払った保険料はさらに上の世代の年金として使われてしまった)を新たにファイナンスしなければならない。すでに1000兆円も借金があるのに、年金資金として新たに何百兆円も国債を発行すれば、財政は破綻してしまうだろう。

この問題はずっと前からわかっていたのだから、まだ財政に余裕のあった80年代か、せめて90年代のはじめに年金を積み立て方式に移行しておくべきだった。しかし日本の政治は「決められない」のだから、いまさらいっても詮無いばかりだ。

積み立て型への移行を可能にするためには、少しでもファイナンスの額を減らさなければならない。そこで出てきたのが「掛け捨て」年金なのだろうが、正直、これにはいろいろと疑問がある。

国民年金の未納が問題になっているが、これは制度上、納付するかどうかを保険加入者が選択できるようになっているからだ。そこで、たとえば「65歳時点で資産1億円以上のひとには年金を支給しない」と決めたとすると、親から1億円以上の財産を相続する予定のあるひとは最初から年金に加入しないだろう。それ以外でも、65歳までに1億円を貯める目処がついたひとは順次、制度から脱退していくだろうから、保険加入者は貧しいひとばかりになって制度は破綻してしまう(いわゆる「逆選択」の問題だ)。

それを避けるには、丸損だとわかっているひとからも強制的に保険料を徴収する仕組みが必要だ。これはジョージ・オーウェルの『1984』のような世界だが、「維新の会」はこんな未来を目指しているわけではないだろう。

現実的な方法は、年金保険料を消費税で徴収して、一定の資産/収入以下のひとだけに支給することだろう。これなら年金と生活保護は一体化して行政の効率は上がるだろうが、これまで保険料を納めたひとを納得させるのはきわめて難しい。年金と生活保護を合体させるのは、保険料の納付者(そのなかで一定以上の所得のあるひと)から年金の受給権を取り上げて、保険料を払ってこなかったひとに分配することを意味するからだ。

それではいっそのこと、年金を本来の「掛け捨て」にしてしまったらどうだろう。

純粋な「掛け捨て年金」では、国民は、平均寿命よりも長生きしたときに「当たり」を引く宝くじに参加することになる。この方式では、資金は平均寿命に達する前に死亡したひとから、平均寿命を超えた長寿のひとに移転する。これが掛け捨て年金の最大のメリットで、お金は世代ごとに右から左に移動するだけなので、将来の人口動態にかかわらず絶対に破綻しない。そのうえ掛け捨てだから、保険料は大幅に安くできるだろう。

高齢者の最大の不安は、自分が予想以上に長生きして、お金が尽きて誰にも面倒を見てもらえなくなることだ。長寿が罪悪のようになってしまう社会は、どう考えても間違っている。「掛け捨て年金」は、長寿のリスクに完璧な保険をかけることができるのだから、健康なお年寄りはなんの不安もなく人生を楽しむことができる。

ただしそのためには、すべての国民が、平均寿命までは自己責任で生きていかなければならない(年金保険料が安くなる分、リタイアから平均寿命までは自分で老後資金を積み立てる)。それでも、破綻することが明らかな年金制度に老後を託すよりはるかにマシだと思うのだが、どうだろうか。

PS 高齢になれば病気やケガで働けなくなるひとも増えるだろうから、そのための保険も付加するべきかもしれない。それでも、年金全体を積み立て方式にするより移行費用はずっと安くできるだろう。

「言語明瞭意味不明」の世界で生きるということ 週刊プレイボーイ連載(38)

主張が一貫しないひとは信用されなくなる、という話を前回しました。「前の話とちがうじゃないか」といわれると、私たちは返す言葉がなくなってしまいます。

だとしたら、議論に負けない最強の方法は約束をしないことで、これを「言質をとられない」といいます。

国会審議で、首相や閣僚がのらりくらりと答弁をするのを見ると、この戦略がいかに有効かわかります。かつて「言語明瞭意味不明」といわれた首相がいましたが、日本では相手に言質を与えないことが政治的才能なのです。

それに対して欧米社会では、まったく異なるやり方でこの問題に対処しています。

ひとつは、約束を破ったときにどうするかを、あらかじめお互いが合意しておくことです。契約のなかにキャンセル条項があれば、話がちがっても無用なトラブルが起きるのを防ぐことができます。

もうひとつは権限と責任を一対一で対応させることで、それぞれが責任の範囲で最善を尽くすことを約束します。これはつまり、「私の責任外のことで君が不利益を被っても知らないよ」ということです。

欧米のビジネスマンは、自己紹介のあとにまず、自分はどのような仕事に責任を負っているのかを説明をします。この原則は組織の末端まで貫徹していて、だれもが自分の担当をはっきりと意識しています。

以前、シアトルのホテルにチェックインしたら、部屋にはまだ前の客がいて、出発の準備をしていた、ということがありました。彼らの荷物を運ぶポーターがいたので事情を説明すると、いきなり「それは私の責任ではない」といわれました。「君の責任の話をしているのではなく、どうしたらいいか聞いているんだ」というと、「そんなことはフロントにいってくれ」との返事です。その拒絶の仕方に驚きましたが、ポーターの仕事は荷物の管理で、それ以外のトラブルは自分には関係のないことなのです。

日本では、こういうことはちょっと考えられません。全従業員が、ホテルのすべての出来事に責任を負うのは当然とされているからです。すくなくとも、フロントに電話して対処を依頼するくらいのことはするでしょう。こういうとき、アメリカ人が私たちとまったく異なる原理で行動していることに気づきます。

もちろんこれは、アメリカ人が不親切だということではありません。逆に彼らは、自分の仕事に関しては過剰なくらい親切です。ただ、権限のないことをしないだけなのです。

個人ごとに責任と権限が確定した社会は、私たちから見れば、ぎすぎすとしたイヤな社会かもしれません。いちいち契約書を交わすのは、相手を信用していないようで水臭い感じがします。

だからもちろん、日本的な美風にも意味はあります。

責任や権限をあいまいにしておいたほうが、いろんなことに柔軟に対応できて、うまくいくことも多々あるでしょう。口約束なら、あとで状況が変わってもかんたんに修正できます。

これはきわめて快適な社会ですが、ただそのかわり、あらゆる組織が「言語明瞭意味不明」になって、だれひとり責任をとらなくなってしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年2月13日発売号
禁・無断転載