古代メソポタミアで宗教が生まれ、古代エジプトとペルシアで唯一神が創造された

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年10月8日公開の「これまでの常識を覆される 最終氷河期の終わりのメソポタミアに建造された きわめて高度な「人類最古」の宗教施設”エデンの神殿”の謎」です(一部改変)

新たな情報を加えた「旧約聖書に書かれた「ユダヤ人の起源」は、考古学的に正しいのか?」も合わせてお読みいただければ(一部重複あり)。

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宗教学者レザー・アスランはテヘランに生まれ、イラン革命で家族とともにアメリカに亡命し、子ども時代に神=宗教に魅かれるようになってキリスト教に入信した。ハーバード大学神学大学院などで宗教史を学んだあと、現在はカリフォルニア校リバーサイド校で教鞭をとっている。

歴史上の人物であるイエスと、その後の「創作物」としてのキリストを論じたアスランの『イエス・キリストは実在したのか?』はアメリカで20万部を超えるベストセラーになったが、その理由のひとつはアスランがキリスト教からイスラームに改宗したことだった。それも主流であるスンニ派ではなく、少数派のシーア派のなかのさらにマイノリティである(異端ともされる)スーフィーに帰依していたのだ。

参考:イエスは実在したが、キリスト(救世主)は創作された

新著『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(白須英子訳、文藝春秋)でアスランは、キリスト教やイスラームにとどまらず、人類はどのように“神”の物語をつくってきたのかを論じている。原題は“GOD;A Human Story(神 人類の物語)”。今回はそのなかから、とりわけ興味深かったメソポタミアの神々についての章を紹介してみたい。おそらくこれまでの常識が覆るだろう。

1万4000年前につくられた人類最古の巨大神殿

トルコ南東部、シリア北部との国境から数十キロのところにある古代都市ウルファ(現在のシャンルウルファ)は「エデンの園」と呼ばれている。メソポタミア北部のこの地が、旧訳聖書で描かれたエデンのようにティグリス川、ユーフラテス川を含む4つの川の間に位置することもあるが、より重要なのは、そこから15キロほど北東の高い山の尾根の頂に「ギョベクリ・テペ」があることだ。

ギョベクリ・テペは「太鼓腹の丘」の意味だが、“エデンの神殿”ともされる。なぜならこれが「人類最古」の宗教施設だからで、考古学者は1万4000年前から1万2000年前の最終氷河期の終わりに建造されたと考えている。

この遺跡が考古学者たちを驚かせたのは、先史時代につくられたにもかかわらずきわめて高度な建築物だからだ。それは以下のように描写されている(改行を加えた)。

(ギョベクリ・テペは)モルタルもしくは石でできた20以上の円形もしくは楕円形の大きな石囲いで構成されている。星雲のような渦巻き状のものもある。複数の建造物から成る神殿群は縦横それぞれ300メートルもある。

それぞれの石囲いの中央部分に巨石墓のようなT字型の2つの同形の柱が対になって建てられており、中には高さ5メートル以上、重さ10トンを超えるものもある。中央部の柱には、ライオン、ヒョウ、ハゲワシ、サソリ、クモ、ヘビなどの獰猛な獣や危険な生物が彫り込まれている。旧石器時代の洞窟壁画に見られるような、幻想的な、御しやすい動物は一つもない。

柱には、これらの獣のほかに、複雑な作業を伴う幾何学的な形や抽象的なシンボルの浮彫や彫り込みが見られる。これらは、同等の古代エジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)よりもさらに古い、記号言語の一種であるというのが有力な説になっているが、それらを解読する鍵はまだ見つかっていない。

ここで確認しておきたいのは、この壮大な宗教建築物がメソポタミア(肥沃な三日月地帯)で農耕が始まる“前”につくられたことだ。あらゆる証拠からみて、当時のひとびとがティグリス川やユーフラテス川の畔で狩猟採集生活をしていたことは間違いない。巨石を運ぶのに必要な車輪は発明されておらず、馬や牛のような家畜もいなかった。

さらに驚くべきは、「この場所にだれも住んでいた形跡がない」ことだ。ひとびとは半径百数十キロ以内くらいに分布する村々から旅をして、神殿で行なわれる何らかの祭儀に参加していたらしい。メソポタミアで最初期の農耕文明(ウバイド文化)が始まったのが紀元前6500年頃とされているから、その5000年以上前から神事を執り行なうための純粋な宗教施設が存在していたのだ。

宗教によって農耕が始まった

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、「ホモ・サピエンスの体格は獲物を追うのに適していたが、土地を開墾し畑を耕すのには向いていなかった」として、農業革命を「史上最大の痛ましい経験」だとした。それまで幸福に暮らしていたのに、なぜ農耕などという“苦役”に耐えなくてはならなくなったかというと、更新世終わりの突然の氷河期(ヤンガードリアス)で環境が激変し、狩猟採集で生きていけなくなったからだとされる。

これが現在の定説だが、アスランは考古学的な証拠と整合性がとれないとする。近年では、農耕は「多様な食べ物の入手が可能な、比較的複雑で豊かな社会で、しかも周辺の資源の乏しい地域に囲まれているところで生じている」ことが明らかになってきたからだ。

そこでアスランは、「宗教によって農耕が始まった」との説を唱える。

ギョベクリ・テペのような大規模な宗教建造物を人力だけで完成させるには、相当な労力を投入し、気の遠くなるような年月をかけなくてはならなかっただろう。神殿の周辺に定住の痕跡がないということは、ひとびとが狩猟採集生活をしながら片手間で建設に従事したのではなく、穴を掘ったり石を切り出したりする石工・職人ら多くの労働者が建設現場に集まっていたはずだ。

こうした専門家集団を維持するには、神殿建設作業のあいだずっと、食糧を安定して供給する必要があった。そうなると、周辺の村々から集めた穀物などを運び込んだり、建設現場の近くをうろつく野生の牛やガゼル、イノシシ、アカシカなど仕留めるだけでは、すぐに足りなくなってしまったはずだ。

こうしてひとびとは、より多くの食糧を安定して確保するために、周囲に自生する食用植物の種を撒いたり、捕獲した野生の動物たちを囲いに入れて飼っておくようになったのではないか(これならいつでも殺して食用にできる)。発掘記録によれば、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギはすべて、ギョベクリ・テペのあるトルコ南東部で、神殿建設とほぼ同時期に家畜化されはじめている。宗教=神殿の建設とともに新石器時代の幕が切って落とされたのだ。

*農耕の開始については「わたしたちは文明化によって不幸になったのか」も合わせて参照されたい。

シュメールの人格神

ギョベクリ・テペの古い遺跡では、T字型の柱に横に伸びる腕が彫られ、両腕は各柱の前方で重ねられ、すぐ下方にベルト、もしくは腰布のようなものがあてがわれている。それにもかかわらず、柱の上には「帽子をかぶせるかにように小さな石の塊が載せられている」だけだ。

だがこれは、当時のひとびとの彫刻技術が未熟だったからではない。動物像のなかには細部まで彫り込まれているものもあるのだ(ある柱の側面に彫られたヒョウはあばら骨まではっきり見分けることができる)。

だとすれば、像に顔がなく、目も鼻も口も彫られていないのは意図的なもので、「神の姿をわざと抽象的なものにした」ことになる。先史時代のひとびとが思い描いていた“神”は人間の似姿だったが、人間そのものではなかった。あまりに具象的だと崇高な存在にならないのだ。

宗教の歴史は、最初に太陽や月、奇岩や大木に神が宿るとするアニミズムの「原始宗教」があり、それがギリシアの神々のような人格神になって、やがて洗練された一神教として完成したとされる。だがギョベクリ・テペが明らかにしたのは、ひとびとが最初から人格神を崇拝していたことだ。

しかし、これは当たり前の話だとアスランはいう。神々のことをよく知りたいと思えば、すでにある知識を基盤にする以外にない。ひとびとがもっともよく知っているのは、自分たちのことだ。こうしてごく自然に、神は人間の似姿になっていく。

神々には食べ物が必要だ。なぜなら、私たちに食べ物が必要だからだ。そこで私たちは神々に犠牲を捧げる。神々には私たちと同じように住まいが必要だ。そこで神々のために神殿を建てる。神々にも名前が必要だから、名前を付ける。私たちに個性があるように、神々にも私たちと同じような個性を与える。

神々には私たちの現実社会を根拠とした神話的な歴史や、神々が私たちの世界を経験できるような、一定の形を持った祭儀も必要だ。神々の願いごと(それは私たちの願いごとにほかならない)を成就するための奉仕者や従者、神々の居心地のよさを保つためのしきたりや規則も必要だし、神々の怒りを招かないように祈りや嘆願もしなければならない。つまり、神々が必要としているのは宗教である。そこで私たちはそれを発明することになる。

紀元前4000年頃、ティグリス・ユーフラテス川の下流にあるメソポタミア南部でシュメール人が、水に濡れた粘土板に葦を削った太目のペンで楔型の文字を刻むようになり、「歴史」が始まった。

シュメールの神話からは、ひとびとが“神”をどのようにイメージしていたかがよりはっきりわかる。それによれば、シュメール人の神々は幼時に乳を飲ませてくれる母親から産まれ、成長すると恋をして結婚し、性交し、子どもをつくり、家族とともに家に住んで、血縁関係によって巨大な「聖家族」を形成する(しばしば息子と父親はライバルになっていさかいを起こす)。神々は食事をし、酒も飲み、仕事の不満を述べ、たがいに議論もすれば争いもするし、負傷して死ぬこともある。「もっとわかりやすい言葉でいえば、人間そっくり」なのだ。

“神”はシュメール語で「イルー」と呼ばれたが、それが聖書ではヘブライ語の「エロヒム」、クルアーンではアラビア語の「アッラー」になった。「天界の神々を人間に変貌させていくことによって、私たちは人間を地上の神々へと変貌させていく」のだ。

初期メソポタミア文明は民主社会

ギョベクリ・テペの周辺に定住の形跡がないということは、この宗教施設が周辺地域のさまざまな部族の神々を祀る「中立的」な場所だったことを示唆している。これが万神殿(パンテオン)で、異なる部族が自分たちの神を崇め、現実の部族間抗争を神々の闘いに描象化する多神教は、歴史=文明のはるか以前から存在していた。

それを受け継いだメソポタミア人も多神教信者で、複数の神々を同時に崇拝していた。メソポタミアの万神殿には、太陽神シャマシュ、その妻で光の女神アヤ、癒しの神ダム、知恵の神エンキ、天空神アン(もしくはアヌ)など3000以上の神々が祀られていた。農耕によって富の蓄積が可能になると、エンリル神はニップル市、シン神はウル市、イナンア神はウルク市など、メソポタミアの主だった神々の大半は特定の都市国家と結びつくようになった。

初期のメソポタミアには大規模な都市国家から小規模な共同体まで、壁に囲まれた多くの町があり、それぞれの神々は国家の「格」によって序列化されていた。神話というのは、現実に起きたことを神々の物語に置き換え、権力者の判断や行動を「正当化」することだから、そこから当時の社会を知ることができる。これが「現世政治の神格化(ポリティコモルフィズム)」だ。

それによると、意外なことに、紀元前4000年頃のメソポタミアでは、地上の権利は全面的に王には与えられておらず、自由民の男性全員を含む“総会(青年と長老の共同体)”が法廷のような役割をもち、民事・刑事事件の調停を行なっていたらしい。“総会”は現在の国会のようなもので、外交(他の都市国家とのもめごとの調停)が不調に終わると近隣国家に宣戦布告することもできたし、王を選んだり退位させたりする権威すらもっていた。

初期メソポタミア文明の驚くべき民主的な性格は、『アトラ・ハシース叙事詩』などで、「神々が実に整然と、“民主的”路線に従って組織されている」ことから伺える。神々の集会は次のように描かれているが、これは当時の政治集会そのままだろう。

“高位の神々”であるならば、まず、下位の仲間の神々の近況を把握するためにちょっとおしゃべりをしたり、たがいに抱擁したりする。素早く食べ物にかじりついたり、ワインをカップになみなみと注いだりする。やがてよもやま話が終わると、腰を落ち着けて宇宙の問題を討論する。

これまでの世界史では、民主政(デモクラシー)は古代ギリシアとともに始まったとされるが、これは書き換える必要がありそうだ。

メソポタミアの民主政は、都市国家が合併して巨大な帝国が登場したことによって終わり告げた。帝国の王が地域一帯を支配するようになると、神々の序列も地上の新たな政治的秩序を反映したものに再配列された。

紀元前3000年期の半ば頃、メソポタミア全域に大きな独裁政権が台頭し、伝説の残るアッカド王サルゴンは南部シュメール人の都市国家の大半を征服し、メソポタミアで最初の帝国を建設した。アッカド王国が没落すると、南部にはバビロニア王国、北部にはアッシリア王国が頭角を現わした。

こうした新しい政治的現実は、この時期以降に書かれたメソポタミア神話に反映されることになる。紀元前2000年半ばごろのバビロニアの宇宙開闢神話『エヌマ・エリシュ(昔、高きところに)』では、シュメール時代にはまったく知られていなかったマルドゥクという神が天空の平和と秩序を司り、万神殿の最高位の地位を確保した。アッシリア帝国ではアッシュール神、イシン王朝ではアン神が天界の王になった。

メソポタミアの独立都市国家の自由民たちは、生き延びるために、原初的な民主政を捨て、帝国の王に自分たちの権力(主権)を譲り渡した。それと同時に天界の市民たちも、「比類なき支配者」となった神に従うことになったのだ。

古代エジプトで「発明」された唯一神

メソポタミアや古代エジプトで帝国が誕生したのは、デルタ地帯には遮るものがなく、都市国家同士の統合や征服が容易だったからだろう。それに対してエーゲ海の島々やペロポネソス半島は地形的に統一国家が生まれるのが困難で、これがギリシアで長く民主的な都市国家が維持された理由になった。

このように考えれば、常識とは異なって、古代ギリシアは1万年以上続いた民主制=多神教の歴史の爛熟期になる。ギリシア神話の神々は世俗化・大衆化し、まるでソープオペラ(昼メロ)のように情欲に溺れたり、嫉妬に狂ったりするようになった。

これでは神として崇拝できないとの反発は当時もあったようで、哲学者のタレスは、「自然が一つであるならば、すべてのものを定め、創造するその御心もまた一つであるはずだ」として唯一神を構想している。

だが歴史上、最初の一神教は古代エジプトに突如現われた。紀元前1353年頃に王位に就いたアクエンアテン(アメンホテプ四世)が、自分は「アテン神に出遭った」と宣言して、それまでの神々(北部地方を支配していたラー神や、エジプト南部の都市テーベの守護神だったアモン神)を否定し、「宇宙の唯一神」だけを崇拝するよう命じて大々的な宗教弾圧を始めたのだ。アテン神は天空に浮かぶ目のくらむような太陽円盤で、そこから発する光線が世界のいたるところにいるひとびとすべてに光を放つとされた。

アクエンアテンは、彫像やレリーフでは、長身で手足が長く、細長い顔に尖った顎、垂れ目という奇怪な容姿をしている。有史以来、最初の一神教信者となったこの王は、アテン神以外のいかなる神の崇拝も違法とし、「太陽円盤」を祀る神殿以外のすべての神殿を閉鎖し、神官職を解体した。大規模な軍隊が国じゅうの神々の像を叩きつぶし、公共の記念碑から神々のイメージを鑿(ノミ)で剥ぎ取り、文書からは神々の名を消した。

当然のことながらこの「改革」ははげしい反発を生み、アクエンアテンの死とほぼ同時に彼の宗教も滅び、一神教は異端とされた。彼の息子で事実上の後継者であったトゥトアンクアテン(アテンの生ける似姿)は、異端信仰を払拭しアモン神に回帰するためツタンカーメン(アモンの生ける似姿)に名前を変えた。

初期ゾロアスター教の唯一神信仰

それから2世紀のち(紀元前1100年頃)、唯一神はザラスシュトラ・スピターマというイラン人預言者の教えを通じてふたたび台頭した。当時のアーリア人社会は、マギと呼ばれる高度な宗教儀礼を司る祭祀階級と、それ以外の軍人階級や農民・牧畜民に厳密に分かれる階級社会だった(これがインドのカースト制に引き継がれた)。

ザラスシュトラは祭司階級の出身だったが、20歳の時にすべてを捨てて、イランのステップや谷間を放浪する生活を始めた。そんなある日のこと、イラン北西部のサバーラーン山脈の近くで神聖な春の祭に奉仕していたザラスシュトラは、明け方の式典用の水を汲みに川に入っていったとき、目のくらむような白い光の衝撃を受けた。「彼はそこに当時の万神殿のどこにも見たことのなかった、見慣れない神の姿の幻を見た」という。

これが「最初にして最後の神」「天と地、夜と昼を創生した神」「闇と光を分け、太陽と星々の通り道を決め、月の満ち引きを引き起こした神」で、アフラ・マズダー(英知の主)と呼びなわされたが、これは通り名にすぎずこの神には名前がなかった。

ザラスシュトラが出会った神は、特定の部族にも都市国家にもつながっていないという意味で「比類なき神」だった。その神は、「良い意図、最上の正義、望ましい王国、惜しみなき献身、健康、長寿」の6つの神的存在の顕在化を通してのみ、この世にその独自の存在を知らしめた。ザラスシュトラはこの神から啓示を引き出し、のちに預言者と呼ばれるようになる最初の人物になった。これがゾロアスター教だ。

初期のゾロアスター教では、「光が闇なしには存在し得ないように、善は悪なしには存在し得ない」とされ、善と悪は対立するものではなく、悪は善の副産物とされた。ところがこの高度に抽象的な神学論をひとびとが理解するのは困難で、アケメネス朝ペルシアの国教になる頃には、オフルマズト(アフラ・マズダーの短縮形)の善神と、アフリマンの悪神の二柱の神への信仰となり、善と悪、天国と地獄、天使と悪魔が対立する二元論的宇宙論へと変質していった。

このように唯一神は、ユダヤ人が“ヤハウェ”を生み出す前に、古代エジプトとペルシアで二度「発明」されていた。

「エジプト虜囚」と預言者モーセは“創作”された

最後にユダヤ教(旧約聖書)の起源について、アスランの興味深い解釈を紹介しておこう。

まず「出エジプト」だが、奇妙なことに、古代エジプトにイスラエル人がいたことを示す考古学的証拠は何も出土していない。エジプト新王国時代(モーセの物語の時代)の複雑な官僚制と偏執的な記録保持志向を考慮に入れれば、これは驚くべきことだとアスランはいう。

そのモーセがシナイ山で出会ったとするヤハウェの起源も謎だ。古代近東の神々のリストには何千もの神々の名が含まれているのに、そこに名前が出てこないのだ。

あえて候補を挙げるとすれば、カナン地方(現代のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル・パレスチナからなる東地中海南部)の南に広がる広大な砂漠地帯「ミデヤンの地」で、そこには非セム族の緩やかな部族連合があり、紀元前13世紀にラムセス二世によって建てられた神殿に「ヤハウェの遊牧民の地」の名が見える。これは、エジプトからモーセが逃れたとされる地だ。

旧約聖書によれば、モーセはここで「ミデヤンの祭司」と出会い、その娘ツィポラと結婚し、義父のヒツジの群れを世話して暮らしていたある日、「ヤハウェ」と名乗る得体のしれない神に遭遇する。そして、イスラエル人の奴隷をエジプトから解放し、彼らを率いてカナンの地に帰還するよう命じられる。

だがこの当時、イスラエル人が信仰していたのは「エル」として知られるカナン人の神だった(イスラエルという言葉は、「神(エル)は勝利される」という意味だ)。そこに「ヤハウェ」という異族の神が現われたことで、旧約聖書は起源も特徴もちがう二人の神の物語をひとつにまとめなくてはならなくなった。これが聖書研究者のいうJ資料(ヤハウィスト)とE資料(エロヒスト)で、J資料では神を(英語で)LORD(主)と呼び、E資料ではGod(神)とされた。旧約聖書は、数百年にわたるさまざまな資料から複数の要素をつなぎ合わせて構成されているのだ。

その頃、イスラエル人は一神教信仰者ではなく、(多神教のなかの一人の神「エル」を崇拝する)一神崇拝を行なっていた。カナンの北部地方では何世代にもわたってイスラエル人の多くが「神々の中の最高神」として「エル」を崇拝していたが、カナンのその他の神々も認めたり、時には崇拝したりしていた。そんな彼らにとって、そこにヤハウェを加えることはそれほど難しいことではなかっただろう。

紀元前1050年頃、イスラエルという民族連合が王国になったとき、ヤハウェ=エルもしくはヤハウェ=エロヒムの習合が行なわれ、旧約聖書の英語版ではLord God(主なる神)と訳されるようになった。

ところが紀元前597年にユダ王国の都エルサレムが新バビロニアのネブカドネザル2世に攻略され、神殿は破壊されイスラエル人の宗教・文化エリートがバビロンに連れ去られてしまう。アスランは、最高神ヤハウェ=エルがバビロニアのマルドゥク神に敗れたことで、「バビロニア人の手によるイスラエルの悲惨な敗北を合理化するために」一神教(唯一神)が導入されたのだという。

このように考えれば、バビロン虜囚という「民族的悲劇」が唯一神を生み、その来歴を物語るために「エジプト虜囚」と預言者モーセが“創作”されたことになる。これなら、エジプトにイスラエル人が囚われていた考古学的証拠がなにもないことも説明できるだろう。

それ以外にもアスランは、三位一体のキリスト教の神から、すべてに遍在するイスラームの神、「〈神〉は全存在であり、全存在がすなわち〈神〉である」とするスーフィズムへと「人類と神の物語」をつづっていく。新しい視点から“神”の歴史を概観する刺激的な読書体験になるだろう。

禁・無断転載

誰も口にしない日本社会の構造問題 週刊プレイボーイ連載(586)

岸田政権が支持率低迷で喘いでいます。統一教会問題や派閥の裏金疑惑など、「弱り目に祟り目」ばかり起きていますが、根本的な原因は実質賃金の低下、すなわち日本人がどんどんビンボーになっていることでしょう。

かつて「リフレ派」を名乗る経済学者らは、諸悪の根源はデフレだとして、日銀がどんどんお金を刷ってインフレにすれば日本経済は大復活すると大騒ぎして、日銀総裁を事実上の更迭に追い込みました。ところがどれほど量的緩和しても物価は上がらず、このままずっとデフレが続くと思ったら、新型コロナやロシアのウクライナ侵攻にともなう資源価格の高騰など、中央銀行の政策とは関係のない理由で、2022年からでインフレ基調に変わります。

ところが、ようやくデフレから脱却できそうになったのに、岸田政権はガソリンに補助金を出すなどして物価を抑えようとします。しかしちょっと考えればわかるように、補助金の原資は税金ですから、その分、国民の負担が増えるだけでなんの意味もありません。

だったらなぜこんなことをするかというと、インフレを勘案した実質賃金が18カ月連続で前年割れを続けているからでしょう。食パンや野菜といった購入頻度の高い商品の上昇率は8%に達し、「体感物価」は消費者物価指数よりもずっと悪化しています。電気・ガス代を含めれば10兆円規模の補助金で物価を無理矢理抑えなければ、実質賃金はさらに下がり、デフレ脱却以前に政権が崩壊してしまうのです。

経済学の購買力平価説によれば、相対的に物価が低い国の通貨が上昇するはずですが、実際には高インフレのドルが高くなり、低インフレの円が安くなって、一時は1ドル=150円を超える「超円安」が騒がれました。

その結果、輸入品が高くなるだけでなく、「安いニッポン」に海外から観光客が押し寄せています。1980年代のバブル最盛期に東南アジアに行くと、高級ホテルや高級レストランにいるのは白人と日本人だけでしたが、いまでは国内の5つ星ホテルや3つ星レストランは外国人旅行者でいつもいっぱいです。当時、東南アジアは「発展途上国」と呼ばれましたが、いまでは立場が逆転して日本は「衰退途上国」です。

生活が苦しくなる一方の国民の不満を抑えるために、岸田政権は賃金を上げようと企業に圧力をかけています。これは本来「革新」派の労働組合がやるべきことですが、日本では政府が率先して「組合活動」をしているのです。それに加えて税収増の国民への還元や、多子世帯の大学無償化など、野党が主張してきた政策を次々と採用しているのですから、まるで「あべこべ世界」に迷い込んだようです。

こうした懸命の努力にもかかわらず支持率が上がらないのは、国民がその先に増税や社会保障費の負担増が待ち構えていると恐れているからでしょう。2025年から、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる本格的な超高齢社会が始まります。それを考えれば、一時的な人気取り政策で喜んではいられません。

「増税メガネ」と岸田首相を揶揄するメディアがいわないのは、人口構成は構造問題だということです。首相が代わっても、あるいは野党に政権交代しても、日本社会は「高齢者が多すぎる」という困難な問題を突きつけられることになるのです。

『週刊プレイボーイ』2023年12月18日発売号 禁・無断転載

イエスは実在したが、キリスト(救世主)は創作された

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年12月4日公開の「イエス・キリストは実在したのか?」です(一部改変)

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レザー・アスランは1972年にテヘランで生まれ、7歳のときにイラン革命で両親とともにアメリカに逃れた。「1980年代のアメリカで、ムスリムであることは火星人みたいなものだった」という環境のなかで自分の居場所を探していたアスランは、高校2年生のときにカリフォルニア州の福音伝道キャンプでイエスの物語を聞いてたちまち魅了される。

熱心なクリスチャンとなった彼は大学で宗教史を専攻したが、その頃から聖書の記述と歴史的事実の矛盾に気づくようになった。その後、20年にわたってイエスの実像に迫る研究をつづけたアスランがその成果をまとめたのが『イエス・キリストは実在したのか?』(白須英子訳、文藝春秋)だ。

この本は発売直後から全米でセンセーションを巻き起こし、20万部を超えるベストセラーになった。なぜこれほど評判になったかというと、アスランがキリスト教信仰を捨て去ったあとイスラームに改宗したからだ。

欧米社会(とりわけアメリカ)には、ムスリムにイエスについて客観的で公正な学術研究などできるわけはない、という偏見がある。

本書の刊行直後、アメリカの右派寄りテレビ局「フォックス・ニュース」のキャスター、ローレン・グリーンが「なぜ、ムスリムのあなたがイエスのことを書いたのか?」とアスランに意地悪な質問をした。これに対してアスランは、自分は学位を持つ宗教学者・歴史学者として歴史上の人物としてのイエスを研究してきたと説明したうえで、「キリスト教徒の学者がイスラームの歴史やその始祖ムハンマドについて書いてはいけない、あるいは書けるはずがないと決めつけるのがおかしいのと同様、ムスリムがイエスのことを書くことを疑問視するのは妥当ではないのではないか」と反論した(本書の翻訳者、白須英子氏の「訳者あとがき」より)。このインタビューが大きな反響を呼び、アスランはすっかり時のひとになった。

処女懐胎は後世のつくり話

原書のタイトルは『ZEALOT』で、「狂信者」とか「熱狂者」の意味だ。副題は「ナザレのイエスの人生と時代」という素っ気ないものだが、日本版の『イエス・キリストは実在したのか?』も間違いとはいえない。アスランの主張は、「イエスは実在したが、キリスト(救世主)は創作された」というものだからだ。

新約聖書では、聖母マリアが処女のままイエスを懐妊したことになっている。こんなことは現実にはあり得ないから、これをどう解釈するかで古来、侃々諤々の議論が行なわれてきた。

私が知るなかでもっとも大胆な説はイギリスの進化心理学者ニコラス・ハンフリーによるもので、マリアはヨセフと結婚したときすでに別の男性と性的関係があり、妊娠していたというものだ。当時はこのようなふしだらはとうてい許されないから、マリアは夫に対し、「自分は処女のまま懐妊したのだ」と言い張るしかなかった。イエスはものごころついたときから「神から授かった子ども」と母親にいわれつづけ、自分が特別な存在だと思うようになった……(『喪失と獲得』垂水雄二訳、紀伊國屋書店)。

だがこの魅力的な(というか不謹慎な)解釈は歴史的事実とは異なるようだ。本書によれば、生前のイエスに対して彼が処女から生まれたと考えるひとはいなかった。その理由は単純で、イエスには複数のきょうだいがいたからだ。

イエスに「義人ヤコブ」と呼ばれる弟がいたことは文献的に明らかで、それ以外にヨセフ、シモン、ユダという兄弟と、福音書では触れられているが名前も数もわからない姉妹がいたらしい。兄が磔刑に処せられたあと、ヤコブが使徒とともにエルサレムでイエスの教団を継いだことも間違いない。

だが同時に、アスランはイエスの出生に不審な点があることにも言及している。

イエスがはじめて故郷のナザレで説教を始めた頃、聴衆の一人が「この人はマリアの息子か?」とつぶやいた。ユダヤ人の男児を「ヨセフの息子」ではなく「マリアの息子」と呼ぶことはふつうは考えられない。ここから聖書学者のあいだでは、イエス私生児説だけでなく「ヨセフはもともと実在していない」との説も唱えられた。

イエスの生涯についてのもうひとつの謎は、彼が既婚者だったかどうかだ。新約聖書にはイエスが結婚していたという記述はないが、当時のユダヤ社会では30歳を過ぎた男性が妻帯していないということはほとんど考えられなかった。イエスは修道僧ではなく世俗の預言者なのだから、妻や子どもがいたとしてもおかしくはない。

だがアスランが述べるように、こうしたことはすべて推測の域を出ない。イエスの名がローマ世界で広く知られるようになったのは死後100年以上たってからで、パレスチナの地にあまたいたZEALOT(狂信者)のことなど生前は誰も興味を持っていなかったし、後世に書き伝えようとも思わなかったからだ。

ユダヤ人はなぜ「寛容なローマ」に反抗したのか

アスランは、イエスが生きた当時のユダヤ社会は「革命前夜」の熱狂に包まれていたという。

紀元後6年、ナザレのイエスの誕生とほぼ同時期にユダヤは正式にローマの属州となった。当時のユダヤ人の生活はエルサレムの大神殿が中心だったが、大祭司はローマ人総督と癒着して私腹を肥やし、ほしいままに振る舞っていた。

神殿は奴隷たちが耕す広大な領地を有する「封建国家」で、ユダヤ人から徴収される神殿税や巡礼者からの膨大な供物、神殿内で商売を許された商人や両替商からの上納金などでその歳入は巨額のものになった。

敬虔なユダヤ教徒は祭司貴族階級の堕落を批判し、ローマから「神の土地」を取り戻すことを求めた。こうした「ユダヤ原理主義の過激派」がZEALOTで、洗礼者ヨハネに影響を受けて宣教活動を始めたイエスもその一人だった。

イエスはローマ総督ピラトによって紀元30~33年頃にゴルゴダの丘で十字架にかけられるが、これはローマ帝国ではありふれた処刑方で、反抗者への見せしめとして街角、劇場、丘の上、高台など目立つ場所ならどこにでも十字架が立てられた。ユダヤ人がローマ支配に抵抗するようになると処刑者の数も増え、ゴルゴダの丘には十字架が林立していた。イエスの死も、やはりありふれたものだった。

当時の革命的熱狂は、イエスの死後、ユダヤの地で起きた出来事を見るだけでも明らかだ。紀元36年に「サマリア人」と呼ばれる預言者が蜂起を起こし、44年にはテウダの蜂起があり、56年には神殿の大祭司ヨナタンが暗殺される。

それ以降も57年に「エジプト人」と呼ばれる預言者の蜂起があり、66年にはついにユダヤ全土が蜂起してエルサレムからローマ人を追放する。これが「革命」の頂点で、70年にはローマの大軍によってエルサレムは陥落し、神殿も徹底的に破壊されてしまうのだ(このユダヤ人蜂起の中心になったのがZealot Party(熱心党)と呼ばれるユダヤ原理主義者の過激派グループだ)。

ユダヤ人がローマに反抗したのは、圧政に苦しんだからではない。ローマ人の支配は植民地の宗教に寛大で、ユダヤ教徒の奇妙な慣習や律法の厳格な遵守、計りしれない強烈な優越感も大目に見られてきた。それではなぜ、ユダヤ人は勝ち目のない反抗を繰り返したのか。それは、神が彼らのために選んだ土地に外国人が一人でもいることを許さないからだ。

旧約聖書によれば、ユダヤ人がはじめてこの地にやってきたとき、出会った人間は男も女も、子どももすべて虐殺し、雄牛、山羊、羊は手当たり次第に殺し、すべての農場、畑、穀物、生き物を例外なしに焼き払えと神が命じた。

「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民の属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない」
「あなたの神、主が命じられたように必ず滅びつくさねばならない」(「申命記」20章16‐17節)

聖書では、ユダヤ軍が「息のあるものをことごとく滅びつくした」あとでやっと、神は入植を許した。だがその聖なる土地はいまやローマの偶像崇拝者に占領され、大祭司は総督の雇い人となってその片棒をかついでいる。

「昔の英雄たちなら、そのような屈辱と堕落をどう受け止めるであろうか?」とアスランは問う。そのこたえは一つしかない。

――彼らならこの土地を血の海にするであろう。彼らなら、異教徒の頭を砕き、彼らの偶像を焼き払い、彼らの妻や子を虐殺するであろう。彼らなら、イスラエルの神に、天から戦車に乗って突如現われ、罪深い民族を踏みつけ、山々を神の怒りで身悶えさせてくれと頼むであろう。

大祭司はわずかな金と虚栄心のために神に選ばれた民をローマに売った裏切り者だ。そんな輩は抹殺してしまわなければならないのだ。

イエスは暴力革命家(ZEALOT)の一人

紀元30年、イエスは驢馬に乗り「ああ救いたまえ!(ホサナ)」と叫ぶ群衆を従えてエルサレムに入場した。その翌日、弟子とともに「異邦人の庭」と呼ばれる教会の神殿に入ったイエスは、両替商のテーブルをひっくり返し、食べ物や土産物を売る露天商を追い払い、生贄に用意されていた羊を放し、鳥かごを開けて鳩を逃がした。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの正典福音書すべてに書かれているこの名高い事件は、イエスが暴力革命をも辞さないZEALOTであったことのなによりの証だとアスランはいう。

だが新約聖書からはイエスのこうした暴力性はきれいに消えてしまう。その代わりに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」の言葉に象徴されるように、イエスはローマ帝国の地上の権力を容認したことになった。だがこの解釈は、イエス本来の意図とはまったくちがう。

エルサレム当局から「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか」と問われたイエスは、皇帝の名前と肖像が彫り込まれたディナリオン硬貨を指差して、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」といった。なぜなら、皇帝の偶像が彫られた硬貨は神とはなんの関係もないからだ。だとすればその硬貨は、皇帝のものとするほかはない。

それに対して、ユダヤの土地は神のものである(「土地はわたしのものである」〈「レビ記」25章23節〉。ローマ皇帝はその土地となんの関係もないのだから、ローマ人はユダヤから立ち去らなくてはならない。「神のものは神に返しなさい」との言葉は征服者であるローマにとって許すことのできないZEALOTの論理で、イエスが磔刑に処せられたのは当然だった――アスランはこのようにいう。

それではなぜ、イエスの死後、異なる解釈が流布されるようになるのか。それは、サウルという一人の野心家が現われたからだ。

「キリスト」を創作したパウロ

熱心なユダヤ教徒(ファリサイ派)であったサウルはある日、目が眩むような光とともに「わたしはイエスだ」との声を聞き、視力を失ってしまう。だがアナニアというイエスの信奉者が彼の上に手を置くとたちまちサウルの視力は回復した。この奇跡によってサウルは回心し、名をパウロと変えてイエスの教えを伝えはじめた。

だがパウロの宣教は、イエスの弟ヤコブに率いられたエルサレムのイエス教団とはまったく異なっていた。

この頃、イエスの教えはエルサレムのユダヤ人と、ローマ帝国各地に離散したユダヤ人(ディアスポラ)のあいだで広まっていた。前者は正統派、後者は分派で、そこに対立や軋轢があたったとしても、あくまでも「ユダヤ人の王」を奉じるユダヤ人の宗教だった。ところがパウロは、ユダヤ人ではなく異邦人たちにイエスの教えを説いたのだ。

パウロはなぜ、異邦人を相手にしたのか。

このときはまだ十二使徒が存命しており、エルサレムにはイエスの弟「義人ヤコブ」がいた。ユダヤ人への宣教では、パウロはイエス教団の末端の一人にしかなれなかった。だが宣教の相手を異邦人にすれば、パウロは(異邦人に布教した)イエスの「最初の使徒」になれるのだ。

こうしてパウロは、イエスの教えを異邦人にも受け入れられるよう大胆に改変していく。とりわけ「モーセの律法」を「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」(「コリントの信徒への手紙Ⅱ」3章7-8節)と否定したことはイエス教団の幹部たちを仰天させた。

パウロが宣教を始めて10年ほどたった紀元50年頃、その異端を見逃せなくなったヤコブはエルサレムにパウロを呼び出して厳しく糾弾した。だがパウロは自説を頑として譲らず、ヤコブは対抗上、パウロが信者を集めていた土地に自分の息のかかった伝道者を送り込みはじめた。パウロの最大の拠点であるローマでその任を任されたのが十二使徒の一人ペトロだ。

パウロはイエス教団の傍流であり、どれほど「信徒への手紙」を書いても、ヤコブやペトロなどの正統派の攻勢を跳ね返すことはできなかった。このまま時が過ぎれば、パウロの教えはイエス教団の異端のひとつとして歴史のなかに埋もれてしまったかもしれない。

しかしここで、予想もしないことが起きる。イエス教団の神殿への批判を疎ましく思った大祭司アナヌスによって、紀元62年にイエスの弟であるヤコブが処刑されてしまう。さらに紀元64年のローマ大火の首謀者として、皇帝ネロがローマの伝道の中心だったパウロとペトロを処刑してしまった。それに加えて紀元70年には、ユダヤ人の反乱への報復としてエルサレムが灰燼に帰してしまう。こうして「イエス」の関係者がすべていなくなってしまうと、ローマ帝国に残された信徒たちはイエスの教えのなかから都合のいいものだけを取り出して、布教のしやすい物語――すなわち「キリスト(救世主)の物語」を自由に創作できるようになったのだ。

イエスは「愛」を説き、すべての「悪」はユダヤ人に押しつけられた

紀元70年にエルサレムが壊滅すると、キリスト教の宣教運動は古代ギリシアの影響を受けた地中海沿岸のアレクサンドリア、コリント、エフェソ、ダマスカス、アンティオキア、ローマなどに移り、非ユダヤ人信奉者の数がユダヤ人信奉者を上回るようになった。諸福音書が書かれた1世紀の終わりごろには、宣教の主な対象はローマの知識エリートになっていた。

ZEALOTであるイエスはこのときすでに、「愛」を説き救済を約束するメシアへと変貌していた。だがこの教えをローマ人に布教する際には、そのメシアを殺したのがローマ人総督ピラトだという歴史的事実がどうしても問題になる。そこで福音書作者はこの事実を巧妙に書き換え、ピラトを免責しようとする。

紀元90年頃にダマスカスで書かれた「マタイによる福音書」では、ピラトはイエスの死にいかなる責任もないしるしとして、群集の前で手を洗い、ユダヤ人たちに対し、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と注げる(「マタイ」27章1-26節)。

マタイと同じ頃、アンティオキアで執筆していたルカは、ピラトに「あなたたちは、この男を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪は何も見つからなかった。(中略)この男は死刑にあたるようなことは何もしていない」(「ルカ」23章13-15節)と語らせている。

さらにヨハネは、血に飢えたユダヤ人の説得の失敗したピラトがやむなくイエスを十字架にかけるとき、イエスは「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と語ったとして、すべての責任をユダヤ人に押しつけてピラトの罪を許す(「ヨハネ」19章1-16節)。

こうした「創作」によって、「イエス=キリスト(メシア)の死に責任を負うのはユダヤ人であってローマ人ではない」という都合のいい筋立てができあがっていった。

こうしてキリスト教はローマ帝国の国教となり、カトリックや正教の教会は権力と繁栄を謳歌するが、その代わりすべての「悪」を担わされたユダヤ人は厳しい差別にさらされ、それはやがてナチスによるホロコーストへとつながっていくのだ。

ここで述べたことはアスランの独創ではなく、近年の聖書学の知見に基づいた“標準的な”歴史解釈のひとつだ。日本では新約聖書学者の田川健三氏が『イエスという男』(作品社)などで同様のテキスト批判を行なっているので、両者の見解を比較してみてもいいだろう。

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