尖閣問題は未来永劫つづいていく 週刊プレイボーイ連載(61)

石原東京都知事が尖閣諸島購入の意向を明らかにしたことで、日中間の緊張が増しています。このやっかいな問題について目新しい提案ができるわけではありませんが、ここではなぜ領土問題の解決が困難なのかを考えてみましょう。

国家のもっとも重要な役割は、国民のために「国益」を守ることだとされています。当然だと思うでしょうが、「国益とはいったいなにか」を問われるとこたえに窮してしまいます。

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題では、参加を阻止することが日本の国益だと主張するひとたちがたくさんいます。彼らの主張では、TPPはアメリカの陰謀で、日本が加盟すれば農業は壊滅し、医療保険は崩壊し、金融市場は外資に乗っ取られてしまうのです。

それに対して、TPPに参加することが日本の国益だというひとたちもいます。彼らは、市場がますますグローバル化するなかで日本だけが貿易自由化に反対していては、いずれ世界の孤児になってしまうと警告します。

原発問題でも、「国益」をめぐって議論は激しく対立しています。

原発反対派のひとたちは、原発の再稼動をひとつでも認めれば国民の生命が危険にさらされると危機感を募らせます。その一方で、電気料金の大幅値上げによって国内の製造業が壊滅し、空洞化で雇用が海外に流出してしまうと考えるひともいます。

消費税問題はどうでしょう。

増税に反対するひとたちは、日銀が国債を引き受けて市場に大量のマネーを供給すれば日本経済はデフレの病を克服し、ふたたび経済成長できると主張します。消費税引き上げを支持するひとは、そんなことをすれば国家財政が破綻して、日本はギリシアのように極東の貧しい国に落ちぶれてしまうといいます。

このように、あるひとにとっての国益は、別のひとにとっては亡国の道です。両者は激しく憎み合っていて、妥協はもちろん話し合うことすらありません。

現代の政治学では、「国益」というのは国家の名を借りた「私益」のことだとされています。

TPPで安い外国産農産物が流入する農家にとっては参加阻止が国益で、外国企業と同じ条件で競争したい製造業にとっては早期の参加が国益です。増税で年金や医療などの社会保障を維持することが国益だと考えるひともいれば、徹底した歳出削減によって税金を引き下げることが国益のひともいるでしょう。

しかし国益のなかに、ただひとつだけ国民の全員が同意するものがあります。それが領土です。

「北方領土は返ってこなくていい」とか、「日中友好のために尖閣諸島は中国に割譲しろ」と主張する日本人はいません。国民の利害が多様化し、政治的な対立が先鋭化するなかで、領土こそが国家をひとつにまとめるかすがいになるのです。

しかしこのことは、領土問題が原理的に解決不可能なことを教えてもくれます。ロシアや中国の国内でも私益が激しく対立して、権力の基盤を揺るがしています。だからこそ、“唯一絶対”の国益である領土問題ではわずかたりとも譲歩できないのです。

東京都が購入しようが、日本政府が国有化しようが、尖閣問題が解決することはありません。国家が存在するかぎり、領土をめぐる対立は未来永劫つづいていくのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年8月6日発売号
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第18回 欧州で光る移民のレストラン(橘玲の世界は損得勘定)

ロンドンのヒースローは、世界でいちばん評判の悪い空港のひとつだ。

いちばんの理由は入国審査官がいじわるなことだ。

ヨーロッパはシlェンゲン協定によって国境を自由化したが、ドーバー海峡という“自然の防壁”があるイギリスは協定に加盟せず、不法移民の流入を水際で阻止しようと頑張っている。入国審査では目的や滞在地などをねちねちと聞かれ、到着便が重なると長蛇の列ができる。ヒドいときは3時間待ちになり、旅行者から皮肉の拍手が起きたと新聞記事になるほどだ(ロンドン五輪を目前にして、最近は多少改善されたようだ)。

ようやくの思いで入国審査を通過しても、こんどはロンドン市内への交通の便が悪い。空港のインフォメーションでホテルへの行き方を教えてもらったのだが、けっきょく各駅停車の地下鉄に乗り、コヴェント・ガーデン駅でスーツケースを引っ張り上げ、霧雨のなか石畳の道をホテルまで歩くことになった。せっかくの五つ星ホテルなのに、これではバックパッカーが安宿に向かうみたいだ。

ホテルにチェックインすると、次の悩みはレストランだ。ロンドンは、パブやスポーツバーで鯨飲するにはいい町だが、ローストビーフとフィッシュ・アンド・チップスばかり食べてはいられない。

しかしこのやっかいな問題は、インド料理店に行くことで解決する。ロンドンにはたくさんのインド系移民がいて、パキスタンやバングラデシュから南インドまで、本場のインド料理をリーズナブルな価格で提供してくれるのだ(チャイナタウンを勧めるひともいるが、中華料理は日本や中国・香港・台湾で食べられるのであまり行ったことがない)。

こうした事情はロンドンだけでなく、ほかの大都市でも同じだ。パリは「美食の都」といわれるが、高級レストランの料理の値段はほとんどが家賃と人件費で、裕福で見栄っ張りな観光客を相手に商売している。パリにはアルジェリアやチュニジアからの移民が多く、地元の食通は安くておいしい北アフリカ料理の店にいく(「フランス料理を食べるならベルギーに行け」といわれる)。

ドイツ料理もジャガイモとソーセージのイメージしかないが、いまではどの町にもトルコ料理やギリシア料理のおいしい店がある。アムステルダムなら、オランダの旧植民地だったインドネシアやスリランカ料理の店を探すといい。

移民のレストランが安くておいしい秘密は、人件費率が小さく競争が激しいからだ。安い時給でも国ではエリート並みの給料で、土日も休まず働けば故郷に豪邸が建つ。内外価格差を利用すると、移民の低賃金労働がWin-Winの関係になるのだ。

どの国も不法移民には頭を悩ませているが、それでもヨーロッパはますます多民族化している。翌日、ロンドン郊外に向かう電車に乗ると、乗客の8割は中国系、ロシア系、アラブ系などで、英語を話すのは少数派だった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.18:『日経ヴェリタス』2012年7月22日号掲載
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