世界を数学的に把握する者たち

新刊『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)の「はじめに 世界を数学的に把握する者たち」を出版社の許可を得て掲載します。3月19日(火)発売ですが、一部の書店さんではすでに店頭に並んでいるようです。見かけたら手に取ってみてください(電子書籍Audibleも同日発売です)。

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乗っていた飛行機が乱気流に巻き込まれ、思わず叫び声をあげたことはないだろうか。

このとき、隣に座っていた乗客が、「ちょっと計算してみたんですが、この飛行機が墜落する確率は0.001%以下で、無視してかまいませんよ」といったら、あなたは「世界を支配する秘密結社」のメンバーの一人にたまたま出会ったことになる。

秘密結社といっても、フリーメーソンやイルミナティ、ディープステイトのことではない。こんなとき、次の数式を頭に浮かべている者たちのことだ。

これはベイズの定理で、ある状況が変化したとき、確率がどのように更新されるかを表わしている。

P は確率(Probability)の頭文字で、P(M|D)は「飛行機がひどく揺れていると仮定した場合の墜落の確率」。それを計算するには「なにも起きていない段階で、飛行機が墜落する統計的確率(1000万分の1)」「墜落する前にひどい揺れが起きる確
率(これは間違いないので確率1=100%)」「無事に着陸できるのにひどく揺れる確率(このような統計はすぐに手に入らないので、主観的に100分の1とする)」があればいい。これをベイズの数式にあてはめると、この飛行機が墜落する確率が10万分の1で、無事に着陸できる確率が99.999%であることがわかる(1)。

ベイズの定理がいっていることは、直観的にも説明できる。「統計的にものすごく低い確率でしか起こらないこと(飛行機の墜落)に、なんらかの要因(乱気流)が加わって確率がすこし上がったとしても、ヒドいこと(墜落)はやっぱりものすごく低い確率でしか起こらない」のだ。

ここまでは凡人でも理解できるだろうが、世の中にはこのようなとき、ごく自然にベイズの数式を呼び出し、それに数字をあてはめて計算し、どのように判断・行動するかを決めるひとがいる。それが「世界を数学的に把握する者たち」であり、本書の主人公である「テクノ・リバタリアン」だ。

リバタリアンは「自由原理主義者」のことで、道徳的・政治的価値のなかで自由をもっとも重要だと考える。そのなかできわめて高い論理・数学的知能をもつのがテクノ・リバタリアンで、現代におけるその代表がイーロン・マスクとピーター・ティールだ。

数学者のデイヴィッド・サンプターは、「成功、幸福、富などを与えてくれる10の数式(ベイズの定理もこのなかに含まれる)」を知る者たちを「TEN」と呼び、その暗号を解き秘密の数式を自在に操ることで世界を支配しているという(2)。

その集団、いうなれば秘密結社は、実は何世紀も前から存在する。その秘密結社のメンバーたちは、代々自分たちの知識を後世に伝えてきた。そんな彼らは行政、金融、学界、そして最近ではテクノロジー企業の世界で実権を握り、一般人に紛れて過ごしつつも、私たちにこっそりと力強い助言を送り、時には私たちを陰で操ってさえいる。一般の人々が心から手に入れたいと望む秘密を見つけ出し、裕福で、満ち足りた、自信満々な人生を送っている。

TENはデータを数学的にモデル化し、パターンを見つけてシグナル(必要な情報)とノイズ(不要なゴミ)を見分ける特殊な能力をもっている。だがこれは、世界の真実を知っているということではない。重要なのは、平均よりも精度の高い(現実をうまく説明する)モデルをもっていることだ。

カジノがビッグビジネスになるのは、自分たちが51%の確率で勝ち、客が49%の確率でしか勝てないビジネスモデルを構築したからだ。これなら、巨大な施設をつくって巨額の宣伝費を投じ、多くのギャンブラーを集めることで確実に儲けられる(実際には、カジノの客の勝率はもっと低いだろう)。

それに対して、ラスベガスとウォール街を攻略した数学者で「最強のハッカー」でもあるエドワード・ソープは、カジノの人気ゲームであるブラックジャックのバグを発見し、「カードカウンティング」によって51%以上の確率で勝てることを数学的に証明した(しかもそれを論文として公開した)(3)。その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の学生たちがブラックジャックチームという「秘密結社」をつくり、カードカウンティングによって全米のカジノを荒らしまわり、巨額の富を手にすることになる(4)。

TENの特殊な能力が成功に結びつくのは、わたしたちが生きているのが「知識社会」で、高い知能をもつ者に大きなアドバンテージが与えられるからだ。しかも、世界がよりゆたかに、より平和になるにしたがって、彼ら/彼女たちのパワーはますます強まっている。

戦争や内乱では武力が、貧しい社会では身分のような既得権が生き残るために必須だが、世界がゆたかで平和になればこれらは無用の長物になり、人種や国籍、出自、性別、性的指向などとは関係なく、一人ひとりの能力だけが公正に評価されるようになる。リベラルな社会の根幹をなすこの原理がメリトクラシーだ。

伝統的なムラ社会のしがらみが色濃く残る日本に比べて、「人工国家」であるアメリカは純化した知識社会で、その可能性に魅せられて世界じゅうからTENが引き寄せられてくる。こうして、シリコンバレーという唯一無二の特別な場所が生まれた。

日本では残念なことに、いまだに「思想」というと孔子や仏陀やプラトン、カントやマルクス、あるいは1980年代に流行したポストモダンのフランス思想のことだと思われているが、科学とテクノロジーの水準が指数関数的(エクスポネンシャル)に高度化したことで、これらはすべて過去の遺物になった(進化論を無視して人間や社会を語ることになんの意味があるのか)。

その結果、いまや世界を変える思想はリバタリアニズムだけになっている。このように言い切れるのは、Google、Amazon、Meta(Facebook)などプラットフォーマーの創業者、チャットGPTなどのAI(人工知能)や、ビットコインなどで使われるブロックチェーンの開発者がみなテクノ・リバタリアンだからだ。

そんな特殊能力をもつ「ミュータント」たちは、わたしたちをどのような世界に導いていくのか? 本書ではこの問いを考えてみたい。

なぜなら、未来について語るのに、これ以外に真剣に考えるべきことなど存在しないからだ。

(1) ベイズの定理のうち、分子のP(M)はなにも起きていないときに墜落する統計的確率、P(D|M)は飛行機がこれから墜落すると仮定した場合にひどく揺れる確率で、両者を掛け合わせることで2つの事象が両方とも成り立つ確率が求められる。分母はこれに補集合を加えたもので、起こりうるすべてのケースの和を表わす。PMc)は飛行機が墜落しない統計的確率、P(D|Mc)は墜落しないのにひどく揺れる確率。
(2) デイヴィッド・サンプター『世界を支配する人々だけが知っている10の方程式  成功と権力を手にするための数学講座』千葉敏生訳/光文社
(3) エドワード・O・ソープ『天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す 偶然を支配した男のギャンブルと投資の戦略』望月衛訳、ダイヤモンド社
(4) ベン・メズリック『ラス・ヴェガスをブッつぶせ!』真崎義博訳、アスペクト

橘玲『テクノ・リバタリアン』文春新書

禁・無断転載

『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』発売のお知らせ

文春新書より『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』が発売されます。発売日は3月19日(火)ですが、本日が搬入なので、都内の大手書店ではこの週末に並んでいるところもあるかもしれません。 Amazonでも予約できます(電子書籍Audibleも同日発売です)。

書店で見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。

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そこは楽園か、ディストピアか?
シリコンバレーの天才たちが希求する「数学的に正しい統治」とは?

アメリカのIT企業家の資産総額は上位10数名だけで1兆ドルを超え、日本のGDPの25%にも達する。いまや国家に匹敵する莫大な富と強力なテクノロジーを独占する彼らは、「究極の自由」が約束された社会――既存の国家も民主主義も超越した、数学的に正しい統治――の実現を待ち望んでいる。
いわば「ハイテク自由至上主義」と呼べる哲学を信奉する彼らによって、今後の世界がどう変わりうるのか?

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私はずっと、日本ではリバタリアニズムが不当に無視されていることを不思議に思っていました。いまやリバタリアニズムは、指数関数的(エクスポネンシャル)に高度化する強大なテクノロジーのちからを背景に、テクノ・リバタリアニズムとなって現実に世界を変えつつあるからです。

本書ではイーロン・マスクピーター・ティールの第一世代と、サム・アルトマン(オープンAI)とヴィタリック・ブテリン(イーサリアム)の第二世代を中心に、世界を数学的に最適化しようとする彼らの思想を論じています。

クリプト(暗号)アナキズムの「(西部開拓時代のような)究極の自由」と、総督府功利主義による「管理された(監視社会の)自由」は対立しあうのではなく、一卵性双生児のような関係になっています。「自由」と「監視」はコインの裏表なのです。

ーーというようなことを書きました。ご一読いただければ幸いです。

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『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』【目次】

はじめに  世界を数学的に把握する者たち
PART0        4つの政治思想を30分で理解する
PART1   マスクとティール
PART2   クリプト・アナキズム
PART3   総督府功利主義
PARTX   世界の根本法則と人類の未来
あとがき  「自由」を恐れ、「合理性」を憎む日本人

「生涯現役」社会の不都合な事実 週刊プレイボーイ連載(595)

「何歳まで働くつもりですか?」という調査で、「70歳以上」との回答が39%(「70~74歳」21%、「75歳以上」18%)と過去最高になりました。「定年後は年金をもらって悠々自適」が当たり前だった日本でも、生涯現役へと大きく価値観が変わっていることがわかります。

「いつまでも元気に働く」ために大事なのは、健康とスキルです。医療技術の進歩によって平均寿命だけでなく健康寿命も延びていますが、スキルがなければ雇ってもらえないかもしれません。そこで注目を集めているのがリスキリング、すなわち職業教育です。

しかし、何歳になっても新しいスキルを身につけることができるのでしょうか? 70歳を過ぎてからプログラミングを勉強しはじめ、81歳でスマホ向けのアプリを開発し、アップルのティム・クックCEOから「世界最高齢のアプリ開発者」と紹介された日本人女性がいますが、誰もが真似できることではないでしょう。

「職業訓練は効果があるのか」という疑問は、すでに半世紀前に大規模な社会実験が行なわれています。

ジョン・F・ケネディ大統領時代のアメリカでは、工場移転や鉱山閉鎖によって多くの労働者が職を失うことが社会問題になっていました。そこで連邦政府は職業訓練制度を創設し、1963年~71年に約200万人のアメリカ人が受講しました。

その後、経済学者がこの制度を評価しましたが、労働者の所得が上がった形跡は一部で見られたものの、費用対効果があったかどうかの判断は難しいという結果になりました。この制度が当初、とくに呑み込みが早い層の再訓練を重視し、その後、呑み込みが遅い層に軸足を移したものの、後者では多くの脱落者が出たからです。

それ以降、アメリカ政府はさまざまな雇用・職業訓練制度を導入していますが、多くの制度は効果の判定が困難です。最近、文献レビューを行なった経済学者も、「効果はまちまちだが、やや失望を招く結果が出た」と述べています。

ここからわかるのは、成人への再訓練は埋もれた人材を発掘する効果はあるものの、適性に欠けた労働者の訓練に税を投入しても、コストに見合うリターンは期待できないということでしょう。すくなくとも、あらゆる政策が「やりっぱなし」の日本に比べて、こうした“不都合な事実”を検証しようとするアメリカは立派です。

では、大学が行なっているリカレント(学び直し)教育はどうでしょうか? これはイギリスのデータですが、社会人向けの(学位を授与しない)教育プログラムの数は大幅に増加したものの、2004年から16年のあいだに学生数はほぼ半減しています。

こちらの場合は理由が明らかで、リカレント教育を受けてもその実績が再就職に反映されず、授業料に見合うメリットがないからです。日本でも事情は同じで、社会人向けの講座はカルチャーセンターのような“趣味”と見なされ、履歴書に書いてもほとんど評価されないでしょう。

けっきょくところ、あわてて「生涯現役」に対処しようとするのではなく、40代、あるいは50代までに汎用的・専門的なスキルと経験を身につけておかなくてはならないという、当たり前の話になるようです。

参考「70歳以降も働く、最多39% 将来不安「経済」が7割」日本経済新聞2024年2月18日
カール・B・フレイ『テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス』村井章子、大野一訳/日経BP

『週刊プレイボーイ』2024年3月4日発売号 禁・無断転載