わたしたちはポスト・トゥルースの陰謀世界に放り込まれていく(『DD論』あとがき)

8月26日(月)発売の新刊『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)の「あとがき わたしたちはポスト・トゥルースの陰謀世界に放り込まれていく」を出版社の許可を得て掲載します。書店の店頭で見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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本書のPart4「『正義』の名を騙る者たち」に収録した2本の記事のうち、「マイナ騒動は『老人ファシズム』である。『紙の保険証残せ』はエセ正義」が『週刊文春』に掲載されたのは、テレビ、新聞、ネットニュースなどで連日のようにマイナ保険証問題が大きく報じられていたときでした。それを「老人ファシズム」と決めつけたのですから、さすがに編集部からも「これは叩かれるかもしれませんね」といわれました。

しかし蓋を開けてみると、この記事についての批判はもちろん、言及されることすらありませんでした。掲載されたのが「文春砲」を連発していた週刊誌なので、気づかなかったということはさすがにないでしょう。

そのときわかったのは、メディアはもともとマイナ保険証についてまともに議論する気などまったくなかったということです。「高齢者の不安を煽るな」といいながら、マイナ保険証がいかに危険かという話で読者・視聴者の不安を煽ることが目的だったのでしょう。

その後、マイナ保険証への常軌を逸した報道は収束していきますが、メディアにとって私の記事は「KY(空気を読まない)」だったようです。せっかく政権批判で気分よく盛り上がっているときに、「行政をデジタル化しないで、紙とFAXだけでどうやってこれからの超高齢社会を運営できるのか」などという“マジな話”をされると興覚めだ、というのが本音だったのです。

「自ら道徳的責任を引き受けた藤島ジュリー景子こそまっとうだ」は『サンデー毎日』に掲載され、WEBなどでよく読まれた記事です。NHKの元理事やフジテレビの女性プロデューサーがジャニーズ事務所の顧問・取締役になっていることは一部のメディアが報じましたが、「ジャニーズ問題の検証」では、他局や新聞も含めこの事実にはいっさい触れようとしません。それにもかかわらず、(旧)ジャニーズ事務所に対し、検証と説明責任が足りないと批判するのは、いったいどういう神経をしているのかと思います。

メディアの偽善がもっともよく表われているのが、子宮頸がん(HPV)ワクチンに対する報道です。医療ジャーナリストの村中璃子さんは『10万個の子宮』(平凡社)で、事実に基づかない反ワクチンの煽情的な報道によって接種率が約7割から1%以下まで下がり、それによってHPV(ヒトパピローマウイルス)に感染した10万人の女性の子宮が失われると警鐘を鳴らしました。

2015年、名古屋市で子宮頸がんワクチンの副反応を調べる7万人の疫学調査が行なわれました。これは国政時代にサリドマイドやエイズなどの薬害の悲惨さを知った河村たかし名古屋市長が「被害者の会」の要望で実施したものですが、名古屋市立大学による検証結果は、「ワクチンを打っていない女性でも同様な症状は出るし、その割合は24症例中15症例で接種者より多い」という驚くべき内容でした。

しかしこの“事実(ファクト)”は、被害者団体の「圧力」によって公表できなくなってしまいます。そしてメディアは、このことを知っていながらも、反ワクチン派と一緒になって科学的な証拠(エビデンス)を握りつぶしたのです。

村中さんの『10万個の子宮』では、子宮頸がんで反ワクチン報道をしたメディアとしてNHK、TBS、朝日新聞、毎日新聞が名指しで批判されています。ここで強調しておくべきは、これらのメディアが“リベラル”を自称しており、森友学園や加計学園など安倍晋三元総理が関係する“疑惑”について、もっとも声高に検証と説明責任を要求していたことです。だとしたら、自分たちが(10万人が子宮頸がんに罹患するという)巨大な人災を引き起こしたことへの検証と説明責任を率先して果たすかと思えば、そんな報道などまったくしていなかったように振る舞い、最近では「HPVワクチンを接種しよう」などという啓発記事を載せる厚顔ぶりです。

いまさらいうようなことではないでしょうが、メディアにとって「正義」は他人(権力)を批判する道具で、報道とは読者を扇動してお金を稼ぐビジネスなのでしょう。これでは、ジャーナリズムの価値は地に落ち、どこにも「真実」はなくなってしまいます。

ファクト(事実)が「オルタナティブファクト」に置き換えられ、「現実世界が融解していく」ことについて、インターネットやSNSばかりが犯人扱いされますが、その背景にはご都合主義的な報道によってメディアへの信頼感が失われつつある現状があります。正統派のジャーナリズムがポピュリズムに屈していくのは、自業自得なのです。

このようにしてわたしたちは、ポスト・トゥルースの陰謀世界に放り込まれていくのでしょう。

2024年8月 橘 玲

 

パリ五輪のボクシング女子ではなにが問題となったのか? 週刊プレイボーイ連載(613)  

パリ五輪のボクシング女子で金メダルを獲得した選手の「性別」をめぐって、世界的な論争が起きています。

渦中にいるのは、アルジェリア(66キロ級)と台湾(57キロ級)の選手で、ともに昨年の世界選手権で、国際ボクシング協会(IBA)から、「ジェンダー適格性資格検査」で不合格になったとして、参加資格を取り消されています。

東京五輪では女子重量挙げ87キロ超級に、男性から女性に性別移行した選手がはじめて出場しました。国際オリンピック委員会(IOC)は2人のボクシング選手について、「トランスジェンダー問題ではない」と述べるだけで、「だったらなにが問題なのか」を説明しないため、憶測による批判や反発がさらに過激化しているようにも見えます。

よく知られているように、女はXX型の、男はXY型の性染色体をもちます。しかしこれだけで、単純に性別が決まるわけではありません。

Y染色体は胎児の精巣を発達させ、そこから分泌されるテストステロンが身体的・心理的な男の特徴を発達させます。性の基本は女なので、テストステロンの刺激がなければ、(「女性ホルモン」の影響がなくても)ごく自然に女の特徴をもつようになります。

10万人に2人とされる「アンドロゲン不応症」では、胎児の精巣からテストステロンが分泌されるものの、遺伝的な変異によって、細胞がそれに反応することができません。その結果、外生殖器だけでなく体形や性格も典型的な女性として成長しますが、思春期になっても生理がないため、専門医を受診してはじめて、子宮や卵巣がなく膣がどこにもつながっていないことがわかるのです。――性自認は女性で、多くは男性と結婚して養子を迎え、家庭を築きます。

一方、5-αリダクターゼ欠損症では、胎児の男性化に必要な強力なテストステロンが産生できないため、女性の外生殖器をもって生まれてきますが、思春期になると精巣から高濃度のテストステロンが分泌され、男性化が始まります。それまでは本人もまわりも女だと思っていたのに、わずか数年で陰唇が陰嚢に変化し、18歳で外生殖器を含め、健康で健常な男に変わった例もあります。性にはゆらぎがあり、性染色体だけで男か女かを判断することはできないのです。

スポーツ競技の出場資格で問題になるのは、アンドロゲン不応症でも、一定程度、テストステロンの影響を受ける場合があることと、5—αリダクターゼ欠損症でも、思春期の男性化を受け入れるのではなく、これまでどおり女性として生きていきたいひとたちがいることです。

こうしたケースでは、女性の上限値よりも高濃度のテストステロンにさらされることで、骨格や筋力が男性並みに発達している可能性があります。こうした選手を、「定型発達」の女子選手と競わせることがはたして公平なのかが、今回の議論の本質でしょう。

ある集団への「寛容」や「多様性」が、別の集団の「自分らしさ」を侵害したとき、どのように調停するのか。「自分らしく生きる」ことを至上の価値とするリベラルな社会は、この問いへの解をもっていないのです。

参考:キャロル・フーベン『テストステロン ヒトを分け、支配する物質』坪井貴司訳/化学同人

『週刊プレイボーイ』2024年8月19日発売号 禁・無断転載

「どっちもどっち」と「わたしが正義」(『DD論』まえがき)

本日発売の新刊『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)の「はじめに 「どっちもどっち」と「わたしが正義」」を出版社の許可を得て掲載します。書店の店頭で見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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私のささやかな体験から話を始めましょう。

2018年6月に朝日新聞出版から『朝日ぎらい』という新書を出したのですが、その直後にAmazonに匿名で「自民党や安倍政権を「保守」層だと言ってる時点でリベラルではなく極左から見た視点での話でしかない」という星1つのレビューが投稿されました。

このレビューが奇妙なのは、私がこの本で「安倍政権は「保守」ではなく、若者から見れば「リベラル」だ」と述べているからです。私はそれまで、レビューというのは本を読んでから書くものだと思っていましたが、このときはじめて本を読まずにレビューするひとがいることを知りました。

しかし、驚いたのはそれだけではありません。レビューが投稿されたAmazonの紹介ページには、いちばん目立つところにこの本の目次が紹介されていて、そこには「PART1 「リベラル」と「保守」が逆転する不思議の国」のあとに、「1 安倍政権はリベラル」という見出しが載っているのです。この匿名レビュアーは、本を読んでいないだけでなく、本の紹介ページすら見ずにレビューを書いたのです。

この当時はレビューにコメントをつけることができたので、たちまち読者から「この本には安倍政権が保守だなんて書いてない(本を読まずに勝手なレビューを書くな)」という批判が相次ぎました。――投稿したレビューは自分で削除することもできますが、そのようなことをする気はないようで、このレビューは現在も読むことができます。

しかしいちばん驚いたのは、このコメント欄にさらに別の人物が、オリジナルのレビューに賛意を示したうえで、「安倍政権はなぜ保守ではないのか」を滔々と論じた長い文章を投稿したことです(残念ながら、このコメントは現在では読むことができません)。

もういちど状況を整理しておくと、「安倍政権はリベラル」と書いてある本に「安倍政権を保守だというのは極左だ」という星1つのレビューが投稿され、多くのコメントがそれを批判しているにもかかわらず、そのコメント欄に「(本はもちろん目次すら読んでいない)このレビューは卓見だ」として自説を長々と書き連ねるひとが現われたのです。

私はそれを見て、困惑するというよりも、現実が融解するような不気味さを感じました。私の本に対して評価や批判をするのがもちろん自由ですが、このひとたちは、「朝日新聞出版から出た『朝日ぎらい』という本には、朝日新聞を“反日”だと批判してきた自分たちを貶めたり、侮辱したりすることが書かれているにちがいない」という前提(妄想)から始まって、そこから架空の事実(この著者は安倍政権が保守だという誤った理解をしている)をつくり出し、そのオルタナティブな(もうひとつの)世界のなかで、えんえんと自説を論じているのです。――念のためにいっておくと、『朝日ぎらい』は「朝日新聞が嫌われるのには理由がある」ということを書いた本です。

それからこの奇妙な体験がずっと心の片隅に引っかかっていたのですが、「世界はディープステイト(闇の政府)に支配されていて、トランプはそれと戦っている」というQアノンの陰謀論を取材したアメリカのジャーナリストの本(ウィル・ソマー『Qアノンの正体 陰謀論が世界を揺るがす』〈西川美樹訳/秦正樹解説/河出書房新社〉、マイク・ロスチャイルド『陰謀論はなぜ生まれるのか Qアノンとソーシャルメディア』〈烏谷昌幸、昇亜美子訳/慶應義塾大学出版会〉)を読んでいて、(私の体験とはスケールがぜんぜんちがいますが)彼らがまったく同じ不気味さにとらわれていることに気づきました。

同じ事実を共有していて、間違った論理を信じているのなら、正しい論理で説得することは可能でしょう。しかし、異なる事実の世界を生きているひとに対しては、どのような説得も不可能です。

自分が生きている世界が幻想だ(なんの意味もない)という〝ファクト〟を受け入れたら、生きている意味は消失し、アイデンティティは崩壊してしまうでしょう。これはとてつもない恐怖なので、どんなことをしてでもオルタナティブな事実(ファクト)にしがみつくしかないのです。

アメリカはもちろん日本にも、あなたとはちがう世界(オルタナティブワールド)を生きているひとたちが、あなたが思っている以上にたくさんいるのです。

「DD」はアイドルオタクのあいだで使われるネットスラングで、複数の「推し」がいる「だれでも大好き」をいい、特定のアイドルを推すことと比較されます。「誰推し?」と訊かれて「わたしはDD」と答えるのでしょう。

ところがその後、「DD」はネット上の議論に転用されます。こちらは「どっちもどっち」の略で、双方に言い分があるという立場です。それに対して、「わたしが正義」だと主張し、悪を〝糾弾〟する立場を「善悪二元論」と呼びましょう。

善悪二元論の原理主義者は、自分たちの側(正義)に立つのか、それとも相手(悪)を擁護するのか、旗幟を鮮明にするようDD派に迫ります。それに対してDD派は、「世の中、そんな単純なことばかりじゃないんだよ」と反論するでしょう。

ささいな日常の諍いから国家間の戦争まで、なんらかのトラブルが起きると、わたしたちは無意識のうちに善と悪を決めようとします。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だということから説明できるでしょう。人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代には、食料はきわめて貴重だったので、脳はできるだけ資源を節約するように進化したはずです。

脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかりますが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済みます。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直観的な思考に「快感」を覚えるようになりました。これが、すべての対立を善悪二元論に還元して判断することが〝デフォルト〟になった進化的な理由です。

ここでQアノンを、演繹と帰納で説明してみましょう。中学校で習ったように、演繹法とは「一般的・普遍的な前提から個別的・特殊的な結論を得る論理的推論」と定義されます。公理(論証抜きで真だと仮定される根本命題)が決まれば、そこから論理的にさまざまな定理を導き出すことができます。

それに対して帰納法は、演繹とは逆に、「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な法則を導く論理的推論」のことです。そのため帰納法では、「真理」には到達できず、さまざまな推論のなかからより確からしいものを選ぶことができるだけです。

演繹と帰納は科学を進歩させる両輪ですが、脳にとっては演繹の方が認知資源のコストが低く、帰納の方がコストが高く感じられるでしょう。帰納法では、最初にたくさんのデータを集め、そのデータをもっともうまく説明する理論を試行錯誤で探していかなくてはなりません。それに対して演繹法では、ひとたび公理を決めてしまえば、それ以外はすべて論理的に決まるのです。

キリスト教では聖書の記述から「太陽は地球の周りを回っている」と解釈してきたので、天動説がずっと公理でした。そこから演繹的にさまざまな法則(定理)を導き出してきたのですが、16世紀になって天体の観測が進むと、天動説では説明できない現象が次々と見つかります。たとえば火星は、速度が上がったり落ちたり、ときには逆戻りしたりしていたのです。

そこで天文学者は、この矛盾を説明するために四苦八苦し、多くの難解な修正を加えるのですが、やがてコペルニクスが大胆にも太陽中心説を唱え、ケプラーとニュートンが、太陽を中心に惑星が楕円軌道を描いていると仮定することで、すべての矛盾がきれいに解消できることを証明したのです。

このように科学では、演繹法は個々の事実によって検証され、整合性のない公理(仮定)は捨て去られていきます。ところが陰謀論では、自分にとって都合のいい公理(真理)を最初に設定すると、それを証明する(ように見える)“事実”だけを集めて別の現実をつくり出していきます。この「もうひとつの世界」を構成するのが、「オルタナティブファクト(もうひとつの事実)」です。

Qアノンの陰謀論では、「世界はディープステイトに支配されている」という公理がまず先にあって、政治家や高官のなにげない発言や政治的にささいな出来事から「隠されたメッセージ」を読み取ろうとします。これがワクチン陰謀論と結びつくと、「ワクチンにはマイクロチップが入っていて、ひとびとを操ろうとしている」という荒唐無稽な“事実”が演繹的に導かれてしまうのです。

人間(脳)は、その構造上、自分を中心に世界を理解するしかありません。ここから、「特別な自分には、特別なことが起きて当たり前」という錯覚が生じ、当たるはずのない宝くじを買ったり、ネット詐欺に簡単にだまされたりします。

この錯覚は、「自分が特別でないのは、誰かがそれを邪魔しているからだ」という方向に歪んでいくこともよくあります。こうなると、身近な人間を攻撃したり、アニメ会社に火をつけたり、陰謀論にはまったりするようになるのです。

近年になって陰謀論が目立つようになったひとつの理由は、世界がますます複雑になり、ひとびとの多様な価値観(アイデンティティ)が衝突するようになったからでしょう。

もうひとつは、あまり大きな声ではいえませんが、事実に基づいて世界を帰納的に構築していくだけの認知的な能力のあるひとが一定数しかいないからです。その結果、多くのひとが「自分にとっての(安易な)真実」を発見し、そこから演繹的に構築した世界観をSNSで拡散させることで、社会が混乱していくのです。

本書では、このような視点から日本と世界のさまざまな出来事を論じました。共通しているのは、「善」と「悪」は単純に決められず、あらゆるものごとが次第に「DD(どっちもどっち)」的になっていくことです。

DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットではつねに「態度をはっきりさせろ」と批判されますが、世界は単純な善悪二元論でできているわけではありません。対立する当事者はいずれも、自分が「善」だと主張するのですから、第三者に善悪を簡単に判断できるようなことが例外なのです。ところが、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられないひとは、このことを頑として認めようとしません。

さらに“不都合な事実”は、「解決できる問題はすでに解決している」ということです。わたしたちが対処しなくてはならないのは、解決がものすごく難しいか、原理的に解決が困難な問題ばかりなのです。

しかしその一方で、すべてをDD化(相対化)してしまうと、よって立つ基盤がなくなり、社会が液状化してしまいます。なにが正しいのかわからないような世界は不安で、ほとんどのひとは生きていくことができないでしょう。

このようにしてわたしたちは、DDと善悪二元論のあいだを振り子のように往復することになります。「Part0 DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ」では、2つの世界的な大事件(ロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・ハマス戦争)でこのことを確認したうえで、日本社会の最大のタブーである「犠牲者意識ナショナリズムとしてのヒロシマ」を論じてみたいと思います。