グローバル資本主義に抵抗するアートも資本主義化していく

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年5月10日公開の「ニューヨークで生まれた「武器としての文化」が
やがて権力に取り込まれディストピアになるまで」です(一部改変)。

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今回は、ネイトー・トンプソンの『文化戦争 やわらかいプロパガンダがあなたを支配する』(大沢章子訳/ ‎ 春秋社)を紹介したい。

本書の原題は“Culture as Weapon The Art of Influence in Everyday Life”で、『武器しての文化 日常に潜む影響力のアート』になる。著者のトンプソンは、「ニューヨークでもっとも刺激的かつ著名な芸術家集団「クリエイティブ・タイム」のチーフ・キュレーター」で、現代アートの最先端にいるひとだ。本書の面白さは、そんなトンプソンが現場の視点から、反権力のはずのアートが権力(政治や資本主義)に奉仕する現状をシニカルに分析していることにある。 続きを読む →

「日本人はできない」という自虐史観から決別しよう 週刊プレイボーイ連載(598)

同性婚を認めないのは憲法に反するとした訴訟で、札幌高裁が違憲の判断をしました。

憲法24条では婚姻について、「両性の合意のみに基づいて成立する」としていますが、判決では、目的も踏まえて解釈すれば「人と人との自由な結びつきとしての婚姻を定めている」として、同性間の婚姻も異性間と同じ程度に保障されるとしました。

「法の下の平等」を定めた憲法14条についても、異性間の婚姻は認めているのに同性間には許さないのは「性的指向を理由とした合理性を欠く差別的取り扱い」だと述べています。同じ日に行なわれた東京地裁の6件目の裁判でも、現行制度は「違憲状態」と判断されており、最高裁もこうした判断を覆すのは難しいでしょう。

夫婦別姓については、最高裁はいまも現行制度が合憲であるとの判断を維持していますが、2021年には裁判官15人のうち4人が「不当な国家介入」などで違憲と判断し、徐々に外堀が埋まってきています。また労働者の待遇格差についても、「同一労働同一賃金」の原則が徹底され、合理的な理由がなく、たんに「非正規だから」「契約社員だから」などの理由で手当や有給休暇を提供しないのは違法とされました。

日本社会の価値観も世界と同じくリベラル化しており、世論調査では国民の過半数が同性婚や夫婦別姓を支持していて、とりわけ若者層では8割に達しています。「自分らしく生きる」ことが至上の価値とされる社会では、ジェンダーや性的指向を理由に個人のアイデンティティを否定することはものすごく嫌われるのです。

日本は近代のふりをした身分制社会なので、いたるところに先輩/後輩の序列と、正規/非正規のような「身分」が出てきて、敬語や謙譲語は目上/目下が決まらないと正しく使えません。しかしこれではどんどんグローバルな価値観から脱落し、「ネトウヨ国家」になってしまいます。

興味深いのは、政治家がリベラル化の潮流をほとんど理解していないのに対して、日本では司法が牽引して社会を変えつつあることです。これは法律家が、合理的に説明できないものを支持できないからでしょう。

同じ仕事をしているのに待遇が違うのはおかしいとの訴えに、「あなたの身分が低いから」とはさすがにいえないでしょう。保守派は同性婚を認めると社会が壊れるといいますが、これは同性婚を導入した多くの国で問題なく社会が運営されていることを説明できません。

日本では右派がこれまで、歴史教科書の「自虐史観」をきびしく批判してきました。しかしなぜか、「海外で行なわれていることが、日本人にはできない」という自虐的な主張をして同性婚や夫婦別姓に反対しています。

しかしこれは保守派だけでなく、ウーバーなどのライドシェアは世界中で使われているのに、なぜか日本では「犯罪が多発する」とされます。さらに世界では共同親権が主流になっているのに、リベラル派は日本で導入すると元夫によるDVの温床になると反対しています。日本人は犯罪者で、日本の男が暴力的というのは、控え目にいっても差別・偏見の類でしょう。

世界のひとたちがふつうにやっていることは、日本人だってできるでしょう。そういう常識に基づいて、合理的な社会をつくっていきたいものです。

参考:「婚姻の自由 同性婚も」朝日新聞2024年3月15日

『週刊プレイボーイ』2024年4月1日発売号 禁・無断転載

測定は重要だが、過剰な測定は破壊的な問題を引き起こす

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年4月16日公開の「「測定され、報酬が与えられるものはすべて改竄される」 測定への過剰な執着が生む「測りすぎ」の時代の弊害とは?」です(一部改変)。

eamesBot/Shutterstock

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近代ヨーロッパの知性史、資本主義の歴史を専門とする歴史学者ジェリー・Z・ミュラーが『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』( 松本裕訳/みすず書房)を書いたのは、私立大学で学科長を務めた経験からだった。

アメリカの大学は10年ごとに「米国中部高等教育委員会」のような認定組織によって評価を受けなければならないが、その測定基準を増やすようにという報告書が発表された。それによってミュラーは、「もっと多くの統計的情報を求めるアンケート」に応えるため、研究や教育、職員の指導といった仕事に使える時間を取られてしまった。そればかりか、卒業生の実績を評価する新しい尺度のために、それまで以上に多くのデータ専門家を雇わなければならなくなった(その後、評価専門の統括責任者を任命するまでになった)。

これだけの努力とコストをかけたにもかかわらず、大量のデータの大部分はこれといった使い道もなく、実際、誰も見ていなかった。「実績の文書化という文化がいったん定着してしまうと、学科長たちは一種のデータ競争のようなものに巻き込まれていった」のだ。

この体験をきっかけに、ミュラーは「時間と労力の無駄遣い」を生み出す力についてもっと深く調べてみようと思った。本書の原題は“The Tyranny of Metrics(測定の専制)”で、「今の時代に広まっている、そしてますます多く組織に浸透しつつある実績の測定とそれに対する報酬という文化」がテーマだ。 続きを読む →