民主政治の基盤である納税を会社に一任して、不思議とも思わない国 週刊プレイボーイ連載(617)

自民党総裁選に出馬表明した河野太郎デジタル相が、年末調整を廃止し「すべての国民に確定申告していただきます」とSNSに投稿をしたことが、ネットニュースで話題になっています。

よく知られているように、会社員は給与から税・社会保険料を源泉徴収されています。このうち、社会保険料は支払額が確定していますが、所得税は扶養家族が増えたり、生命保険料控除などの各種控除を受けることで、払い過ぎが生じることがあります。年末調整はこれを計算し、還付を請求する手続きです。

アメリカでも給与からの源泉徴収は行なわれていますが、還付の計算は年度末に各自が行ない、タックスリターン(確定申告)は国民の一大イベントになっています。アメリカ人はこれによって、納税者としての自覚をもつようになるのです。

ところが日本では、サラリーマンの確定申告を会社に丸投げするという“イノベーション”によって、経理部に必要書類を提出するだけで還付の計算をしてもらえます。しかしこれでは、「納税者」であるにもかかわらず、自分の納税額すらちゃんと把握していないことになってしまいます。

それ以外にも、年末調整にはさまざまな批判があります。

ひとつは、国が会社をタダで使っていることです。徴税は国の仕事なのだから、それを民間事業者にアウトソースするのなら、相応の対価を支払うべきだというのです。

計算を簡便にするために、仕事の内容にかかわらず、給与所得控除を一律に決めているのも大きな矛盾でしょう。働き方が多様化すれば、仕事に必要な経費は一人ひとりちがってくるはずです。

より重要なのは、控除を受けるためには、家庭の状況を会社に伝えなければならないことです。結婚や出産ならいいではないか、と思うかもしれませんが、離婚したり、家族が障害者になったり、知られたくないこともあるでしょう。しかし、こうした情報がないと会社は正しい計算ができません(年末調整せずに、確定申告で還付を受けることは可能です)。

これが問題にならなかったのは、日本社会では会社は「イエ」であり、“家族”である社員のプライベートな情報を集めることに違和感がなかったからでしょう。しかしこうした価値観は、大きく変わっています。

近代的な市民社会は、有権者が民主的な手続きによって税金の使い方を決めることで成り立っています。そのため税の専門家からは、これまでも「源泉徴収はともかく、年末調整は廃止すべきだ」という意見がありました。「国民全員が確定申告する」という河野氏の主張は、その意味ではきわめてまっとうです。

それにもかかわらず、ネットには「面倒くさい」「裏金を暴かれた仕返し」などの批判があふれ、メディアもそれを面白おかしく報じるだけということに、日本の「民主主義」のレベルが象徴されています。

もうひとつ、やはり総裁選に出馬した石破茂氏が富裕層の金融所得課税を提案して批判されましたが、富裕税はアメリカでいうなら民主党左派(レフト)の主張です。そのような政策が自民党から出てくるのも、この国の不思議なところでしょう。

『週刊プレイボーイ』2024年9月16日発売号 禁・無断転載

「イスラム国」を目指すヨーロッパの若い女性たち

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年9月28日公開の「ヨーロッパの若い女性がISに渡ろうとする理由とその末路」です(一部改変)。

Streamlight Studios/Shutterstock

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イラク領土内においては、イラク軍、クルド軍、米軍の共同作戦によるIS(イスラム国)支配地の奪還作戦がほぼ完了し、世界の注目はクルドの独立問題に移っている。だがISが残したさまざまな傷跡は、いまもほとんどが放置されたままだ。

イラク内のISの中心都市モースルなどからの難民キャンプを管理しているイラク軍関係者が、IS戦闘員の妻や子どもら約1300人のなかに「日本や韓国などから来た人」が含まれていると述べたことが報じられ、国内でも波紋を広げた(その後、日本政府が事実関係を問い合わせたところ、「現在までの間に戦闘員家族の中に日本人が含まれている事実はない」との回答があった)。

これまで、ISに多数の外国人戦闘員が参加しており、そのなかにはアラブ系だけでなくヨーロッパ系(白人)の若者も加わっていることがわかっている。

参考:「イスラム国」の首都モースルでジャーナリストが見たものは?

だがメディアに登場するのは若い男性ばかりで、外国人女性の存在は謎に包まれていた。彼女たちはなぜ、生命をかけてまでISの支配地域に渡ろうとするのだろうか。 続きを読む →

第117回 残業を副業にする魔力(橘玲の世界は損得勘定)

すこし前の話だが、内閣府が職員を対象に「賃上げを広く実施するための政策アイデアコンテスト」を実施した。「残業から副業へ。すべての会社員を個人事業主にする」という提案が優勝アイデアのひとつとして選ばれ、大臣が表彰したところ、「脱法行為を認めるのか」と炎上する事態になった。

提案の詳細は内閣府のホームページから削除されてしまったが、報道などによると、定時以降の残業を個人事業主として受託することにすれば、社会保険料や税金の負担が減って、会社の人件費を増やすことなく“賃上げ”ができる、というアイデアのようだ。

この提案については、労働者かどうかは働き方の実態で判断するべきで、仕事の内容も働き方も同じなのに、時間で区切って個人事業者と見なすのは「偽装請負」と同じで労働法を無視していると批判された。たしかにそのとおりだが、怒りの拳を振り上げる前に、なぜこれで収入が増えるのかを考えてみよう。

まず社会保障費だが、社員は健康保険・厚生年金保険、介護保険などの社会保険に加入している。保険料は賞与や各種手当を含む標準報酬月額で計算され、原則として労使で折半する。

残業代を契約に基づく個人事業主への報酬にすれば、会社は給与の支払いが減り、これによって保険料の算定基準になる標準報酬月額も減るので、その分だけ保険料負担が軽くなる。社員も同じで、収入は同じでも社会保険料の減額分だけ手取りが増える。会社も社員も「ウイン=ウイン」になるのだ。

次に所得税だが、個人事業主の場合、事業に必要な経費を収入から差し引くことができる。一般的には、自宅を仕事場にする場合は家賃や水道光熱費の半額が目安で、スマホなどの通信費や旅費交通費、新聞・雑誌・書籍の購読料なども一定の割合で経費にできるだろう。

パソコンなどは取得価格30万円未満なら経費扱いで処理できるし、車のような固定資産は減価償却費として経費計上が可能だ。サラリーマンの場合、給与所得控除を超える「特定支出」を申請するのは面倒だが、個人事業主ならさまざまな支出を経費にできるのだ(税務署に否認される場合もある)。

それに加えて、青色申告を利用することで65万円の控除が受けられる。これらの経費を足していくと、事業所得(残業代)は赤字になるだろう。事業所得は給与所得と相殺できるので、これで所得税が安くなる。

これらはいずれも合法で、「副業のメリット」としてネットなどで解説されている。だったらなにが問題かというと、同じ職場で定時以降の仕事を「副業」にすることだ。これなら社員はなんのリスクもなく(いつもの残業をするだけで)手取り収入を増やせるし、会社も負担を軽くできるが、この“魔法”は、国が税・社会保険料を取りっぱぐれることで成り立っている。

そう考えれば、この提案は「国家をハックせよ」と勧めるもので、それを経済再生担当大臣が表彰したというのは、じつはなかなかいい話だと思うのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.117『日経ヴェリタス』2024年9月7日号掲載
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