精神科病院の長期入院をなくせばすべてうまくいくのか? 週刊プレイボーイ連載(621)

2022年に国連から強制入院の撤廃を勧告されたように、日本の精神医療は世界的には“異常”な状態が続いています。

精神科病院のベッド数は約32万床で全病院のベッドの約2割を占め、平均在院日数は276.7日で長期入院が常態化しています(2022年厚労省調査)。それに対して欧米では、精神科のベッド数を減らし、精神障害者を地域で包摂する試みが続けられてきました。その結果、人口1000人あたりの精神病床数では、イギリスは日本の約6分の1しかありません。

23年2月には、東京・八王子市の精神科病院で虐待が繰り返されていたとして、看護師や准看護師ら5人が逮捕・書類送検される事件が起きました。それでも精神医療改革がさして話題にならないのは、日本社会が精神障害者を「近くにいてほしくないひと」として排除し、精神科病院に隔離することを望んでいるからでしょう。

本人の意思に反した強制・長期入院や身体拘束、「薬漬け」といわれる向精神薬の大量投与などが重大な人権侵害なのは間違いありません。政府・行政には、いまや国際社会での汚点となったこの問題を改善していく重い責務があります。

このことを強調したうえで、ここでは「隣の芝生は青く見える」問題を考えてみましょう。そもそも、欧米のように精神科病床を減らし、地域社会への移行を進めれば、問題はすべて解決するのでしょうか。

イギリスの司法精神科医グウェン・アズヘッドは、サムという若者と両親の話を書いています。サムは手のかからない子どもでしたが、思春期に入ると幻聴を訴えるようになります。自宅で暮らしながら通院治療を受けますが、サムの被害妄想は悪化し、やがて姉の部屋をめちゃくちゃにしたり、父親に暴力をふるったりするようになりました。

両親を困惑させたのは、18歳になると成人向けの精神保健サービスに変わり、守秘義務によって、子どもがどんな治療を受けているか親に伝えられないことでした。

両親はサムをリハビリ施設に預けますが、ときどきふらっと自宅に現われては金をせびり、断ると暴力をふるうことが続きました。そこで両親は、息子に対する接近禁止命令を請求せざるを得なくなりました。

サムは精神科病院に入院しますが、イギリスには長期入院の制度がないため、退院してはホームレス状態になり、また入院する繰り返しになりました。そしてある晩、入院中のはずのサムが自宅に現われ、父親と言い争いになった挙句、キッチンにあった麵棒で殴り殺してしまったのです。

その後、母親は、息子が暴力をふるうことを伝えていたのに外出許可を出し、守秘義務を理由に、そのことを家族に伝えなかった病院を訴えました。

アズヘッドによれば、イギリスで精神科病院の減床が進んだ背景には、人権への配慮というよりも医療費の削減があり、その結果、精神疾患を抱えるひとたちがホームレスになったり、刑務所に収監されています。さらには地域サービスの大幅なコストカットが行なわれたことで、ケアの重圧が家族にかかり、こうした悲劇がしばしば起きているということです。

参考:グウェン・アズヘッド、アイリーン・ホーン『そして、「悪魔」が語りだす 司法精神科医が出会った狂気と共感の物語』宮﨑真紀訳/海と月社

『週刊プレイボーイ』2024年10月28日発売号 禁・無断転載

2020年の米大統領選前に考えたこと

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

米大統領選の投票日が近づいてきたので、前回の大統領選の前(2020年10月22日)に書いた「米大統領選前に考察 「世界最強の帝国」アメリカで今、起きていること、 これから起きることとは?」をアップします(一部改変)。

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世界じゅうから大きな注目を集めているアメリカ大統領選がいよいよ決着がつく。「世界最強の帝国」でいったい何が起きており、これからどうなってしまうのか。今回はそんな興味で読んだ2冊を紹介したい。

1冊目はジョージ・フリードマンの『2020-2030 アメリカ大分断 危機の地政学』(濱野大道訳/早川書房)で、原題は“The Storm Before The Calm(静けさの前の嵐)”。

フリードマンは地政学の第一人者で、1996年にインテリジェンス企業「ストラスファー」を創設、政治・経済・安全保障にかかわる独自情報を各国の政府機関や企業に提供し、「影のCIA」の異名をもつという。これまで世界的なベストセラーになった『100年予測』『続・100年予測』『ヨーロッパ炎上 新・100年予測 動乱の地政学』が翻訳されており(いずれもハヤカワNF文庫)、本書はそのフリードマンが、トランプ大統領誕生を受けてアメリカの未来を予測したものだ。

2冊目はフランシス・フクヤマの『IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と怒りの政治』(山田文訳/朝日新聞出版)。『歴史の終わり』で知られる政治学者のフクヤマが、アメリカ社会がアイデンティティで分裂するようになった理由を考える(原題は“IDENTITY: The Demand for Dignity and The Politics of Resentment”で邦題のまま)。 続きを読む →

第118回 「お宝保険」の特約を考える(橘玲の世界は損得勘定)

生命保険に加入したのはバブル最盛期の1988年で、当時は終身保険を主契約にして、定期保険や医療保険などの特約をつけた定期付き終身保険の全盛期だった。20代後半だった私は、保険の仕組みなどなにも知らず、勧められるままに保険金(終身)500万円の商品に加入した。

その後、バブルが崩壊し、90年代末にはいくつかの生命保険会社が経営破綻した。この騒動でにわかに保険に注目が集まり、私も自分の保険契約を真剣に考えるようになった。

当時はインターネットの黎明期で、保険の見直しはマネー誌や単行本が主な情報源だった。それらを片っ端から読み漁った私は、自分がたまたま加入したのが「お宝保険」だということを知った。

予定利率は保険料を算定するときの基準で、超低金利の2023年には0%まで下がり、現在も1%程度だが、80年代末は5.5%だった。その分だけ保険料が安くなるので「お宝」なのだ。

予定利率の高い定期付き終身保険の見直しの基本は、主契約の終身だけを残し、それ以外の特約を解約することだが、私の場合、ちょっと特殊な事情で、あれこれ保険契約をいじっているうちに、年齢とともに契約が更新されるはずの疾病特約などの保険料が固定されていた。不思議に思って保険会社の営業所に確認に行ったのだが、保険証書を見た女性は「こんなケースははじめて」と驚いて、「20代の保険料のまま65歳まで保証が続くのだから、ぜったいに解約したらダメ」と親切に教えてくれた。こうして、私の保険はダブルで「お宝」になった。

それから四半世紀たって、主契約の終身保険の満期が近づくと、保険会社の担当者から頻繁に電話がかかってくるようになった。来年以降の保険契約をどうするか、決めなくてはならないのだという。

郵送されてきた資料を見ると、積立配当金の残高が200万円ちかくある。バブル崩壊後、配当はずっとゼロのままだが、運用利率が4%もあり、最初のわずかな配当金が複利で増えていたのだ。主契約を解約しなければ積立金の運用はずっと続くので、預金金利が4%を超えるまではこのままにしておくことにした。

特約を継続する場合は、年間2万6000円か、一括で40万円を支払うと、いまと同じ保証が80歳まで続くという。15年分を一括で前払いしてもなんの割引もないことを疑問に感じたが、特約を継続しない場合は35万円ほどの解約返戻金を受け取れることに気づいて、頭を悩ます理由はなくなった。

入院1日あたり5000円の保証が必要になるのは、病気によって収入がなくなるからだ。65歳からは年金を受給できるので(私は繰り下げているが)、そもそも医療保険は必要ない。そのうえこれまで払った保険料の一部を返してくれるというのだから、こんなにうれしい話はない。

その後、担当者からまた電話がかかってきたので、「特約は継続しません」と伝えると、これまであんなに熱心だったのに、「あ、そうですか」のひと言で電話は切れた。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.117『日経ヴェリタス』2024年10月19日号掲載
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