「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【前編】

今日発売の新刊『新・貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』(プレジデント社)のあとがき「「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【前編】」を出版社の許可を得て掲載します(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。

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というわけで、この本で書いたことはとても単純だ。

国家に依存するな。国家を道具として使え。

近代というのは、世界地図に国境という線を引き、その線の中のことはそれぞれの国家に任せるという約束事で成り立っている。これが主権国家で、なにものも侵すことのできない神に等しい権力を有しているとされている。

この権力はとても強大で、わたしたち一人ひとりの人生に大きな影響を与える。わたしたちはグローバルな資本主義と市場経済の中で生きていかざるをえないが、それと同時に、ローカルな国家から独立した生活を送ることもできない。

民主政国家の目的は、建て前上、主権者である国民の幸福を最大化することだ。そのため不幸なひとたち(幸福が最大化されていないひとたち)は、国家に対して援助を求める権利があると考えられている。

ここまでは誰も異存はないだろうが、すぐにやっかいな問題があることに気づくだろう。「不幸なひと」っていったい誰だ?

いうまでもないことだが、人生のすべてに満足しているひとはほとんどいないだろう。幸福や不幸は他人との比較から生まれてくる感情だから、社会的には成功者と見なされていても、本人は屈辱と嫉妬の泥沼をのたうち回っているかもしれない。だがこうした不幸をすべて国家が救済するわけにはいかないので、どの国も一定の外形的な基準を設け、それを満たさないひとを「社会的弱者」として援助の対象としている。

ところで日本の官僚機構は、サービスの提供にあたって申請主義を原則としている。派遣切りにあって寮を追い出され、貯金もなく野宿を余儀なくされるのは明らかに不幸な状況だろうが、それだけでは行政は援助の手を差しのべてくれない。利用者は自治体の窓口に自ら足を運び、必要な書類を整えたうえで失業保険や生活保護を申請しなければならないのだ。国家の援助を受けられるのは、自分自身で「社会的弱者」であると証明したひとだけなのだ。

都心の公園にはホームレスたちのテントがずらりと並んでいる。その生活環境は憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」からほど遠いが、生活保護どころか健康保険すらないままに放置されている。なぜなら彼らは住所がないので、行政上の「弱者」になることができないのだ。

行政の杓子定規な対応は理不尽ではあるが、もっともな理由もある。財源に限りがある以上、サンタクロースのようにお金を配くばって歩くわけにはいかない。行政サービスは、ルールに則った適正な手続きで執行されなくてはならないのだ。

官僚制の本質は非人間性にある。これは言い換えれば、国家は国民を無差別に扱わなくてはならないということだ。生活保護の申請を受け付ける際に、自治体職員が一人ひとりの「人間性」を判断していたら現場は大混乱に陥るだろう。職員の善意や悪意とは無関係に、提出された書類に基づいて機械的に処理するのが正しい行政のあり方なのだ。

国家は、母親のような愛情を持って国民の世話をするわけではない。だからといって特定の目的(たとえば戦争)のために国民を監視し、洗脳し、訓育しているわけでもないだろう。官僚機構に目的があるとすれば、組織として存続し、自己増殖しつづけることだ。

国家もまた、法人の一種だ。ひとであってひとでないものに過度な愛情や幻想を抱いても、それに応える人間的な感情など持ち合わせていないのだから、いずれは裏切られて落胆するだけだ。

わたしたちは、国家のない世界を生きることはできない。国家を否定し、革命を目指すのは自由だが、大多数のひとは無政府主義の理想を目指そうとは思わないだろう。生き延びるためになすべきなのは、国家に依存するのでも権力を拒絶するのでもなく、国家の仕組みを観察し、理解し、道具として利用することだ。

自由と自己責任

近代は、自由を至上の価値とする社会だ。わたしたちは誰の強制も受けず、自分の人生を自分で選択することができる。これがわたしたちの生きている世界の根源的なルールで、何人たりともそれを否定することは許されていない(他者を奴隷化する者は社会から排斥される)。

ところで、自由はなにをしてもいいということではなく、ひとはみな選択の結果に対して責任を負わなくてはならない。自由と責任は一対の概念だから、原理的に、責任のないところに自由はない。

派遣や非正規雇用の問題を語る際に、彼らの自己責任を問うことを許さないひとたちがいる。私はずっと、この議論に強い違和感があった。相手を責任の主体として認めないということは、奴隷か禁治産者として扱うことだ。ひとが尊厳を持って生きるためには、自分の行為に責任を持たなくてはならない。

自己責任を否定するひとたちは、決まって国家や会社やグローバル資本主義を非難する。だが、理不尽な現実をすべて国家の責任にしてその解決を求めるのはきわめて危険な考え方だ。

国家とは、無際限に自己増殖するシステムだ。マスメディアが〝危機〞を煽れば、国家はそれを格好の口実にさらに肥大化しようとするだろう。国家が巨大化すれば、その分だけわたしたちの自由は奪われていく。

わたしたちは自由でいるために、自分の行動に責任を持たなくてはならない。自己責任は、自由の原理だ。それを否定するならば、残るのは無責任か連帯責任しかない。

もちろん、だからといって職を失った若者たちにすべての責任を引き受けさせるのが酷なことは間違いない。かつて〝ロスジェネ〞世代を生み出したのは、年功序列と終身雇用に固執するこの国の差別的な雇用制度だ。同じ職種には同じ賃金を支払う「同一労働同一賃金」は、アメリカはもとよりEU諸国でも当然とされているが、日本ではいまだに勤続年数によって労働条件が決まる。こうして給与の高い中高年層が企業に滞留していくが、厳しい解雇規制によって経営が破綻するまで彼らを若い労働力と交換することは許されない。

若者たちの自己責任を問うのであれば、解雇を自由にして、誰もが対等な条件で労働市場で競争できるようにするべきだ。だが既得権を握って離さないひとたちは、自分たちに不利な〝公正な社会〞の実現を嫌って、国家に責任を転嫁し、三十代の若者に生活保護を受給させて差別を温存しようとする。こうして彼らの人生を腐らせていくのだから、これは偽善というよりも犯罪だろう。

高齢化社会では既得権を持つひとたちの絶対数が増えていくのだから、この差別構造は容易なことでは変わらない。だったら「正社員」という見果てぬ夢を追うよりも、別の道を進んだほうがずっとマシだ。

マイクロ法人は、国家を道具として使うための有効な方法だ。若者たちは、これまでずっと不公正な労働市場で搾取されつづけてきた。彼らには、国家を搾取する十分な権利がある。もちろん若者たちだけではなく、すべてのひとに国家という道具は開かれている。

「自由」は、望んでもいないあなたのところにやってくる【後編】

奇妙な世界を賢く歩くための地図(『新・貧乏はお金持ち』まえがき)

明後日31日(月)発売の新刊『新・貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』(プレジデント社)のまえがき「奇妙な世界を賢く歩くための地図」を出版社の許可を得て掲載します。すでに都内の大手書店などでは店頭に並んでいるようです(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。

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本書は2009年6月に講談社から刊行され、11年3月に講談社+α文庫に収録された『貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』の内容を新しくしたものだ。幸いなことに親本は多くの読者を得ることができたが、それでも新版にしたのには理由がある。この16年のあいだに、話があべこべになってしまったのだ。

マイクロ法人は私の造語で、取締役一人か、役員が家族のみで構成される最小法人のことだ。自営業者が法人化すると、「個人」と「法人」のふたつの“人格”を持つことができる。

本書は「一人なのに二人」というこの不思議について書いているが、それを税・社会保険料コストの(合法的な)軽減に利用する場合、親本刊行当時の一般的なアドバイスは、「法人を赤字にして個人で納税する」だった。それがいまでは、「個人の所得を下げて法人で納税する」に180度変わってしまった。

その理由は本文で詳述するが、簡単にいうと次のようなことだ。

法人側の変化としては、「日本の法人税率は世界的に高い」という批判から、30%だった法人税率が2012年から18年にかけて段階的に23.2%まで引き下げられた。さらに、資本金1億円以下の法人は課税所得800万円以下の部分について22%の軽減税率が適用されていたが、世界金融危機を受けて2009年に18%に、次いで東日本大震災からの復興を名目に12年に特例として15%まで引き下げられた。また地方法人税も、(東京都の場合)本則は7%だが、課税所得800万円以下で5.3%、同400万円以下で3.5%に軽減されている。

その結果、親本では「マイクロ法人の(国税と地方税を合わせた)実効税率は30%」としていたのが、現在の実効税率は最低で18.5%まで下がっている。

それに対して個人所得税は、課税所得に対して5%から最高45%の累進課税で、住民税(東京都)の所得割は定率の10%だから、実効税率は15%から最高55%だ。そうなると、ほとんどの場合、個人よりも法人で納税したほうが有利になるだろう。これが「あべこべ」になった第一の理由だ。

もうひとつは個人の側の変化で、じつは親本では法人の役員が国民年金と国民健康保険に加入することを前提にしていた。当時も法律上は、役員1人の法人でも社会保険に加入しなければならなかったが、これはあくまでも建て前で、どちらも公的社会保険制度なのだから、家族経営の零細法人は国民年金/国民健康保険と社会保険のどちらか有利なほうを選べばいいというのが実態だった。

人類史上未曾有の超高齢化によって日本の財政は逼迫しており、社会保険料の負担は大幅に上がっている。本書の親本が刊行された2009年当時、厚生年金の保険料率は15.704%だったが、それが現在(2025年)は18.3%になっている。同じく中小企業が加入する協会けんぽの保険料率は、40歳以上が支払う介護保険料込みで(自治体の平均で)9.39%から11.6%に上がった(同時に、保険料を支払う収入の上限も引き上げられ、高所得の会社員の負担が重くなっている)。

これをわかりやすくいうと、年収600万円のサラリーマン/サラリーウーマンの場合、2009年には(ボーナスをならして)月額50万円の給与に対して約6万3000円の社会保険料が天引きされていたが、それが現在は約7万5000円に増えている。この16年間で、毎月の手取りが1万2000円(年額14万4000円)も減ってしまったのだ。

あなたが給与明細を見て、「会社はベースアップしたというけれど、手取りは逆に減っているじゃないか」と疑問に思ったら、その理由は増税ではなく、社会保険料の負担増だ(会社が支払う社会保険料も同じだけ上がっているので、会社はその分、人件費を抑制しようとするだろう)。

消費税を上げようとすると国会で紛糾必至で、政権がいくつもつぶれるが、社会保険料率の引き上げは厚生労働省の一存でできるので、この「ステルス増税」が常態化している。その結果、日本の社会保障制度の歪みはますます大きくなっている。

会社員が加入する社会保険と、自営業者が加入する国民年金/国民健康保険ではどちらが得なのか。厚生年金の保険料が収入に応じて決まるのに対して、国民年金の保険料は定額(2025年時点で月額1万6980円)なので、この比較は簡単だ。

年収600万円の会社員の厚生年金保険料は、自己負担のみで年額約55万円(会社負担分を含めると約110万円)だが、国民年金なら年収にかかわらず年額20万円強だ。掛け金が少ないと将来の年金は減るが、厚生年金保険料との差額の35万円をNISA(ニーサ)で非課税で運用したほうが老後資金はずっと大きくなるだろう。

ここまではシンプルだが、話がややこしくなるのは、国民健康保険の保険料が、社会保険の会社負担分と自己負担分の合計に見合うように引き上げられてきたことだ。その結果、会社員が自己負担する健康保険料が年額30万円だとすると、生活水準が同じ自営業者は年額60万円の保険料を支払わなくてはならない。そのうえ社会保険では扶養家族の健康保険は無料だが、国民健康保険は本人分のみなので、配偶者・子ども・親など扶養家族がいれば、その分の保険料を別で納めなくてはならない。│自営業者から「国民健康保険の保険料負担が重すぎる」という不満の声が上がるのはこれが理由だ。

これはたしかに理不尽だが、一人二役のマイクロ法人では、自己負担だけでなく会社負担の保険料も支払わなくてはならないから、扶養家族の人数にもよるが、「国民年金は厚生年金より有利で、国民健康保険の負担額は(労使合計では)社会保険と同じ」になる。さらに、かつては国民健康保険料の上限は60万円程度で、いったん上限に達すればそれ以上保険料は増えないから、個人の所得を大きくして法人を赤字にすることが「王道」とされていたのだ。

ところがその後、厚生労働省はできるだけ多くの労働者を社会保険に加入させるという方針を徹底するようになり、年金事務所は従業員10人以上の法人を重点調査すると同時に、マイクロ法人にも社会保険の加入義務があることを通知しはじめた。それに加えて国民健康保険の保険料の上限が109万円(介護分を含む)に引き上げられ、その一方で法人税の税率が引き下げられたことで、「個人の所得を小さくして社会保険に加入し、法人で納税する」というまったく逆のやり方のほうがコスパ(費用対効果)がよくなったのだ(それに法律も遵守できる)。

社会保険料は収入(標準報酬月額)によって決まり、会社負担分と自己負担分を合わせて収入のおよそ30パーセントだ。社会保険料(労使合計)は役員報酬600万円で180万円だが、報酬が300万円なら90万円と半額になる(最低額は年収75万6000円未満にしたときの年額約27万4000円)。──役員報酬を下げれば社会保険料は安くなるが、(扶養家族の保険を含む)健康保険のメリットは変わらない。

このようにして、親本のアドバイスは16年で「あべこべ」になってしまった。私はずっとこのことを気にしていたが、親本の編集を担当してくれた村上誠さんがプレジデント社に移籍し、声をかけてくださったことで、PART4「磯野家の節税──マイクロ法人と税金」の部分を全面的に書き換えて新版にすることにした。

ただし、「法人とはなにか?」という話や税・社会保障の仕組み、超低利融資が可能になる理由など、それ以外の部分はできるだけ親本の記述を活かすことにした。このような文章はいまの自分には書けないということもあるし、日本社会の制度の歪みがほとんど変わっていないということでもある(数字は適宜、最新のものに置き換えた)。

また親本では、コラムとして会社の設立方法、法人税の申告、公的融資制度の利用方法などを具体的に記述したが、制度の細則は頻繁に変更されるし、いまではネット上に懇切丁寧な解説がたくさんあるので、すべて削ることにした(そのかわり、「副業で節税できるか?」と「補助金を受け取る」のコラムを加えた)。

2024年の衆議院議員選挙をきっかけに、「103万円の壁」「106万円の壁」「130万円の壁」が注目されることになった。だがほとんどのひとは、それがなんなのかうまく理解できないだろう。それほど日本の税・社会保障制度は複雑怪奇なのだ。

本書を、そんな奇妙な世界を賢く歩くための地図として使ってもらえればうれしい。

2025年2月 橘玲

「雇用破壊」の神話と現実

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年3月公開の記事です(一部改変)。

maroke/shutterstock

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終わりつつある平成の30年間をひと言でいうならば、「日本がどんどん貧乏くさくなった」だろう。

国民のゆたかさの指標となる1人当たりGDP(国内総生産)で、日本はバブル経済の余勢をかって1990年代はベスト5の常連で、2000年にはルクセンブルクに次いで世界2位になったものの、そこからつるべ落としのように順位を下げていく。

2017年の日本の1人当たりGDPは世界25位で、アジアでもマカオ(3位)、シンガポール(9位)、香港(16位)に大きく水をあけられ、いまや韓国(29位)にも追い越されそうだ。主要7カ国(英・米・仏・伊・独・加・日)では首位から6位に転落し、かつては世界の15%を占めていたGDPも30年間で6%に縮小した。

なぜこんなヒドいことになるのか。経済学的には、その原因は「日本の生産性が低いから」ということになる。これについてはすでに書いたが、ここでは、労働経済学者・神林龍氏の『正規の世界・非正規の世界 現代日本労働経済学の基本問題』(慶應義塾大学出版会)に依拠しながら、平成日本の社会と経済でなにが起きたのか、事実(ファクト)を見ていこう。

参考:「日本の労働生産性はなぜこんなに低いのか」論を考える

バブル崩壊でも正社員の雇用は安定していた

『正規の世界・非正規の世界』で神林氏は、1980年代から2000年代の日本の労働市場を分析し、「常識」とは異なる姿をあぶり出している。

80年代末に日本経済は頂点に達したが、バブル崩壊によって大企業はリストラに血眼になり「雇用破壊」が始まった。それに小泉政権のネオリベ的な政策が加わり、正社員が減り非正規が急激に増えた。――とりあえずはこれを「通説」としておこう。 続きを読む →