「老後2000万円不足」問題からわかる日本の2つの選択 週刊プレイボーイ連載(389)

金融庁が老後に備えて資産形成を促した報告書が、「年金だけでは老後の生活費が2000万円不足する」と国民を脅したとして大炎上し、報告書そのものが「存在しなくなる」という前代未聞の珍事が起きました。

この話の奇妙なところは、報告書にそんなことは書いてないことです。

総務省の家計調査では、平均的な高齢者世帯は年金などの収入が約21万円に対し支出が約26万円、この不足分を65歳の平均的な金融資産2252万円から取り崩しています。この現状を考えれば、現役世代は積み立て運用などで2000万円程度の資産形成を目指したほうがいい。――報告書の趣旨は要するにこれだけで、「2000万円ないと生きていけない」という話とはずいぶんちがいます。

それにもかかわらず大騒ぎになったのは、報告書の「平均」が高すぎるからでしょう。持ち家で金融資産2000万円以上保有している高齢世帯は全体の3割で、「平均以下」とされた残りの7割が「自分たちは生きていけないのか」と不安に駆られたのです。

この出来事からわかるのは、いまや「年金」に触れるのが最大の政治的タブーだということです。

資産調査では70歳以上の約3割、700万人が金融資産を保有していません。じゅうぶんな金融資産を持っていない層も含めれば、高齢者の半分以上が老後の生活を年金に依存しているのが実態です。このひとたちは年金が減額されると生きていけなくなってしまうので、ちょっとした風説にも過敏に反応してしまいます。

政治家も官僚も、今後は年金について当たり障りのないことしかいわなくなるでしょう。そうやって現実から目を背けているうちに事態が改善するならそれでもいいでしょうが、少子高齢化はますます進み問題は深刻になるばかりです。

その結果、いったい何が起きるのでしょうか。

ひとつは、「マクロ経済スライド」の仕組みによって、年金制度が破綻しないよう受給額が減らされていくことです。これが「100年安心」で、支払う年金をいくらでも減額できるなら制度そのものは「安心」にちがいありません。もっとも、年金で暮らしていけない膨大な貧困高齢者が街にあふれることになりますが。

「100歳まで(年金で)安心して暮らしたい」というなら、年金の減額は不可能です。その場合は支給総額がどんどんふくらんで、やがて財政は行き詰まるでしょう。そうなると物価が大きく上昇するハイパーインフレが起き、国民は「インフレ税」の重い負担に苦しむことになりますが、それによって国家の債務は軽くなってきます。

日本の将来はこの二択で、どちらになるかはわかりませんが、いずれにしても大きな混乱は避けられそうもありません。

そうなると個人にできることは、できるだけ多くの資産を保有して「衝撃」に備えることです。こうして話は金融庁の「幻の報告書」に戻っていきます。

ほんとうのことを否定してもろくなことにはなりません。自助努力を放棄して国に頼るだけでは、「安心」な老後は手に入らないでしょう。もちろんこんなこと、まともなひとならみんな気づいていると思いますが。

『週刊プレイボーイ』2019年6月24日発売号 禁・無断転載

日本を蝕む「内なる移民問題」 週刊プレイボーイ連載(388)

川崎市で51歳の無職の男が登校途中の小学生を襲った事件のあとに、元農水事務次官の父親が自宅で44歳の長男を刺殺しました。長男は中学の頃から家庭内暴力があり、いったんは自宅を出たもののうまくいかず、自ら「帰りたい」と電話して戻ってきたばかりだったとのことです。

事件当日は自宅に隣接する区立小学校で運動会が開かれており、「運動会の音がうるさい。ぶっ殺すぞ」などといったことから、「怒りの矛先が子どもに向いてはいけない」と殺害を決行したと父親は供述しているようです。

長男は、帰ってきた翌日に「俺の人生はなんなんだ」と叫びながら父親にはげしい暴力をふるったとされ、「(小学生を)ぶっ殺す」というのも、川崎の事件で動揺する両親への嫌がらせでしょう。親の世話にならなければ生きていけないにもかかわらず、「自分をみじめな境遇に追いやった」親を憎んでいるという、どこにも出口のない関係がうかがわれます。

内閣府の調査では日本全国に100万人以上のひきこもりがいるとされ、事件直後からひきこもりを支援するNPO団体などに高齢の親からの相談の電話が殺到しているようです。内閣府の調査はアンケート形式で正直にこたえているかどうかはわからず、実数ははるかに多いはずだと専門家は指摘しています。

しかし、このふたつの事件で衝撃を受けたのは、子どものひきこもりに悩む親だけではありません。

これまで子育ては、子どもをそこそこの大学に入れれば、あるいはそこそこの会社に就職させれば「終わり」と考えられてきました。しかしいずれのケースも、40代や50代になってから居場所を失った子どもが実家に戻ってきています。

すべての親にとって残酷な事実でしょうが、「子育てに終わりはない」のです。

1990年代後半の「就職氷河期」から20年が過ぎ、80歳の親が50歳の子どもを養う「8050問題」が現実のものになってきました。そのあとに来るのは「9060問題」ではなく、親がいなくなったあと自宅に取り残された60代のひきこもり問題です。

彼らの多くは無職か非正規の仕事しかしたことがなく、じゅうぶんな年金を受け取れないでしょうから、生活保護を申請する以外に生きる術がありません。しかしその頃には日本の高齢化率はピークに達しており、年金制度が破綻しないまでも保険料の負担は重くなり、受給額が減らされるのは避けられないでしょう。

そうなれば、社会の憎悪がどこに向かうかは考えるまでもありません。

ヨーロッパでは移民問題が深刻化し、北欧のようなリベラルな国でも移民排斥を求める「極右」政党が台頭しています。ひとびとの不満は、(働かない)移民が手厚い社会保障制度に「ただ乗り」していることにあります。

それに比べて日本は移民の受け入れに消極的で、保守派はこれによって社会の安定と治安が保たれてきたと主張しています。ここには一面の真実があるでしょうが、しかし私たちの気づかないところで、日本社会は「内なる移民問題」に蝕まれていたのです。

『週刊プレイボーイ』2019年6月17日発売号 禁・無断転載

ひきこもりは「恐怖」と「怒り」に圧倒されている 週刊プレイボーイ連載(387)

神奈川県川崎市で51歳の男が、スクールバスを待つ小学生らを刃物で襲い、19人を殺傷したあと自殺するという衝撃的な事件が起こりました。

報道によれば、加害者の男は幼少期に両親が離婚したため伯父に引き取られ、10代後半で家を出たものの、最近になって戻ってきたとのことです。それからはひきこもりのような生活をしており、80代になる伯父夫婦は、自分たちが介護を受けるにあたって、第三者が家に入ってきても大丈夫か、市の精神保健福祉センターに相談していました。

夫婦が男の部屋の前に手紙を置いたところ、数日後、伯母に対して「自分のことは、自分でちゃんとやっている。食事や洗濯を自分でやっているのに、ひきこもりとはなんだ」と語ったとされています。

伯父夫婦は男が仕事に就かないことで将来を心配していたものの、家庭内で暴力をふるうようなことはなかったことから、大きな問題があるとは考えていなかったようです。近隣とのトラブルも報じられていますが、これも言い争いのレベルで、今回のような凶悪事件を予想することは不可能でしょう。

それでも、手紙を介してしか男とやり取りできなかったことからわかるように、家の中で会話がまったくなかったことは確かです。こうしたコミュニケーションの断絶は、ひきこもりの典型的な特徴です。

上山和樹さんは『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)で、自身の体験をきわめて明晰な言葉で語っています。上山さんによると、ひきこもりは「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直してしまうことです。

「恐怖」というのは働いていない、すなわちお金がないことで、生きていけないという生存への不安です。男は伯父夫婦からたまに小遣いをもらっていたようですが、2人が高齢で介護を受けるようになったことから、自分一人が取り残されたときのことを考えざるをえなくなったのでしょう。これはとてつもない「恐怖」だったにちがいありません。

「怒り」というのは自責の念であり、そんな状態に自分を追い込んだ家族への憎悪であり、社会から排除された恨みです。この得体のしれない怒りはとてつもなく大きく、上山さんは「激怒」と表現しています。ひきこもりは、一見おとなしくしているように見えても、頭のなかは「激怒」に圧倒されているのです。

そしてこれは重要なことですが、男のひきこもりは性愛からも排除されています。

「自分のような人間に、異性とつき合う資格などない」というのは「決定的な挫折感情」であり、耐えられない認識だと上山さんは書いています。性的な葛藤は「本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている」のです。

51歳で伯父の家に居候するほかなくなった無職の男は、これから定職を見つけて自立するのはきわめて困難であり、女性からの性愛を獲得するのはさらに不可能で、伯父夫婦が高齢になったことでこの生活がいずれ終わることを知っていたはずです。

もちろん同じような状況に置かれていても、ひきこもりが社会への暴力につながるケースはきわめて稀で、今回の事件を一般化することはつつしまなければなりません。しかしその一方で、社会的にも性愛からも排除された(とりわけ男性の)ひきこもりの内面を無視することは別の偏見を生むだけではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2019年6月10日発売号 禁・無断転載