第84回 金融リテラシー 高齢者にこそ(橘玲の世界は損得勘定)

かんぽ生命保険が、保険の乗り換えで顧客が不利益を被った事例が5年間で2万件以上あると発表した。健康状況の告知などで新契約が結べなかったり、告知書類の記入不備などで保険金が受け取れなかったりしたのだという。契約者からの二重徴収の疑いも発覚し、法令に抵触する可能性も指摘されている。

この問題については、2018年4月にNHK「クローズアップ現代」が、「郵便局が保険を“押し売り”!?~郵便局員たちの告白~」として取り上げている。それから1年以上たち、金融庁からも報告を求められたことで、しぶしぶ実態を認めたのだろう。

NHKの番組は、「高齢の母が、郵便局員に保険を押し売りされた」という1通のメールから取材が始まった。同様のトラブルがないかSNSで情報提供を呼びかけたところ、わずか1カ月で400通を超えるメールが届き、その大半が現役職員など郵便局の関係者からだった。「郵便局というだけで、高齢者の場合、だましやすい」「ノルマに追い詰められて、詐欺まがいで契約させる」など元郵便局員の生々しい証言も紹介された。

かんぽ生命の役員もインタビューに応じていて「社内的な評価制度の見直し等」を約束したが、その映像をSNSで公開したところ、たちまち現役郵便局員から「個人に割り振られた目標はむしろ上がっている。こんな状況では、問題の解決にはならない」との手厳しい反論が来た。

なぜこんなヒドいことになるのか。そのいちばんの理由は、超低金利と情報通信テクノロジーの急速な進歩によって、既存の金融機関が収益をあげられなくなっているからだろう。

それでもなんとかして利益を出さないと会社が存続できないから、本社は各郵便局に重いノルマを課す。実現不可能なことをやれといわれた営業マンは、良識や道徳などどこかに吹き飛んで、「保険の内容を理解していない高齢者をダマしてぼったくる」ことになるのだ。

じつはこれは、かんぽ生命だけの問題ではない。ネットリテラシーとフィナンシャルリテラシーの高い若い顧客がインターネット取引に移ったことで、対面営業の金融機関には両方のリテラシーの低い顧客しか残らなくなった。そうなれば、なにが起きるかは考えるまでもない。

大手銀行は顧客に手数料の高い投資信託や生命保険商品を外販し、大手証券も高齢者向けのセミナーでハイリスクな新興国通貨のデリバティブを売りつけていると批判されている。

かんぽ生命の苦境は、保険金の上限が2000万円と決められているため、いったん旧契約を解約しないと新契約に乗り換えさせられないことにある。こうしてトラブルが表面化したのだが、苦しい事情はどこも同じだ。

人間の認知能力には限界があるから、リテラシーの低い顧客に複雑な金融商品を理解させることは不可能だ。トラブルの本質は、じつはここにある。

「報告書」問題で大変かもしれないが、これからますます高齢者は増えていくのだから、金融庁もそろそろこの「不都合な事実」を直視する必要があるのではないだろうか。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.84『日経ヴェリタス』2019年7月14日号掲載
禁・無断転載

『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』まえがき

出版社の許可を得て、新刊『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』の「まえがき」を掲載します。発売日は7月26日(金)ですが、大手書店などには明日あたりから並びはじめると思います。見かけたら手に取ってみてください。

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本書のPart0では、2011~12年に実施されたPIAAC(ピアック/Programme for the International Assessment of Adult Competencies)について詳しく解説しています。

PIAACは先進国の学習到達度調査(PISA/ピザ)の大人版で、16歳から65歳を対象として、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITを活用した問題解決能力(ITスキル)」を測定する国際調査で、OECD(経済協力開発機構)加盟の先進国を中心に24カ国・地域の約15万7000人を対象に実施されました。日本では国立教育政策研究所によって、「国際成人力調査」として2013年に概要がまとめられています。

ヨーロッパでは若者を中心に高い失業率が問題になっていますが、その一方で経営者からは、「どれだけ募集しても必要なスキルをもつ人材が見つからない」との声が寄せられていました。プログラマーを募集したのに、初歩的なプログラミングの知識すらない志望者しかいなかったら採用のしようがありません。そこで、失業の背景には仕事とスキルのミスマッチがあるのではないかということになり、実際に調べてみたのです。

私がこの調査に興味を持ったのは、その結果をどのように分析しても、次のような驚くべき事実(ファクト)を受け入れざるを得ないからです。

① 日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。
② 日本人の3分の1以上が小学校3~4年生以下の数的思考力しかない。
③ パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。
④ 65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない

ほとんどのひとはこれをなにかの冗談だと思うでしょうが、どうやら私の理解はまちがってはいないようです。

このことを『もっと言ってはいけない』(新潮新書)で紹介したところ、日本においてPIAACを主導した文部行政の幹部からお礼のメールをいただきました。苦労して大規模な国際調査を行なったにもかかわらず、ほとんど話題にならないことに落胆していたというこの方は、PIAACが「再発見」され、評価されたことがとてもうれしかったそうです。

ここからわかるのは、日本人の読解力や数的思考力、ITスキルがこの程度のものであることが(一部の)教育関係者のあいだでは常識であり、それでなんの問題もないと考えられているらしいことです。なぜなら、この惨憺たる結果にもかかわらず、ほぼすべての分野で日本人の成績は先進国で1位だからです。――これがもうひとつの驚くべき事実(ファクト)です。

私たちはいったいどんな世界に生きているのか。それを考えるのが本書のスタートになります。

Part1からPart4は、2016年5月から令和元年にあたる19年6月までの3年間に『週刊プレイボーイ』に連載したコラムから、「事実vs本能」を扱ったものをピックアップしています。読み通していただければ、そこに共通する背景があることに気づいていただけるでしょう。

それは私たちが、「知識社会化・リベラル化・グローバル化」という巨大な潮流に翻弄されているという事実(ファクト)です。

世の中を騒がすさまざまなニュースは、突き詰めれば、旧石器時代につくられたヒトの思考回路がこの大変化にうまく適応できないことから起きています。

Part5では、日本の社会を理解するうえで重要な事実(ファクト)を明らかにした研究を紹介しています。

ひとつは、世代によって政党のイデオロギー位置が異なるという発見。いまの若者は、自民党を「リベラル」、共産党を「保守」と考えています。さらに、日本はヨーロッパのように「極右」が台頭しているのではなく、全体として「リベラル化」しているようです。

もうひとつは、『Yahoo!ニュース』のコメント欄をビッグデータとして解析した研究で、現代日本社会の「右傾化」と呼ばれるものの正体が、「“日本人”という脆弱なアイデンティティ」であることがわかるでしょう。

事実(ファクト)はつねに好ましいものであるとはかぎらず、保守ないしはリベラルの価値観に沿っているわけでもありません。それは私たちの夢や願望とはなんの関係もない、冷酷な自然法則のようなものです。

しかしそれだからこそ、事実(ファクト)を知ることはとても重要です。

そのことを、世界的なベストセラーになった『FACTFULLNESS(ファクトフルネス)』(日経BP社)で、ハンス・ロスリングはこう説明しています。

〈たとえば、カーナビは正しい地図情報をもとにつくられているのが当たり前だ。ナビの情報が間違っていたら目的地にたどり着けるはずがない。同じように、間違った知識を持った政治家や政策立案者が世界の問題を解決できるはずもない。世界を逆さまにとらえている経営者に、正しい経営判断ができるはずがない。世界のことをなにも知らない人たちが、世界のどの問題を心配すべきかに気づけるはずがない〉

同様に、自分がどのような世界に生きているのかをまちがって理解しているひとも、自分や家族の人生について正しい判断をすることができないでしょう。

世の中には、縮尺や方位のちがう地図を手に右往左往しているひとが(ものすごく)たくさんいます。そんななかで、正しい地図を持っていることはとてつもなく有利です。

これが、事実(ファクト)にこだわらなければならないいちばんの理由です。

 

「反社のパーティだと気づいたら毅然と帰ればいい」はいったい誰ができるのか? 週刊プレイボーイ連載(392)

芸人が反社会的勢力(反社)のパーティで「闇営業」していたことが大きな騒ぎになっています。とはいえ、いったいどこに問題があるのかよくわかりません。

まず、事務所に所属する芸人の労働者としての地位があいまいです。会社に所属するサラリーマンと同じと考えれば、無断で営業する行為は禁じられるべきでしょう。しかしその場合は、事務所(会社)は芸人(社員)の生活給を保証しなければなりませんが、そんなふうになっているとは思えません。

だとすれば、芸人は自営業者で、本来は自分でやるべきマネジメント(営業)の一部を事務所に外注していることになります。この場合は、芸人(自営業者)が自ら営業して仕事を取ってくるのは「闇」でもなんでもなく当たり前のことです。

報道を見るかぎり、形式上は、芸人は事務所を通した仕事以外受けてはならないが、生活給は保証しないという契約になっているようです。しかし、そもそも「生きていけない(生活できない)」ことを前提とする独占契約は一種の奴隷制で、人権の観点から大きな問題があります。

「闇営業」を批判するひとは、「契約どおり事務所経由の仕事だけしていればいい」といいますが、これは「事務所が生活できるだけの仕事を取ってくる」ことが前提になっています。そんなことはとうてい不可能なので、これまで「闇営業」が黙認されてきたのでしょう。

今回は、知人の伝手などで反社のパーティに参加し謝礼を受け取っていたことが問題になりました。これが事務所の仕事であれば芸人に責任はありませんが、代わりに事務所の違法行為が問われます。そう考えると、事務所は「闇営業」を黙認しているというより、積極的にやらせているのではないかとの疑問が出てきます。リスクの高い小さな仕事を会社として請け負ってもなんのメリットもないのですから。

「反社だとわかったら仕事を断ればいい」というひともいますが、「景気のいい会社」と「景気のいい反社会的勢力」を見分けるのは容易ではありません。1980年代末の好景気では不動産業界の「バブル紳士」が札びらをばらまいていましたが、その多くは裏で組織暴力団とつながっていました。「芸能人にぽんと大金を出すような(景気のいい)ところはみんなグレイかブラック」というのは常識で、これはいまでもたいして変わっていないのではないでしょうか。

「反社のパーティだと気づいたら毅然と帰ればいい」というひともいますが、そんなことをすれば芸人を呼んだ相手の面子をつぶすことになります。ヤクザの世界では、メンツをつぶされて黙っていることはありませんから、当然、報復を覚悟しなければなりなせん。誰も守ってくれない芸人にこんな決断を要求するのは酷ではないでしょうか。

ここでいいたいのは、批判されるべきは反社会的勢力であって、(大半は知らずに)パーティに参加した芸人ではないということです。

姦淫した女を「打ち殺せ」と叫ぶひとびとに、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とイエスはいいました。

『週刊プレイボーイ』2019年7月16日発売号 禁・無断転載