最低賃金は引き上げるべきか、引き上げてはいけないのか 週刊プレイボーイ連載(393)

安倍政権は「経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針)」で、最低賃金を「年率3%程度を目途として、全国加重平均が1000円となることを目指す」としています。これではぜんぜん物足りないとして、「最低賃金1500円」を掲げる「リベラル派」もいます。

2018年の全国平均の最低賃金は874円で、1日8時間勤務で約7000円、1カ月フルタイム(週5日)で働いて約15万円程度です。それが1000円になれば収入は14%増(月17万円)、1500円なら70%増(月25万円)になる計算です。これなら貯蓄をする余裕もでき、「老後2000万円不足問題」も解消するのではないでしょうか。

しかし、世の中のたいていのことがそうであるように話はそう簡単ではありません。

アルバイトが8人いたとして、最低賃金が1000円になると人件費が月17万円増えるので、売上が変わらなければ1人に辞めてもらわなければなりません。最低賃金1500円なら4~5人を解雇しなければ店はやっていけません。

だったら、最低賃金を上げても従業員を解雇できないようにしたらどうでしょう。その場合は、新規採用が大幅に抑制されることになります。このとき真っ先に犠牲になるのは、学歴が低く仕事の経験のない若者たちでしょう。

フランスは最低賃金が10.03ユーロ(1220円)と先進国でもっとも高いのですが、これが若者の失業率を高止まりさせていると国際機関から指摘されています。経営者にとっては、高い賃金を払うのであれば、仕事をいちから教えなければならない若者より、即戦力になる経験者を雇った方がずっといいのです。――日本でも1990年代末からの「就職氷河期」で同じことが起き、非正規で働くしかなかった当時の若者たちが20年後にひきこもりになっていることがわかり、社会に大きな衝撃を与えました。

都道府県別で見ると、東京の最低賃金は985円でもっとも高く、東北や九州などのもっとも低い県は760円程度です。こうした地域の最低賃金を東京並みに引き上げたらどうでしょう。

全国一律の最低賃金はイタリアが行なっており、経済が好調なミラノなどの北部と、不況に苦しむナポリやシチリアなど南部の賃金は同じです。そして、これが南部の失業率を悪化させていると国際機関から指摘されています。

雇用コストが同じなら、北の企業は南に工場などを建てる理由がないし、南の労働者は他の地域に移動しようとは思いません。こうして南イタリアではひとびとが数少ない仕事を奪いあい、あぶれた若者たちはマフィアに入って非合法な仕事で糊口をしのぐしかないという、新興国のような状況になってしまいました。

隣国の韓国では、短期間に最低賃金を50%以上も引き上げた結果、失業率が上昇し雇用不安が広がっています。なかでも低所得、低学力、低熟練の「3低」の労働者(弱者)がもっとも大きな被害を受けています。

最低賃金を引き上げるとかならずマイナスの効果が生じるわけではなく、経済学者のあいだでもさまざまな議論があります。とはいえ、これが「劇薬」であることは間違いありません。

安易に「夢」をばら撒く前に、まずはこうした貴重な「社会実験」をちゃんと検討してはどうでしょうか?

参考:白川一郎『日本のニート・世界のフリーター 欧米の経験に学ぶ』 (中公新書ラクレ)

『週刊プレイボーイ』2019年7月22日発売号 禁・無断転載

『上級国民/下級国民』発売のお知らせ

小学館新書より『上級国民/下級国民』が発売されます。発売日は8月1日(木)ですが、早ければ7月30日(火)から大手書店などに並びはじめると思います。

Amazonでは予約が始まりました(電子書籍も同日発売で制作作業が進んでいます)。

2019年4月13日(土)に東京大学・伊藤国際学術研究センター伊藤謝恩ホールで行なわれた日本生物地理学会の市民シンポジウムで、「リベラル化する社会の分断」と題する講演をしましたが、本書はそれをもとに加筆修正し、新書のかたちにまとめたものです。

アメリカのトランプ現象、イギリスのブレグジット、フランスのジレジョーヌ(黄色ベスト)デモに共通するのは、これまで社会の主流(マジョリティ)だった白人中流層が「下級(アンダークラス)」に転落し、その怒り(ルサンチマン)が社会を大きく動揺させているということです。

欧米先進国から半周遅れで、日本でも同じ事態が起きています。日本社会の主流はこれまでずっと「男」でしたが、いまやその一部が中流から脱落しつつあります。この現象は、ネットスラングで「上級国民/下級国民」と呼ばれます。

男が分断されるのは、社会的・経済的成功と性愛が一致するからです。「持てる男はモテる」なら、彼らは複数の女性とつき合うのですから、残された「持たざる男」は性愛からも排除されてしまいます。この現象は、やはりネットスラングで「モテ/非モテ」と呼ばれます。

誤解のないように述べておくと、これは「男より女の方が恵まれている」という話ではありません。日本社会のマイノリティである女性は、「自立」を目指しつつも、マジョリティである男の「分断」に巻き込まれ翻弄されてしまうのです。

「上級国民/下級国民」や「モテ/非モテ」の分断は、人類がこれまで経験したことのない「とてつもなくゆたかで、平和で、自由な社会」の必然です。私たちはいま、「自己実現」の代償として、この分断を受け入れるかどうかを問わているのです。

書店でこの表紙を見かけたら、手に取ってみてください。

【追記】今年になって、私としては異例のペースで新刊の発売が続いていますが、本書でひと区切りです。次は書き下ろしをやろうと思っています。

『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』あとがき

出版社の許可を得て、新刊『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』の「あとがき」を掲載します。本日発売で、Kindle版もリリースされました。

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本書に掲載した『週刊プレイボーイ』のコラムは『Yahoo!ニュース個人』にもアップされています。最近ではネットで読まれることも多くなりました。

Part1「この国で『言ってはいけない』こと」の冒頭にある「女児虐待死事件でメディアがぜったいにいわないこと」は100万ページビュー、「小4女児虐待死事件で、やはりメディアがぜったいにいわないこと」は250万ページビューを超えました。『Yahoo!ニュース』の担当者によると、トピックス(ニュースページのもっとも目立つところに置かれる記事)以外でこれだけのアクセスがあるのは珍しいとのことです。

かつては雑誌コラムは紙で読むものでしたが、いまはウェブへと移行しつつあります。そんな時代の変化とともに、コラムをまとめて単行本にすることもめっきりすくなくなりました。そのなかで、『不愉快なことには理由がある』『バカが多いのには理由がある』『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』(すべて集英社文庫)につづいて4冊目を出す機会に恵まれたことはほんとうに幸運だと思います。

ハンス・ロスリングがすい臓がんで亡くなる直前まで精魂を傾けて執筆した『FACTFULLNESS』は世界的なベストセラーになりました。ここでロスリングは、思い込みを乗り越えさえすれば、世界のひとびとがどんどんゆたかになり、健康で長生きしているという事実(ファクト)が見えてくると述べています。私たちは、それほど悪くない(というか人類の歴史のなかではとてつもなく恵まれた)世界に生きているのです。

ところが世の中にはこの幸運を認めず、「経済格差が拡大し、1%の富裕層と99%の貧困層に分断した」とか、「社会はますます右傾化し、第二次世界大戦前と似てきた」というような呪詛の言葉をまき散らすひとたちが溢れています。

もちろんここには一片の真実があります。「ファクトフルネス」で説明すれば、次のようになるでしょう。

「中国やインドなどの新興国の経済成長で世界の格差は縮小し、ひとびとは(全体としては)よりゆたかになった。ただしその代償として、先進国で中流層が崩壊し経済格差が拡大している。とはいえゆたかな国では、10世帯(アメリカ)から20世帯(日本)に1世帯は資産100万ドルを超えるミリオネア(億万長者)だ」

「知識社会化とグローバル化にともなって、ひとびとの価値観はますますリベラルになっており、日本も一周遅れで欧米に追随している。『反知性主義、排外主義、右傾化』というのは、この巨大な潮流から脱落したひとたちによるバックラッシュだ」

事実(ファクト)を無視した議論につき合うのは、人生という貴重な時間のムダでしかありません。

殺人などの事件数でも、交通事故の死亡者数でも、現在の日本がかつてないほど安全な社会であることはまちがいありません。このことは20年以上前から社会学者などによって繰り返し指摘されていますが、それでも8割以上のひとが「社会はますます危険になり、安全が脅かされている」と感じています。

事実(ファクト)とは無関係に体感治安だけが悪化していくのにはさまざまな理由があるでしょうが、もっとも重要なのは「社会がますます安全になった」ことでしょう。真っ白なシャツに黒いしみがつくとものすごく目立つのと同様に、安全なはずの場所で(スクールバスに向かう児童に刃物を持った男が襲いかかるような)凶悪事件が起きると、ひとびとの関心はそこに集中し、不安や恐怖が広がっていくのです。

戦後日本は「奇跡」ともいわれる驚異的な経済成長を達成しましたが、ゆたかさを手に入れたにもかかわらず日本人の幸福度は上がらないばかりか、逆に下がっているようです。この奇妙な現象はかつて「ジャパン・パラドックス」と呼ばれましたが、いまでは世界じゅうで同じような「パラドックス(矛盾)」が観察されています。この心理も、ゆたかになればなるほど自分より幸福そうな隣人が気になることで(かなりの程度)説明できるでしょう。

『FACTFULLNESS』でも強調されているように、これは私たちの「本能」が世界を正しく見ることを邪魔しているからであり、マスメディアやインターネットがこの「本能」を利用してビジネスしているからでもあります。そしてこれは、『不愉快なことには理由がある』以降、このシリーズで一貫して述べてきたことでもあります。

とはいえこのことで、自分の先見の明を誇りたいわけではありません。まともに考えれば、だれもが同じ場所に到達するというだけのことです。

私たちが直面しているのは、ヒトの脳が狩猟採集の旧石器時代に生き延びるように「設計」されており、「とてつもなくゆたかで平和な時代」のリベラルな価値観とさまざまな場面で衝突するという「不都合な事実(ファクト)」なのです。

2019年7月 橘 玲