2年前の夏の凶弾が日本を変えた? 週刊プレイボーイ連載(622)

衆院選で自民・公明の与党が過半数を割る大敗を喫した背景には、2年以上も続いた実質賃金の低下があります。

安倍政権は「日本復活」を賭けてリフレ政策を採用しましたが、日銀がどれほど金融緩和しても物価は上昇せず、その代わりに円高が修正されて、日本経済は「ゆたかにもならないけれど、貧乏というわけでもない」というぬるま湯につかっていました。

超低金利では銀行に預けたお金は増えませんが、物価が安定していれば、去年と同じ暮らしが今年、来年へと続いていきます。これはとりわけ、年金だけで暮らしている高齢者に大きな安心を提供したでしょう。業績がふるわない中小企業も、銀行からの借り入れにかかる金利は微々たるもので、市場から退出を迫られることもありません。

それに加えて、人類史上、未曽有の超高齢社会に入った日本では、需要と供給の法則によって、稀少な若者の価値が上がっています。大学を卒業すれば(あるいは高卒でも)ほぼ確実に就職できるし、就活がうまくいかなくても、20代であれば簡単に転職できるようになりました。これが、安倍政権が若者のあいだで高い支持率を維持できた理由のひとつでしょう。

しかし、こうした経済条件は新型コロナの蔓延と、ロシアのウクライナへの侵攻によって劇的に変わりました。これまで日銀がなにをやっても動かなかった物価が、上昇しはじめたのです。

これで日本はようやくデフレから脱却できましたが、そのあとにやってきたのは、リフレ派がいっていたような「日本経済の大復活」ではありませんでした。給料がすこし増えても、生鮮食料品や電気代など、物価がそれを上回って上昇すれば家計はどんどん貧しくなっていきます。「超円安」で欧米やアジアなどから外国人観光客が「安いニッポン」に殺到し、一杯3000円を超えるラーメン店に行列する姿がテレビで報じられると、「日本は欧米以外ではじめて近代化に成功した経済大国」というプライドも崩壊しました。

こうして国民の不満が溜まっているところに起きたのが、「政治とカネ」問題です。ところが自民党の政治家にとっては、これはパーティで集めた資金を派閥に上納し、そのキックバックを記載しなかったというもので、税金を詐取したわけでもなく、たんなる帳簿の不記載だとたかをくくっていたのでしょう。しかし、自分たちが苦しい家計を必死にやりくりしているのに、政治家は「裏金」でおいしい思いをしているという反発は予想以上で、それに気づいて関係する議員を非公認にしましたが、それにもかかわらず2000万円の活動費を支給していたことが報じられて万事窮しました。

結果論でいうならば、石破首相は自民党議員の既得権に配慮するのではなく、これまでの正論を貫き通したほうがよい結果を得られたと思いますが、いずれにせよすでに手遅れだったということなのでしょう。

今回の選挙で、政治の流動化がよりはっきりしました。野党ではすでに議員の離合集散が当たり前になっており、派閥が選挙を仕切れなくなれば、自民党でも同じことが起きるのは当然です。それでも、2年前の夏の凶弾が日本の政治に与えたインパクトの大きさには驚くべきものがあります。もっとも、この事実を認めるひとは多くないでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2024年11月4日発売号 禁・無断転載

ポスト・トランプは左派ポピュリズムの時代になるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

米大統領選でトランプが返り咲いたので、前回の当選を受けて書いた「トランプ大統領にも止められない、 アメリカの「雇用の喪失」と「富の二極化」の先にある未来」をアップします。(公開は2017年2月16日、一部改変)。

Jonah Elkowitz/Shutterstock

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クリントン政権で労働長官を務めたリベラル派の経済学者ロバート・ライシュは、1991年に世界的ベストセラーとなった『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ 21世紀資本主義のイメージ』(中谷巌訳/ダイヤモンド社)で、21世紀のアメリカ人の仕事はクリエイティブクラスとマックジョブに二極化すると予言した。それから25年後、ドナルド・トランプが大統領に選出される前年に出版された『最後の資本主義』 (雨宮寛、今井章子訳/東洋経済新報社)は、ライシュの勝利宣言であると同時に、敗北宣言でもある。

勝利したのは経済学者としてのライシュで、敗北したのはリベラリストとしてのライシュだ。原著のタイトルは“Saving Capitalism”で、ライシュは「資本主義を救い出さなくてはならない」と述べる。これはどういう意味なのか、その真意を検討してみよう。 続きを読む →

精神科病院の長期入院をなくせばすべてうまくいくのか? 週刊プレイボーイ連載(621)

2022年に国連から強制入院の撤廃を勧告されたように、日本の精神医療は世界的には“異常”な状態が続いています。

精神科病院のベッド数は約32万床で全病院のベッドの約2割を占め、平均在院日数は276.7日で長期入院が常態化しています(2022年厚労省調査)。それに対して欧米では、精神科のベッド数を減らし、精神障害者を地域で包摂する試みが続けられてきました。その結果、人口1000人あたりの精神病床数では、イギリスは日本の約6分の1しかありません。

23年2月には、東京・八王子市の精神科病院で虐待が繰り返されていたとして、看護師や准看護師ら5人が逮捕・書類送検される事件が起きました。それでも精神医療改革がさして話題にならないのは、日本社会が精神障害者を「近くにいてほしくないひと」として排除し、精神科病院に隔離することを望んでいるからでしょう。

本人の意思に反した強制・長期入院や身体拘束、「薬漬け」といわれる向精神薬の大量投与などが重大な人権侵害なのは間違いありません。政府・行政には、いまや国際社会での汚点となったこの問題を改善していく重い責務があります。

このことを強調したうえで、ここでは「隣の芝生は青く見える」問題を考えてみましょう。そもそも、欧米のように精神科病床を減らし、地域社会への移行を進めれば、問題はすべて解決するのでしょうか。

イギリスの司法精神科医グウェン・アズヘッドは、サムという若者と両親の話を書いています。サムは手のかからない子どもでしたが、思春期に入ると幻聴を訴えるようになります。自宅で暮らしながら通院治療を受けますが、サムの被害妄想は悪化し、やがて姉の部屋をめちゃくちゃにしたり、父親に暴力をふるったりするようになりました。

両親を困惑させたのは、18歳になると成人向けの精神保健サービスに変わり、守秘義務によって、子どもがどんな治療を受けているか親に伝えられないことでした。

両親はサムをリハビリ施設に預けますが、ときどきふらっと自宅に現われては金をせびり、断ると暴力をふるうことが続きました。そこで両親は、息子に対する接近禁止命令を請求せざるを得なくなりました。

サムは精神科病院に入院しますが、イギリスには長期入院の制度がないため、退院してはホームレス状態になり、また入院する繰り返しになりました。そしてある晩、入院中のはずのサムが自宅に現われ、父親と言い争いになった挙句、キッチンにあった麵棒で殴り殺してしまったのです。

その後、母親は、息子が暴力をふるうことを伝えていたのに外出許可を出し、守秘義務を理由に、そのことを家族に伝えなかった病院を訴えました。

アズヘッドによれば、イギリスで精神科病院の減床が進んだ背景には、人権への配慮というよりも医療費の削減があり、その結果、精神疾患を抱えるひとたちがホームレスになったり、刑務所に収監されています。さらには地域サービスの大幅なコストカットが行なわれたことで、ケアの重圧が家族にかかり、こうした悲劇がしばしば起きているということです。

参考:グウェン・アズヘッド、アイリーン・ホーン『そして、「悪魔」が語りだす 司法精神科医が出会った狂気と共感の物語』宮﨑真紀訳/海と月社

『週刊プレイボーイ』2024年10月28日発売号 禁・無断転載