「どっちもどっち」と「わたしが正義」(『DD論』まえがき)

本日発売の新刊『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)の「はじめに 「どっちもどっち」と「わたしが正義」」を出版社の許可を得て掲載します。書店の店頭で見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

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私のささやかな体験から話を始めましょう。

2018年6月に朝日新聞出版から『朝日ぎらい』という新書を出したのですが、その直後にAmazonに匿名で「自民党や安倍政権を「保守」層だと言ってる時点でリベラルではなく極左から見た視点での話でしかない」という星1つのレビューが投稿されました。

このレビューが奇妙なのは、私がこの本で「安倍政権は「保守」ではなく、若者から見れば「リベラル」だ」と述べているからです。私はそれまで、レビューというのは本を読んでから書くものだと思っていましたが、このときはじめて本を読まずにレビューするひとがいることを知りました。

しかし、驚いたのはそれだけではありません。レビューが投稿されたAmazonの紹介ページには、いちばん目立つところにこの本の目次が紹介されていて、そこには「PART1 「リベラル」と「保守」が逆転する不思議の国」のあとに、「1 安倍政権はリベラル」という見出しが載っているのです。この匿名レビュアーは、本を読んでいないだけでなく、本の紹介ページすら見ずにレビューを書いたのです。

この当時はレビューにコメントをつけることができたので、たちまち読者から「この本には安倍政権が保守だなんて書いてない(本を読まずに勝手なレビューを書くな)」という批判が相次ぎました。――投稿したレビューは自分で削除することもできますが、そのようなことをする気はないようで、このレビューは現在も読むことができます。

しかしいちばん驚いたのは、このコメント欄にさらに別の人物が、オリジナルのレビューに賛意を示したうえで、「安倍政権はなぜ保守ではないのか」を滔々と論じた長い文章を投稿したことです(残念ながら、このコメントは現在では読むことができません)。

もういちど状況を整理しておくと、「安倍政権はリベラル」と書いてある本に「安倍政権を保守だというのは極左だ」という星1つのレビューが投稿され、多くのコメントがそれを批判しているにもかかわらず、そのコメント欄に「(本はもちろん目次すら読んでいない)このレビューは卓見だ」として自説を長々と書き連ねるひとが現われたのです。

私はそれを見て、困惑するというよりも、現実が融解するような不気味さを感じました。私の本に対して評価や批判をするのがもちろん自由ですが、このひとたちは、「朝日新聞出版から出た『朝日ぎらい』という本には、朝日新聞を“反日”だと批判してきた自分たちを貶めたり、侮辱したりすることが書かれているにちがいない」という前提(妄想)から始まって、そこから架空の事実(この著者は安倍政権が保守だという誤った理解をしている)をつくり出し、そのオルタナティブな(もうひとつの)世界のなかで、えんえんと自説を論じているのです。――念のためにいっておくと、『朝日ぎらい』は「朝日新聞が嫌われるのには理由がある」ということを書いた本です。

それからこの奇妙な体験がずっと心の片隅に引っかかっていたのですが、「世界はディープステイト(闇の政府)に支配されていて、トランプはそれと戦っている」というQアノンの陰謀論を取材したアメリカのジャーナリストの本(ウィル・ソマー『Qアノンの正体 陰謀論が世界を揺るがす』〈西川美樹訳/秦正樹解説/河出書房新社〉、マイク・ロスチャイルド『陰謀論はなぜ生まれるのか Qアノンとソーシャルメディア』〈烏谷昌幸、昇亜美子訳/慶應義塾大学出版会〉)を読んでいて、(私の体験とはスケールがぜんぜんちがいますが)彼らがまったく同じ不気味さにとらわれていることに気づきました。

同じ事実を共有していて、間違った論理を信じているのなら、正しい論理で説得することは可能でしょう。しかし、異なる事実の世界を生きているひとに対しては、どのような説得も不可能です。

自分が生きている世界が幻想だ(なんの意味もない)という〝ファクト〟を受け入れたら、生きている意味は消失し、アイデンティティは崩壊してしまうでしょう。これはとてつもない恐怖なので、どんなことをしてでもオルタナティブな事実(ファクト)にしがみつくしかないのです。

アメリカはもちろん日本にも、あなたとはちがう世界(オルタナティブワールド)を生きているひとたちが、あなたが思っている以上にたくさんいるのです。

「DD」はアイドルオタクのあいだで使われるネットスラングで、複数の「推し」がいる「だれでも大好き」をいい、特定のアイドルを推すことと比較されます。「誰推し?」と訊かれて「わたしはDD」と答えるのでしょう。

ところがその後、「DD」はネット上の議論に転用されます。こちらは「どっちもどっち」の略で、双方に言い分があるという立場です。それに対して、「わたしが正義」だと主張し、悪を〝糾弾〟する立場を「善悪二元論」と呼びましょう。

善悪二元論の原理主義者は、自分たちの側(正義)に立つのか、それとも相手(悪)を擁護するのか、旗幟を鮮明にするようDD派に迫ります。それに対してDD派は、「世の中、そんな単純なことばかりじゃないんだよ」と反論するでしょう。

ささいな日常の諍いから国家間の戦争まで、なんらかのトラブルが起きると、わたしたちは無意識のうちに善と悪を決めようとします。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だということから説明できるでしょう。人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代には、食料はきわめて貴重だったので、脳はできるだけ資源を節約するように進化したはずです。

脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかりますが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済みます。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直観的な思考に「快感」を覚えるようになりました。これが、すべての対立を善悪二元論に還元して判断することが〝デフォルト〟になった進化的な理由です。

ここでQアノンを、演繹と帰納で説明してみましょう。中学校で習ったように、演繹法とは「一般的・普遍的な前提から個別的・特殊的な結論を得る論理的推論」と定義されます。公理(論証抜きで真だと仮定される根本命題)が決まれば、そこから論理的にさまざまな定理を導き出すことができます。

それに対して帰納法は、演繹とは逆に、「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な法則を導く論理的推論」のことです。そのため帰納法では、「真理」には到達できず、さまざまな推論のなかからより確からしいものを選ぶことができるだけです。

演繹と帰納は科学を進歩させる両輪ですが、脳にとっては演繹の方が認知資源のコストが低く、帰納の方がコストが高く感じられるでしょう。帰納法では、最初にたくさんのデータを集め、そのデータをもっともうまく説明する理論を試行錯誤で探していかなくてはなりません。それに対して演繹法では、ひとたび公理を決めてしまえば、それ以外はすべて論理的に決まるのです。

キリスト教では聖書の記述から「太陽は地球の周りを回っている」と解釈してきたので、天動説がずっと公理でした。そこから演繹的にさまざまな法則(定理)を導き出してきたのですが、16世紀になって天体の観測が進むと、天動説では説明できない現象が次々と見つかります。たとえば火星は、速度が上がったり落ちたり、ときには逆戻りしたりしていたのです。

そこで天文学者は、この矛盾を説明するために四苦八苦し、多くの難解な修正を加えるのですが、やがてコペルニクスが大胆にも太陽中心説を唱え、ケプラーとニュートンが、太陽を中心に惑星が楕円軌道を描いていると仮定することで、すべての矛盾がきれいに解消できることを証明したのです。

このように科学では、演繹法は個々の事実によって検証され、整合性のない公理(仮定)は捨て去られていきます。ところが陰謀論では、自分にとって都合のいい公理(真理)を最初に設定すると、それを証明する(ように見える)“事実”だけを集めて別の現実をつくり出していきます。この「もうひとつの世界」を構成するのが、「オルタナティブファクト(もうひとつの事実)」です。

Qアノンの陰謀論では、「世界はディープステイトに支配されている」という公理がまず先にあって、政治家や高官のなにげない発言や政治的にささいな出来事から「隠されたメッセージ」を読み取ろうとします。これがワクチン陰謀論と結びつくと、「ワクチンにはマイクロチップが入っていて、ひとびとを操ろうとしている」という荒唐無稽な“事実”が演繹的に導かれてしまうのです。

人間(脳)は、その構造上、自分を中心に世界を理解するしかありません。ここから、「特別な自分には、特別なことが起きて当たり前」という錯覚が生じ、当たるはずのない宝くじを買ったり、ネット詐欺に簡単にだまされたりします。

この錯覚は、「自分が特別でないのは、誰かがそれを邪魔しているからだ」という方向に歪んでいくこともよくあります。こうなると、身近な人間を攻撃したり、アニメ会社に火をつけたり、陰謀論にはまったりするようになるのです。

近年になって陰謀論が目立つようになったひとつの理由は、世界がますます複雑になり、ひとびとの多様な価値観(アイデンティティ)が衝突するようになったからでしょう。

もうひとつは、あまり大きな声ではいえませんが、事実に基づいて世界を帰納的に構築していくだけの認知的な能力のあるひとが一定数しかいないからです。その結果、多くのひとが「自分にとっての(安易な)真実」を発見し、そこから演繹的に構築した世界観をSNSで拡散させることで、社会が混乱していくのです。

本書では、このような視点から日本と世界のさまざまな出来事を論じました。共通しているのは、「善」と「悪」は単純に決められず、あらゆるものごとが次第に「DD(どっちもどっち)」的になっていくことです。

DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットではつねに「態度をはっきりさせろ」と批判されますが、世界は単純な善悪二元論でできているわけではありません。対立する当事者はいずれも、自分が「善」だと主張するのですから、第三者に善悪を簡単に判断できるようなことが例外なのです。ところが、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられないひとは、このことを頑として認めようとしません。

さらに“不都合な事実”は、「解決できる問題はすでに解決している」ということです。わたしたちが対処しなくてはならないのは、解決がものすごく難しいか、原理的に解決が困難な問題ばかりなのです。

しかしその一方で、すべてをDD化(相対化)してしまうと、よって立つ基盤がなくなり、社会が液状化してしまいます。なにが正しいのかわからないような世界は不安で、ほとんどのひとは生きていくことができないでしょう。

このようにしてわたしたちは、DDと善悪二元論のあいだを振り子のように往復することになります。「Part0 DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ」では、2つの世界的な大事件(ロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・ハマス戦争)でこのことを確認したうえで、日本社会の最大のタブーである「犠牲者意識ナショナリズムとしてのヒロシマ」を論じてみたいと思います。

『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』発売のお知らせ

集英社より『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』が発売されます。発売日は8月26日(月)ですが、都内の大手書店ではこの週末に並ぶところもあると思います。 Amazonでも予約できます(電子書籍も同日発売です)。

書店で見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。

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「善悪二元論」は世界を見る目を曇らせる!
すべてを善と悪に二分する「正義」の誘惑から距離をとる
【DD(どっちもどっち)】派から見た日本社会の姿とは?

『週刊プレイボーイ』の連載「そ、そうだったのか!? 真実のニッポン」を再編集したものに、「DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ」という長い書き下ろしを加えました。

戦後日本の最大のタブーである、広島・長崎の「犠牲者意識ナショナリズム」を論じています。

日本人が戦後79年ひたすら平和を“祈念”し続けたのは、自らの犠牲=被害を世界に訴えることで、戦争の「加害」を忘却することが心地よかったからではないでしょうか。

そう考えれば、日本の「戦後リベラル」とは民族主義の一変種なのです。

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DDは「どっちもどっち」の略で、自らを「善(正義)」とし、相手に「悪」のレッテルを貼る善悪二元論から距離を置く考え方です。

しかしこれは、「すべてをDDにして相対化すればいい」ということではありません。

わたしたちは、道徳的・倫理的な基盤のない世界に生きていくことはできないからです。

こうして、DDと善悪二元論が交互に繰り返され、いつ果てるともしれない議論、あるいは罵詈雑言の応酬が続くことになるのです。

〈目次から一部抜粋〉
Part0 DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ
・国際社会の「正義」が戦争を泥沼化させる
・イスラエルvsユダヤ人
・ヒロシマからアウシュヴィッツへの行進
・憎悪の応酬を解決する方法は「忘却」

Part1 「正しさ」って何? リベラル化する社会の混乱
・「性交を金銭に換えるな」はエロス資本の搾取
・皇室の結婚騒動が示す「地獄とは、他人だ」
・安倍元首相銃撃事件でメディアが隠したこと
・政界の裏金疑惑をリベラル化と「説明責任」から読み解く

Part2 善悪を決められない事件
・孤独な若者とテロリズム
・猟奇殺人の原因は「子育て」が悪いから?
・「頂き女子」とナンパ師のマニュアルは瓜二つ
・「闇バイト」に申し込むのはどういう若者なのか?

Part3 よりよい社会/よりよい未来を目指して
・若者が「苦しまずに死ぬ権利」を求める国
・学校の友だちはなぜブロックできないの?
・好きも嫌いも、政治的信念もじつはどうでもいい?
・SNSはみんなが望んだ「地獄」

Part4 「正義」の名を騙(かた)る者たち
・マイナ騒動は「老人ファシズム」である
・自ら道徳的責任を引き受けた藤島ジュリー景子こそまっとうだ

 

 

イスラム国はいかにして生まれたのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年9月29日公開の「アメリカの素朴な「民主主義」への幻想が 「イスラム国」を生み出した」です(一部改変)。

Mohammad Bash/shutterstock

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イギリスの国際政治学者トビー・ドッジの『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』( 山尾大解説、山岡由美訳/みすず書房)は、タイトルで損をしている本の典型だろう。誰だってその答えは知っている。いまのイラクには「民主主義」のかけらもないのだ。

しかし、これは仕方のないことでもある。原著が刊行されたのは2012年で、そのタイトルは“IRAQ: From War To A New Authoritarianism(イラク 戦争から新たな権威主義へ)”とされていた。

「新たな権威主義」とは、2008年にシーア派などの支持でイラク首相となったヌーリー・マーリキーのことだが、邦訳が刊行された2014年6月にはマーリキー政権は末期を迎えており、8月には政権の座を追われてしまった。「新たな権威主義」が崩壊したのは、シリア国境から勢力を伸ばしてきたIS(イスラム国)によってイラク北部の都市が次々と陥落したためだ。周知のように、その後ISは国際社会の最大の脅威になるが、この時点ではそこまで予測するのは困難だった。

だがいまなら、もっといいタイトルをつけることができる。たとえば、『イスラム国はいかにして生まれたのか』のように。

ISの前身は「イラク(ないしはメソポタミア)のアルカーイダ」で、それが2006年に「イラク・イスラム国(ISI)」、2013年に「イラクとシャームのイスラム国(ISIS)」を名乗るようになる。

シャームはシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナを含む東地中海沿岸地域を指すアラビア語で、英語では「レバントThe Levant」に相当する。こちらを使うとISIL(イラクとレバントのイスラム国)になるが、「レバント」は西欧の呼称で植民地主義の残滓として嫌われるため、「ISIS(アイシス)」の呼称が一般的になった。それが2014年6月に「国家」の樹立と「カリフ制」を宣言し、「イスラム国(Islamic State)」を名乗るようになったのだ。

もっとも、欧米はもちろんアラブ諸国もこれを国家と認めていないため、日本では「IS」、CNNなど欧米メディアは「ISIS」、アラブ圏ではアラビア語の頭文字をとって「ダーイシュ」と呼ばれている。こうした来歴を見ても、「イスラム国」がイラクに起源を持つことは明らかだ。

ドッジがこの本を執筆したときはまだアラブの春がシリアを崩壊させることは予測できなかっただろうが、2003年3月のイラク戦争からアメリカによる占領、11年12月のオバマ大統領の「終結宣言」までを冷静に評価することで、イラクでなぜ「イスラーム原理主義の暴力的カルト集団」が育っていったのかが鮮やかに描写されている。 続きを読む →